2005-05-28 自国嫌悪
やはり昨日書いたものはやめました。おそらく昨日出していたらいやな気分になっていたでしょう。久しぶりに賢い選択ができました(笑) で、全く違った方向から書いてみました。
(昨日の日記の冒頭で愚痴ったのはお許しください。どうにも気分が優れない一日でしたので…)
■[倫理][ナショナリズム] 自国嫌悪
「自己嫌悪」というものについて私が最初に説得力のある意見だと思ったのは確か岸田秀氏の著作の中のものでした*1。それを種に自分の中でいろいろ足したり引いたりしていますので、元ネタからはずれているかもしれませんが、今これについて思っているのは大体次のようなことです。
自己嫌悪というのは一見良心的な装いがありますが、その実、単なる欺瞞で建設的ではないものになってしまいがちです。自分がやってしまった行為が恥ずかしくて、自分でそんなことをやった自分が嫌いで、それで自己嫌悪となるわけですが、結局それはいかにも第三者的視点で自分を糾弾するだけで、むしろ反省につながらないのではないかと…。
そこで行われることは、自分を嫌う自分というものを生み出し、その部分にすべての自分(自尊心)を仮託して、「本当の自分」はこんな恥ずかしいことをする自分とは違うんだと自分をごまかすことではないでしょうか。
(「自分」ばっかりで何を言ってるかわかりにくいですが…)
でも結局自分をやめるのでない限り恥ずかしい自分も自分です。ごまかしたって何にもなりません。ごまかせているのは自分の頭の中だけで、他者の視点から見れば何もごまかせていないのです。
さて、私は「日本を卑下する日本人」像(一部で反日日本人と呼ばれるような類型の方々)の中に同様の形の欺瞞があるのではないかとふと思いました。
私はニューカマーの韓国人の友人と話していて「あなたは右翼だ」と(興奮気味に)言われたこともありますし、おそらく「良心的日本人」の方々から見ればネット右翼の類なのだろうと自認しております(苦笑)。そしてネット右翼などというものが単なるレッテルで内実が何もないのと同じで、反日日本人とかいう存在も実体がつかめるものではないとは思います。それでも確かに、私から見れば不必要なまでに日本や日本の過去などに対して「冷たい」方々を散見するのも事実です。あえて身びいきをしないという程度の話ではなく、犯罪の被疑者ですら「推定無罪」なのに、自分の属する集団に「推定有罪」(しかも不確かな根拠)という態度で臨む方々です。
ちょっと前の言い方ではこういう方々を自虐的と呼んだかもしれませんが、私にはそれが自虐をしているようには思えませんでした。むしろ他者として、自分じゃないものとして日本(の過去)を断罪するかのように感じたのです。
理解できないままにレッテル貼りをしても気持ちが悪いだけですので自分なりに考えてみると、彼らの中には「自己嫌悪」があるのではないか、自己嫌悪を自分のアイデンティフィカルな集団に広げて行っているのではないかということが思われました(もちろんそれだけを唯一の理由とはしませんが…)。それはもしかしたら自分を免罪する欺瞞としての「自国嫌悪」なのではないかと思ったのです。
言ってみれば集団的自己嫌悪ですね。何かのはずみに自分達の過去が恥ずかしいと思い込む。そしてその過去が自分を形成する要素となっていると考えるのがいたたまれなくなってしまって、その過去を自分から切り離したいと考える。そういった負の願望が日本に対する「冷たさ」につながる。そういうところはないでしょうか?
人は等身大の自我などで生きてはいません。むしろ等身大の自分などというものを認識する(作る?)ほうがよほど難しいことだと思います。過不足のない自己評価・自己認識など簡単にできるものではないと私は考えています。むしろ最初のエゴは自分ひとりに閉じたものではなく、成長とともにだんだん自我の枠が狭まってくると考えるのが正しいのでは?そしてそれにしても、弧在する自我などというものは独我論の世界、不毛で寂しくて正気でいられるとは思えません。大なり小なり国や、故郷や、学校や仲間、家族といった集団に自分を支えてもらっている。そういうものによって自我が形成されてきているのだからむしろそれは当たり前です。だから自国に自我の一部なりを同一化するのは普通のことだと私は考えます。
もちろん全的に、集団に自己を同一化するのは危ういでしょう。たとえばその対象が閉じた宗教集団の場合は、カルトに嵌っているという表現をされるはずです。そこらへんのバランス感覚については、私は「普通の人」を基本的には信じられるだろうと思っています。余計なことなどしなくても、たいてい自分でバランスが取れる人が絶対的に多数でしょう。
自国にちょっとぐらい自我を置いても何も問題はないだろうと私には思えるのですが、極端にそれをいやがる方がおられます。たとえばオリンピックで日本を応援してはしゃぐのはみっともない(いや、確かにやり過ぎはみっともないと思いますが)、自分はアスリートたちの自己表現だけに興味があるので、日の丸が揚がるのには全然興味がないなどとおっしゃる方々です。
確かにそういうふうに国家や国家とのつながりに嫌らしさを感じる方がいるのかもしれません。ですがおそらくそういう方は、自国だけではなく他国の人の愛国的感情や郷土意識も理解できないのでは?それはつまり現在の世界の人々のかなりの部分とわかりあうことができないと宣言なさっているようなもので、寂しい限りです。そこまで行った方はおいておいて、どうにも理解に苦しむのが自国(日本)に対する気持ちには冷たく、他国(たとえば中国・韓国など)の愛国心には暖かいという方々です。首尾一貫していません。
そういうダブルスタンダードの方に対してだけ「邪推」しますと、彼らはやはり自分と自分たちの「恥ずかしい歴史」とのつながりを絶ちたいと思っておられるのでは?
それが極端に自国の歴史のある部分への過剰な攻撃となり、そうやって自分達の「過去への恥ずかしさ」をごまかしている…。
しかし、結局これにしても自分と自分をつくるのに関わってきた歴史は切り離すことなんかできないわけですから、欺瞞に終わるしかないんです。切り離したと思ってしまっては(つまり自分とは関係ないんだというような高慢な態度になってしまっては)、おそらく何もそこから学べないでしょう。
私は歴史の(といいますか自分の存在しなかった過去の)何らかの行為に対する責任は拒否します。しかし歴史認識に関してはいやでも恥ずかしくても受け入れたいと思っています。もちろん自分で納得してです。闇雲に否定することは、いやなことに目をつぶるのと同じ行為に思えます。だから自分ではそのどちらにも与したくありません。
まあ偉そうに勢いで書いてしまいましたが、私とて矛盾に満ちた人間ですので、他人様を一方的に糾弾することは本当は役どころではないです。上でごちゃごちゃ言われたことが「自分のことではない」と思われる方を攻撃しているわけでもありません。なにしろ私も、一時期自己嫌悪みたいなものに逃げた経験があるからこそ、自己嫌悪がわかるような気がしているくらいですから…。
でももしかして、ここに書いてきたことに少しでも覚えがあると(正直に)思えた方は、少しそこらへんを考えていただけたらなあと、そのぐらいのことを願っています。
*1:『ものぐさ精神分析』シリーズだと記憶しております
hazama-hazama 2005/05/28 13:45 はじめまして。大変興味深い内容でした。私はいわゆる「自己嫌悪」「自国嫌悪」の人間です。uuminさんのおっしゃることになるほど、一理あると自分の気付かぬ一面を知りました。uuminさんのご意見は一般論としてはほぼ正鵠を射ていると思いますが、「私」の個別例からすると多少のブレがあるのでそのことに関してのみ駄文を書かせていただきたく存じます。
私はかなり以前から「共同体」に対する不信がありました。これは中学の時の経験に由来すると思われますが、詳しくは書きません。その後、私の周りに存在する共同体に受け入れられるべく、「普通の人」になろうと努力しました。このままでは生きていけないのではないかという漠然とした不安があったからです。結局この試みは失敗しました。私は鬱病にかかってしまったのです。鬱病とは徹底的に自己を否定する病です。私の場合、今の自分が「本当の自分ではない」とは考えませんでした。これこそが自分。共同体にうけいれられないのなら、自らの責任で死ぬべきだと考えました。
その後、両親の尽力があって治療を受け、ある人の献身的なサポートも受けました。その頃から私は「外」を分析できるようになりつつありました。確かに私はくだらない人間だ。しかし、世の人もほとんどがそうだし、様々な共同体も矛盾に満ち満ちている。そう、それでいいんだ。漱石も「草枕」の中で「どこへ越しても住みにくいと悟った時詩が生まれて絵ができる」と言っている。自分は詩や絵を産む人間ではないが、あれらを味わうことが出来る。私の人生はそれでいい、と思うようになり病も癒えていきました。
私の回復は、身近な、直接的に関係を維持する人々とそして私自身の苦悩と努力によるものでした。共同体に対する帰属意識では決して私の病は癒えるはずがなかったのです。それが病の原因の一つだったのですから。だからと言って共同体を否定する気はありません。私もその中で生かされていることは十分知っているからです。しかし、私は私の人生があるゆえに共同体に一定以上の親密性を感じることが出来ない人間なのです。
私は日本の愛国心を醒めた目で見ています。中国・韓国のそれに対しても同様です。ですが、共同体と自己を常に考えている自分にとっては非常にホットな事態ではあるのです。考察するに値するのです。
「愛国心はあまりない」と言明すると、「あなたは日本人とも外国人とも意思の疎通ができない人間だ」と言われるのですが、これは違います。なぜなら、他者が愛国心を持つ、という現象に関しては受け入れているからです。ただ、私は違う、それだけです。また、「寂しくないのか」と言われれば、昔はそうだったが、今は違う。共同体との適度な距離感が私にとって居心地のいい場所なのだ、と私は返答するでしょう。「愛国心がない人間は道徳心が身につかない」と言われたことがありますが、これも私には当てはまりません。私のような人間を社会で生かしてもらうには、最低限度以上の道徳・ルールを守らなければ、存在を認めてもらうことが出来ないと自覚しているからこそ、私はモラルに非常に敏感です。ただし、モラルの根本的価値に関しては論理レヴェルで私の中では解体されています。だから、無意味だというようなニヒリズム、あるいはそこから派生するプラグマティズムに関して私は否定します。それは、何私のような周辺に位置する人間はある意味社会的弱者であり、プラグマティズムはそういう社会的弱者を排除する思想だからです。
私の言いたいことを一言で表せば、「税金も払うし、年金も払う。ルールも道徳も守る。だから私を〈仲間内〉入れようとしてくれるな」ということになるでしょう。私一人「仲間」でなくとも、誰も困らないでしょうから。どこか誰かの「仲間」になる。これが私にとって辛いことなのです。
こういう風に「愛国心」に回収されることを拒む人は少数でしょう。左翼の多くは屈折した愛国心の持ち主です。私はこういう人たちからも嫌われます。それでもいいのです。あからさまな嫌悪感、拒絶ではなく、そういう人もいる、そういう態度を取って欲しい、それが私の願いです。それが「赦し」のある目指すべき共同体なのではないか?と思うのです。私はその限りで共同体を夢想している、ともいえるのでしょう。
長文失礼致しました。
hazama-hazama 2005/05/28 14:02 もう、一つご迷惑をおかけついでに歴史認識に関して一つだけ語意見させていただきたく存じます。
日本の過去の「罪」に関して、私は一切責任を負わない。これに関して私はuuminnさんに完全に同意します。以前韓国を訪れた際、あるカトリック信者が「日本の過ちを許してください」とある韓国の一市民に平伏するのを見た際、私は非常に怒りを覚えました。「なぜ、お前は日本国を、日本の歴史を代表できるのか。少なくとも私は謝罪しない。私の代表権をお前には与えない。なぜなら私は韓国国民に対して直接的な害悪を加えた覚えは一度もないからだ」と考えたからです。
私は歴史に責任を負わない代わりに歴史に恩義も感じません。私の生は、私だけが責任を持つと考えるからです。過去には私の意志は存在しません。よく保守の方は「今の自分があるのは過去から連綿と続いた日本人の歴史があるからで、それに感謝し、日本を愛し、日本のために私を捨てるのは当然だ」とおっしゃる方がいます。私は日本人として生んでくれと頼んだ覚えがありません。たまたま日本人になりました。日本人でよかったこともあるし、日本に生まれたが故に苦しんだこともあります。周辺に位置する社会的弱者として共同体と自己の折り合いをつけるのは今でもなかなか辛いことです。そんな私の生なのに、なぜ感謝しなくてはならないのかがわかりません。日本のために死ね、と言われたら私は「まっぴらごめんである」と断言します。保守の方々がなさる、過去に対する「罪」と現在日本人との関連性を否定する一方で、日本の歴史と現在の日本人を繋ごうとするという思考、これはダブルスタンダードではないかと思うのですが、どうでしょうか。
uumin3 2005/05/28 14:56 こんにちは>hazama-hazamaさん コメントありがとうございました。長文はこちらでは全く問題ではありませんので、その点はご心配なさらずにどうぞ。さていただいたコメントを拝見して、軽々に答えるべきではないものも含んでおりますので、すべてにわたってすぐお応えはできないのですが、特に二つ目のコメントの内容については書きながら私も考えていたことでしたので、とりあえずそこにだけお返事させていただきたいと思います。
確かにそこに二重基準が紛れ込んでいるおそれは重々あります。それだけに表現には注意いたしました。それでも見る人が見れば気になってしまうのですね。私は今もこの問題について答えを探し続けてはいるのですが、暫定的な自分の考えもあります。それは、歴史は環境・条件であって、自分は歴史の産出体かもしれませんが、その被造物ではないというところでしょうか。私は歴史を有難いと思ったり恨んだりすることはできますが、私の行動を歴史の所為にして責任を負わせることはできません。ちょうどこの関係は親子関係あたりに類比させることができるかと…。でも歴史なり親なりの「恩」を重視する立場なら、それは儒教的な形で罪もひっくるめて受け継ぐべきという話になるのかもしれません。個人的には自分の取る立ち位置ではありませんので気になりませんが、理屈として整合を取るには未だしのところがあるのかもしれませんね。
uumin3 2005/05/28 15:59 つづきです>hazama-hazamaさん コメントを何度か読み返し考えたのですが、私が最初に想定したような対象の方とhazama-hazamaさんがどうにも重ならなくて…。確かに対象が漠然としたものであったせいで一般論になっている面は否定できません。筋としてはこの考えを続けたいと思いますが、お話ありがとうございました。
付け加えるとすれば、「愛国心はあまりない」とおっしゃる言葉は私には厳しい問いかけです。国のために命を落とせるかと聞かれれば、今の私にも無理です。でも私はこの国が結構好きなので、そこらへんの不整合は抱えたまま生きていきます。精神の強靭さというのは、言ってみれば鈍感さ、ご都合主義、脳天気…そういうものなのでしょう。私も馬齢を重ね、ようやく強靭な精神を身に付けてきたのかもしれません(笑)。
hazama-hazama 2005/05/30 20:00 ご丁寧なお返事ありがとうございました。確かに私はuumin3さんの想定した人たちとはあまり重ならないのですが、思うところがあり意見させていただきました。
ところで以前、私も親子関係になぞらえて自己と国の関係を考えたことがあるのですが、私の場合うまく行きませんでした。簡単に申しますと、親からは物理的にも精神的にも何を受け継いでいるか具体的に認識できる(よい点、悪い点を含め)一方で、国との関係はあまりに曖昧でつながりを深く認識できなかったのです。
私は「日本が嫌いか」と問われれば「それなりに好きだ」と答えます。日本の気候風土・文化はむしろ愛していると言えるでしょう。ありません。しかし愛「国」心と言われると抵抗を感じます。それは、権力が「日本の文化・歴史」を一元的に総括し、それをまとってその根拠を正統化しているように思われます。日本の文化は歴史的に見れば紆余曲折を経て、多元的に形成されてきたもので、神代の時代から確固たる「日本」があったと考えるのは幻想です。uumin3が挙げておられた本居宣長あたりがその幻想の源流なのでしょう。私は日本は元々多様であった、と考えています。だから大上段に振りかぶった「日本」に懐疑的なのだと思います。もし、今後の日本が真に多様性を受け入れる社会となれば、私も自然に愛国心を持つかもしれません。
最近『日本語は誰のものか』(川口良・角田史幸 吉川弘文館)という本を読みました。日本語の歴史的多様性を扱った好著だと思います。私はもう少しこういう意見が出てこないと日本の思想的健全性が保てないのではないか、と思うのです。
しかし、今回思想的には異なる立場の方との対話が成立して、日本の多様性もまだまだ捨てたものではないと思い至りました。大変嬉しく思いました。ありがとうございます。幼稚に右傾化したネット言説に失望し、これを解体するには同じ手法で相対化していくしないなどと考えていたところでしたので。
最後に重ねて御礼申し上げます。
uumin3 2005/05/30 22:01 再度のコメントありがとうございました>hazama-hazamaさん 一人一人の意見は、どこか隠れた前提が違うので一致をみない時もあるのですが、それが却って刺激になるときはとても得した気分になれます。多分そういう有難い機会を与えていただいたのではないかと…。いただいたコメントで気付いたのですが、私は二十代の半ば以降それなりに外国の方と知り合いになり、それぞれの国の方の「国を想う」言葉に大変刺激されたのだと思います。素直にそれが聞けたからこそ、素直に日本のことが考えられたというか、そういうきっかけになったのでしょう。また別口ですが、韓国が私の「仮想敵」(笑)になってくれたおかげで大変勉強になりました。皮肉はちょっと入りますが、韓国にも感謝したいと思います。ただ、私の考えに近い方とも出会い、すれ違ってきましたが、ミイラ取りがミイラになる例は予想外に多かったと感じています。そこだけはお気をつけください。では。