� とがき（『松本清張短篇全集１』光文社カッパ・ノベルス、昭38.12）

　「西郷札（さいごうさつ）」は昭和二十六年に書いた。いわば私の処女作品で� る。
　私は十七八のころ、九州小倉で文学好きな友だちと創作のまねごとをやり、たがいに原稿の回し読みなどしていたが、小説を志しては食ってゆけないと思い、そのほうはぷっつりやめた。昭和二十六年というと私が四十二のころで、二十三四年間は何も書かなかったわけだ。この小説は、当時『週刊朝日』が募集していた"百万人の小説"に応募するためのもので、締切りにだいぶん遅れて出したことを憶えている。作品のヒントになったのは、たまたま百科事典の中で"西郷札"の項を読んだときで� る。これは今までもほうぼうで書いていることなので、くわしくは繰り返さない。
　ただ、賊軍の発行した軍票の西郷札が投機の対象になったのは、その前に岩崎弥太郎（いわさきやたろう）による藩札（はんさつ）買占めの例が� るからで、納得性が� ると思った。まさか当選するとは思わなかったが、予選の通過者の中に自分の名の活字を見つけたときはうれしかった。
　そのころ、私は朝日新聞西部本社（小倉)に籍を置いていて、毎日刺激のない日を送っていた。� るとき、上役が『週刊朝日』に載っている予選通過者の中に私の名前を見て「君ィ、こんなこともやってんのかァ。」とその雑誌を眼の前に持ってきたのが記憶に残っている。なお、さし絵が岩田専太郎（いわたせんたろう）さんで、当時の花形さし絵画家を使ってくれたことはうれしかった。
　この作品を読んだ大仏次郎（おさらぎじろう）、火野葦平（ひの� しへい）、長谷川伸（はせがわしん）氏などから手紙を貰ったこともうれしい一つだった。そのころ『三田文学』を編集していた木々高太郎（きぎたかたろう）氏がこの小説を読んで『三田文学』に書くようにすすめてくださった。そんなわけで、私には幸福な思い出の� る作品で� る。
「くるま宿」は、現在つぶれているが、戦後講談社から分かれた世界社の『冨士』という雑誌に載った。やはり「西郷札」を読んだ編集長が、小倉にいる私に手紙をくれたのだが、依頼原稿の第一号で� る。社長の萱原宏一（かやはらこういち）氏は講談社の名編集長だった人で、この作品の因縁から、現在もときどき文通をしている。たまたま、九州から上京して萱原氏に会い、「わたしが眼をつけた無名作家はほとんど� とでモノになっている。」と言われたのが印象深かった。
　前記のように、木々高太郎氏から何か書けと言われて送ったのが「火の記憶」で� る。しかし、氏のことだから、推理小説を書いたほうがどこかの雑誌に紹介されると思い、このような作品になった。ところが、すぐに『三田文学』に載ったのでとまどった。そこで同誌の性格に合う小説をと思い、つぎに提出したのが「或（� ）る小倉（こくら）日記伝」で� る。
　この作品とはべつに『オール読物』の編集部に「啾々吟（しゅうしゅうぎん）」を送った。これは自分でも、せいいっぱい書いたと思い、編集部の反響を待っていた。� くる年の正月に私が宇佐（うさ）神宮に行って帰宅してみると、当時の編集長上林吾郎（かんばやしごろう）氏から、新人杯を受けるかどうかの問い合わせ電報が来ていた。じつは『オール読物』では新人杯を新設し、私の作品もその候補作に繰り入れられたので� った。もとより、当選すればお受けすると返電しておいた。
　すると、まもなく『三田文学』に載った「或る小倉日記伝」が昭和二十七年下半期の直木賞候補になっているという通知を受けた。その当時、私は門司鉄道局より九州の観光ポスターの依頼を受け、スケッチに鹿児島に行かなければならなかった。南国には珍しく寒い日で、霰（� られ）の降る桜島で指をかじかまぜながら画� に鉛筆を走らせた。その旅から帰ってみると「啾々吟」は新人杯を逸し、二席になったという通知がきていた。一席は南条範夫君で� った。
　つづいて直木賞の鈴衡委員会では「或る小倉日記伝」は芥川賞銓衡委員会に回され、そこで受賞ときまった。五味康祐（ごみこうすけ）君の「喪神（そうしん）」と抱き合わせだった。私は車を駆って来訪してくれた朝日新聞記者のことばが信じられず、毎日新聞の支局に問い合わせて、はじめてほんとうだと納得したくらいだった。この作品は選後評によると、滝井孝作（たきいこうさく）、川端康成（かわばたやすなり）、坂口安吾（さかぐち� んご）などの諸氏から推薦されはしたが、概して不評判だった。
　「西郷札」を書いて、「啾々吟」や「或る小倉日記伝」に取りかかる一年半ばかりは、若松にときどき帰ってくる火野葦平（ひの� しへい）氏のところへ足をはこんだ。また家が近い岩下俊作（いわしたしゅんさく）氏(「無法松の一生」の作者)のところにも原稿を携（たずさ）えて訪問した。「西郷札」は発表と同時にその年の直木賞候補になったので、私は馬車うまのようにこの道に進む決心になったのだ。岩下氏のところへは作品を書いては持ってゆき、その場で読み聞かせたが、いそがしい火野氏には、� まり長いものは読んでくれないだろうと思い、十七枚ぐらいの短編をいくつか提出した。しかし、火野氏の周囲にいる『九州文学』の同人たちとはどうしてもなじめず、また先方も私を排撃するふうに思えたので、そのグループとは無縁で終わった。
　昭和二十八年二月、芥川賞受賞式のために上京したが、さっそく『文芸春秋』から第二作と、「オール読物」からも同様な依頼を受けた。もっとも、受賞式のほうは現在のように派手なものではなく、同社の旧館の地下室で、文壇人も新聞記者もひとりもこない佗（わび）しいものだった。また受賞しても現在のようにマスコミに大さわぎされることもなかった。『文芸春秋』の第二作は、小倉に� る養老院の内部に取材したもので、暗い小説で� った。この原稿は返送された。理由としてはその前号にやはり養老院に取材した小山いと子さんの作品が載ったからということになっているが、今から考えると、どうもでき（２字傍点）が悪かったのが原因らしい。
　そこで、書き直して出したのが、小倉在住の女流俳人杉田久女（すぎたひさじょ）をモデルとした「菊枕（きくまくら）」で� る。三十枚にもたりない小編だった。
　一方、『オール読物』には「� 妻（ごんさい）」というのを出したが、これは組みおきのまま、当分陽（ひ）の目を見なかった。それよりも『別冊文芸春秋」に出した「梟示抄（きょうじしょう）」がさきに載り、つづいて「戦国� 謀」が載った。どちらも歴史小説なので、私はすぐに歴史小説作家のレッテルを貼りつけられてしまった。
　「白梅（しらうめ）の香（かおり）」はその前で、今は廃刊となった講談社の『キング』に出した。今から見ると幼稚なものだが、当時の思い出として� えてここに収録することとした。
「情死傍観」（『小説公園』)は、阿蘇（� そ）火山に飛びこむ自殺者を救う小屋のおやじから聞いた話を� 返ししたもので� る。そのころの私は、小倉から阿蘇に行くのも大旅行だった。そのために、この阿蘇行きはよほど強い印象を受けたので� る。
「西郷札」を書いたころは万年筆を買うことができず、はじめは貰いもののシャープペンシルで粗悪な雑記� や使用ずみの原稿用紙の� を返して書きつけた。そのころ、私の家は小倉の郊外に� って、新聞社に行くのに鉄道線路を伝ったほうが時間的に早かった。まだ普通の靴を買うことができず、復員の兵隊靴で出社していたくらいだ。服もやはり兵隊服で押し通していた。この恰好は私ひとりくらいになっていたが、多少社内の空気に反発した依怙地（いこじ）も� る。そのため部長からいやな顔をされた。
　� る日、線路を伝って帰るさい、大事なシャープペンシルをポケットから落としてしまった。線路には石が多いので、どこにいったかわからない。一時間ぐらい捜して諦（� きら）め、それからは普通のペンとインクで書くようになった。� カバーに載っているのは、その下書きの一つで、当時はこういうふうに下書きしてから原稿用紙に移したものだった。高い原稿用紙が無駄にできなかったからだ。そのくせがついて、今でも私は原稿用紙の反古（ほご）がきわめて少ない。
　小説修業をしたことのない私は、どのような小説を志すべきか見当がつかなかった。ただ、他人の行く道は踏みたくなかった。
昭和三十八年十一月

眞鍋天門

「明治四十三年の秋だつたと思ふ。福岡東公園の何処だつたか、かなりの広間を持つてゐた会場で、子規忌の俳句大会が催された。薫風郎、禅寺洞、閉寺爐、滴華、四水、淙珊樓等も来てゐたか、記憶は濛朧としてゐるが、当日福岡二十四聯隊から出席したと思はれる一兵士があつた。無作法に仰臥して作句してゐた。蓼水と言ふ男であつた。なか／＼きび／＼した口上をつかふ青年であつた。／それから約一年、京都の東洞院姉小路時代の阿部春峰子を訪ふて、はからずも蓼水に引合はされた。／甚ちやんに東山のあたりを案内されて、夕暮頃四條の繁華街へ出て、お上りさんすつかり面食らつて了つた。四條大橋の袂から川沿ひに三條の方へ上る小路につれ込まれた。脂粉の巷である。赤い燈の街、赤前垂の娘達が「おいでやす」「おはいりやす」「おゝけに」など、なまめいた言葉を投げてゐた。／「王樹垣（ヱン）君　先斗（ポント）町だよ」と蓼水に説明されても、ある縄のれんをくゞつたが「そうか」と言ふ認識も持たないお上りさんであつた。蓼水は何からでも先輩であつた。／それから幾十年か経て、大阪に転じた蓼水は、月斗氏の「同人」に入り天門と改号して重きをなした。予は縁者として一入親交を深くした。（略）／天門は其後、支那に渡り、蘇州から杭州へ転じ一時排日の嵐に逐はれて帰国、予の裏家なる水門楼に寓居した事がある。呉夫君が五、六才位で越二君が三ツだつたか織子夫人の乳房にぶら下つてゐた。天門の在植木時代は予と共に筑豊の各地俳壇に遊むだ。記憶の鈍い予は天門の俳句を覚えてゐないが、句評となると天門に叶ふものは一人もなかつた。／其後彼は再び支那に渡り、漢口に赴任し帰国の上、更に香港からマニラまで独特の商才を振つたが、俳句は同人から次第に遠ざかつてホトトギスに転向した。海外の殖民地では到る処ホトトギス派の人々ばかりで上海に少しばかり同人派の人がゐたに過ぎなかつた故自然そうなつた事は首肯出来た。／禅寺洞の天の川同人に転向したと言ふより郷土の雑誌と其の主幹禅寺洞の奮闘に協力してやらずばと言う彼の博多ツ兒的な気概がそうさしたと言つた方がよくはあるまいか。天門の昔の俳句は忘れ天門の現在の句は示された事がないので俳人天門として自分は論ずる資格がないかも知れないが、蕪村ばりの月斗から芭蕉趣味の虚子へ転じ、遂に定型のホトトギスから其の昭和新傾向の無定型へまで転々する若さの持主に微か矛盾がないでもない。（略）天門は俳句をやる外に絵画を鑑賞し一見識を持つてゐる。日本画は四条派であれ南宋派であれ、又洋画も各派に知己を有し、而も悉く自己掌中のものとして矛盾を感じさせぬ偉さがある。天門居を訪れて見るとそれが実證されてゐる。」（阿部王樹「天門に与ふ」、「筑豊文学」１、昭21・３）