−−石橋産業事件の深層−−
手形パクリに暗躍した闇の紳士たち(3)

“怪人”許永中の人たらし術

 「闇経済のドン」と呼ばれた許永中被告はたぐいまれな“人たらし”の才を持っていた。

 「身長180センチ、100キロの巨体に入道頭。目つきは鋭く、人を射すくめる。ところが、話をしてみると、頭の回転が速くて、話題も豊富。笑うと人なつっこい顔になる。そのギャップが魅力で、10人会うと9人までが彼のことを好きになるんじゃないか」(許被告と親交のあった企業経営者)

 「表社会」と「裏社会」を縦横に駆け回り、東西の広域暴力団の“架け橋”になることができたのはその才ゆえだった。

 これまでに、首相経験者や元閣僚、自民党幹部との関係が話題になったことがあるし、中堅生保の元社長をはじめとする財界人や官僚にまで、人脈は広がっていた。

 もちろん、頭の回転の速さや如才のない交際術だけでアングラ経済のドンになれるわけではない。必要となれば、きばをむき出しにして相手を恫喝(どうかつ)した。その硬軟の使い分けが絶妙であったところに、許被告の真骨頂がある。

 180億円の手形をだまし取ったとされる石橋産業事件。詐欺の構図は明白ながら、同社の代表取締役の石橋浩氏や義兄で関連会社社長の林雅三氏は、許被告の絶妙なテクニックに翻弄され、身動きがとれなくなってしまった。

 「最初は流出した石橋産業株をサルベージしてやると威圧的に近づき、相手が心を許したところで、有力政治家や大企業の役員を紹介して安心させ、共同事業を提案して『石橋さん、あんたを一流の財界人にしたいんや』と持ち上げる。こうして型にハメておいてから、手形を振り出させた。手形を“人質”に取られた石橋サイドは、後は許被告の言うままに動くしかなかった」(捜査関係者)

石橋産業事件の全貌

 日本レースの経営権をめぐる紛争で、事件屋としてデビューした。バブル期のイトマン事件では「日本一の仕事師」の名にふさわしい活躍をした許被告だが、平成5年末の保釈後は、かつてのような華々しい事件には恵まれなかった。バブル崩壊で土地、株、絵画といった得意の商品を使って大きく勝負できる環境になかったからである。その許被告が久々に腕をふるえる企業が見つかった。それが石橋産業だった。

 「石橋産業といっても一般になじみはありません。でも、先代が石炭開発で当てた会社だけに資産は豊富。若築建設など上場企業をいくつも傘下におさめています。その会社に内紛があって石橋産業株が流出。許被告にとっては、よだれが出るような企業だったのです」(社会部記者)

 許被告が、石橋産業への接触を始めたのは5年ほど前のことである。イトマン事件では「3000億円を闇に流した」といわれるが、その多くは資金使途にそれなりの理由(株や土地の購入費や人件費など)があり、法外に発生した使途不明金についても、その多くは許被告の上を流れるだけだったという。

 「イトマン事件で、許さんが何百億円も隠蔽したような報道がありますが、まったくの間違い。入ったカネは景気よく使っていました。その中には、政治家にウラで献金されたり、暴力団関係者に“上納”されたものもある。ともかく、保釈された時点で、許さんに現金など残っていなかったんです」(許被告の知人)

 取り方も豪快なら、まき方も豪快。アングラ経済社会において、「日本一」や「ドン」といった尊称を奉られていた許被告としては、自らの“地位”と“名声”を保つためにも、石橋産業という大きな仕事に取りかからねばならなかった。

 それにあたり、許被告は持てる人脈を総動員した。契約面をサポートしたのは、最も信頼する「ヤメ検」の田中森一容疑者だった。実務を担当した尾崎稔容疑者は中学時代からの親友である。そして、石橋産業に提唱した共同事業の責任者にしていたのが、信託銀行元役員の肩書を持つ井出野下秀守氏(捜査過程で自殺)だった。

 そうしたグループ内人脈だけでなく、政治家を石橋サイドに安心させる“小道具”に使ったのは、前述の通りである。

 この許被告の“復活”を検察としては許せなかった。刑事被告人を「闇経済のドン」としてこれ以上のさばらせておくわけにはいかない。さらに、その許被告と「史上最強で最悪のコンビ」(捜査関係者)を組んでいた田中容疑者を、検察のメンツにかけて逮捕する必要があったのは、前回までに記した通りである。

 かくして検察は、事件捜査中に逃亡した許被告の身柄確保に全力を挙げ、逮捕とともに懸案の石橋産業事件を一気に仕上げたのである。

(ジャーナリスト・伊藤博敏)


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