服部氏、服部党
服部友定は一揆時の長島城代。伊勢河内服部党。
服部氏は服部連が伊賀国阿拝郡を領したもので、後に平筑後守家貞の三男伊賀平内左衛門家長がその統領となり、伊賀服部氏の祖となった。
伊勢河内の服部氏は南朝の遺臣で、伊賀平内左衛門の後裔服部伊賀守宗純を祖する。後醍醐天皇の御孫尹良(ユキヨシ)親王とその御子良王(ヨシタカ)君を奉した吉野十一党のうち、七苗字の武将の一人であった。永亨七年(1435)十二月、四家七名字の武将は良王君に従い、尾張国津島に移り住み、服部は津島の南方市江島に居を定めた(浪合記)。これより先服部宗清は河内に扶植した桑名三郎の女を妾としており(尊卑分脈)由縁は古いのかもしれない。
その後服部氏は斯波氏に属したが、おりしも織田家が増長して斯波氏を討ったため、服部氏はこれに反目、長島におこった一揆に加担、長島城代として迎えられた。結局長島一揆は織田軍のため殲滅したが、浪人となった服部氏らは荒地となった旧領を再開発した。伊賀流の家康への貢献もあり、江戸時代には荷の上の服部家は帯刀御免の大庄屋格に復帰して現在に至る。
上坂手村(長島町)の名主服部家は津島の地主服部采女正を祖とする(長島細布)。
岡山藩士の服部家は生国伊勢、尾州小城主で、家康に忠功のあった服部左京の後。また左京は家康に功があり、その甥権太夫が旗本服部家の祖となった。
大安町丹生川上正法寺山・丹生川上城の城主服部将監、丹生川下東野城主の東野右京助(一に服部右京助)も服部党であるか。不詳。丹生川守鴨神社の鳥居内匠に服部利兵衛奉茂がある(北勢雑記)
北勢町治田に繁栄する服部家は服部連の後裔服部秀明を祖とする。秀明は惟喬親王の臣で、親王出家のとき自らも僧となり円山と号して一山(円福寺基)を創立(八田村史)。同地は甲賀の美濃部氏(治田山城守)とも縁あり、服部党と縁あるか。
また藤原町篠立には建仁2年(1201)、服部石見守の二男左近大夫が当地支配のため、屋形を建立。六代在城、7代目の馬大夫が明行寺中興了意となった。
伊勢の服部党とは別流であるが、服部半蔵正成は、本能寺の変の時、明智光秀軍に追われる家康を伊賀から三河に導き、無事帰還させ、同家は格別に取りたてられた。しかし正就の時、組下の同心を酷使して同心一同が寺院に籠るという不祥事がもとで改易、復興に努力したがかなわなかった。その子孫母は母の縁で松平家に入り桑名藩に半蔵家がのこった。
系譜纂要 平内左衛門 平内兵衛 彌平兵衛 ○服部家長━━━家清━━━宗清━━━宗俊━━━清正 │ 桑名三郎女 |
伊勢河内服部党 寛政重修譜1171巻葛原親王後 他 ○吉野十一党七苗字 伊賀平内左衛門 平内兵衛 服部伊賀守 左京亮 伊賀守 左京亮 権大夫 ○服部保長━┳保清・・・・(九代)保宗━━宗純━━宗家━━宗信━━宗政━━政家┓ ┗左近大夫・・・・(七代)馬大夫篠立明行寺中興 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 弥右衛門尉(荷之江庄屋祖) ┃*左京亮 ┏正友・・・・・・弥兵衛 ○服部伊賀守宗純九代平左衛門━一忠 ┗┳友定━┻源兵衛(岡山藩士) *友定以下推定 ┃右京進 権大夫 ┗政光━━政季(徳川旗本) |
服部半蔵家 寛政重修譜1168巻服部家長後 ○保長━┳保俊(分家旗本)┏正幸 ┣保正(分家旗本)┣正辰(桑名藩小服部) ┗正成━┳正就━┻正治 ┗正重━━正吉(桑名藩大服部)・・・・正義 |
服部党(河内)
服部 某 隼人祐
「披露記事禄」天文8年(1539)桑名大福田寺の訴えに、同寺被官服部隼人祐の田地を願証寺門徒内田三郎が横領とある(四日市市史)
服部 友定(友貞)、左京進
天文17年(1548)本願寺において長島願證寺と交歓(長島風土記)。
一、上総介信長、尾張国半国は御進退なすべき事に侯へども、河内一郡は、二の江の坊主服部左京進押領(信長公記)
弘治2(1556)年、守山城主織田孫十郎信次に命じて河内一郡を押領した鯏浦の服部左京進友貞を攻めるが敗退する
(永祿3)1560年 5.19 熱田市民、服部左京助を撃退。(織田信長年表。http://www.bekkoame.ne.jp/~h.ishi/history/nobunen1.txt)永禄3年1560 5月、桶狭間の戦いが起こる。このとき、二の江(荷之上)一帯(現:弥富町)を支配していた土豪の服部左京助(友定)が今川方として参加するが、義元の討ち死により自領へ引き返している
永禄4年1561 服部友定、長島城代になる。戸田庄(現:名古屋市)の石橋義忠、信長への叛逆が発覚し、服部友定を頼って長島へ落ち延びる。
永禄11年1568 服部友定、信長の謀略にかかり、悲運の最期を遂げる。
友定の留守中、信長は弟の信興を大将として、滝川一益の軍に服部党を攻撃させる。信興、鰍浦城(現:弥富町)、小木江城(現:立田村森川)を築き、服部党、長島願証寺に対する牙城とする。
(長島一向一揆 略年表 http://hp1.cyberstation.ne.jp/histry/nagashimanenpyou.html)
友定は自害の地員弁郡藤原町米野山蔭涼庵に葬られた。
上坂手村名主
もと津島の地主。基尻大隈退治の時津島四家七名字諍動して津島を退去上坂手に蟄居した。
○服部小三次━━道弥━━長兵衛━━善五郎━━康房 長島細布 服部 小三次 采女正
服部 道弥 依休 小三次の嫡男
服部 長兵衛 与右衛門 宗悟 上坂手観音再営の願主
服部 善五郎
服部 康房 善九右衛門 新九郎
篠立屋形の主。石見守次男左近大夫を祖とする。明光寺(藤原町篠立)の前身転輪山眞無量寺旦那。
○服部石見守━━左近大夫━┳某 ?┏良忍━良元━香玄━良香
┗右京━┻某━━某━━某━━某━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗得三郎━┳右馬大夫(了意)──了存(明光寺歴代)
┗治郎大夫(了存)↑藤原町史
服部 某 左近大夫(〜1428)
石見守次男。宇治川合戦の後篠立に屋形を構えた。篠立の西山仏ヶ尾にあった比叡山安慧和尚の開基転輪山眞無量寺の第三世順性法師に帰依した。同寺の村内移転に並々ならぬ尽力をしたという。宝治2年歿。嫡男は右京(藤原町史)
服部 某 得三郎
左近大夫6代。眞無量寺が信長のの兵火に落ちた時、二子を伴い大阪に上り石山本願寺教如上人の門に入った(藤原町史)。当地で死亡か?
服部 某 馬大夫 了意(〜1600?)
得三郎嫡子。父に従い石山本願寺教如上人の門に入リ、得度して了意という。文録元年(1592)11月帰国して、荒廃した眞無量寺の後に堂を再建、開祖安慧法師の護持した阿弥陀如来を本尊として真宗の開基となった。
その後慶長5年の関ヶ原の役に「国土太平」のため出陣戦死したという。
服部 某 治郎大夫 了存(〜1618)
得三郎次男。兄了意の戦死を聞いて不憫に思われた教如上人は、阿弥陀如来絵象と前宗主顕如承認眞影に賛を加え治郎大夫了存に授与した。了村はこれを持ちかえり道場を守った。
明光寺歴代
了存の後、3世了念(〜1665)、4世了瑞(〜1674)、5世了恵(〜1687)、延宝元年(1673)寺号明光寺免許。6世了閑(〜1724)、7世了空(〜1793)、8世了海(〜1813)、9世義了(〜1821)、10世了願(〜1854)、11世了天(〜1880)、12世了教(〜1932)、13世義了(〜1960)、14世了恵(現住)、
┌清右衛門(実栗木助左衛門子)
┏━某━━権大夫(旗本) │ ┝━━━┳源介↓(今源兵衛)
┻○服部左京━━源兵衛━━┿女 ┗清右衛門
└源兵衛源介──与三右衛門池田家家臣譜
○服部左京━━源兵衛━━清右衛門━┓
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣源兵衛━━図書━━図書━━与三右衛門━━和俊━━与三右衛門━━和保━┓
┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┗頼母━━和佐━━和順━━将雄
┗清右衛門━━半助━━治兵衛━━半介━━半介━━清三━━半━━鉄吉池田家文書
服部 某 左京亮
生国伊勢、いづれへも奉公せず。尾州の小城主、永禄のころ家康に忠功(尾張沓掛合戦)あり、子供の一人を召し出しになったが甥の権大夫を差し出しその系旗本にあり。その後左京は信長に敵対し討ち負け落城。この人友定と思われる。
服部 某、源兵衛
左京亮落城の節、一門の大方討死の中、左京亮子供のうち3歳の子一人乳母が拘出し、13歳の時、三河にて池田勝入へ直訴、左京のこと御存じと召し出し源兵衛を名乗り130石拝領。
輝政のころ関ヶ原役岐阜新加納にて高名播州にて350石に加増。御母衣仰せ付けられ、心付けとして一万石の代官仰せ付けられる。
服部 某、清右衛門(〜1646)
実は栗木助左衛門の子治兵衛。生国尾州犬山。三河にて服部源兵衛の女に婿入り養子となる。関ヶ原の陣に勤め、親の知行内150石を拝領、清右衛門と称す。
服部 某、源介、源兵衛(〜1659)
清右衛門長男。生国播州。実祖父源兵衛の跡目相続を仰せつかう。
服部 某 与三右衛門(1642〜)
源兵衛養子。実は伊勢津藤堂大学内若原市郎左衛門倅。明暦2年侍従様へ児小姓として召し出される。万治2年源兵衛跡目350石相続。
服部 某、清右衛門(1627〜)
清右衛門の末子。長兄が実祖父の跡目を継いだので、正保3年清右衛門方を継ぐ。宮城大蔵組鉄砲引廻。高150石
服部半蔵家(桑名藩)
初代服部石見守半蔵正成(まさなり)は徳川家康の部下で忍者集団の頭領。江戸城で彼が守っていた門は半蔵門と呼ばれている。子は兄が石見守正就(まさなり)といい、弟が二代目半蔵正重(まさしげ)と称した。正就の妻は桑名藩主松平定勝の姉で、正就は不祥事を起こして家康から暇を出されたため、妻は三人の子を連れて実家に戻り、息子たちは松平家に仕えた。定勝の息子の代に松平家は松山、桑名、今治に分かたので、服部家も三つの地に分かれした。 次男は石見守正辰(まさたつ)と称して桑名松平家の親族として代々続いた。一方、二代目半蔵正重も徳川家から暇を出されて、桑名松平家に仕えるようになった。 桑名史上の人たち(5)(桑名市HP http://www.city.kuwana.mie.jp/)
服部半蔵家 寛政重修譜1168巻服部家長後 ○保長━┳保俊(分家旗本)┏正幸 ┣保正(分家旗本)┣正辰(桑名藩小服部) ┗正成━┳正就━┻正治 ┗正重━━正吉(桑名藩大服部)・・・・正義 |
○服部半蔵正成━┓ ┌正保━━正衡━┳石見━━鐸若──石見──石見 ┏━━━━━━━┛ │ ┗(男)↑ 正衡末男 (再)正衡長男 ┣(男) └───────────────┐ ┏某 ┣正就 ┏正容━━正辰━━正賀━━正武━━正郷━┳主税 │ ┣某 ┃ ┝━╋(男、今治へ) ┣志摩─┘ ┣半蔵━┓ ┃┏姉 ┗(男、松山へ) ┗正保↑ ┣某 ┃ ┃┗松平定綱 ┣某 ┃ ┃ 半蔵 半蔵 半蔵 半蔵 ┣某 ┃ ┗正重━┳政吉─七郎左衛門━正秀━━正勝━━正盈──正美━━半蔵━┻吉人↓┃ ┗七郎左衛門↑ ┏━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┝左大夫 初左大夫 半蔵 └半蔵(初吉人)──半蔵━━(正義) |
服部 政家、権大夫、左京亮(1491〜1536)
織田信秀に属してのち尾張国河内に蟄居。天文5年8月13日死(45歳)。法名常久。妻は横井丹後守女。この人、友定の親にあたるか。
服部 政光、政秀、右京進、権大夫(1512〜1785)
永録3年(1560)織田信長と今川義元の尾張沓掛合戦の時、政光兵糧船1艘を家康に献上したため感を蒙り岡崎において召されて、遠江河の庄に3000貫をたまう。元亀3年(1572)三方ヶ原の役に遠江東村城を守衛。天正10年(1582)9月、松平康親の指揮により子の政季とともに伊豆佐野小屋の砦を落とした。天正13年2月2日死(73歳)。法名賢釣。妻は千秋式部少輔女。この人、友定の兄弟にあたるか。
服部 政光、政季、與十郎、権大夫(1561〜1615)
天正10年(1582)父とともに佐野小屋の砦を攻め落し、18年小田原の役に家康に従い本田忠勝に属して御使番。文録元年2月武蔵大田庄に3000石の采地御朱印。後年近江長浜に1000石を加えられる。
慶長10年徳川秀忠将軍宣下拝賀に供奉、19年大阪陣に御使番。元和元年再陣の時も供奉、4月26日京都に死(54歳または56歳)。法名賢海。妻高力河内守清長女。
この人池田家家臣譜にいう所の服部左京の甥に当たる人か。尾張沓掛合戦のあと間もなくの生誕か。
政光の跡は與十郎政信(1578〜1642)がつぎ、弟政重に1000石を分家。政信の長子與十郎政長は父に先立ち死す。その弟玄蕃頭政久(〜1638)は家光に仕えて1000石。政久の後を某が次いだ。政久の弟與市郎政久(信利〜1647)は元和元年家光に拝謁。寛永19年父政信の遺跡を継ぐ。弟与左衛門信成は兄の采地のうち1500石にて分家。その妹は長井五右衛門の妻となる。末弟九兵衛は高木筑後守の養子となる。
與市郎政久(信利)のとき嗣子なく断絶。
与左衛門信成(1620〜1692)は政信の四男。兄政久の采地より1500石にて分家。長子権大夫信解(1663〜1738)は、天和2年家督を相続、うち300石を弟信親に分家。その妹は北村氏の妻となる。
信解に子なく、弟信親の次男孫右衛門信隆(1704〜1775)を養子とする。元文3年家督相続。長男亀次郎信由は病弱のため家督たらず。末女の婿養子として斎藤利保五男吉六信任(1745〜1798)を迎える。信任長男権大夫信貫(1765〜1798)は寛政元年家督を相続。弟妹のうち三男重之丞信発(1781〜)が兄信貫の嗣となる。
代々の葬地は市谷浄栄寺。
権右衛門信親(〜1732)は信成二男。父の采地より300石にて分家。長男與右衛門昭政(1695〜1768)は享保元年吉宗に拝謁、17年遺跡相続。弟権太夫信隆は服部権大夫信解の養子となる。三十郎弘田は内田八郎兵衛広泰の養子となる。
昭政の長男伊右衛門信次(1722〜1786)は宝暦4年相続。末妹は西城大奥に仕えた。信次に男子なく築山伊右衛門貞暢の二男幸八郎幸成(1754〜)を婿養子とした。幸成の子に伊之助信英、貞八郎某がある。
代々の葬地は市谷浄栄寺。
杢助政重(1579〜1624)は権大夫政光二男。慶長5年より家康につかえたがのちゆえあって蟄居。元和元年父の遺跡1000石を分家。正重の子杢助政次(1605〜1646)は元和2年秀忠に拝謁。寛永元年遺跡を継ぐ。子なきため大久保四郎左衛門忠重の二男杢之助政勝(1633〜)を養子とする。正保3年遺跡を継ぐ。承応3年御書院番となったがのち乱心のため食禄を失う。