松村被告に対する最高裁決定は「官僚の不作為」も犯罪になり得ることを改めて明確にした点に最大の意義がある。薬害事件で常に同様の結果になるとは限らないものの、薬務行政に一定の緊張感をもたらたす効果がある。
有罪には高いハードルがあった。不作為が違法となるには「すべきだったこと(作為義務)」が特定される必要がある。だが官僚は一般に「どんな職務に取り組むか」に関し、幅広い裁量を持つ。まして松村被告は、診察した医師でも汚染された血液製剤を出荷した製薬会社幹部でもなく、被害の現場からは遠かった。
この難題に、最高裁は2審判決を基本的に踏襲して決着を付けた。汚染製剤で感染したエイズ患者が多数亡くなりかねない「重大な危険」があるのに、患者や医師は汚染製剤を見分けられず感染を防げない。国の承認を得ているから製薬会社も出荷を続ける。つまり国だけが薬害拡大を防ぎ得る立場にあり、裁量の余地なく製剤の回収指示などをすべきだったと判断した。
そのうえで「薬務行政を一体的に遂行すべき立場」の中でも「中心的立場だった」と松村被告を断罪した。この考えを推し進めれば、起訴されなかった被告の上司や部下、他部局の職員にも一定の責任があるといえる。大臣の下で「薬務行政を一体的に遂行」していることに変わりはないからだ。
最も被害が大きかった血友病患者を巡っては、結局一度も有罪判決はなかったが、薬務行政全体が免責されたわけでは決してない。薬害を防ぐため「何をすべきか」を常に厳しく自問し続けることが、厚生労働省には求められている。C型肝炎などエイズ禍後も続く薬害を根絶するために、この教訓を忘れてはならない。【高倉友彰】
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