西郷札 1951〜55年

新潮文庫


平成15年1月30日

潮社独自の集成による、歴史物を中心とした初期短編集。

西郷札
 (週刊朝日・春季増刊号1951)
くるま宿
 (富士1951.12)
梟示抄
 (別冊文藝春秋1953.2)
啾々吟
 (オール讀物1953.3)
戦国権謀
 (文藝春秋 1953.4)
権妻
(オール讀物1953.9)
酒井の刃傷
 (キング1954.9『忠節』改題)
二代の殉死
 (週刊朝日別冊・時代小説特集号1955.4)
面貌
 (小説公園1955.5)
恋情
 (小説公園1955.1『狐情』改題)
噂始末
 (キング1955.5『上意討』改題)
白梅の香
 (キング1955.7)

――の十二編。

 題作の『西郷札』は、懸賞に応募し掲載された著者の記念すべきデビュー作品である。同作は大仏次郎や木々高太郎などに激賞を受け、これを機会に作家への道が開けたという。選考基準が今と違うので比較できないが、この年の直木賞の候補にもなるほどの評価を受けた。
この作品を筆頭にして、本書に収められているのは同時期の歴史・時代小説群である。清張は社会派推理以外にもいくつかの作風を持っていたが、こうした歴史に対する追求は、最初期から始まり、最晩年まで継続されたといいう事がわかる。
注目すべきは、この一連の作品からは明治維新という変革期と、九州という郷土に対する強い関心が伺えることだ。つまり、清張にとってこの一連の作品は、自身のルーツでもある文化を読み解きたいという動機から出発しているのだろう。時代が江戸末期から明治に集中しているのは、現在の九州がどのように成り立ったのかという直接的な興味なのであろうし、後年にこだわりを見せる古代史は、さらにその全ての始まりを見極めたいという興味だったに違いない。

短編であるからしかたがない事かもしれないが、作中には時代背景についての書き込みがやや不足している。とくに維新の頃を描いた作品は、西郷隆盛の略伝や西南戦争の基本的な意義、征韓論などくらいは知っていないと、物語の多くは意味不明になってしまうかもしれない。もちろん一般常識だと言われればその通りなものばかりであり、これをして難解だというほうが恥ずかしいのは言うまでもない。私は不勉強であったため、これと併せて歴史のおさらいをして読書に挑むことにした。


西郷札
とある新聞社の主催で、『九州二千年文化展』と題された展示会の企画が持ち上がった。その出品物として集められた歴史的遺物の中に、ある見慣れない品が入っていた。
「西郷札」――それは西南戦争のおりに西郷軍が発行した軍票であり、彼らはこの札を使って物資を調達したというものであるらしい。西郷軍の敗戦によって紙くずと同然になり、その全ては破棄されたものと思われていた。ところがそれがきちんと保管され、現存していたのである。
この品を送ってきた者の言によれば、そこには誰にも知られること無く、歴史の片隅で埋もれてしまった男の、波乱万丈の人生があったという。それは西郷札の製造にも寄与したという樋口雄吾という男であり、全ては当人による覚書の中に記されているというが・・・。

くるま宿
明治九年の初秋のことだった。柳橋に近い《相模屋》というくるま宿に、吉兵衛という男がやってきた。彼は病気の娘を食べさせるために車を曳きたいという。身体こそ丈夫そうであったが、四十をいくらか越した年配で、車夫としては薹が立ちすぎている。
吉兵衛は自分自身のことを何も語らず、何処か謎めいた男であったが、すぐに仕事を覚え、不平不満も言わず働いた。いつしか若い車夫連中からも「おじさん」と呼ばれるほど慕われるようになり、主の清五郎も吉兵衛を重んじるようになっていた。
しかしある時、そんな男の持っていた秘密が、意外なことから明らかになる。

梟示抄
明治七年、政府軍の大久保利通が佐賀県庁に入城した時、既に《佐賀の乱》の首謀者である江藤新平は逃亡していた。御一新以降の新政府で司法卿まで務めた江藤は、前年に西郷隆盛や板垣退助と唱えた征韓論が破れて以来政界を去っていたが、この年に故郷の佐賀城を襲撃し、政府に反旗を翻したのである。しかし最後の悪あがきは、無様な敗戦として終わった。
江藤は側近と共に無傷で落ち延び、苦難の果てに徒歩で九州まで西下し、かつての盟友西郷に救いを求める。しかしその願いは聞き入れられず、四国では板垣にもにべ無く扱われてしまう。
押しとどめる事の出来ない時代の流れの中で、無謀な戦いを続ける江藤の運命は・・・。

啾々吟
明治維新を間近に控えた同じ年、同じ月日に三人の男が産声を挙げた。一人は肥前佐賀の鍋島藩の主君、肥前守直正の嫡男淳一郎であり、一人は同藩家老の息子松枝慶一郎であり、そしていま一人は御徒衆のせがれ石内嘉門だった。
この偶然は誰からも喜ばれ、三人は幼き頃より、深い繋がりを感じながら育った。しかし、最終的にその生き様は三様に分かれていく。つまり生まれ付いての家柄が、彼らにそれを選ばせたのである。大名の子、家老の子、軽輩の子、もとより同じように生きることは許される筈もなかった。
しかしこの運命は、誰よりも利発だった嘉門にとり、絶望を感じるほどの理不尽であった。これに堪えかねた彼は、ついに他の二人と袂を分かち、脱藩していった。
やがて時代は明治へと移って武士の時代は終わり、三人の家柄は無関係なものになったかに見えたが・・・。

戦国権謀
慶長十二年、既に将軍職を退いていた家康は駿府へと移り、それまで重く用いた本田正信を秀忠の守り役に残し、その子正純を代わりに使った。
一度は主を裏切りながらも、苦難の折にはせ参じたという劇的な人生を生きた正信は、その後の生涯を忠節を持って尽くし、老いては友として家康の力となった。
家康も父正信も亡き後、江戸へ老職として戻った正純を待っていたのは、彼が思い描いていたものとは、大きく違っていた。

権妻
直参の旗本杉野織部は女から妊娠したと聞かされた。女は嬉しげであったが、織部にとってはなんとしても避けたかった失態であった。自分が妻を持つ身だと話していなかった彼がいけないのである。もう四ヶ月であるというから、堕胎は身体に障る。
いったい、生まれてくる子をどうしたらいいのだろう。その前に妻に女の存在をなんと話したらいいのだろうか。一時は養子に取るかと話にもなったが、結果的に織部は孕んだ妾を捨てる事になったのである。
それから二十余年が過ぎた。時は明治へと移り、織部の武家としての力は過去のものとなりつつあった。そんなおり、隣家に越してきた新政府の役人の女房に、息子が入れあげるという事態が発覚した。自分の方こそが位が上だと思いたい織部ではあったが、家構えを見ればその勢いの差は歴然としていた。恥を忍んで隣家を訪れた織部は、その権妻の意外な正体を知る・・・。

酒井の刃傷
寛延二年正月、老中酒井雅楽頭忠恭はその職を辞し、溜間詰めとなり、領地上州前橋から播州姫路へ国替えとなった。これは忠恭自身にとっても、藩全体にとっても、願ってもないことだった。
酒井家は井伊や本多と並ぶ徳川譜代の名門であったが、五代目の忠恭は仮にも才気煥発とはいい難い小心な人間で、六年間勤めた老中職においても、何も思わしい働きを出来ないでいた。実際に城内での評判も芳しくなく、名ばかりで役に立たないものに譬えられるほどであった。
溜間詰めとしての国替えは、面目を保ったままその重責から逃れるいい口実であった。また、前橋はかつてこそ東北ににらみを利かせる重要な戦略拠点であったが、今となってはただの痩せた土地でしか無く、姫路のほうが豊かで今以上の収入も見込める。
しかし藩全員が賛成したこの話に、たった一人だけ異を唱える者がいた・・・。

二代の殉死
慶安四年(一六五一年)四月二十日、徳川三代将軍家光は病によって命を落とした。まだ壮年にあり、四八歳であった。同夜遅く、大老の堀田加賀守正盛は、主君の後を追って自害した。美しい殉死であると誰もが言い、涙を流した。
長年にわたり家光を支えた一の家来は、日々細っていく主の世話を一人で見切り、その最期を看取ったのち一度家に戻り、家族の前で厳かに別れを告げた。息子の正信は終生その時の父の言葉と姿を忘れなかった。
時は移り、正信が家督を継いだ堀田家は、先代の忠節が報いられ、功臣の家柄として重んじられた。正信は感激し、父にも負けぬ意欲で若き主君に仕え、功成り名を上げようと勤めたのだが・・・。

面貌
家康の第六子である松平忠輝。彼の人生は、彼の面貌と同じように、はじめから終わりまで、きわめて風変わりなものだった。母の茶阿の方は、家康が鷹狩りの帰りに拾ったという下賎な身分の女であり、もとよりそれほど望まれた子ではなかった。また、彼は家康に一目見ただけで「捨てよ」と言われたほど醜く生まれついた。
周囲の者の取り成しで、なんとか生きる事を許されたが、遠い養育先で育ち、父子は忠輝が七つになるまで会うことも無かったという。その後もほとんど家康から省みられることも無く、成人したのちも要職につけられず、何かにつけ「醜い」と疎まれ続ける忠輝。いつしかその心根も、面貌と同じように歪んだものになっていった・・・。

恋情
彼は田舎の小さな藩主山名家の長男として生まれた。しかし時はすでに明治へと移って久しく、爵位こそ受けたものの、新政府での扱いも小さく、一族は本家・分家そろって斜陽といってよかった。
分家の彼には許婚と言っていい娘がいた。それは本家の一人娘律子である。当人にこそ伝えていなかったが、親同士はこの約束を交わしていたのだ。二人もお互いを憎からず想っており、世が世なれば成人と共につつがなく婚姻の運びとなったろう。
しかし時代の流れは、二人の仲を引き裂いた。彼はイギリスに留学に出され、その間に律子の他家への輿入れが密かに行われたのである。本家の主包幸は中央との結びつきを重んじて、娘を差し出すことに考えを変えたのだ。
帰国ののちこれを聞かされた彼は、大いに憤り、驚愕した。なぜならその相手とは・・・。

噂始末
寛永十一年六月、将軍家光の率いる大行列が、遠州掛川に一泊するというお達しがあった。城主青山大蔵大輔幸成以下これを歓迎し、にわか造りの御殿までを建て、その到着を待った。
家光の目的は上洛であった。三度目ではあったが将軍の貫禄をもってする初めての上洛であり、きわめて大掛かりなものだった。家光はその道中で一夜の宿をこの掛川に求めたのである。困ったのはその供の人たちの宿舎であったが、これには藩士の屋敷を当てることにした。
しかし一行が到着、そして翌朝出立し、何の問題も無く終わったかに見えた後、不思議な噂が城内を騒がした。それは、百五十石の馬廻役である島倉利介の小さな屋敷で、この家の女房が宿をとった旗本と懇ろをしたというものだった。
夫はその夜、家光の警備に費やし、家を空けていた。それでも彼は妻を信じ、これを根も葉もない噂として取り合わなかったが・・・。

白梅の香
享保十六年、亀井隠岐守滋久が一年の在国を終え、参勤のために江戸屋敷に行く事になった。《武家諸法度》の定めにより、大名は一年ごとに領地と江戸を往復する《参勤交代》の義務を科せられていたのだ。
その供の一人に加えられた白井兵馬は、誰からも眉目秀麗と褒め称えられる若侍であった。まじめな性質で、浮いた噂の一つも無く、媚びない部分がかえって女たちに評判を呼んでいた。そんな兵馬が一年も領地を離れるとあって多くの娘が悲しんだが、江戸の水で磨かれたあとの男振りを思うと、はやくもその心が騒ぐほどであった。
そうして兵馬は江戸屋敷詰めになり、生真面目に勤めに励んだが、都会にこの純朴な若者を誘惑する声が無い筈も無く、しかしそれが意外な事件を生んでいく・・・。


 書に収められているものは、『梟示抄』や『戦国権謀』のように史実に沿ったものと、『西郷札』や『くるま宿』のように創作の部分が多いものの二つに分けられる。
しかしいずれも、時代に動かされて、その大きな力に生き様までを左右された人間について描かれているものが多い。その者に与えられた悲劇は重く、結末ははっきり敗れ去ったといってもいいものばかりだ。
この個人と社会の関係性は、のちの社会派推理作品にもそのまま見られる清張の作風の中核であり、ある意味ではこの時点で完成していると言ってもいいのかもしれない。

『西郷札』『くるま宿』は同じ時代背景の中で、似たような生き方をした男たちの話である。同じアイデアを膨らませた『西郷札』と、その原点の『くるま宿』といった感じだろうか。つまり、幕藩体制の崩壊により、職にあぶれた武士たちが、明治の新しい文化を象徴する人力車の車夫になるという転落である。
『西郷札』は後半部の成り行きと、事実を明かさずに興味を引くような書き方が何処となく推理小説的な感じを受けた。うがちすぎであろうか。

『梟示抄』は、明治時代の激動を描いた歴史小説だ。この江藤新平という人物はもちろん歴史上に実在し、ここに書かれた行動をそのまま取っている。そして彼もまた時代という大きなうねりの中で弄ばれた人間である。作中ではあまり書かれていないが、司法卿を務めていた時分の江藤は目覚しい活躍をし、まさに時代の先端を行く人間であった。しかしいつの間にか彼はその波に大きく遅れを取り、最後にはその中に飲まれてしまったのである。
辞世の句は「ますらをの 涙を袖にしぼりつつ まよふ心はただ君のため」だったという。

『啾々吟』は、時代の移り変わりの中で、苦闘し敗れ去った男の生き様を描いた作品だ。同じ日に生まれたのが二人では無く、三人であるという点が何処となく著者の作風をあらわしているような気がする。
つまり階級間の格差の中にある物語を書くのであれば、その両極端にある二人だけを用いても話が成立する。しかし著者はその中間にある人物を登場させ、両方を見る役割に設定している。この「見て、感じ取る」という中庸な人物を置くことで、物語と読者に程よい距離感を与えているのだ。そんな視点の役割の持たせ方とその按配が、いかにも清張流といった感じがする。

『戦国権謀』は、家康の晩年をそのすぐ傍にいた人間から描いた歴史ものである。目新しい部分がないので、やや創作動機が理解しがたい。

『権妻』は、清張の創作による明治維新のころの事件を描いたものである。事件と書いたのはそれが歴史上の騒動ではなく、個人的な殺人事件という捉え方も出来るものだからだ。これを歴史推理、または単に倒叙推理と説明出来ないこともない。
誰にも理解出来ないような理由から罪を犯してしまったり、道を踏み外してしまったりする者の悲劇は、現代ものの短編でも数多く書かれている。本作はそうした路線の時代小説版と言ったところだろう。
前後してしまうが『噂始末』『白梅の香』も同じ種類と言っていいだろう。これらはそれほど充実は感じられないが、技術的には冴えのある小品だ。とくに『白梅の香』は推理の要素が強く、その点でも興味深い。

『酒井の刃傷』は、時代の流れとずれてしまった事に気がつかない男の起こした事件を書いた物語である。つとめて公平に見て、誰が悪いのかといえば、刃傷という事件を起こし、しかもその動機も時代錯誤であった勘解由左衛門が圧倒的に悪い。しかしかつてその考えと物言いは正論であったし、彼が振るった刃も敵を打ち据えるすばらしい力であった。その事を思うと、彼もまた哀れな人間に思えてくる。清張流の人間と社会のドラマの典型と言える。
それにしても、いったいこの事件はいったいどのような形で片付いたのだろうか。

『二代の殉死』これもまた時代の変革期における人間の悲劇と言えるだろう。ただ、時代背景にある変革の流れは、他の作品に比べると緩やかで、ややその構図が解り難い。
一般に二代将軍秀忠は、まだ健在であった大御所家康の操り人形的な人物であったが、三代将軍家光はその助力なしに将軍職を務めた真の執政者で、内政に辣腕を振るった名君であったとされる。確かに家光の代で、公武の諸法度や参勤交代をはじめとする幕藩体制の基盤が築かれ、徳川政権が決定的なものになったのは史実にあるとおりだ。つまりこの時代、戦国時代の生臭い匂いが、最終的に幕府内からも消え去ったのである。
正盛の死は、その最後の残り香のようなものだった。その美しさを花とたとえるなら、あだ花であったのだ。しかし息子の正信は、父の見事な死に様に憧れすら抱き、結果としてその事が彼を旧弊な考えに縛り付けてしまった。
作中で敵役として登場する松平信綱は、武家としてではなく、幕府を運営する政治家であり、時代遅れの殉死まで遂げた正信よりも、はるかに時代に即応した人間だったのだろう。
つまりこの話は、『酒井の刃傷』を反転させて見せた作品なのだ。新潮文庫版『或る「小倉日記」伝』に収められている作品にもあるが、清張は一つの結論をあえて別の作品でひっくり返すような事をする。そこからは同じ時代の移り変わりが、別の人間には違うように作用するという皮肉や、正解が無いという清張なりの人生感などが感じられる。

『面貌』は、神君家康の嫡男として生まれつきながら、不遇な生涯に甘んじた松平忠輝の略伝である。この、ある種ドラマティックな人生は多くの作家が興味を抱き、作品にしている。最近でも隆慶一郎の『捨て童子・松平忠輝』などがある。

『恋情』は、時代の移り変わりの中で恋愛に破れていった男の物語である。引き裂かれた二人といってもいいが、よく考えれば律子の心が彼にあったかどうかはまったく確認されていない。全ては彼の妄想であったのかもしれず、つまりこれは彼一人の物語なのである。
恋愛をモチーフにしたドラマは劇的なものにしやすいが、陳腐なものにもなりやすい。この物語の場合も前半部だけであるならメロドラマとそう変わるところが無い。しかしこれを時代と人間の話に変換し、安易な悲劇で終わらせないところに、清張の主張と技巧の冴えが感じられる。