新・調査情報 passingtime  1998/1-2 no.009


特集
お正月だから哲学をしよう!
21世紀へのキーワード

自由と代償

『ドキュメントD・D』の五年間

吉永春子

現代センター代表



現場に向かって走れ!

『ドキュメントD・D』(TBS)のDash・Dashは、走れ!走れ!の略である。デスクの前に座って、ぶつぶつ言っているより、現場に向かって走れ! 実は、これは長年私自身に課した取り決めだった。それにもう一つ加えたのが、物騒なテーマに向かうということだ。

 物騒というのは、触ると火傷のしそうなという意味だ。しかし今まで私はこの取り決めに決して忠実なわけではなかった。取り決めは実行されない分、願望となって私に付きまとった。『ドキュメントD・D』がスタートする時、当然この取り決めはよみがえった。そして今度こそと気持ちを新たにした。

 そして、手掛けたのは、一九九二年九月、検察側が動き始めた頃のドン金丸信邸宅前の魑魅魍魎を取材した『水面下の攻防 金丸邸前』、中国マフィアが台頭した新宿歌舞伎町の東南アジア女性の売春の実態『歌舞伎町裏 異邦地帯』、坂本弁護士一家失踪の謎に迫る『失踪から三年 坂本弁護士』など。

 予算上、取材の日数は少ないが、その分何でも見てやろう、一分もおろそかにすることなく集中取材をしよう。その取り決めを守ってオウムの村井刺殺事件の時も、不審な男の姿を二カット撮影した。それが犯人であった。それを事前に知っていたのではないかと言われ、私達はそのあまりにいやしい憶測には言葉もなかった。

しなやかでしたたかな

 バブルが崩壊した九二年から九五年にかけては、ディレクターの興味もあり、時代をしなやかに、そしてしたたかに生きている男と女がテーマとなった。

 新宿のホストの甘い生活とホストに貢ぐOL達の誇り。政治家などに仕掛けられた盗聴器発見に情熱を燃やす男。人気のDJをライブハウスにバイクで送り届ける女社長。六本木のビルの上で屋上生活を楽しむ若い女性。 

 ディレクターの一人が上野のテント生活の男を取材したいと提案した時、私は反対した。落後者としてのイメージを超えるものが出来るのか不安もあった。しかし彼は強硬で二晩一緒に過ごしたんだが面白いんだと主張、私もついに折れてしまった。

 男の名は、はるさん。年齢は四〇代、二年前から上野の森に住み着いた。彼は午前三時半からダンボール集めと清掃の手伝いをして働き、生活費を稼ぐ。その後しばらく彼は行方不明となる。一時間後はるさんは秘密の箱をリヤカーに山と積んで現れた。

 中をのぞこうとするとはるさんの鉄拳がディレクターの顔に鳴った。中は弁当類で、仕入れ先は極秘だったのだ。

テントのすき間から

 この弁当を森の長老の人、地回りという親分格の人と順番に配って歩く。これが森の住人の一日の食料となる。この調達ではるさんは一目置かれる存在となった。はるさんのテントは人より大きく中は清潔で片付いている。ブリキ製の衣装箱も二つあり、洗濯した薄茶のスーツなどがちらりと見えた。

「不況になると花見が増える。するとシートがどんどん捨てられ、それを求めてテント生活者が増えてくる」

 そう話すはるさんはテントのすき間から日本を見ているのだ。

 取材最後の日、薄茶のスーツに身を包んだはるさんは、「僕は恥ずかしいことはしていない。ちゃんと仕事をしているのだから」とはにかみながら言った。その時はるさんのプライドはスーツのように光っていた(『上野テント村 狭いわが家』九四年一一月一四日)。

 凡庸な予測を排し、出来るだけ自然体で事実をくみ取り、思考を深めてゆく。もちろん対象者とは緊張関係を保ちながら。その方法を模索していた時出くわしたのが、阪神大震災であった。

一・一七阪神に向かった

 九五年一月一七日、惨事を伝える震災のニュースを見ながら私は考えこんだ。各マスコミはあらゆる機動力を総動員して、この底知れぬ惨状を取材し、報道し続けることであろう。では虫けらのような私達に何が出来るのか、会社に行ってからも考え続けた。

 昼過ぎ、目の前にはやっと一人立ちしたばかりのカメラマンと、入ったばかりのディレクターの二人がいた。「ちょっと行ってみる?」。声をかけると、神戸と言わないのに二人の眼は輝いた。レンタカーを借り、食料品を積み込み、行ける所まで行ってみてはどうかと送り出した。

 五日後二人は帰京、私はすぐにビデオを見た。一月一七日夜、車が東名高速を走ると、傍らには東京都の旗を立てた給水車二、三台が勢いよく走っている。しばらくすると消防車がビューンと追い抜いて行った。これも東京都のものだ。応援に駆け付けているのだ。こうして二人を乗せた車は通行止めとなった東名高速を降り、道に迷いながら午前三時伊丹に着く。

 恐怖で眠れないでたき火に当たっている十数人。夜明けにインスタントラーメンを路上で売る中年の女性。そしてたどり着いた長田区では今にも倒れそうな傾斜した小鳥屋で、おかみさんが鳥に餌をやっている。魂の抜けたような顔だ。いずれも自然なままの映像だ。 

 一か月後、再び取材に行き、まとめて放送した(『一・一七夕べ 阪神に向かった』九五年二月二七日)。一か月後、小鳥屋のおかみさんは 、「怒りはゆっくりくるもんよ。今頃腹が立ってきて」と斜めのままの家に入っていった。その後も追跡取材を続行、放送は七回に及んだ。

月一〇万円の「楽貧生活」

 阪神大震災によって、日本人はさまざまな価値の変更を求められることになった。

 例えば会社を辞めて台所に根城を設けた男がいる。京都に住む四二歳の田島さんがそうだ。田島さんが会社を辞めた理由は、残業を拒否し続けた結果、職場の鋭い視線に耐え切れなくなったからだった。しかし退社しても何のあてもなかった。ただ料理は好きだった。そこで家の食事は彼が分担、妻にはパートで働いてもらうことにした。

 台所に立つと彼は食材の研究に没頭した。市から年七〇〇〇円で借りた家庭菜園で野菜作りも始めた。豆腐、魚、肉、身体に安全な物の探究も進んだ。

 やがて自宅で、彼の選んだ食材で料理教室をやることにした。始めは二、三人だったが、取材に行った時は生徒は八人になっていた。

 メニューは、豆腐のロールキャベツ、納豆のスパゲティ、ワカメのサラダ等。一人食費こみで六〇〇〇円。これを月に四回と、このほか出張料理教室も含め収入は月一〇万円。奥さんと合わせ二〇万だが、彼はこれで十分だという。 

 収入を増やそうと思うと不快な仕事もやらなければならない。それは嫌だ。自分自身が楽しみ、自由を求めることが目標なんだからと田島さんはさっぱりとした顔で笑った。

 自由の代償一〇万円。それをよしとするか否か。田島さんが自由を選んだ背後にあったのは、自分らしく生きたいという誇りだった(『楽貧生活 僕の城は台所』九六年六月一七日)。

スープは女体の微笑

 ホテルオークラの料理人で、ベルギーの三ツ星レストランで腕を振るった竹井さん(四八歳)の場合はこうだ。帰国後同じホテルで働いている時、腎臓を患った。一生透析をする身となった後はホテルを辞め、千住でラーメン屋をやっている母の元に姿を現した。

 彼の蒼白な顔を見た母は、「苦しいのなら自殺でもしろ!」と叱った。そうだ、死ぬ気になれば何でも出来ると、彼はラーメン屋を自分なりにやることにした。

 まず一日二回、鳥がら、玉葱、長葱、ショウガ、ニンニクを入れてスープをとる。「スープは女体の微笑。ワハハと笑うダシは失敗」。こうして出来たラーメンは三五〇円。この他牛肉の塊を煮込んで作る、特製ビーフシチューやビーフハヤシライスなどがある。いずれも九〇〇円で、彼の趣味のサービス。週三日透析の日の午後は、妹さんが手伝う。彼に今の自分をどう思うか聞いてみた。

「ラーメンを作っていると正直悔いは残った。情けなかった。しかし自分を見つめることが出来た。

 フランス料理の頃の自分は嫌な人間だった。いい加減な人間が許せなかった。職場でタバコを吸う者がいるだけでシャクに触った。はたから見るとさぞ嫌な男であったろう。今は肩の力を抜いて生きているといろんな事が楽しくなり、考える時間も持つことが出来るようになった。やっと自分を取り戻せたのだ」

 そう話すと彼はバイクで近くのうどん屋に遅い昼食を取りに行った(『三ツ星シェフ ラーメン稼業』九六年一月二二日)。

夢の週休五日共同生活

 金に支配される生活はもうこりごりだ。これからは自分のために自然にそして自由に生きたいという例にはこんなものもあった。  

 バブル全盛期一山当てようとし欲望の世界に群がった男達が金に疲れ、共同生活を始めたのである。生活費はタコ焼きと焼きイモ売り、野菜も排泄したフンと尿を肥料として育てるリサイクル生活。アパートで共同生活をする三〇人は、子供のいる人や夫婦だけ、独身OLなどさまざまだ。おのおの何らかの理由があるのだろう(『夢の週休五日 共同生活』九六年二月二七日)。

 九五年から九六年にかけてたびたび上った企画が、自分の力を何かに役立てたいというものだった。

 OLが失意の末再び同じ職場にヘルスキーパーとして働くようになったのも、彼女が自分の根底にある生命力を信じたからだった。

 下町で身障者や老人のために区の施設でカラオケ教室を開いている個人タクシーの運転手。彼には耳の障害がある。

 その一つ、自分の車を改造して足の不自由な人達の足代わりにしたいと走り回っているという男性の話を聞いた時、根性の曲がっている私は何か他に意図でもあるのではないかと疑った。

 しかし彼がサラリーマンを辞め、ある社会福祉の団体で働いている時、言葉や議論ではない福祉を実践したいと一人で始めたというきっかけを聞き、少し分かりかけてきた。

 二八五万で車を改造し、全自動で車椅子を動かす設備を付けたその男性は、うだつさん(三一歳)という。そして老人ホームから自宅へ、自宅から病院へと年配者、身障者の移送サービスを行っている。福祉の中で、足の問題が一番遅れていると考えたからだった。

 利用料は一キロ九〇円。これでは大赤字だ。そこでうだつさんは昼は運送会社、夜は郵便の集配のアルバイトをしてこのサービスを維持しているのだ。

「世界が日本がどうこうの話は僕には問題ではない。生きることは人を大事にし、自分も大事にすることだ。自分は人として生きてゆきたいだけだ」

 この彼の発言には、実行者としてのひたむきな情熱がこもっていた(『孤軍奮闘 走れ移送車』九六年四月二二日)。

自宅を改造した助産院

 自分の力を何かに役立てたい。横浜で助産院を作った山川さん(六四歳)もその一人だった(『妊婦の希望は自然出産』九七年二月三日)。

 助産婦の山川さんが勤めていた、ある公立の母子保健センターが九二年に廃止された時、存続を願って一〇〇人の母親が集まり、会を作った。自然な出産を人のぬくもりの中でしたいという思いで、出し合ったお金は一年で九〇〇万円になった。

 問題は場所だった。山川さんが自宅を大改造、入院室、陣痛室、出産室、専用風呂などを整備、「バース・青葉」として発足した。九六年から九七年にかけ半年で、一〇人を超える赤ちゃんがここで産声を上げ、助産婦は三人となった。

 取材に行くと和室の入院室で妊婦が出産を待っていた。昼御飯は鳥肉と芋の煮つけ、ホウレン草のお浸し、大盛りの野菜サラダに味噌汁、それにイチゴのデザート。ここでは赤ちゃんの心臓などをチェックしながら自然に産まれるまで待つ。

 費用は初診料四〇〇〇円、再診三〇〇〇円。入院出産費は五日間で三五万円、病院より費用は若干安いという。

「前に出産した時、病院では一二時間も足を固定されていてつらかったけど、ここでは自然だし、生まれたその日から赤ちゃんと同じ布団で寝られる」

 妊婦の一人は母の顔になってほほえんだ。バース・青葉の場合、明らかにボランティアの精神を含んだニュービジネスといえる。善意と金。善意の精神を広げてゆけば限界にぶつかり、金銭も必要となる。バース・青葉は、寄付と主宰者の一部自宅提供という形で、前に進むことが出来た。しかし善意と金はたびたび微妙な問題も生み出す。

ボランティアかビジネスか

 杉並区の高橋さん(四三歳)は賛同者を得て、老人と障害者の人に、昼間七〇〇円の弁当を配達していた(『ボランティアとお金の微妙な関係』九七年七月一四日)。もともと高橋さんはヘルパーの仕事をしていたが、ふれあいの家を作りたいと思い、協力者から場所提供を得、福祉の家を発足させることが出来た。

 併せて、不自由している人達のためにと弁当配達を思い立ち、ボランティアで女性も数人以上参加した。弁当作りは勝手に休むことは出来ない。専従者は高橋さん一人。彼女のヘルパーの収入は半分に減り、一〇万円となった。 

 それでは生活出来ないので、専従者として五万円の報酬をもらうことにした。ところがそのことを他のボランティアが知り、非難の声が上がった。

「一人だけ金を得るのはボランティアの精神に反する」

 高橋さんも反論した。

「ボランティアには義務がないので勝手に休んだりする。それでは駄目だ。私は専従としての報酬を頂きたい。生活もかかっている」

「弁当配達を最低限にすればいい」

「自分の都合のいい時だけ働いたり、休むのでは福祉は成り立たないのだ」 

 協力者の男性の発言で無償の労働を主張する人は去っていった。そして高橋さんは福祉のプロの道を歩む決意をした。高橋さんがプロの道を考えた背後には、二一世紀を前にして大きなうねりを見せている福祉行政の変化もあった。

老いて暮らすは金次第

 私の友人で福祉関係の研究を進めている東邦大学の四方洋教授に実情を聞いてみた。

「福祉は今巨大市場になりつつある。先の宮城県知事選挙も、財政を公共事業に投入するか、福祉かの選択の争いともいわれ、結局福祉側が勝った。介護保険法等も登場し、間もなく四人に一人はケアが必要といわれる時代に突入する。市場への競争は激しくなり、大企業の中でも着々と福祉ビジネスを考えている所も出てきている。巨大ビジネスは目前に迫っている」

 全く油断のならない時がやってきたと思った。福祉が金になるとにらめば、恥も外聞もなく突進してくるのだ。もともと行政の怠慢であった福祉の細かい部分を、ボランティアやわずかな報酬を得る人達の善意で一歩ずつ、前進していたところだったのに。うかうかしていられない。カンオケに入るまであらゆる医療や老人ビジネスに搾り取られてしまうかもしれない。老いて快適に過ごすには金次第。

 高橋さんに昨年一一月スタッフの一人が電話すると、彼女は興奮した口調でこう言った。

金融市場の高笑い

「行政が福祉サービスに予算の投入を始めてから、民間の業者の競争が激しくなった。そして小さな福祉事業会社を次々に吸収する会社が出現してきた。バックに生命保険などの会社がいるみたいだ。

 さらに資本の固い会社などは、赤字覚悟で福祉サービスに乗り出し、業績を固めながら全国的な規模の拡大を狙っている。このままだとヘルパーは営業マンとなりサービスの質の低下は免れない」

 自由競争の市場原理から見れば当たり前の話かもしれないが、福祉が金になるとにらめば恥も外聞もなく突進してくるこの厚かましさ。

『ドキュメントD・D』には、何とかして既成の価値からはみ出して、自分なりの自由な生き方を獲得したいと考える人達が数多く登場した。そしてささやかながら自分の力を生かしたいと願った。そこには己れの生命力を信じ、希望を託そうとするエネルギーがあった。

 だが自由に生き、自分の力を生かす場を確保することは容易ではない。それは先の福祉での例を見てのとおりである。行政の怠慢を長い間補ってきた人達が、一夜にしてはじき出されるような油断のならない時代でもあるのだ。

 二一世紀がどう動いてゆくのか、今世界を攪乱している金融不安の行く末を考えると、誰か未来を的確に予測出来るのか。聞こえてくるのは金融市場を牛耳る仕掛人の高笑いだけである。『ドキュメントD・D』の次の目標はそうした人物の正体に迫ることである。


よしなが・はるこ/一九三一年生まれ。五五年ラジオ東京に入社。六四年テレビ報道部に。『魔の731部隊』や、『現代武器商人を追う』など数々の話題作を手掛ける。『報道特集』プロデューサー、報道総局専門職局長などを経て、九一年より現職。著書に『ドキュメント・ガンからの生還』『謎の毒薬』など。