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平成18年6月10日 第463号 P1 |
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○座談会 | P1 | いま、なぜ松本清張か
—戦後日本と対峙した作家 (1) (2) (3) 半藤一利/清原康正/松信裕 |
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○特集 | P4 | 横浜のプール家 伊藤久子 | |
○人と作品 | P5 | 三浦しをん と『まほろ駅前多田便利軒[ただべんりけん]』 | |
○有鄰らいぶらりい | P5 | 佐藤雅美著 『半次捕物控—泣く子と小三郎』/手嶋龍一著 『ウルトラ・ダラー』/竹内薫著 『99.9%は仮説』/半藤一利著 『昭和史 戦後篇 1945-1989』 | |
○類書紹介 | P6 | 「最澄と空海」・・・日本仏教に新たな時代を築いた二人の思想と軌跡、文学作品など。 |
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座談会 いま、なぜ松本清張か —戦後日本と対峙した作家 (1)
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右から清原康正氏、半藤一利氏と松信裕 |
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はじめに |
松信 |
松本清張さんが平成4年に亡くなられてから、すでに14年がたちましたが、最近、『砂の器』や『黒革の手帖』『けものみち』などの作品が相次いでテレビドラマ化されております。 また、文庫の新装版が次々と出されており、改めて松本清張さんの作品が注目を浴び、若い読者層も増えていると伺っております。 松本清張さんは明治42年に現在の北九州市小倉に生まれ、給仕や印刷工として働き、その後、朝日新聞九州支店に入社されます。 作家活動は40年に及び、昭和25年に、『週刊朝日』に処女作『西郷札[さつ]』を応募してから、亡くなるまでの間に書かれた作品は、長編、短編を合わせると千編、原稿用紙10万枚をはるかに超えると言われています。 文藝春秋から刊行された『松本清張全集』は全66巻にも及んでおります。 本日は、編集者、また雑誌『文藝春秋』の編集長として、長年、親しく接していらっしゃった半藤一利さんと、大衆文学を中心に幅広い分野の文芸書に精通しておられる文芸評論家の清原康正さんにご出席いただき、松本清張さんとのかかわりや、作品の魅力などについてお話を伺いたいと思います。 |
◇昭和27年 『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞 |
清原 |
私は、清張さんは文壇のパーティなどではよくお見かけしたんですが、面と向かってお話ししたのはたった1回で、ご自宅に行ってインタビューをしたんです。
ものすごく怖い人だという印象ばかり聞いていて、私は緊張しっ放しだった。 半藤さんは、ご著書の『清張さんと司馬さん』の中で優しい人だとお書きになっていますが、一番最初は昭和28年の芥川賞の授賞式のときにちらっと顔を見たんだそうですね。
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半藤 |
昭和28年のお正月でしたので、昭和27年の下半期、『或る「小倉日記」伝』で受賞された。 当時は、銀座のみゆき通りと並木通りの角の、今は画廊になっているところに文藝春秋社がありました。 小さな応接間に受賞者を招いて授賞式をした。 社の幹部との記念写真は残ってますが、何ということはない授賞式でしたね。 |
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清原 |
同時受賞が五味康祐さんの『喪神』(『秘剣』に収録)、直木賞は立野信之さんの『叛乱』ですね。 |
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半藤 |
私が入社したのはその年の3月なんですが、「遊んでいるなら働きに来い」と引っ張り出されて、時々、会社に行っていたんです。 そしたらちょうど授賞式の日にぶつかりまして、そのころ、芥川賞、直木賞も、今ほど世の中がワアワアともてはやすほどの賞じゃございませんでしたし、私も、受賞者がどのぐらい偉いのか知りませんでしたから、ちょっと眺めただけでした。
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上京当初は階段の踊り場で原稿を執筆 |
半藤 |
初対面は翌年の29年に『別冊文藝春秋』の用事で練馬区関町のお宅に行ったときです。 小倉から単身で東京に出てきていた清張さんがご家族を呼び寄せた直後でしょうか。 関町の家を知っている人はあんまりいないんじゃないですか。 驚いたのは、2階に上がる階段の踊り場に机を置いて、そこで原稿を書いている。 部屋じゃないんですよ。 「おもしろいところでお書きなんですね」と言ったら、「本当は部屋の中で書きたいんだが、入れてくれないんだよ」と言っていました。 清張さんのことを、ものすごくおっかなくて、土下座して頼んだとか、「あんな無礼なやつはいない」とか、「ひどいやつだ」とか言う編集者がかなりいるんです。 でも私は、そんな人ではないんじゃないかなと思います。 そのときも私に対してそんなに威張ったことは言わなかった。 ただ「君はどこの大学だね」と聞かれました。 「東京大学です」と言ったら、「そうか、東京大学かね」とにこにこするんですよ。 東大卒の編集者に、おまえはいかに無能であるかというのをやることが、彼の快感なんですね。 私も、「君はそんなことも知らんのかね」と言われました。 「実は私はボートの選手でございまして、隅田川大学のほうが正確なんです」と言ったら、呆れていました。 そんなふうでしたから、悪い印象は持たなかったんです。 |
「行ってみたいね」は「連れて行け」ということ |
半藤 |
私は、文藝春秋という会社で文学畑に行ったことがないんです。 月刊誌の文藝春秋編集部と週刊文春編集部を行ったり来たりしていて、小説は1回もらっただけで、むしろ昭和史関係の『小説帝銀事件』や『日本の黒い霧』とか『現代官僚論』、ノンフィクションのほうで長いことつき合いました。
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清原 |
アメリカ、カナダ、九州路の取材に同行された。 アメリカ、カナダは安宅産業の崩壊がテーマの『空[くう]の城』ですね。 九州路のほうは? |
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半藤 |
『西海道談綺』ですね。 長編で、その連載中に4日ぐらい行きました。 アメリカ、カナダは1週間近くになりましたね。 |
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清原 |
取材の旅では、どんな様子だったんですか。 |
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半藤 |
旅行に行って苦労した人は多いですね。 予定をどんどん変更するんです。 「半藤君、ここはぜひ行ってみたいね」と言う。 「行ってみたいね」ということは、「連れていけ」ということなんですよ。(笑) 飛行機の切符は通しで買ってますから、一遍変更するとその先が全部なくなってしまうんですね。 ですから、その都度、買わなきゃいけない。 変更に次ぐ変更で、実際に手配をしていた部下が、どうにかしてくれと、悲鳴を上げちゃいましたね。 |
じっと見ていたディテールが作品に生かされる |
半藤 |
アメリカでですが、安宅産業をつぶしたことになる製油所がニューファンドランドにあるんです。 私たちが行ったときは、もう廃墟でした。 清張さんはそこに立ったまま、10分ぐらいジーッと見ているだけなんです。 驚くほど長い時間に感じられましたけれども、その後、自分のカメラを向けます。 つまらないものを写しているんですよ。 あんなところは必要ないんじゃないかと思うようなところを写す。 それが旅行から半年ぐらいたって、作品にその場面が出てくるんです。 私たちは風景なんかすぐ忘れてしまって、大西洋なんか同じ海じゃないかとか思っていますが、清張さんはじっと見ていて、それが作品に生きてくる。 そのときは「ああ、小説家というのはこういうものなのか」と思いました。 |
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清原 |
カメラは持っていらっしゃるけれども、その前に自分の目で全部見ていく。 |
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半藤 |
まず見る。 それから咲いている花を一輪むしって手帳の中にはさんだり。 写真を撮るのは、鉄の柱のさびとか、水たまりに浮かんでいるものとか。 ディテールに関しては非常に細かくやっていましたね。 |
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清原 |
人間観察のようなこともありましたか。 |
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半藤 |
ええ。 小説の中にタクシーの運転手が出てきますが、清張さん自身が英語で話していましたよ。 あの人の英語はキングス・イングリッシュなんです。 言ってみれば候文[そうろうぶん]で、日本語に直せば「なんじ、この辺にてしばしお待ちいただけるや」とやる。
山とか気候のことを一々聞いていました。 でもメモは余りとらないんですよ。 |
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清原 |
記憶力のすごい方だったんですね。 |
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半藤 |
ただ、ホテルに帰ってダーッとメモをとるみたいですね。 私たちの見えないところで、それはいかなるときでもそうでした。 |
編集者は、単なる付き添いではなく話し相手 |
清原 |
清張さんは余りお飲みにならない。 こちらがビールをゆっくり飲みたいと思っていると、飯を食って、「さあ行こう。 きょうの取材はどうだった」と言うとか。 |
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半藤 |
さあ一杯飲もうじゃないかと思っていると、「早く上へ上がって、きょう見たこと聞いたことに関する検討会をやろう」と言うから、一人でやれと思う。 (笑) |
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清原 |
同行した編集者たちの感想も聞くわけですか。 |
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半藤 |
そうです。 議論じゃなくて、あのときどう思ったかと聞く。 「ふん、ふん」なんて聞いていますよ。 「おまえら、そんな程度にしか見ないのか」とは言いません。 ちゃんと聞いていました。 |
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清原 |
自分が見た角度とはまた違う見方を知りたいということでしょうかね。 |
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半藤 |
だと思いますよ。 ですからどんな感想でもいいんですが、何か言わなくてはいけない。 |
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清原 |
何を聞かれるかわからない。 必死になって見ておかなくてはいけないですね。 |
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半藤 |
そうなんですよ。 だから、単なるつき添いというわけにはいかない。 話し相手ですからね。 |
つづく |
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