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【暮らし】

『50歳プラス』を生きる 司法過疎地で活動する「法テラス」の弁護士 神山 昌子さん(63歳)

2008年3月5日

 最高気温が氷点下になる北海道旭川市の雪の中で、神山昌子さんは「今でもスーツ着てる自分が不思議」と笑う。

 司法試験を二十三回受け続けて五十九歳で合格。弁護士になったときは六十一歳だった。「受験生という世の中の何者でもない期間が長かったから、誰かの役に立ちたかった」。身近に弁護士サービスが受けられるようにと二〇〇六年に発足した日本司法支援センター(法テラス)勤務に手を挙げて、司法過疎地域を抱える旭川法律事務所に赴任した。

 栃木県生まれ。大学で演劇を始め、劇団にも入ったが、二十七歳で「実生活にかかわって生きたい」と商社に。男女差別やセクハラに嫌気がさし、三十歳で同僚と結婚を決め退社した。夫は「釣った魚にえさはやらない」と急変。身重の体で実家に戻った。離婚後は、三十三歳のときに亡くした父が抱えた連帯保証人のトラブルも引き継いだ。「人の裏側もいろいろ見て、社会を考えるようになった」

 もともと読書好き。再び本を読み始めた神山さんは法律入門書に出合い「世の中の多くの価値観を調整する原理が法律だ」と感銘を受けた。「司法試験なら年齢制限も男女差別もないのかも。息子も養っていける!」と受験を決めた。

 レジ、保険の外交員、宅配…さまざまな仕事をし、育児家事、母の介護以外はすべて勉強に費やした。二十三年間もなぜ頑張れたのか。

 十回目、最後と決めた試験に落ちたとき、十五歳の息子が言った。「お母さんの夢でしょ? 続けたら」。一番迷惑を掛けている息子の言葉にあきらめないと決めた。翌年から第一関門の短答試験に受かりだした。

 でも、圧倒的に時間が足りず、若い友人が先を越していく。つらかったが、自分も時間を積み重ねて勉強が進めば受かると考えた。「逆にすべての時間を勉強に費やせていたら、数回の失敗で私には無理とすっぱりあきらめていたと思う」

 最終試験合格者に自分の名前を見つけたのは、母を亡くした年。〇五年十月、弁護士登録し一年後、旭川に赴任した。国選弁護や弁護士費用を立て替える法律扶助の案件の依頼を、司法過疎の地方で受けるのが主な仕事。稚内に紋別、留萌、富良野など四国より広い管内を走り回る。債務整理、DV、相続、医療過誤、あらゆる相談を受ける。法テラスの弁護士は一人だけ。ニーズの高さを痛感する。C型肝炎訴訟弁護団に手を挙げ、成年後見普及にも携わった。

 借金で死まで考えた人が別人のように元気になり「先生に出会えて良かった」と言ってくれると本当にうれしい。一方で証拠がないために裁判で勝てないと伝えるときや、弁護費用立て替えの月五千円が返済できず、あきらめる女性を見送るとき、無力を感じる。

 でもいろんなことを経験してきたからか、嫌な話を聞くのが苦じゃない。「寂しさに耐えかねて事件を起こしてしまった」「まじめに勤めていたけど、遊びたくてお金借りちゃった」。どこかに自分も感じた思いがあるから受け止められる。もちろん「ここはまずかったね」と言うけれど。

 旭川の任期は三年間。次はどこに行くのか分からないが、勉強したい、やりたいことがいっぱいありすぎる。時間が足りないのは相変わらずだった。 (野村由美子)

 

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