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有鄰

平成18年6月10日  第463号  P2

○座談会 P1   いま、なぜ松本清張か —戦後日本と対峙した作家 (1) (2) (3)
半藤一利/清原康正/松信裕
○特集 P4   横浜のプール家 伊藤久子
○人と作品 P5   三浦しをん と『まほろ駅前多田便利軒[ただべんりけん]』
○有鄰らいぶらりい P5   佐藤雅美著 『半次捕物控—泣く子と小三郎』手嶋龍一著 『ウルトラ・ダラー』竹内薫著 『99.9%は仮説』半藤一利著 『昭和史 戦後篇 1945-1989』
○類書紹介 P6   「最澄と空海」・・・日本仏教に新たな時代を築いた二人の思想と軌跡、文学作品など。




座談会


いま、なぜ松本清張か —戦後日本と対峙した作家 (2)

 


座談会「いま、なぜ松本清張か」 書籍リスト (新しいウインドウで開きます)

<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。>


  ◇社会派推理小説
     
事件や話題をキャッチして提供

 
清原  

最初に清張ブームが起こってくるのは『点と線』をはじめとする社会派推理小説ですね。 半藤さんはその勢いを編集者として見ておられたわけですね。 小説そのものは担当なさらなかったけれども、すごい人が出てきたなという実感はありましたか。
 

半藤  

それはありました。 しかも、1作じゃないんですから。 同時進行で何本もやっているわけです。 一番すごかったのは昭和34年から35年でしょうか。
 

清原  

連載を10本持っていた。
 

半藤  

『オール讀物』に『球形の荒野』、『週刊新潮』に『わるいやつら』、読売新聞の夕刊に『砂の器』、問題作が軒並みでした。 『文藝春秋』には『小説帝銀事件』とノンフィクションの『日本の黒い霧』でしたね。

私なんかも、原稿をくれるのを待っているんですけれども、もしかすると、うちの原稿じゃなくてほかの社のを書いているんじゃないかと疑ったり、とにかく、とりっこでした。

私が担当していたから思うのかもしれませんが、清張さんは小説を書くよりも『日本の黒い霧』のほうが好きだったんじゃないでしょうか。 こっちの原稿は比較的早くくれて、小説のほうは遅れるんですよ。 『オール讀物』もうちの会社で、締め切りは少し違うんですけれど、盛んに牽制しながらやっていましたね。
 


   小説の裏にはっきりとした社会的テーマがある
 
半藤  

もちろん小説もすごいのばかりでした。 しかも、小説としてすごいだけじゃなくて、裏側にそれぞれのテーマがはっきりあるんです。 当時の社会的な話題をパッとキャッチして、小説の中に取り込む。 それは驚きました。

『砂の器』で言えば、ハンセン氏病を裏に置いているのと同時に、当時、出雲の言葉と、東北のほうの言葉が共通しているということで、日本の言語学会がわき立った。

『球形の荒野』は、スイスでやった、ダレス工作と言う和平工作を種にして推理小説として仕上げていますね。

「えっ、あの問題か!」というのが一つ一つにある。 すごい人が出てきたと、みんな思ったんじゃないですか。
 

清原  

そうですね。 『点と線』も、その次の『眼の壁』も、個人が犯罪をする。 だけどその動機は組織悪だとかにつながっている。 背景の奥深さがありましたね。 読んでいると、単なる謎解きではなくて、今おっしゃったような社会との絡みがあって、知らず知らずのうちに現代史、昭和史につながっていくところをわれわれは感じていたのではないか、というおもしろさがあった。
 

半藤  

そうですね。
 

清原  

その後、社会派推理という形で、社会の犯罪と、戦後史そのものとが、どこかで重なっているといったような作品がいっぱい出てきますね。 水上勉さんの『飢餓海峡』も黒岩重吾さんもそうだし。 清張以前・清張以後という言われかたをした。
 


   男の家出、政治献金、国有地払い下げなどを取り上げる
 
半藤  

清張さんは、そのときの社会に起きている事件や話題をきちっと正面から取り上げた推理作家だった。 例えば、男の家出がはやった。 女房からの脱出……。
 

清原  

蒸発ですね。
 

半藤  
  『けものみち』『砂の器』『黒革の手帖』
  左から『ゼロの焦点』新潮文庫・『球形の荒野』文春文庫・『駅路』新潮文庫
 

『駅路』がそうですね。 教科書問題を扱ったのが『落差』。 『ゼロの焦点』では戦争直後の混乱で心ならずもおこなったことが尾を引いた悲劇、政治献金問題を扱ったのが『彩り河』です。 国有地の払い下げを『花氷』で扱い、広告業界を『空白の意匠』で、選挙資金の問題を『告訴せず』で取り上げた。 まだあるんですよ。 正面から出したものも、そうでないものもありますけれども。

しかも、推理小説として、誰もが読めるような形にして提供した。 清張さんの社会派推理小説というものを考えるときに、単なる推理小説というレッテル以外に、その時点の社会問題をすべてキャッチしていたというところを、しっかりと押さえておいたほうがいいと思います。
 


  ◇歴史小説
     
社会の底辺で生きている人々への共感

 
清原  

歴史小説も、単なる時代物ではないところがありますね。
 

半藤  

そうですね。
 

清原  

一つ、彼は私小説がきらいであったということがあると思うんです。 『半生の記』を書いたときに、こんなのを書くんじゃなかったと一応言うんだけれども、例えば『いびき』だとか、『佐渡流人行』とかを読んでますと、ところどころで、これは形を変えた私小説ではないかというのがありますね。

『いびき』は、いびきをかく男が牢屋に入れられて、いびきをかくというだけで殺されてしまうのではないかと恐れる。 あれは自分の軍隊での体験をそのまま書いている。
 

半藤  

軍隊の内務班は、いびきをかいて寝られないやつがいると、「この野郎のために俺たちは全滅する」というので、布団をかぶせて殺してしまう。 そういう話が軍隊内部であったんですね。
 

清原  

召集令が来るとき、順番が狂うのは、召集係の役人が一人飛ばしたりするからで、江戸時代でも、八丈島からなかなか帰れない囚人がいて、自分より後に来たやつが先に帰ったりする。 それは江戸の役人が飛ばしていたからだという話になる。 そこにはさらに、留置場に20日間アカの容疑で入っていた時の清張さんの体験も入っている。
 

半藤  

本当は現実に自分で経験したことなんですね。
 


   私小説や社会派の要素を歴史小説に盛り込む
 
清原  

現代小説ではシチュエーションとしてちょっと書きづらいものが、時代小説のちょっとしたところに入っている。 時代小説なんだけれども、実は私小説なのではないかなというおもしろさがありますね。
 

半藤  

そういう面も時代小説の中に盛り込んでいる。
 

清原  

『かげろう絵図』は完全に官僚組織特有の構図が描かれていますね。 その中で幕閣と小役人とのあつれきがあって、どうなるとかいうからくりで進んでいく。 そういう形で見ていくと、それが次の現代史、昭和史というところを解明していくそもそもの根っこというか、芽のようにも思える。
 

半藤  

そうですね。 『西郷札』なんかもそうで、官僚組織、日本の官僚がいかに卑劣でだらしないかを、時代小説の中で描いていたんですね。

ところが、時代小説では、自分が本当に訴えたいところが生に出ませんから、清張さんとしては、理解されていないという若干の不満が多分あったと思います。
 


   推理小説が書けると見抜いていた坂口安吾
 
清原  

処女作が作家の全体を決めるみたいな言い方がよくされますね。

私たちは後づけで評価するから、よけいにそうなるのかもしれませんが、『或る「小倉日記」伝』は、無名の人がこつこつやったものが結局報われない話とか、鴎外研究ともつながっていくし、『西郷札』も、事件の背後に陰謀があってというところは、後の社会派推理への兆しがすでにあらわれていますね。 改めて読んでみると、現代史も、古代史もあらわれている。
 

半藤  

『或る「小倉日記」伝』は、清張さんは純文学で賞を取るとは思わなかったんでしょうね。 直木賞を取りたかったんだと思いますけれども、直木賞の選考委員だった海音寺潮五郎さんが「これは芥川賞のほうがいいよ」と言って、芥川賞に回したんですね。 それで芥川賞を取った。 大衆小説という意識ではなかったんですね。

私はその直後に坂口安吾さんから直接聞いたんですが、「文章が正確でいいんだ。 この筆力をもってすれば、すごい推理小説が書ける」と見抜いていました。 でもそれは安吾さんくらいで、あとはみんな、清張さんのことは純文学の作家だと思っていたんですね。 あんなに精力的にいろいろな作品を書く方だとは、最初は誰も思っていなかったと思います。
 


   世間に認められない人たちの、うっ屈した思いを描く
 
松信  

松本清張さんは作家でデビューする前に、すごい下積みがありますね。 処女作が42歳。 そういう下積み時代のことも、作品に反映されているんでしょうか。
 

清原  

初期作品では『断碑[だんぴ]』とか『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』もそうですが、アカデミズムから外れていった人たちが、社会的に報われないことを一生懸命調べ上げるけれども認められなくて、結局は虚しく終わってしまうという作品を、清張さんはずいぶん書いていますね。

犯罪の動機にしても、社会の底辺で生きている人たちの怨念だとかいうことがいっぱい出てきます。 ある意味では非常に暗い背景があってというところがある。

時代小説では『火の縄』という長編があります。 これは稲富治介という鉄砲の名人が主人公で、細川忠興のガラシア夫人にほれる。 鉄砲はうまいんだけど、ちょっとねじ曲がった性格という設定になっていて、家康が鉄砲の師匠としては敬うんだけれども、それ以外のところでは軽蔑の目で見られている。

特殊技能の人たちが、特殊技能であるがゆえに世間的に認められないみたいなところがある。 それは、ご本人が版下工として新聞社にいたんだけれども、新聞社の中でも下積みであるということが関係してくるのかなという感じがしますけどね。

稲富治介という特技者の持っている怨念みたいなもの、武士なんだけれども、使っているのが飛び道具だからというので、武士として認められないわけです。 そういう怨念を書かせると、やっぱりうまい人ですね。

先ほど言ったように、そこは彼の形を変えた私小説だと思うんです。 それは現代ノンフィクションにも、古代史にも出ているんじゃないでしょうか。
 

松信  

自分の若いころの、下積み時代のうっ屈したような、思い入れみたいなものが形として出てきている。
 

清原  

そうです。 現代史でもそうだし、古代史を手がけているときにも、アカデミズムに対する闘争心というか、競争心はあったんじゃないですか。
 

半藤  

ものすごくあったと思いますね。
 


  ◇ノンフィクション
     
真実はそのまま書かないと伝わらない

 
半藤  

昭和史・現代史では一番初めが『小説帝銀事件』です。 小説として書いたんですが、それでは読者には、この中でどれが真実で、どれがフィクションかわからない。 自分が本当に言いたいことが伝わらないようだというので『日本の黒い霧』でやり直したんですね。
 

『日本の黒い霧』
『日本の黒い霧(上)』
文春文庫
 
清原  

『小説東京帝国大学』もありますね。
 

半藤  

作家ですから、資料そのまま、歴史そのままではなく、離れて作品化したいという思いはずうっとあったと思いますよ。

ところが、読者のほうの受け取り方がちょっと足らないといいますか、はっきり言えば編集者が無能なんですよ。 編集者が有能ならば、「君はわかってくれたか」というぐらいで、清張さん自身は満足していたと思いますよ。 私も含めて編集者どもがみんな、「はあ、そんなことを言いたかったんですか」と後から言っているから、やっぱりだめかと思ったんじゃないでしょうか。
 


   ノンフィクションの始まりになったのは『小説帝銀事件』
 
『昭和史発掘』
文春文庫
 
半藤  

大事なテーマを時代小説化したり、推理小説化してみたりしているうちに、本当の真実は、そのまま真実として書かないと伝わらないんじゃないかという思いがだんだんしてきたんじゃないでしょうか。 創作化してしまうと余分なことを書いたりしますから、どこが本当で、どこがうそかわからなくなる。
 

清原  

『日本の黒い霧』には、そういう思いがあったんですか。
 

半藤  

そうです。 『小説帝銀事件』のときはまだどっちだったかわかりませんが、その後、清張さんの中にものすごくうっ屈したものがあったんでしょうね。 ノンフィクションとして書きたいと言って始めたのが『日本の黒い霧』なんです。 その後『現代官僚論』、その次が『昭和史発掘』という流れをたどるわけですけれども、最初は『小説帝銀事件』だったのではないかと思います。 そのときは私は実は知らないんですが、ノンフィクションのほうにものすごく熱意を燃やしたことは確かなんです。
 


   『日本の黒い霧』は小説家の眼で見た帰納的結果
 
半藤  

ただ、『日本の黒い霧』は後の評価としていろいろ問題にされましたね。
 

清原  

大岡昇平さんがちょっと反論を書かれた。

全部GHQに原因説を持ってくるのはおかしいというのは発表当時からあって、それに対して清張さんは「史眼」という言葉を使って、歴史家だって、資料の空白の部分を歴史の考察で見ていくじゃないか。 それを自分は小説家の眼で見ている。 それが松本史眼ということで、帰納的にそうなってしまう。 『日本の黒い霧』は、たまたまそうなったんだとずっとおっしゃっていましたね。 その点は半藤さんいかがですか。
 

半藤  

資料を並べて読んでいくと、ちょっと違うんじゃないかというのも幾つかありますよ。 三原山に突っ込んだ「もく星号」遭難事件は、私は無理だと思うところがあるんですね。

ただ、昭和34、5年の時点で、GHQの内部がGS(民政局)とG2(参謀第二部)に分かれて抗争し、日本の占領政策があそこでひっくり返ったんだということを見抜いて、その争いがこういう事件になって出ているんだということを構想した人は一人もいないと思う。

今になれば、GHQ内部の民政局と参謀第二部の紛争というか、内部抗争があったのはみんな知っていますね。 資料もたくさん出ましたけれども、あの時点であれだけの資料を集めた。 それを自分の考え方でずっとならべてみてきて、それを帰納的にしてみたら、そのとおりになっただけで、初めからそれがあるのではないという清張さんの見方は正しいと思うんです。 当時あそこまでやれたのは相当な推理力ですね。 やっぱりすごいことですよ。
 

清原  

昭和30年代半ばですと、かなりの制約の中で資料を集めることになる。
 

半藤  

すごい制約ですし、必ずしも自由に書けたとは言えない部分もあると思う。

清張さんがあの資料をどこから持ってきたか、共産党から持ってきたんだろうとか、悪口のように言う人もいますけれども、どこから資料を持ってこようが、とにかく資料を探し求めて、それを本当に読み込んで、あそこまでの結論に達するという作業をなさったというのは、ちょっと希有なことだと思います。
 

清原  

清張さんが言っていた帰納的という言葉を、昭和35年という時代背景を考慮して、もう少しくみ取ってあげなくてはいけない。
 

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