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The Economist 2008年2月23日号 (Leaders)
世界経済  The world economy
日本の苦悩  Japain

(2008年2月21日)

世界第2位の経済大国はまだ落ち込んだままだ――その原因は政治にある

日本の「失われた10年」の亡霊が米国を覆っている。米国の住宅バブルが崩壊し、その影響が金融市場で実感されるにつれ、よくて急激な減速に直面している先進国にとって、日本のあのひどいバブル崩壊の経験が何らかの教訓になるだろうか、と問うことが流行になっている。1990年の日本の不動産と株式市場でのバブル崩壊は、最終的にはGDPの5分の1に相当する不良債権を発生させてしまった。経済が再び正常に成長し始めたのは、実にその12年後である。そして2005年になって初めて、金融ひっ迫と負債デフレから脱却できたと言えるようになった。今日でさえも、日本の名目GDPは、1990年代のピークを下回っている――失われた機会を示す冷厳な尺度だ。

それにしても、亡霊は人を欺くことがある。当時の日本と、現在の米国との間に、特に金融危機が「実体」経済を危機に陥れるという点では共通点がある。だが、相違点のほうがはるかに多い。日本は確かに心配の種に違いない――だがそれは、先進国が同じような経済的失敗に陥る運命にあるからではなく、日本が世界第2位の経済大国でありながら、根本的な病根の解決に取り組んでいないからだ。

2つの危機の物語

今日もっとも悪く想定したとしても、米国のバブル崩壊は、それまでの発展が目覚ましかった日本のバブル崩壊に比べて、規模は小さいといえる。株式市場での崩壊を例に取れば、米国のスタンダード・アンド・プアーズ500種指数(S&P500)は、1990年のピークに比べて8%低いだけだが、日経平均株価は今でも1989年のピークから3分の2近く下がっている。商業用不動産の比較では、両国間のバブル崩壊の差は同じように劇的である。

だが、もっと重大な差は、両国が崩壊に直面したときにどのように対処したかにある。米国では、住宅ローンを小分けにして証券化した広大な市場への政府の監督が不十分だった、との批判はできる。だが崩壊が起きると、政府は金融や財政的刺激策を果敢に実施した。金融機関は損失の表明に忙殺されている。日本では政府が加担して市場を膨らませ、それに続く惨状についても加担して、何年も隠し続けた。

日本経済は、まだ政治家たちによって足を引っ張られている。1990年以降、かなり変わったとはいえ、周期的な後退が日本の構造的欠陥を露わにしている。数年前までは人々は、日本が――まだ中国を上回る経済大国で幾つかの優秀な企業を持っている――米国が疲弊した後の世界経済の不振の一部を肩代わりしてくれるとの期待感を持っていた。しかし、それは今や期待薄だ。生産性は目が当てられないほど低い。新規の投資に対する収益は米国の約半分。企業が賃金の引き上げをしなかったことで、消費はまだ低迷している。官僚の失策が、経済に多大の犠牲を強いた。日本は、これ以上経済面で失望を与えないためにも、貿易と競争力の面で一連の改革を実施する必要がある。

自民党は過去半世紀の大部分を支配してきて、まだ利益誘導の仕掛けとして残っているが、これらの問題に取り組むことを放棄してしまっている。せっかく一匹狼の小泉純一郎が首相をしていた2001年から2006年にかけて改革への取り組みをしていたのに、元に戻ってしまった。さらに悪いことに、昨年7月に野党の民主党が参議院を制してしまった。憲法は国会の衆参両院で違う政党が過半数を占めることを想定していなかった。参議院は衆議院と同等に近い力を持っていることから、野党は事実上、政府が上程するほとんどの法案を廃案に持ち込むことができるのだ。

その結果、福田康夫首相は、9月に就任してからの最初の4カ月間を、インド洋で行動する1隻の給油艦に再度権限を与えるために費やしてしまった。今、政府は、4月から始まる来年度予算の法案を成立させることと、3月19日に新日銀総裁を指名するために、民主党との間の身を削るような戦いを展開している。

しかし、問題は単に憲法上の事だけではない。日本は極めて不安定な状態に陥っている――もはや一党支配の国家ではなくなったのに、ライバル政党が政権を交替する競争的な民主主義体制というには程遠い。2つの主力政党はともに矛盾を抱えて分裂状態だ。双方とも改革派がいる一方で、白髪で古参の守旧的な保守主義者や社会主義者を内包している。政治的混乱が、自民党内の旧勢力――派閥、保守的官僚、建設業者、農家――に再び影響力を行使させている。その一方で、民主党の指導者、小沢一郎は、かつては改革者としてのおもむきはあったのに、今や自民党の古いタイプのボスのように見える。

日本の政治は、ちょうど列車が緩衝器に向かって滑っているような状態である。衝突は、予算の意見の相違を巡り早ければ3月にも訪れるだろう。それを避けるためには、一部の政治家が考えるように、昨年11月に福田氏と小沢氏が話し合った「大連立」のような形を、自民党と民主党との間で作ることが1つ。この計画は、民主党の他のリーダーたちが正しくも反対したため葬られた。連立が組まれていれば事実上、日本を一党支配国家に戻し、経済の改革を実施するというより大盤振る舞いをする結果になっただろう。

「洗濯」のいい機会

それでも、緩衝器は日本にとってもっとも居心地がいいのかもしれない。あるいは、総選挙――恐らく1度では済まないだろう――という選択がある。そうなれば政党は自分たちの矛盾の解消に取り組まざるを得ず、有権者も、利益誘導を競う候補者でなく真の選択をする機会を与えられる。

かすかな望みがある。改革派の政治家、学者、ビジネスマンたちが、超党派で結成した圧力団体「選択」(選ぶという意味と十分に物をきれいにするという意味の「洗濯」が含まれている)である。彼らは根本的に分権化を求めている――地方の政治家が東京の利益配分者に取り込まれている頭でっかちのシステムの分権化を。また、主要政党が理路整然としたマニフェストに基づく選挙運動を展開すべきだと考えている。そうしたことにあまり頭を煩わせたくない一般の日本人に対して、無用の高速道路や橋――破綻した政治の目に見える病状――で地元を覆いつくそうとする政治家たちに投票することの間違いを省みるように求めている。

多くの政治家は、総選挙は混乱に拍車をかけるだけだという。それは、破綻した制度の中で肥え太った政治集団の議論にすぎない。選挙民には物事を正す機会が与えられなければならない。その結果が混乱ならば、それもよかろう。


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