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味な話の素
No.51 2007年07月号(1543-1573)
 
仲良しライバル(07/07/31 Tu-1573)
 商社マンだった人の本に、スペインとポルトガルの仲は必ずしもよくなかったと書かれていた。今月はじめにオーストリアに行ったが、その際も隣国のドイツとオーストリアは仲がよくないという話を聞いた。この2つの例は実際に読んだり聞いたりしたことだが、同じような事情は世界共通なのかと思う。何といっても人ごとではない。わが国と中国や韓国との関係は必ずしもいいとは言えない。北朝鮮に至っては、政治的な意味合いも加わってまったくうまくいっていない。人にしても集団にしても、そして国にしても、お互い仲がいいのが理想だ。ところが、それがなかなかうまくいかないのである。その理由はいろいろあると思う。まずはお互いに類似している%_が大きい。われわれは何かを比較するとき、基準を設定する。こちらの方が大きい、強い、速い、…。この際、比較する物差しが必要になる。そこで類似点が少ないほど、また関係が薄くなるほど、比較する基準も少なくなる。そんなわけで、自分とかけ離れたところにいる者とは比較する気にもならない。子どもたちが運動会で走るときも、身近な競争相手が気になるのであって、短距離の末續選手と比較することなどあり得ない。こうして物理的・心理的に近いほどライバル意識が高まる。その結果としてしっくりいかなくなるのである。さすがに血が繋がった兄弟姉妹ならそこまではいかないだろうと思ったりする。しかし、角界で人気を独占した兄弟横綱も、その後は唖然とするような仲違いが明らかになったりした。これが兄と妹、姉と弟になると、様子が違ってくるのではないか。性別の違いがあるから、それだけ比較する基準が異なってくる。どうすれば、仲のいいライバル関係を築けるんでしょうかねえ…。
異動の知恵(07/07/30 M-1572)
 今月の初めに異動について書いたことがある。今日はちょっとその続きを。異動≠ヘ移動≠ナないところに意味がある。ただ横滑りするのではなく、本人自身が異なる=Aつまりは変わる≠アとを期待されているのである。うまくいっている人にはさらに飛躍のチャンスを与えることになる。もちろん、そうでない人も心機一転、新しい環境で再出発することができる。この世の中で、変化≠ヘ成長≠フキーワードである。人間そのものが、自分で気づかないままに、いつも体の構成物は変化している。いわゆる新陳代謝である。そうでなければ生きていけない。それは組織だって同じことである。前向きに変化≠導入することで健康を維持することができるのだ。このごろは地方自治体の首長についても多選が問題視されている。権力の座に長く座っていると周りはイエスしか言わない人間ばかりになってくる、そうなると組織の空気が澱んで、不祥事が起きたり、とんでもない決定がなされたりするのである。とくにトップが自分しかいない≠ニ思い込みはじめたらおしまいだ。それは周りにそんな気にさせる人間しかいなくなっている証拠だ。こうなると、もう自分が見えていない。アメリカ大統領は2選まででおしまい。それが歴史の知恵というものだろう。それにしても、ものすごい多選の記録がある。県知事のレベルでは8選の人がいた。これが市長になると10選の記録がある。さらに町長に至っては何と13選だ。いずれにしても、周りはトップに対して潮時≠ネんて言えない。自分から気づかないといけないのだ。そんなこと言ってる私だが、現在の職場で28年目にもなる。この間、異動≠ニはまるで縁のない生活を送ってきた。定年まで何年かしらね…。
最初の顔(07/07/29 Su-1571)
 空港で乗ったウィーンのタクシーはきわめていい印象を与えた。だから町も美しく住んでいる人もいい人たちに思えてくるのである。その上、ドイツ語が中心といいながら、この地の人は英語も上手だ。もっとも、語順などが類似していて、単語を入れ替えるだけでもうまく通じるらしい。語学力が世界でも抜きんでて低いといわれる、わが日本民族にとって、じつにうらやましい話ではある。それはともあれ、ウィーンで大いに評価したタクシーだったが、これと対照的なのがプラハのHolesovice駅だった。ホレショビツェ≠ニ読むらしい。この駅は欧州各地からの列車が出入りする国際駅だと聞いていた。その上、タクシーもややこしいという情報ももらってはいた。しかし、現実は文字通り聞きしにまさる≠烽フだった。本欄の6日付でも書いたが、まともなタクシーがいないのである。人に言えないようなややこしい場所に出かけてタクシーを探すというのなら自己責任も問われるだろう。しかし、そこは国際線≠フ駅なのである。外国人が降り立つ最初の顔ではないかいな。しかもチェコの首都ときているから、これは大問題である。体のゴッツイ運転手とおぼしきおっさんがやってきて運賃の交渉に入る。こっちも領収書をもらうぞと@hさぶりもかけたが、最終的にはけっこうな料金で乗ることにした。そのかわりチップも込みだと主張した。まあ案の定というか、メータはセットしないままで走った。ホテルに着いてから領収書も取ったし、つりもきちんともらった。そのおつりの出し方がいやいや≠サうに見えたのは、私の気のせいかしらね。それにしても国の顔としてこれはまずい。それは一部の人間に対する評価ではなく、国全体のものとして増幅されるのである。
タクシーと町の印象(07/07/28 Sa-1570)
 ときどき思い出したように、今年のヨーロッパ行きに関連した話題を取り上げてみよう。今日はすでに触れたことのあるタクシーのネタだ。その対応がウィーンとプラハで大違いだった。まずはウィーンの空港から市街地のホテルまでタクシーに乗った。海外の場合はどうしても荷物が多い。そこでついついタクシーを使う。運転手は30代くらいの若者に見えた。街中を走りながら、あれが○○だ、こっちに□□がある≠ニいった具合で、上々のサービスである。当然のことながらメータを倒して走ったが、料金はきわめてリーゾナブルだった。目的のホテルに着いたので、メータの数値を見て成田で変えたばかりのユーロ札を出した。そこで私の方からチップがわからないので、その分を取っておつりをちょうだい≠ニ伝えた。これに対して運転手はちゃんとおつりは返さないといけない≠ニ答えて、きちんとした金額を戻してきた。なかなか真面目な運転手さんではないか。外国に着いた最初としてはかなりの好印象である。そこで気持ちだけプラスした感じで改めてチップを手渡した。それが適切だったかどうか知らないが、トランクから荷物を降ろす際に名刺をくれた。日本に帰るときにも電話してくれというわけだ。なかなかいい雰囲気だったから、できればそうしたい気分になった。しかし予定としては、ウィーンからプラハに移動することになっていた。だから、空港までタクシーを使う予定はなかった。まあしかし、そんな細かい事情を告げることもないだろう。そんなことを考えながらThank you≠ニ応えておしまいになった。それにしても、海外に着いて乗る最初のタクシーは、旅行者の印象に大いなる影響を及ぼすものだ。これだけでウィーンがいい町に思えてくる。
五右衛門、真っ青(07/07/27 F-1569)
 石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ =Bかの有名な大泥棒の石川五右衛門が、それこそ煮えたぎる五右衛門風呂で処刑されたときの辞世の句だそうな。海岸を埋め尽くす砂粒がなくなっても、悪いやつはいなくならない。何とも厳しいことをおっしゃったものである。このごろは埋め立ても進んで砂浜もなくなってきた。しかし、ややこしいことをする連中は、五右衛門さんの時代よりもはるかに増えている。さらに犯罪は手が込み、どんどん凶悪化している。いま五右衛門さんが生きていたら、真っ青になることだろう。このごろは一国の大臣さんだって、かなりややこしいことをなさる。法律を守っている≠ニいう理由で、怪しげな会計処理について曖昧な回答をして済ませる。これって子どもには悪いなあと思う。法律さえ守れば何をしてもいいなんて勘違いしないでしょうねえ。そうそう、ほんのこの前も、たとえ話に具体的な病名を挙げて猛顰蹙を買った大臣もいる。その人権感覚には唖然とする。これじゃあ子どもに示しがつかない。弱い立場の人を例にして笑いを取っていいのかと思ってしまったら大変だ。まだまだ。牛肉と称して豚や鳥の肉を混ぜた人もいたっけ。そうそう、オレオレ詐欺≠チて、一体全体何なのよ! ニュースによれば、またぞろ数千万円もの大金をだまし取られたお年寄りがいるらしい。やれやれ、いちいち挙げていけば、それだけで疲れてしまう。こんな大人が作る社会の中で子どもたちは生きている。青少年たちだけに真面目にやれ∞悪いことはするな≠ニ叫んでみても、迫力などありゃあしない。子どもたちの荒廃は、何のことはない、大人社会がおかしくなっていることの反映なのである。それだけ大人の責任は重い。
大人製の環境(07/07/26 Th-1568)
 人間の行為が遺伝と環境要因の掛け算だということは何となく分かる。しかし、それぞれの影響がどの程度なのかまではっきりしているわけではない。ただ、環境の力がかなり大きいことは推測できる。子どもたちの目を覆うような問題行動も大人が作っている環境によって影響を受けているのである。女子高校生の援助交際だって、彼女らに金を払う大人たちがいるから成立している。その中には、分別を備えていると考えられている50代のおっさんたちも含まれる。まさにわれわれ世代ではないかい。もちろん、私はやってないですよ、念のため! 彼らは少しばかりは自由になる金も持っているから妙な行動に走る。こんな連中にはこのごろの子どもたちはひどい≠ネんて嘆く資格はない。ともあれ青少年の問題行動の前に、大人たちの堕落があることは疑いない。日々のニュースを見ても、とにかくひどい大人が多すぎる。九州のある町で町議会の副議長が酒気帯びで捕まった。その弁明がものすごい。歯が痛くなって、それを治めるために「焼酎」でうがいをしたという。その後に水で口をすすいだがアルコールが残っていたんだそうな。ほんまかいな。その人、ひょっとしてうがいをしてから焼酎を飲み込んだんじゃないでしょうねえ。たしかに時代劇では傷口を癒すのに酒を口に含んでプーッと吹きかけたりする。昔の映画ではよく見たシーンだ。まあその手で痛みを抑えようとしたというわけか。それこそ、プー≠チと吹き出してしまった。あれだけ飲酒運転が問題視されていても、酒気帯びを含めてアルコールがらみでとっ捕まる大人が後を絶たない。こんな状態で、子どもたちだけに品行方正に生きていけといっても迫力がない。子どもは大人をじっと見ているのである。
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遺伝×環境(07/07/25 W-1567)
 人間を含む、この世のあらゆる生き物が遺伝の影響を受けていることは疑いない。神の業ではないかと思うほどの巧みな遺伝子の働きで、人間は人間になるし、猿は猿になる。われわれ人間もしっかり父親と母親からDNAを引き継いでいる。その結果は体型や顔貌といったところに現れてくる。もちろん、親子が似ている程度には差がある。しかし、学期末の三者面談などにやってくる親子を見ると、失礼ながら吹き出したくなるほど同じような体型と顔をしたペアに出会ったりする。街中でも、これは親子であることが間違いないと確信できる組み合わせが少なくない。そこで、個々人の行為も遺伝≠ェ効いているはずだと考えたくなる。しかし、体型といった身体的特徴を超えた行動になると、遺伝の影響だけで説明することは難しくなる。そこに、いわゆる環境の力が働いていると思われるからである。たとえば親が日本人であっても、海外で育てば子どもたちは相当に違った思考をするようになる。そもそも日本語でものごとを考えないから、われわれと発想が異なるのは当然である。これは生活している文化という環境によって、思考や行動が影響を受けている典型的な例である。人間は外からの働きかけに対して、じつに柔軟な対応ができるのである。だからこそ、あらゆる環境の中で人間は生き続け、繁殖してきた。酷暑の赤道直下だろうと極寒の地だろうと、人間はたくましく生きているのである。まあ、そんなわけで人間の場合は、行為=遺伝×環境≠ニ考えた方が無難だということになる。もっとも、科学≠フ世界では、すでに遺伝子のコントロールが可能になっている。特定の病気の対策や治療には役立つのだろうが、このまま行くとどうなるんかいなと気にもなる。
胎内訓練(07/07/24 Tu-1566)
 赤ん坊は母親のおなかの中で練習してきたに違いない。周りの大人たちに何とかわいいことか≠ニ思わせるような練習を…。どう考えてもそんなことはあり得ない、しかし、そう思わせるほどかわいいものだ。その赤ん坊を捨てる、殺す、虐待する。そこまで追いつめられる事情があるのかどうか知らない。しかし、どう考えてもまともには信じられない。地球が温暖化しておかしくなっていると言われる。氷河が消え、北極の氷も失われている。生きる環境の激変とともに、人間の精神構造も変化しているのか。そんな不安に陥ってしまうような状況が続いている…。ともあれ、はいはいしはじめた孫については、一挙手一投足が見逃せない。世の中のものすべてが興味関心の対象だから、つぎはどこへ行くか分からない。こんな状況だから母親は大変である。大人の目から見れば危ないこともする。手を出してはいけないモノにも手を出す。しかし、行為のひとつひとつが好奇心から出てきたものである。当の本人にはいたずら≠しているという自覚もまだない。とにかく、身の回りのすべてのことを知ろう≠ニいう動機づけにあふれているように見える。生まれてきたときから、意図的に犯罪行為≠考えている子どもなんているわけがない。しかし、人間の世界に犯罪があるのは動かしがたい事実である。どこから見てもウブで純粋に見える赤ん坊が、どうして希代の犯罪者になったりするのだろうか。もちろん、その一方で神様と見まがうほどの聖人も出現する。人間の行為は遺伝のような体質に影響されるのか。それとも環境のなせる技なのか。何分にも人間の行動だから、これしかないという原因は特定しにくい。最終的には両者の掛け算というあたりに落ち着くことになる。
このごろの子どもたち(07/07/23 M-1565)
 このごろの子どもはどこかおかしい。万引きなどの犯罪はもちろんだが、殺人といった凶悪な事件が多発するようになった。援助交際などという売春行為に走る女子高生なども大いなる問題だ。もっとも、情報網が発達して何でもかんでも瞬時に全国的に知れ渡るようになった。その昔だって同じようなひどいことは起きていたが、その地方で抑えられていた。だからいまほど犯罪が目立たなかった。そもそも戦後間もないころは、少年たちが大人顔負けのたかりに揺すり窃盗に強盗だってやっていたんだ。まあ、そう言われれば、そんな側面もあるとは思う。しかし、それにしても犯罪の低年齢化、凶悪化が気になることは変わらない。こうした現実を前にして、大人たちは不安でいっぱいになる。その結果、これから先の世の中を心配する。その原因として、若者たちのモラル低下を嘆くのである。たしかにそうなのだが、こうした事態が起きている原因はどこにあるのだろうか。子どもたちの性根がいつの間にか歪んできているのか…。まだゼロ歳児の孫を見ていると、この世に生まれた子どもたちがどんなに純粋かが分かる。息子や娘が赤ん坊だったころのことは、すでにその大半を忘れている。そして30年ぶりに現れた目の前の赤ん坊はじつにおもしろい。このごろは、はいはい≠フスピードも上がってきた。左右の手と足の使い方もスキルアップしている。部屋の中をあっちに行き、こっちにやってくる。目の前にあるモノはすべてチェックの対象になる。仏壇なんぞもかなり興味をそそるようだ。そのまま立ち上がれば天板で頭をごつんとすることが予想されるテーブルの下に行って、椅子に手をかけて立とうとする。ちょっと先に起きる可能性のある結果を見通すことができない。
小から大を生む(07/07/22 Su-1564)
 松本清張氏によれば、デビュー作「西郷札」のアイディアが浮かんだのは、たまたま百科事典でその項目を読んだときだった。「賊軍の発行した軍票の西郷札が投機の対象になったのは、その前に岩崎弥太郎による藩札買占めの例があるからで、納得性があると思った。まさか(自作が)当選するとは思わなかったが、予選の通過者の中に自分の名の活字を見つけたときはうれしかった」というのである。百科事典の項目からストーリーを思い描く。すばらしいなあと思った。それがいつのことか記憶にない。おそらく20代前半だっただろう。これと同じようなイメージを芥川龍之介に対しても持っていた。黒澤明監督の「羅生門」は芥川の「藪の中」をもとにしている。その「藪の中」は「今昔物語」の短いストーリーをベースに創り上げたものである。松本清張と芥川龍之介はまるで正反対とも思える作家である。しかし、小さなネタをもとにして人間模様を映し出す物語を創作する点では大いなる共通点がある。若い私は、それがとてもすばらしいことだと思えたのである。もちろん、私自身には作家になるような能力はなかった。また、その気持ちもなかった。しかし、小さなことからヒントを得て、それを大きなものに育てていく。そのことに強く惹かれた。私は高校1年生のときから日記を書いている。その日記のおかげで、ちょっとしたことをもとに、いろいろなことを書いていく習慣が身に付いてきたような気がする。さまざまなアイディアが浮かぶと言えば聞こえがいいが、けっこう妄想的なところがあるのも事実だ。しかしそれはともあれ、しょうもないことでも大げさに膨らます力≠セけは逞しくなったような気がしている。そのおかげで味な話の素≠熨アいている…。
西郷札のヒント(07/07/21 Sa-1563)
 私もそろそろ先が見えてきた。なにせ孫まで出現する年になったのである。そこで数年前から大学の研究室でも身辺整理をはじめている。放っておくと、モノは貯まる一方になる。そこで大原則を立てた。入るものよりも出すものを多くする=B毎日のように文書や郵便物が送られてくる。それを少しでも上回る量のものを整理するのである。そうすればものは必ず減る理屈だ。もちろん、簡単に捨ててはいけない文書がある。採点済みの回答も一定期間保存しておかねばならない。だから右から左と整理はできないのである。世の中はなかなかむずかしい。しかし、その中で本などはかなり思い切って処分している。学生時代に買っていた文庫などはほとんど手元からなくなった。じつは松本清張氏の自伝のような本もその対象になって、すでに私の本棚から消えている。それには清張氏のデビュー作「西郷札」を書いたときの裏話が書かれていたはずなのである。何とかならないかとインターネットで探してみたら、その部分を掲載しているホームページがあった。さすがに情報社会、すごいもんだ。それによると、初出は光文社カッパ・ノベルスの「松本清張短篇全集1」の後書きとして書かれていた。1963年12月の発刊である。私が読んだのは、その後書きを再掲したものだったに違いない。その一部を引用してみよう。「『西郷札(さいごうさつ)』は昭和26年に書いた。いわば私の処女作品である」「この小説は、当時『週刊朝日』が募集していた"百万人の小説"に応募するためのもので、締切りにだいぶん遅れて出したことを憶えている。作品のヒントになったのは、たまたま百科事典の中で"西郷札"の項を読んだときである」。じつは、この部分が私を強く刺激したのである。
アカデミズムいろいろ(07/07/20 F-1562)
 電子版広辞苑によると、アカデミズム≠ヘ「学問・芸術至上主義。また、学問・芸術における権威主義的傾向。官学ふう」と解説されている。全体として否定的≠ネニュアンスが感じられる。とくに学会のおける「権威主義」などはマイナスの象徴である。自分たち以外からまともな意見を言う者が現れても意図的に無視する。その際に権威を笠に着る≠フである。これじゃあまずいに決まってる。もっとも、権威主義≠ノは「権威に対する自己卑下や盲目的服従」も含んでいる(広辞苑)。そうした態度が権威による圧迫をさらに強めることになる。もっとも、昔に比べれば最近は「権威主義」ということばも「権威」を失いつつあるとは思う。それだけ権威≠ェあるとされた組織や人々がいい加減なことをするからである。ところで、アカデミズム≠電子版スーパー大辞林で引いてみると、少しばかり感じが違った。「@学問研究や芸術の創作において、純粋に真理や美を追究する態度。A伝統的・保守的な立場を固持しようとする学風。官学風の学問的態度」となっている。少なくとも@については否定的ニュアンス≠ヘない。Aの方はプラスのイメージはないが、権威主義的≠ニいった明らかに否定的なことばも使われていない。なかなかおもしろいと思いませんか。辞書が違えば、その解説の内容が異なってもおかしくはない。なにせ書いた人間が違うのだから。それはそうなんだけれど、このアカデミズム≠ネんぞは同じ用語にしては受け取る際の印象が相当に違ってくる。最近ではどうなのか知らないけれど、広辞苑≠ニいえば、長い歴史を持った、まさに権威ある辞書だと思う。ことばを複数の辞書で確認する。これまたけっこう楽しめるんではないですか。
実証性(07/07/19 Th-1561)
 さて松本清張氏のネタも今日で4回目になる。まだ、そもそもの発端であるほんまかいな≠フ話題にまで到達していない。いつものことである。じつは、ほんまかいな≠ニ思ったのは、保阪正康「松本清張と昭和史」を読んでいたときである。「昭和史発掘」について書かれた部分につぎのような文章があった。「昭和前期の現代史のとらえ方は『昭和史発掘』の後、かなり変化してきた」「アカデミズムにも『実証性を尊ぶ』という方向性が促されることになり…」。「歴史」はまさに事実を追究することが目的であるはずだ。だから信頼できる資料をもとにして客観的に研究されるものである。そこに研究者≠フ主観や個人的な主張が入れば、それを科学と呼ぶことはできない。そうした当然と思われる視点が、昭和前期については「昭和史発掘」が出てはじめて出てきたというのである。正確には著者は「変化してきた」と表現しているが。たしかに戦時中は、いまから見れば実証的とはいえない「歴史」もあったと聞く。しかし、それにしても「実証性」が定着するのに「昭和史発掘」の影響が大きいというのは、それが事実とすれば学会にとってかなり寂しい話である。歴史研究者たち自身が、少なくとも戦後しばらくは自らの手で「実証性」を重んじなかったのか。そこで私としてはほんまかいな≠ニ思ったのである。いわゆるアカデミズム≠ニいうことばがある。「学問・芸術至上主義」なんだそうな。また「学問・芸術における権威主義的傾向。官学ふう」とも解説されている(いずれも広辞苑)。どうもいけないなあ。自分たちの仲間以外を「素人」と呼んで寄せ付けない、無視する。内輪の論理だけで議論して満足し、権威を笠に着て自分たちの正当性を主張する…。
日常の隙間(07/07/18 W-1560)
 松本清張の「点と線」はちょっとした偶然の出来事からはじまる。当時の東京駅の13番線ホームから15番線が見通せるのは1日で4分間だけだった。それだけ頻繁に列車の発着があるからだ。そのわずかな時間に、香椎で亡くなった2人があさかぜ≠ノ乗る姿が13番線にいた知り合いたちから見られるのである。それは偶然≠ナはあるが、しかしこの程度のことなら大いにありそうなことだ。問題のあさかぜ≠ヘ夜行の寝台特急である。いまでは新幹線が走り回り、航空機も庶民の足になった。サンダルやスリッパ履きの若者が電車やバスに乗るように利用している。そんなわけで、九州から大阪や東京にも夜寝ずに行けるのである。昔は寝台の列車で東京に出かけていたなんて、若い人には信じられないことだろう。まあ、そんなことで寝台特急はすでに壊滅状態である。いまでも日本海≠ネど、北海道までちょっと贅沢な旅をという人たちが使うものが数本しか残っていない。特急寝台あさかぜ≠ヘ東京と博多を結んでいた。清張氏は九州の人間だから自分でもあさかぜ≠ノ乗ったことがあるのだろう。実際に利用したときに、この4分間の間隙≠発見したのかもしれない。ともあれ、小説では東京駅で知人から見られた2人が、九州の海岸で死体としてる発見されるのである。情死にしては不信なところがあると直感した刑事が動き出して物語が展開する。最終的には某省に関わる汚職事件に繋がっていくことになる。初めて読んだのは中学生のときだったから、大人の世界にうごめく問題などはほとんど理解できなかったはずだ。しかし、わずか4分という現実の時間を見つけ、それをもとにして小説を組み立てていくという手法には大いに感心したことを憶えている。
点と線≠ニ香椎(07/07/17 Tu-1559)
 叔父の家にあったアルバムにも松本清張氏の自宅で撮った写真などがあった。そんなわけで、私は中学生のころから清張氏に関心を持った。清張氏の「点と線」は氏の社会派としての地位を築いた話題作である。昭和33年にカッパのマークの光文社から出版されている。その推理小説の事件は香椎の海岸ではじまる。そこに男女2人の死体が横たわっていたのである。香椎は福岡市の東区にある。私が中学2年生のとき父が福岡に転勤になって、香椎にあった公務員住宅に住んでいた。叔父から清張の話を聞いたこともあって、中学生の私はカッパブックスを一気に読んだ。国鉄香椎駅から西鉄香椎駅の踏切をやり過ごして海に向かう。その描写は自分が住んでいる街であるだけに、一字一句に生々しい迫力を持っていた。本には香椎の海岸の写真も掲載されていた。その場所を探しに行ったのは言うまでもない。しかし、いまでは香椎海岸はなくなってしまった。博多湾全体が埋め立ての対象になって見る影もない…。松本清張は社会派推理小説の元祖と言われている。推理小説そのものはすでに江戸川乱歩のような大物がいた。金田一耕助で知られる横溝正史もその代表と言えるだろう。しかし清張以前の推理小説は、犯罪のトリックを解明することに重点が置かれていた。読者が想像すらできない奇想天外なトリックを考える。それが推理小説家の腕の見せ所であった。読者も今度はどんな仕掛けがしてあるか、それを見抜きたいと思いながら本を読んでいったのである。これに対して清張氏の場合は、そうした犯罪が起きる社会的な要因に焦点を当てた。事件が小説の世界だけのことでなく、普通に生活している一般庶民にも起こりうる。そんな設定の中で話を展開していったのである。
ほんまかいな(07/07/16 M-1558)
 本を読んでいると、ほんまかいな≠ニ驚くことがある。保阪正康著「松本清張と昭和史」(平凡社新書)でもそんな部分に遭遇した。まずは松本清張の「昭和史発掘」が多くの資料を集めて、それに基づいた分析を行っていることが強調されている。私も「昭和史発掘」はかなり前に読んだ。この膨大な量の作品の裏には、文藝春秋の藤井康栄氏の徹底した資料収集が貢献していることは知っていた。さらに、当時の編集長であった半藤一利氏のバックアップも大きかったようだ。その昔、松本清張氏は小倉の朝日新聞に勤めていた。ただし、いまで言う正社員ではなかった。そのためもあってか、それともご本人の性格も影響していたのか、かなりひどい差別的な待遇を受けていたという。それに対する反骨精神が驚異的な数の作品を生んだとも言われている。その小倉時代の仲間の一人に私の叔父がいる。清張氏よりも一回りほどは若かったが、それなりに相性があったらしい。叔父もその当時よくいた文学青年だった。清張氏が世に認められた最初の作品「西郷札」についても、小倉の海辺で下書き原稿の朗読を聞かされたという。文藝春秋臨時増刊号「松本清張の世界」(1973)には、「小倉時代の武勇伝」という原稿を寄せている。小倉で行われた芥川賞受賞パーティの写真には叔父宛のサインもあった。叔母によると、この写真を掲載するというので、新聞社かどこかに渡したら、そのまま戻ってこなかったらしい。松本清張氏は1992年8月に83歳で亡くなった。かなりの年齢差はあったが、わが叔父も同じ年の12月にあの世に逝った。やれやれ、いつものことながら、表題のほんまかいな≠フ内容まで入ることができませんでした。これまた3回くらいにはなるでしょうか。
細かあい…(07/07/15 Su-1557)
 とにもかくにもあわただしい東京の地下鉄に乗った。朝9時台のことである。それほど混んでいなかったので一安心した。何せこのごろは大都会の満員電車は要注意である。男がラッシュ時に乗るときは万歳していた方がいいらしい。中途半端に手をぶら下げていようものなら、いきなりこの人痴漢です≠ニ叫ばれるおそれもゼロではないようだ。そうなってしまうと一大事。もちろん、妙なことをやっていれば自業自得ということだが、そうでない場合も大変なのである。そんな話を題材にした実録気味の映画「それでもボクはやってない」を観たが、とにかく凄まじかった。このごろ話題になっている「裁判官の爆笑お言葉集」の著者によると、「それでもボクはやってない」は現実の裁判過程に近い演出だったという。やっていない≠アとを証明するのはきわめてむずかしいのである。そんなわけで、それほど混んでいない電車を見てまずはほっとした。電車に乗って間もなくして車内放送が流れた。ただいま3分ほど遅れて運転しております。お急ぎのところご迷惑をおかけいたします=Bこれを聞いて、なぜか自然に笑いがこみあげてきた。ここは日本なんだなあ=B朝の9時過ぎとはいえ、まだ通勤客も乗ってはいるだろう。しかし、そうではあるのだが、わずか3分≠フ遅れでお詫び≠するのが日本なのである。つい先だってだが、ウィーンから電車に乗ってプラハまで行った。その際は、20分近く遅れて着いたが、当然 ながらお詫びの放送など気配すらなかった。そんなことを思い出しているうちにつぎの駅に着いた。するとまた車掌さんの声が聞こえてきた。ただいま運転間隔調整のため、これから30秒ほど停車いたします…”。また笑みがこぼれた。
せわしない(07/07/14 Sa-1556)
 ときおり東京に出かける。大阪に行くこともある。とくに駅の地下を歩いていると人の多さに目が回ってしまう。熊本でも下通≠竍上通≠ニ呼ばれる繁華街がある。ここはかなりの長いアーケードだ。道幅も広くて私個人は、こんなに長い天井付きの街は見たことがない。これは日本一ではないかと思っているのだがどうだろうか。ともあれ、このアーケードはけっこう人が多い。かなり前になるが熊本のお城祭りかお盆のイベントにお笑いが来たことがある。それを見に行ったときも、下通≠歩いている人の多さをネタにしていた。ただし、熊本はあそこしか行くところがないからだろう≠ニいう落ちで笑いを取っていた。それはそれで笑えたが、このごろは熊本でもどでかい郊外型のショッピングセンターが乱立気味だ。そのために中心街の人が減っているという。さすがに熊本市の場合は、シャッター街とまではいっていない。しかし、市内でも少し周辺の商店街になると、けっこう厳しい状況にある。ともあれ、中心街ではまだ人はけっこういるが、買い物がメインなのでせわしく歩くという感じではない。これに対して、東京や大阪の駅下になると動きが激しくなる。とにかくぶつからないように避けながら前進する。これが大いに疲れるのである。目の前に動いている人がたくさんいるだけで目が回る。まあ余計なお節介だけれど、あれではストレスもたまるんじゃないかと思ってしまう。つい先だって行ったオーストリアやチェコでは、一見したところ、そうしたすさまじさは感じなかった。これがアメリカのニューヨークなんぞ似なると東京と同じなのかもしれない。第3者的に見ていると、まるで、歩く速ささえもが成果≠ニして評価されるがごとき雰囲気である。
チップだらけ(07/07/13 F-1555)
 ウィーンでは空港から市内のホテルまでタクシーに乗った。海外に行った際はホテルを回るリムジンサービスなどがなければ、タクシーにせざるを得ない。たいていの場合、荷物が多いからである。ウィーンの空港から街まではそこそこの距離だった。そのため運賃もそれなりだったが、運転手の対応はよかった。ともあれメータを入れた。メーターそのものがインチキであればお話しにならないが、セットしたら一応は安心タクシーといえるだろう。流ちょうな英語でウィーン市内の観光案内までし始めた。サービス精神満点である。そんなときにはチップも弾みたくなるものだ。もっとも、このチップというのが日本人にとってはややこしい。ホテルで荷物を運んでくれても、レストランで食事をしても、部屋の掃除をしてくれても、チェックアウトの際に荷物をタクシーまで運んでくれても…。ああ面倒くさい。ウィーンの駅ではトイレの中にもおじさんが待っていて、使用料≠取られた。ありゃあチップかいな、それとも清掃等の費用なのかしら。およそ50セントくらいは取られると聞いていたが、ある駅では52セントと細かかった。その点、日本は煩わしさがない。とはいうものの、一律10%のサービス料という表現はかなり気になる。ホテルなどは、働く人の一挙手一投足を含めてすべてがサービスではないのかいな。それにわざわざサービス料なんてのを付加するのは、どうも納得しにくい話である。しかも、サービスの善し悪しは抜きにして一律というのが、これまた日本らしいか。このサービス料システム≠ヘ40年以上も前の東京オリンピックの際に創造された$ァ度だ。それまでも心付け≠ネんてものはあったが、チップとして制度化までされてはいなかった。
修正できない(07/07/12 Th-1554)
 カメラ目線のプロでない人が、質問者に笑顔を向けることもなく、あるいはムッとした表情も見せることなくこちらを見ている。それって、なあんか不自然さを感じてしまうのである。ご本人は、そんな意識はないのだろが、ときには虚ろな目にすら見えてしまう。それは暖かみのない機械的な反応だと受け止められる可能性が大きいと思う。人からの問いかけを受け、その目を見ながら答える。それが自然体というものである。いわゆる安部首相のブレーンたちは、その点についてはどう考えているのだろうか。首相就任時に記者会見はカメラ目線でいけ≠ニ勧めたのであれば、ちょっとセンスがないなあ。そうではなくて、安部氏が自分の意思ではじめたのだったら、やめた方がいいんじゃないの≠ニ進言した方がいいのではないか。この点については批判もあったのか、このごろちょっと目線の角度が変わったような気もする。もちろん急に変わるとおかしいので、少しずつ修正に入ったのかもしれない。このあたりの対応が難しいんでしょうね。われわれ庶民だったら、それほど悩まずに修正すればいい。イヤー参りました。カメラ目線の方が印象的でいいと思ってやり始めたんですよ。ところが、どうも評判が悪いんですね。周りからも、やめた方がいいんじゃないなんて言われちゃって。まあ、今さら変えるのもカッコわるいなあとは思ったんですけどね。でもこの際は、記者のみなさん方に目を向けて話すことにしました。よろしく…=Bこれで問題は解消である。ところが政治家をはじめ世の中の偉い方々は、このあたりがそうはいかないみたいだ。いったん決めたことは決して変えない。ことばでごまかそうとする。それが積み重なるほどに、さらに取り返しがつかなくなる…。
ブレーン(07/07/11 W-1553)
 ブレーン≠ニいうことばがある。広辞苑で引くと@頭脳。Aブレーン・トラスト≠ニなっている。ブレーン≠ヘ英語のbrainである。最も基本的な意味は脳≠ナある。Aのブレーン・トラスト≠ヘほとんど聞いたことがない。そこで辞書を追うと、@アメリカのF.ルーズベルト大統領がニューディール政策の立案・実施を補佐させるために集めた知識人たちの総称。A個人または団体・政府などの側近顧問。ブレーン≠ニいう説明があった。ブレーン£P独では、お偉い人を補佐する頭脳集団≠ニいう意味がないことを初めて知った。さらに、その起源がルーズベルトのニューディールにあることも新しい知識である。ニューディールは歴史に残る政策としてつとに知られている。それだからこそ、ルーズベルトに進言した人々が、文字通りbrain trust≠ニして大いに評価されたということだろう。ここで私がブレーン≠ノ関心を持ったのは、安部首相のインタビューを見たからである。首相はテレビのインタビューを受ける際にはカメラを見ている。いわゆるカメラ目線である。質問した記者の方には目を向けることがない。これには、記者個人にではなく広く国民に気持ちを伝えようという意図があるのだと思う。そうすることは、安部氏個人の発想かもしれないがブレーン≠スちがそうした方がいいと勧めた可能性が強いのではないか。しかし、そうした目的は達せられているか。私の見るところ、その効果はかなり怪しいと思う。アナウンサーやタレントはカメラの前に立つことが仕事である。だから、こちらを覗き込むような目線で語りかけてくる。そして、そこには何の違和感もない。しかし、安部さんは政治のプロかもしれないが、カメラ目線のプロではない。
小さな変化(07/07/10 Tu-1552)
 今朝のことです。目を覚ましたら老人になっていました=Bそんなことは起こるはずがない。今日、いきなり糖尿病になりました=Bこんなことだってあり得ない。私は講演などでこんな問いかけをすることがある。お集まりの皆さん。私は今日はじめて皆さんとお会いしました。けれども、ここにいらっしゃる全員の方が昨日と違っていることを私は知っています。そうですよね、昨日と違ってますよね…=B私が目まで覗き込んで聞くものだから、なかには困惑する人もいる。何となくうん≠ニ頷く人もいる。なんでそんなに自信ありげに言うの≠ニいぶかしそうな顔をされることもある。そこで私は続ける。だって、全員が昨日よりも老化してるでしょう=Bまあ、たいていの場合は、これで笑いが起きる。しかし、私の発言は厳密に言えば間違っていないはずである。言いたいことはただひとつ。小さな変化が積み重なって、気がついたときはどえらく大きく変わっているということだ。もちろん、その内容が好ましいこともあれば、まずいこともある。毎日の努力が実って健康な体ができるとか、英語が話せるようになるなんてことは大いに喜んでいい。その一方で、永年の不摂生が祟って健康を崩すといったマイナス事例もある。しかし、それが分かっていながらうまくコントロールできないのが人間の性というべきだろうか。そして気がついたときには取り返しがつかなくなっている。そんな人間が集まって国ができあがっている。いま、この国ではこのままではいけない≠ニ思っている人の方が、そうでない人よりもはるかに多いと思う。しかし、それでものごとが好転する方向に動いているかどうか。そのあたりになると、はなはだ怪しく、不安を感じざるを得ない。
働くこと(07/07/09 M-1551)
 プラハの街に物乞いがいた。うずくまって手を伸ばした先に帽子を置いている。その姿勢を保つだけでもきついことだろうと思う。帽子を覗いてみたが何も入っていなかった。他のところでも同じような男がいた。ここちらは片手にたばこをもっていた。どんな格好をしていたか、文章では表現しにくいが、私としては苦笑せざるを得なかった。その仕事£にたばこを吸うのはいかがなものかと思ったからだ。それにしてもチェコも社会主義を体験した国である。それに伴ったプラハの春≠ノまつわる悲劇もあった。そもそも社会主義の基本は計画経済だった。社会に求められるものを計画的に生産し、それを必要な人々に公平に分配する。それによって、みんなが平等に生きていける社会が実現する。だから資本主義と違って物乞い≠ネどは存在しなくなる。貧富の差の激しい抑圧された時代には、その発想は正しかったはずだ。しかし、歴史の現実を見れば、それがうまく機能しなかったのは間違いない。むしろ支配するものと支配されるものとの差は拡大したというべきだろう。そして、多くの市民が貧困≠ナあるという点で平等≠ェ実現したようにも見える。まことに皮肉なことである。社会主義時代のチェコは知らないが、いま物乞い≠ェいるのは資本主義に転換したからだという人がいるのだろうか。わが国でも、私が子どものころは、街にいわゆる乞食≠ェいた。しかし社会が豊かになるとともに、乞食がいない国≠ノなったはずであった。しかし、いつの間にか都市の駅や街中にホームレス≠ニ呼ばれる人たちが増えはじめた。それぞれ、いろいろな事情があるとは思う。しかし、われわれ人間にとって働く≠アと、働ける≠アとが何よりも大事だと思う。
日暮れどき(07/07/08 Su-1550)
 成田に着いた。カレンダー上では7日の朝9時55分にプラハを出発した。フランクフルトで乗り換えた。その出発が13時55分。それから10時間30分ほどのフライトで成田に着陸となった。すでに8日の朝7時30分である。向こうの時間は、8日の午前1時30分ころになる。ほとんど7日を経験しないうちに8日になったわけだ。もちろん、行くときは朝出たのに、その日の夕方にヨーロッパに着いたのだから、やたらと長い日だったのだそんなわけで、その際はずっと明るかった。西に行くから時間を逆行することになる。帰りはその反対に時間を追いかける。シベリアの上空もかすりながら東に進んでいった。プラハの朝からずっと明るい面を跳び続けて、夜がないままに日本は朝になっていたのである。地球が丸いといろいろとおもしろいことが起きる。今回のヨーロッパで感じたこと。そのひとつは韓国企業の躍進だ。とくにsamsungは至る所にCM を出していた。車についてもHyundaiが目立った。LGはフランクフルト空港の公式案内のTVとして独占しているように見えた。プラハの街でで日産の看板が1枚、空港でトヨタの展示があった。また、フランクフルトの免税店でSONYとCASIO、そして1台だけ小さなSHARPの液晶テレビが置かれていた。ただし、皮肉なことにSHARPのロゴは価格札で隠れていた…。まあ時代の流れと言えばそれだけの話なのだけれど。これから先の日本を象徴しているように見えた。成田に7時30分についても11時30分まで福岡便はない。熊本便はそもそも存在しない。羽田に向かえば2時間は見込んでくれという。しかもリムジンバスで3,000円かかる。これが日本の玄関口、東京国際空港なのだ。しかも、まともな滑走路はまだ1本しかない。
 ウィーンとプラハからの更新はこれでおしまいです。お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
 明日8日は帰国してからアップします。
バーツラフ広場(07/07/07 Sa-1549)
 バーツラフ広場=Bそれは私の記憶から消えない名前である。プラハの街にあるその広場に行ってみた。チェコは東京オリンピックで多くの日本人に知られるようになった。チェコの体操選手チャスラフスカが見事な演技で人気者になったからである。それが1964年のことだ。その当時はチェコ・スロバキア連邦だった。ところが私が気づいたときには2つの国は分離していた。そこにはまた様々な歴史的な事情があるのだろう。ともあれオリンピックから4年後の1968年に40代のドプチェク氏がチェコの第一書記に就任する彼は社会主義国の中で自由化政策を次々と推し進めていくのである。それはいつしかプラハの春≠ニ呼ばれるようになった。しかし、その春が長く続くことはなかった。社会主義の棟梁であるソビエトが自由化を抑えるために侵入して来るのである。プラハ市街に戦車が入る。それに抵抗して戦車の前に立ちはだかる若者たち。そんな映像が遠くヨーロッパから届けられた。私が大学2年生、1968年のことだ。同じ年頃の若者たちが抵抗しながら命を落としていく。それは私にとって大きな衝撃だった。これでプラハの夏≠ヘ実現できないままで終わる。そして若者たちの死を悼んで市民たちが集まった広場。それがバーツラフ広場だった。あらから来年で40年になる。いまでは観光客をはじめ多くの人々が集まる平和な場所になっていた。今の若者たちはあの歴史的な事件をどのくらい知っているのだろうか。ホテルに帰るために地下鉄の駅に降りた。私よりも年配の老人が一人で電車を待っていた。プラハの春のときはどうされていましたか=Bそんな質問をしたい衝動に駆られた。しかし、それが不快な思い出だといけないと思って、気持ちを抑えた。
国の顔(07/07/06 F-1548)
 ウィーンからプラハに来る途中は、おおむね田園地帯だった。とくにひまわり畑が続いているところがあって壮観だった。列車の窓から見たことと、あまりにも密集していたせいか、日本のひまわりよりも小さい感じがした。実際はどうなのか知らない。こちらではパンにひまわりのタネをくっつけたものも日常的に置いてある。油を取ったりもして、しっかり穀物として定着しているのだろうか。農家も赤い屋根のこじんまりしたものが多い。それが一カ所に集まっていて、絵に描いたような田園風景が広がる。日本の集落は農家もけっこう個性的な感じがする。だから、こちらと比較すると、バラバラで統一がとれていないようにも見える。それに高い低いは別にして、日本の場合何といっても山が迫っている。それが言い過ぎなら、とにかく背景には山が見えるというべきだろうか。あえて似ているというなら、北海道を挙げることができるかもしれない。そんな雰囲気をそれなりに楽しみながらプラハのHolesovice駅に着いた。ここは街中ではなく、ヨーロッパ各地を繋ぐ列車の発着地らしい。駅のタクシーにはちょっと気をつけてと言われていたが、相当なものだった。とにかくタクシー乗り場は運転手が待ち伏せしていた。タクシーの看板をつけているものを選べと聞いていた。白タク注意というわけだ。そこで近づいてきた男にそう言ったら、車の方に歩いていって、黒いカバーをはずした!それならどうしてはじめから見せていないのか。相当に怪しい。しかし、そこにいるのはその手のおっさんばかり。そこで見え見えの低料金から交渉したが、最終的にはまあ仕方ないかと思える金額で妥協した。どうも国際列車≠フ入り口からこれでは、チェコという国のレベルが疑われる。
鉄路の旅情(07/07/05 Th-1547)
 ウィーンからプラハまでは鉄路にした。列車で旅をするチャンスはめったにない。ウィーンの空港は街まで結構あったし、プラハも似たようなものだと聞いた。それでも飛行機の方が早いことに変わりはないが、300km程度の距離だというからレールを選んだ。ウィーンのSuedbahnhof駅を15時33分発する。駅名は読むのもむずかしいが、南駅という意味らしい。それから4時間ほどの旅がはじまった。発車して間もなくパスポートのチェックをしに銃を身にまとった係員がやってきた。さらにしばらくすると、再度のチェックである。オーストリアから出るときとチェコに入ったときにパスポートを確認するということである。パスポートには列車のマークの付いたスタンプが押された。これは鉄路で移動したからで、普通はなかなかもらえない≠烽フだ。いい記念になった。ところで、正直なところ、チェコに入った途端に駅に止まっている列車が極端に古くなった。それから電車だけでなく至る所にスプレーの落書きが目立ちはじめた。この手の落書きは、わが国も含めて頭の痛い問題だが、とにかく凄まじい。そのデザインが世界的に似ていることには驚いてしまう。大抵は若者の仕業だと推測するが、それだけ欲求不満が強いのかもしれない。もちろんこれは日本の若者にも当てはまると思う。プラハは美しい街だと聞いて楽しみにしていたのに、変な不安がわき起こってきた。プラハには19時40分過ぎに着いた。到着予定は19時30分だったが、日本のように細かいことでお詫びなどはしなかった。途中はひまわりがずっと続く畑や麦畑があって、日本とはちょっと違う感じがした。また畑の広がりもあって、山は遠くにしか見えない。その山も多くは丘のように低そうだった。
ウィーンのフロイド(07/07/04 W-1546)
 心理学者で一般に最も知られた人物と言えば誰だろうか。フロイドはその最有力候補だろう。いわゆる精神分析の元祖である。私はグループ・ダイナミックスと呼ばれる領域で仕事をしている。集団との関わりを通して人間を理解する=B文字通り、グループ≠ェ最も大事なキーワードである。その意味で、いわゆる臨床心理学≠ニいわれるものとは一線を画しているところがある。フロイドから遠いのである。しかし、そうは言ってもウィーンに来たからにはフロイド博物館を無視するわけにはいかない。ということでFreud Museumに出かけた。幸いにも京都大学の矢守氏が1年間の予定でウィーン環境大学に滞在中である。氏の案内でなんの迷うこともなく市内電車を利用しながら博物館に行くことができた。ご夫妻とはかなりのご縁がある。矢守氏は私のはるか後輩だが、リーダーシップや災害、事故の問題などの専門家だ。また奥様は私の職場で仕事をしていただいていた。さてフロイド館だが、彼がウィーンで開業していたところにある。もともと古い建物が残っている街だから、周りの風景も当時そのままといった感じだ。日本ではあっという間に建て変わって、元はなんだったかもわからない。それに比べると、ここでは通りの前方からフロイドが歩いて来ていてもおかしくない雰囲気がある。変化がないといえばそれまでだが、古いものをいつまでも大事にする使い捨てとは無縁の国民性でもある。博物館そのものは、精神分析を皮肉った新聞漫画の展示があっていた。見ただけで笑えるものもあれば、英語を読んでもおかしさが理解できないものもあった。その他は写真と机や椅子、ソファーなどが置いてあるだけ。まあその程度だったが、何と言っても本家だものね。
生き方いろいろ(07/07/03 Tu-1545)
 ウィーンに到着した1日、空港には日本の報道陣が来ていたらしい。もちろん、私が初めてウィーンを訪問したからではない。あのIAEAの本部がここにあって、おそらく北朝鮮を訪れていた責任者が帰ってきたのだろう。ウィーンやスイスのジュネーブはこうした国際的な機関が多い。わが国にも国連大学はあることになっているのだが、どうも今ひとつパッとしない。平和を国是とするわが国であれば、もっともっと文化的で平和的な機関があってほしいものだ。飛行機から見ると、フランクフルトもウィーンもほんの近くまで田園地帯が広がっていた。やっぱり人間の原点は大地に働きかける農業なのかなあ=Bそんな思いがした。これに対して日本はどうか。羽田に降りる前はゴルフ場ばかりがやたらと目につく。こんなんでいいのかなあ…。オーストリアは人口が800万程度らしい。もちろん石油が出るとか、金山があるなんて聞いたことがない。それでも見たところ文化的にも豊かに過ごしているような感じがする。緑も多くて街もきれいである。わが国は資源がないから、とにかくせっせと働いて輸出をしないといけない。それしか生きる道はないとがんばってきた。その結果、食糧自給率は50%をはるかに切っているのではないか。たしかに経済的に豊かになったのだから、文句なんか言ってると罰が当たるにちがいない。しかし海外に来てみると、何となく別の生き方もあるんだなあという思いにもなる。われわれ団塊の世代は戦争も体験せずに人生を過ごしてきた。そして、そろそろ先も見え始めた。ここいらで、自分たちの生きた時代に感謝するとともに、子どもや孫たちの世代に何ができるか、真面目に考える義務があるのではないか。そんな殊勝な気持ちになってきた。
長い1日(07/07/02 M-1544)
 午前10時に成田を飛び立ってヨーロッパへ向かった。出発は7月1日だが、はじめの中継地フランクフルト到着も同じ日の午後2時過ぎである。この間、おそよ11時間半ほどかかった。成田を出た飛行機は日本海へ向かい、それから北上する。東側に北海道を見る位置を飛んでロシアの領空に入る。もちろん実際に北海道が見えるわけではない。ロシアはさす1が広大な国である。その後はずっとロシア上空を飛び続けることになる。それからフィンランドを通過してドイツのフランクフルトへと飛んでいった。いつものことながら平和の大事さとありがたさを思う。他国の空を飛ぶのである。未確認の飛行物体であれば、直ちに撃墜される。そんなこともなく安心して飛行できるのだ。何とすばらしいことか。フランクフルト空港では少しばかりあわてた。ウィーンまでトランジットだからカウンターから出ることなくつぎのゲートまで行けばいいと思いこんでいた。ところがEUの国に着いたということだろう。いったん入国手続きをしなければならないことがわかった。それはかまわないのだが、何とも人がワンサかいて大混雑している。乗り継ぎ時間が1時間30分で、ほとんど待たなくていいと思っていたら、今度は時間の心配をしなければならなくなったのである。そんなわけでちょっと予想外だったが、最終的には無事にウィーンに着いた。さすがEUである。フランクフルトからウィーンまではもう国内線と同じ扱いなのだった。こうして、私はパスポート上ではドイツに降り立ったことになる。ウィーン着が17時25分。日本との時差が7時間あるから、もう2日の0時過ぎにあたる。早寝早起きの私としては、まずは一休みしなければ話はじまらない。もちろん、まだ超明るい。
 お知らせ 海外出張のため、7月2日から本欄の更新ができなくなる可能性があります。LANのあるホテルを予約していますが、現時点で動作の確認はできません。うまくいかない場合は7月8日午後にまとめてアップします。
異動と移動(07/07/01 Su-1543)
 新年度に続いて、株主総会後の異動も行われているようだ。ところで、この異動≠移動≠ニ間違って表記する人がいる。英語では移動≠ヘmove≠ナ異動≠ヘtransfer≠竍change≠るいはshift≠ニなる。移動≠ヘ人や物がそのまま場所を変えるだけで中身は変わらない。文字通り移る≠フである。これに対して異動≠ヘどこかが異なって∴レるというわけだ。あるいは、移った結果が前と異なっているということである。たしかに、人事から総務へ異動したというときなど、係長さんが課長さんになったりする。これは昇進の場合である。世の中には、何かチョンボをしてしまって降格ということだってあり得るが、このときも異動≠オている。異動が決まった人に会ったときは、ご栄転おめでとうございます≠ニいうのが一般的らしい。いろいろな事情で左遷の憂き目にあった人でも、ことの詳細は横に置いてご栄転≠ニいうのだろう。大学しか知らない世間知らずの私としては、世の中は何ともむずかしいものだと思う。それはともあれ、人事異動≠ヘ組織の知恵である。職場の人間関係などが原因で悩んでいる人は、少しでも早く違う場所に移った方がいい。そこで心機一転、人生の巻き返しができるのである。それでは、現状でうまくいっている人は動かない方がいいかというと、これまたそうでもない。仕事が順調であれば、さらに飛躍したいと思うに違いない。そのためには環境が変わった方がいいことだって多いはずである。そもそも同じ環境にずっといると、いろんな点でなまってくるものだ。そういえばこの私、今の職場に来て29年目が進行中である。その点では、自分で気づかないままに、相当になまってきているのではないかいな。