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 天照皇朝執権政治説

 

天照大神は男神か女神か、御上神社に祭られている天御影命の役割とは

 

 

作成 2007/01/20 最終更新 2007/06/05 23:32:32

 

 

 この説は、弥生時代中期以降古墳時代まで詠まれていた長歌体の古代和歌を、神武天皇などの命で編纂されたとされる日本最古の叙事詩『秀真伝』(ホツマツタヱ)を読んで、私が思い描いた仮説です。この古文書は、以前は偽書と言われることが多かったようですが、古事記日本書紀魏志倭人伝などと、伝承内容を照らし合わせる作業を丹念に行い、弥生時代中期以降の古墳や古い神社延喜式内社などとの関係を調べた結果、ほぼ正確な実年代で当時のことを伝承していることが分かってきました。そこで、天照大神(ホツマ ツタヱではホツマ文字と呼ばれる古い表音文字を用いて、 アマテルカミなどと表記されている)が人として生きた当時の出来事を調べていたところ、思いもかけない発見がありました。そのことをメールに書いて、本格的に研究なさっている方に報告した文章を、再編集してここに新説として載せておくことにしました。

 


 

 

 ホツマツタヱに使われている暦によって記された出来事が正しいかどうかを調べるには、『古墳誰時ホームページ』に載っている『秀真伝による驚異的な古代史解明図(2001.11.7版)』などが参考になるようです。日本の古い暦は、寿の思想があったため増しが施されていたことがホツマツタヱの記述などから分かります。そのため、天皇の在位期間が不自然に長かったりしますが、増しを取り除くことで、ほとんどの矛盾が綺麗に消え去るようです。それらを考慮しつつ、日本書紀や魏志倭人伝などの歴史資料とも照らし合わせたうえで作られているものだと感じます。しかし、ホツマツタヱの伝承にしたがって、あのような年表を組んでいくと、どうしても目が行ってしまうのは、天照(アマテル)カミが、不自然に長寿なことです。晩年天孫降臨を命じたりもしてしたようですが、それにしても長生きしすぎていると思います。天照カミ以前のアマキミ(後世の天皇に相当)達は、何代かにわたって襲名が行われていた様子ですが、天照カミには襲名などの記述は見当たらないようです。それなのに長寿というのは、やはり何か不自然なものを感じます。この点について、きちんとした答えを出さない限り、ホツマツタヱ偽書説を完全に払い除けることは出来ない印象があるので、さまざまな資料を一日読み漁り、ネット検索で調べあげた結果をまとめて、自分なりの推理を今組み立て終えました。ホツマツタヱを本格的に研究なさっている方々が、私の新説をどうお感じになるか知りたくて、お手紙を差し上げることにしたしだいです。

 

 平安後期の漢学者、大江匡国(1041〜1111)が書いた『江家次第』の中に、七十三代堀河天皇の寛治四年(1087年)十一月四日、伊勢に奉幣使が立ち、天皇の近侍である蔵人(くろうど)が伊勢大神宮へ臨時に神宝を奉るにあたって、「天照大神の御装束の内容は男帝の御装束である」と書いていることなどから「天照大神は男神である」という説が登場してきています。そのため、天照大神は男神だったとする『ホツマツタヱ』の記述も注目されているようです。

 ホツマツタエ 天の巻 1アヤの最後の部分に、天照カミが自ら日の輪にお帰りになる決心をされて、諸臣、諸民を集め、皇后のムカツ姫(神社に祭られている名は瀬織津姫)に遺し法をされています。「私の亡き後、ヒロタ(現・広田神社)に行って、ワカ姫とともに余生を過ごし、女意心を守り全うしなさい。私はトヨケ(豊受)埋葬のこの地マナイガ原で、サルタに穴を掘らせて罷ろうと思う。我は豊受と男の道を守らん。これ伊勢の道なり」と、のたまって洞を閉じさせています。

 この遺言から、天照カミがお隠れになるとき、まだワカ姫は生きていたことが分かります。となると、アチヒコ(思兼尊)・ワカ姫夫妻が神上がった時期から考えても、天照カミの不自然に長寿な点が、疑わしくなってきます。ワカ姫は天照カミの妹と当時対外的に公表されていたが、本当は姉であったとホツマツタヱに記されているので、姉よりも先に死んでいることになります。そこで私が考えたのは、昔の権力者はその死を対外的に隠して、あたかも生きているかのように見せかけることで、長期政権の安定化を図っていた可能性がある点です。とくに重要な鍵となるポイントは、天照カミのヒツギ(日嗣の皇子)であるオシヒト(讃え名はオシホミミ、記紀にいう忍穂耳尊)が生まれつき病弱な体質で、政務に携わることが難しかったとされている点です。そのため、実際にはさほど長寿ではなかった天照カミが、まるで生きているかのように見せかけるトリックを行う必要に迫られた可能性が出てきます。

 しかし、このようなことは、隠そうとしても、どうしても関係者の口から外部に漏れてしまう危険性があります。そこで、当代きっての知恵者とされた思兼尊が、知恵を巡らせた巧みな演出で、朝廷側からの公式発表として打ち出した内容が、今日まで天の岩戸伝説のエピソードとして伝承されているとすると、この推理が話としてうまくその先まで繋がって行きそうな気がします。思兼尊が死者復活の儀式を行うことを思いつき、天君の御影(お姿)を生き写しにした顔立ちの人物を、天照カミ2世役として蘇らせた可能性があります。廃棄王女のワカ姫の育ての親は禊司(ミソギツカサ)のカナサキ(住吉神)ですから、このような宗教儀式をとりおこなう演出の手法を詳しく学んだ思兼尊・ワカ姫夫妻の息子シズヒコ(手力男尊)達の手で、巧みに天照カミ復活を演出するのは、難しくなかったことでしょう。

 天照カミがお隠れになる原因として最も可能性が高いのは、ホツマツタヱに記された、天照カミの后の一人コマス姫ハヤコとソサノオ(須佐之男)の密通事件が発端となって、ハヤコ達がソサノオの名を騙って、「功をたてれば国カミ(国司のこと)にとりたてよう」との流言を流し、天照皇朝への反乱を計ったため、八年間に及ぶ内乱の苦しみの淵へと、国中が呑み込まれていったとされる一件です。須佐之男が暴れて天照大神がお隠れになったことは、記紀にもその伝承がありますから、そのまま起こった出来事と考えるのが妥当でしょう。混乱の最中に天照カミが他界してしまったら、内乱を鎮める手段が無くなってしまいますから、後に残された人々にとっては、その死を隠してでも絶対に天照カミには生きていてもらわなくては困ることになります。思兼尊が知恵を絞って、天岩戸伝説を作らざるをえない状況が生じていたと思われます。

 

 ワカ姫は、ホツマツタヱの伝承を辿ると、その所縁の地に必ずその地域随一の古さを持つ神社の形で足跡を残しています。彼女が3歳のときに、親の厄年の影響を受けないようにと、形だけ捨て子にされたあと、拾われて育てられたことにちなんで付けられた『広田神社』があります。彼女が紀州の地で独身時代に住んでいた宮の跡は、『玉津島神社』として今も残っています。皇后ムカツ姫が同時期に現地を訪れた際に、建てられて残された防衛拠点『國懸神宮』と、お住まいだった宮の跡『日前神宮』なども、その地域で最も古い神社の形で、はっきりと足跡が今日まで残っています。アチヒコ(思兼尊)と結婚した後、しばらくは紀州に滞在して新婚生活を送った時期があったため、所縁が深くなったのでしょう。日前神宮に祭られている神は思兼尊とそれに連なる天の岩戸伝説にも登場する一族で固められているようです。その後、夫妻は野州川のほとり(滋賀県野洲市)に移って宮を造ったとされているので、必ずそこにも足跡が古くからある神社の形で残っている筈です。そう思って探してみると、なんと天君の御影の名残を留めた人物を祭ったとされる神社、御上神社があるではないですか。私は、御上神社に天照大神の孫にあたる天御影命(あめのみかげのみこと)が祀られていること、天岩戸伝説があること、天照カミが不自然に長寿だったことを、偶然の一致とは考えられないと思いはじめました。

 ホツマツタヱ 天の巻 1アヤには、思兼尊・ワカ姫夫妻は、イサナギの遺言に従って、天照カミの日嗣の皇子オシホミミ(忍穂耳尊)の御子守をしつつ、実子シズヒコ(手力男尊)を育て、北陸や山陰を同時に治め、伊勢(男女の絆)を結んで夫婦協力して政(まつりごと)を執っていたとあります。天照皇朝最大の特徴は伊勢の思想にあると思われるため、この伝承は特別な意味を持っている可能性もあります。また、全国各地の農地を巡視する仕事をしていた者達に対して、教え草(ハーブの燻煙)を用いた稲虫払いの除虫方法を伝授したとされています。稲作が全国に定着していった当時、稲虫対策の農業技術指導は、朝廷による統治の要の一つになっていたと思われます。その最先端をいく知識を持っていた当代きってのスペシャリストがワカ姫ですから、朝廷の領地を巡回視察する仕事をしていた者達を実質的に統括していたのが、野洲川の川辺にあった思兼尊・和歌姫夫妻の宮だったことがうかがえます。また、噂を頼りに良家の姫達が自然に集まってきて、ワカ姫が和歌の詠みかたや琴などの演奏の手ほどきをしたことが記されているので、当時の上流階級の教育の中心地でもあったとも考えられます。

 天照カミがお隠れになるとき、大切な中宮の身の振り方をワカ姫に託すようなニュアンスの遺言をしているし、天照カミの没後その死を隠して日嗣の皇子を守り育てながら、天照カミの政権を引き継いで、たとえ意図せずとも実質的に執権政治を行っていたのは、思兼尊・和歌姫夫妻だったように思われます。天の巻 1アヤという、ホツマツタヱの最も初めの部分に、天照大神自身のことではなく、和歌姫のことが中心的に記されているのは、ただの偶然ではなく、天照カミの長期安定政権の出来事が、後々の世までまで伝承される優れた治世となった、最も重要な鍵を握っていたのが、天照カミとこの夫妻が知恵を出し合って敷いた、政の路線にあったからだと考えることは出来ないでしょうか。

 御上神社のミカミという名前ですが、これは天照カミなどに付けられている「おカミ」、つまり政務を取り仕切る国や朝廷のトップに立つ人物という意味が含まれているとすれば、天照政権を受け継いだ、政を行った中心となった宮の跡に残されている神社と考えられます。もちろん、天孫降臨などの勅令は、天津彦根命の子の天御影命から天照カミの名で出されていた時期があった可能性があります。また、御上神社に伝わる、豊作を祝う神事『ずいき祭』は、ワカ姫の稲虫祓いの伝承から、後世豊穣の神という認識が生まれて、感謝の気持ちが込められた神事が誕生して、今日まで伝承されていると考えれば、全ての事柄がぴったり矛盾なく一つのストーリーにまとまってくるような気がします。

 野洲川付近は縄文時代から人通りが多い街道筋に当たりますから、この地域に建てられた神社は、後世いろんな人がさまざまな思い込みの解釈で情報を付け加えてしまっているようです。ワカ姫ゆかりの広田神社が、もとは彼女を拾って育てたカナガキ(住吉大神)を祀っていたことは、今日では社伝からは分かりにくくなっていますが、第一殿に祀られているのが住吉大神なので、ホツマツタヱの伝承と一致することが、ようやく分かるのです。御上神社周辺は、さらに人が多く集まっていた場所らしいので、後世いろんな情報が付け加えられているらしく、紀元前の弥生時代にまで遡って最初の宮の位置やその姿を見極めるのがかなり難しくなっている部分があると感じます。しかし、なぜこの場所に三上山(ミカミ)と呼ばれる山があるのかということや、神格化して祭られている方のお名前を素直に解釈するなら、上記のような推理になるのが自然だと思います。8年も続いた内乱を鎮めるためには多くの兵を動かす必要があったとすれば、野洲市にある兵主大社となって、その痕跡を今日まで留めている可能性もありそうに思います。

 

 なぜ、ホツマツタヱ 天の巻 1アヤが、天照カミ自身のことを直接書くことから始めるのではなくて、その姉ワカ姫の伝承から始まっているのかは、とても重要だと思います。ホツマツタヱでは、天照大神よりも、和歌姫のほうが格が上の扱いになっているようにすら受け取れるからです。もちろん、ホツマツタヱの伝承媒体である古い時代の和歌(長歌)の女神様だからという、従来からの解釈も成り立つと思いますが、天照カミ政権の跡を継いだ思兼尊・ワカ姫夫妻と、影武者役を演じた天御影命達(常に一人が演じていたとは限らない)が、天照カミの優れた長期安定政権の治世の要となっていたからと考えるほうが、説明が容易になると思います。

 ホツマツタヱ 天の巻 1アヤを詠んだのが、和歌姫から和歌の奥義を記したクモクシ文(雲奇文)を受け取り、ワカ姫の当時の名前シタテル姫(下照姫)の名を襲名した、オグラ姫あたりだったとすれば、より理解が容易ではないかと思います。2代目下照姫、またはその周囲にいた可能性がある、ホツマツタヱ最初の歌を詠んで後世に残した人物は、天照カミ自身のことをあまりよく見知っておらず、ワカ姫夫妻のほうにより親しみを感じていたため、まず一番慕っていた和歌姫のことから、順に詠み始めた可能性があるのではないかということです。廃棄王女として一度捨てられたときの経緯や、天照カミの妹と一般には知られているがじつは姉だったことなど、詳細な裏話はよほど親しい付き合いの間柄でないと、知ることが出来なかったと思われます。

 そして、それ以外の多くの天照大神などにまつわる伝承を組織だって編纂して、後世に伝えることができる文化的な集団が形成されていたのは、この地が当時の政治の実質的な中心地だったからだと考えれば、理解が容易だと思います。天照大神のことを赤の他人が語るなど、当時は恐れ多くて出来なかったと思います。つまり、ホツマツタヱが最初に編纂された地は、天照大神に所縁がある人々が集まっていた、御上神社付近の野洲川の宮だったのではないかと思われます。

 

 天照カミ(ワカヒト)とその姉下照ヒメ(ワカヒメ)の存在は、そのイミナ(生前呼ばれていた本名)までもが完全に男女一対になっている印象を受けます。イミナの「ワカ」は名家の跡取りに使われる「」の意味があり、「ヒト」は「ヒコ」(しばしば彦の字が当てられているが、もとは日子(ヒコ)の意味だったと思われる)と似たような意味で、たとえば昭和天皇のイミナが裕仁となっていますが、この「」の字はもともと「日の人」を意味していた名前だった可能性があります。これは、婚前までのワカヒメがワカヒルメ(神社に祭られている漢字は稚日女尊)と呼ばれていた時期があることからも推測できます。したがって、本来の意味に即して「ワカヒト」に漢字を当てるなら「若日人」、「ワカヒメ」は「若日女」とするのが適当なのかもしれません。

 この姉弟二人の名前が男女一対のものになっているのは偶然ではなく、天照カミがお隠れになったあと、もしかするとワカ姫が男装することで、天照大神の替え玉となって影武者を演じていた一時期があったのかもしれません。天照大神が男神とする説と女神とする説が、なにやら記紀編纂当時から飛び交って錯綜しているような印象を受けますが、その根本原因は、天照大神はワカヒト・ワカヒメ二人が演じ、後に天御影命などが天照大神2世となることで、対外的に天照カミが長期間生きているように見せかけていたため、実際に、男性だった時期と女性だった時期があり、じつは両方の説がともに正しい可能性すらあるのではないかということです。ヒルコとして流されているのに拾われて育てられていたり、姉なのに妹扱いされたりと、ワカヒメはなにやらイワクがありすぎる、とっても不思議な方だったような気がします。

 ホツマツタヱと古事記の伝承を見比べると、面白いことが分かってきます。古事記の伝承には、須佐之男命が天照大御神のもとを訪れたときに「弟が来た理由は、きっと忠誠心からではないと」語って、[御髪を解きて、御美豆羅(みみずら)に纏(ま)きて](女形の髪を解いて男髪のみづらに纏めて)男装して弟と対峙したとあります。これと非常によく似た出来事がホツマツタヱの 天の巻 1アヤに記されていますが、そこでは、ソサノオ(須佐之男命)は天照大神ではなく、姉のワカ姫に会いに来たことになっています。もしもこのとき、すでに本物の天照カミがお隠れになっていて、ワカ姫が男装して天照カミの替え玉を勤めていたとしたら、どうなるでしょうか。古事記の伝承とホツマツタヱの伝承をミックスすると、先の8年にもおよぶ内乱事件を、心のわだかまりとして持っていたワカ姫が演じる男装の天照大神と、サスラオ(漂男)姿の須佐之男命が対峙した状況は、両文献とも同じ出来事を伝えているように見えます。ホツマツタヱでは、ソサノオは宮の戸を閉ざされて姉と直接面会することが許されず、ワカ姫に「真意(サゴコロ)は何ですか」と問われて、「ネ(北陸)に着いた後に子をつくって、もしも女の子(メ)だったならば我が身の汚(けが)れだが、男の子(オ)ならば私の潔白さは証されるだろう。これは誓いだ。」と答えています。これは記紀に描かれている宇気比(うけひ)の記述と、具体的な会話の内容などが多少異なって見えますが、伝言ゲームなどに認められる変質と似たようなもので、両者の記述に差が生じているのは、情報を発信する者の間で意思疎通が十分でなかったことと、伝承経路や文書化によって伝承が固定された時代が異なるため、後世のさまざまな憶測が入り混じって書かれているためと思われます。

 ここで注目すべきは、ホツマツタヱと古事記の記述に認められる、男神と女神の矛盾点は、ワカ姫が天照カミの替え玉を勤めていたからだとすることで、一気に解決されてしまう点です。ホツマツタヱの詠い手達は、天照カミが本当にお隠れになった時期などは、いちおう伏せていますが、姉がいたことなどを隠すことで、天照カミに替え玉がいた事実を悟られないようにする配慮をしていないように思います。 記紀は、中国との外交政策を有利に展開するために作られた資料と考えられるため、今回私が試みているような、少し考えれば誰でも気が付く謎解きが、相手国の知恵者によって行われる可能性を排除する目的で、伝承からワカ姫の存在を綺麗に消し去っている可能性もあります。このことから、ホツマツタヱのほうが記紀に先行して存在していることが分かります。ホツマツタヱが近代になって捏造された偽書という通説は、どうも間違っているのではないかと思います。もちろん、紀元前の昔からの伝承を原形のまま留めている保障はありませんが、記紀と記述が若干異なる内容を持ちつつも、ほぼ同じ事柄を伝えている点は、逆に注目に値すると思います。つまり、古事記とホツマツタヱは、同じ出来事が異なる発話者によって異なる視点から発信されて、異なる経路で伝えられ異なる時期に文書化されているため、どちらもがある程度のオリジナル性を持っており、どちらかが一方を参考にして作られた、単純なコピー作品ではない可能性があるということです。伝承に含まれる哲学的な概念や世界観の豊かさ、情報の密度や間違いの少なさから言えば、文書化された時期が古事記よりも遥かに古いと思われるホツマツタヱのほうが優れていると感じます。

 ワカ姫が没後神上がってから、トシノリ神(歳徳神)と称えられたのは、方位と暦に関わりを持つ、フトマニに記されたモトアケと呼ばれる図を用いて物事を判断する神事などの政務を、ワカ姫が代行していたからだと考えれば説明が付きます。16の方位に向かって四十九(ヨソコ)神を配置した、モトアケと呼ばれる当時の哲学的な世界観を表した宇宙図は、豊受カミが作ったものとされます。その体系があまりにも複雑で、ヱトの卦を理解する方法が容易ではないものだったため、天照カミは解釈の助けとなる128首の古代和歌を詠って、ヱトの卦を分かりやすく解説してフトマニという編纂したようです。これは朝廷が大切な物事を判断して決定するときに使われていたもので、当時は最も重要な意味を持つ政務の一つだったと思われます。そのため、モトアケは皇室を表す菊の御紋章の図柄にも16枚の花びらとして反映されて、今日まで伝わっていると指摘する人もいます。もしも、ワカ姫が歳徳神と称えられた理由が、当時の朝廷で最も重要視されていた意思決定の神事などを、天照カミの没後代行していたことにあったとすれば、天照大神ワカヒト・ワカヒメ二人説が、さらに強まることになりそうです。

 

 天照(アマテル)朝の執権政治の中心にいて天孫降臨の勅命などを出していたのが、御上神社に祭られている天御影命達天照カミの影武者だったとすれば、天照カミがどうしてではなく大神という格付けで没後に神格化がなされたのかも、容易に説明できると思います。執権天御影命が政を取り仕切る勅命を出すためには、神格化された天照大神の存在がどうしても必要不可欠だったからではないでしょうか。弥生時代や古墳時代の葦原中国に本拠を置いていた天照朝廷は、銅鐸祭祀集団だったと考えられており、野洲町の大岩山からは、日本一のサイズを誇る銅鐸などが多数出てきていることから見ても、ホツマツタヱに記された思兼尊・和歌姫夫妻が宮を構えて日嗣の皇子を守り育てながら執権政治を行っていたとされる、野洲川周辺の地域が、大規模なマツリゴト(神事などの祭りごとと政は、同一の意味を持っていたと思われる)の中心地となっていた一時期があったことがうかがえます。後に神武天皇が作った大和朝廷は銅鐸嫌いで、その系統の神事を全て消し去ってしまったという説があり、その影響がホツマツタヱの編纂にも及んでいるため、銅鐸に関する記述が一切存在しないと考えられますが、実際にこの地域で最も多く出土している事実は見逃せないのではないかと思います。

 没後業績のあった人を神として神社に祭る風習は、当時の執権政治の性格上、必要に迫られた天照大神の神格化あたりから本格的に始まって、朝廷の勅命で要所に人心掌握のための神社が次々とを建てられていったものと思われます。そのため、ワカ姫達の足跡に沿って、ゆかりの地で一番古い神社が建てられて、今日まで残っているのだと思われます。また、伝承媒体のワカとヲシテが成立したのが、ちょうどこの頃だったことも関係しているのかもしれません。ホツマツタヱは、今日まで残された神社と祭られている人物の名前の照合などによっても、その伝承内容の正しさを裏付けることが出来るため、弥生時代から古墳時代にかけて起こった出来事や統治の形態、古代神道哲学などをほぼ正確に知ることができる歴史資料になりえると思われます。

 


 

 

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