「般若心経講義」(紀野一義/PHP文庫)絶版
→みなさまは宗教と聞くと、うさんくさいと思いませんか。
とくにこのブログをお読みになっているのは若いひとが多いでしょうから。
まあ、これを書いているものは、じぶんもまだまだ若いと思っていますが。
宗教というのはウソなわけである。
若者は全般的にどうしても事実を真実を求めようとする。
(伝統的な)宗教と若者が相容れないゆえんである。
たとえば、ガンについて紀野一義はいう。
「『癌』様、ありがとうございます。
生かさせていただいてありがとうございます。
であるべきなのに、
『癌は悪いものだ、切って捨ててしまえ』
とは何ごとであるか」(P144)
とんでもないことを書いているわけでしょう。
気持悪いといったほうがいいかもしれない。
真っ赤なウソである。ガンになってありがとうなどというバカはいない。
ところが、これこそ宗教的なるものの本質なのである。
もしガン患者が「ガンよ、ありがとう」と思えたら、この病人は救われるのだ。
宗教のパワーはフィクションを根源としている。
紀野一義は仏教一般書を濫作しているライター。
岩波文庫のいくつかの仏教経典にも訳注メンバーとして名を連ねているから、
いちおう学者でもあるのだろう。
宗教家でもある。在家仏教団体の真如会を設立。主幹をしている。
身もふたもないことをいってしまうと、宗教教団の教祖でもあるのだ。
よって、以下に紹介するようなエピソードも平気で語る。
紀野一義は若者の命をふたり救ったことがあるのだという。
ある仏教専門の古書店主人から紀野はこんな話を聞かされる。
ある日、若者が紀野先生(と著者本人がじぶんを先生と書いているのは笑える)
の本ばかりまとめて購入したという。
店主が理由を聞くと、若者は紀野一義の本を読んで自殺を思いとどまったとのこと。
だから、紀野先生のご著作を集めている。
かりにこれが事実だとしても自著で自慢として書くことだろうか。
古本屋主人のおべっかだと思わない純粋さは宗教家らしいかわいげがあるが、
それでもこの手の話をなんの恥じらいもなく
一般書に公開する宗教家の無神経にはぞっとする。
もうひとり命を救っていると書かれてある。これも若者。
講演会のあと、手紙が来たというのである。
先生の法話をうかがって自殺をやめることにしたと書かれていた。
このふたつのエピソードは本書の191〜194ページに記載されている。
紀野一義は、じぶんが若者の命を救ったと思っているのである。
あるいは、もう少し謙虚に、仏様がじぶんを通して救済された、との考えかもしれぬ。
どちらにせよ笑止千万である。人間を、若者を、紀野は理解していない。
たとえいっときは紀野のウソで自殺を思いとどまっても、
どうしてかれらがその数年後に自殺しなかったと断言できるのか。
多忙な有名人である紀野一義がかれら自殺志願者と一生涯つきあったはずもない。
ウソには有効期間があるのである。
1ヶ月は紀野のウソにだまされたかもしれない。
興奮して手紙を書くこともあるであろう。
だが、この程度の男のウソが年単位で持つとはとうてい思えない。
ひとを惹きつけるのも、(あるとすれば)救済するのもウソのつきかたいかんである。
紀野一義はあまり上等な詐欺師(=宗教家)とは思えないというのが結論である。
それはこんなウソからもわかるだろう。紀野は書いている。
じぶんはもう名前を残したいという思いはなくなった。
いいお坊さんになりたいという欲望もない(P196)。
紀野先生、へたなウソをつくのはおやめなさいと失笑したものである。
最後にひとつ、なるほどと思った指摘を記す。
般若心経においては有名な色即是空よりも、空即是色味わい深いのではないか。
というのも空即是色は、
「空しさのどん底でひっくり返ってまっしぐらに明るい方に立ち昇ってくる」
ような感じがあるからである(P87)。
このとき尾崎放哉の俳句は色即是空で、種田山頭火のえがく世界は空即是色である。
こればかりはそうとうに卓抜な意見といえよう。
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