西郷札の話
鮫島元(はじめと読む G1614)薩軍二八将の一人。何日だったか中年の人が子供を連れてこの墓のお参りに見えた。「南洲墓地に眠っている方々のお孫さんの中で私が一番若いのでは…」と。そう言われてみると此の方の子供さんはまだ小さくて、小学六年生ぐらいかなと思った。その人の話によると…
「鮫島元は宮崎の佐土原で島津啓次郎の養育係を勤めた。愈々出陣となった元は久光公の所に金借りに出向いたが、久光公はさっさと桜島へ逃げてしまう。そこで作ったのが西郷札である。宮崎の佐土原では啓次郎が渡米計画を建てた時、ニセ札は使用せずじまいだった。」と言うのも「すでに北九州のほうで発覚したので使用は出来なかったのである。元は明治十年十一月二十五日長崎で斬首刑に合う。刑が決まって一時間も待たずに処分を終えたらしい。罪状はニセ札を作りと、囚人の無断使用である。」
鮫島元の妻君は別府晋介の妹である。当時、賊徒狩りがひどかったけれど彼女は長崎まで死体引き取りに行き、木綿糸で首をつないで軍鶏(とうまる)籠に乗せて連れ帰った由。その記録は今も長崎刑務所に残っているそうだ。
ある新聞社が企画した西南戦争関係の記事に鮫島元の写真がなかったので、家族(鮫島元の子孫)が別の催しの時、写真を提出したらその写真はそのまま行方不明になったとの事だった。こんな話しはよく聞く。或人が西南の役に由来する刀を展示したら、たまたま居合わせた或代議士が「2,3日家に飾らしてくれ」と無理やり持っていったらしい。貸した方はしばらくして故人となり刀はそのまま帰ってこなかったそうだ。展覧会の主催者は展示品には責任を持ってもらいたいものだ。
(実は私も鮫島元の写真をある人に貸したままでここに掲載出来ないでいる)