ロマンアルバム発売記念パート2。
磯監督だけでなく取り巻く関係者へも及ぶロングインタビュー。
子どもたちにとっては仮の現実も現実と同じ――まずは、文化庁メディア芸術祭の優秀賞受賞おめでとうございます。
ありがとうございます。賞をもらうということは、あんまり想定していなかったですね。むしろお客さんに喜んでいただくのが一番の賞かな、という感じです。
――最終回を終えた印象は?
自分の仕事的には及第点ギリギリくらいで心残りな部分も多いのですが、ベストは尽くしたと思っています。スタッフは本当に、おそらくアニメ業界のトップクラスに属する人ばかり参加してくれて、特に第25話・26話は本当にすごい人たちが集まってくれました。もちろんその前から私にはもったいないような人たちが手伝ってくれてましたので、そこについてはまったく不満はありません。
――ところで、この作品を通して描きたかったことはどういったことですか? 初監督作品で、あえてジュブナイルを選んだこととも関わってくるのでしょうか。
ジュブナイルという分類にあてはまるかどうかわからないのですが、ただ今回は、仮想の世界みたいなものを通じて子どもの世界を描けないかなと。大人からすると仮の現実は偽物だと言い切れるけど、子どもにとってはそうではない。仮想の世界が現実と同じぐらい価値を持っている時期というのが子ども時代なんです。子どもたちのお話じゃないと、この電脳メガネの話は成立しなかったところはあります。
――じゃあ電脳メガネを描きたかったと言うのが、その前にあったと。
たまたま一致したというか。バカバカしい話も作りたかったんで、それら全体がひとそろいになる舞台としては、やっぱり子どもの世界というのがちょうどよかったんじゃないかと。あとは、電脳っぽい作品というのはだいたい大人向けで、難しい話に特化したものは既にあるので、同じことやってもしょうがないな、という。最期はちょっと難しくなっちゃったかもしれないけど、たぶん「子どもと電脳」というのは、あんまりやられていないんじゃないかな。
――子どもの世界の描き方では「駅向こう」といった表現にとても子どもらしさを感じます。
子どもたちにとっては駅向こうはある意味「アッチの世界」みたいなものなんですね。子どもにとっては日常エリアが世界のすべてで、その外で起こっていることはすべて伝聞情報。『電脳コイル』は、その中から、本物は何かを探らなきゃいけなくなった子どもたちの話なんです。
――『電脳コイル』の企画書を作られてからもう6〜7年経つそうですが、当初考えていた構想との違いはありましたか?
そうですね……。最初はもっといいかげんな作品にしたかったんです。つじつまあわせも夢に近い感じで、ちょっと不思議なものを見たような気持ちになればいいかな、ぐらいの。そこから何も決まらないうちに勝手にシナリオを書き出して、かなり漠然と進んできました。実は中盤の第4話〜13話が先にあったんですよね。それも実際は企画書になるまでに7割ぐらい捨てて、それからさらに脚本になる時にまた7割ぐらい捨てて、コンテになるのに半分ぐらい削って……という状態で、もとはこの十数倍の量のアイデアがあったんですよ。だから世界観自体は応用がいくらでもきくタイプのもので、今回のテレビシリーズは私の『電脳コイル』世界のほんの一部に近い感覚ですね。
電脳メガネで見えるものと見えないもの――シリーズで一貫して描きたかったのはどんなことだったんですか?
最初の時点でどうしてもやりたかった部分というのは、第24話のヤサコの、心の痛みに向かって変化していくところ。そこは企画書の時点からありました。結局「メガネで見えるものが本物だ」というのと、「外して見えるものが本物だ」というのは、実は相反するものではないんです。言葉にすると相反しているんだけど、それを感じている人にとっては、どちらも真実なんですよ。最終話の「心の世界でヤサコはデンスケに触れた」というのは、実は母親の言葉を裏付けているわけです。「あったかいもの、触れられるものを信じなさい、だからデンスケは偽物なんだ」といったことを第24話で言っておきながら、第26話で「あったかくて触れられるものはデンスケだった」とまったく逆のことを言う。
――実は両方肯定しているんですね。
その感覚は、実は私自身が持っているものなんです。前からそれはあって、アニメーターでの仕事というのは、どうしてもそういう感覚に近づいていくところがある。アニメーターが描いているものはすべて文字通り絵空事なわけで、あるはずのないものです。現実にあるものをそのまま写しとる仕事をやってたら、アニメーターはだめなんですよ。そういうのはCGとか実写でいくらでも出来てしまうわけで……。「現実にないもの」を「現実にある」と思って描く仕事だから、それはさっきのデンスケの話と似たような状況なんです。偽物ではあるんだけど、描いている人間は本物としてそれを捉えている。
――それだけ対象に気持ちを込めているということでしょうか?
「気持ちを込めて」と言うと、努力してそう思おうとする感じですよね。そうではなく、「それは本当にある」と思って描くんです。これは、アニメーターの中でも認識している人といない人がいると思う。これが「実在していると思っている」んじゃなくて、「実在していると分かっている」という感じに近い。その感覚は『電脳コイル』にも盛り込めたかな。それは映像や小説などで、フィクションというジャンルに属する仕事をしている人たちは、どんな形であれ業界に入る前に本質的に知っていたはずだと思うんです。それが、業界に入ると「そんなものは嘘だから」と冷めた言い方をするのがカッコいい、プロっぽい、みたいになっていく風潮がある。でもそれは素人に向けて玄人っぽくふるまうというレベルであって、本当にその感覚を全部捨て終わっちゃった人は、もうその先に進めないですね。
――奥深いですね……。
役者さんに近い感覚かもしれない。自分はだれそれっていう本名があって、芸名もあって、さらにフィクションの役名があるっていう多重性があるから。アニメはそもそも存在自体が嘘で、偽物によって本物を作るという作業なので、ちょっと実写とは立場が違うんだけど……。何が本物かっていうのはアニメに本当に携わっている人は常に意識しているはずです。別に『電脳コイル』はアニメがテーマというわけじゃないんですけど、その感覚を表現したかった部分はちょっとありますね。
ヤサコが持っていたのは「かりそめの優しさ」――ではキャラクターのことについてお聞きしていきます。まずヤサコについて。
ヤサコは、見せかけの優しさで人とつながっている子という設定でした。本人はその「かりそめの優しさ」を間違っていることだとはまったく思っていないし。むしろ「自分はよくやっている」というぐらいに、非常に満足している。まあ、小学生だとそれでいいというか、むしろそれを身につけなさいぐらいの段階だと思うんですけど。ヤサコはイサコに否定されて、そういう優しさとは違う、もうちょっと先の優しさみたいなものに踏み込もうとするわけです。でもそうなると、その山場にあたる第24話あたりまでは、ヤサコは「かりそめの優しさ」側にいなきゃならないわけですね。そこまでずっと「主人公の状態でない主人公」というのはさすがにちょっと難しいかな、というところで悩みました。
――なるほど。
最初第1〜3話でさんざん迷ったのは、そこで主人公について紹介をしなきゃいけない時に、ヤサコだけがわからなかったんです。他のキャラたちは私の分身で、私の中に全員いるんですね。特にイサコが一番自分に近くて、イサコは楽だったんですよ。ヤサコは本当によくわからなくて、ヤサコをどう紹介するか、ヤサコに何を言わせたらいいかでしばらく悩んでいました。そのうち「その状態がヤサコの本質ということでいいんじゃないか」と思えたんですね。それで、ヤサコは周囲に巻き込まれつつ、まずはそのかりそめの言葉で語らせていこうと。
――金沢のマユミとはヤサコの性格のせいもあってケンカになりましたね。
ヤサコには「かりそめの優しさ」が思いつく優しさの上限なんです。マユミの一件でそれがほころびたけど、とりあえず引っ越すことで、別れてそれっきりになった。それで大黒市に来てからも、やっぱり今までのやり方と同じように「自分は人とうまくつきあっているんだ、誰とでも仲良くできるんだ」という意識で新生活を始めるわけです。
マユミの役目はヤサコを突き放すこと――そんなヤサコの転機になったのが第23〜24話ですね。
実際には先に言ったような理由から、第17話のハラケンとのやりとりのあたりで変化が始まってますが、一番大きな転機はそこですね。引っ越してきた頃の、周りに合わせるヤサコなら、周囲の大人や友達にあわせて電脳メガネを捨てたでしょう。あのまま異界には行かずに、そこで話は終わってるはずです。でも「胸の痛み」に気づいたヤサコは、初めて自力で、それも周囲と反する方向で動くわけです。
――書き置きを残して、金沢まで旅立ちましたね。
そうです。そしてマユミは本来そんなヤサコの決意を裏付けて助ける役回りの予定だった。でも自力で動いたはずのヤサコが、ここへきてまた他人を頼るのはないだろうと。残りの尺が少ないということもありましたが、結局マユミには「私は自分で何とかしたわ。あなたもそうして」と言わせることで、ヤサコを突き放す役目としました。マユミに突き放されたヤサコは、やはり自分の胸の痛みという理由だけでその先に進むことになったわけです。その意味では結果的にマユミはやはりヤサコの動機を後押ししているわけです。
――以後、ヤサコは自力で動いていくわけですね。
まあハラケンとオバちゃんにかなり助けられてもいますけど。最終的には全員がとめようとしても、ヤサコは逆らって自分で1人イサコの元へいった。こういった変化があって、最終的にはヤサコも私にとって他人ではなくなったかな、とりあえずヤサコの面倒は見られたかな、という感じです。
イサコの人気は想定外だった!――ではイサコはどうですか?
イサコは、絶対にものすごく嫌われて、ボロクソに叩かれるキャラになるな、と思っていたんですよ。そしたら、意外にもみなさんに温かく……というより『電脳コイル』の中では一番人気のキャラクターになって、拍子抜けです(笑)。第7話の廃工場の話は救済措置のつもりだったんですよ。嫌われすぎるとかわいそうかなということで、多少ギャグをやらせようと。でも、同じ年齢でクラスメイトにこういう奴がいたらムカつくと思いませんか? どうやら、9割方は「イサコかわいい」とか、年上からの目線だったように思います。人の内面が分かる年齢に達した人からすると、非常においしいキャラなのかもしれません。
――いわゆるツンデレキャラですよね。
私がツンデレという言葉を知ったのは『電脳コイル』の企画を始めてだいぶ経ってからなんです。ツンデレカフェなるものまであると聞いて驚愕したんですけど(笑)。イサコみたいな性格の人は現実の人間関係も不安定で、劇中のように周囲も扱いに困ると思うんですけど、ツンデレという概念のお陰で受け入れやすくなる効果があるんじゃないかと。ツンデレという枠組みを使うことで、この種の性格の人との関係を考えやすくなるんじゃないか。私はオタク文化には大変うといのですが、ツンデレという言葉はオタク文化のひとつの収穫なんじゃないかと思いました(笑)。ただ、勉強したところによると、イサコはちゃんとしたツンデレではないみたいですね。正しいツンデレは「本当は心配なんかしてないんだからね!」とか言わなくちゃいけないみたいで、その意味ではむしろフミエが近いんですよ。「しょうがないから手伝ってやるわ!」みたいな感じ。
イサコのツインテールはツンデレ娘の象徴!?――イサコは、あのツインテールも特徴的ですね。
ツンデレにはツインテールが多いというのも、後で知りました。
――イサコのツインテールは、お兄ちゃんに結ってもらっていた「子ども時代の象徴」みたいなものなんですよね?
実はそれを思いついたのは、最終話の絵コンテを描いている途中なんです。イサコが現実世界に戻ることを決意する瞬間は、音楽がかかるぐらいじゃ弱いだろうと思っていて。髪を結んでくれていたのがお兄ちゃんなら、髪と一緒にイサコ自身もほどけるということで、ちょうどいいんじゃないかと。あとアニメキャラは、髪型の造形が外側に飛び出している方が特徴をとらえやすいようで。ただ、私の造形は髪型も服もバリエーションがあまりなくて、あれが私の思いつく最大に飛び出した髪型だったんです(笑)。
周囲に逆らったヤサコと他人を受け入れたイサコ――ヤサコとイサコは対照的なキャラクターでしたね。
2人は逆の方向に進むことで成長したんですね。ヤサコは周囲に逆らって自分の理由だけで動いた時に道が開けて、イサコは他人を受け入れた時に道が開けた。兄以外に「イサコ」と呼びかけられてそれに答えたのは、最終話の異界のシーンが初めてなんです。拒否せずに受け入れた時に道が開けたという図式になってます。ヤサコとイサコは逆の行動をとることで同じ結果にたどり着いた。これは、先ほどの「本物とは何か」という話とも似た部分がある。一見矛盾するものが同じ意味を持つ瞬間ってあると思うんですよ。現実世界にもそういう側面がありますよね。「イサコ」という呼び名は、フミエの前にお兄さんの信彦がつけていました。イサコもそれをおぼろげに覚えていて、拒否反応を示したんですね。名前は他者が付けるものですが、特にニックネームは、その名前を受け入れることは相手を受け入れるかどうかに関わってくる。信彦以外からのイサコという呼びかけを受け入れた時、彼女は変化しました。異界で霧が晴れて、曲がりくねった迷い道が一本道になるカットがありましたが、あれはその変化を表現したつもりなんです。あんまり伝わらなかったかもしれない(笑)。
――最終話の「勇子のユウは勇ましいのユウ!」は印象的な台詞でした。
私としては、その台詞が一番の決め手のつもりでした。ここは原画も私自身が描いたんですよ。イサコが名付け直されることで救われるという図式なんです。「私はイサコ。名付け親はあんただ」という最期の台詞は、実は宮村優子さん(小説『電脳コイル』作者)のアイデアなんです。母性関係は、すべて彼女からきていますね。
企画書には10年後のキャラたちの姿も!?――ラストの「そして半年後」は予定通りだったんですか?
あれはある種の定番ですからね。企画書では10年後でした。その設定ではダイチが身長180cmになっていて(笑)、フミエは急速に口数が減って物静かな文学少女になっているという。京子はヤサコそっくりになっています。ヤサコ・イサコ・ハラケンはあんまり考えてなかったですが、イサコは芸術方面に行きそうな気がしています。ハラケンも学者バカっぽいので、専門業とか研究室とかでしょうね。
――その他のキャラでは、デンスケが一番かわいそうでした。
デンスケが死なない方向の話も考えたんですが、やはりどう考えても流れ的に成立しないんですね。オジジの「孫のボディーガードに」という言葉は、元々別案のシナリオではヤサコのセリフだったんですが、流れ上オジジのセリフになりました。デンスケは彼の言いつけ通り、最期までヤサコを守ったんですね。余談ですが、第2話でヤサコが「デンスケに舐めてもらうと不思議と痛みが消えた」と言っていたのは、アレは実はイマーゴの効果なんです。本来、猫目父が目指してたのはそういうもので、そこはタケルが宗助のメガネを壊した時に代弁していましたね。そしてデンスケは本来の役目を終えて、最後はカンナと同じように心の道を通ってヤサコに会いに来たというラストなんです。
――では最後に読者へのメッセージをお願いします。
やりきれなかった部分も多くありましたが、お客さんに楽しんでもらうことだけを考えて作り終えることができました。ありがとうございました。
広がる磯光雄ワールド
機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争 原画は今見るとかなり恥ずかしい仕事内容です。後半は特に心残りが多かったのですが、爆発の動きやフォルムを自分で研究するうちに、人体の動きなどにも応用できる要素が見つかって様々なことに開眼する機会になりました。原画と同時に、高山文彦監督から隙間的なデザインをする機会をいただきました。メカデザインのチーフである出渕裕さんと初めて直接的に仕事ができたことが印象深かったです。
老人Z 監督から抜擢される形でメカデザインの一部を任されました。かなりの量を描きましたが、結局あまり画面には残らなかったような気がします。デザインとは別の意味で様々な勉強になりました。
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 銃器設定という新しいジャンル自体を確立しようという意気込みを押井守監督が持たれており、その実現のために片棒を担ぐ役割でした。しかし銃器自体シンプルな実現性を求める性質が強く、架空の銃を設定するという作業自体が極めて困難なものとなりました。最終的にはデザイン優先でまとめる形となりエンタテイメントとリアリティの関係を考える上で非常に勉強になった作品です。
新世紀エヴァンゲリオン 原画の仕事は、自分としては出し切れなかった部分もあり心残りが多い作品です。脚本も同様で、放映時のオチは本来別話数で使う予定だったものを無理やりつないで使われてしまっており、ちょっと不本意でしたが、企画段階で作品を知り、初期から参加することが出来た数少ない作品でした。純粋なデザイン作業を一部手がけた他、非公式の設定も多く作りました。使われたものも使われなかったものもありましたが、作業自体面白く非常に勉強になりました。
フリクリ 企画初期段階で少し関わっていて、いろいろな案を出していました。一地域に限定して、中央にランドマークみたいなものを置くんだみたいな提言をしたりして、丘の上のアイロンはその名残ですね。最後は鶴巻和哉監督らしい作品になったと思います。
ラーゼフォン 制作的にギリギリな作品だったので苦労させられました。アニメ業界の裏表を勉強する非常にいい機会になりました。
井上俊之 貪欲なサービス精神と芸術的才能磯くんは非常に才能を持った人だと思います。ビジュアル的なところも含めて、作品全体を作るためのアイデアを一人でひねり出せる人なんです。そういう監督をほかに探すと、宮崎駿さんくらいしか思いつきませんね。そして、さらに凄い点はアイデアが尽きないことですね。通常ですと、一本つくったら「出し切った感」があるものなのですが、彼の場合はまだまだ入れ込みたいアイデアがあるんじゃないかな。
しかも、ちゃんとエンタテイメント性を持っているところが素晴らしいですね。普通アニメーター出身の監督は作画の見栄えだけに囚われがちなんですけど、磯くんの作画に対するこだわりは、「面白くするために、この作画はこうでなければならない」という明確なポイントがあるんですね。一例を挙げると『電脳コイル』第12話にあった、ダイチの父親が風呂から出てきて、全裸で歩いていく短いシーン。あれ、実は予告の映像と本編の映像が違うんですよ。元の作画には何の問題も無かったにもかかわらず「もっとばかばかしいカットにしないといけない。そうでないとこのシーンは意味がないんだ」という磯くんの意向で、リテイクになったんです。どんなに制作的に厳しい局面であっても、原画から描き直させる。「俺はやるんだ!」という磯くんのこだわりですね。
実は『電脳コイル』で一緒に仕事をするまで、彼とはあまり喋ったことはなかったんです。近づいて謎を知りたいけれども、おっかなくて近づけないというか……(笑)。漏れ聞こえてくる磯くんの仕事ぶりは、作品づくりに対してあり得ないくらい真剣なんです。彼の真剣さに比べたら、自分がビジネスライクにやってる方に思えてしまって、負い目のようなものを感じてしまったんですね。でも、一方で彼は「自分のために作品をつくる芸術家」ではなくて、――取り組み方は芸術家的なんですが――「観た人を喜ばせたいサービス業の人」なんですよ。そのバランス感覚が面白いですし、やっぱり、稀に見る人なんじゃないでしょうか。
北久保弘之 『BLOOD』のクライマックスは撮影まで任せました『BLOOD THE LAST VAMPIRE』が終わったあとに、オリジナル作品の企画がほしいという話が製作元から来たんです。それで、シリーズでも展開できそうで、単発で終わっても何とかなりそうなビデオ用の企画を用意したんだけど、そしたら先方から学園物にしてくれないかという話があって……。その話を磯くんにしたときに、彼から出てきた企画が『電脳コイル』の原型だったと思います。
磯くんは、俺が昔いたネオメディア(木村圭市郎さんが主催する作画スタジオ)に在籍していたので、系統で言うと俺の後輩にあたるんですよ。彼に初めて仕事を頼んだのは『老人Z』のときです。「ぜひメカ作監を」とお願いして、最初は引き受けてくれたんですが、途中で『おもひでぽろぽろ』に入ることになってしまい、最終的には部分的なデザインという形でしか参加してもらえませんでした。それで、残念なあまり、シャレで「イソツキ」という言葉が現場でちょっと流行ったりしました(笑)。
『老人Z』のあとは、『GOLDEN BOY』にも『ジョジョ』にも原画で入ってもらいました。彼は抜群に上手い三ツ星クラスのアニメーターだけど、発想そのものが素晴らしいので、アニメーターとしての仕事だけではもったいない。だから『BLOOD』のときは、特撮(ビジュアルエフェクト)という立場で関わってもらいました。彼が担当したのは、車輌整備庫の中に吸血鬼が落下してから、爆発炎上、ディビッドが表で「くそっ」と悪態をつくまでのアクション的なクライマックス。ここを磯くんは「『特撮』として撮影まで全部込みでやりたい」と言ってきたんです。そんなことにOKを出せるスタッフなんて、画面設計の江面(久)さんを除けば、磯くんくらいしかいませんよ。
このときの作打ちで、彼から「この車輌整備庫の中は広いのか狭いのか」と訊かれたのを覚えています。俺は「広く見せたいところもあれば狭く見せたいところもある」と答えたんだけど、「あんたは世界一中途半端な監督だ」と言われて……俺は中途半端でも「世界一」が付けばいいかなって思ったんですけど(笑)。
そんな感じで、監督の首にカッターの刃を突きつけながら仕事しているような人なので、自分が監督になったら苦しむだろうなとは思っていました。自分で自分の首に刃を突きつけるわけだから。『電脳コイル』でもきっと苦しんだと思うけど、俺からは「苦しまない監督なんて誰もいません」と言ってあげたいですね。
鶴巻和哉 『電脳コイル』は磯光雄の一端に過ぎない僕も多くの方と同じように、『ガンダム0080』で「磯光雄」を認識しました。当然、まず「上手い」と感服するわけですが、と同時にある種「特殊」だと感じました。アニメが1秒24コマの「絵」を見せているのではなく「残像」を見せているという本質を理解した上でアニメートしている。『エヴァ』第1話で担当されたロケット弾の連射シーンも、ただ炎を描いているだけじゃなくて、炎の実体と光のフレアが渾然一体となったフォルムとその動きを“見た目の印象”そのままに描いている。だから凄くリアルなんです。普通、アニメーターも「絵描き」なので、ついつい「絵」を描いちゃうんですがね。
さらに僕がショックを受けたのは、例えば爆発を描くにしてもそれによって起こる衝撃波で、後方の車両まで転がったりする「演出」です。原画として要求された爆発だけを描くんじゃなく、その空間全体を丸ごと描こうとしている。一原画として、要求以上のアイデアを盛り込むという意味では、とても演出的なアニメーターです。『劇場版エヴァ』の弐号機と量産機の戦闘シーンでも、弐号機の足元の地面が崩れたり、土くれがめくれ上がる動きを描くことで、弐号機のスピード感や巨大さが表現されていましたしね。「磯光雄都市伝説」の一つとして「巨大なモビルスーツが動くさまが、目の前にあるんだ。だからそれを描く」と言ったとか……。見えるだけじゃなくて、それによって起こる空気の動きや地面の揺れまで感じている、そんな境地なのかもしれませんね。
『エヴァ』では、磯さんは原画以外の仕事にもどんどん食い込んできて、第拾参話のシナリオとか、クレジットこそありませんが、作品のあちこちに彼のアイデアも生かされています。その後『フリクリ』の前段階に、僕は磯さんと半年くらい一緒に企画を練っていたんですが、結局その企画は実現しなかったんです。磯さんが出すアイデアはとても面白いんですが、彼自身やりたいことが多すぎて、一スタッフとして収まることなく、結果として(他人の)企画そのものを自分の色にしてしまうんですね。
だから僕は当時から「早く監督をやるべきだ」と話していたんです。一方で、強力な制作会社でないとコントロールしきれないだろう、とも思っていました(笑)。とにかく表現したいことに対して、どこまでもあきらめない人ですから。
『電脳コイル』はあれだけ様々なアイデアが入った作品なのに、それでも僕から見れば、磯さんの才能のほんの一部しか切り売りしていない。膨大な知識と深みを持ち合わせた人だから、多分次にすぐ取り掛かれる企画をいくつも抱えているはずです。実は『コイル』で仕事の依頼もいただいてたんですが、全然手伝えなくて申し訳なかったです。次の機会にも、ぜひ声をかけてください。
出渕裕 個人作家として今後花開く可能性も?磯くんと最初に仕事をしたのは『ガンダム0080』が最初ですね。僕はその時デザインワークスでしたが、監督の高山文彦さんが「こいつ、すごい才能あるんだよね」ってニコニコしながら磯くんの原画を見せてくれました。磯くんはその頃から完璧主義で、高山さんもすごく粘る人なので、2人は原画で往復書簡をやっていたんですよ。「こういうふうにやって」「いや、これはここはこうだから曲げられない」みたいな。高山さん自身は楽しそうで、僕にやりとりした手紙まで見せてくれました。そのうち原画マンの磯くんがメカデザインもやってみたいそうだと聞いたので、ちょっと描いたのを見せてもらったんです。いわゆるアニメチックなものではなかったんですが、ちゃんとデザインもできるんだなと感心しましたね。ちょうど舞台になったサイド6の軍隊が出るので、そのメカデザインを磯くんに頼んだりしました。あと、連邦軍の個人装備のデザインを手伝ってもらって、その時に彼から上がってきたデザインが、今に至るまで延々と『ガンダム』の連邦軍の正式銃として使われ続けていたりするわけで、それだけ納得できる完成度だったんだと思いますよ。
高山さんは、「自分の読みでは磯は演出の才能もあるから、もっと早く演出をやると思ってた」って言ってましたね。もう10年早く演出をやってたら、それこそ庵野(秀明)くんや宮崎(駿)さんみたいな感じに名を成していたと。確かに彼は作家性に秀でていると思いますよ。
『ラーゼフォン』で磯くんと久々に仕事を一緒にすることになったんですが、第15楽章を丸々一本やらせてほしいというのは初期の段階で彼から申告がありました。脚本、絵コンテ、演出とね。今度自分が監督をやる時のためのノウハウを手に入れたいと思っていたんでしょう。それは申告があったときに、そうなのかなと。
磯くんは『ラーゼフォン』では本当にいい仕事してくれたと思いますよ。ただね、(磯くんがやった)第15楽章の前後の話数は本業のデジタルワークスが抜けるわけですよ。こっちとしては、デジタルの責任者だったらシリーズを通してバランス良くやってもらいたいんだけど、第15楽章に戦力を集中させすぎなんだよという(笑)。あと磯くんは、自分は間違いを犯さないと思っているところがあるんじゃないかな。自分一人で何でもできちゃうところがあるし、それが自信につながっている感じかな。
僕から見れば、磯くんは分かりやすくてかわいい奴なんですけどね。ただ、外から見ると、すごく秘密主義で、自分の気持ちに気づかれたくないタイプに見えますよ。でもそう言いながら結構バレバレやん、というところが逆にかわいいんだよね(笑)。彼の才能はみんなの認めるところなんだけど、人に任せるところでは信用して任せた方がいい。じゃないと、周りのモチベーションが下がっちゃう。もっと協調性を自然に出せるようになれば、監督としてのスキルは更にアップすると思いますよ。やはりアニメーションは集団作業ですからね。ただ、彼の資質やパーソナリティを考えると、自分がやりたいことをやれるのは新海(誠)くんみたいな個人作家の道なのかもしれないなと思ったりはしますね。たぶん、彼自身もその辺のことは分かっていて考えてるような気もします。
(インタビュー・氷川竜介)
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