囲炉裏夜話過去ログ (301〜599)


奥入瀬渓谷の滝

301 日高見川=北上川の水神 風琳堂主人 2002/04/21 20:01

 天照大神[アマテラス]の「荒魂」とされた瀬織津姫でしたが、滝神=桜神=瀬織津姫と日神=岩神=アラハバキ神が一対の関係にあることは、伊勢と三河の「桜と岩」の関係からも想像できることです。三河・竹生神社の境内社の例だけでじゅうぶんでしょうが、アラハバキの「アラ」は「荒」ですから、問題は「ハバキ」とはなにか、となります。
 ここのところ桜神=瀬織津姫を追ってきて、ふと気づいたことがあります。醸造不充分は承知ですが、基本的な仮説を述べれば、次のようになるかとおもいます。
 わたしたちは、桜をサクラというふうに読むことを当然のようにしてきました。しかし、桜の古名をなんというかといいますと、「波々伽[ははか]」といいます。としますと、桜神=瀬織津姫は「波々伽神」でもあることになります。女神=アマテラスは瀬織津姫という「荒魂」をもっているとされたことを、そのまま瀬織津姫にあてはめてみたらどういうことになるか──。  この桜の古名はなかなか味わい深いです。要するに、瀬織津姫は桜神=波々伽神で、その「荒魂」は荒波々伽神となります。アマテラスの背後に隠されたのは瀬織津姫と謎の日神でした。この日神が、伊勢神宮の創祀=アマテラスの創作と同時にこの世から完全消滅するはずはなく、ヤマト側が必死に瀬織津姫隠しをしても、瀬織津姫は存在しつづけているように、同じことが、消された日神にもいえるはずでしょう。その消された日神の異名の一つがアラハバキ神ではないかということなのです。瀬織津姫「荒魂」=荒波々伽神→アラハバキ神だというのが、わたしの基本的な仮説です。
 以下は、隠し続けられてきた瀬織津姫を、東北を舞台に、明かそうとする試みです。

 宮城県栗原郡志波姫町の志波姫神社=伊豆権現社の祭神は木花開耶姫とされ、遠野の伊豆権現社=伊豆神社の祭神は瀬織津姫と、いずれも桜と縁深い女神が表示されています。
 滝と桜と不動尊がセットとなっていることを重視するとき、木花開耶姫が滝神とされることはまずありえず、したがって不動尊と一体となることもありませんから、基本はやはり、伊豆権現社の祭神は瀬織津姫とみることができます。これは、いいかえれば、瀬織津姫が木花開耶姫に置きかえられることはあっても、木花開耶姫が瀬織津姫に置きかえられることはない、ということでもあります。瀬織津姫はアマテラスの祖型神(の一神)として伊勢にその名が隠されていたことは大きな意味をもっています。なぜなら、伊勢の元神の名に、宗像の女神は登場しても、木花開耶姫はまちがっても出てこないからです。

 陸奥国の大河=北上川は、源流の山=七時雨[ななしぐれ]山を発し、全長約250キロメートルを南下して、宮城県石巻市(石巻湾)に注いでいました(現在の河口部川筋は桃生郡北上町と河北町に変更)。この七時雨山の神は瀬織津姫でもあり、七時雨山の神をまつるのが滝不動=桜松神社(二戸郡[2002年4月からは岩手郡]安代町)です(「瀬織津姫の部屋」桜松神社を参照)。ここは瀬織津姫と不動尊を一体とみなす典型のような神社で、文字通り「不動滝」をご神体としています。『岩手の伝説を歩く』(岩手日報社)に、この滝不動=桜松神社にまつわる「伝説」が収録されています。

 昔、荒屋が里の高畑村に、おじいさんとおばあさんが住んでいた。ある日、二人が川に水くみに行くと、川上の松の木に、桜の花が咲いているのが見えた。不思議に思った二人は、川沿いに上って行くと、川が二またに分かれた。
 右の川底にきれいな姫が映って見えたので、そちらに進んで行くと滝があった。おじいさんは、荘厳な滝の力強さに不動明王の姿を、おばあさんは白糸の機を織る姫の姿を感じて、不動明王と瀬織津姫[せおりつひめ]をまつった。それからお不動さん、桜松さんと呼ばれるようになったという。

 瀬織津姫と滝と不動尊、そして桜が密接な関係をもっていること──瀬織津姫を明かそうとするものにとって、これだけ多くのヒントがちりばめられた「伝説」はない、という内容です。それと、伝説のはじまりに置かれた「川上の松の木に、桜の花が咲いている」という不思議。松は「竜燈の松」にも通じ、またその姿態や樹皮のイメージから松は竜そのものの化身ともなります。そういった松に、水の精霊が宿る桜の花が咲いたというのです。また「白糸の機を織る姫」のイメージは、まず織姫としての瀬織津姫を、そして、富士山麓が有名ですが、「白糸の滝」のイメージまで喚起させてくれます。木花開耶姫が登場しない桜伝承をもつ桜松神社の「伝説」は超一級のものです。
 こういったとっておきの伝説をもつ桜松神社の瀬織津姫が、七時雨山の神であり、この山が陸奥国の大河=北上川の源流の山なのです。
 古代日高見国の大河=日高見川が北上川と呼ばれるようになったと指摘したのは古代東北学の高橋富雄さんです。高橋さんの『古代蝦夷を考える』(吉川弘文館)に、この日高見川=北上川の水神にふれた箇所があります。

 北上下流域にきて、多賀・賀美・志太のように日高見にかかわりのある地名が見られるだけでなく、桃生[ものう]郡(宮城県)には日高見神社という名の式内社が登場する。その日高見神社は日高見水神とも呼ばれている(貞観元年<八五九>五月十八日紀)。現社殿が北上川を前にして立つのが原位置を示すかどうかは定かでないにしても、この神社が水神であるゆえんが、天平宝字三年(七五九)、この方面の桃生城が成ったことについて、翌天平宝字四年正月四日紀が「大河を跨[こ]え、峻嶺を凌[しの]」いで造営したというときの大河の河伯の意味たること、言をまたぬ。そしてこの大河がすなわち北上川たることも、その流路に照らして明らかである。この大河は桃生城付近において河道を東にとって、大海に向かった。すなわち今日の追波[おっぱ]川である。城はその大河によって成り、南北・東西はこの地において大河を渡り、大河に結ばれて往来する地形だったために、ここに河伯をまつって、鎮護・安穏の守り神としたのである。その神が日高見水神だったのであるから、この大河すなわち北上川が日高見川であったことが判明する。(高橋富雄『古代蝦夷を考える』)

 高橋さんは、北上川の川神=水神である「日高見水神」とはなにかという追究はしていませんが、日高見神社に河伯=水神がまつられている指摘はとても重要です。延喜式内社・日高見神社の現在の祭神は天照皇大神、天日別命とされ、水神=河伯の名はすっかり消されていることがわかります。
 陸奥国の北の大河が北上川としますと、南の大河は阿武隈川でしょう。阿武隈川の河口部には、安福河伯[あふくかはく]神社という、これも延喜式内社がまつられ(現所在地:宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢字堰下220)、その「河伯」=水神は速秋津比売神とされています。安福河伯はかつて「アフカハ」と読まれていましたので、これが阿武隈川の「アブクマ」へと転じたことが考えられます。あるいは阿武隈川は、固有名のない時代には「アフカハ」つまり大川と呼称されていたということかもしれません。ともかく、阿武隈川の河伯=水神の名に、瀬織津姫とともに大祓祝詞に登場する禊ぎ祓いの女神=ハヤアキツヒメが表示されていることは暗示的というべきかもしれません。
 大祓祝詞はそもそも、宗像三女神同様、祓いの女神を創作するときに三神化されたことが考えられますが、その原型神は瀬織津姫でした。なぜ三神化したかは、ここでは詳しくふれませんけど、要するに、もし一女神のままにしておきますと、この祝詞に封印した男神=気吹戸主[いぶきどぬし]神と瀬織津姫が一対の関係にある神だという痕跡が残ってしまい、祝詞創作者はこのことを嫌ったのが、女神のほうを三神化=曖昧化した理由だと考えられます。イブキドヌシ=気吹戸主神がどんな神かがもし明かされると、連動して伊勢の元の男神も明かされる可能性がある、つまり、アマテラスの祖型神が瀬織津姫ともども明かされることになり、皇祖神=アマテラス神話創作の動機が白日の下にさらされる危険があると考えられたからでしょう。
 河伯=カハクは、衰落すればカッパともなります。日高見神社=日高見水神が天照皇大神といった表示を続けますと、結果、アマテラスはカッパか、ということになります。日本の神まつりが1300年にわたって犯してきた、真の神々に対する改竄[かいざん]はこういうことになります。皮肉なものです。
 ところで、この日高見神社は、北上川の最河口部=石巻を起点にしますと、上流へ10キロほど遡ったところに位置しています。最河口部にあたる石巻市をみてみますと、ここにとても興味深い神社(延喜式内社)が存在していることに気がつきます。鳥屋神社といいます。
 現在、この鳥屋神社は二社確認できます。一つは、石巻市山下町に、もう一社は石巻市羽黒町に、です。いずれも(旧)北上川河口部にあります。前社の現在の祭神は伊豆乃比売命、後社の祭神は猿田彦大神とされています。北上川=日高見川の最河口部に伊豆乃比売という名の女神が確認できることは、とても重要なことと考えます。
「水神の化身としての桜」でふれておきましたが、志波姫神は伊豆権現ともされ、その対なる志波彦神が一説に岐神=猿田彦神ともされていたことが想起されます。石巻の鳥屋神社には志波姫・志波彦が重なっているということでしょうが、しかし、水神を女神とみれば、北上川の河口の河伯は伊豆乃比売とみるべきでしょう。
 北上川を河口から数キロ遡ったところには、これも延喜式内社とされる二俣神社があります(桃生郡河北町)。社名の「二俣」とは、北上川と追波川(これが現在の北上川)が最接近し、あるいは落ち合うところに位置しているからとおもわれますが、ここの現在の祭神は、水門神・船戸神とされています。抽象的な神名ですが、わたしたちはここでも大祓祝詞の水門神がハヤアキツヒメであったことを想起すべきかもしれません。あるいは、水門=ミトは、「三春滝桜と瀬織津姫」で明かしましたが、見渡=三渡神の「ミト」ともいえるかもしれません。ちなみに、北上川河口の石巻湾にある、金華山(「日本五弁天」の一つ金華山弁天が黄金山神社奥の院=金華山頂上にまつられる)に向かって突き出している半島=牡鹿半島には、二渡神社が少なくとも4社、地図上で確認できます。ミワタリがニワトリに転じることは『三春町史』第6巻が指摘していますので、ミワタリ=二渡とみることができます。この二渡神が北上川の河口の半島に集中してみられることは、これも貴重な事実というべきでしょう。
 二俣神社のもう一方の船戸神については、フナト→クナド、つまり岐神が考えられます。まさに二俣神にふさわしいとみるべきか、ともかく、岐神としての猿田彦をここにあててみることは可能でしょう。
としますと、北上川の河口神としての鳥屋神=伊豆乃比売と猿田彦は、二俣神社までは連続した神まつりがなされていたとみることができます。
 この二俣神社から北上川をあと少し、つまり数キロ遡ったところに、最初にふれました日高見水神=日高見神社が位置しています。
 伊豆乃比売→水門神→日高見神というように、河口部においては、北上川の水神の正確な名は出てきません。しかし、北上川の源流部の山神かつ水神=滝神は瀬織津姫で、しかも、遠野の「伊豆」神社の女神(=伊豆乃比売です)は瀬織津姫です。北上川河口部の「伊豆乃比売・水門神・日高見神」に共通して関わる水神は瀬織津姫である可能性はとても高いといえます。
 ここで、この可能性をさらに確証の域にまでもっていってみたいとおもいます。
 北上川は、多くの支流によって大河となり、また母なる川と認知されるものです。この大河は、日高見国日高見神社のある桃生郡桃生町で、一つの大きな支流を合流します。この支流の名は、西北から流れきたる江合[えあい]川といいます。江合川は別名に荒雄[あらお]川という名をもっています。その上流部は、コケシあるいは木地師の郷、あるいは温泉地としてよく知られる鳴子[なるこ]町です。
 江合川の源流の山は荒雄岳(984.2m)ですから、川名としての江合川というのは、荒雄川が北上川と出合う=江合うという意で、荒雄川が元の川名だというべきかもしれません。
 この荒雄川=江合川流域には、北上川の水神を明かす社がいくつもみられます。それらを列挙することは今はひかえますが、荒雄川そのものを社名とする荒雄川神社をまずみてみます。
 荒尾川神社は、現在、二社が存在しています。両社の所在地は、@宮城県玉造郡鳴子町鬼塚字久瀬3、A玉造郡岩出山町字上宮宮下、です。@・Aともに延喜式内社を主張していますが、いずれがそうかはここでは問いません。ただ、二社とも共通して、主祭神を大物忌神としていることは大きな特徴です。また、興味深いことに、特にAの荒雄川神社の奥宮は、まさに荒雄岳山頂にあり、その里宮とされる社の「参拝のしおり」には、次のように書かれています。

 当社(荒雄川神社)は、玉造郡岩出山町に鎮座しており、本殿に大物忌神、建速須佐之男命、瀬織津姫命、大国主神、言代主神、大山祗神、軻遇突智神、倉稲魂神、武甕槌神、経津主神、境内に木花開耶姫命、菅原道真公、天水分神をお祀りしている。
 縄文期(中期)の遺跡、岩出山町文化財である。
 延喜式神名帳(延喜七年に編集された代表的な神社台帳)に載っている玉造三座の一つで、鬼首の荒雄岳上にあるのを奥の宮と称したのに対して当社は、里の宮と称され、神宮寺も併設されてこの地の信仰の中心となっていた。また、嘉応二年(一一七〇年)に藤原秀衝が鎮守府将軍となった時に奥州一の宮とし、室町幕府には奥州探題の大崎五郎、一の宮として崇敬し、江戸時代に至っては、岩出山伊達家の氏神となった。
 寛保三年(一七四三年)に幕命によって、江合川(荒雄川)沿いの三六所明神を合祀したので、三六社様とも称されている。

 ここには大事な証言が、少なくとも三つ書かれています。
 @ 主祭神は大物忌神であること。
 A 瀬織津姫は荒雄川沿いにまつられていたこと。
 B 1743年の「幕命」によって、「江合川(荒雄川)沿いの三六所明神を合祀」したこと。

 Bの「幕命」があったのが1743年というのは、これは事実かとおもいます。なぜなら、この翌年の1744年(延享元年)に、稗貫郡大迫[おおはさま]町にあります大迫・早池峰神社の元社の田中神社が、のちに「書き改め」を幕府(朝廷=吉田神社)から要求されることになる由緒書を盛岡南部藩へ提出させられた年だからです(1760年に、祭神表示を「瀬織津姫命」→「天照大神ノ荒魂瀬織津姫命」と変更される)。幕府側は戸籍管理と宗門改めを寺に役割らせていましたので、神社整理は幕府の利になったでしょうし、朝廷側からすれば、伊勢神宮を脅かす祭神表示を消去する目的もあり、両者の利害は一致したゆえの政策だったことが考えられます。
 合祀されたとはいえ、瀬織津姫は荒雄川「沿い」にまつられていました。「三春滝桜と瀬織津姫」でもふれましたが、水源の神・水分[みくまり]神とされるミワタリ神が、この荒雄川沿いにもまつられていること(見渡神社:古川市渕尻、および遠田郡南郷町)は重要です。このミワタリ神が瀬織津姫であることを明かすことはくりかえしませんが、ただ、ミワタリ神のルーツは、これも伊勢の地へたどることができます(松阪市を流れる川に三渡川があり、ここに三渡神社があります)。また、伊豆権現社の異名をもつ志波姫神社と同名社(古川市桜ノ目)、および、滝不動尊(遠田郡涌谷町小塚)など、水源の神=瀬織津姫ゆかりの神たちが、この荒雄川「沿い」にまつられていることも大事な証言というべきでしょう。
 さて、荒雄川=江合川そのものを社名とする荒雄川神社二社に共通して登場する大物忌神なのですが、この神は、秋田県と山形県の境界に聳える鳥海山(かつての出羽三山の一山)の神でもあり、この鳥海山の滝神=水神もまた瀬織津姫であります(一ノ滝神社・二ノ滝神社)。また、荒雄岳には水神峠の地名もあり、この大物忌神の性格は、その社名=荒雄川神社によく表れていますように、川神=水神あるいは水分神であったことがうかがえます。なお、大物忌神と大忌神は同神でしょうし、大忌神は奈良の広瀬神社の祭神で、これも瀬織津姫であることは『エミシの国の女神』が明かしていることです。
 時間差、空間差が複雑にからみあって、そして何層にもわたって瀬織津姫隠しがなされていますけど、水源神=滝神としての瀬織津姫の性格は普遍です。また、瀬織津姫は天照大神荒魂という「荒」の神とされた経緯をもっています。その「荒」をもつ荒雄川も荒雄岳も、瀬織津姫と無縁であることのほうが奇妙というべきでしょう。
 荒雄川・荒雄岳の神は、北上川と「江合う」までに、志波姫神、ミワタリ神、流れ観音(古川市上埣)、そして滝不動尊という、いくつもの水神に変化[へんげ]して下っていき、合流部においては日高見水神となります。また、日高見川=北上川最河口部においては、これも志波姫ゆかりの伊豆乃比売となり、その河口部の湾を構成する牡鹿半島にはミワタリ神=二渡神が集中し、さらにここには伊豆神社(延喜式内社・香取伊豆乃御子神社、現祭神:香取伊豆乃御子神、所在地:石巻市折浜)さえ存在しています。
 これら途方もない多くの異名のすべてに共通して関わる水神は、やはり瀬織津姫以外には存在しないだろうとおもいます。北上川の源流部の山神・水神が瀬織津姫であり、最下流部の水神もまた瀬織津姫となりますと、日高見国の大河=北上川の全流域をつかさどる水神が瀬織津姫である可能性はさらに濃厚となってきました。まさに、蝦夷[えみし]の国=日高見国の水神ということになります。

302 七福神踊り ピンクのトカゲ 2002/04/25 19:39

三河湾北岸の御津(みと)町御馬(おんま)の引間神社の祭礼、山車の海中渡御で有名な蒲郡市三谷町の三谷祭などで、七福神踊りが奉納されます。
ほかに蒲郡市の竹島、同市形原及び東大塚で七福神踊りが奉納されていると思います。
かつては、旧宝飯郡の西部の海岸地方では、祭礼の出し物としてポピュラーなものであったようで、多くの神社で奉納されていたようです。
で、この七福神踊りなぜか弁才天がいないんですよ。
お囃子の太鼓が置いてある小さな車が弁天堂で、そこに弁天様は安置
かわりに、弁天様の使いの白狐が
現在、竹島では、祭神が市杵島姫ということで、弁財天も一緒に踊るようですが
元々は、やはり白狐
下記HPに御馬の七福神踊りが見れます。
http://www.town.mito.aichi.jp/page/festiv01.htm
弁財天の使いが白狐というのも妙ですが、前に書いた御津神社の別宮・岩畳神社の伝承で、稲荷様がアブラゲならぬイカを所望したというのとなにやら関係がある気がします。

303 穂の国と隠された瀬織津姫伝承 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/04/27 10:47

豊川稲荷の門前から東に一〇〇bほどそれたところに豊川進雄神社(明治以前は、豊
川天王社)が鎮座する。
毎年7月の例祭には、拝殿から鳥居にかけて二本の綱が張られ、県の無形文化財の綱
火(張られた綱に小さな竹筒に火薬を詰めたものが「走る」煙火。以前は、境内でな
く、街中に綱が張られてという。遣り・行別れ・逆追い・車火・行戻・綱払・追い綱
の七種類がある。)と手筒煙火が奉納される。
当社は、大寶元(七〇一)年に、この地方が飢饉にみまわれ、元宮の地(現稲田神社
鎮座(祭神:櫛稲田姫)地)に牛頭天王を祭り、雨乞い祈願をしたことに始まるとさ
れる。その後、天徳元(九五七)年に現在地に遷座されたという。
大寶元年といえば、持統の三河行幸の一年前である。
稲田神社は、三河国司・大江定基が、愛妾・力寿を偲び力寿の面影を刻んだといわれ
る弁財天を本尊とする龍雲山妙音閣三明寺の裏手にあたる。
三明寺は、寺伝によれば、大寶二(七〇二)年、文武が、三河国星野之宮(現在の豊
川市柑子(こうじ)町、行明(ぎょうめい)町あたりを星野郷といった。)へ行幸の
際、現境内池のほとりで弁才天の霊験を得て、大和国橘寺の覚渕阿闍梨に命じて堂塔
を建立、開山となったと伝える。
現境内池は、今は涸れているが、「宝飯の聖水」なる湧水から流れていた。
寺伝の大寶二年の記載は、持統の三河行幸(目的は、瀬織津姫隠し)により、それ以
前に祀られていた縄文以来の水の女神が、弁財天に変更されたことは、既に触れた。
「神社を中心としたる宝飯郡史」の編者・太田亮氏は、旧宝飯郡の天王社が、勧請さ
れるのは、鎌倉時代に入ってからだとする。その理由として、熱田大宮司家が、萩
(宝飯郡音羽町萩)に領地をもち、尾張国海東郡の津島天王社を勧請したのを始まり
とする。
熱田大宮司家とは、海東大江氏のことである。
大江氏と熱田大宮司家について簡単に記すと、大江定基(九六二〜一〇三四)は、大
江斎光の子である。斎光の兄・重光の四世孫が、「傀儡師記」や「江談抄」をあらわ
した大江匡房(一〇四一〜一一一一)、匡房の曾孫の廣元(一一四八〜一二二五)
は、頼朝のブレーンとして鎌倉幕府の初代政所別当を務める。廣元の子・忠成が、尾
張国海東郡を領し、熱田大宮司家の養子となる。因みに、熱田大宮司家に養子に入っ
た忠成の兄・李光が戦国大名・毛利氏の祖となる。
「神社を中心としたる宝飯郡史」の編者・太田亮氏は、この熱田大宮司家が、萩の地
を領し、旧宝飯郡に牛頭天王信仰が広まったとするのである。
熱田大宮司家が領した萩の南に赤坂がある。
一〇世紀に成立した今昔物語には、定基が任国三河で見初めた娘の素性は、記されて
いない。
赤坂の遊君・力寿と記されるのは、一三〜一四世紀に成立した源平盛衰記に至ってか
らである。
赤坂の力寿の伝承も海東大江氏の萩進出が関わっているのであろう。
さて、この萩の地は、賀茂郷と呼ばれ、上賀茂社(祭神:別雷命・素盞嗚尊)及び下
賀茂社(祭神:玉依姫命・素盞嗚尊)が鎮座する。賀茂社に・素盞嗚尊(牛頭天王)
が祀られているあたりも海東大江氏の影響であろう。
赤坂の遊君・力寿は、後に、赤坂長者・宮道弥太次郎の娘となるのである。
宮道氏は、宮道別の裔を称し、壬申の乱の折、草壁皇子が陣を敷いたといわれる宮路
山とも関係が深い。宮道天神社の大山咋神は、定基の叡山入山と関連付けられている
が、賀茂神と大山咋神=大山祇神=三島神の関係については、風琳堂主人やあかねさ
んの指摘しているところである。
話が、萩へと飛んでしまったが、大田亮氏は、稲田神社は、鎌倉古道沿いに位置し、
萩を領した海東大江氏が早くからその経営に着手したのではないかとしている。

大田亮氏は、鎌倉古道経営のため鎌倉時代に入り、萩を領した海東大江氏が、稲田神
社の地に尾張国海東郡に鎮座する津島天王社を勧請したとする。
しかし、豊川天王社々伝によれば、天徳元(九五七)年に、現在地に遷座したとす
る。
拙稿第三話終章で書いたが、段丘崖上の天王社(牛久保三社の一つ・稲場天王社及び
豊川天王社)は、HUSKO・BET・KUS(古い川の流れ)のKUSが落ち、H
USKOのHが落ちて、USKOBETとなり、牛頭(うしこうべ)の字が当てら
れ、後に牛頭天王を祭神としたのではないかとの旨を書いた。
大寶元年に飢饉がおき雨乞い云々については、これもまた、拙稿第三話第三章で書い
た若宮殿(現牛久保八幡社)の創建の由来を思わせる。
牛久保八幡社は、天平神護年間(七六五〜七六七)に飢饉がおき、人々が離散したの
を国司が憂い氏神・若宮殿の社殿を建立したという。
続日本紀によれば、天平寶字七(七六三)年、飢饉が起きるのは、国津神を祀らない
ための天罰だとの勅令が出されている。
同書によれば、天平神護元(七六五)年に三河に飢饉が起きたと記載する。牛久保八
幡社の現在の祭神は、仁徳&応神とされている。
しかし、これはどう考えてもおかしい。氏神・若宮殿の本来の祭神は、国津神であ
る。
明治政府は、神社の格付けを行った。その社格を定めるにあたり、各神社から由緒書
を提出させた。
そのおり、豊川天王社の由緒書は、改竄されたのではないか?
因みに豊川天王社は、明治政府が定めた社挌において牛久保八幡社より上である。
海東大江氏が津島天王社を勧請する以前から稲田神社の地には、国津神が祀られてい
たのではないかと思われる。
豊川天王社の直ぐ東に曹洞宗の寺刹・祇園山徳城寺がある。
祇園は、牛頭天王ゆかりの名称であり、その名称を山号としているのである。
祇園山徳城寺は、弘仁一三(八二二)年の開基という。
本堂の裏には、弘法大師(七七四〜八三五)の錫杖の井戸がある。
深さ四尺ほどの井戸である。
寺伝によれば、大同年間(八〇六〜八一〇)、この地を訪れた弘法大師が、この地の
人々が渇水に苦しむのを見て、錫杖でついたところ、そこから水が滾々と湧き出て祭
るようになったという。
また、豊川天王社の大祭に出る「瑠璃の壺」について、徳城寺は、大寶年中、文武の
病気平癒の祈願で都に向かう途中に利修仙人が、この地に立ち寄り休息をした。
文武は、利修仙人の祈願により病気が平癒し、褒美を受けることとなった。
利修仙人は、瑠璃の壺を取り出し「この壺に米を入れて欲しい」と
米をいくら入れても壺を満たさず、利修は、途中で辞し、帰路も徳城寺にある地に立
ち寄り、この壺を市御堂に収めた。それ以降、この地が繁盛するようになったと
豊川天王社の雨乞いの逸話、三明寺の文武の星野之宮行幸の逸話、そして、瑠璃の壺
この裏に隠されているものは、明らかに持統の瀬織津姫隠しを目的とした三河行幸で
ある。
持統の三河行幸にについては、瑠璃の壺の逸話と関連する病気平癒の祈願を煙厳山
(鳳来寺)に棲む利修仙人に依頼するという逸話に変容されている。
文武の病気平癒祈願についての逸話は、天牛山医王寺(宝飯郡小坂井町篠束)にもあ
る。
文武の病気平癒を煙厳山に棲む利修仙人に依頼すべく、草鹿砥公宣卿が勅使として、
派遣された。公宣卿は、現医王寺の地において、不思議な夢を見た。
煙厳山に行く途中に川がある。川には橋が架かっていないが心配することはない。猿
が出てきて、渡してくれよう。はたして、夢のお告げどおり、川に掛かると橋がな
い。そこに猿が出てきて、橋となり、渡してくれた。これが現在の猿橋の地(新城市
出沢(すざわ))である。

一方、砥鹿神社の縁起は、草鹿砥公宣卿は、煙厳山に行く途中、本宮山中(砥鹿神社
奥宮が鎮座する。)で、道に迷っていたところ、老翁が現れる。この老翁により公宣
卿は、目的を果たせた。公宣卿は、老翁に御礼をしたい旨を述べる。老翁は、宮を建
立して欲しいと。
公宣卿は、私の着物の袖を流すから、それが流れ着いたところに宮を建立せよと。
これが、今の砥鹿神社里宮である。
さて、猿橋の夢の天牛山医王寺、砥鹿神社里宮、猿橋及び煙厳山=鳳来寺は、西南か
ら東北の一直線のライン上に並ぶ。
そして、祇園山徳城寺もこのライン上に位置する。
このラインは、豊川河口から豊川に並行して走り、煙厳山に至る。
いわば、伊勢から三河湾を渡り豊川河口から煙厳山に至る最短距離なのである。
草鹿砥氏は、明治までの砥鹿神社の世襲神官であり、その祖は、朝廷別王と考えられ
る(拙稿第一話参照)。
三河一宮と同様の名称をもつ砥鹿神社が、伊予国越智郡、駿河国庵原及び下野国河内
郡に鎮座する。
これらの砥鹿神社は、彦狭島命の東漸に関わることは、拙稿第一話拾遺九にまとめ
た。
砥鹿神社奥宮の鎮座する本宮山から見て冬至の日の入りの方角にあるのが、宮路山で
ある。
宮地山に鎮座する宮道天神社には、大山咋神が祀られている。
宮道天神社の大山咋神については、大江定基の叡山入山との関わりから説明されてい
る。
大山咋神=大山祇神=大山積神ということになれば、彦狭島−伊予皇子と関係の深い
伊予国大三島の大山祇神社の神であり、伊豆三島の三島神社の神である。
また、この神は、定基出家と関係付けられるように叡山の地主神・日吉山王の神でも
ある。
日吉山王の神の使いは、猿である。また、日本霊異記上巻一八話では、日下部の猿の
名を載せる。
そして、猿橋伝説である。まさに日吉山王の使い「猿」を草鹿砥公宣卿は、自在に
操っているのである。
豊川天王社及び祇園山徳城寺に伝わる大寶年中の伝承は、草鹿砥氏の祖・朝廷別王の
穂国入国と関係が深い土地であったのではないか。
三明寺や豊川天王社が鎮座するあたりを円福原という。豊川稲荷として知られる豊川
閣妙厳寺の山号の円福山は、円福原に因むものである。
円福原(えんぷくはら)。
アイヌ語でEN・HUXKARAは、突き出た(集落の)背後の木原。WEN・HU
XKARAで、悪い→役に立たないOR険しい(集落の)背後の木原の意味がある。
円福原に沸く清水、その土地の住民にとって信仰の対象であったであろう。
豊川天王社の拝殿の石垣に付属して井戸がある。拝殿石垣の東側の井戸である。
豊川天王社の大祭の煙火奉納の際には、奉納者は、この井戸の水をかぶり禊をしてか
ら煙火を奉納する。
まさに信仰の対象の水(神)なのである。

「神社を中心としたる宝飯郡史」の編者・太田亮氏は、豊川天王社は、尾張国海東大
江氏の鎌倉古道経営により尾張国海東郡鎮座の津島天王社から勧請されたとする。
しかし、それ以前から、この地が水神の信仰地であったことは容易に想像される。
三明寺では、定基と力寿の悲恋に仮託されているも、大寶年中の逸話を残す。
ここで、大江氏について、簡単に触れておく、大江氏は、野見宿祢を祖とし、土師
姓。山城国乙訓郡大枝を本貫とし、最初、大枝のちに、大江となる。
土師氏となれば、間人(はしひと)=土師人(はじひと)とも関連し、丹後とのつな
がりも...
平安時代の歌人で「和泉式部日記(一〇〇四)」の作者・和泉式部(生没年不詳)も
大江氏に出自を持つ。
和泉式部は、大江雅致(まさむね)の娘で和泉守橘道貞に嫁し、娘・小式部内侍をも
うける。後に、一条の中宮上東門院に仕え、更に、藤原保昌の妻となり、丹後に下
り、保昌とともに摂津の任国に赴いたが、保昌と不和となり離別。
和泉式部も丹後に下っている。丹後の間人伝承にも和泉式部伝承が被さっている可能
性もある。
丹後については、さておき、穂の国にも和泉式部伝承が残る。
三明寺々伝は、大寶二年に文武が、星野之宮に行幸の折、境内池で弁天の霊験を得
て、堂塔を建立したと伝える。
また、三明寺境内の三徳稲荷は、寶暦年間(一七五一〜一七六三)に西島稲荷から勧
請されたものといわれる。
西島稲荷は、倭姫命が斎田に定めた地であり、倭姫命が祀られているという。
倭姫命は、穂の国では、養蚕との関連での伝承が残っている。
さて、この西島には、鳳来寺の薬師如来と同木で利修仙人が造ったといわれる薬師如
来像が西島稲荷の東隣の西光山光福寺に伝わる。
西島に鳳来寺の薬師如来像が伝わったいきさつは、和泉式部が鳳来寺を訪ね授けられ
たという。
この西島をはじめ、柑子(こうじ)、行明(ぎょうめい)を中心に、正岡、塚田の現
在下郷と言われる地域が、かつての星野郷である。
三明寺では、この星野郷に文武が行幸したことになっている。
正岡の遠通山正覚寺の山門前に和泉式部供養塔の碑がある。豊川放水路浚渫前は、正
岡町南田にあったと....
碑があったところは、和泉塚と呼ばれ、和泉式部を埋葬したところだと伝えられる。
古老によれば、歯痛に霊験あらたかであったとか
星野郷には、星野行明を名乗る者がいて、この星野行明が行明(ぎょうめい)の地名
の由来とされる。
星野行明の子孫は、平尾を名乗る。また、行明には、豊川で水浴びをしていた天女の
伝説があり、星野行明の子孫の平尾家が天女の羽衣を保管している。
穂の国は、元々、丹後とのつながりが深い。また、中世にいたって大江氏とも関係す
る。
のちに丹後に下ったとされる和泉式部伝承が生まれやすい土地柄であったのではない
であろうか。
和泉式部を埋葬したとされる正岡の氏神も牛頭天王である。大江氏の勧請に関わるの
かもしれない。

304 和泉式部と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/04/28 14:35

 和泉式部と三河国司・大江定基は同時代の人で、定基の没年とされる1034年にしても、偶然かどうか、式部1034年没年説もあり、ちょっと不思議な符合という気がしています。
 ところで、三河にも和泉式部伝承があるとのこと、実は岩手県にも式部の墓があります。ただし、この和泉式部伝説は全国各地にあるようです。
 岩手県北上市にある式部の墓は、彼女の最初の旦那=橘道貞が1004年に陸奥守に任じられた事実を背景にして、かなりリアルなものとして地元では受け入れられています。また、中津攸子さんが『和泉式部秘話』という本で、式部が北上の出生で、しかも蝦夷の豪族の娘という説を書いたこともあって、地元では伝説から定説へとなりかけているようです。
 岩手県には、この和泉式部の墓とともに、菅原道真の奥さんの墓「菅公夫人の墓塚」もあります(東磐井郡東山町)。怨霊神=菅原道真は、瀬織津姫が怨霊神とみなされたことと重なるようにまつられるケースもあり、また和泉式部にしても、呪詛神=怨霊神としての貴船神=瀬織津姫とも縁深く、そして彼女は、なによりも、桜を水の精とみる認識を歌に書いていた歌人でした。

かげにさへ深くも色の見ゆるかな花こそ水の心なりけれ

 桜の花に「水の心」をみていた和泉式部は、もうそれだけで桜神=瀬織津姫と心気=神気通ずる感性の持ち主といってよいでしょう。
 彼女の二番目の旦那=藤原保昌の浮気を苦にして貴船神と対面したときの歌も印象深く、これも再読してみます。この歌には、「男(=藤原保昌)に忘られて侍りける頃、貴船に参りて、御手洗[みたらし]川にほたるのとび侍りしを見て」と詞書があります。

物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂[たま]かとぞみる

 貴船の御手洗川(下鴨神社の御手洗神は瀬織津姫です。御手洗川は別名「小物忌川」→「思ひ川」)に舞う蛍が、男をおもう自分のせつない女心=魂にみえるといった歌意でしょう。しかし、式部のよいところは、そういった感情を自分で相対化できる感性をもっていたことかもしれません。彼女は、この歌に続けて「御返り事」と詞書を添えて、次のような歌も詠んでいます。

奥山にたぎりて落つるたぎつ瀬の魂ちるばかり物な思ひそ

 詞書の「御返り事」というのは、貴船神が返歌をしたという設定を表しています。つまり、式部は貴船神になりかわってこの歌を自身に「返」しているわけです。いいかえれば、式部はここで貴船神と一体化して、その上で自己の鬼にもなりかねない心を抑えたというべきでしょう。
 和泉式部が瀬織津姫と一体化した歌は、実はもう一首あります。それは、彼女が熊野詣でをしたときのことです。彼女は、参詣の途路で「月の障り」となり、その「不浄」の態のまま神域へ参ることはできないと、次の歌を詠みます。

晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさはりとなるぞかなしき

 この歌を詠じた夜、彼女は熊野権現の「お告げ」=返歌を聞き取ります。

もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりは何かくるしき

 歌意は、「月の障りなぞ気にしなくてよい、もとより自分=熊野神は、塵=衆生と一体の神だから」となりましょうか。式部は気を取り直して熊野参詣を果たしたとされます。
 ところで、式部が参詣した熊野の那智に、「那智参詣曼荼羅」という、熊野比丘尼が各地に熊野神を広めるときに使用した「絵解き図」があり、ここに、清めの川でもある那智川の橋=二の瀬橋にたたずむ和泉式部の姿が描かれています。
 和泉式部に夢告した熊野神=那智滝神の「返歌」は、まさに女性の味方である熊野神を象徴していましたので、熊野比丘尼たちは大いに和泉式部を語りながら各地を歩いたことが想像されます。中世になってからですが、熊野信仰がなぜあれほど全国各地に伝播・普及したかの理由に、和泉式部の存在と歌は深く関わっていました。
 貴船神も熊野那智神も、もとは同神でした。和泉式部と瀬織津姫がダブルイメージとなる必然は、たしかにあったというべきでしょう。
 なお、時代は近代にまで飛びますが、瀬織津姫を詠んだ歌人に柳原白蓮がいます。彼女は、陰惨な男社会に向けて、三行半[みくだりはん]を、しかも新聞紙上で突きつけた、これも恋する歌人でした。白蓮は遠野の隣町の住田町にある鍾乳洞の滝=「天の岩戸滝」を、確信犯的に歌に残していますので紹介しておきます。

神代より隠しおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ

 和泉式部──柳原白蓮と、滝神を信じる女の情念は、根深くも、まさに神歌に近い輝きをもっています。

305 最北の延喜式内社と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/04/30 11:47

(今回はとっても長〜い話です)

 最上流部および河口部と支流・荒雄川(江合川)の探索から、北上川=日高見川の川神=水神が瀬織津姫であることがみえてきました。では、北上川の上・中流域である現在の岩手県において、このことはどれくらい実証的に語ることができるのか──今回は、この問題に照明をあててみたいとおもいます。

1 日本最北の延喜式内社
昭和14年3月10日発行の日付をもつ『岩手県神社事務提要』(以下『提要』と略記)という冊子があります。編者は「岩手県神職会」、同会の所在地は「岩手県庁社事兵事課内」と奥付に記されています。
 1937年=昭和12年には日中戦争が始まり、同書の発行年=1939年には第二次世界大戦が始まります。この神職会の所在地「岩手県庁社事兵事課内」が端的に物語っていますが、「軍国日本」の象徴のような資料です。そして日本においては軍国=神国であったことは周知のことです。
 この『提要』には、岩手県下の神社991社が郡ごとに列記されています。当時=戦前=昭和14年時点における祭神を知る上で、これは「当局お墨付き」の記録といってよいかとおもいます。
 持統時代から、つまり伊勢神宮の創祀=アマテラス(皇祖神)の創作以来、1300年の長きにわたって瀬織津姫という水源神の女神の名は消され、あるいは変更、隠されつづけてきました。江戸期もしかり、さらに明治の「近代」日本となって、それが解除されるのとはまったく逆の方向へ時代は加速します。神国は皇国であるという明治国家の祭祀思想=国家思想は、天皇の代替わりごとに強化されていきます。
 昭和天皇の即位祭典のあった昭和3年=1928年は、治安維持法(1925年に制定)に「死刑」の刑量が追加された年で、この年に遠野の早池峰神社は由緒書を「県社昇格申請」の名で没収されています。この申請書には、今からおもうとあまりに真っ正直なというしかないのですが、「維新ノ際社録ノ没収トナリ」と、当局からするとカチンときたにちがいない「史実」が書かれていました。わたしがここで「真っ正直」というのは、神社の社格を見直すという表向きの意図の背後に、当局=国家の、さらなる「社録ノ没収」の意図が隠れていることに対する、遠野側のあまりな無警戒の表現がなされていたからです。しかし、遠野のこの「真っ正直」は貴重な証言を残したというべきで、つまり、遠野側のこの資料は、明治の始まり時点で、「社録」(神社の記録・由緒)が国家に「没収」されたことを明瞭に証言しています。
 自分たちのだいじな氏神さんの名がわからない、由緒もわからないなどということの、根本の理由は、このような「没収」の歴史を長きにわたって積み重ねてきたからです。しかし「当局」の中枢(内務省神社局→神社本庁)には、これらの記録は原則として保管されているはずで、知らぬは氏子と現場の神官ばかりというのが現実です。こういった隠匿の歴史の延長上に、これからみようとする『提要』は存在しているということになります。
 わたしたちはこれまで、滝神=水神かつ桜神としての瀬織津姫を追ってきました。桜地名と瀬織津姫が色濃い関係にあることは、この『提要』にも反映されているのかどうか──。
 まず、地名としての「桜」からみてみます。地名に「桜」をもつところに存在する神社は、全991社中5社が確認できます。当時=昭和14年時点の「社格」および「所在地」そして「祭神」を書き出してみます。

◆「桜」地名に鎮座する神社
@[無格社]小清水神社【祭神=不詳】       所在地…岩手郡大更村字桜清水
A[県社]志賀理和気神社【祭神=不詳】      所在地…紫波郡赤石村桜町字赤石
B[無格社]滝清水神社【祭神=不詳】       所在地…稗貫郡花巻町下根子字桜
C[無格社]駒形神社【保食命】          所在地…下閉伊郡刈屋村刈屋字桜木
D[郷社]九戸神社【天御中主大神、宇迦能御魂命】 所在地…九戸郡伊保内村長興寺字桜沢

 次に、「桜」を社名にもつ神社も同様に書き出してみます。

◆「桜」を社名にもつ神社
E[県社]桜山神社【南部三郎光行、南部利直、南部大膳太夫、信直、南部利敬】
                        所在地…盛岡市内丸
F[無格社]桜沼神社【祭神=不詳】        所在地…岩手郡雫石村字名子
G[無格社]桜森神社【大日霊貴之命、豊受姫之命】 所在地…東磐井郡奥玉村字中ノ前
H[郷社]桜松神社【瀬織津姫命】         所在地…二戸郡荒沢村荒屋字高畑

 岩手県下全991社中、「桜」関係社は全部で9社ということになります。
 このなかで、北上川本流域にまつられる神社を抽出しますと、@・A・B・E・H、北上川支流域にまつられる神社はF(雫石川)、G(千厩川)です。
 9社中7社が北上川流域にまつられているわけですが、Eは南部藩藩主の霊をまつるということで、ここからは一応はずして考えます。また、北上川本流の水神とはなにかということで、支流域の神社も一応はずしてみます。
 としますと、北上川本流域に鎮座する「桜」関係社は、4社となります。あらためて書き出してみます。

@[無格社]小清水神社 【祭神=不詳】      所在地…岩手郡大更村字桜清水
A[県社]志賀理和気神社【祭神=不詳】      所在地…紫波郡赤石村桜町字赤石
B[無格社]滝清水神社 【祭神=不詳】      所在地…稗貫郡花巻町下根子字桜
H[郷社]桜松神社   【祭神=瀬織津姫命】   所在地…二戸郡荒沢村荒屋字高畑

 Hの桜松神社=滝不動については、北上川の源流山=七時雨山の神をまつるということでここに入れましたが、社の正確な鎮座地は、七時雨山の西麓、同山から流れ出す不動川(安比川の小支流。安比川は馬淵川の支流)の源流部です。桜松神社については、「日高見川=北上川の水神」で、その「伝説」ともどもふれましたので、今回は@・A・Bに絞ってみてみます。
 ここで、おそらくだれもが「おや?」と気づかれることがあるかとおもいます。それは、まず、3社とも共通して「祭神不詳」だということでしょう。それと、Aの志賀理和気神社の存在です。ここは、日本最北の延喜式内社でもあり、そのことが反映しているものでしょうが、戦前の社格は「県社」と、とても高い神社の「格」が与えられています(ちなみに、全991社中、県社は10社)。その高い社格をもっている延喜式内社・志賀理和気[しかりわけ]神社の祭神が「不詳」だというのはどういうことでしょう。
 この不詳問題をもう少し拡大しますと、『提要』はさらに奇妙な事実を証言していることがみえてきます。それは、県社の上に位置するのが国幣社なのですが、岩手県においては、延喜式内社・駒形神社一社が「国幣小社」とされていて、しかも、ここも「祭神不詳」なのです。
 県社・国幣小社といった別格の神社の祭神が「不詳」とはどういうことか、という疑問がわいてきます。どんな神をまつっているのかは「不詳」だが、神社として優遇する=管轄するというのはどういうことかということでもあります。
 わたしたちが祭神不詳という表現に出会うとき、まず考えられるのは、文字通り「わからない」のだなということです。これは、祭祀人がいなくなった祠などにおいてはありうることです。また、もうひとついえることは、嘘の祭神表示をする=させられるくらいなら「祭神不詳」としておけというケースです。県社・国幣社といった社格においては、前者のケースは考えられず、後者を想定するしかありません。
 駒形神社についてはここではこれ以上ふれませんが、県社=志賀理和気神社については、少しこだわってみたいとおもいます。なぜなら、この神社は、北上川に面しているばかりでなく、その所在地の「桜」地名と関わるでしょうが、神社境内には樹齢700年ともいわれる「縁結びの桜」(正式名は南面[みなおも]の桜)もあるからです。
 まず、「藩命による郷土史料」(序文)とされる、江戸期の文献『旧蹟遺聞』(文化三年上梓)からみてみます(『南部叢書』第7巻所収)。江戸時代の話です。

■志加里[ママ]和気神社
しかりわけの神社は、今志波郡郡山の辺に赤石明神といへるあり、この御社なりといへり。こははやく志加里和気神社と定められたれど、其後火にあひて、古き縁起・神宝やうの物焼たれば、今はしるべきよしなし、その定られたりし頃までは、たしかなる証こそ有つらめ。此み社の古書にみえたるは、延喜神名式に、陸奥国斯波郡一座。小志加里和気神社。また文徳実録に、仁寿二年八月辛未[ママ]。伊豆佐盗_。登奈考[孝]志神。志加里和気神並加正五位下云々。

 ここから読み取れることはいくつかありますが、瀬織津姫を明かす関心からいえば、次の4つがとりあえず挙げられるかとおもいます。

@田村麻呂時代(延暦22年=803年)に「志波城」が築かれましたが、延喜時代には「斯波郡」、江戸時代には「志波郡」(志和郡)、そして現在は「紫波郡」と、「しわ」の漢字表記は変転があること。
A志賀理和気神は「赤石明神」と呼称されていたこと。
B志賀理(=志加里)和気神社の「古き縁起・神宝」などは焼失していること。
C文徳実録の仁寿2年=803年の記録に、伊豆佐盗_、登奈考志神とともに「正五位下」という神階が朝廷=神祗官から付与されていること。

 戦前までは祭神不詳であった志賀理和気神=赤石明神なのですが、戦後現在はどうなっているかもみてみます。

■志賀理和気神社
祭神 経津主命、武甕槌尊
(由緒)
延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を 当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地を領した累代領主の厚い尊崇を受けた。
天正年間(1573−1592)南部氏がこの地を領すると殊のほか崇敬の誠を捧げ 、第三十三代利視公は「御社はとまれかくまれ志賀理和気我が十郡の国のみをさき」の和歌を献じ、社殿を造営するなど深く敬仰した。
 さらには近江商人、井筒屋など豪商も霊験あらたかな神として篤く信仰した。境内に 方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社である。
岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1(神奈備HP「延喜式神名帳」)

 戦後現在、祭神は「香取、鹿島の二神」となっていることが田村麻呂伝承とともに語られています。しかし、これらの二神は、この祭神表示どおりならば、戦前に祭神を「不詳」とする理由がわかりません。なぜなら、「香取、鹿島の二神」は、東の伊勢ともいわれるように、ヤマトの武神ですから、まさにヤマトの露骨な「復古」の戦前において、それを表示しないことのほうが不思議だからです。戦前、志賀理和気神=赤石明神の氏子の人たちは、この二神を祭神とすることを潔しとしないからこそ、あえて「祭神不詳」を通したとみることができます。
 現在の「由緒」においても、注意深く読みますと、「香取、鹿島の二神」を「勧請合祀した」としています。つまり、主神は別だということを暗に述べているわけです。としますと、志賀利和気神=赤石明神とは、ほんとうはどんな神だったのかということになります。

2 南部三山と北上川
北上川の源流の山=七時雨山は、川筋を厳密にたどったときの山なのですが、江戸時代にはこういった認識はなかったようです。享保の時代に著されたという、大巻秀詮『邦内郷村誌』(『南部叢書』第7巻所収)には、北上川の項に「水源岩鷲山・姫神岳・早池峯山」とあるからです。
岩鷲山は現在の岩手山のことで、これら三山は地元では南部三山といわれています。それぞれの山にはそれぞれの山神をまつる神社がありますので、これも『提要』から書き出してみます。

@岩鷲山──[県社]岩手山神社【祭神=大名牟遅命、宇迦之御魂命、倭建命】
A姫神岳──[村社]姫神嶽神社【祭神=速佐須良姫命】
B早池峯山─[県社]早池峰神社【祭神=姫大神】

 江戸時代、北上川の水源山とされた三山三社です。Bの早池峰神社は遠野のそれではなく、稗貫郡大迫町にある早池峰神社のことで、戦後現在は祭神を「姫大神」から瀬織津姫にもどしています。戦前において、県社という高い格を獲得しようとすれば瀬織津姫の祭神名は表に出せなかった典型といってよいかとおもいます。なお、遠野の早池峰神社は戦前から一貫して瀬織津姫を祭神だと主張していて、しかしそのことが災いしたのでしょう、その広大な信仰圏にもかかわらず、遠野・早池峰神社は「村社」という格を余儀なくされて戦後を迎えることになります。
 Aの姫神嶽神社の祭神=速佐須良姫[はやさすらひめ]命は、いうまでもなく、瀬織津姫とともに大祓祝詞=中臣祓に出てくる女神です。つまり、瀬織津姫が三身化=三神化された分身=分神の一神です(あと一神はハヤアキツヒメ=速開津姫で、阿武隈川河口の延喜式内社・安福河伯神社の祭神ともされています)。
 少なくとも、北上川源流山の三社のうち、一社=早池峯山の神は瀬織津姫であり、もう一社=姫神岳の神も瀬織津姫の分神、あるいは、一歩引いて、瀬織津姫ゆかりの神です。
 あと残りの@の岩手山神社なのですが、主祭神=大名牟遅命の是非はここでは問いませんけど、岩手山=岩鷲山もまた瀬織津姫と無縁でないことは、これも大巻秀詮『邦内郷村誌』に、「岩鷲瀑布」として「飛泉中にありて、不動尊霊験新たなり。〔中略〕絶勝水簾なり」(原文は漢文)という記述があることからわかります。不動尊と瀬織津姫が一体であることはこれまでにみてきたとおりです。
 岩手山=岩鷲山は、かつて西行によって歌に詠まれてもいましたように、「奥の富士」と呼ばれていたようです。参考までに、これも『邦内郷村誌』から引用しておきます。

■西行の岩手山讃歌三首
わすれては奥のふしとはみちのくのいはてのもりの明本のそら
くちなしのひとしほそめの薄もみちいはての山のさそしくるらん
みちのくのいわてのもりに来てみれはをくのふしとは是をいふらん

 西行歌に出てくる「奥のふし」「をくのふし」を重視するなら、「本家」富士山の神は桜神=木花開耶姫ですから、岩手山神社はこの女神を祭神として表示してもよかったはずですが、やはり国譲りの最高神である大国主=オオナムチのほうが、エミシの国の「県社」としてはふさわしいとしたのでしょう。あるいは、ほんとうは、女神でなく男神にこだわったというべきかもしれません。岩手山=岩鷲山は、鳥海山(鳥海山の山がもっとも美しく見えるのは岩手山からだといわれます)、および姫神岳と対の関係にあり、また早池峰山と岩手山と姫神岳には三角関係の民話伝承があります。つまり、これらの山々で、一人岩手山のみが男神の山として伝えられています。そして、これも愕然とする符合なのですが、あとの三山はすべて女神、しかも瀬織津姫ゆかりの山です(ただし早池峰山については、瀬織津姫の背後に男神=日神が隠れていてちょっと複雑です──『エミシの国の女神』参照)。逆に、瀬織津姫と対となる神を考えれば、やはり伊勢に隠された国津神=男神の最高神=太陽神ということになります。岩手山の神がこの男神であれば、その祭神名を表にそのまま出すことは不可能だったろうとおもいます。ともかく、国弊小社・駒形神社にしてからが「祭神不詳」なのですから、当時、「県社」の社格を得ようとすれば、大迫・早池峰神社が瀬織津姫を「姫大神」と表示せざるをえなかったように、岩手山神社も正規の祭神表示は不可能だったとみるべきでしょう。
 なお、岩手山の南にそびえる南昌山の瀑布神=滝神については、『邦内郷村誌』は「南昌瀑布」として「未曾有の壮観なり。〔中略〕この山霊は深秘を有す」とも記しています。また、県内には多くの新山神社が瀬織津姫を祭神としていますが(全18社中7社が明記)、なかには、たとえば夏油[げとう]の新山神社=新山権現などは「夏油川の東にあり。熊野か羽黒か、何神か知らず」(『邦内郷村誌』)という認識でした(瀬織津姫は熊野・那智の滝神です)。
 江戸時代、岩手山の滝「岩鷲瀑布」については「不動尊」が表の顔として認知されていましたから、すでに一般には滝神=瀬織津姫はまさに「深秘」の神だったのかもしれません。
 ともかく、山霊=滝神の神威ただならぬ気配だけは『邦内郷村誌』はよく伝えているというべきでしょう。
 江戸時代の北上川の水源山=南部三山のいずれにも、瀬織津姫が関係していることを指摘しておきます。

3 志賀利和気神=赤石明神とはなにか
『紫波町史』によりますと、「シカリワケ」の「ワケ」は「姓」の「わけ」からきた「添え言葉」で、問題は「シカリ」の語義だとなるようです。
これまで、大きく分けて二つの説がいわれてきました。一つは、菅江真澄が『けふのせはのの』で表記した「鹿猟分[しかりわけ]の社」という理解です。つまり、マタギ言葉で「しかり」は狩人集団の頭領を意味するものだというもの。もう一つは、アイヌ語で「まるい」を意味する「シカリ」からきたとする説です。いずれも、そういわれればそうかといった解釈です。
 従来の説は「シカリ」を先験的に一語とみなしていることが共通しています。しかし、同社の由緒書にも記されていましたように、この社の鎮座地は「斯波加里の郷鳰が磯野」でした。 志賀理和気神社の鎮座地は「シワカリ」の郷だというのです。
 ここでこだわってみたいのは、やはり「シワ」です。延暦22年=803年の田村麻呂の「志波城」からはじまり、弘仁2年=811年に郡名として「斯波郡」とされ、天正16年=1588年に志和郡(志波郡)に、そして明治3年=1870年に「紫波郡」へと、いくつもの漢字表記を経ながらも、変わることのない共通音が「シワ」だというのは、重要なことではないかと考えます。
 延喜式神名帳陸奥国における二つの明神大社、つまり志波姫神社と志波彦神社なのですが、後社は別名「志波道上宮」と呼ばれていました。この「志波道」および社名の「志波」が、田村麻呂の城名「志波城」にそのまま表れていることは大事な符牒だとおもいます。いいかえれば、志波姫・志波彦神は、宮城の地にのみ存在した神ではなかったといえそうなのです。宝亀7年=776年、出羽国志波村の蝦夷が叛乱した、翌777年には出羽国軍が志波村の蝦夷に敗れたという続日本紀の記録もあり、「志波」の神はかなり広域に信奉されていた可能性が高いです。
 ここで新しい仮説を提出すれば、「斯波加里の郷」は「志波神の郷」のことではなかったかとなります。つまり「シカリ」はシワカミ→シワカリ→シカリと転じたもので、その祖型神である志波姫神・志波彦神は田村麻呂の「征夷」と同時か直後に主神の座から追われ、そこにいすわった「ワケ」=別の神こそ、田村麻呂が勧請したとされる「香取、鹿島の二神」だったろうとおもいます。
『紫波町史』も、志賀理和気神社は「中央政権によって全く新規に創祀されたものではなく、以前から夷族の崇敬を受けていた在地の鎮守神を改めて官社に列したものであろう」と推測していますが、わたしは、この「在地の鎮守神」こそ志波神(志波姫と志波彦)だろうとみています。
 では、主座から追われた在地神=志波神はどこへ行ったかとなりますが、少なくとも志波彦神という男神はどこへも行かず、そのまま境内に今でも存在しています。つまり、赤石明神=赤石神社という異名が、このことを端的に語っているわけです。
 神社境内に神石として、現在も鳥居を建ててまつられている赤の大石こそ志波彦神そのものと考えられます。この赤石は、かつては神社が対面する北上川の川中にあった神石でした。いつの時代から境内にまつられるようになったかはわかりませんが、この赤石に、人々が自分たちのほんとうの神を感じとっていたことは、その赤石明神という異名や戦前の鎮座地名(紫波郡赤石村桜町字赤石)から、よく伝わってくるでしょう。
 ところで、赤石で想起されるものといえば、まず、わたしは出羽・湯殿山の神体石の赤岩を考えます。この赤石=赤岩は、山の奥で鉄分を含んだ湯に濡れ、赫々たる赤光を放っています。この岩は太陽神が影向するにふさわしいもので、それを表すかのように、岩の後ろには天照大神が隠れてまつられています(湯殿山神社の表向きの祭神は大己貴命、少彦名命、大山祗命)。
 赤石で想起されるもう一つは、その名も赤石岳(3120m)という赤石山脈=南アルプスの主峰です。赤石岳について、深田久弥さんは「日本百名山の中でこれほど寛容と威厳とを兼ねそなえた頂上はほかになく、あらゆる頂上の中で最も立派である」と称えています(HP「信州山岳ガイド」)。長野から静岡へ向かって、中央構造線に沿うように突き出す赤石山脈ですが、この山脈の西を南下するのは天竜川、東を南下するのは大井川で、いずれの川も瀬織津姫が川神=水神だというのは偶然のことではないでしょう。この「赤石」に象徴される神は、信州・駿河も、そして志波も出羽も、おそらく共通しているのではないかとおもっています。
 話を志賀利和気神社にもどします。
 消えた志波彦神が赤石と化したとして、では、消えた志波姫はどこへ行ったかという問題があります。
 大正14年12月4日の跋文の日付をもつ『紫波郡誌』に、次のような志賀理和気神社についての記述があります。

志和[ママ]理和気神社 赤石村大字桜町に鎮座の県社で祭神は不詳である。俗に赤石明神又は浮島神社とも称へられる、仁寿二年正五位下を加へられ、且つ『延喜式』内の神社である。

 志賀理和気神社の異名に、「赤石明神」のほかに、もうひとつ「浮島神社」の名があったことがわかります。この浮島神は現在判然としませんが、消えた女神=志波姫神の匂いがする社名です。郡誌は本文での言及はしていませんが、この浮島について、作者不明ながら『篤焉家訓』なる書の一文を後注で再録しています。
原文の該当箇所を意訳しますと、「当社を浮島明神というのは、その地(北上川の)川辺に、しかも窪地にあるにもかかわらず、どんな洪水のときにも沈んだことがない、その不思議な神異によって、浮島明神という」となりましょうか。
 ヤマトが日高見国への侵攻の足場として724年に築いたのが多賀城ですが、この多賀城の近くにも浮島神社があります。ここは、荒脛神社の南数百メートルのところに位置し、かつては千賀ノ浦=塩釜湾の入江の島だったようです。この浮島神社は、陸奥国宮城郡の延喜式内社・多賀[たか]神社の比定地のひとつとされています。現在の祭神は「奥鹽老翁神、奥鹽老女神」という不思議な祭神名とされています。延喜式内社・多賀神社を主張するなら、祭神表示をその本社と整合させてイザナギ・イザナミとしてよさそうなものですが、なぜか、このような不思議な祭神名となっています。おそらく、現在の鹽竈神ではなく、その「奥」の在地神=男女神を表しているのでしょう。老いたる志波彦神・志波姫神がみえるようです。
 浮島神社といえば、もう一社が浮かんできます。それは、下諏訪神社(春宮)前の砥川、その中州のような小島にある浮島神社です。ここは禊ぎ祓いの神がまつられているとされますが、この諏訪の浮島もまた、志波の浮島と同じく「どんな大水にも流されない」(下諏訪七不思議)といわれています。この諏訪の浮島の女神こそ諏訪湖の水神かつ下諏訪のほんとうの女神だったわけです。それと、下諏訪と志波に共通することに、「桜町」という同地名の存在があります。諏訪姫はまた、志波姫であった可能性があります。諏訪湖=天竜川の水神が瀬織津姫であることと、志波姫=伊豆権現=伊豆乃比売という北上川の水神が、途方もない範囲でつながってきます。
 志賀理和気神社の鎮座地「斯波加里の郷鳰が磯野」の「鳰」は「にお(にほ)」と読みます。鳰はカイツブリ科の水鳥なのですが、「鳰湖[におのうみ]」「鳰海」といえば、これは琵琶湖のことです。また、この水鳥が水辺の葦の間につくる巣は、特に「鳰の浮巣」といわれ、これは夏の季語ともなっています。さらに鳰は、潜水術にたけた鳥ということから、別名「息長[しなが]鳥」ともいわれ、「鳰鳥の」となれば「息長[おきなが]」にかかる枕詞となります。日本の神祀りにおいて、瀬織津姫と神功皇后=息長帯日売は不倶戴天の関係にありますが、息長氏の本貫の地もまた琵琶湖西岸であり、その琵琶湖の水神が瀬織津姫であることなど、志波の「鳰」は諏訪湖を越え琵琶湖にまで続いているようです。北上川の川辺=水辺の地を「鳰が磯野」と命名した者の記憶の最終地=初源の地は琵琶湖だったと想像されます。
 志波の浮島と鳰の浮巣がダブルイメージとなってきました。この浮島明神あるいは赤石明神について、「志賀理和気神社」の関係HPに、次のような一文があります。

(志賀理和気神は)地域の人々が北上川の水神を祀った水神様との推測がもっぱら。昔から北上川を往来する船頭さん達が敬い、「船霊さん」と呼んで、遠い海岸から参拝に来る漁業関係者もいる。

 志賀理和気神(の祖型神の一神=女神)が「北上川の水神を祀った水神様」という話=「推測」は、関係郡誌・町史には残念ながらみつけることができませんでしたが、これは大いにありうる話だとおもいます。この「水神様」が瀬織津姫であることは、水源山三山の考察から、そしてここに「日高見川=北上川の水神」の考察を重ねてみれば、ほぼ確定してよいかとおもいます。
 志賀理和気神社に樹齢700年かといわれる桜の古木「縁結びの桜」があり、ひょっとすると、消えた志波姫=瀬織津姫は、この桜に化身したのかもしれません。

306 播磨の赤石 あかね 2002/05/01 21:19

 ちょっと思ったのですが、ひょっとすると、兵庫県明石(アカシ)市の明石=「赤石」も、瀬織津姫さんとダイレクトに関係あるのかもしれませんね。明石は、瀬戸内海へ注ぐ明石(明石)川が流れ、明石港がある所です。赤石川上流には、三木市の「弁天川」と、神戸市の「木津川」・木貝川(この辺りは多分、昔は播磨国)などがあります。
 この赤石(アカシ)は、赤石郡であり、ちょど摂津と播磨の堺にあって、ともしび・松明の灯火(灯台の役割)からきたとか、付近の海中から取れる赤い石(硯にも用いる)からきたという説があります。
 尚、加古川以西は、大和以前は吉備国勢力の地だったという説もあり、それ故に、明石国造は、針間国造佐伯直と同様に、中央から配属された近衛系の山部連であったそうです。で、赤石には、船木氏・大海人も多くおりました。

 それから鹿島の神は、建御雷神となる以前、本来は「建甕槌神」であったといわれ、藤原・中臣が鹿島の祭祀氏族となるや、建御雷神に変えたとされます。んで、大阪北攝・茨木市の「阿為神社」(多族の藍氏)祭神は、建甕槌神であり、鹿島本来の祭神・甕神を祭祀してます。つまり、建甕槌神が外海へ出る海人たちの神であるのに対し、香取の経津主神は、内海沿岸の海人(楫取<かんとり>)たちの神だったというわけです。藤原って色々、してますね…

307 明石は赤石 風琳堂主人 2002/05/02 17:53

 日本最北の延喜式内社=志賀理和気神社は、赤石明神ともいわれていました。播磨のあかねさんの指摘はそのとおりです。赤石は明石、そしてたぶん、赤石=赤岩=「赤」伊和大神でもあったとおもいます。
 志賀理和気神社にあとからいすわった藤原神でしたが、鹿島神宮奥宮に「武御雷神荒魂」の名でまつられている神は、おそらく元鹿島=元伊勢の女神=瀬織津姫です。藤原神=武御雷神は、神話的にはじゅうぶんに荒神かつ武神なのですが、その神のさらなる「荒魂」となりますと、これは途轍もない神威をもった神だということになります。鹿島の要石に封印されているのは元鹿島の男神ですが、女神の方は、国家の災厄と罪を祓う最高神としたものの、ヤマトはそれでも恐れに畏れてきました。中臣=藤原の神隠し・神ぼかしの作為は伊勢から鹿島・香取へと、さらに全国へと徹底していますが、鹿島の元神は、伊勢経由で宗像へと通じています。
 話を明石=赤石に絞ります。
 明石郡→明石市の「明石」名の由来とも関わる由緒をもつ神社に、林神社があります。所在地は「明石市宮ノ上5-1」。ここに「赤石」が登場してきます。

■林神社「由緒」
 往古、当地海浜の巨大な赤石の上に少童海神が顕れ給うが、人皇十三代成務天皇八年風波のため赤石は海中に没した。よって翌九年(西暦一三九年)正月、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。
 一条天皇寛弘二年(一〇〇五年)、彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命の四柱を合祀し上宮五社大明神と号す。
 明治時代、境外末社の御崎大神を合祀。
 明治十四年(一八八一年)県社に列せらる。
 太古より海を見おろす高台から漁業の町明石の繁栄と、海上交通の難所明石海峡を行き交う舟の安全を見守り給う明石で最も歴史ある神社である。(神奈備HP「延喜式神名帳」)

 林神社が「上宮五社大明神」と呼ばれるようになったのは「一条天皇寛弘二年」=1005年からだそうで、この時代は藤原道長の時代にあたります。また、『小右記』によりますと、寛弘二年=1005年という年は、4月には「天変怪異により獄囚を免ずる」、11月には「雷電により非常赦」をしたとされ、『日本紀略』は11月に「内裏焼失」と記録しています。「天変怪異」は神の怒りで、「雷電」もまたそうです。
 藤原権勢の象徴のような男=藤原道長は、1004年に和泉式部の旦那=橘道貞を陸奥国に左遷した人物でもありましたが、道長が左大臣となると、道長を呪詛する陰陽師が捕縛されるなど、道長の時代は、996年の北野社の焼失から、内裏・御所の焼失だけでも数回記録される異様な時代でした。
 こういった「天変怪異」の時代と、上宮=林神社の合祀策はきっと関係があるようにおもいますが、それにしても「上宮」があったとすれば、「下宮」もあったのかもしれません。
 下宮については、ここでは深追いしませんけど、この「由緒」には、赤石→明石の由来が明快に書かれています。
 県社・林神社の祭神は「少童海神」だそうですが、わたしがこの由緒を読んでひっかかったのは、その祭神名というよりも、「明治時代、境外末社の御崎大神を合祀」したという一行です。「御崎大神」という尊称をもつ神を「合祀」したゆえに、この林神社は「県社」として遇されることになったのではないか、ということも想像されます。
 ここで気になるのは、やはり、合祀された「御崎大神」とはなにかということです。
播磨国風土記の中心の男神は伊和大神ですが、その后神が、どうもこの御崎大神=「伊和都比売[イワツヒメ]」という女神のようなのです。
 伊和都比売は明石の地にもまつられていましたが(現在の明石港近くの岩屋神社や、明石川河口部の[県社]伊弉册神社などが延喜式内社「伊和都比売神社」を自分の社だと主張しているようです)、この女神のことをストレートに伝えている神社としては、やはり、赤穂・千種川河口の岬にある「伊和都比売神社」をみるべきかもしれません。

■伊和都比売神社「由緒」
(祭神)伊和都比売大神
 当社は今を去る一千余年前平安朝の延喜式神名帳にその名を記載する古社で伊和都比売大社はもともと伊勢外宮の豊受比売とも云われ、また播磨国一宮の伊和大神即ち大穴牟遅神の比売神とも云われ古くから御崎明神と称せられた赤穂民族の祖神である。
 もとは大園と呼ぶ前方海上の八丁岩の上にお祀りしてあったのを天和三年(一六八三年)浅野内匠頭長矩が現在の地にお移ししたもので「播磨なる御崎の石だたみ海の底まで行くぞ見る」と歌われているように奇岩の上に老松が舞い岩礁の地である。
 かつては日本海々戦の勇将東郷平八郎元帥を始め歴代連合艦隊司令長官の崇敬厚くしばしば艦隊を率いて帝国海軍の勇士が参拝し、現在でも船員漁師など航海安全と大漁祈願はあとをたたず遠近からの信仰は盛んである。
 なお特に珍しいのは古くから若き男女による姫神信仰が盛んで、縁結び或いは恋人を得るにご利益のある「姫守」をうける人が多く御崎の景色と共に近時有名である。以上
兵庫県赤穂市御崎字三崎山1(神奈備HP「延喜式神名帳」)

 赤穂の伊和都比売神社の「由緒」はイワツヒメの由緒伝承を直接語るものではありませんが、伊勢外宮と同神伝承をもっていることは興味深いです。また、この女神は「もとは大園と呼ぶ前方海上の八丁岩の上にお祀りしてあった」とあり、これだけでも御崎明神=イワツヒメは航海の女神であることがわかります。
それと、このイワツヒメは「赤穂民族の祖神」だそうで、となりますと、赤穂四十七士の代表・大石内蔵介の「大石」とも関わりますが、彼の曾祖父・良勝ゆかりの佐久奈度神社から、瀬織津姫の姿が、ちらりとですが、見えてくるようです(瀬織津姫の部屋「佐久奈度神社」の「大石」参照)。
 かつて、ロシアのバルチック艦隊と決死の「日本海々戦」を戦った東郷平八郎たちは、宗像神=航海神に必勝祈願をしていましたが、瀬戸内海においては、この御崎明神=イワツヒメにも同じ祈願をしていたというのです。
 御崎神は水先神で、航海の女神が何種類もいるわけではないですから、御崎明神=イワツヒメの出自は、これも宗像の女神である可能性はすこぶる高いといわざるをえません。それと、伊勢の元神に宗像神があり、このことと関わる祭神伝承が「伊和都比売大社はもともと伊勢外宮の豊受比売とも云われ」となります。
 そしてイワツヒメは(縁)結びの神だとされていること──つまり、この神には「古くから若き男女による姫神信仰」があるというのも、伊勢において男神=日神から分離・剥離された水神=瀬織津姫の夫婦=連理の心をベースに考えると納得がいくというものです。
 御崎明神=伊和都比売大神の旦那神=伊和大神は、漢字の綾を取ってしまえば岩大神=石大神です。アラハバキ神もまた石大神です。源初の日神が影向するのが大岩=巨岩で、これは鈴鹿の石大神ばかりでなく、各地の石大神にもいえるはずです。
 志賀理和気神社の異名「浮島明神」「赤石明神」は、諏訪湖→琵琶湖から、瀬戸内海にまで拡大して考えられるようです。

308 はじめまして カヤナルミ 2002/05/06 22:48

私は九州に住んでいます。最近まで韓国古代史・近代史に興味がありました。ところがいつのまにか日本古代史に興味を持ち、日本建国の真相が知りたくて、ここのホームページに辿り着きました。ときどき寄らせてもらいます。今後ともよろしくお願いします。

309 なぜ瀬織津姫か 風琳堂主人 2002/05/07 10:23

カヤナルミさん、囲炉裏夜話をのぞいていただきありがとうございます。

 天智─天武・持統と中臣=藤原によって、現在の日本国家の原型がつくられたとみますと、その成立と継続の過程で、古い神々はどう国家によって処遇されてきたのかを、この瀬織津姫という水神を通して見直してみたい──そんな思いで一連の話がされています。
 しかし、古い神々はほんとうは「古い」わけではなく、人の生命と心に関わる神でもありましたから、その名はあれこれ変わったり=変えられたりしますけど、消滅したわけではありません。
 日本も倭の時代の最初まで遡りますと、列島西部においてですが、そこには対馬水域を中核として共有する海の民の生活圏があるばかりです。つまり、現在のような韓国も日本も当然存在しませんから、海峡を横断・交易・交流する人たちが大事にした神は、列島沿岸上を人の動きとともにまつられていったこととおもいます。
 縄文と弥生が混然一体となった生活史が<日本>のベースにあって、そこに水神=瀬織津姫はルーツをもっています。日本という国はなぜ、神々の原型である水の神と火=日の神を中心にまつることを避けたのか──こういった問いの気持ちをもって瀬織津姫に関心をもっていただくとうれしいです。瀬織津姫は文学の発生にまで関わっていますので、この女神を明かすことはほんとうに深い広がりの可能性があり、話はまだまだ続くようです。

310 三河国司と瀬織津姫についてのいくつかの補足 ピンクのトカゲ 2002/05/07 13:19

まず櫻地蔵について
25年程前に八幡町の町内会が編纂した「ふるさと八幡」というガリ版ずりの本をペラペラとめくってみましたが
櫻地蔵については、書いてありませんでした。
ただし、櫻地蔵周辺にちょっと面白そうな記載が
櫻地蔵がある佃の信号の西側の八幡町字西赤土にある小さな祠は、三明寺の弁天様が昔、三明寺入りするとき、これを警固するものと、阻止しようとするものと互いに争いあった場所といわれる。
伝え聞くところによると、敵味方が弁天様を奪い合い弁天様の額にちょっとした傷を負わせたが、弁天様は三明寺入りをした。弁天様に傷を負わせたことの罪をわび、この地に祠を建ててまつったのが、この祠のいわれだとか
三明寺の弁天様といえば、大江定基が力寿を偲び、その面影を刻んだものといわれている。
西赤土の南・佃には、こんな話が
八幡宮の境外末社・諏訪社に御清水があり、この清水は、いかほども沢山できし疣もとれるといわれ、他郡からも尋ねてくる者があったと
櫻地蔵の近辺に疣の話が出てきました。

つぎに花井寺についての補足&訂正です。
前に花井寺は、大江定基の出家に伴い、花井姫、岩井姫も出家し、庵を結び、その庵の跡が花井寺であった旨を書きました。
一昨日、花井寺まで散策したところ、ちょうど、御住職の井上義臣和尚がいらして、お話ができました。
和尚によると、定基の出家に伴い出家したのは、花井姫、岩井姫及び船井姫で、
花井姫が、庵を結んだ跡が花井寺、船井姫が庵を結んだ跡が船井山延命寺、岩井姫が庵を結んだ跡が、岩井寺ということです。
船井山延命寺は、花井寺と同じ古宿地区にある(現豊川市新宿町一丁目、町名変更前は、古宿町字中通。花井寺は、現豊川市花井町、町名変更前は、古宿町字市道)。
宗派は、花井寺と同じく、曹洞宗永平寺派。
定基と侍女の花井姫、岩井姫、船井姫は、見上の松(宮解天神)あたりに住み、定基出家後に庵を結び地蔵尊を安置した跡が、延命寺といわれる。
一方、岩井姫が庵を結んだ跡は、弁天坂(現在、比定できず)付近といわれるが、岩井寺は、現存せず、どのあたりか不明である。
延命寺は、花井寺の北400メートルほどであるから、岩井寺もこの付近であったのであろう。
弁天坂といえば、三明寺の弁財天がうかぶ。三明寺は、花井寺の北東500メートルほどである。
また、木花咲夜姫→花井姫→瀬織津姫の図式から、岩井姫→磐長姫と考えられる。
とすれば、磐長姫→延命の図式がうかび、延命寺→岩井姫の庵の跡と考えられるのであるが...
船井姫の庵の跡といわれる。
また、花井寺の西南1キロほどのところには、長山の弁天様(豊川市下長山町北側)がある。
長山の弁才天縁起には、病気の子の母親の夢枕に立ち、子供の命を救ったという話については、以前に書いた。
長山の弁才天と延命も関わりが出てくるのではないかと...
話は変わりますが、花井寺の井上住職の話によれば、本当の豊川稲荷=西島稲荷は、花井寺とつながりも深く、正月には、西島稲荷に出向いて般若経の転読を行っているようです。
また、花井寺の鎮守は、中央稲荷といい、以前は、花井寺西の西島稲荷を見渡す位置に鎮座していたそうで
中央稲荷の名は、五社稲荷(宝飯郡小坂井町大字小坂井字欠山、菟足神社東隣)、西島稲荷(豊川市西島町)、豊川稲荷(豊川市豊川町)のちょうど中央に位置するからだといわれているそうです。

最後に旧宝飯郡豊川村鎮座の白山権現についての補足&訂正です。
まず、白山権現は、慶長七(一六〇二)年に水野佐渡守が、本宮山から勧請したと記しましたが、上記棟札があるということのようで、それ以前から鎮座していたようです。
つぎに、白山神社とセットとなる東光寺について
以前、豊川流域の笹踊りを調査したとき、笹踊り唄も収録してあったのですが、迂闊でした。
豊川天王社も、祭礼に笹踊りが奉納されるわけですが、豊川天王社の笹踊りの唄に「天王の奥の院の東光寺の薬師は福仏でまします」の文言がある。
つまり、笹踊り唄が創作された江戸時代、東光寺は、豊川天王社の奥の院と認識されていたわけである。
東光寺について調べてみると、信長の時代に廃寺になったとされる。
廃寺になってからも、豊川天王社の氏子は、東光寺を奥の院と認識していたことは重要である。
さて、徳城寺の利修仙人の瑠璃の壺についても豊川天王社の笹踊りの唄に「天王の御宝の瑠璃の壺、市御堂に納めた」とでてくる。
徳城寺と利修仙人の関係を語る瑠璃の壺は、豊川天王社の神宝というわけである。
さらに、豊川天王社の笹踊り唄には、利修仙人ゆかりの鳳来寺も出てくる。
「正月八日は、からかいの祭りよ。一四日は、鬼踊り。鳳来寺へ参るよ」
豊川天王社の氏子は、鳳来時にも参拝に出かけていたことがわかる。なお、からかいの祭りとは、現在の豊橋の鬼祭りをさす。
ここから、少し整理していく。
鳳来寺の本尊は、薬師如来であり、薬師は手に瑠璃の壺を持つ。
そして、この瑠璃の壺は、豊川天王社の神宝であり、現在は、光明寺にある。この光明寺は、浄土宗の寺刹で天文年間(一五三二〜一五五五)の創建といわれる。一方、豊川天王社の奥の院といわれる東光寺は、浄土宗の寺刹であったとされ、信長の時代に廃寺になったとされる。
東光寺が荒廃した頃に創建されたのが、同宗派の光明寺ということである。
薬師如来は、東光薬師ともいわれる。瑠璃のつぼが収められたという市御堂は、東光寺を指すのではないか?

311 おじゃまします! GOTO 2002/05/07 13:19

東京在住のGOTOと申します。
実はGWを利用し花巻に滞在、そのうちの一日を遠野巡りに
費やしました。(結局全然時間が足りなかったですが)
何故か早池峰山の三女神のエピソードに心惹かれ、
朝から早池峰神社(登山口側が本社ですね?)を目指し、
続き石に圧倒され、最後は日没時間と競うように
伊豆神社を尋ねてみました。
伊豆神社では由緒を記したプリントを入手したのですが
瀬織津姫が三女神の母として、また、俗名で「おない」とされていました。これについては如何でしょうか?
少ない知識のために混乱しています。
蛇足ながら…
レンタカーを利用したのですが、早池峰神社、伊豆神社の両社ともに何故か道を行き過ぎてしまい、引き返す道で
自分(家族も一緒)の見落としに気付きました。
瀬織津姫の神秘さを垣間見た気がしました。
近々に『エミシの国の女神』を買い求めたいと思います。

312 2 カヤナルミ 2002/05/07 22:33

瀬織津姫という名は、はじめて聞いた名前でした。丁度『エミシ関係の本』を集めていたこともあり、『エミシの国の女神』というタイトルを見て、ひょっとして日本の真の歴史がわかるのではと直感が働きました。
本は手元にありませんが、近いうちに注文したいと思います。
話は変わりますが、出雲地方にウップルイという地名があります。古代朝鮮語説やアイヌ語説があるのですが、とても不思議な地名ですね。

313 三女神化された瀬織津姫 風琳堂主人 2002/05/08 06:26

GOTOさん、遠野へいらしたとのこと、また早池峰神社→伊豆神社と訪ねられたとのこと、瀬織津姫に代わりまして(?)お礼申し上げます。またいらっしゃる機会がありましたら、そのときはぜひ遠野の秘境「又一の滝」にまで足をのばしてください。
 お気づきの「遠野三女神」の問題──つまり、三女神の一神が瀬織津姫であり、また、その三女神の母神が瀬織津姫でもあるという矛盾する伝承。
 わたしたちが三女神になにがしか魅力を感じるとき、それは宗像三女神に遠因があるのかもしれません。日本の神々の歴史上、この三女神の構成は、実はもうひとつあります。それは、瀬織津姫の名が直接登場する大祓祝詞=中臣祓の祓戸三女神なのですが、遠野の三山についても、この祓戸三女神をそれぞれの山神とする伝承があります。
 しかし遠野の伊豆権現=伊豆神社の伝承は、その三女神の「母神」が瀬織津姫であるとしています。子神であると同時に母神であるという不思議な伝承は、それ自体、この三女神は母神=瀬織津姫の分神=分身であることを暗示しています。そしてこのことは、宗像三女神の一神に瀬織津姫の名を伝えつづける神社が九州にありますように(「瀬織津姫の部屋」のリンクをご覧ください)、宗像もまた三女神化された可能性を示唆しています。

カヤナルミさん、出雲の地名「ウップルイ」という地名については今はなんともいえないなと感じています。あたりまえの話ですが、そこがどういった特質のある土地あるいは地勢かとか、その地の本来の住人とかれらが大事にしていた神が多少でも見えてくるとき、なにか判断できるかなといったところです。出雲は半島との強い交流圏にありますし、縄文の地層ともとても近接していますので、今はやはり「不思議」としておきましょう。
 それから、出雲は神の婚姻伝承ひとつをとっても宗像との関係が濃厚です。出雲大社そのものも、伊勢、鹿島=春日、宗像、宇佐八幡などと同様に、瀬織津姫を深く隠しているとわたしはみています。

トカゲさん、鳳来寺=薬師の背後にはアラハバキ神が隠れています。鳳来寺田楽は、たしか鬼を鎮魂する田楽でした。反骨の修験者=利修仙人といい、三河もまちがいなく「鬼の里」ですね。
 遠野の早池峰山においては、中世までは薬師の山でしたが、近世になって十一面観音の山に変わるという歴史をもっています。十一面観音の背後には瀬織津姫、薬師の背後には日神=太陽神→アラハバキ神が隠れているようです。鳳来寺山のあの伝説的な巨岩=鏡岩に宿る神は、源初の日神であり、それを封じる仏こそ薬師となるというのは、早池峰山と同パターンかなとおもっています。
 浄瑠璃発祥に関わる山が鳳来寺山=瑠璃光薬師ですし、浄瑠璃姫は薬師の背後の神との関係から瀬織津姫が二重化されているとみられます。大阪・淀川河口の瀬織津姫をまつる御霊神社=「ごりょうさん」に人形浄瑠璃の芝居小屋があったというのも、理にかなう深い因縁があったものと感じています。

314 さっそくのレス、ありがとうございます。 GOTO 2002/05/08 11:00

門外漢のいきなりの参入にもかかわらず
親切なご返事ありがとうございます!
『エミシの国の女神』注文いたしましたので
楽しみに待ってます。
さて、全くの偶然というべきか、何かの縁か、
昨年、一昨年と続けて東国三社と呼ばれる
鹿島神宮、香取神宮、息栖神社を訪れました。
というのも、私が住む東京都江戸川区は
鹿島→春日の際の経路だったようでして、
地元には鹿島の神鹿を祀った神社や地名、
昔話などが残っているからです。
実際に訪ねた鹿島、香取の両宮の相似性の不思議、
伊勢〜鹿島ラインといったようなものの存在、
それを演出する何者かの意志を強く感じました。
こちらのサイトで鹿島は瀬織津姫とも深く関わりが
あるとのことで、ますます楽しみになりました。

315 松尾芭蕉の「証言」 風琳堂主人 2002/05/09 08:08

GOTOさん、東国三社を歩かれたとのこと、この三社の意図的な配置はよく指摘されるところですね。
 ところで、戦前のことですが、岩手の唯一の国幣社である駒形神社なのですが、ここが「祭神不詳」というのはどうもおかしいということでたどっていて、どうやら息栖神社には最低でもふれておく必要があるなとおもっているところです。
 ここは、忍潮井[おしおい]という霊泉があるところですね。また、「桜」の名所だという話を聞いたのですが、ほんとうでしょうか。ご存知のようでしたら、ついでのときに教えてください。霊泉だけでもじゅうぶんなのですが、もし「桜」まで関わっているようですと、瀬織津姫の話が一気にリアルなことになってきますので……。
 松尾芭蕉は、この息栖の神と里について、次のような一句を残しています。

この里は気吹戸主の風寒し

 現在の息栖神社の主祭神は「岐神」とされていますが、これは江戸期の、しかも息栖の真の祭神を明かすヒントを与えてくれる「証言」の一句です。

316 ご教授ありがとうございます。 GOTO 2002/05/09 10:18

息栖神社の御祭神については岐神、天鳥船神、住吉三神
ということぐらいしか気にしていませんでした。
それが芭蕉の句では気吹戸主神について語っている?
どうしたわけなのでしょう!
気吹戸主神、速秋津日売は瀬織津比売神と強く関わりが
あるわけですね?う〜ん、また行ってこなければ。
忍潮井については一の鳥居のすぐ下にありました。
鳥居は常陸利根川に向って建っているわけですが、
昔そこは内海だったために香取の湊と呼ばれ
まさに海に直結していたそうですね。
境内には確かに桜の木がありました。
特に祭られている様ではありませんでしたが、
春は華やかになるかと思います。
私は11月に行ったので春の頃は見ていないのですが…

317 七夕神社 カヤナルミ 2002/05/09 18:20

福岡小郡の神社で、「姫社神社」という神社があります。一般的には、七夕神社の名で有名です。この地方は古代から織物がたいへん盛んであったようです。織物に携わってきた人々は織物の神として、「棚機津女」という機織りの女神を信仰していました。饒速日尊も祭られています。瀬織津姫と関係があるのではないかと思っています。今度詳しく調べて見ます。

318 七夕祭という鎮魂祭 風琳堂主人 2002/05/10 12:38

 GOTOさん、息栖神は謎多く、ただ、ここからの分社が、たとえば蚕養[こかい]神社(日立市)とされていることで、岐[くなど]神=息栖神の背後には、気吹戸主神という男神と、養蚕=機織に関わる女神=水神が隠れていることがわかります。常陸国においては、後者は養蚕神=稚産霊[わくぶすび]神へと分離・変名し、一人歩きしていくようです。
 カヤナルミさん、福岡小郡の七夕神社に饒速日と棚機津女=機織神ですか。
 七夕祭というのは、牽牛=農耕神=日神と、織女=機織神=水神への鎮魂の宮廷行事から起こったもので、これを創始したのは持統女帝でした(後に、これらの神を利用した「祓い」の行事という意味も七夕祭には加わります)。
 七夕祭創始は、ときあたかも伊勢神宮の元神たちの分離→流浪がはじまったときでもありました。しかし分離→流浪を強いた=強いられた神は、人々に強く、深く信奉されていましたので、持統にとっては、これらの神をまず鎮魂すること──これは余人以上に必然性があったものとおもいます。皇祖神=アマテラスはまだ神々の舞台では新米の神で、その将来には不安がありましたから、放逐した神の「祟り」を鎮める気持ちは、持統の心中には相当にあったとおもいます。七夕祭はこのようにはじまったとわたしはみています。
 そして、たぶんこのあたりから、藤原=中臣を中核に、各地の伊勢の元神消去=変名化の神祇策がはじまります。これは神話創作を「言葉」を使って確定していく記紀編纂=創作とも重なっています。つまり、建国神話を伊勢の新米の神にどう脈絡づけ、整合させるかということでもありました。
 カヤナルミさん、七夕神社と瀬織津姫は無縁であるはずがないと自分も考えます。饒速日は、天照国照彦天火明奇玉饒速日命という最大尊称の一部を割愛した呼称で、饒速日という名は神名というより、尊称=美称の一部です。
 このことは、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という長い名をもつ瀬織津姫が、最後の部分を割愛されてムカツヒメと呼ばれるのとよく似ています。そして、ムカツヒメ→向日女→日前神とも転じていきます(和歌山・日前宮)。
 結論的にいえば、気吹戸主神と「天照国照神」は同神の可能性がとても高いと考えています。また、瀬織津姫は「厳[いつ]之御魂神」→伊豆神ともなるのでしょう。
 なにかみえてきたら、また教えてください。

319 注文しました カヤナルミ 2002/05/10 23:31

昨日、『エミシの国の女神』を注文しました。楽しみに待っています。
女神はおそらく”あの方”だろうと思いますが、読んでからのお楽しみですね。

320 福岡の瀬織津姫 風琳堂主人 2002/05/11 22:14

カヤナルミさん、本は配送部の方から発送したとのこと、近いうちに届くかとおもいます。ありがとうございました。
 福岡県の神社で、現在「データ」として確認できている瀬織津姫をまつる神社を書き出しておきます。お近くに行く機会がありましたら、ぜひ寄ってみてください。

@祓方神社【宗像大社境内社】…宗像郡玄海町大字田島2331
A波折神社…宗像郡津屋崎町津屋崎字古小路1386
B八坂神社…築上郡新吉富村垂水648-1
C瀬成神社…田川郡添田町中元寺3420
D菅原社…田川郡方城町伊方字犬星3727
E釜屋神社…八女郡黒木町湯辺田95
F釜屋神社…八女郡立花町田形354-1
G桜ヶ峰神社…福岡市中央区桜坂2-11-34
H石清水八幡神社【合祀】…豊前市久路土996
I白山大神社【合祀】…北九州市門司区伊川字平山2330
J若宮神社【合祀】…山門郡瀬高町大江字前田273-1

 この囲炉裏夜話でよく話題になってきました、「桜と瀬織津姫」を、地名・社名ともに体現している神社が、Gの桜ヶ峰神社です。どんなふうにまつられているのか、いつか行ってみたいとおもっています。
 あと、水神=川神としての瀬織津姫ということでいえば、筑後川と矢部川が、その可能性がとても高いとみています。
 また、水先神=航海神としての瀬織津姫なら、Aの波折神社かもしれません。
 希望といえば、どこも小さな社でいいですから、この神が大事にされているといいなあとおもっています。

321 三明寺の馬方弁才天 ピンクのトカゲ 2002/05/13 11:54

姫街道に面した三明寺の弁財天は、三河国司・大江定基が愛妾・力寿の面影を偲び刻んだものといわれる。
この三明寺の弁才天、俗に馬方弁才天といわれる。
さて、この馬方弁才天の謂れであるが、むかし、姫街道を往復する馬方に唄の上手い馬方がいた。その馬方、仕事が終ると、一杯引っ掛け、更に調子のいい歌声で三明寺の前を過ぎていく。
唄の好きな弁天様、この美声を聞くのを楽しみにしていた。ある日のこと、お堂の中を抜け、弁天様は、馬方に声をかけた。
馬方は、突然、若くて美しい娘が現れびっくりした。弁天様の化身の若くて美しい娘は、私は、三明寺の弁財天です。そなたの唄を毎日楽しみに聞いています。御礼にこの財布を授けましょう。その代わり、この財布を私から貰ったことは内緒にしてくださいと
その財布は、いくら金を遣っても尽きることはなかった。元来酒好きの馬方。仕事をせずとも酒が呑める。だんだんと仕事をやらずに酒びたりに。
仲間は仕事をせずに酒ばかり呑んでいて、酒代に事欠かない馬方に、どうして仕事をせずとも酒代に事欠かないかと尋ねるが、馬方は最初のうちは笑って誤魔化していた。
しかし、遂に誤魔化しきれず、弁天様から財布を授けられたことを喋ってしまった。たちまち財布はただの財布に戻り、馬方も元のただの馬方に戻った。それから、三明寺の弁財天を馬方弁才天と呼ぶようになったと
さて、お堂の中の音楽好きの弁天様がお堂から抜け出すという話、以前に書いた三河湾北岸の特殊神事・弁天不在の七福神踊りと関連がありそうである。
七福神踊りも弁才天はお堂の中、周りで賑やかに踊る六福神
六福神は、弁天の登場を待って賑やかに踊っているのではないか?
さて、このモチーフどこかで覚えがあるような
そうです。アマテラスの岩戸隠れが、同様のモチーフ。
岩戸隠れで乳も露わに踊るは天鈿女命。
七福神踊りでは、白狐が男根状のものを持ち道化役を演じる。白狐はなにやら猿田彦を思わせる。

馬方と弁財天、考えてみれば妙な取り合わせである。
唄が上手ければ、別に馬方でなくてもいいような!!
さて、馬と女。まず思い浮かぶのはオシラ祭文
馬が娘に懸想して、それを父親に知られ、父親は激怒!!
激怒した父親は、馬を殺し、皮を剥ぎ、木に吊るす。
娘が樹の下を通りかかると、皮は娘を包み昇天。
馬の皮を吊るした木には、蚕が
これも記紀神話にモチーフがある。
斑馬の皮を投げ込むスサノオである。
いずれも養蚕の発生に絡む逸話である。
瀬織津姫→弁才天
瀬織津姫→十一面観音
とすれば、馬方弁才天=馬頭観音の等式が見えてくる。
三明寺には、倭姫命が斎田に定めたといわれる西島(豊川市西島町)から勧請した西島稲荷が鎮座する。
倭姫命は、この地方では、養蚕を広めた神とされる(神道五部書の倭姫命世紀)。
力寿伝承の基層にあるのは、倭姫命
馬方弁才天は、養蚕神であったと考えられる。
奇しくも、三明寺の裏手には、かつて蚕業試験場があった。

瀬織津姫は、アマテラスの荒御魂とされ、日神アマテル(男神)と対で祀られた水の女神である。
養蚕の神の基層には、この縄文以来の水の女神の影が色濃く残る。
オシラ祭文しかり、スサノオの狼藉(?)しかりである。
なぜ水の女神と馬なのか?
吉野裕子著「十二支」に以下の記載がある。
 火の旺気を象徴する馬は、既に単なる馬ではなく、社会全般の火気の過剰を象徴するもので、この馬によって象徴される火の旺気を中和することは、大火と日照りを予防する功徳を持つものであった。
 当然、この馬に配される猿も、単なる猿でなく、五行における金気、或いは三合の法則における水気の始めとしての「申」で、天下に日照降雨の調和をもたらし、大火を防ぐ重要な呪物と見倣されていたに相違ない。
つまり、五行説によれば、馬は火に相当するということである。
因みに猿飼が、馬医者とみられたのも猿=水、馬=火の調和により、馬の病を治すのが猿飼とされたわけである。
話は、脱線するが、猿が橋を架けたとする草鹿砥公宣卿の猿橋伝説も猿=水から説明できる。
また、河童が金気を嫌うことや河童の駒引きも五行説に因むものといえる。
八百屋お七は、丙午(ひのえうま)の生まれ、
丙午の生まれのお七と火事。
丙(ひのえ)→火の兄(ひのえ)である。
「夜桜お七」というタイトルの歌謡曲があった。
桜は、風琳堂主人が指摘したように水神が宿る木
「夜桜お七」の作詞者が、どのようなモチーフを基に作詞をしたか知らないが、日本人の魂を揺さぶるものがあったのであろう。

322 届きました! GOTO 2002/05/13 12:17

『エミシの国の女神』確かに届きました。
先ほど、郵便局にて振替えも済ませましたので
念のためにご報告いたします。
これから、いよいよ読み始めます。楽しみです。
ありがとうございました。

323 水神と馬の話 風琳堂主人 2002/05/13 17:55

GOTOさん、ご丁寧にありがとうございます。
 よい機会ですので、瀬織津姫を祭神とする神社(茨城・千葉・東京)を、これも現在わかっている[データ]ですが、ここに書き出しておきます。よろしかったら寄ってみてください。

■茨城県
@手水社【宗任神社境内社】…結城郡千代川村本宗道89
A礒部稲村神社…北茨城郡岩瀬町磯部779
B津方神社…北茨城市中郷町下桜井543
■千葉県
C大原神社…流山市西平井1750
■東京都
D水神社【豊田神社境内社】…江戸川区東瑞江2丁目
E日比谷神社…港区新橋4-13-9
F祓戸神社【土支田神社境内社】…練馬区土支田4-28-1
G祓戸社【神明宮】…杉並区阿佐谷北1-25-5
H祓戸神社【八幡神社境内社】…杉並区上荻4-19-2
I祓戸神社【天祖神社境内社】…世田谷区中町3-18-1
J祓戸神社【玉川神社境内社】…世田谷区等々力3-27-7
K祓戸神社【八幡神社境内社】…国分寺市西元町
L小野神社…多摩市一ノ宮917
M小野神社…府中市住吉町
N大国魂神社…府中市宮町3-1
O稲荷神社…府中市若松町(同社境内社・祓戸神社も瀬織津姫)

 地方に行きますと、滝神・水神が社名に反映している神社が散見されるのですが、やはり鹿島・香取の力の強さが影響しているのか、特に千葉は見事というくらいに瀬織津姫が祭神名に出てきていません。それと、東京は首都ということでしょうが、都内の神社はほとんどが、瀬織津姫を祓いの神として変更→限定しているようです。
「桜と瀬織津姫」の関連でいえば、やはりAの礒部稲村神社が特記ものです。ここは霞ヶ浦に流れ込む「桜川」の源流部に鎮座し、「桜川の桜」はよく知られる名所のようです。しかもここは「元鹿島」をうたっていますし、延喜式内社・稲村神社ともいわれている社です。礒部稲村神社は、瀬織津姫については、伊勢神宮・荒祭宮を勧請したとはっきり表明しているところがいいです。ちなみに、常陸太田市にも稲村神社が鎮座し、こちらも式内社を主張しているようですが、ここの祭神は、饒速日尊です。
 福岡県久留米市の筑後川流域に鎮座する伊勢御祖神社は、天照国照彦天火明尊を祭神とし、とりたてて「元伊勢」を主張しているわけではありませんが、元伊勢の神を祭神としていることは明らかといえます。同社のすぐ近くには水天宮があり、おそらく両社は深い関係にある社だとおもいます。

 なぜ水の女神と馬なのか?
 ここのところ駒形神社を調べていて、長野県佐久市塚原に興味深い駒形神社があることをみつけました。ここの祭神は、「騎乗の男女二神体」だというのです。記紀に準じた祭神名は、表向きはウケモチ神としていますが、主祭神は「騎乗の男女二神体」とことわっている、珍しいケースです。
 駒形神はあとから馬神となっていきますが、もとは水神かつ養蚕神でした(詳しい話は近日に、ここに書きます)。佐久の駒形神社の祭神は、神の依代=乗物としての「馬」、つまり神馬[じんめ]を、もっとも端的に表しています。水神と養蚕神という性格がセットでみられるのは天白神も一緒です。そして、この天白神は、遠野ではオシラサマに、また落ちぶれた水神としてはカッパに、小さな家神としてはザシキワラシとなります。
 また、遠野においては、駒形神はコンセイサマとも習合し、観音化すれば馬頭観音ともなります。コンセイサマというのは、これも天白神にみられる太白=金星をルーツとし、しかし遠野にくると「金星神」→金精様・金勢様へと転じて、超庶民的な神として親しまれています。
 尾張の田縣神社もそうですが、大事な女神が孤閨であるとき(?)、コンセイサマを奉納する氏子の心理はなかなかのものです。遠野の駒形の神=水神にも、木や石でつくった男性器を奉納する習慣があります。河童駒引潭にしても、馬嬢婚姻潭にしても、水神と馬の濃厚な関係を告げていますし、特に後者などは、蚕までがつながってくる話です。また、滝壷に馬の首を放り込んで、水神=竜神を怒らせて雨を降らせるという祈雨法も、遠野の文献は記録しています。
 なお、駒形神は長野の例でもわかりますように、馬に乗った「男女二神」が神で、馬そのものは神馬という位置づけです。馬、それも白馬を神とみるときは蒼前神となるというのは柳田國男が指摘していることです。駒形神には絵馬(遠野では、桜の木を使用…菊池幹さん談)を奉納し、あるいは馬そのものに神の力をいただいてくるといいますから、駒形神と蒼前神には微妙な「違い」があるようです。
 早池峰の神は白馬に化身して慈覚大師の前に現れ、そのため早池峰神社の一角に駒形神社を創祀したなどという話もあり、白馬=神馬は水神と切っても切れない関係にあるようです。聖なる神の乗物であり、特に白馬は、その神=水神の化身ともみなされていました。
 水神=弁天さんが馬方の唄を聞いて喜んだというのも、本来あるべき、自分が自由に動ける神馬=白馬がなかったゆえに、なつかしんだものかもという気がします。

324 松蟲姫 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/05/13 19:39

ご主人、ご無沙汰してます。
カヤナルミさんGOTOさんはじめまして、
よろしくお願いいたします。
ご主人、瀬織津姫を祭神とする神社(茨城・千葉・東京)のご紹介ありがとうございます。
またまた、いってみたい神社が増えました。(~~)
行ってきたらご報告しますね。
さて、千葉の印旛から松蟲姫とともに五條市まで旅をしましたのでご紹介させてください。

松蟲寺

【ご 本 尊】七仏薬師      
【ご 利 益】病気平癒
【由来・由緒】天平年間に、聖武天皇の第三皇女不破内親王(松虫姫)が重い病に冒されたが、薬師如来のお告げにより下総の薬師仏に祈ると病が平癒しこの寺を建立したのが始まりといわれている。
【見どころ】 薬師如来座像を中心に、左右に各3体の薬師如来立像は7体ともカヤ材の木造りで平安後期の作とされ、国の重要文化財指定となっている。  

松蟲皇女廟 松蟲村の松蟲寺にある。寺門の仁王は端慶の作。本尊は七仏薬師如来で行基僧正の作。人皇四十五代聖武天皇の天平年間(729−749)の御建立だという。薬師寺のうしろの方に松蟲皇女の墳(つか)がある。そのかたわらに社がある。里人は姫宮と称している。
伝承
東大寺を建立した聖武天皇(701〜756)の第三皇女に松蟲姫(不破内親王)
がらい病にかかり、夢枕に現れた薬師如来にすがれば直るとのお告げに左遷されてきた姫の一行が、ここ下総の印旛沼のほとりに庵を結びましたとさ。

姫はそのころはやっていた天然痘だったかもしれないとの記述のありますが薬師の霊験あらたかだったか、病は癒えて、天皇の迎えのもと都に帰っていきました。

そのときに、世話になった村人に残して言った乳母の名前が杉刀自....
姫は都から来たときに都で習い覚えた機織りや裁縫、養蚕などを村人に伝えて生活の糧としながらかしづいておりました。
村人には、姫とともにきた姥も大事な人だったようです。

松蟲姫から詳しいようすを聞いた聖武天皇は、効験あらたかな尊い薬師佛を野末の街道にさらしておくのは畏れ多いとして、僧行基に命じ、七仏薬師群像を刻して献じ、一寺を建立して松蟲寺と名付けられました。
 その後、松蟲姫は異母兄塩焼王の妃となりましたが、皇位継承にからむ藤原一族の政争にまきこまれ、二度にわたる流刑の悲運に見舞われながら、数奇な生涯を終えられました。
 ご遺骨は遺言によって松蟲寺に分骨され、村人は境内に墳(つか)を建てて丁重に葬り、松蟲姫御廟と呼んで現在に伝えています。
本堂の裏手に、石の柵に囲まれた一角がその墳(つか)で、一本の老樹が亭々とそびえるその根方に、表面の文字も崩れた一基の石碑が枯葉に埋もれて立っていますが、裏側に、宝亀二年二月十二日(771年)と刻まれており、松蟲姫の伝説が現実に歴史の重みを加えて身を引き締めます。
 周囲に積もる枯葉をかきのけて見ると、十円玉や五円玉が散乱して、今も変わらない村人の素朴な信仰が偲ばれて趣を添えます。

 また境内には松蟲姫が都に帰るときに銀杏の枝の杖を立ててゆきましたが、やがて芽を吹き成長して今に残るという老樹があり、わずかな葉をつけて千二百年を越える風雪を偲ばせています。
 松蟲姫の御廟を守ってこの地に没した杉自の塚は、寺の山門から二百メートルほど離れた東方の三つ辻にあります。青面金剛を刻んだ数十基の
庚申塔に囲まれて、姥塚として大切にされています。

       昭和58年・崙書房・大衆文学研究会千葉支部編
       「房総の不思議な話、珍しい話」
八巻 実著「松虫寺に残る皇女松虫の療養物語」より一部抜粋

松蟲姫は聖武天皇の皇女で、名前は不破内親王といい、母は県犬養広刀自。
同母弟に安積親王。姉に井上内親王。塩焼王(氷上塩焼)に嫁して志計志麻呂と川継を産んでいる。
763年 四品、772年 三品、781年 二品。生没年不明。

松蟲姫の兄弟の井上内親王は5歳の時、養老5(721)年に斎内親王に卜定され、神亀4(727)年伊勢神宮の斎宮になったとされます。
その同じころにか、松蟲姫も下総へと旅たったわけですが、これは大和から体よく遠ざけられたということではないかと思います。
天皇継承権がある皇女と産まれながら、最初から遠ざけられたのは藤原氏のゆかりの安宿媛以外の女性が産んだ聖武帝の子供は最初から
邪魔だったのかも...

それでも、年頃になって都に帰り塩焼王に嫁したのは松蟲姫にとって幸せだったのかしらん。

藤原の権力争いの渦中にと投げ込まれた姫はやがて、姉の井上内親王の「巫蠱事件」に巻きこまれます。髑髏の中に称徳女帝の髪の毛を入れて呪いをかけた、とされる事件です。井上皇后が息子の他戸親王を早く天皇の位につけさせるため、光仁天皇を呪い殺してしまおうと屋敷に巫女を集めて呪いをかけているというのです。(「霊安寺御霊大明神略縁起」によれば、人形を御井に投げ入れた。)

これをもって772(宝亀3)年3月2日、井上皇后は巫蠱(ふご)の罪ありということになって皇后を廃されたのです。
この事件は密告によりわかったとされるのですが時の処分は不破内親王(松蟲姫はが京外追放で名前を厨真人厨女と替えられています。
不破内親王(ふわのひめみこ) → 厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)
「厨真人厨女」の「厨」は台所のこと、「厨女」は台所で働く下女のこと。
称徳天皇はいろいろに名を変え貶めるのが好きみたい。
息子の志計志麻呂も土佐に流されて皇位は剥奪。うらみつらみは藤原氏にあったっと思うんだけど、でも殺されていないから、井上内親王のように怨霊にはなってないのかな?
井上内親王は怨霊となり御霊神社に祀られているけれど。
松蟲姫は最後は和泉の国で没したとか...で、分骨されたものを祀ったのが下総の印旛の松虫寺だとのこと...

印旛の地には万葉の歌碑があります。
防人の歌が書かれていて、それを大友の家持に差し出したのが県犬養宿禰浄人(あがたのいぬかいのすくねきよひと)だとか。
うん、やっぱり犬養氏と印旛は母親の縁でつながっていたんだなぁ。
悲しくもたくましく生きたであろう松蟲姫はこの風土で育ったから、悲劇の変転の中でも、生きていけたんじゃないだろうか...下総の荒蝦夷の国。

松蟲姫のお姉さんの井上内親王は5歳で伊勢の斎王にさっさと決まられたわけですが、弟の安積親王の喪により伊勢神宮を退下、白壁王に嫁しました。
そうして白壁王がやがて光仁天皇として即位したので皇后となったとか。
息子の田戸親王が皇太子となったのに、なぜか
772(宝亀3)年3.2、巫蠱(ふこ)の罪に連座して皇后を廃されてしまうんですね。
そして,田戸親王もその母の罪によって皇太子を廃されてしまいす。
そして、立太子したのは光仁天皇と高野新笠の間に生まれた山部親王(後の桓武天皇)。
今度は、天皇の同母姉難波内親王が没したのは、井上内親王の呪詛によるものと井上内親王と他戸皇子は吉野に幽閉されます。そして宝亀6(775)年4月27日、井上内親王と他戸皇子は吉野で同時に死去したと。
よっぽど生かせておけなかったのでしょうね。
山部親王の生母は高野新笠で、渡来人系の和史(やまとのふひと)乙継の娘でだとされています。
山部「ヤマベ」は、乳母の山部子虫の姓氏によったとする説もあるみたい....だよあかねさん。
よっぽど内親王の血が嫌われたみたいです。
相良親王も殺して一家安泰って笑ったのは誰でしょう.....こうして天武・草壁・聖武の皇統は完全に途絶えることとなりましたとさ。

でね、そのあとは、井上内親王は怨霊となり相良親王らと力をあわせて飢饉や疫病をはやらせたとか...
800(延暦19)7月、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称、井上内親王を皇后と追称、御墓を山陵と追称しましたとさ。

坂上田村麻呂が蝦夷の総帥アテルイの降伏を報告。アテルイらを処刑させたのはそれから2年後のことでした...

五條市の御霊神社

井上内親王は奈良の五條市に幽閉されたそうな。
その時、内親王は子供を生んだとされているんじゃが、それが60歳近い高齢出産とのことですが、さすがにどこか違う様な気がしますよね。
で、この子供を生んだとされるところが西久留野の山頂にある宮前なるかみ神社、俗に産屋明神と呼ぱれているそうな。このとき生まれた男児が後で母と兄の怨みを晴らそうと、雷神となった若宮で、彼の生まれたところは産屋峰(うぶやみね)と呼ばれているそうな。火雷神です。

それからまもなく、775年(宝亀6年)4月27日井上内親王は59歳で、他戸親王は15歳の若さで毒殺されたとされますが、それを陰で策謀したのは藤原百川(ふじわらのももかわ)朝臣(あそん)と云われているそうな。
それから天変地異が続いたりして二人の怨霊を恐れた朝廷は、お墓移すやら御霊を祭るやらするんですけど、百川は死にますます怨霊の力は続いたそうな。

五条市の辺りは、藤原南家ゆかりの地とのことだから逃げられないように、藤原一族の館へ預けられたのかなぁ。井上内親王の幽居されたその跡に井上院(いじょういん)が建立されて今でも、「聖神さん」と呼ばれる古い祠が祀られているそうな。境内で子供はいくら戯れて遊び、おしっこを漏らしても祟らないけど、大人が放尿でもしようものなら病魔にたたられるそうな。

續日本紀には
吉野川より半里ばかり南、御山村にあり。
井上内親王は聖武天皇の姫宮にして、孝謙天皇の御妹にてぞましましける。寶亀元年光仁天皇の皇妃にたゝせ給う。この御腹にておわします他戸親王を皇太子にすえ給いし
が、皇妃あしき御心あらわれて、寶亀三年皇妃の位をとゞめ、他戸親王の皇太子の位をしりぞけ、同四年に大和の国宇智郡没官の宅に押込め給いき。同五年四月、皇妃・皇太子ともにかくれさせ給いしなり。 
とあります。

「大和名所記 和州旧跡幽考」には下記に様なことが書かれていましたので抜粋してみました。

若宮の社 御山村にあり

若宮は雷神にてまします。濫觴は井上内親王、御著帯ながら流されおわしまして後に御産あり。おのこ御子なればとて御名を雷神とぞ申しき。その御産の所は大岡の郷小山にぞ侍る。それより産屋の峯とは言いけり。雷神、年経給いて、御母の皇后ならびに兄の他戸親王の流され給いし事などつたえきこしめし、深く恨み、強く怒り、帝に御悩をかけ、人民を害し給いしより、なだめられなんとて、神に祝いして若宮と号し給いき(霊安寺縁起)。

 御霊社

霊安寺にあり。五条村より半里南、そこを霊安寺村という。御霊の社は井上皇后・他戸親王の御いきどおり強く、上一人より下万民まで悩まし給いしかば世中、・(あされ)たり。さてこそ勅使をたて、いろいろなだめさせ給いて終に御霊大明神とあがめられき。御霊の社をまもる寺なればとて霊安寺とぞ申す(霊安寺縁起)。

本社は御霊井上皇后、東向。
北脇は早良親王。南向。
南脇は他戸親王。北向。

本社三座・若宮一座、本地は准・(じゅんでい)觀音・聖觀音・千手觀音・如意輪觀音
にして、弘法大師のきざみて安置せられしより本地堂と号せり(霊安寺縁起)。
 再興は人王百二代、稱光院の御宇、正長元年の秋兵火にかゝりて神社・佛堂・本地四佛の像も一時のけぶりとなる。かの像は厨司にこめてひらかざれば、いかなる佛というをしらず。しかれども北畠准三后の御霊大明神の記録せられたるにあらわれしより本地觀音像を再営して安置し、霊安寺ふたゝび成就せり(霊安寺縁起)

五條市霊安寺鎮座の御霊神社は、本社に井上内親王、他戸親王、早良親王の三柱を祀り、後一柱を丹生川(にうがわ)をへだてた御山(みやま)町の火雷神社(からいじんじゃ、若宮火雷神社)に火雷神(ほのいかずちのかみ、他戸親王の同母弟)を祀り、合わせて四所大明神とされていて、
若宮火雷神社(わかみやほのいかずちじんじゃ、若宮さん)のお祭では、宇智陵まで神輿は渡御して母子対面されるそうな。

下総印旛から、とうとう奈良の五條市まで来てしまいました。
この道筋に瀬織津姫は姫と一緒に旅されたのでしょうか?

325 御霊神=怨霊神の始まり 風琳堂主人 2002/05/14 09:58

平安時代=平安京の始まりは、御霊神=怨霊神祭祀の始まりでもありました。これは桓武天皇にとって、と限定していえるものでしょう。
 平安京とともに創建された御霊神社(現在の上御霊神社)でしたが、ここの祭神は「八所御霊」といわれています。しかし、その祭神をよくみますと、早良親王(→崇道天皇)、井上内親王(→井上皇太后)とその子・他戸親王など七柱は人の霊神ですが、一柱だけ「火雷神」とされています。火雷神には、のちに菅原道真をあてる説もありますが、道真は桓武時代の人ではありませんから、これはあとからの付会というべきです。
 奈良の末期からの権力抗争の犠牲者が怨霊となり、それらの霊を鎮めるために御霊神社が創建されたというのは、半分はその通りでしょうが、しかし、火雷神はこれらの怨霊と同格というわけにはいきません。
 遷都というのは、よその土地をいただいてこそ成立するもので、としますと、その土地の神に、まず丁重に挨拶すべきものでした。火雷神は、京の産土神であり、これはとりもなおさず、加茂=鴨の元神でもありました。
 天変地変の怪異をもたらす御霊神=怨霊神としての雷神の発生と、ヤマトの恐怖ということでいえば、これはおそらく、伊勢神宮の元神の改竄、つまり皇祖神=アマテラスの無理な創作を原点としています。その当事神が瀬織津姫(とその背後の日神)であることは、大阪・淀川河口の「御霊神社」が御霊神=天照大神荒魂=瀬織津姫としていることからもいえるものとおもいます。庶民にとってはまったく逆ですが、ヤマトの祭祀権力をもつ者にとっては、瀬織津姫(たち)は別格中の別格の御霊神=怨霊神でした。そして、瀬織津姫は、京の産土神=鴨神とも深く関わっていました。
 平安京の前の、長岡京の地(現在の向日市と長岡京市)に、鴨の神ゆかりの神社がいくつかあります。たとえば、向日神社(向日市向日町北山65)の「参拝のしおり」を読んでみます。

■向日神社「縁起」
(祭神)向日神(御歳神)、火雷神(配神)
 当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、神明式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は 上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである。

 火雷神社=「下ノ社」は「再興がならず」、つまり、いったんは消えたのですが、現在は角宮[すみのみや]神社として復興しているようです(長岡京市井ノ内南内畑35)。
 この由緒から読み取れるのは、火雷=ホノイカツチ神は「下ノ社」、向日神は「上ノ社」と、諏訪神社のように、二社で一対の神をまつる古式の祭祀法がとられていたことでしょうか。しかし、個々の社の祭神は、どこかで入れ替わったようです(「建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭」という、この「併祭」時がそうかもしれません)。
 鴨=加茂の神は、賀茂皇大神などといわれますように「皇」を付けて呼称されることが朝廷側から容認されていました。ここは(も)、伊勢の元神と同神であったゆえと考えられますが、主祭神の座に瀬織津姫を認めることだけは徹底して避けてきました。主祭神の名は玉依姫とされ、瀬織津姫は、糺の森=河合社=御手洗社の神、つまり祓いの神とされています。
 しかし、瀬織津姫の基本性格は水神です。向日=火雷神社の「下ノ宮」に、その水神の性格は「祈雨、鎮火の神」として残存していますし、伊勢から消された瀬織津姫の対なる日神=農耕神の性格は、「上ノ社」に「五穀豊穣の神」として記録されているとみることができます。
 祭神入れ替えの可能性があるというのは、瀬織津姫=水神は諏訪神社や鴨社においてもみられますように、「下社」と表記されることが考えられることと、その社名に「向日神」と付けられているからです。瀬織津姫のあの長い神名「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の最後の「向津媛」=ムカツヒメは、和歌山の日前宮と同様に、ここでは「向日神」とされています。
 いずれにしても、伊勢の消された日神と水神は、律令=天皇制国家最大最高の御霊神=怨霊神でした。これがベースの御霊神で、そこに早良親王や井上内親王、あるいは菅原道真などの怨霊が重なっているというのが、御霊神の実態だろうとおもいます。

326 七夕神社 カヤナルミ 2002/05/14 12:23

先日、福岡小郡の七夕神社へ寄ってきました。以下に案内板の写しを載せます。

七夕神社は、正式には媛社神社といい、肥前風土記(730年頃)の中に記述があり、当時既に大崎のこの地に神社がまつられていたことがわかります。祭神は、神社縁起に姫社(ひめこそ)神と織姫神と記されています。
また、今から千年以上前の延喜式という書物には各地から朝廷に差し出す献上品の一覧表が残っています。それによると、小郡を含む筑後の国の献上品は米と織物になっており、この地方は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。また、古来織物に携わってきた人々は織物の神として「棚機津女」という機織りの女神を信仰していました。この棚機津女の信仰と中国より伝わった織姫・彦星の物語が混然同化して、織物の神をまつる棚機(七夕)神社として親しまれるようになったと思われます。

古老の話によれば、「この神社は『七夕さん』として親しまれ、八月六日の早朝から翌七日の朝にかけて、筑前、筑後、肥前一帯から技芸上達のお詣りで大崎に通じる道路は参詣者が列をなした。」と語っています。

また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松神社があり、ここに、大正十二年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。天の川と同じく南北に流れる宝満川とその両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、天上の物語を地上に配したようになっており、そこには昔の人々の信仰とロマンが感じられます。

平成五年十二月  七夕の里振興協会

実はこの神社の鳥居の中に、江戸時代に奉納された鳥居がありまして、それには磐船神社・棚機神社との名がありました。なぜ神社名がたくさんあるのでしょうか?さらに、御神体の名は不明でした?

327 宝満川の水神 風琳堂主人 2002/05/15 10:38

カヤナルミさん、いきなり日本の神まつりの謎に直面されたようです。
 一つの神社にいくつもの神社の名が出てくるというのは、近代になって、明治国家による、一村一社にせよという布告があったことが、まず直接的な原因かとおもいます。
 また、神社=神名がたくさんあるというのは、これも古代国家が、それこそ建国するに際してとった祭祀法に原因があります。つまり、それまでの神々を伊勢のアマテラスを筆頭・中心にして系譜づけようとしたこと、その表れ=文献としての記紀に、自らの神の由緒と神様の名を整合・迎合させてきたことが、たぶん複雑にからみあっています。これは生き延びるためになされたことでしたが、こういったことが1300年にわたってなされてきました。たしかに、小さな「なぜ」一つにしても、明かすのは容易ではありません。
 この囲炉裏夜話は、記紀からは見事に名を消された瀬織津姫という女神を追う=明かすことで、多少ともこの1300年の神まつりの歴史の闇に光が射すのでは、という気持ちでここまでやってきています。
 国譲りの最高神とされる大国主ひとつをみても、記紀は合計で11種類の異名を挙げていますし、また大国主の子神は1000いくつかだなどとされていたかとおもいます。アマテラスの神統譜だけが整然としていて、あとはごちゃごちゃでかまわない──こういった<建国>の祭祀思想が根本にあります。
 宝満川をはさんで七夕神社と老松神社があるという構図=関係がなにごとかなんでしょうね。磐船神社の神は伊勢の元神でしたが、記紀にもたれると、アマテラスの孫神となります。それでよしとする饒速日をまつる本家筋の神社が奈良の石上神社です。しかし、ここはもともと布留川の水神をまつる社でした。上流に岩座と一体となった桃尾の滝があり、ここには「桃尾の御前」という女神がいます。水神です。
 古代にいけばいくほど川は重要で、たとえば宝満川にしても、その名から、宝満山を源流の山としているのでしょう。この山には竈門神社があって玉依姫が祭神だとなっています。この神を説明しようとすると、たぶん記紀に準じて神武天皇の母だなんてことになります。しかし、神武が虚構の天皇だとなりますと、玉依姫という神の名も仮の名だとなります。この女神を性急に明かす必要はありませんが、ただ宝満川の水源山の神ですから、水神の要素を確実にもっているものとおもいます。
 そして、七夕神社の織姫です。織姫もまた水神です。さらにいえば、宝満川は筑後川の支流ですが、河口部をみますと厳島神社が集中しています。なかには弁天神社なんてものもありますが、これも厳島の神ですし、厳島=弁天さんもまた水神ですから、宝満川─筑後川には少なくとも三種類の水神がいるのかということになってきます。
 これら三種類の水神にはもうひとつ共通する水神の名が隠れているのではないのか──。こういった問いの答えに関わるのが瀬織津姫かなとおもっています。磐船神社の神=男神と瀬織津姫が一緒にまつられているケースもありますし…(兵庫県龍野市・井関三神社)。
 人間が「生きる」ということを考えますと、やはり、火と水の神が、人にとって、神々の原型だったろうとおもいます。人の生命にストレートに関わっていますからね。あとは、これらの神のヴァリエーションで、時間とともに、つまり生活の分化・変遷とともに、独立した神となっていきます。たとえば、金屋子神・金屋姫といわれると鍛冶の神様だなとわかりますが、これも火と水の神を元にしていますし、風の神にしても火が風を起こすとみれば風神もまた火の神を元にしています。そして火を熾すのは太陽ですから火の神は太陽神=日神だなとなります。
 人の生命に関わるこれら原型の神が、なぜわたしたちの神としてまっとうに伝えられてこなかったのか──こう考えますと、日本の建国の思想が、かなりいびつなスタートを切ったということもみえてきます。ゆっくりいきましょう。

328 風琳堂主人様 カヤナルミ 2002/05/15 12:42

待望の『エミシの国の女神』が届きました。昨日、郵便局にて入金を済ませましたので報告致します。
小郡七夕神社を、ある程度調べ終えましたら、関連性があると思われる佐賀鳥栖方面の神社を調べてみたいと思います。
謎だらけの日本古代史ですが、少しずつ見えてきたものもあります。今後ともよろしくお願いします。

329 こちらこそ、よろしくお願いします。 GOTO 2002/05/15 20:08

風琳堂ご主人さん、毎々お世話さまです。
サクラs(*^-^)ノ☆ さん、こちらこそよろしくです。
ほぼ同時期に『エミシの国の女神』を購入した
カヤナルミさん、不思議な縁かもしれませんね。
以後よろしくお願いいたします。

私の勤め先は東京の神田・湯島のあたりでして、
湯島天神さんの例大祭(1100年)を週末に控えて
地元の方々は大いに盛り上がっています。(^^)
また神田明神の愛子様ご誕生祝の大神輿渡御も
先週あったばかりでして、いわゆる江戸っ子の人々が
地元の氏神様を大切にしている様子に感心しています。

江戸城(皇居)と上野寛永寺の間に勤め先があるのですが、周囲には神田明神、湯島天神、妻恋神社(稲荷)、
御霊社まであります。徳川家はよほど朝廷嫌いだったに
違いない(笑)、と想像して歩くのも楽しいです。

本郷に桜木神社という御社を見つけました。
菅公が主祭神となっていますが、やはり、それ以前の
神々の名は隠されているようです。
桜は瀬織津姫に関わりが深いとのことで、またアプローチ
しようと思っています。

330 多摩川─玉川─神田川 風琳堂主人 2002/05/16 04:05

カヤナルミさん、まったく「謎だらけ」ですね。
 佐賀へ足を運ばれるとのこと──参考までとおもって探してみましたが、佐賀県には瀬織津姫をまつる神社は一社も「データ」としてみあたりませんでした。佐賀・鳥栖で、なにか見えてきたら、また教えてください。
 宝満川─筑後川ということで、筑後川上流部に瀬織津姫をまつる神社がありますので、大分県の資料も書き出しておきます。

■大分県
@比枝社…西国東郡大田村小野659
A神明社【合祀】…大野郡朝池町坂井迫736
B闇無浜神社…中津市角木304
C有王社…日田市夜明3185

 @の比枝社は日吉神社の分社かもしれません。また、ここの字名が「小野」ですので、ここも小野氏ゆかりの土地の可能性があります。
 筑後川上流のC有王社の「王」は「玉」だったかもしれません(静岡県浜北市に有玉神社【祭神:天照意保比留売貴】がありますので)。
 あと七夕神社の一方の老松神社なのですが、ここはどういった由緒・祭神なんでしょうね。
 この神社がちょっと気になる理由は、矢部川流域の瀬高町にこの神社が集中してみられ、しかも、瀬高町には瀬織津姫をまつる若宮神社もあるからです(この若宮神社も複数あります)。
 そして、瀬高町で、さらに気になるものに、清水観音があります。空海に先んじるようにして、最澄が806年に唐から帰国したとき、まっすぐ京に帰らずに、彼は、なぜかこの地の清水山(山門郡瀬高町)に清水寺を創建しています。有明海を船で北上しているとき、最澄はこの清水山に不思議な「光」を見て、それで天台宗清水寺=清水観音を建てたというのが寺の縁起だそうですが、ここの創建は、朝廷=桓武の意向=勅命であった可能性があるようです。
 光を発する山=岩は、典型的な日神の宿る山ですから、そこにわざわざ最澄が寺を建てたというのは、ことのほか深い意味があったことが考えられます(よかったら、当HPのリンク集「徐福研究」の第5章を読んでみてください)。

GOTOさん、本郷の桜木神社は興味ありますね。それと、地図を見ていて「ふうん」とおもったのですが、神田川沿いというのは、源流部の井の頭池(弁天さんがいます)から玉川上水をたどっていきますと、やたら桜地名・橋名が眼につきますね。河口の隅田川合流部から上流にかけて、気になる神社も含めて書き出してみます。

■神田川
@榊神社…蔵前1丁目
A御霊神社・桜木神社
B小桜橋…水道1丁目
C石切橋・古川橋・華水橋…水道2丁目
D大滝橋・駒塚橋・芭蕉庵・水神社…関口2丁目
E氷川神社・天祖神社…高田1丁目・西早稲田3丁目
F小滝橋…東中野5丁目
G淀橋・花見橋…中野区本町
H荒玉水道…杉並区永福
I桜上水…世田谷区桜上水(玉川上水との間)
J玉光神社・弁財天…井の頭公園
■玉川上水
K桜橋・桜堤…武蔵野市
L桜町・「小金井桜」…小金井市
M桜が丘…東大和市
N桜橋…福生市

 神田川の水源池である井の頭池というのは、玉川上水と微妙に切れていて、この池の水はどのように湧出しているのか不思議な気がしました。それと、神田川の古名はなんだったのかなともおもいました。
 玉川上水の親川は多摩川ですが、この多摩川の河口部の等々力渓谷にも瀬織津姫がまつられていた可能性が高いです(等々力不動尊もありますし、近くに天祖神社、玉川神社もありますから)。
 玉川─多摩川であと気になっているのは、厚木市小野町にある小野神社です。ここは府中や多摩市の小野神社のように瀬織津姫の名は出てきませんけど、境内にアラハバキ社があるようですし、近くに子安神社もあり、さらに、ここにも玉川があります。この玉川の源流の山は大山で、ここには阿夫利神社があります。山頂の奥宮の祭神は大雷神で、大水上御祖神という異名もあるようです。小野市と玉川、そして瀬織津姫──ほんとうに強い関係がありそうです。

331 土支田 ピンクのトカゲ 2002/05/16 08:35

土支田に瀬織津姫を祭神とする神社が鎮座したとの情報驚いています。
実は、学校が東武東上線沿線にあり、同郷の大学職員の人が当時土支田におり、
半ば、居候のような形で、20年数年前、土支田にいたことがあります。
町名を確認して地図で検索すると、その居候していたところの近くの神社で何度も前を通っておりました。
で、その大学職員の方は、女神の本に登場する御津神社の氏子で、氏の家の墓は、別宮・岩畳神社の裏手(岩畳神社は、御津山南中腹、氏の家の墓所は、北側中腹)にあります。
今年の正月に帰省したおり、一緒に岩畳神社に行き、また、桜と瀬織津姫についてはなしをしました。
そのとき、話題に上ったのが、東武東上線上板橋駅西の桜川の地名です。
桜川の地名は何に由来するかですが、付近の川は石神井川です。
桜川から石神井川を上流に遡ると、桜台の地名があり、対岸は氷川台
石神井の名自体、石神+井と意味深な名です。
土支田は、石神井川からは、北にそれた位置にありますが、石神井川の流路の変化や区画整理及び町名変更等いろいろ調べていけば、何か出てくるのではないかと思います。
GOTOさんサクラさんお願いします。
荒川と多摩川に挟まれた武蔵の地、荒川&多摩川で荒魂川です。

332 みなさん、よろしく。 カヤナルミ(男です) 2002/05/16 12:50

GOTOさん。こちらこそよろしくお願いします。私は韓国の古代史や近代史に興味があったのですが、いつのまにか日本古代史に夢中になっています。調べているうちに、エミシの時代がわからなければ、『日本古代史の謎』は解けないことがわかりました。ここの掲示板はとても刺激的です。

風琳堂ご主人さん。
ご主人が次から次へと、興味をそそられる神社名を繰り出されるので、私の頭はパンク状態です。(笑い)
少しずつ調査していきますので、気長に待っていてください。(笑い)私は、小郡七夕神社を中心として九州の神社を調べていきます。

333 ご無沙汰しておりました 山田明子 2002/05/16 13:20

開店休日のような,商売をしていても忙しく、久しぶりに気

をいれて読み、参加した気分になりました。 

我が家は,桜井神社の氏子でした。桜井神社の主祭神は八十禍津日神です、そのことが解明したくて、うろうろしておりました。
瀬織津姫の本に出会い、疑問が解決されたこともあります。反面、つぎつぎと新たな課題も出てきます。

6年前、東大病院で手術をしました。板橋の子供の家から、東大病院へは桜木神社の前を通ります。桜のつく神社にはなにかがある。そのように思っておりましたので、行ってみましたが、その時点では何も見えてはきませんでした。このホームページに出会い、トカゲさんから、さくらさんにお願いしていただき、さくらさんから説明をしてくださいました。

まだまだ疑問の霧の中に居て,抜け出すことが出来ません。瀬織津姫をひもろぎとする,皆さんに出会うことが出来、又新たな参加者もあり、どのような展開をするのか、楽しみにしております。

334 石神井川と小金井桜 風琳堂主人 2002/05/16 14:03

トカゲさん、<縁>ということでいえば、わたしも昔、等々力渓谷の近くの上野毛というところでアパート暮らしをしていたことがあります。休日には、吉祥寺で好きな本を買って井の頭公園で過ごすなんてことをよくしていました。浪人のおっちゃんたちが将棋をさしていましたので鍛えてもらったこともありました。おもえば、生地の岡崎から中学時代の新城、そしてこの等々力、それに遠野と、4箇所も瀬織津姫ゆかりの地に住んでいたことになり、また先祖をたどっても、これまた瀬織津姫ゆかりの地であり、元来脳天気な感性ですが、さすがにどうなってるんだという気がしています。

カヤナルミさん、性の告白(?)、ちょっと早かったかもしれません。風琳堂主人、実は女です、なんて──。あっというような情報を楽しみにしています。

トカゲさん、石神井川も「桜川」の可能性大ですね。この川も例によって地図でたどってみましたら、石神井池を経由して小金井までたどることができるようです。玉川上水と、ここ小金井で最接近しています。考えてみれば、コガネ井という泉水があったのかもしれません。それと、「小金井桜」というのは、どういった由来をもつ桜なのか──これもGOTOさん、サクラさん、ついでのときに調べて教えていただけるとありがたいです。
 ところで、石神井公園には石神井池と三宝寺池があって、前者には中之島、後者には浮島があります。また、とても興味深いことに、ここには厳島神社と氷川神社がセットのようにまつられています。両社とも、瀬織津姫と深く関わる神社です。
 首都の高層ビル群が蜃気楼にみえてきました。

335 出雲・石見の瀬織津姫 風琳堂主人 2002/05/16 14:53

山田さん、書き込みが交錯してしまいました。
島根県の瀬織津姫情報ということで、以下に書き出しておきます。ついでのときに寄ってみてください。

■島根県
@壇鏡神社…隠岐郡都万村大字那久1617
A春日神社【配祀】…益田市高津町203-2
B八幡宮【配祀】…益田市白上町イ783
C加佐奈子神社【合祀】…松江市東持田町262
D貴布祢明神【八幡宮境内社】…仁多郡横田町大字小馬木796
E八幡宮【配祀】…那賀郡三隅町矢原338
F津上神社…八束郡島根町多古1286
G三社神社【配祀】…八束郡八束町遅江241
H祓社【出雲大社境内社】…簸川郡大社町杵築東195
I祓戸社【金刀比羅宮境内社】…藪川郡斐川町大字直江町1066-1

「桜と瀬織津姫」ということでいえば、Eの八幡宮ですね。三隅桜は地図にも載っています。
 なお、Fの津上神社の祭神は、瀬織津彦と瀬織津姫だそうで、瀬織津彦という祭神名は、たぶん、全国をみてもここだけじゃないかとおもいます。それにしても、よく名づけたものです。多古の氏子の人たちの心が痛いほど伝わってきます。津上神社は、島根半島の最北端の岬にあります(つまり、隠岐と対面しているとも考えられます)。また、ここはEの八幡宮から勧請したという伝承をもっています。

336 俺も男です ピンクのトカゲ 2002/05/16 17:23

カヤナルミさん俺も男です。
本名は、女神の本の「あとがき」に載ってます。
韓国語、俺も一応喋れます。
韓国の古代史も一通りはやったつもりです。
宜しく。

337 今日の神社めぐり カヤナルミ 2002/05/16 21:16

ピンクのとかげさん。こちらこそよろしく。
実は韓国語は中途半端に終わり、少ししか喋れません。(笑)

風琳堂ご主人
本日、小郡の老松神社と鳥栖の姫古曽神社に寄ってきました。しかし、誰もいなくて、時間もなかったのですぐに立ち去りました。
老松神社には鳥居が二つあり、一つの鳥居には老松ではなく別の神社名らしきものが見えますが、はっきり見えませんでした。期待したほどの収穫がなく残念。代わりと言ってはなんですが。

神奈備から
肥前基肄 姫古曽神社「市杵嶋姫命、八幡大神、住吉大神、武内大神」鳥栖市姫方町189 物部珂是古が祀る。

市杵嶋姫命の名が見えます。(笑顔)

338 ご主人心躍っています。 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/05/16 22:39

山田さんお久しぶりです。
桜木神社、見返り稲荷と一緒に気になっていながら、
まだ深く調べられません。もう少しいろんな事がご報告できたらと思うのですが、長い目で見てやってくださいね。

GOTOさん、私も東京に住んでいます。
瀬織津姫の大国魂神社や小野神社八幡神社がある府中から
日比谷神社の近くに越してきました。

ご主人の神社のご紹介に、カヤナルミさん同様に心が弾んでいます♪

トカゲさんゆかりの土支田もご主人ゆかりの等々力渓谷
なんかもみーんな行ってみようっと!

心強いことにGOTOさんもいらっしゃるので、嬉しいな!

ちなみに私は多分、女です。(^^)

339 姫社神は宗像神 風琳堂主人 2002/05/17 10:16

カヤナルミさん、姫社=姫古曽の神をまつるという「物部珂是古」ですが、『肥前国風土記』の「姫社の郷」によれば、「筑前の国宗像の郡の人」となっています。
 要約してしまえば、謎の女神は「荒ぶる神」といわれ、この謎の女神は「筑前の国宗像の郡の人珂是古[かぜこ]にわが社を祭らせよ」と言っていますので、姫社=姫古曽神社に宗像の女神(市杵嶋姫命)の名が出てくるのは「納得」というものでしょうね(それと、宗像=物部かも)。
 ヒメコソ神について、風土記がこういった記録を残してしまったというのは、『常陸国風土記』(718年)のあとに『肥前国風土記』(733年ごろ)の編纂・創作に関わった藤原宇合の、明らかなミスだったとおもいます。宇合の父・不比等だったならば(不比等は720年に死去)、おそらくこのよな、神の出自を明確に伝えてしまう記述は見逃さなかったでしょう。不比等に比較するのは気の毒かもしれませんが、その子・宇合は二流の編纂・編集者だったとおもっています。チョンボはほかにも散見されます。
 なお、一般的にはヒメコソ神というのはアカルヒメとされ、鉄の女神とか、天日槍命の妻→新羅の女神だとされています。しかし、わたしは、やはり宗像の女神だったろうとおもっています(この女神は新羅を含む対馬海域の女神だった可能性があります)。大分県国東半島の姫島にまつられているということ自体、宗像の神の東進でしょう。このことは、呉市清水の亀山神社の元神・比売語曽大神が「宇佐嶋の比売神を勧請した」(神奈備HP)とされていることとも符合しています。
 あるいは、武甕槌や赤留姫をまつる楯原神社(大阪市平野区)の伝承をみても、この女神が単純に新羅の女神とはいえない性格をもっていたことがわかります。「社伝」には、「桓武天皇の頃(800年頃)風水害が続いたので、赤留姫命を祭神とする一五の龍王社を境内神社として合祀しました」とあります。アカルヒメは「龍王社」の女神だという伝承も、たどれば宗像へと続いているとおもいます。

 サクラさん、等々力[とどろき]渓谷は近くにいながら行ったことがありませんでした。「とどろき」という名には、やはり滝の音が聞こえてくるようです。訪問記──楽しみにしています。

340 井の頭、小金井を少〜しだけ。 GOTO 2002/05/17 17:07

山田さん、ピンクのトカゲさん、よろしくお願いします。
謎多い女神に魅入られるのは、やはり男性の役割(?)
のGOTO(男)です。勤め先の近所に東京都水道歴史館と
いうのがあったので、さっそくのぞいてみました。
たいしてお役に立てないかもしれませんが…ご勘弁を!

神田川の昔の名は「平川」でした。
杉並区和田、新宿区落合を通り、文京区関口に至り、
さらに飯田橋、九段下から、日本橋川となり、
江戸城外濠に利用されていたそうです。
ちょうど小石川との合流点あたりが
常に水害に悩まされるので万治3年(1660)の工事で、
目白台下の関口より飯田橋に至る間は江戸川、
飯田橋より浅草橋に至る間は神田川となったそうです。
神田川沿いは観桜ポイントがたくさんありますね。

ご主人からいただいた質問の「井の頭の池」は、
もともとは多摩複流水の流れがこの辺りで傾斜が
緩くなるため、地上に吹き上げる泉を七つ持っていて、
「七井の池」と言われていたそうです。
多摩の都市開発が進んで複流水が涸れてきたので、
池の水は逆に大地へ吸い込まれるようになり、
現在はポンプで汲み上げているとか。

また「井の頭の池」は他にも名前があったそうで、
徳川家光が湖畔の「こぶし」の木に「井の頭」と
刻み付けてから「井の頭池」になったそうです。
その他「狛江の池」とも呼ばれていて、
池には狛江橋もあります。
「狛江」の名は古代朝鮮半島絡みのようですね。
ピンクのトカゲさん、カヤナルミさんのご専門かな?
ぜひご教授下さい。m(_ _)m
井の頭公園の弁天様は源頼朝の創建と伝わっていますが、
(ここでデートしてはいけないとよく言われましたね)
ガイドの話では、実はそれより以前にあったようです。

小金井桜は元文2(1737)年に武蔵野新田世話役の
川崎平右衛門が幕命により植えたものだそうです。
この「幕命」って何なんでしょうね?
由来の碑があるようなので、
もう少しそれらしい理由がわかれば、と思うのですが。
今週はこんなところで失礼しました〜。

341 小金井、土支田を少ーしだけ。 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/05/17 21:45

今朝、小金井の水のことがTVで放映されていました。お茶によいという水は小金井では湧き水でした。

TVでは小金井の貫井の湧き水を伝えていたが、
貫井のほかに、600年前にはこの小金井には3箇所の民家があったとされます。

古く多摩川の流れがあったこともあるこの土地に、亀甲状の野水が、逆V字型に流れ、かねすなわち直角に曲がった沼地を取り込んだところだったので金井といわれたのではないかと菊池山哉氏は書いています。

そこに住んだ豪族が金井氏を称したとされるが、このうちの分家の一つが小金井氏で、力を蓄えてきたことから、このあたりが小金井とされたとの地名由来があるそうな。

この金井には古く弁天祠が祀られていて、土地の人は,隣村の貫井の弁天様(創建は天正18年(1590)と伝わる旧貫井南の鎮守で、かつては貫井弁財天と呼ばれた。雨乞いをすると必ず雨が降るといい伝えられている。境内には清水が湧き、ひょうたん池に注ぐ。石橋、石坂の供養塔などもある。)よりも古いと伝えているそうな。

小金井氏の末裔はいつのころからか梶氏を名乗ってござるが、この梶氏の邸内に今でも祀られている弁天様は昔は地図にも大きくかかれていたそうな。
この梶氏が神主を勤める神明神社は小金井の総社でもありました。
梶氏はご主人が書かれている隣の府中市の、人見村の瀬織津姫が祀られる稲荷神社、そして稲荷神社のすぐ隣の11面観音を祀る浅間神社。北関野新田の八幡社、南関野新田の天神社の神主でもあったそうな。
やはり、瀬織津姫を祀る府中大国魂神社の代々の猿渡宮司家とも婚姻を結び縁は遠くに及ぶとか....

また、土支田がある練馬の母なる川とも言われる石神井川は、その源を小金井付近に発している。
途中に三宝寺池の湧き水をあわせ、区内を東流し、板橋区,北区を経て荒川に合流している。
その間約30Kmにわたっている。

   参考菊池山哉著「東国の歴史と史跡」
     東京ふるさと文庫「練馬区の歴史」

342 荒魂川は天の川 風琳堂主人 2002/05/18 07:48

GOTOさん、サクラさん、さっそくにありがとうございます。
 石神井川、神田川(=平川)ともに、その湧き出る泉に弁天さんがまつられていた、まつられているということなんですね。弁財天=水神という性格が、よりはっきりしてきたようです。
 GOTOさん、「幕命」によって小金井桜が植えられたということですか。よほどのことだったのかもしれません。そして、サクラさんの「この金井には古く弁天祠が祀られてい」たという「古い」弁天祠なんですが、もし、この桜と「古い」弁天さんが重なるようですと、桜は、いよいよ「鎮魂の木」であり、「水霊の宿る木」(和泉式部ならば「水の心」が宿る木)だとなってきます。
 また、両川とも、多摩川の伏流水を「泉の源」としているようです。としますと、多摩川は大いなる「母なる川」ということになります。
 ここのところ遠野に釘付けで、最近は地図を見るくらいしか「旅」ができなくていますが、それでも意外な発見があるものです──というわけで、武蔵国の大河=多摩川を遡ってみることにしました。河口部の、その名も玉川神社に、「祓戸神」とされていますけど、瀬織津姫の名が確認できるというのはやはり重要なことではないかという気がします。また、多摩川=玉川をはさむように二社の小野神社があり、ここにも瀬織津姫の名が確認できるというのも、この大河の水神=川神とはなにかということを考える上で、大きな示唆を与えてくれています。
 多摩川=玉川の源流部までたどっていきますと、途中、まず眼にとまったのは「天ヶ瀬」という地名です(青梅市)。この「天ヶ瀬」という名は、まず、瀬田川=宇治川の桜谷の地にできたダムの名「天ヶ瀬ダム」として記憶されています。桜谷=サクナダリの神が瀬織津姫であることは近江国風土記逸文が述べていることですし、同地には佐久奈度神社もあります。また、瀬織津姫ゆかりの「天ヶ瀬」は、伊勢の宮川上流にもあり、ここの荻原神社の祭神としても瀬織津姫の名が確認できます。二つの事例ですが、河口部および中流域に瀬織津姫の名を確認できる多摩川にもまた「天ヶ瀬」です。なお、この「天ヶ瀬」は、日田市にあります有王社=瀬織津姫ゆかりの筑後川上流にもあります(ここには、なにか囲炉裏夜話の話題にぴったりの「桜滝」という名の滝もあります)。
 天ヶ瀬は天の川です。
 さて、多摩川のこの天ヶ瀬をさらに遡りますと、南に御岳[みたけ]山(御影神社+武蔵御岳神社)が聳え、丹生明神、将門神社、氷川(地名)、弁天橋、境の清泉(祥安寺の湧水)、不動明王(以上、奥多摩町)を経て奥多摩湖に出ます。奥多摩湖=小河内ダムに突き出た岬には小河内神社があります(河内神社は広島では瀬織津姫をまつり、その社名からも瀬織津姫の匂いがしますのでここに挙げておきます)。
 奥多摩湖の西は山梨県で、ここから多摩川は丹波川と名を変えます。丹波川の右手=北には飛龍山(2069m)が聳え、さらに丹波渓谷を遡っていきますと、どうやら多摩川の源流の山は笠取山(1953m)のようで、この頂上には水神社がまつられています(「笠」と水神が出てきました)。
 この水神社をもつ笠取山なのですが、ここは丹波川=多摩川の源流山であるばかりでなく、実は、荒川の源流山でもあります。また、この山は笛吹川の源流山の一つでもあり、ここの水神は明らかに水分[みくまり]神でもあります。
 笠取山の水神は、東に荒川と多摩川を水分している神であり、両川を司る水神がどんな神かを考えますと、やはり、

(荒川の)荒+(多摩川=玉川)の玉=荒玉→荒魂

とみることができます。つまり、笠取山の水神は、この荒魂(=アマテラス荒魂)をその異名としてもつ、瀬織津姫である可能性はすこぶる高いといえそうです。
 麁玉川(=荒魂川)は天竜川の古名(奈良時代)でしたが、多摩川に天ヶ瀬(=天の川)の名がありますので、荒魂川=天の川という仮説も成り立ちそうです。ちなみに、天竜川は、鎌倉時代=中世になると、麁玉川→広瀬川(平安時代)を経て「天の中川」と呼ばれるようになります。天竜川の名は室町以降ですが、天竜川の水神も瀬織津姫であることを考えますと、ここからも、水神かつ織姫=七夕神としての瀬織津姫がみえてくるようです。

343 こんばんは カヤナルミ 2002/05/18 20:47

GOTOさん
>「狛江」の名は古代朝鮮半島絡みのようですね。
それらしき名称ですね。私よりも、ピンクのトカゲさんが詳しいでしょう。

風琳堂ご主人
例の老松神社ですが、福岡小郡の隣町、太刀洗町にも『老松神社』がありました。そこも小郡と同じく、一つの鳥居には別の神社名らしきものが書かれていましたが、読み取れません。由緒・祭神はまだわかりません。

天ヶ瀬ですか。九州最大の筑後川の上流、日田方面にも天ヶ瀬と言う地名があり、天ヶ瀬温泉は有名です。

344 荒ぶる神と淀姫 風琳堂主人 2002/05/19 04:47

カヤナルミさん、天ヶ瀬(+桜滝)が、筑後川上流にあるということ──、これはとても大きな意味をもっているとおもいます。それと、以下のメモをしていて気がついたのですが、天ヶ瀬の名は、佐賀県大町の鬼ノ鼻山の北にもあります。老松神社もずいぶん怪しい神社のようですね。
 以下、佐賀の話を少し──。これは、いつか矢部川=八女津媛を明かすためのメモでもあります。

 天照大神荒魂、つまり荒神とされた瀬織津姫でしたが、この神を主祭神としてまつる神社を新たにみつけました。和歌山県田辺市上秋津1509に鎮座する川上神社といいます。正確な祭神は、瀬織津比売神、速秋津比古神、速秋津比売神。祭神の異名に「河上大明神」とあります。
 佐賀県に瀬織津姫をまつる神社はないと書きましたが、この川上神社の「由緒」に、そんなことはないという「反論」をみつけました(当HP「瀬織津姫情報」の和歌山の項「川上神社」をご覧ください)。
 同社の由緒書によりますと、「享保十年の書上」なるものに、「往昔肥前国佐賀郡より勧請仕候由申伝候」とあったそうで、瀬織津姫(たち)は、佐賀の地から熊野・田辺の地にやってきたと明記しています。
 瀬織津姫の名が佐賀の地から消えたのがいつかということや、また、佐賀のどこから、この川上神が勧請されたのかを知ろうとしても、川上神社の由緒書からだけでは、残念ながらわかりません。しかし、戦後現在、佐賀の地には瀬織津姫の名がなくとも、「往昔」には佐賀の地に瀬織津姫がまつられていたことだけは、この川上神社の存在から明らかになったとはいえます。
 佐賀の地に、消えた瀬織津稗の痕跡を探してみます。
 わたしたちはさいわいに、風土記=『肥前国風土記』を読むことができます。当該の佐賀=佐嘉の郡の項を読んでみます。

■佐嘉の郡(前半)
 昔、樟[くす]の樹が一本この村に生えていた。幹も枝も高くひいで、茎葉はよく繁り、朝日の影は杵嶋郡の蒲川[かまかは]山を覆い、夕日の影は養父[やぶ]の郡の草横[くさよこ]山を覆った。日本武尊が巡幸された時、樟の茂り栄えたのをご覧になって、勅して「この国は栄[さか]の国というがよい」と仰せられた。そういうわけで栄[さか]の郡といった。後に改めて佐嘉の郡と名づける。
 ある人はこうもいう。郡の西に川がある。名を佐嘉川という。年魚がいる。その源は郡の北の山から出て、南に流れて海に入る。この川上に荒ぶる神があった。往来の人を、半分は生かし半分は殺した。ここに県主[あがたぬし]らの先祖の大荒田が占問[うらど]いして神意をおうかがいした。時に土蜘蛛大山田女・狭山田女というものがいたが、この二人の女子がいうには、「下田[しもだ]の村の土を取って人形[ひとがた]・馬形を作ってこの神をお祭りすれば、かならずおとなしく和[やわら]ぎなさるでしょう」といった。そこで大荒田はその言葉のままにこの神を祭ったところ、神はこの祭を受納してついに和[なご]んだ。ここに大荒田は「この婦人はじつにまことに賢女[さかしめ]である。それゆえに、賢女[さかしめ]という言葉をもって国の名としたいと思う」といった。そういうわけで賢女[さかしめ]の郡といった。いま佐嘉の郡とよぶのは訛ったのである。

 これは一見、佐賀=佐嘉の郡の地名潭にみえますが、ここに登場してくる「荒ぶる神」とはなにかという問いが残ります。この「荒ぶる神」が鎮まるには、「下田[しもだ]の村の土を取って人形[ひとがた]・馬形を作って」この神をまつることを条件としています。ここには生贄の代替物である「人形」と、そして、神の乗物である神馬としての「馬形」と関係づけられる神の性格がよく表れています。つまり、農耕に深く関わる水神の性格です。そういった性格をもった神が、ここでは「荒ぶる神」だとされているわけです。
 ところで、この「荒ぶる神」と酷似する記述が、佐賀の郡から東へ25キロほど行った「姫社の郡」の項にもあります。

■姫社の郷
 この郷の中に川がある。名を山道[やまぢ]川という。その源は郡の北の山から出て、南に流れて御井[みゐ]の大川と出会っている。
 昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、その卜占のしめすところでは「筑前の国宗像[むなかた]の郡の人珂是古[かぜこ]にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられたら凶暴な心はおこすまい」とあった。そこで珂是古という人を探しだして神の社を祭らせると、珂是古はやがて幡[はた]を手に捧げもって祈り、「まごころから私の祭祀を必要とされているのなら、この幡は風のまにまに飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」といい、そこでただちに幡を高くあげて風のまにまに放してやった。するとその幡は飛んで行き、御原[みはら]の郡の姫社[ひめこそ]の社[もり]に落ち、ふたたび飛んで還って来て、この山道川の付近の田の村に落ちた。珂是古はこれによっておのずから荒ぶる神のおいでになる場所を知った。その夜の夢に、臥機[くつびき]と絡?[たたり]が舞をしながら出てきて珂是古を押えてうなされた。そこでまたこの荒ぶる神が女神[ひめがみ]であると知り、さっそく社を建てて祭った。それから後には路行く人も殺されなくなった。そういうわけで、姫社[ひめこそ]といい、いまは郷の名となった。(訳者の補注は省略)

 姫社の郷を流れる「山道川」は現在の宝満川、そしてこの川が合流するのが「御井の大川」、つまり現在の筑後川なのでしょう。そして宝満川の姫社の社は七夕神社でもあります。
 この風土記の記述は貴重です。なぜなら、ここから、姫社の神は、その本社=宗像神社において正当にまつられなくなったゆえに「流浪」を余儀なくされ、この姫社の郷にやってきたというように読めるからです。つまり、この姫社の女神は、宗像の真の女神である可能性があると読めます。この神が「荒ぶる神」とされたのは、おそらく、本社の神まつりにおいて、主神の改竄→放逐がほんとうの理由なのでしょう。ここには、遠く、伊勢の元神の改竄との呼応があるとみることができます。
 姫社=宗像の女神は、織姫かつ水神という性格をもっていました。佐嘉の「荒ぶる神」には織姫の性格は読み取りにくいですが、しかし、「人形[ひとがた]」の記述は、農耕神としての水神の性格に加え、「祓い」の具としての「人形」ではなかったかと読むこともできます。いわば、のちの平安時代に「祓い」の行事となる雛流し→雛祭りへとも受け継がれていくことに関わる神であることが、ここで暗に語られていると読むこともできましょう。
 田辺市の川上の神が水神であることはまちがいないですし、ここに瀬織津姫の名が刻印されていたことを重視しますと、この佐賀の二つの郷に登場してくる「荒ぶる神」は同神である可能性がとても高いとみることができます。
『肥前国風土記』は「神崎の郷」においても「荒ぶる神」を登場させていましたが、少なくとも、姫社・神崎・佐嘉の郷は、本来、この「荒ぶる神」とされた女神の地だったとみるべきかもしれません。水神の性格を濃厚にもつ「荒ぶる神」ですが、この神が、瀬織津姫と交差する記述が「佐嘉の郷」の後半部分にあります。

■佐嘉の郡(後半)
 また、この川(佐嘉川)の川上に石神がある。名を世田姫[よたひめ]という。海の神が毎年毎年流れに逆らって潜り上ってこの神のもとに来る。海の底の小魚が沢山従って上る。その魚をおそれかしこむ人にはわざわいがないが、またその反対に、人がこれを捕って食ったりすると死ぬことがある。すべてこの魚どもは二、三日とどまっていて、また海に還る。

 これは、魚を食することが禁忌事項だといった話ではないでしょう。世田姫とよばれる女神は海の民に厚く信奉されていて、彼ら海の民に、下手なちょっかいを仕掛けると返り討ちにあう、気をつけろ──こんな警句を含意した伝承とみるべきです。
 このヨタヒメという名称の「よたる」ですが、これは、不良じみた行為をするといった意味とすれば、だれにとって「不良」か、とみるべきでしょう。この「だれ」に該当するものは、いうまでもなく、風土記編纂時点の中央権力というべきです。佐嘉の郡の隣郷である「小城[おき]の郡」の記述に、これはよく表れていました。

■小城[おき]の郡
昔、この村に土蜘蛛があった。堡[をき]を造ってこもり、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡幸された日に、みなことごとく誅しなされた。それで小城[おき]の郡と名づける。

 原文に「天皇」という表記がなされているものかどうかということがありますが、天皇という号は、天武以降に使われるようになったもので、この風土記の表現は記紀を下敷きとした創作とみるべきです。しかし、中央=天皇という意識の強さだけが露出した「記録」だとはいえます。ときに土蜘蛛[つちぐも]と呼ばれたり、国栖[くず]と呼ばれたりしますが、彼ら・彼女らは、先住の民でありました。もっとはっきりいえば、皇民化=公民化を拒否した海の民だったとみるべきです。そのような民が信奉するのが、この世田姫と呼ばれた神だとみられます。また、「よたる」は「たゆたう」という流浪の語感にも通じ、世田姫は、「不良」の「さすらい」の女神だというネーミングです。
 なお、世田姫について、肥前国風土記逸文は、『神名帳頭註』の次の文を再録しています。

■与止姫の神
 風土記にいう、──人皇三十代欽明天皇の二十五年甲申[きのえさるのとし](五六四年)冬十一月朔日[ついたち]甲子[きのえねのひ]、肥前の国の佐嘉[さか]の郡に与止[よど]姫の神が、鎮座なされた。((一名豊姫、一名淀姫))

 不良女神とされたヨタヒメは、ヨドヒメとされ、あるいは、ヨトをトヨとひっくりかえしてトヨヒメとされ、いつのまにか「鎮座なされた」と敬意を込めた呼称に変わっています。このようなヨタヒメの朝廷側への変身あるいは「転向」が、風土記のあとのいつになされたかは確定しづらいですが、ただいえるのは、世田姫→淀姫を、神功皇后の妹(神)とするという設定がなされたことが、こういった敬意の表現に反映しています。つまり、ヨタヒメは淀姫という、朝廷側公認の川神=水神となったことが主因かとおもいます。この淀姫が、もっとも隠そうとした本来の川神=水神が瀬織津姫でした(→愛知県の籠守勝手神社・白山(黒田)神社など)。

346 熊本の神社 カヤナルミ 2002/05/21 22:35

風琳堂ご主人

熊本城のそばに、熊本城稲荷神社という神社があります。神社正面の壁には、仙人のような男神ときれいな服を着た女神の絵が描かれていました。

ところが祭神名は、(土木の神)貞廣大明神・作次郎大明神、(商売繁盛・縁結びの神)白玉大明神・玉姫大明神・玉菊大明神と、複数の神々の名がありました?玉と言えば、もしかして....。
興味深かったのは、歴史関係の本で何度か記憶にある『猿田彦之神』の石碑が、道開之神として境内の隅っこに祀ってありました。天狗のモデルらしいですね。

347 ストリップさせられた水神 風琳堂主人 2002/05/22 04:45

 カヤナルミさん、天狗=猿田彦として、猿田彦をまつる本社を自称するのが伊勢・鈴鹿の椿大神社なのですが、ここは、戦前に警察庁のビルの屋上に自社をまつらせたことを得意げに語っていましたように(『椿大神社二千年史』)、猿田彦はまさに天孫降臨の段に象徴されますが、国家鎮護=国民平伏(平服)の「導きの神」というのが、この神の常識的な性格規定かとおもいます。それが穏当に表現を変えると「道開之神」となるのでしょう。
 また、天狗は「天の犬」という意味で、「天」に象徴される天皇=国家のまさに「犬」といった意味も、天狗には込められています。椿大神社は大きな勘違い、考え違いをしていたものです。
 ところで、伊勢を洗い出していきますと、伊勢の元神としての猿田彦像が浮かびあがってきます。猿というのも烏と同類で、日神=太陽神の使いとされていますから、日神をアマテラスと仮に想定すれば、その「使い」ということにもなります。これは、ヨタヒメが淀姫に変身させられたケースと同パターンとみられます。
 敵対する神を、どう自神の具=狗として変質再生させるかというのは、古代祭祀権力をにぎった者たちにとって、きっと腕の見せ所だったとおもいます。また、それでも国家から優遇されるなら、こういった中央の祭祀思想を受け入れた、あるいは受け入れざるをえなかった社が、ほとんどだったということなのでしょう。
 猿田彦という仮の導きの神は航海の道主神でもありましたから、おそらく、この神の原型神は、宗像の消えた、隠された男神でもあったはずで、基本の性格は、やはり原初の日神、つまり、長田あるいは狭田・佐田などの「田」にみられるように、農耕神としての日神だったのだろうとおもいます。
 ヤマトの祭祀思想を受け入れれば、日神は猿田彦神に、拒否すれば、アラハバキ神に、あるいは逆手をとれば「大」天狗に──というのが、この神の変身の実態なんだろうとおもいます。
 瀬織津姫が貶められるとオススあるいはオスソの神ともされますが、これは水で濯[そそ]ぐ、禊ぎ祓うというところからきています。江ノ島が象徴的ですが、弁天さんがなぜ陰部を露出する必要があるのかと考えますと、水神の貶めの意図が、やはりこの水神の弁天化の過程にあったのだろうと考えざるをえません。その意味で、猿女=アメノウズメのストリップショウには、古代人の大らかさが読み取れるなどといった脳天気な解釈は成り立たない、いいかえれば、ここには、当時の祭祀権力者の底意地が反映した悪意さえ感じられます。弁天さんとアメノウズメは、同質の貶めの視線にさらされています。それを包み込む庶民の大らかな性の思想はたしかにありますが、祭祀あるいは神の性格規定に関わった当事者たちには、やはり当初、好奇な悪意があっただろうとおもいます。
 話が九州に飛びますけど、瀬織津姫の名が見事に消された佐賀=肥前ですが、この肥前のヒゼンは、かつて「日前」「火前」でもあったのではないかとおもいかけているところです。話がさらに東京に飛びますけど、世田姫=ヨタヒメがいます谷ということで「世田谷」かななどと──、なんの実証的な手続きも踏んでいませんけど、ふとおもったりしています。もし世田姫の谷が等々力渓谷のことだったら、無茶苦茶面白いことになってきます。

348 土師氏と丹波と瀬織津姫―天智の出自 ピンクのトカゲ 2002/05/22 19:32

三河国司・大江定基と力寿との悲話の基層には、瀬織津姫が、隠されているのではないかという旨を書いた。
大江氏について、もう少し掘り下げてみたいと思う。
続日本紀は、大江(大枝)氏について、延暦九(七九〇)年一二月一日条に、桓武は、外祖母の土師宿祢真妹(高野新笠の母)に正一位を追贈し、同族の菅原真仲、土師菅麻呂に大枝朝臣の姓を与えたとする。また、同一二月三〇日条では、菅原真仲、土師菅麻呂と同族の正六位上の土師宿祢諸士ら毛受(もず)=和泉国百舌鳥野(もずの)の系統の土師氏に大枝の姓を与えたと記載する。
大江(大枝)氏は、菅原真仲及び土師菅麻呂並びに土師宿祢諸士ら毛受の系統の土師氏が大枝氏を与えられたことにはじまるわけである。
菅原氏について続日本紀は、菅原真仲、土師菅麻呂らに大江(大枝)姓が与えられる九年前の天応元(七八一)年六月条に、遠江介・従五位下の土師宿祢古人、散位・外従五位下の土師宿祢道長ら一五人が、土師氏を居住地の大和国添下郡菅原に因み菅原に改姓したい旨を願い出た旨が続日本紀に記載される。
菅原氏も土師氏を本姓とするのである。
さらに、その一年後の延暦元(七八二)年五月条には、少内記・正八位上の土師宿祢安人に居住地・大和国添下郡秋篠に因み、秋篠への改姓を許している。
菅原氏、秋篠氏の例によれば、菅原真仲、土師菅麻呂及び土師宿祢諸士らは、毛受あるいは百舌に改姓すべきである。
では、何故、大江(大枝)に改姓したのであろうか。
大江氏については、山城国乙訓郡大枝(現京都府京都市西京区大枝)を本貫とし、この本貫地に基づき、大枝(後に大江)を姓としたとする説が有力である。
土師氏は、大江、菅原及び秋篠に改姓したのであろう。
その理由について、土師宿祢古人、土師宿祢道長ら一五人が、菅原に改姓したい旨を申出た続日本紀延暦元年五月条は、昔は、凶事だけでなく、吉事も土師氏が取り仕切っていたが、今では、もっぱら凶事に携わるのみになり、本意に沿わないから改姓を申出たとしている。
そして、同条は、土師氏が凶事に携わるようになった理由として、垂仁が、日葉酢姫命の葬儀をどのように行うかと問うたところ、群臣は、旧例どおり、日葉酢姫の近親者を殉死すべきと応えたところ、土師宿祢の祖・野見宿祢が、埴輪を陵墓に建てることを進言し、自ら三百人の土師部を率いて、埴輪を作ったことから葬送に携わるようになった旨を記載する。
これは、書紀垂仁三二年七月二六日条の殉死の禁止及び埴輪の起源についての逸話を踏まえたものである。書紀垂仁条によれば、野見宿祢は、出雲の土部(はじべ)百人を招(よ)び、埴土で人や馬をはじめいろいろなものを作ったとする。垂仁は、野見宿祢に鍛地(陶器を成熟させる地)を与え、土師の職に任じ、野見宿祢は、本姓を土部臣(はじのおみ)に改めた。そして、土部連の祖は、野見宿祢であり、土部連が天皇の喪葬を司るようになったとする。
野見宿祢は、出雲から土部を招び寄せたとするが、野見宿祢と出雲の関係については、書紀垂仁七年七月七日条に、天下一の力持ちの當麻邑(大和国葛下郡當麻郷)の蹴速に出雲の国の野見宿祢と相撲を取らせ、野見宿祢が當麻蹴速に勝ち、當麻蹴速の領地を野見宿祢に与え、野見宿祢は、その地に留まったと記載する。
野見宿祢は、出雲から大和に来たのであり、その故郷の土部を招び寄せ、土師連の祖となったということである。
土師連について新撰姓氏録の摂津土師連条によれば、摂津土師連の祖を天穂日命一二世孫・飯入根の裔とする。
飯入根は、兄・出雲振根の留守中に崇神の出雲神宝献上の要求を受入れた人物であり、この出雲神宝献上事件は、狭穂彦の乱の伏線であり、実際には、丹波の事件である旨を拙稿第一話第二章第三節(弊サイトhttp://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/参照)で述べた。
いっぽう、新撰姓氏録の山城神別及び和泉神別の土師宿祢では、土師氏の祖・野見宿祢を天穂日命の一四世孫とする。
土師連及び土師宿祢の遠祖・天穂日命は、高天原から葦原中国に遣わされたが、大国主命に恭順し、復命しなかったとされ、土師氏、出雲氏の祖とされる。
出雲大社の創立は、この出雲氏が関わるのであるが、出雲大社は、まさしく象徴としての出雲である。
野見宿祢と飯入根は、天穂日命の後裔の同族ということになる。
狭穂彦の乱は、書紀によれば、野見宿祢と當麻蹴速の角力の一戦の二年前のことである。
野見宿祢も狭穂彦敗北に関連し、象徴としての出雲(実際には丹波)から連てこられたと考えられる。
野見宿祢は、丹波道主王の娘・日葉酢姫の葬送に際し、殉死の禁止を進言している。
これは、丹波では、殉死の代わりに埴輪を建てることが早くから行われており、未だ殉死の習慣がある大和に殉死を旧制のものと進言したことを示唆させるものである。
また、野見宿祢自身が、日葉酢姫ゆかりの人物であり、直接の生死に関わることであることから殉死の禁止を進言したと考えられる。
さて、大江氏に話を戻すが、野見宿祢が招んだ土師は、大和の地に留まり、添下郡の菅原や秋篠に居を構えたのであろう。
一方、出雲(丹波)に留まった同族もいたのであろう。丹波に留まった土師氏が山城国乙訓群を本貫とする土師氏であり、彼らが、後に大枝(大江)氏を名乗ったのであろう。また、丹波に留まった土師氏の中に後に和泉国百舌鳥野に居を構えた者もいたのであろう。
続日本紀が毛受云々と記載するのは、桓武の外祖母が、和泉国百舌鳥野に居を構えた土師氏であったことからの記載であったと考えられる。
大江氏の本貫地・山城国乙訓郡大枝は、山城と丹波の国境の大枝山の山城側の麓に位置する。
酒呑童子の本拠は、現在の京都府加佐郡大江町の大江山であるが、大枝(大江)氏の本貫とされる大枝の老いの坂には、酒呑童子の首を埋めたとされる首塚大明神が祀られている。
拙稿第一話終章で述べたように酒呑童子は、丹波道主王の裔の一人と考えられる。
上述のように大江氏は、丹波道主家と親密な関係にあったと考えられる。
大江氏の祖・野見宿祢は、日葉酢姫の葬送に際し、殉死の禁止を進言している。
この日葉酢姫について、記紀は、日葉酢姫の姉妹の何人かが、垂仁の后妃として、垂仁のもとにきたが、日葉酢姫及び一人の妹を残し、ほかは、醜いため帰したとされる。これは、大山積神が、磐長姫と木花咲夜姫の二人の娘を差し出したが、木花咲夜姫を娶り、醜い磐長姫を帰したのと同型のモチーフである。
この日葉酢姫と帰された姫の伝承が朝廷別王の穂国入国とともに穂国にもたらされたことは容易に想像される。
そして、後に朝廷別王穂国入国によりもたらされた日葉酢姫と帰された姫の伝承(記紀の逸話自体が変容されているであろう)に今昔物語の大江定基逸話が被さり、力寿悲話を生んだのであろう。

縄文の水の女神の個々の名を消し、総称として瀬織津姫の名を創作したのは、天智―中臣金である。
この天智の出自について、考察してみる。
天智が権力の足がかりをつかむのは、乙巳の変(この翌年、大化の改新の詔が出される)である。
皇極四(六四五)年六月一三日、大極殿において、蘇我入鹿が殺害される。乙巳のクーデターである。
入鹿に最初に斬りかかったのは、中大兄皇子、後の天智である。
佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連編田が、入鹿の威をおそれ、なかなか斬りかからなかったからである。
入鹿が殺害されたのを見て、古人大兄皇子は、「韓人、鞍作臣を殺した。」と言い、自宅に引きこもった。
鞍作臣、皇極元年一月条で、入鹿の別名と記してある。
古人大兄皇子は、大極殿にいた。現場を目撃している。
書紀は、「韓人・・・」を三韓の貢に事寄せて殺したと態々注を付している。
注の通りでであれば、目撃者・古人大兄皇子は、注の如く言っているであろう。
原文は、「韓人殺鞍作臣」である。当然主語は、韓人である。
古人大兄皇子は、韓人が、鞍作臣を殺したと言っている。
入鹿を殺した韓人とは、誰だ。
止めを刺したのは、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連編田である。
しかし、最初に斬りかかったのは、中大兄皇子であり、乙巳のクーデターの首謀者である。
また、共犯者・中臣鎌足も弓を携え、護衛をしている。
韓人は、中大兄皇子か中臣鎌足を指すのであろう。
韓人、すなわち、韓半島の人である。
書紀斎明元年条は、斎明(皇極)は、初め、用明の孫・高向王との間に漢皇子を産み、後に舒明に嫁ぎ、二男一女を産んだと記す。舒明二年条では、皇極を后に立て、皇極との間に葛城皇子、間人皇女、大海人皇子をもうけたと記し、注として、葛城皇子を天智とする。
高向王は、この斎明元年条の用明の孫の記載のほかはなく、その間にできたとされる漢皇子についても他に記載はない。
拙稿第一話第三章第三節で大海人については丹波と関係がある旨を述べた。また、間人(はしひと)=土師人(はじひと)についても間人の名を冠せられた聖徳太子の母・間人穴穂部皇女は、丹波と関係で拙稿第一話拾遺一〇で触れた。
間人について、旧事紀巻三・天神本紀は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命とともに天降った天玉櫛彦命を間人連の祖と記載する。
新撰姓氏録の左京神別の間人宿祢条も同様に天玉櫛彦命を間人宿祢の祖とする。
つまり、間人氏は、天孫降臨以前に天降った天玉櫛彦命に、その出自を求めているのである。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命は、丹波において、天火明命とされ、冠島に冠島に天降り海部氏、尾張氏の祖とされ、大和盆地においては、哮峯に天降った物部氏の祖・饒速日命される。
その天火明命(饒速日命)とともに天降ったのが、間人氏の祖・天玉櫛彦命である。
また、天玉櫛彦命の名自体が、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と関連があると思われる(新撰姓氏録は、神魂命の裔とする。)。
間人=土師人を考慮すれば、土師氏は、丹波と関係があるのであるから、間人と丹波の関係も可能性が高くなる。
一方、大海人皇子&間人皇女と同父母兄とされる天智に丹波との接点はない。
天智―中臣金が個々の縄文の女神を抹殺し、瀬織津姫の名で統合を図っている。瀬織津姫→木花咲夜姫=日葉酢姫を考慮すれば、丹波とは無関係だといえるのではないか。
天智と大海人皇子&間人皇女と同父母兄弟妹とする書紀の記載は、益々怪しくなってくる。
天智と間人皇女は、男女の関係があったのではないかとされる。古代において、異母兄妹(姉弟)の関係はタブーではない。同母兄妹(姉弟)がタブーとなる。
聖徳太子の母・間人穴穂部皇女は、同母弟の多米王と関係をもったのではないかとの考察も拙稿第一話拾遺一〇で行った。
間人は、恥人の意があるのではないかと結論を導いた。土師氏改姓の申出もこうしたことにあったのではないかと思われる。
天智と間人皇女は、男女の関係があったのあれば、天智と間人皇女は、同母兄妹だということになる。
書紀で天智と天武、間人皇后の父とされる舒明は、敏達の孫・押坂彦人皇子を父に、糠手姫皇女(アラテノヒメミコ)を母とすると書紀舒明条で記載される。
書紀敏達四年条は、押坂彦人皇子を息長真手王の娘・広姫を皇后の子と、敏達が、伊勢大鹿首小熊の娘・菟名子夫人(ウナコノオオトジ)を娶り産まれた子を舒明の母・糠手姫皇女と記載する。つまり、舒明は、押坂彦人皇子の孫であり、押坂彦人皇子が、丹波と関係するである旨は、拙稿第一話拾遺一〇で触れた。
一方、書紀で天智と天武、間人皇后の母とされる皇極(斎明)は、書紀皇極元年条で、押坂彦人皇子の子・茅淳王(チヌノオオキミ)の娘とされ、古事記敏達条は、知奴王(茅淳王)を、敏達と漢王の妹・大俣王の間の子としている。
知奴の母とされる漢王の妹・大俣王についても他に記載はない。
斎明に係る漢王と漢皇子、この二人には、何か血の流れがあるのではないか。
斎明の祖母にあたる漢王の妹・大俣王の正体は...
漢の文字から帰化人の匂いがする。とすれば、斎明には、帰化人の血が入っていることになる。
同様に漢皇子についても帰化人の血が入っている疑いがある。
韓人と帰化人、
古人大兄皇子は、乙巳の変で入鹿を殺したのは韓人だとする。
入鹿に最初に斬りかかったのは、中大兄(天智)である。その天智は、天武&間人皇后の同母兄と考えられるが、天武&間人皇后と異なり、丹波との関係は薄い。
天智の父は、舒明ではなく、高向王であり、天智は、漢皇子であり、韓人の血を引いていたと考えられる。
持統の父は、天智=中大兄皇子である。そして、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(オチノイラツメ)である。天智七年二月条では、蘇我倉山田石川麻呂の娘を茅淳娘(チヌノイラツメ)としている。
蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳のクーデターで三韓の上奏文を読み、大化の改新で右大臣に任ぜられるも大化五年三月に中大兄皇子(天智)の謀略により自害に追い込まれている。
持統から言えば、父・天智は、母の仇でもあるわけである。
一方、父・天智が怪しい帰化人に出自を持つのであれば、持統の血は、皇位を継承するにふさわしいとはいえない。
こうした心理が働き一方で父・天智を韓人と書紀に記したのではないか。
大和岩雄、小林惠子、井沢元彦らが天智―天武非同父母兄弟説が出されている。
いずれも天武の出自が怪しいとするものである。その根拠とするのは、「本朝皇胤招雲録」等をはじめ、平安以降に編まれた記録に天武が天智より年上とする記載である。
「本朝皇胤招雲録」等は、暗に天武=漢皇子を示唆させているわけである。
桓武の母・高野新笠は、百済系帰化人であり、父・光仁は、天智の孫である。天智が怪しいということになれば、桓武は、父母両方とも帰化人の血を引くこととなり、皇位継承の資格そのものが怪しくなる。
「本朝皇胤招雲録」は、この桓武以降に編まれたものであり、当然桓武朝の意向が働いたものと思われる。
丹波の血を引くことが皇位形状の条件だとすれば、天智は、母・斎明の祖父・押坂彦人皇子から辛うじて引いていることになる。また、桓武の母・高野新笠の父・高野乙継は、当然、百済系帰化人であるが、その母(桓武の外祖母)は、土師宿祢真妹であり、これも辛うじて丹波の血を引いていることになる。
土師宿祢諸士らに大枝姓を与えた二日前の一二月二八日条で高野新笠の一周期の法要が行われている。土師宿祢諸士らに大枝姓を与えたのも、この法要と関連しているのであろう。
大枝朝臣を与えたことも桓武擁立→即位と切り離せないものになる。
サクラさんが書いていた「松蟲姫」と接点が見出せれば、面白い展開が期待できそうである。

349 熊本の神社(2) カヤナルミ 2002/05/22 19:47

風琳堂ご主人

高橋稲荷神社に行ってきました。鎮座地:熊本市城山上代町1121番地
ここは、日本稲荷五社の一つ。稲荷信仰は『農耕』と密接な関係を持っており、広く民間に分布しています。
当然『農神』を祀っていますが、祭神名は『宇迦之御魂大神』現地では祭神名が分からなかったので、インターネットで調べました。京都の伏見稲荷神社の分霊を祀ってあります。『宇迦之御魂大神』=『豊受大神』ですか?

350 稲荷神と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/05/23 04:58

 カヤナルミさん、稲荷神と外宮神は同神かといわれれば、そうでもあるしそうでもないとしかいいようがないのですが、たしかに農耕神の性格を共有していることにおいて、とても近い神だとはいえるとおもっています。
 本社である伏見稲荷大社は、稲荷山を神体山とする信仰が最古層にあります。この山の頂き近くには、「釼石」という巨岩=神体石があって、その横に神水である「焼刃の水」が湧いているそうです。神体石である釼石は、別名「雷石」とも呼ばれています。としますと、ここに降り立った神を想定すれば、また、この囲炉裏夜話の話につなげていえば、たとえば「火雷神」とみてもよいかとおもいます。
 同社のホームページはとても素直・正直な自社紹介になっていて、ことさらに神徳や由緒を喧伝していないので好感がもてます。稲荷山という神体山の紹介を見ていて、稲荷神のイメージを自分なりに少しメモしておきます。
 ここはかつて三社稲荷とも五社稲荷ともいわれてきましたが、これは稲荷山の三ヶ峯にそれぞれの神がいるという、いわば熊野三山などによくみられる三山信仰を踏襲しているからだとおもいます。ただし、これは、「雷石」の神のあとの話でしょう。
 三社稲荷→五社稲荷というのは、この三ヶ峯(一ノ峯、二ノ峯、三ノ峯)に、二峯を加えたものとみることができます。つまり、間ノ峯と荒神峯の二つです。
 これら五つの峯の神を総称するのが稲荷神です。それぞれの峯の社と神名を書き出してみます。

 @ 一ノ峯=上ノ社=末広大神
 A 二ノ峯=中ノ社=青木大神
 B 三ノ峯=下ノ社=白菊大神
 C 間ノ峯=荷田社=伊勢大神
 D 荒神峯=田中社=権太夫大神

 稲荷神を構成する神々の中に「伊勢大神」があります。稲荷神と伊勢外宮神が同質の性格をもった神だとされることは、こんなところにもその理由があるのでしょう。
 ところで、山城国風土記逸文には、同社の鎮座伝承の記述がみられます。要約していえば、「秦の公」が餅を的にして弓を射ると、餅は白鳥となって山の峰へ飛んだ。その白鳥が「伊禰奈利」したので社名=伊奈利社とした、というものです。
 白鳥と稲作はセットのような伝承で、これは伊勢の元神でもある伊雑神(の一神)である大歳神=大年神(=猿田彦神)の神名由来にも関わっています。つまり、白鳥が稲穂をくわえて飛んできて、その稲穂を落としたところから稲作がはじまるというものです。「穂を落とす」→ホオトシ→オオトシという稲作農耕神の誕生となります。
 稲荷神の祖型神を「雷石」という火雷神とみますと、その白鳥=稲作伝承からも、火雷神つまり火神は、穂神=稲作農耕神でもありましょう。
 伊勢においてもそうでしたが、火神=日神と水神が対の関係にあることをこの稲荷山にみますと、どうやら、伊勢において荒魂=荒神とされた水神の痕跡は、Dの「荒神峯=田中社=権太夫大神」が、それに該当するとみるしかなさそうです。
 田中社は祭神がどうもはっきりしないのですが、参考までにほかの例を挙げておきますと、出雲の熊野大社の境内社の田中神社は「衢神または天鈿女」、武蔵国の田中神社は「武甕槌神」、そして、早池峰神社の元社の田中神社は「瀬織津姫」とされています。出雲の熊野大社は、これもすさまじい神々の改竄がなされていますが、ここの旧称には「熊野天照太神宮」という名がありました。田中神とされる衢神=岐神は猿田彦神ともされますし、その関係から「天鈿女」がここに「または」として記されているのだとおもいます。また、武甕槌神は、伊勢のアマテラスがそうであったように、「甕」あるいは「雷」の男神・女神を合作して創作された可能性が高く、いずれにしても、伊勢の元神に深く関係した神です。それに、早池峰神=瀬織津姫が田中神でもあるわけです。
 稲荷山には「清滝」もあり、わたしは、この稲荷神の背後には、やはり原初の日神と水神が隠されているとみています。
 伏見稲荷大社に伝わる「山上旧跡図」(秦長種作、享保4年)によりますと、この五峯にはそれぞれ「塚」の字があててあります。@=上ノ塚、A=中ノ塚、B=下ノ塚、C=人呼塚、D=荒神塚、といった具合です。また、同社もこれらの神を「稲荷山に鎮まりますお塚の神々」と呼び、その鎮魂祭ともいうべき「火焚祭」を最重要な神事としています。
 稲荷神は、どうやら先住神の総称神であり、さらに鎮魂神でもあるということのようです。
 三河において、天白神は、水神かつ農耕神かつ織姫といった複雑多義な性格をもつ神とされていました。そして、この謎の天白神を瀬織津姫だとする伝承はいちばん多かったのですが、その次に多かったのは、この稲荷神=宇迦之御魂神でした。
 それも、これまでみてきたような、先住の神々を含み、かつ体現している稲荷神の性格を考えますと、なかばありうるものだったということになります。

351 大江氏の祖神と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/05/23 16:21

 トカゲさん、大江=大枝氏の祖神はなにかといいますと、京都「洛西の総氏神」とされる平野神のようです。ここは神紋を「山桜」とする珍しい社です。では、平野神とはなにかとなるのですが、これがまた奇奇怪怪の祭神列挙です。同社の「由緒」を読んでみます。

■平野神社
(祭神)今木神、久度神、古開神、比売神
(鎮座地)京都府京都市北区平野宮本町1
(由緒略記)
延暦十三年(七九四)、桓武天皇の命によって当地(衣笠の地)に御鎮座。平安遷都に際し、御生母高野新笠姫を中心とする新進の大陸文化を導入した人々が平安の都づくりに優れた技術を用いた功績は多大であった。更に遷都後は外の護となったこと等に対して天皇の御親祭をみたもので、「延喜式」に皇太子みづから奉幣される定めになっている延喜式内社の名神大社。平安中期以後は二十二社の五位として、伊勢・賀茂(上・下)・石清水・松尾につぐ名社であった。
 また源氏・平氏・高階・大枝・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏等八氏の祖神として崇められてきた。明治四年官幣大社に列し、洛西の総氏神と仰がれている。
 現在の本殿(四棟)は、慶長三年・同九年、平氏の末裔で公家の西洞院時慶卿によって再建されたもので、「平野造り」または「比翼春日造り」と稱せられ、重要文化財。拝殿は、東福門院寄進によるもので「接木の拝殿」として有名である。掲示の三十六課歌仙は寛文年中、平松時量卿の寄進にして、その書は関白近衛基熈、絵は海北友雪。(神奈備HP「延喜式神名帳」)

 桓武によって創祀されたとする平野神社ですが、この平野四神について、『和漢三才図会』は『国花記』を引用し、次のように伝えています(4神ではなく5神を挙げていますが)。

 @ 今木神=日本武尊=源氏の神
 A 久度神=仲哀天皇=平氏の神
 B 古開神=仁徳天皇=高階氏の神
 C 比売神=天照大神=大江氏の神
 D 県 社=天穂日尊=中原・清原・菅原・秋篠の四姓の祖神(玄松子HP)

 なお、玄松子さんは、平野四神についての「説」を、次のように紹介しています。

 @ 今木神……今来神。New Comerの神で、百済系渡来人の祖神。
 A 久度神……岐[くなど]神で、道の神。あるいは竈[くど]神で、家の釜戸を守護する神、庚申。あるいは、物部氏一族の久努氏の祖神。
 B 古開神……フルセキ・フルアキ・フルサキといろいろと読まれ、物部氏の祖神。
 C 比売神……上記いずれかの神の妃か、あるいは巫女的立場の神。

 この神社の主祭神は、「由緒」も述べるように、桓武勅命の祭祀にはじまっていますから、やはり、@の「百済系渡来人の祖神」とされる「今木神」を主神とみるべきです。これは、百済人=韓人=高野新笠を母とする桓武の出自を考えますと、妥当とみるべきでしょう。
 しかし、問題は、ほかの三神はなんだとなります。Aの久努氏は、天武のおそらく新しい祭政に文句を言ったために、朝廷への出仕を禁止された(675年=天武四年四月)、「小錦下久努臣麻呂」の「久努氏」でしょう。彼は、朝廷への出仕禁止のあと、さらに「勅命をおびた使者に従わなかったので、官位をことごとく奪われた」と書紀に記されています。この久努氏は、瀬織津姫を集中してまつる遠江国とも関係し、また物部氏の一氏族だとしますと、Bの「古開神」は、やはり物部氏の祖神に関わる「フル」の神でしょう。
 残りのCの「比売神」を『和漢三才図会』は大江氏の祖神とし、しかも天照大神としていました。また、このなぞの女神は、「上記いずれの神」の妃神かと、玄松子さんは指摘していました。
 平野神社のA〜Bの神は、おそらく、@の前に信奉されていた神なのでしょう。つまり、物部氏ゆかりの神たちの地に、天智─桓武たちの韓人=百済神があとから鎮座したというのが、平野四神のありていの姿だとおもいます。
 なお、尾張国風土記逸文によりますと、垂仁の子・ホムツワケの失語を回復するために、垂仁の皇后に夢告する神は「阿麻乃彌加都比女」とされ、古事記は同じ夢告の神を「出雲の大神」としています。大江氏の神は、物部氏ゆかりの神であり、しかも天照大神に関わる甕=ミカの神でもある可能性があります。いずれにしても、出雲へとつながっている神です。この出雲は、近場では山背の「出雲」であり、また丹波の「出雲」であり、それこそ出雲国の出雲大社へとつながる「象徴としての出雲」なのでしょう。
 天智の正妻とされる「倭姫王[やまとひめのおおきみ]」は、一男二女を産んでいましたが、この唯一の男子は「建皇子」とされ、「言葉が不自由」だったためか、皇位継承の道からははずされたようです。垂仁─ホムツワケ・ヤマトタケル─倭姫命と、天智─建皇子─倭姫王との重なりのイメージは否定できません。
 なお、天智時代に瀬織津姫は大祓の神とされましたが、としますと、伊勢の祭祀とその改竄に真っ先に着眼していたのは、中大兄=天智と、その腹心=腹臣である中臣鎌足を頂=長とする中臣=藤原一族でした。天智─中臣の像を一身に体現する藤原不比等は鎌足の子であるとも、天智の子ともいわれます。韓人─百済人の<血>を濃厚にもつ桓武によって、新羅を含む倭の神々は、不比等を後追いするように、あるいは輪をかけるように、激しい改竄の対象とされていきます。
 稲荷神の三ヶ峯の三社殿を造営したのは、土師=菅原道真を大宰府の地に左遷死させた、ときの太政大臣・藤原時平でした(908年=延喜8年)。山城国風土記の成立時期は確定できませんけど、少なくとも、713年の風土記編纂の命以降のある時期までは、稲荷神は三神ではありませんでした(三神化の初見は『日本紀略』によると901年=延喜元年で、「稲荷三所大明神」と記される)。稲荷神の三神化が、藤原時平の時代、つまり延喜時代には、常態と化していたことを確認しておきます。

352 平野神社 ピンクのトカゲ 2002/05/23 19:19

平野神社が衣笠の地にあるというのも意味深です。また、高野新笠は、父は、百済系帰化人・高野乙継なわけですが、母は、土師氏であり、土師氏は、丹波と関わりがあることは既に述べました。
平野神社は、源氏・平氏・高階・大枝・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏等八氏が祖神として崇敬したということですが、(清和)源氏は、桓武の四世孫の清和から、平氏は、言うまでもなく、桓武平氏なわけですから、桓武の三世孫の高望からです。高階は、天武―高市皇子の四世孫の峰緒から、清原氏も天武―舎人親王の孫・有雄からです。中原氏は、本姓大江氏ですから、大江氏、中原氏、菅原氏、秋篠氏は、すべて土師氏の裔ということになります。
平野神社の崇敬氏族を分類すれば、(イ)源氏&平家の天智―桓武の裔グループ、(ロ)高階&清原の天武裔グループ、(ハ)土師氏グループとなります。
平野神社は、四神が祭祀されていることから、(ハ)の土師氏グループは、(ハ1)大江氏及びその別れの中原氏の丹波残留土師グループと、(ハ2)大和の土師グループに分けてもいいかもしれません。
今木神→今来神は、(イ)の桓武グループの崇敬神であることに異論はありません。
久度神→岐神と考えれます。そして、桓武により創立したことを考慮すれば、桓武にとっての「来るなの神」ということで(ロ)の天武グループの崇敬神であると考えられます。
つぎに古開神。
玄松子さんは、古開神は、フルセキ・フルアキ・フルサキと読まれるから、物部氏の祖神だとしていますが、物部氏の祖神は、布留(フル)と一般に表記されます。
「古」=「布留」ということになれば、古川等の地名については、すべて物部ガラミということになります。「古」のすべてとは言わないまでも、この「古開」以外の例で、「古」=「布留」の例があれば、この説も説得力をもつと思いますが、少し論理飛躍しているのではないかと思います。
『和漢三才図会』が引用する『国花記』は、古開神を高階氏の神としているわけですが、高階(タカシナ)→高階(コウカイ)→古開(コカイ)なわけですから、古開神の訓みは、コカイノカミ→蚕養神(コカイノカミ)でしょう。
蚕養神ということになれば、筑波の蚕影神(コカゲノカミ)や京都太秦の「蚕ノ社(カイコノヤシロ)」が思い浮かびます。
蚕ノ社は、木嶋坐天照国照神社(コノシマニマスアマテルクニテルジンジャ.祭神:火明命)の末社で、木嶋(コノシマ)そのものが、蚕嶋(コノシマ)と考えられます。
古開(コカイ)→蚕養(コカイ)→蚕嶋(コノシマ)→木嶋(コノシマ)と考えれば、桓武は、木嶋坐天照国照神社を勧請したと考えられます。つまり、古開神は、男神・天照大神(アマテルノオオカミ)ということになります。
結論から言えば、玄松子さんの物部氏の祖神というのもあたらずしも遠からずということになります。
比売神は、上記いずれかの神の妃ということになれば、やはり、古開神は、男神・天照大神の妃神→瀬織津姫(丹波の水の女神)といえるでしょう。
このように見てみますと、やはり、大江氏を含む土師氏は、火明命及び丹波の水の女神と関係が深いことがわかります。

353 平野神社の桜と那智の滝 風琳堂主人 2002/05/24 14:13

 トカゲさん、系譜崩し=明かしの技が光る平野神社の話です。それと、古開=コカイ→蚕養の展開はなるほどなとおもいました。蚕の社の「木嶋=このしま」は「蚕の島=コノシマ」だというのは、わたしもそうおもっています。駒形神を明かすときに、ここにも触れるつもりです。
 なお、平野神社の由緒で、「遷都後は外の護となった」とあり、桓武にとって、このときの「外」とはなんだろうなということがちょっと気になっています。平野神社は、もともとは衣笠山を神体山とする社だったのでしょうが、985年、この山に桜を数千本植えたという花山天皇(「花山」の号はこの植樹にちなむのでしょう)の真意はなんだったのかということもあります。ちなみに、花山は、藤原(兼家=道長の父)の策謀によって、在位二年で退位→出家し、その後、那智の「二の滝」で千日修行をしています(供は安倍晴明とも)。藤原氏への怨恨、那智の滝神の熟知、そして桜、です。
 花山が那智への途路で詠んだ歌──。

岩田河渡る心の深ければ神もあはれと思はざらめや

 あるいは、那智における二首──。

石走る滝にまがいて那智の山高嶺を見れば花の白雲
木[こ]のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな

 滝神と桜を知っていた花山でした。彼が、この平野神社や衣笠山に桜を植えたということは、やはりなにごとかだったとみられます。

 ところで、平野神社近くには、大将軍神社もあり、御霊神社の創建といい、桓武の<怯え>は相当なものだったようです。
 大将軍神は現在、素盞鳴尊となっていますが、熊野川中流域にある十津川村の大将軍神社は、主祭神を瀬織津姫としています。十津川渓谷の小支流をかなり山にはいったところなのですが、とても大事にされている印象がありました。素盞鳴尊をわざわざ瀬織津姫に変える必然性はありませんから、ここは当初から大将軍=瀬織津姫という認識があった可能性が考えられます。太白=金星=金精神として畏怖の最高にあるのが大将軍神ですが、これも桓武の創建であり、平野神とともに内裏からは西の方角に位置しています。外敵の侵入を防ぐという意図による配置だということはわかりますが、平野神社と大将軍神社を近接して二社配置するというのは、ちょっと変だなとおもっています(これは「気になること」のメモです)。
 もうひとつ、平野神社の由緒は、その建築構造を「比翼春日造り」と説明していました。平野四神は、春日四神の構成に擬したことも考えられます。としますと、平野四神の「比売神」は、春日四神の「比売神」とも共通しています。なぜ、この神の名は「比売神」以上に語られることがないのか──。あらためて囲炉裏夜話の基本に立ったような気がしました。
 こういった謎めいた平野神社なのですが、花山の異様ともいえる桜植樹に、わたしには、やはり花山による、ある神への「鎮魂」の意を汲み取りたいとおもいます。現在、「平野の夜桜」として親しまれているようですが、その初源の桜の話です。
 那智の滝神と桜──、のちのことですが、西行は、花山の前記の歌を受けて、次のように歌っていました。

木[こ]のもとに住みけむ跡をみつるかな那智の高嶺の花を尋ねて

 那智の高嶺には桜が咲いているようです。桜と滝、そして謎の「比売神」です。

354 桓武と大山積神―大江氏と酒呑童子 ピンクのトカゲ 2002/05/24 16:44

風琳堂主人の衣笠山を神体山とするという話、渥美半島の衣笠山と滝頭不動の関係を思い浮かべました。
この渥美半島の衣笠山は、大山積神を祭神とするわけですが、桓武は、平安京の丑寅の方角を鬼門とし、比叡山延暦寺を建立しました。
この比叡山は、日吉山(日枝山)であり、日吉山王社(祭神:大山積神)の上に、仏教寺院をかぶせたわけです。
大山積神の娘は、いうまでもなく、木花咲夜姫と磐長姫であり、木花咲夜姫=日葉酢姫の等式を当嵌めれば、大山積神=丹波道主王の等式が成り立ちます。
この等式については、拙稿第一話拾遺九で、伊予大三島の大山積神社の東漸と砥鹿神社の関係からも補強されるものと思います。
大江定基は、愛妾の死に際し、ものの哀れを感じ、叡山に出家するわけですが、穂国=東三河の山王社では、大江定基叡山入山との関係の縁起をもつことは、以前、力寿伝承で触れました(宮道天神社)。
大江氏の性格が明らかとなった今、大山積神=丹波道主王となり、宮路山(宮道天神社は、宮路山にある)の草壁伝説も丹波の日下部氏が基層にあることは、益々明白になります。
つぎに、寛和元(九八五)年に花山天皇が、衣笠山に桜樹を植えたとの話、「大江山」の酒呑童子ともなにやら関係がありそうな気がします。
花山天皇退位に直接手を下したのは、確か道長の兄・道兼だと思いましたが
道兼が、花山を唆し一緒に出家する旨を持ちかけたのではなかったかと記憶しています。
道長の父・兼家の後、摂政となるのが、道隆、この道隆に仕えていたのが、源頼光です。
頼光が大江山の鬼・酒呑童子を征伐するわけですが、拙稿第一話終章で、サンカの始祖伝承からサンカの長・道宗=酒呑童子→丹波道主王の裔を明らかにしました。
花山失脚と衣笠山への桜樹の植樹と酒呑童子には、何か関連があるのではと思えてくるわけです。
また、大江の姓自体が、大江山(大枝山)と関わってくるわけで、大江匡房は、サンカの原像傀儡師について「傀儡師記」を、那智と瀬織津姫について「江談抄」を現しているわけで、匡房自身、丹波における日神―水神=火明命―道日女について深い知識があったのではないかと思えます。
そして、匡房の孫が和泉式部です。

355 鬼と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/05/25 05:25

 トカゲさん、平野神社の異様な数の桜植樹をした花山天皇は、おそらく、中臣=藤原氏が朝廷内外でおこなっている祭政の本質に気づいた天皇の一人だったかもしれません。彼は、自らの祖神とされるアマテラスの<虚>を、自分を皇位から追いやろうとしている藤原氏との確執の過程で確信したということが考えられます。
 花山は、那智における千日修行のあと、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の旅に出ます。そして空海ゆかりの地、観音霊場の各地で歌を詠みます。これが「御詠歌」の始まりとなります。西国巡礼の第一番札所として、那智の青岸渡寺[せいがんとじ]が確定するのも、これも花山の意が反映しています。花山が那智・青岸渡寺で詠んだ歌=御詠歌──。

補陀落や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬

 花山が巡礼の旅を終え、都に帰ったあと、999年のことですが、ふたたび熊野詣をしようとしますが、それを阻止したのは、またもや藤原氏、今度は関白・藤原道長でした(HP「熊野の説話」)。
 こういった藤原氏との確執をくりかえし、花山は1008年、41歳の若さで亡くなります。藤原氏への<怨>の想いと、「那智のお山にひびく滝つ瀬」つまり瀬織津姫への贖罪の想いが、彼の心中には二重化されていたとみることができます。

 そういった藤原氏に仕えたのが源頼光なのですが、彼および四天王たち(渡辺綱、坂田金時、占部季武、碓井貞光たち)の手柄話として喧伝される大江山の鬼=酒呑童子成敗の話──これも藤原氏謳歌の一産物とはいえそうです。
 無理な、強引な藤原祭政に異を唱えるものは各地に存在したはずで、それらを屈服させるのは、貴族の深謀をもった<知>だけではどうしようもなかったということなのでしょう。藤原氏は、頼光たちの直接的な<武>を利用したといえますし、頼光たちもまた、藤原=貴族たちに自らの存在を主張するために、<狗>を隠した「英雄」を積極的に演じたというべきかもしれません。
 武士の誕生といってしまえばそれまでですが、酒呑童子は、象徴としての鬼で、藤原祭政に一線を画すもの、なびかないものは、すべて鬼だったとみてよいかとおもいます。
 丹波・大江山からは距離がある、九州・筑後川の源流山の名は酒呑童子山(1180.5m)で、ここも象徴としての鬼の地だったとみることができます。同山には鯛生金山もあり、そういった金属資源の収奪の過程も、この鬼退治の物語に隠れていることはよく指摘されることです。
 花山も、天皇の位になければ、まちがいなく鬼とされた存在だったとおもいます。そういう意味で、瀬織津姫は鬼の国においてこそ大切にされたとみることができます。この鬼の心が忘却される過程とともに、瀬織津姫は歴史の水面下を生きていくことになるのでしょう。

356 松鷲山花井寺 ピンクのトカゲ 2002/05/25 12:29

大江氏の素性も明らかになった。三河国司・大江定元と穂国=東三河の社寺の伝承について書いてきたが、煩雑なところも多々あることから一度整理する。
花井寺の本尊は、十一面観音。
花井寺境内東端には、泉があった。今は涸れているが、今も石組みの跡が残る。
寺伝によれば、開基は、花井姫。
花井姫は、三河国司・大江定基の侍女であったとされる。
一〇世紀に成立した今昔物語によれば、円融院の時代(九六九〜九八四)に定基が、三河守に任じられ、任国三河で若くて見目麗しい娘と会い、前妻を捨て、その娘を妻とした。
しかし、その娘は、病にかかり、定基が、祈祷などを試みるも、回復せず、日に日にその美貌も衰えて、遂には、帰らぬ人となった。悲しみのあまり、定基は、娘を葬ることもなくいたが、遂には、腐臭が生じ、泣く泣く葬った。定基は、世の無常を感じ、出家を決意する。
また、菟足神社(宝飯郡小坂井町)の風祭で猪が生贄にされるのを見て、宋に渡ることを決意したという。
定基は、天元年中(九七八〜九八二)に蔵人に任ぜられ、その後、三河守に任じられたとされ、永延二(九八八)年に定基は、出家し、長保五(一〇〇三)年に渡海したとされる。
これらから、定基が、三河国司に赴任してきたのは、永廷(九八七〜九八八)の頃と考えられる。
寺伝によれば、定基は、「見上げの松」付近に庵を構えたといわれ、定基が出家したのを悲しみ、花井姫は、出家し、庵を結び、花井姫の死後、堂宇が建てられ、その後、久安四(一一四八)年に堂宇跡に真言宗の吉祥山今水寺の僧・慶寛法印が龍源院を建立、のち真言宗から曹洞宗に改宗し、天文一五(一五四六)年に現在の花井寺の寺名になる。
定基の出家に伴い岩井姫及び船井姫も出家したと伝えられ、岩井姫が庵を結んだ跡が、岩井寺、船井姫が庵を結んだ跡が船井山延命寺である。
船井山延命寺は、花井寺と同じ古宿地区にある(現豊川市新宿町一丁目、町名変更前は、古宿町字中通。花井寺は、現豊川市花井町、町名変更前は、古宿町字市道)。
宗派は、花井寺と同じく、曹洞宗永平寺派。
一方、岩井姫が庵を結んだ跡は、弁天坂(現在、比定できず)付近といわれるが、岩井寺は、現存せず、どのあたりか不明である。
一説には、岩井姫は、定基の庵がある見上げ松付近に留まったとされる。
花井姫の花は、桜であろう。また、井は、文字通り花井寺境内東にある泉を指すのであろう。
桜の姫から花井姫は、木花咲夜姫であり、水の女神としての性格を有することがわかる。桜と水の女神ということになれば、瀬織津姫である。
一方、定基の庵がある見上げ松付近に留まったとされる岩井姫、花井姫が、木花咲夜姫であれば、ニニギに帰された磐長姫ということになる。
国内神名帳の宮解(ミヤゲ)天神は、この花井寺付近にあったといわれ、見上げの松は、この宮解に因むものといわれる。
大地に降った雨は、地中に染み込み、岩盤にあたり、水脈となり、やがて、地表に現れ、泉となる。この台地の恵みは、振興の対象となる。水脈と岩盤(磐)は、本来一体のものであり、水神と磐も切り離せないものであった。そして、その水神が宿る木が桜。
本来、一体であった木花咲夜姫と磐長姫は、二神に分割された。
宗像の三女神も本来は、一神であったのであろう。蝦夷の地・早池峰山が、三神一体であることは、風琳堂主人が、「エミシの国の女神」で証明した。
船井姫、その名から海神の匂いがする。瀬織津姫の名の下、筑紫の水の女神が、統合されたことと関係するのであろう。
宗像三女神への摺合から船井姫が付加されたのではないか。
延命寺は、花井寺の北400メートルほどのところにある。見上げの松が花井寺付近にあったのであれば、延命寺あたりに定基の庵=岩井姫の庵があったとも考えられる。
岩井姫=磐長姫であれば、磐長姫→延命の図式がうかび、延命寺→岩井姫の庵の跡と考えられる。
後に船井姫を付加され、延命寺が、船井姫の庵跡となったのではないか。
そもそも延命寺の創立は、花井寺より遅れる。木花咲夜姫と磐長姫は、本来一体であった。
とすれば、記紀の符合から花井寺から延命寺は、分割されたのではないか。
散る桜と常緑の松(見上げの松)。山号の松鷲山の松と寺号の花井寺の花。
本来、磐長姫と木花咲夜姫が一体であったことを示しているのはなかろうか。
なお、花井姫、岩井姫の伝説は、永廷ごろに時代設定がされている。これは、花山帝が、衣笠山に桜樹を植樹したころである。

357 また猿田彦大神発見 カヤナルミ 2002/05/26 00:50

風琳堂ご主人

福岡県太刀洗町にある『老松神社』に再度行ってきました。境内に入って左手に石碑と石像が一対となって並んでおり、石碑には大己貴神の字が彫られていました。しかし、石像の方はそうとう古いせいなのか、男神か女神か判別がつかなかった。(気になる石像です)境内の奥の隅には大きな石碑があった。石碑には何も彫られていないと残念に思っていた時、反対側を覗いて驚いた。猿田彦大神の文字が堂々と彫られていました。今度は古老をつかまえて色々と尋ねてみます。猿田彦は沖縄や出雲と関係がありそうですね。

358 淀姫=与止日女の元は瀬織津姫 風琳堂主人 2002/05/26 10:57

 カヤナルミさん、老松神社は異様なくらい祭神・由緒を不祥としていますね。にもかかわらず、九州各地にあります。筑後川上流部にも老松大明神があり、もとは老松神社だった津江神社もみられます。両社は、出雲岳(847.7m)という山の麓に鎮座しています。また、津江神社の鎮座地の地名は「合瀬」とあります。正確には、今、カメルーンのキャンプ地として全国的に知られるようになった大分県中津江村の「合瀬」です。
 宝満川も大刀洗川も筑後川の支流ですし、この出雲岳は酒呑童子山とともに筑後川の源流山を構成しています。また、「大刀洗」という名からは、はるか東、常陸国ですが、アラハバキ神ゆかりの大洗磯前神社なども浮かんできます。
 社名に「松」をもっているということは、ここは龍神の要素をもっている神にちなんだものかもしれません。町村誌=町村史や、さらに古い郡史などを見てみると、意外な発見がよくあります。インターネットのレベルでは明かすことが無理なケースが、この老松神社のようです。しかし、これだけの祭祀数が確認できますので、老松神はもともと相当に大事にされていた神だということが想像できます。
 ちなみに、福岡県嘉穂郡桂川町土師にあります老松神社の旧社名は「土師宮」だったそうで、現在の主祭神は「大国主神」。創建年代不詳。のちに出雲の土師連がここに住みついたので、地名・社名となったようです。土師宮以前の社名があった可能性がありますが、出雲との関連がみられるのは、これも興味深いです。
 もし老松神が、猿田彦だとしますと、これも龍神ですから「松」の社名にふさわしいということになります。しかし、猿田彦が祭神ならば、それを隠す必要はありませんから、もう一つ背後の神、それも大事な神が隠れている可能性があります。猿田彦神は、記紀によって創作された神名で、わたしはこれも宗像の消えた道主神(男神)だろうとみています。
 沖縄・那覇の首里城のウシトラ方位にある守護神として、土地の水神とともに熊野の水神がまつられています。熊野信仰は沖縄にまで逆流しているのかと、しばらくその水神の洞窟の前で考え込んだことを思い出しました。熊野大神(の男神)は猿田彦神ともなる、そのように名を変えられるとおもっています。熊野新宮の元社である神倉神社には、その神体石=ゴトビキ岩の登り口に、たしか猿田彦神がまつられています。最重要な日神=男神が猿田彦という名とされ、これが伊勢の元神(の一神)だということ──やはり、伊勢と猿田彦神を分離→独立させて考えるのは記紀の創作にはまるようで、わたしは不納得だなとおもっています。
 なお、先回、熊野・田辺の川上神社が肥前国佐賀郡から勧請されたことにふれましたが、この佐賀の元宮はどこかということがわかりました。うかつというべきですが、それは、肥前国一の宮とされる「与止日女神社」です。同社の鎮座地は、佐賀県佐賀郡大和町川上1。ここは現在の嘉瀬川で、前は川上川とも呼ばれていました。与止日女神社の別名は「川上神社」で、祭神は与止日女大神。与止日女=淀姫または豊姫(豊玉姫とも)の元は世田姫でしたが、この与止日女大神は、紀州熊野の川上神社へやってくると瀬織津姫の名となります。佐賀の川上神社と熊野の川上神社と、どちらがほんとうの祭神かはもう明らかだとおもいます。
 明治期に、瀬織津姫の名を「官令」によって変えた決定的な史料をみつけました。これは「他見無用」とされたものですが、駒形神についての話でふれるつもりです。与止日女神社が「一の宮」とされたこと自体、ここの神を最重要視せざるをえなかったことを逆証しています。背後の祭神に、瀬織津姫の存在がほぼ確定できることと、この厚遇祭祀は、深く関係しているものとみることができます。
 タブーの時代・歴史は明らかに終わりつつあります。

359 鬼の話を軽く pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/05/26 17:36

ふと思ったことなんですが、
一寸法師の話って言うの確か宇治川が舞台でしたよね?
それと住吉も関ってたと思いますが、違いましたか?
非常に不思議なのは、一寸法師は、鬼から「打ち出の小槌」をもらうわけですが、
「打ち出の小槌」って言えばダイコク様の持ち物ですよね。
なんで鬼がもっているんでしょう?
ダイコク様をやっつけて奪った?
そんなことはないですよね。
となると、ダイコク様(大国主命)=鬼?
一寸法師自体、少名彦を連想しますし、
一寸法師の話って裏に何かあるような気がします。
それともう一つ
瘤取り爺さん
瘤を取った鬼ってどうやって、お爺さんの瘤を取ったんでしょう。
外科手術なんてわけないし
なんか瘤と疣って、疣の大きいのが瘤ってイメージしませんか?
疣→瘡は、何度もこの掲示板で書きました。
そして、腫物を鎮めるのがサクラ
お爺さんの瘤を取った鬼にサクラ→腫物を鎮めるのイメージがわくんですが
どうでしょう?

360 御伽草子と鬼 風琳堂主人 2002/05/27 08:47

 一寸法師のストーリーをざっと振り返りますと──。
 子供のいない老夫婦が住吉の神に祈り、そして授かったのが一寸法師。しかし、こんな「変」な子はいらない、一寸法師もここにはいたくない──。そして淀川→鴨川を遡って都へ行き、そこである貴族のところに仕える。やがてこの貴族に美しい娘が産まれる。一寸法師はこの姫と一緒になるために知恵をしぼり、二人は難波の浦にある島へ行く。ここで、二人の鬼と出会うが、姫に危険がおよぶとき、一寸法師がこれを救い、つまり鬼を降参させ、鬼がもっていた打出の小槌によって背が伸び、金銀も得、一寸法師は美しい若者になり、姫と都へもどって結ばれる──。後日潭として、一寸法師は、かつて讒言によって流人となった「堀川の中納言」の子だと明かされ、最後の最後で住吉神が賛美される──「住吉の御誓ひに末繁盛に栄えたまふ。よのめでたきためし、これに過ぎたる事はあらじ」。
 住吉神の誕生は、広田神=天照大神荒魂の誕生とセットでしたが、住吉神と広田神は、もともと対の関係にありました。これは、たしか住吉神が広田神のところへ「通う」といった伝承や、橋姫神社の祭祀によく表れていたかとおもいます。
 淀川を遡行するというのは、貴船神の鎮座経路と一緒なのですが、子授け神は、住吉神(の男神)というより、その対の女神のほうだったとおもいます。
 また、鬼が「打出の小槌」を所有していることは、鬼=酒呑童子が鉱産資源を握っていたことと関係しているようにおもいます。大国主/大己貴=大穴持は、鉱産の「穴」を所有していたとみることができますから、鬼ともなりうる要素はもっていたということかもしれません。
 瘤取り爺さんの話は、一寸法師の話よりもかなり後世のものかとおもいます。ただ、こちらの鬼は、瘤(←イボ)を自在にとったりくっつけたりできるという神力をもっています。つまり、この鬼は、医療の心得があったとみるべきでしょう。これはカッパが医療の技を所有していたことと関係しているか、あるいは、因幡の白兎潭にみられるように、大己貴もまた医療の心得があったということと関係しているのかもしれません。
 大国主は稲荷神と同様に、先住の神々を総称したもので、どれか一つの神の性格要素にこだわって論じようとすると、全体がみえなくなるようにできています。象徴としての出雲、つまり、縄文の時間層に足場をもつ出雲の原像神=水神を深く封印し(これは放逐したともいえますが)、その空洞に天孫族前の先住神=国津神が埋め込まれています。
 記紀によって、天孫族に国譲りをする、したとされる国津神の代表神(とされた)大国主ですが、むろんこれは、記紀の願望を込めた創作でした。かんたんにいえば、国譲りをした覚えはないという神々が各地に存在したはずで、その反骨の神の象徴がタケミナカタ、つまり諏訪神でした。この反骨の象徴神は、古事記から日本書紀への推敲・創作過程で、甕星・天香香背男に象徴名が変わりますが、これも鬼の原像神です。諏訪神は、伊勢の元神でもあり、この元神の反骨性を特化したものが、大己貴荒魂=アラハバキ神(三河・砥鹿神社)かとおもいます。
 いずれにしても、総称神・大国主のなかに、磯良神→河童神なども内化されていたとみられますので、「彼」は白兎を助けることができたのでしょう。ほかにも、各種高度な技術をもった神を内化していましたので、鉱産神ともなりえます。この鉱産神に反骨性が蘇生したのが、これも象徴としてのというべきかもしれませんが、鬼=酒呑童子でしょう。
 中世以降は、こういった鬼たちは、その反骨性が語られることなく、貴族の架空話=御伽草子の中でまぬけな鬼としてのみ語られることになり、それが近世あるいは江戸期になって、庶民に、多少の畏怖を認められつつも揶揄されるような鬼の話へと降りてくるのだとおもいます。
御伽草子は、もともとは文芸好きな「法師」が創作したものだったかもしれません。

361 龍雲山妙音閣三明寺 ピンクのトカゲ 2002/05/28 07:34

花井寺は、三河国司・大江定基の侍女を縁起とするが、その基層には、大江氏―土師氏と関係の深い瀬織津媛が横たわっていることが判った。
花井寺から飯田線に沿って、八〇〇bほど豊川方面に行くと、姫街道に面して、三河七福神の一つ弁才天を祀る龍雲山妙音閣三明寺がある。
ここも花井寺と同じく、はじめ真言宗、後に曹洞宗に改宗
本尊は、豊川弁才天、俗に馬方弁才天と呼ばれる。
今昔物語では、定基が愛した娘の名も素性も記載されていないが、一三世紀から一四世紀に成立した源平盛衰記に至って、赤坂の遊君・力寿と、その素性が記される。
さらに、力寿は、赤坂の長者・宮路弥太次郎長富の娘とも伝えられ、定基が、国司の任期を終え、都に帰るとの噂を聞き、別離を悲しみ、定基愛用の琵琶を抱きしめ自ら舌を噛み切り死んだとも伝えられる。
本尊の豊川弁才天は、定基が、力寿の面影を弁財天に刻み残したものと伝えられる。
三明寺々伝によれば、大宝二(七〇二)年、文武が、三河国星野之宮へ行幸の際、現境内池のほとりにて辨財天の霊験を得、大和国橘寺覚渕阿闍梨に命じて堂塔を建立、開山となったとする。
現境内池は、今は涸れているが、「宝飯の聖水」なる湧水から流れていた。
大江定基(九六二〜一〇三四)は、一〇世紀から一一世紀にかけての人物であり、力寿の名が記載されるのは、それより二〇〇年ほど後の「源平盛衰記」に至ってからである。
にもかかわらず、寺伝は、大宝二(七〇二)年、文武が、三河国星野之宮へ行幸の際、現境内池のほとりにて辨財天の霊験を得、大和国橘寺覚渕阿闍梨に命じて堂塔を建立、開山となったとする。
定基が三河国司に赴任する三〇〇年ほど前に既に弁才天を祀っていたことになり、その後、力寿伝承が被さったということになる。
先ほども書いたが、この三明寺の弁才天、俗に馬方弁才天ともいわれる。
さて、この馬方弁才天の謂れであるが、むかし、姫街道を往復する馬方に唄の上手い馬方がいた。その馬方、仕事が終ると、一杯引っ掛け、更に調子のいい歌声で三明寺の前を過ぎていく。
唄の好きな弁天様、この美声を聞くのを楽しみにしていた。ある日のこと、お堂の中を抜け、弁天様は、馬方に声をかけた。
馬方は、突然、若くて美しい娘が現れびっくりした。弁天様の化身の若くて美しい娘は、私は、三明寺の弁財天です。そなたの唄を毎日楽しみに聞いています。御礼にこの財布を授けましょう。その代わり、この財布を私から貰ったことは内緒にしてくださいと
その財布は、いくら金を遣っても尽きることはなかった。元来酒好きの馬方。仕事をせずとも酒が呑める。だんだんと仕事をやらずに酒びたりに。
仲間は仕事をせずに酒ばかり呑んでいて、酒代に事欠かない馬方に、どうして仕事をせずとも酒代に事欠かないかと尋ねるが、馬方は最初のうちは笑って誤魔化していた。
しかし、遂に誤魔化しきれず、弁天様から財布を授けられたことを喋ってしまった。たちまち財布はただの財布に戻り、馬方も元のただの馬方に戻った。それから、三明寺の弁財天を馬方弁才天と呼ぶようになったと
さて、お堂の中の音楽好きの弁天様がお堂から抜け出すという話、三河湾北岸の特殊神事・弁天不在の七福神踊りと関連がありそうである。
七福神踊りは、三河湾北岸の御津(みと)町御馬(おんま)の引間神社の祭礼、山車の海中渡御で有名な蒲郡市三谷町の三谷祭などで奉納される。
ほかに蒲郡市の竹島、同市形原及び東大塚でも七福神踊りが奉納されている。
かつては、旧宝飯郡の西部の海岸地方では、祭礼の出し物としてポピュラーなものであり、多くの神社で奉納されていた。
七福神踊りといっても、弁才天は、踊りの輪に加わっていない。
お囃子の太鼓が置いてある小さな車が弁天堂で、そこに弁天様は安置されているという。
弁財天の代わりに、弁天様の使いの白狐が、六福神に加わる。
弁才天は、お堂の中、周りで賑やかに踊る六福神。
六福神は、弁天の登場を待って賑やかに踊っているのではないか?
このモチーフから連想されるのは、アマテラスの岩戸隠れである。
岩戸隠れで乳も露わに踊るは天鈿女命。
七福神踊りでは、白狐が男根状のものを持ち道化役を演じる。白狐は、なにやら猿田彦を思わせる。
馬方弁才天の裏に隠されたものは何であろうか?

馬方と弁財天、考えてみれば妙な取り合わせである。
唄が上手ければ、別に馬方でなくてもいいようにも思われる。
さて、馬と女。まず思い浮かぶのはオシラ祭文である。
馬が娘に懸想して、それを父親に知られ、父親は激怒。激怒した父親は、馬を殺し、皮を剥ぎ、木に吊るす。
娘が樹の下を通りかかると、皮は娘を包み昇天。
馬の皮を吊るした木には、蚕が。
これも記紀神話にモチーフがある。
斑馬の皮を投げ込むスサノオである。
いずれも養蚕の発生に絡む逸話である。
瀬織津姫から弁才天、瀬織津姫から十一面観音、これを考慮すれば、馬方弁才天=馬頭観音の等式が見え、馬方弁才天は、養蚕神であったと考えられる。

瀬織津姫は、アマテラスの荒御魂とされ、日神アマテル(男神)と対で祀られた水の女神である。
養蚕の神の基層には、この縄文以来の水の女神の影が色濃く残る。
オシラ祭文しかり、スサノオの狼藉(?)しかりである。
なぜ水の女神と馬なのか?
吉野裕子著「十二支」に以下の記載がある。
 火の旺気を象徴する馬は、既に単なる馬ではなく、社会全般の火気の過剰を象徴するもので、この馬によって象徴される火の旺気を中和することは、大火と日照りを予防する功徳を持つものであった。
 当然、この馬に配される猿も、単なる猿でなく、五行における金気、或いは三合の法則における水気の始めとしての「申」で、天下に日照降雨の調和をもたらし、大火を防ぐ重要な呪物と見倣されていたに相違ない。
つまり、五行説によれば、馬は火に相当するということである。
因みに猿飼が、馬医者とみられたのも猿=水、馬=火の調和により、馬の病を治すのが猿飼とされたわけである。

続日本紀に、文武が、三河に来たとの記録はない。同年には、持統が三河に来ている。
目的は、何度も書いているが、祭神変更である。
三明寺々伝を裏読みすれば、この地に本来祭祀されていた神は、日神アマテルと対で祀されていた水の女神であり、それを大宝年間に弁財天に変更したことが見えてくる。

362 三河の織姫&水神 風琳堂主人 2002/05/28 16:20

 トカゲさん、三明寺の豊川弁財天=馬方弁財天が水神かつ養蚕神の弁天化だとしますと、これは、三河・穂国の母なる大河「豊川[とよがわ]」の水神を弁天化したものだった可能性が高いです。それも、持統三河行幸と深い関わりがあるということから、豊川の大事な水神を弁天化したというように考えられます。
 また、弁財天不在の七福神踊りをもつという引間神社(宝飯郡御津町御馬)の「引間」は、その地名「御馬」からもいえますが、「引馬」かとおもいます。持統三河行幸時の「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほほせ旅のしるしに」(長忌寸奥麿)の歌からも、引間=引馬神社でしょう。
 弁天さんの代理あるいは「使い」として、白狐が七福神踊りに参加するということですが、白狐は、自然に考えれば稲荷神の「使い」です。稲荷神の性格についてはくりかえしませんけど(囲炉裏夜話「稲荷神と瀬織津姫」参照)、豊川市には、豊川稲荷があり、ここは豊川弁財天のさらなる変化[へんげ]、変容の様があからさまです。
 さて、弁天さんと馬と蚕と水神と、この囲炉裏夜話のキーワードが三河にみられるのはとても興味深いです。あと「桜」はどうだろうということで、豊川弁財天のあたりをにらんでいましたら、やはりというべきか、ちゃんと出てきました。
 豊川稲荷を中心にというべきでしょうか、通り名では「桜木通」があり、地名では「桜木町」「小桜町」「桜ヶ丘」と、「桜」のオンパレードの感さえあります。近くに「金屋」という地名もありますが、それとも関わりあるはずの「佐奈川」が、この「桜」の地の川です(佐奈=鑚でしょう)。
 佐奈川の河口には、これも持統ゆかりの素盞鳴神社(豊橋市梅藪町)が鎮座し、弁財天不在の七福神踊りの引間=引馬神社のすぐ東に位置しています。
 佐奈川を、豊川[とよかわ]市「桜」の地を経由して遡上しますと、そこには養蚕=機織神をまつるはずの犬頭神社があります(豊川市千両町)。この犬頭神社の所在地の「千両」の読みは、センリョウではなく「ちぎり」とあり、同社のさらに上流部の上千両神社の存在も気になるところです。
 佐奈川の源流部は杣坂峠あたりですが、この峠の南には観音山(財賀寺+観音寺)、北には尾根伝いに、砥鹿神社奥宮(末社にアラハバキ社)が鎮座する本宮山です。
 豊川弁財天=三明寺近くの豊川沿岸には、「大天女宮」の異名をもつ出雲神社や「羽衣の松」もあるそうですね。養蚕の郷=三河・穂国の詳細についてはトカゲさんにおまかせします。
 あと、よい機会ですので、現在わかっている瀬織津姫をまつる神社の一覧(愛知県)を、次に書き出しておきます。

■愛知県
@槻神社…北設楽郡東栄町大字月字寺甫7
A瀧神社【竹生神社境内社】…新城市杉山
B水神社…豊橋市下地町字四つ家90
C宮崎神社【←天白社】…額田郡糠田町大字明見字田代89
D六所神社【合祀←天白社】…岡崎市明大寺町耳取44
E天白神社…岡崎市天白町字吉原85
F天白社【稲荷神社境内社】岡崎市羽根町
G足助八幡宮【合祀←天伯社】…東加茂郡足助町大字足助字宮ノ後12
H天白神社…東加茂郡足助町大字栃ノ沢字栗沢8
I池の宮社【八柱神社境内社】…豊田市舞木町森前96
J池の宮社【八幡神社境内社】…豊田市花本町字津木104
K楠森社【天神社境内社】…安城市村高町藤野元97
L神明社(=小川神社・小河天神社)…安城市小川町(旧:碧海郡桜井村大字小川)
M天神社…安城市小川町(『三河水穂抄』による←「神社に関する調査」)
N祓戸社【鳴海八幡宮境内社】…名古屋市緑区鳴海町字前之輪23
O逆川社…津島市蛭間町字西屋敷1−101
P籠守勝手神社…葉栗郡木曽川町黒田字往還東東ノ切11
Q白山(黒田)神社…葉栗郡木曽川町黒田

 天白神は、水神かつ養蚕神・織姫神です。三河の瀬織津姫を語るときに、この天白神は要[かなめ]となる神かとおもいます。ちなみに、三明寺=豊川弁財天と豊川との間、つまり大天女宮=出雲神社のすぐ北にも天白神社があります。
 なお、Lの神明社の祭神は、大正5年刊『碧海郡誌』によりますと「天照大神・瀬織津姫命」でしたが、昭和期に、瀬織津姫は「小河天神」の名に変えられて現在に至っています。また、Mの天神社においても、現在は瀬織津姫の名は消され、「天照大御神」というように祭神変更がなされていることを断っておきます。これらの祭神変更例は、全国的な視野でいえば、まさに氷山の一角の、さらなる小指の爪程度の氷塊の例というべきでしょう。

363 なんとか読了です。(^ ^; GOTO 2002/05/28 18:06

ご主人殿

会社勤めでささやかな通勤時間など
乏しい時間を遣り繰りしながら
「エミシの国の女神」やっと読了しました。
実は、私の両親は宮城県桃生郡の出身でして、
東北の豊かな文化を感じることは何より嬉しい。
噛み応え十分の内容に、容量オーバーのパソコンの
気分ですが、徐々に自分の興味の赴く所へ
出かけたり、調べたりしてゆきたいものです。

364 Re:三河の織姫&水神 投稿者:ピンクのトカゲ ピンクのトカゲ 2002/05/28 18:26

 先ず最初に、引間神社は、引馬神社の誤字でした。
 持統三河行幸時の「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほほせ旅のしるしに」(長忌寸奥麿)の歌の引馬野です。
 引馬神社は、明治以前は、引馬天王社と呼ばれ、祭神は、素戔嗚尊、相殿に五男三女神、大己貴命、稲田姫命、そして、蛇毒神、末社には、江ノ島弁才天を勧請したという市杵嶋社が鎮座しています。
 豊川稲荷については、次回でまとめて書きますが、本当の豊川稲荷は、西島稲荷ということもあり、地元では人気がありません。
 豊川稲荷から北に行き、佐奈川沿いの桜は、東洋一の海軍工廠といわれた豊川海軍工廠の建設にともない旧海軍により植えられたものですが、「桜木通」の通り名、「桜木町」、「小桜町」、「桜ヶ丘」の町名は、いずれも、桜の馬場(現豊川地域文化広場=桜ヶ丘ミュージアム)に因むものだと思います。桜の馬場は、以前は、妙厳寺の所有地でした。
 下流の金屋は、鋳物師の町であり、中尾家(山十)は、江戸にも鍋釜を商っていました。中尾佐助さんは、この中尾家の出です。
 金谷の南の金塚町や更にその南の中条町は、以前は、鍛冶村と呼ばれていました。
 更に佐奈川を下り、旧東海道と突き当たった右手が桜町です。
 この佐奈川河口に引馬神社があるわけで、引馬野の阿礼の崎が持統の上陸地といわれていあす。
 千両(ちぎり)は、三河犬頭糸の伝承を持ち(今昔物語)、上千両では、銅鐸が出土しています。
杣坂峠の南の観音山(財賀寺+観音寺)、陀羅尼山財賀寺の開基は、行基、文殊堂は、力寿姫を亡くし、定基は、七日の間、埋葬しなかったが、夢のお告げに文殊菩薩が現れ、力寿姫の舌を陀羅尼山に埋め文殊堂を建立し、力寿山舌根寺と称したとされる。
豊川沿岸の出雲神社及び「羽衣の松」は、三明寺々伝で文武が行幸したとする星野郷にあり、出雲神社(豊川市柑子(こうじ)町)の祭神:出雲大明神は、三河国造・出雲醜大臣の子・大木喰命とも出雲大天女ともいわれる。末社には、八幡社(誉田別命)、神明社(天照皇大神)、瘡神社(少名彦命)が鎮座する。
「羽衣の松」は、星野郷の謂れとなる星野行明(ぎょうめい)なる人物(太平記に星野日向守行明と出てくる)と天女の話です。この星野氏も熱田大宮司家に出自を持ちます。
熱田大宮司家は、大江匡房の曾孫の廣元(一一四八〜一二二五)の子・忠成が、尾張国海東郡を領し、熱田大宮司家の養子になっていますから、星野氏も大江氏と関係しています。
現在、羽衣は、星野行明の末裔・平尾家が所蔵しています。平尾家当主は、同級生でした。しかし、昨年火災で亡くなってしまいました。
先ほどの財賀寺のある財賀町の南が平尾町でして、星野神社(山王権現)が鎮座します。この平尾町あたりも領しており、平尾に改姓したのではないかと思います。
 また、天白神ということになれば、現在の豊橋市南部の高師小僧の出土地で有名な高師の南あたりは、天伯原です。

365 石座神社の白馬の想い 風琳堂主人 2002/05/28 23:27

 GOTOさん、人生の限られた時間を瀬織津姫の本に割いていただき、お礼申し上げます。
 トカゲさん、誤字は小生も一緒です。愛知の瀬織津姫のCの鎮座地「額田郡糠田町」は「額田郡額田町」が正しいです。Wordの日本語変換処理は、なぜ最初に使用した変換処理が次回に優先されないのか、まったく粗雑なつくりです(今も「変換」が「返還」といった具合ですし、遠野を打とうとしますと、「十小野」と変換されたりします。わたしの使用しているソフトのヴァージョンがそうなだけかもしれませんが──、まだ完成の領域には時間がかかるソフトのようです)。
 ところで、引馬神社の鎮座地は「阿礼の崎」に面したところですね。この阿礼=アレは、神々の誕生に関わる御生れの「あれ」からきているものかもしれません。また、水神と馬は強い関係にありますけど、「引馬」は駒引の意でもあり、神馬が水神を海中あるいは海上から呼び寄せたイメージがふと浮かびました。それと、もしここに瀬織津姫の痕跡をみようとするなら、「天照陽之大神の前霊」とされる日前神→引馬神の可能性も捨てられないなとおもっています。日前・国懸神宮を土地の人は「ニチゼンさん」と呼んでいますが、古式の呼称は「ひのくま・くにかかす」神宮です。日前=ニチゼンというのは、かなり時代が下ってからの愛称を込めた俗称のようです。日前=ひ(の)くま→ひくま→引馬の可能性があることをメモしておきます。
 豊川弁財天あるいは西島稲荷近くの出雲神社ですが、ここの祭神名に「大国主」の名が出てこないところが<三河>的だなとおもいました。大天女宮=出雲神社の祭神の一説に「出雲大天女」とは、なかなかいいじゃないですか。それに松と羽衣伝承です。こういったこと一つを取り出しても、三河と丹波=出雲のつながりがみえるようです。
 丹波がらみでもう一社ふれておきたいのは、豊川を中ほどまで遡った新城[しんしろ]市にある石座[いわくら]神社です。現在の祭神は「天御中主命、比売大神、大山祗神、素盞鳴尊、天稚彦命、伊弉册命、倉稲魂命」のようですが、額田郡額田町にあります石座神社分社の祭神名は「天照国照日火明命」で、おそらく分社の祭神名のほうが正規かとおもいます。また、「比売大神」という神名を伏せた表示も気になります。天照国照の日神と関係する比売大神とはなにかと考えますと、ここには水神があてはまる可能性がとても高いだろうとおもいます。
 本社・石座神社の「木造神馬」は新城市の文化財に指定されているようですが、この神馬には不思議なエピソードが伝えられています。曰く──、「この馬は、はじめ白い馬であったが夜毎に出て田畑を食い荒らすので格子造りの馬小屋の中に入れて黒く塗ってしまった。そうしたらもう田畑に出てこなくなった」。
 丹生川の水神などもそうですが、白馬黒馬は水神への祈雨止雨に奉納される「色」でもあります。また、話の内容を深読みすれば、本来の水神の神馬としての白馬は、なぜか荒れていた(田畑を食い荒らす)──この神馬の<荒れ>の理由を考えますと、あの分社との祭神表示の違いが象徴していますが、本来乗るべき神がそこにいない、あるいはその名が正当に表に出されていない、こういったことに対する<荒れ>ではなかったのかという気もします。もちろん、この話は人の創作ではありますが、なにか事情を知っていた氏子の人の寓意的な話のようにわたしには読めます。深読みならば撤回します。

366 西島稲荷と和泉式部 ピンクのトカゲ 2002/05/29 08:23

三明寺と豊川駅をはさんで反対側、つまり、西口から右に路地を入り、門前通りを抜けると、円福山豊川閣妙厳寺がある。嘉吉元(一四四一)年に開創された曹洞宗の寺院である。
豊川稲荷は、この円福山妙厳寺を開創した開祖・東海義易が、仏神・叱枳尼天(だきにてん)を妙厳寺の鎮守として祀ったものとされる。
豊川稲荷が、全国的な信仰を集めるようになったのは、時代劇でおなじみの大岡越前守忠相が、寛延元(一七四九)年に豊川村を知行地とし、妙厳寺の万牛和尚に帰依したことに始まるとされる。忠相は、宝暦元年に死去するのであるが、この頃、妙厳寺は、大いに繁盛したという。
寺伝によれば、東海義易が、妙厳寺を開創したとき、どこからともなく、平八郎と名乗る老人が現れた。平八郎は、一つの釜で飯を炊き、湯を沸かし、いくら大勢の人がきても、腹を減らせることがなかった。
義易が、この不思議を尋ねると、平八郎は、「我には、三百の眷属がいる」とこたえた。義易が亡くなると、平八朗は釜を置いてどこかへ立ち去ってしまった。
人々は、平八郎は、叱枳尼天の化身ではなかったかと噂をしたとか、それ故、豊川稲荷を平八稲荷というようになった。
この平八朗、実は、西島稲荷の社守鈴木平八朗という実在の人物で、全朴浄人(姓は斎藤氏)を仲介として、宝暦年間に、今で言うヘッドハンティングで迎たという。
それ以後、豊川稲荷が栄え、西島稲荷が廃れたという。宝暦年間(一七五一〜一七六三)といえば、大岡越前が亡くなり、豊川稲荷が大いに栄えたころである。
妙厳寺々伝の義易と平八郎の話は、はなはだ怪しいものである。事実は、西島稲荷の社司をスカウトしたのであろう。
妙厳寺は、享保七(一七二二)年に焼失し、それ以前は、三明寺の裏手、稲田神社の正面あたりにあったとされる。
この三明寺境内にも三つの願いを成就させるという三徳稲荷がある。三徳稲荷も、宝暦年間(一七五一〜一七六三)に西島稲荷社から分祀されたとされる。三徳稲荷の御神体は、西島稲荷の白狐と同形の黒狐だという。
西島稲荷は、花井寺の南約二〇〇メートルほどの豊川市西島町に鎮座する。
西島は、段丘崖下に位置し、往古は、名前のとおり島(豊川の中洲)であった。
西島稲荷は、花井寺とつながりも深く、正月には、西島稲荷に出向いて般若経の転読を行っている。
また、花井寺の鎮守は、中央稲荷といい、以前は、花井寺西の西島稲荷を見渡す位置に鎮座していた。
伝承によれば、西島は、倭姫が、斎田に定めた地であり、西島稲荷に祀られているのは、倭姫命だという。
また、西島稲荷の東隣の西光山光福寺には、鳳来寺の薬師如来と同木で利修仙人が造ったといわれる薬師如来像がに伝わる。
西島に鳳来寺の薬師如来像が伝わったいきさつは、大宝年中に鳳来寺開山した利修仙人は、山城国乙訓郷の人であり、和泉式部が、鳳来寺を訪ね授けられたという。
和泉式部は、大江雅致(匡致)の子であり、父・雅致は、「傀儡師記」や「江談抄」をあらわした大江匡房(一〇四一〜一一一一)の子である。つまり、和泉式部は、大江匡房の孫にあたる。
匡房と定基(九六二〜一〇三四)の関係に言及すれば、定基の父は、斎光、その兄の重光の四世孫が、匡房である。
大江氏は、山城国乙訓郷大江に因み大江を名乗っている。
利修仙人も山城国乙訓郷の人だという。そして、鳳来寺は、砥鹿神社創立とも関係が深い。
この西島をはじめ、柑子(こうじ)、行明(ぎょうめい)を中心に、正岡、塚田の現在下郷と言われるJR飯田線に沿う段丘崖下の地域が、かつての星野郷であり、三明寺々伝では、この星野郷に大宝年中に文武が行幸したことになっている。
正岡の遠通山正覚寺の山門前に和泉式部供養塔の碑がある。豊川放水路浚渫前は、正岡町南田にあった。
碑があったところは、和泉塚と呼ばれ、和泉式部を埋葬したところだと伝えられる。
古老によれば、歯痛に霊験あらたかであったという。江戸時代には、現在の歯槽膿漏を「歯臭(はくさ)」といった。「はくさ」の音から白山を連想し、白山権現を歯の神様とするところも多い。
白山権現(祭神:白山比売命)と瀬織津姫の関係は、尾張国中嶋郡鎮座の黒田神社で証明されている。
星野郷には、星野行明を名乗る者がいて、この星野行明が行明(ぎょうめい)の地名の由来とされる。
星野行明の子孫は、平尾を名乗る。また、行明には、豊川で水浴びをしていた天女の伝説があり、星野行明の子孫の平尾家が天女の羽衣を保管している。

367 こんばんわ! サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/05/30 01:35

ご主人、ピンクのトカゲさん、皆さんお久しぶりです!
毎日の書き込みをわくわくしながら読んでいます♪

ところで、この間、武蔵府中の大国魂神社に行ってきました。
京王線の府中で降りて、街中の喧騒をすこし通り抜けると
静かなたたずまいの大國魂神社があります。
神社の中に図書館がある優れものですがしばし散歩も楽しみましたのでご報告しますね。

大国魂神社 1

武蔵府中の大国魂神社は人皇第十二代景行天皇四十一(111)年五月五日大神の託宣に依って創立されたものである。出雲臣天穂日命[のおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて武蔵国造[くにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれ、その後、孝徳天皇(645-654)の御代に至り、大化の改新(645年)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。

現在の本殿は寛文七年(1667)に造営されたと言う。一棟三殿作りで東京都の文化財にしてされている、この本殿は寛文以前には三棟三殿であったと社記には記されている。
総社の祭神たちは数多く、中殿には大国魂大神、御霊大神、国内諸神、東殿に一之宮小野大神・二之宮小河大神・三之宮氷川大神・西殿には四之宮秩父大神・五之宮金佐奈大神・六之宮杉山大神が祀られる。

 明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、同十八年官幣小社に列せられた。
 本社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、又国内著名の神六所を配祀したので、「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。

ここで、『江戸名所図会』(天保3年…1832…刊)を見てみると

天保3年(1832)のころの社記曰く、第十二代景行天皇四十一(111)辛亥五月五日、大己貴命この小野郷に出現,神託により祠を経営して里人崇敬し奉る。(大麻止之豆之(おおまとのつの)天神これなり。その後成務天皇5年乙亥、兄多毛比命(えたけびのみこと)をしてこの国の国造たらしむ。兄多毛比命は天穂日命の孫出雲臣祖、名は二井宇迦諸忍之神狭命(ふたゐのうかもろをしのかんさのみこと)の十世孫なりとあり。大己貴命はこの地出現の霊神なればこれを祟み、その祖神なるをもって素盞鳴尊を合祀しするという。相殿に伊弉諾命、瓊瓊杵尊、大宮女神、布留大神とする。
また、天下春命、瀬織津姫、倉稲魂大神を六所宮の相殿に還座して、客来三所と称し奉り、国社の礼を以てす。とある。

このころの三棟三殿の建物は火災で焼けたとされるが、扉だけは焼けずに残っていると記録にはある。
しかし、瀬織津姫の名の書かれた扉だけは、明治の折に捨てられたのか、今はない。

368 思い返してみると… GOTO 2002/05/30 09:39

昨年行った香取神宮にも、鹿島神宮にも、
人目につかないような鎮守の森の裏手に
(という表現があっているのかわかりませんが)
小さな池と「水神」の石碑がありました。
夫婦で「あれぇ?なんでこんな目立たないところに」
なんて言いながら通り過ぎていたりして。
自宅近くの天祖神社にも「水神」のお社ありますよ。
全て意図的に、わかったようなわからないような
名前にして隠してあるわけですね。

369 三河・穂国の不明の水神 風琳堂主人 2002/05/30 11:19

 GOTOさん、水神は大事な神様のはずなのに、どうも意図的としかおもえないような伏され方がしてあります。名称は、罔象女[みずは(の)め]、水速女、水端女などと表示されることが多く、あるいは尊称を込めてあるなとおもっても美都波女神といった表示です(伊勢の元神の伊雑宮奥宮「天の岩戸」の鍾乳洞の滝神。ただし現場へ行きますと、石碑には「大神」とさらに尊称が込めてあります)。あるいは「雨」を司る龍神の意で、「オカミ」神などとされます(京都・貴船神社が代表)。
 罔象女はミズチという蛇神=龍神の意でしょうし、水速女は「速い流れの川」の水神、水端女は「速川の瀬にいます神」(大祓祝詞)→「川辺にいる水神」と理解できます。これらは、たとえば白蛇を「使い」あるいは化身とする水神であり(富山県大沢野町の日枝神社)、禊ぎ祓いの水神である(とされた)、瀬織津姫の名が背後に潜んでいるとみることができます(大沢野の日枝神社の主祭神は瀬織津姫。ちなみに、同じ富山県氷見市の速川神社の神も瀬織津姫です)。

 サクラさん、大国魂神社の探索、楽しみです。
『江戸名所図会』(天保3年=1832年刊)の「社記」の記述──「大己貴命この小野郷に出現」という「大己貴命」という神ですが(前から気にはなっていたのですが)、最近、大国主と大己貴が同神だという記紀的な先入観を捨ててみる必要があるかなとおもいはじめています。瀬織津姫ゆかりの小野氏と大己貴という取り合わせ──これははっきりいって「奇妙」です。しかし、これは、逆に、大己貴と瀬織津姫が無縁のものではない可能性を考えてみよと暗示されているのかもしれません。
 この大己貴神という神の奇異さの極まったのが、やはり熊野・那智でしょう。那智大社別宮とされる飛龍神社の滝神、つまり那智滝神の名が、これまた大己貴神なのです(正確には「己」→「巳」)。
 これは、案外デタラメな祭神表示ではなくて、瀬織津姫の名を表に出さないための、方便としての神名が大己貴神である可能性を示唆しています。たとえば、大国主の本社は出雲大社と一応はなっていますけど、では大己貴神をまつる本社はどこだろうと考えると、とたんに怪しくなります。大国主が先住神の総称神であるとして、その構成神である大己貴神にも、きっと「本貫」の地=社があってよさそうなものですが、寡聞かどうか、それを自己主張している神社はないようです。「大己貴神」の字面を素直に読み取れば、大いなる貴い巳、つまり大いなる蛇=龍神となります。それが、那智の滝神=飛龍神です。そして、那智は瀬織津姫を隠していたことや、各地の滝神が瀬織津姫であることを考えますと、やはり、瀬織津姫と大巳貴神は、かなりの要素で重なってくるようです。
 あと、総社・大国魂神社の祭神一覧で、少なくとも御霊大神、小野大神、小河大神の三神には、その背後に瀬織津姫をみることができるなとおもいました。
 今、「他見堅無用」とされた、ある神社の、それこそ巳=蛇のくねったような古文書の文字と格闘しているのですが、特に明治期は、露骨な祭神変更を国家が要求していたことが、おぼろですが、前よりもより具体的にみえてきたようです。これは、持統の三河行幸の意図とも重なるものですが、それにしても、というほどのひどさです。しかし、やりかたは巧妙というべきか、各社家に納得づくで祭神変更させ、いかにも元からそうだったように祭神表示をするように仕向けています。そうして「右の祭神に相違ありません」と一筆書かせてハンコまで捺させる念の入れようです。江戸期においては、京都・吉田神社の神社支配が、これまた露骨で、社家が代替わるときや、社殿修復のたびに、わざわざ京都まで出向いて許可を得ていたようです。
 わたしたちが現在見ている各社の由緒書なるものも、吉田神社→「官」の威圧のもとにつくられたものが多く含まれているだろうこと──、ちょっと気に留めておいていいのかもしれません。

 トカゲさん、砥鹿神社=大己貴神というのは、ひょっとすると豊川[とよがわ]の龍神の意かもしれません。三明寺=豊川弁財天=馬方弁財天の祭祀および伝承などから、ある程度、瀬織津姫の存在がみえてきたようです。瀬織津姫と豊川の関係がくっきりと明かされる日は、そう遠くないだろうとおもっています。
 三河国の西部(大化改新前の三河国。現在の西三河)の大河=矢作[やはぎ]川の水神としての瀬織津姫は、同川流域に天白神=瀬織津姫として集中してまつられていることからまちがいないのですが、では、東三河(大化改新前の穂国)においてはどうかといいますと、穂国の東の天竜川および諏訪神として瀬織津姫が確定できるのに、どうもクリアでありません。西の矢作川と東の天竜川にはさまれた豊川の水神が、瀬織津姫でないというほうがおかしいのですが、しかしこれはまだ予測の段階にとどまった判断です。
 持統の三河行幸(702年)において、旧穂国=東三河には、持統伝承をもつ神社が、ことのほか多くみられます。東三河において、瀬織津姫の名をストレートに確認できる神社が少ないのは、この持統の「行幸」=存在が関わっています。つまり、彼女はそれだけ念入りに、この穂国=東三河の瀬織津姫に、なんらかの手を加えていったことが考えられます。瀬織津姫の天白神化もそうですし、三明寺における弁天化もまた、それに該当しています。
 穂国の豊川流域において、現在、瀬織津姫をまつることを「記録」として確認できるのは、河口部の水神社(豊橋市下地町)と、奥三河の槻神社(北設楽郡東栄町)と、豊川中流域にある竹生神社境内社の瀧神社(新城市杉山)の三社です。槻神社は、厳密には天竜川水系に属しますが、豊川も大きくは天竜川水系に位置づけることもできますので、豊川流域で瀬織津姫をまつる神社は、これらの三社ということになります。
 豊川中流域に位置する新城市の竹生神社と、同社境内社の瀧神社=瀬織津姫について、現在わかっている由緒等を、トカゲさんの「情報」から、少し整理しておきます。
 竹生神社の祭神は、宗像三女神。祭日は、二月初午日(ウマです)。勧請年は、延喜22年(=922年)。下鴨神=「神武津身命」の末裔とする竹生氏の勧請とされ、竹生神社の名から、近江国琵琶湖の竹生島神社を勧請したものとも伝えられる──。
 同社境内社の瀧神社=瀧大明神=瀬織津姫は、本宮山=雁峯山=神峯山の山口の地にある「大滝」の神であり、この瀧大明神は、遅くとも、永正三年(=1506年)以前から「大滝」の神としてまつられていた。また、瀧大明神は、「竹生神社の姉神を祀ったとか或いは竹生大明神の奥の院だ」という「口碑」があるそうです(旧『千郷村史』)。
 竹生神社の「姉神」または「奥の院」という興味深い伝承が注意を引きます。むろん、より注意を喚起させるのは「奥の院」という伝承です。竹生神社=宗像三女神の「奥」の神という理解ができるからです。なお、宗像三女神の一神に瀬織津姫の名を伝えつづける神社がありますように(鹿児島県出水市の厳島神社)、瀬織津姫が宗像の比売大神の「奥」の神である可能性はかなり高いとみることができます。
 豊川本流域で、滝神として瀬織津姫の名が発見されたことは、あらためて大きな意味をもっているとおもいます。
 そこで、トカゲさんにひとつ調べていただきたいことがあります。ついでのときでいいのですけど、白馬→黒馬伝承をもつ石座神社を、豊川に沿って少し遡ると大海(新城市大海)に出ます。実は、ここに、もうひとつ「滝神社」があります。明治初期から昭和にかけての祭神変更の可能性は全国的なものですから、簡単に瀬織津姫の名が出てくるとはおもえませんけど、少なくとも滝神=瀬織津姫の名が確認できた、同じ新城市内の「滝神社」です。なにか出てきたら──というかすかな期待もあります。なにしろ、新城・竹生神社の滝神社は、神社本庁のデータにはないもので、それがつい昨年に「発見」されたのですから──。

371 老松神社 カヤナルミ 2002/05/31 23:01

風琳堂ご主人

例の福岡県小郡市大崎にある媛社神社(七夕神社)と老松神社の間に流れている、宝満川の上流の小郡市上岩田にも老松神社(老松宮)がありました。祭神は菅原眷属神(すがはらけんぞくのかみ)・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)・住吉大神(すみよしのおおかみ)。私はなんとなく、大宰府市の菅原道真公や久留米の高良大社、福岡市の住吉神社を連想します。由緒によると、上岩田の地名は神磐戸→神磐田→上岩田と変わったらしい。大昔、神功皇后が秋月の『羽白熊鷲(はじろくまそ)』を征伐し、次に筑後国、山門県の『田油津姫(たふらつひめ)』を滅ぼそうと津古(つこ)から船にて得川(宝満川)を下り、神磐戸に着いたとのこと。羽白熊鷲は先住の『熊襲(くまそ)』のことでしょう。鷲?隼人?大和朝廷は先住民のことを隼人・土蜘蛛・熊襲・蝦夷(えび?)など動物や虫の名で呼ぶのが好きだったようです??

372 水天宮 カヤナルミ 2002/05/31 23:42

九州最大の筑後川下流そばにある、久留米水天宮の祭神は、天御中主神や安徳天皇ですが、境内社として火風の神、鎮火の神、雨の神また芸能の神として、通称辨財天市杵島姫神(べんざいてんいちきしまひめのかみ)が祀ってあるようです。どうやら瀬織津姫が隠されているようですね。

古老の話では、久留米水天宮の分霊を、三井郡大刀洗町の上野にある『水神宮』に祀ってあるようです。とても小さな神社ですが、女神の像らしきものがあります。境内には立派に桜の樹が植えてありました。また、同町内の大関という所にも『水神』が祀ってあります。筑後川上流の田主丸には河童伝説もあり、さらに上流には天ヶ瀬の地名があります。筑後川やその支流には瀬織津姫が隠されていると感じますね。

373 老松宮と水天宮 風琳堂主人 2002/06/01 03:23

 カヤナルミさん、老松神社=老松宮の祭神は、必ずしも猿田彦神とはいえないということがだんだんみえてきたようです。全老松神社の祭神リストがあれば、かなりの確率でほんとうの神を絞り込めるものとおもいますが、これがなかなか大変なんですね。
 上岩田の老松宮祭神の一神に「菅原眷属神」とあるのですか。もしこれが、怨霊神、あるいは祟り神的な雷神の意を込めて、このように表示しているとするなら、怨霊神=雷神の「先輩」は瀬織津姫ですから、瀬織津姫眷属神とでもいうべきじゃないか──なんて妙なことをおもいました。また、田油津姫は、風土記ふうにいえば、これもまさに「荒ぶる神」です。その神名の語感・音感からは、この神は世田姫にも通じています。世田姫→淀姫と名が変わって、この荒ぶる神は神功皇后の「妹」とされるわけですが、田油津姫は、そういった変遷過程を経ていないようです。「征伐」されてそのままとすれば、これもまた、菅原か瀬織津姫かはともかくとして、「眷属神」の一神となる資格はもっています。
 高良玉垂命=高良大社ですが、ここの奥宮は「水分神社」で重要な聖地とされていますように、この神は明らかに水神です。筑後川─宝満川という同一水系に何種類も水神がいることは考えにくいですから、宝満神=竃門神=玉依姫と、この高良神は同一の水神とみたほうが自然だろうとおもいます。これらの水神の背後から瀬織津姫を抽出できるなら、老松宮に一緒にまつられている住吉大神とは対の関係にある神だとなり、こちらの組み合わせが基本で、菅原眷属神はあとから追加され、三神化=曖昧化されたものかもしれません。つまり、パターン化された祭神変更の手法をここにみることができるのかもしれません。
 ヤマトの祭祀権力者たちは、巧妙かつ威圧的に祭神変更を繰り返してくるわけですが、しかし、祭神名はなんとか変えても、社名までは変えることは、一部の例外を除いて、あまりすることはないようです。
 水天宮は、その分社の水神宮の社名からも、明らかに水神をまつっているはずです。それが「天御中主神、安徳天皇」とは、これは明らかに変です。この露骨に「変」な表示をしたことは、逆に、この社の氏子あるいは神官の人たちの、おそらく祭神変更を強要されたときの「心」がみえるようにおもいます。
 さて、水天宮→水神宮で「桜」が出てきました。さらに、筑後川に「桜」ということなら、ご指摘の上流部の「天ヶ瀬」の地ですね。ここには字地名の「桜竹」があり、そこの滝の名は「桜滝」です。この桜滝の上流部には、金滝神社、金滝大明神、元宮神社、玉来神社と、水神の匂いのする社が集中しています。これらの社の由緒、祭神、口碑などを知りたいところです。いつか同地近くの瀬織津姫をまつる有王社(日田市)を訪ねながら、天ヶ瀬温泉にゆっくりはいりたい──なんてこともおもっています。
 ここから筑後川を下るもよし、北に小野川を遡って、熊野神の「元山」の英彦山に登るもよし、です。この英彦山を水源山とする彦山川流域の菅原社(田川郡方城町)には、話の最初にもどるようですが、瀬織津姫もまつられています。さらに下って遠賀川の水巻町には、荒祭神社の名も確認できます。彦山川─遠賀川河口の前は玄界灘で、宗像の神の海が広がっています。宗像の神も、このコースで英彦山に入った可能性があるかとおもっています。

374 豊川天王社 ピンクのトカゲ 2002/06/01 08:18

豊川稲荷の門前から東に一〇〇bほどそれたところに豊川進雄神社(明治以前は、豊川天王社)が鎮座する。
毎年七月の例祭には、拝殿から鳥居にかけて二本の綱が張られ、県の無形文化財の綱火(張られた綱に小さな竹筒に火薬を詰めたものが「走る」煙火。以前は、境内でなく、街中に綱が張られてという。遣り・行別れ・逆追い・車火・行戻・綱払・追い綱の七種類がある。)と手筒煙火が奉納される。
当社は、大寶元(七〇一)年に、この地方が飢饉にみまわれ、元宮の地(現稲田神社鎮座(祭神:櫛稲田姫)地)に牛頭天王を祭り、雨乞い祈願をしたことに始まるとされる。その後、天徳元(九五七)年に現在地に遷座されたという。
大寶元年といえば、持統の三河行幸の一年前である。
稲田神社は、三河国司・大江定基が、愛妾・力寿を偲び力寿の面影を刻んだといわれる弁財天を本尊とする龍雲山妙音閣三明寺の裏手にあたる。
三明寺は、寺伝によれば、大寶二(七〇二)年、文武が、三河国星野之宮(旧星野郷)へ行幸の際、現境内池のほとりで弁才天の霊験を得て、大和国橘寺の覚渕阿闍梨に命じて堂塔を建立、開山となったと伝える。
寺伝の大寶二年の記載は、持統の三河行幸(目的は、瀬織津姫隠し)により、それ以前に祀られていた縄文以来の水の女神が、弁財天に変更されたことは、既に触れた。
「神社を中心としたる宝飯郡史」の編者・太田亮氏は、旧宝飯郡の天王社が、勧請されるのは、鎌倉時代に入ってからだとする。その理由として、熱田大宮司家が、萩(宝飯郡音羽町萩)に領地をもち、尾張国海東郡の津島天王社を勧請したのを始まりとする。
頼朝のブレーンとして鎌倉幕府の初代政所別当を務めた大江廣元(一一四八〜一二二五)の子・忠成が、尾張国海東郡を領し(海東大江氏)、熱田大宮司家の養子となる。因みに、熱田大宮司家に養子に入った忠成の兄・李光が戦国大名・毛利氏の祖となる。
「神社を中心としたる宝飯郡史」の編者・太田亮氏は、この熱田大宮司家が、萩の地を領し、旧宝飯郡に牛頭天王信仰が広まったとするのである。
熱田大宮司家が領した萩の南に赤坂がある。
一〇世紀に成立した今昔物語には、定基が任国三河で見初めた娘の素性は、記されていない。
赤坂の遊君・力寿と記されるのは、一三〜一四世紀に成立した源平盛衰記に至ってからである。
赤坂の力寿の伝承も海東大江氏の萩進出が関わっているのであろう。
さて、この萩の地は、賀茂郷と呼ばれ、上賀茂社(祭神:別雷命・素盞嗚尊)及び下賀茂社(祭神:玉依姫命・素盞嗚尊)が鎮座する。賀茂社に・素盞嗚尊(牛頭天王)が祀られているあたりも海東大江氏の影響であろう。
赤坂の遊君・力寿は、後に、赤坂長者・宮道弥太次郎の娘となるのである。
宮道氏は、宮道別の裔を称し、壬申の乱の折、草壁皇子が陣を敷いたといわれる宮路山とも関係が深い。宮道天神社の大山咋神は、定基の叡山入山と関連付けられているが、賀茂神と大山咋神=大山祇神=三島神の関係については、風琳堂主人やあかねさんの指摘しているところである。
話が、萩へと飛んでしまったが、大田亮氏は、稲田神社は、鎌倉古道沿いに位置し、萩を領した海東大江氏が早くからその経営に着手したのではないかとしている。

大田亮氏は、鎌倉古道経営のため鎌倉時代に入り、萩を領した海東大江氏が、稲田神社の地に尾張国海東郡に鎮座する津島天王社を勧請したとする。
しかし、豊川天王社々伝によれば、天徳元(九五七)年に、現在地に遷座したとする。
拙稿第三話終章で書いたが、段丘崖上の天王社(牛久保三社の一つ・稲場天王社及び豊川天王社)は、HUSKO・BET・KUS(古い川の流れ)のKUSが落ち、HUSKOのHが落ちて、USKOBETとなり、牛頭(うしこうべ)の字が当てられ、後に牛頭天王を祭神としたのではないかとの旨を書いた。
海東大江氏が津島天王社を勧請する以前から稲田神社の地には、国津神が祀られていたのではないかと思われる。

豊川天王社の直ぐ東に曹洞宗の寺刹・祇園山徳城寺がある。
祇園は、牛頭天王ゆかりの名称であり、その名称を山号としているのである。
祇園山徳城寺は、弘仁一三(八二二)年の開基という。
本堂の裏には、弘法大師(七七四〜八三五)の錫杖の井戸がある。
深さ四尺ほどの井戸である。
寺伝によれば、大同年間(八〇六〜八一〇)、この地を訪れた弘法大師が、この地の人々が渇水に苦しむのを見て、錫杖でついたところ、そこから水が滾々と湧き出て祭るようになったという。
また、豊川天王社の大祭に出る「瑠璃の壺」について、徳城寺は、大寶年中、文武の病気平癒の祈願で都に向かう途中に利修仙人が、この地に立ち寄り休息をした。
文武は、利修仙人の祈願により病気が平癒し、褒美を受けることとなった。
利修仙人は、瑠璃の壺を取り出し「この壺に米を入れて欲しい」と米をいくら入れても壺を満たさず、利修は、途中で辞し、帰路も徳城寺にある地に立ち寄り、この壺を市御堂に収めた。それ以降、この地が繁盛するようになったと豊川天王社の雨乞いの逸話、三明寺の文武の星野之宮行幸の逸話、そして、瑠璃の壺この裏に隠されているものは、明らかに持統の瀬織津姫隠しを目的とした三河行幸である。
持統の三河行幸にについては、瑠璃の壺の逸話と関連する病気平癒の祈願を煙厳山(鳳来寺)に棲む利修仙人に依頼するという逸話に変容されている。

この瑠璃の壺について、豊川天王社の笹踊りの唄に「天王の御宝の瑠璃の壺、市御堂に納めた」との文言がある。
徳城寺と利修仙人の関係を語る瑠璃の壺は、豊川天王社の神宝というわけである。
豊川天王社の笹踊りの唄は「天王の奥の院の東光寺の薬師は福仏でまします」と記す。
つまり、笹踊り唄が創作された江戸時代、東光寺は、豊川天王社の奥の院と認識されていたわけである。
東光寺について調べてみると、信長の時代に廃寺になったとされる。
廃寺になってからも、豊川天王社の氏子は、東光寺を奥の院と認識していたことは重要である。
さらに、豊川天王社の笹踊り唄には、利修仙人ゆかりの鳳来寺も出てくる。
「正月八日は、からかいの祭りよ。一四日は、鬼踊り。鳳来寺へ参るよ」
豊川天王社の氏子は、鳳来寺にも参拝に出かけていたことがわかる。なお、からかいの祭りとは、現在の豊橋の鬼祭りをさす。
ここから、少し整理していく。
鳳来寺の本尊は、薬師如来であり、薬師は手に瑠璃の壺を持つ。
そして、この瑠璃の壺は、豊川天王社の神宝であり、現在は、光明寺にある。この光明寺は、浄土宗の寺刹で天文年間(一五三二〜一五五五)の創建といわれる。一方、豊川天王社の奥の院といわれる東光寺は、浄土宗の寺刹であったとされ、信長の時代に廃寺になったとされる。
東光寺が荒廃した頃に創建されたのが、同宗派の光明寺ということである。
薬師如来は、東光薬師ともいわれる。瑠璃の壺が収められたという市御堂は、東光寺を指すのではないかと思われる。

文武の病気平癒祈願についての逸話は、天牛山医王寺(宝飯郡小坂井町篠束)にもある。
文武の病気平癒を煙厳山に棲む利修仙人に依頼すべく、草鹿砥公宣卿が勅使として、派遣された。公宣卿は、現医王寺の地において、不思議な夢を見た。
煙厳山に行く途中に川がある。川には橋が架かっていないが心配することはない。猿が出てきて、渡してくれよう。はたして、夢のお告げどおり、川に掛かると橋がない。そこに猿が出てきて、橋となり、渡してくれた。これが現在の猿橋の地(新城市横川)である。

一方、砥鹿神社の縁起は、草鹿砥公宣卿は、煙厳山に行く途中、本宮山中(砥鹿神社奥宮が鎮座する。)で、道に迷っていたところ、老翁が現れる。この老翁により公宣卿は、目的を果たせた。公宣卿は、老翁に御礼をしたい旨を述べる。老翁は、宮を建立して欲しいと。
公宣卿は、私の着物の袖を流すから、それが流れ着いたところに宮を建立せよと。
これが、今の砥鹿神社里宮である。
さて、猿橋の夢の天牛山医王寺、砥鹿神社里宮、猿橋及び煙厳山=鳳来寺は、西南から東北の一直線のライン上に並ぶ。
そして、祇園山徳城寺もこのライン上に位置する。さらに、徳城寺から東北二〇〇bほどのところに白山権現(祭神:白山姫命)が鎮座する。
このラインは、豊川河口から豊川に並行して走り、煙厳山に至る。
いわば、伊勢から三河湾を渡り豊川河口から煙厳山に至る最短距離なのである。
草鹿砥氏は、明治までの砥鹿神社の世襲神官であり、その祖は、朝廷別王と考えられる(拙稿第一話参照)。
三河一宮と同様の名称をもつ砥鹿神社が、伊予国越智郡、駿河国庵原及び下野国河内郡に鎮座する。
これらの砥鹿神社は、彦狭島命の東漸に関わることは、拙稿第一話拾遺九にまとめた。
砥鹿神社奥宮の鎮座する本宮山から見て冬至の日の入りの方角にあるのが、宮路山である。
宮地山に鎮座する宮道天神社には、大山咋神が祀られている。
宮道天神社の大山咋神については、大江定基の叡山入山との関わりから説明されている。
大山咋神=大山祇神=大山積神ということになれば、彦狭島−伊予皇子と関係の深い
伊予国大三島の大山祇神社の神であり、伊豆三島の三島神社の神である。
また、この神は、定基出家と関係付けられるように叡山の地主神・日吉山王の神でもある。
日吉山王の神の使いは、猿である。また、日本霊異記上巻一八話では、日下部の猿の名を載せる。
そして、猿橋伝説である。まさに日吉山王の使い「猿」を草鹿砥公宣卿は、自在に操っているのである。
豊川天王社及び祇園山徳城寺に伝わる大寶年中の伝承は、草鹿砥氏の祖・朝廷別王の穂国入国と関係が深い土地であったのではないか。
三明寺や豊川天王社が鎮座するあたりを円福原という。豊川稲荷として知られる豊川閣妙厳寺の山号の円福山は、円福原に因むものである。
円福原(えんぷくはら)。
アイヌ語でEN・HUXKARAは、突き出た(集落の)背後の木原。WEN・HUXKARAで、悪い→役に立たないOR険しい(集落の)背後の木原の意味がある。
円福原に沸く清水、その土地の住民にとって信仰の対象であったであろう。
豊川天王社の拝殿の石垣に付属して井戸がある。拝殿石垣の東側の井戸である。
豊川天王社の大祭の煙火奉納の際には、奉納者は、この井戸の水をかぶり禊をしてから煙火を奉納する。
まさに信仰の対象の水(神)なのである。

376 瑠璃の壺と豊川の水神 風琳堂主人 2002/06/01 19:04

 トカゲさん、三河の風土の特質がよく伝わってくる話です。
 どういう風土かといいますと、一言でいえば「反骨」です。反骨をまるごと体現して死んでしまえば「鬼」となりますが、わたしがここでいいたいのは、生き延びてこその反骨だろうということです。
 こういった反骨の風土の象徴的人物が、利修仙人です。
 豊川天王社が明治に「進雄神社」と社名が変えられたというのは、たぶん、その社名に含まれる「天王」という名が「天皇」に通ずるゆえに、こういった社名変更を余儀なくされたのでしょう。
 豊川天王社の元宮地(現在の稲田神社の地)には、おっしゃるとおり「国津神」が、しかも特別に大事な国津神がまつられていたものとおもいます。この神は、おそらく利修ゆかりの「瑠璃の壺」に象徴される神であり、また、その元宮地と三明寺の関係から、弁財天ともゆかりある神とみられます。
 文武の病気平癒に貢献した利修への「褒美」の申し出に、利修は「この壺に米を入れて欲しい」と言います。しかし、米は決して壺を満たすことはなかった。利修は(なんの「褒美」も受け取らずに)辞去すると、壺=「瑠璃の壺」を市御堂(→東光寺)におさめた──。そして、この壺が、豊川天王社の神宝だということです。
 壺は甕でもあり、本来は「水」がそこに入るものです。天皇=文武からの「褒美」としての米を一切無化してしまうこの壺には、いったいなにが入っていたのかと考えますと、考えられるのは、消された国津神ともいえる水の霊です。「瑠璃」は高貴なる水の色の美称でもあり、三明寺の北に、この壺に象徴される国津神の社があったというのは、これは大事な位置関係とみることができます。つまり、三明寺の弁財天を拝むということは、この壺に象徴される神を拝むことと一緒なのです。
 蒲郡の天白天王社が象徴していますけど、天白神=瀬織津姫を伏せるために、素盞鳴=スサノウはもってこいの神でした。素盞鳴を祭神とする豊川天王社の伝承も貴重です。この社の「奥の院」はかつての東光寺=市御堂であり、この「奥の院」の「瑠璃の壺」が天王社の「神宝」だということは、スサノウの背後の神こそが、天王社の氏子の人の心に映っていたほんとうの神だということでしょう。
 このように瑠璃の壺をみますと、豊川天王社の7月の例祭である「綱火」および手筒煙火の奉納は、この瑠璃の壺の神にこそ「奉納」されているとみることができます。すべての祭りは鎮魂の意を秘めているということでいえば、まさにこの壺の神への鎮魂奉納祭が同社の「例祭」だと理解できます。おそらく、この壺が徳城寺にあるか、光明寺にあるかは、氏子の人にとってはあまり問題ではないようにおもいます。壺そのものが健在であることがなにごとかなのだとおもいます。
 穂国・三河において、三明寺・砥鹿神社・鳳来寺の創建はセットというべきでしょう。穂国の平野部を貫流する豊川[とよがわ]ですが、この平野部にとっての霊地こそが煙厳山(厳は巌かも)です。この煙厳山が鳳来寺山という名になるのは、いうまでもなく鳳来寺の創建(703年)ゆえのものです。
 豊川天王社の笹踊り唄にある「天王の奥の院の東光寺の薬師は福仏」、「正月八日は、からかいの祭りよ。十四日は、鬼踊り。鳳来寺へ参るよ」といった文句は、煙厳山=鳳来寺山の薬師仏への強い信仰を表しています。しかし、鳳来寺の本尊=薬師如来が「瑠璃の壺」を手にしていることこそが、「鳳来寺へ参る」理由だとみることもできます。天王社の神宝は、豊川を遡った鳳来寺の薬師の手にあるものと同質だということです。また、鳳来寺山とはいいつつも、その山頂部は、特に「瑠璃山」と呼ばれています。
 利修は、この鳳来寺山において、三匹の鬼を「供」としていたとされます。また、鳳来寺山の古名には、煙厳山とは別に桐生山という名もありました。いや、両山名は「別」ではないかもしれません。桐生は「霧生」→「煙厳」というように、イメージ連鎖が可能ですから。
 それはともかく、この桐生山には、樹高数十メートルともいわれる桐の巨木があり、この大木に空いた洞には「大きな竜」が住んでいました。また、ほかの大木の洞には「鳳凰」が住んでいたとされます。そこへ利修がやってきて、ある意味、この山の主となります。役小角の三河版のようですが、利修が小角と微妙に違うのは、当時の都の主=天皇に対して、一線を画す伝承をもっていることです。つまり、都から、天皇=文武の病気平癒を利修に依頼するために遣わされた草鹿砥公宣の「脅し」に対して、利修は納得しない旨の問答をします。最後は草鹿砥に言い負かされて、利修は鳳凰に乗って都へ飛び、天皇の病気を治して帰ってくるのですが、こういった伝承を利修に付与することが、やはり<三河>だなとおもうわけです。
 豊川上流の霊地=鳳来寺山の「鳳来」は、この鳳=おおとり=大鳥にちなんだものです。利修が「供」として使役していた三匹の鬼は、利修によって首をはねられ、同山の守護神となります。利修はヤマトに代わって鬼たちを討ったことになりますが、この鬼たちへの鎮魂・供養として始まったのが鳳来寺田楽です。
 豊川は長篠の地で二手に分かれます。東の現在の宇連[うれ]川がもとの本流筋ですが、今は西の寒狭[かんさ]川が「豊川」となっています。旧豊川本流の上流部には、ここもダム=宇連ダムができ、このダム湖は鳳来湖と命名されていますが、ここに乳岩・鬼岩という巨岩があります。鳳来寺山=瑠璃山の本来の地主神がこの鬼岩にまで後退したことがうかがえます。
 一方、西の寒狭川を遡りますと、「こんな山の中から?」とおもえますけど、銅鐸(参遠式銅鐸)を出土する田峰[だみね]という地に出ます。この銅鐸出土地=田峰には「ご神水」が湧出し、ここには、「ご神水」の化身であろう十一面観音=田峯観音がまつられています。田峯観音は「結びの仏」ともいわれ、同地に伝えられる田峯田楽は、この観音に奉納されるものです。
 田峯観音の地に湧く神水は、正確には「田峯観音の祭祓水」といわれます。十一面観音および「祓い」に関わる水神は瀬織津姫とみるしかありません。豊川の水源の一つに、この田峯観音の祭祓水をみることができます。また、この田峰の地で、寒狭川に注ぐ川の最上流部は「弁天谷」で、この弁天谷の川沿いに鎮座するのが津島神社です。同社の参候[さんぞろ]祭の唄の文句には、「それがしは、滝に棲む天照不動明王に候」という名文句があります(『エミシの国の女神』参照)。
 早池峰─遠野郷において、滝・不動尊・十一面観音、そして天照神とゆかりある女神=水神は瀬織津姫ですが、この田峰の地に、それらが凝縮したかたちでみえるのが、「滝に棲む天照不動明王」です。反骨の三河、その真骨頂の表れというしかありません。
 ところで、この田峯観音には不思議な伝承があります。神も仏も原則として南面するものですが、この観音はいくら直しても「南西」に向きを変えてしまうというのです。この「南西」の方角が、正確に伊勢の地であることも、この観音の出自を語って余りあるというべきでしょう。この伊勢ゆかりの十一面観音とおそらく関わる神社が、豊川沿いにあります。それは、砥鹿神社の少し北にあります「津守神社」です。
 同社の祭神は津守明神とされていますが、近江雅和『記紀解体』によりますと、伊勢内宮別宮「荒祭宮」の神は「津守大明神」ともいわれ、別伝では、こともあろうに「アラハバキ姫」だそうです。この荒祭神が瀬織津姫であることはいうまでもありません。
 豊川と瀬織津姫──無縁に非ず、です。

377 石座神社―津守神社 ピンクのトカゲ 2002/06/03 12:02

 豊川は、長篠合戦で有名な長篠城で寒狭川と宇連川に分かれます。
 長篠の地から寒狭川を遡ったところに大海の瀧神社(祭神:綿津見命)が鎮座します。瀧神社は、延久年中(一〇六九〜一〇七三)に創建されました。
 大海の南が八束穂、八束穂には、神明社が鎮座し、祭神は、伊雑皇大神。
 八束穂から西に一キロほど行けば、石座神社が鎮座します。
 また、瀧神社から一キロほど上流に遡れば、砥鹿神社縁起の猿橋があります。
 大海の瀧神社を考えるにあたっては、猿橋、石座神社を考慮すべきかと思います。
 石座神社の祭神の一つに比売大神がという話でしたが、南設楽郡史では、比壺大神と記載されています。誤字かと思いましたが、瑠璃の壺の話と考え合わせれば、さもありなんです。
因みに、豊川天王社の末社に石座神社(磐座大明神)があります。

 さて、つぎに津守神社です。
 国内神明帳によれば、正三位津守大明神と記載されています。
 羽田野敬雄の「国内神明帳集説」では、砥鹿神社神主・草鹿砥宣輝の言として、祭神を田裳見宿祢としています。
 国内神明帳は、国分寺の鎮守・八幡三所大明神をトップに載せ、その次に、若宮両所(一は、国分寺鎮守・八幡宮末、もう一は、牛久保八幡社)、そして、八幡宮末の天満天神、そのあとに正一位砥鹿大明神、正二位赤孫大明神を載せ、その次の正三位のトップに津守大明神を載せています。
 宝飯郡中の式内社の菟足、御津の両大明神も同様に正三位ですが、津守大明神より、あとに記載され、同じく式内社の形原神社は、正四位下にランクされています。
 現在、砥鹿神社の境外摂社・津守神社の社地には、饌川水神社(おものがわすいじんしゃ・祭神:罔象女)が祀られていますが、砥鹿神社の饌水は、この饌川水神社から供せられています。

 なお、石座神社については、拙稿第二話第一章第三節及び第二章第二節を、津守神社については、第一話第三章第一節を、饌川水神社については、第一話拾遺七を参照してください。

378 八幡宮 ピンクのトカゲ 2002/06/03 12:04

姫街道の筋違橋の西、八幡宮の石碑が建ちそこから北に参道が続く。八幡宮は、国分寺の鎮守として創建された。
西古瀬川に架かる宮前橋を渡り、一の鳥居、数段の石段を上がり参道が続く。しばらく行くと、小さな川があり、橋が架かっている。橋の手前右手には、鳥居があり、祠がある。祠の前の橋には弁天橋とある。祭神名は書かれていないが、市杵島姫はじめ宗像の三女神である。
本殿参道に戻り橋を渡ると、左手に小さな屋根に賽銭箱、「荒御魂神」の札が懸かる。川を隔てて、石の小さな祠を望む遥拝所である。おそらく、このあたりから泉が湧いていたのであろう。
参道を中心に右に宗像三女神、左に川を隔てて、荒御魂神、この荒御魂の正体は、おのずと知れよう。
さらに参道を進むと正面に昨年、改築されたばかりの立派な拝殿が見える。
拝殿の手前には、末社といっても背丈をゆうに越す祠が左右に鎮座している。
向かって右が豊磐窓神、左が櫛磐窓神である。いわゆる門神、元は、アラハバキであった可能性が高い。
八幡宮の参道のさらに西一〇〇bほど、佃の信号の右手に間口一間弱のお堂がある。「南無櫻地蔵大菩薩」の石碑が立っている。
以前、ここに桜の古木が立っていたという。
櫻地蔵がある佃の信号の西側の八幡町字西赤土にある小さな祠は、三明寺の弁天様が昔、三明寺入りするとき、これを警固するものと、阻止しようとするものと互いに争いあった場所といわれる。
伝え聞くところによると、敵味方が弁天様を奪い合い弁天様の額にちょっとした傷を負わせたが、弁天様は三明寺入りをした。弁天様に傷を負わせたことの罪をわび、この地に祠を建ててまつったのが、この祠のいわれだという。
西赤土の南・佃には、八幡宮の境外末社・諏訪社に御清水があり、この清水は、いかほども沢山できし疣もとれるといわれ、他郡からも尋ねてくる者があったという。
さて、八幡宮は、国分寺の鎮守として創建されるのであるが、続日本紀天平九(七三七)年三月条で、国ごとに釈迦像を作り、大般若経の写経を命じたことにはじまる。この年の春に疫病(天然痘=疱瘡)が流行り、この疫病により藤原四兄弟が死亡している。そして、あらためて、その二年後に「国分寺建立詔」がだされるのであるが、国分寺の建立にあたり「国内の適地を選び建立すること」と命ぜられている。
続日本紀によれば、国分寺の造営を夫・聖武に勧めたのは、皇后・光明子だとする。
持統の三河行幸の目的は、何度も言うように瀬織津姫隠しである。
そして、その総仕上げとして記紀が編まれた。記紀には、持統―不比等の思惑が投影され、少なくとも不比等は、瀬織津姫隠しを追認をしている(実際には、不比等は、積極的に瀬織津姫隠しに荷担したであろうが)。
聖武は、瀬織津姫隠しの張本人・持統の曾孫であり、光明子は、不比等の娘である。不比等は、亡くなっているが、光明子の国分寺造営の意志は、光明子一人の意志というより藤原氏の意志といっていいであろう。そして、その藤原氏の意志と聖武の意志は合致し詔が発っせられた。
「国分寺建立詔」の「国内の適地」とは、どのようなところであろう。
持統は、自分の腹を痛めた草壁皇子の子・文武に皇位を譲る。祖母(持統)から孫(文武)という変則的な皇位の継承である。持統は、これを正当化するため天孫降臨神話を挿入する。この過程で、男神アマテルは、女神アマテラスに変更され、本来、日神と対で祀られていた水の女神は、抹殺された。
水の女神の抹殺は、持統の血筋に皇位を継がせるためのものである。そして、唯一の持統の直径の男子が文武であり、その文武に嫁いだのが、不比等の娘・宮子であり、宮子と文武の間にできた子が聖武である。
さらに、「国分寺建立詔」の一二年前の神甕四(七二七)年、聖武と不比等の娘・光明子の間には、基王が生まれ、皇太子に指名したものの、一年後に病死する。光明子のほかに武智麻呂と宇合の娘が聖武の夫人となったが、男子を産むことはなかった。
県犬飼刀自古との間に安積親王が生まれたものの皇太子に指名されることなく、天平一六(七四四)年に急死している。享年一七歳である。
国分寺は、適地を選んで建立されたという。そして、三河国分寺は、瀬織津姫の匂いの強い八幡の地に建立された。
詔では、国分寺とともに国分尼寺も造営するよう命ぜられている。瀬織津姫隠しを強行したもののそれによる「竹箆返し」。
瀬織津姫を表に出すわけには行かず、苦肉の策が、仏式による男神(国分寺)と水の女神(国分尼寺)の「祠」の建立ではないのか?
そして、国分寺の鎮守としての八幡神とは、なんであったかである。

379 宮路山 ピンクのトカゲ 2002/06/04 07:36

旧宝飯郡の中央、現在の豊川市の西部に位置する国府(こう)町、その名のとおり、この付近に三河国の国府がおかれていた。
現在の街並みは、国道一号線と並行して走る旧東海道に沿って、形成されている。
この旧東海道を西に向かい旧東海道の宿場町・御油の町並みに入るところの追分からは姫街道が分かれる。
旧宿場町の御油の街並みを過ぎると、国の天然記念物に指定されている松並木。
松並木を越えると、同じく旧宿場町・赤坂の街並みが始まる。
赤坂にはいると直ぐ左手に関川社(祭神・市杵島姫)が鎮座する。
言い伝えによれば、定基が、力寿姫の父・宮路弥太次郎長富に命じ、創建されたという。
宮路弥太次郎は、赤坂の長者といわれ、宮路(宮道)氏は、景行の子・建貝兒命(宮道別)の裔を称し、宮道郷に封じられたとする。
この宮道郷は、宮路山に因むものであり、宮路山は、壬申の乱の折、草壁皇子が布陣した、あるいは、陣を敷いたのは、草壁皇子ではなく、砥鹿神社神官・草鹿砥氏だとの伝説を持つ。
宮路山は、三河一宮・砥鹿神社の奥宮の鎮座する本宮山から西南西、里宮から真西に位置する。
赤坂長者・宮道弥太次郎が定基の命により建立したという関川社(祭神:市杵島姫命)は、宮地山東南麓に鎮座する宮道天神社(祭神:建貝兒王命.配祀:草壁皇子.大山咋神)の南に位置する。
この宮路山も砥鹿神社同様、持統三河行幸が影を落としている。
伝説によれば、宮路山西麓の御津町金野には、草壁皇子を葬ったとされる白山神社が鎮座する。
また、この宮地山の西腹の宮路寺が、草壁皇子が葬られた場所との伝承も残っている。
この宮路山の西腹は、現在、宝飯郡御津町大字金野と呼ばれている。この金野は、金割村と灰野村の合併により、金野村の名がついたわけである。
この金割の地名由来譚については、源平合戦の頃、この金割の地に鎮座する熊野神社の地に武蔵坊弁慶が国分寺(豊川市八幡町:金割から東に五キロ)の鐘を持ってきた。ところが、鐘が国分寺が恋しいと鳴るため、弁慶が怒って、この鐘を叩き割った。以来、中山邑は、鐘破(かねわり)と呼ばれるようになった。
明治の神仏分離以前は、熊野神社の奥の院は、竜嶽山中仙寺であった。中山邑は、この中仙に因むものであろう。
さて、一方の国分寺にもこれに対応する鐘の逸話が残っている。
現在、国分寺にある鐘には、元々、乳が八〇箇あったが、現在は、二〇数箇しか残っていない。これは、弁慶が、この鐘を陣鐘に使おうとして、鐘割村まで引きずってきたが、鐘が国分寺が恋しいと鳴るため、弁慶はこれを聞いて怒り打ち捨てたためだという。
国分寺の鐘は、国の重要文化財に指定されており、創建当初のものとされる。
天平一一(七三九)年に聖武により国分寺建立の詔が出される。
弁慶の時代は、それより四〇〇年以上下る。
国分寺創建投書の鐘は乳のいくつかはとれたものの現存し、重文に指定されている。
それでは、弁慶が叩き割った鐘とは?
熊野神社が鎮座する金割の南御津町大字広石には、いくつか銅鐸が出土している。
また、国分寺のある八幡町の北の平尾町でも三遠式銅鐸が出土している。
割られた鐘とは、銅鐸のことではないか?
御津町広石の御津山北麓には、式内御津神社が鎮座する。
この御津山の南腹には、祭神を荒御魂とする御津神社別宮・岩畳神社が鎮座する。
岩畳神社の東二〇〇bほどのところには、灯明山龍光寺がある。
この龍光寺は、天平年中の創立で、開基は、飯盛長者、開山は、行基、国分尼寺と号したと伝えられる。国分尼寺跡は、豊川市八幡町忍池(にんじ)にあるわけであるが、国分寺の鐘とともに御津山にも持統行幸の影が見える。
話が、宮路山から大分それたが、宮道弥太次郎が建立した関川社の北、宮道天神社の南に阿口社なる神社が鎮座する。
当然この阿口社も宮道天神社及び関川社と関係するのであろう。
祭神は、伊勢の土着神とされる猿田彦命である。
伊勢神宮の荒祭宮の祭神・荒御魂は、瀬織津姫のことであり、日神・アマテルノオオカミ(男神)と対で祀られていたのが、瀬織津姫である。
関川社も円融の時代の国司の命により建立されたとするも、元来の音羽川の祭神を力寿に仮託したものではないかと思われる。
また、草壁皇子の伝承が残る宮路天神社も三河国司・大江定基が、出家したのち比叡山に上るにおよび大山咋神を配祀したとされる。この大山咋神を客人大明神という。
一つは、宮路山中に鎮座し、他の一は、同町長沢の嶽神社(祭神・大山祇神)が、それである。
客人神ということになれば、八幡八幡宮にも鎮座する。
八幡宮の書き込みでも述べたが、宮路山も瀬織津姫と見ていいであろう。
豊川市蔵子(ぞうし)町の蔵子神社は、元亀四(一五七三)年、赤坂御嶽ヶ城(宮路山にあった)から十一面観音を勧請し、牛頭天皇として奉祀したと伝える。
日吉山王(訓み=ひえさんのう、比叡山の地主神)の上七社の一つ客人大明神は、白山比売を祭神とし、本地仏は、十一面観音である。

380 八幡神と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/06/04 16:25

 石座神社の比売大神の異称が「比壺大神」とのこと──たしかに「瑠璃の壺」の壺神=水神をここに認めてよいのかもしれません。
 豊川の水源神の一つ、「祭祓水」の化身である「田峯観音」という十一面観音──、その豊川の中下流域にある津守神社の祭神は「津守大明神」であり、また、伊勢・荒祭神の異称も「津守大明神」であること──これらの変化[へんげ]仏・変化神が共通して指し示す秘神、あるいは「深秘の神」(岩手の滝神を形容した表現…『邦内郷村誌』)は、瀬織津姫です。
 津守→津神は、海の匂いのする神であり、これは遠く、宗像の海へと通じているのでしょう。新城市大海[おおみ]という「大海」という地名自体が「海」を記憶する人々による命名でしょうし、そういった人々がまつる「瀧神社」の神を、せめて「綿津見命」とする心理はわからないわけではありません。しかし、滝神を綿津見とすること──これは明らかに「変」の部類にはいる祭神表示で、この「変」をあえて採用するところが、これまた<三河>的といえそうです。滝神=瀬織津姫が江戸期において、「神秘」ではなく「深秘」の神とされていた意味は、まさに「深い」ものでした。
 今回は、全国12万神社のうち約4万社に同神をまつるといわれる八幡神に「深く秘された神」にふれる必要がありそうです。
 国分寺の本家=総国分寺はいうまでもなく東大寺ですが、この東大寺の守護神が八幡神だということをまず押さえておきます。全国各地に国分寺が建てられていくときに、その守護神の八幡神も並行して広まっていきます。三河の八幡宮も例外ではありません。
 それにしても、持統亡きあとの男系の二天皇、つまり文武天皇と聖武天皇の皇后が、両方とも藤原不比等の娘であることはやはり大きな意味をもっていたとおもいます。藤原=中臣の祭祀思想の<血>が、これらの天皇に反映しないはずがありません。
 伊勢神宮の元神たちの改竄→未曾有の天変地異→ノイローゼによる天武の死(686年9月9日)、持統の謎の三河行幸直後の死(702年12月22日)、さらに文武の25歳という若き死(707年6月15日)──、ときの祭祀権力者たちは、その中枢にいればいる者ほど、これらの死を「祟り」と受感していたにちがいありません。
 聖武が天皇に即位した年=神亀元年(724年)という年は、『常陸国風土記』編纂を718年に終えた、不比等の三男・藤原宇合[うまかい]が、北の陸奥鎮定のために持節大将軍に任じられた年であり、陸のさらなる奥の日高見国への侵攻の拠点となる多賀城が完成した年でもありました。また、この724年は、出雲国造が初めて「神賀詞」を天皇に奉じた年でもありました。
 東国および各地への強引な侵攻による怨嗟の声は、聖武を何重にも包囲していたことが想像されます。聖武は天皇即位の翌年=725年7月に、国家鎮護のため、諸寺に「金光明経」または「最勝王経」を読ませて祈願するしかありませんでした(続日本紀)。ちなみに、この「最勝王経」の中の「弁財天品」に弁財天が登場してきます。
 聖武をおそらく不安の極みに落とし込んだのは、729年2月の「長屋王の変」とよばれる、「謀反」を讒言されての自尽事件でした。聖武のその不安と孤独の布団にすべりこんだのが、不比等の娘・光明子=光明皇后だったというべきかもしれません。
 以後、諸国飢饉(733年)、大地震(734年)、凶作・天然痘の流行による多数の死(735年)、さらに、737年には、筑紫に起こった疫病=天然痘がまたたくまに全国に蔓延し、死者は上下の区別をつけない猛威をふるいます。藤原宇合を含む藤原四兄弟がそろって死ぬという異常事態は、聖武に自らの死さえ予感させるほどの極限の不安を抱かせたことは想像に難くありません。藤原氏の衰落と焦りは、740年の藤原広嗣の乱として表れます。
 こういった不安のなかで、聖武(と光明皇后)は、天平13年=741年2月に、諸国に国分寺・国分尼寺建立の詔を発します。これらの寺には、国家鎮護の最強の呪文である、あの「金光明最勝王経」などが必備とされます。
 天平15年=743年には、総国分寺=東大寺の大仏造像の詔が発せられ、ここで一躍脚光を浴びるのが、それまで一地方神にすぎなかった八幡神、つまり、現在の宇佐神宮です。
 同社の由緒記を少し読んでみます。

■宇佐神宮由緒記
(祭神)応神天皇、比売大神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)、神功皇后
(由緒)
 まず社名について。奈良時代にはただ八幡宮・八幡神宮・八幡神社・八幡大菩薩宮等と呼ばれていたが、平安時代に京都に石清水八幡宮が創建されてからは、石清水八幡宮と区別する意味で宇佐宮・八幡宇佐宮・宇佐八幡宮と云うように「宇佐」の字をつけるようになった。明治六年、官幣大社宇佐神宮となり、昭和二十年、社格制度廃止により、今の宇佐神宮となった。宇佐の地に初めて八幡神が御示顕になられたのは、欽明天皇の御代に御許山(おおもとさん)(宇佐神宮奥宮大元神社鎮座)に顕われた。また同天皇三十二年(五七一)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕われ、「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げられたので、この地に祀られたのが宇佐神宮のはじまりである。
 その後和銅五年(七一二)、鷹居社が社殿として初めて造立され、霊亀二年(七一六)小山田社に移り、神亀二年(七二五)現在の亀山に移され第一之殿が造立された。天平元年(七二九)には第二之殿、弘仁十四年(八二三)には第三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成した。養老三年(七一九)、大隅・日向の隼人が反起したので、八幡神は託宣により神輿を奉じて日向まで神官・僧侶と共に行幸され、これを鎮めた。この隼人の霊を慰めるため天平十六年(七四四)、和間浜で「放生会」が行われた。これが全国各地の八幡宮で行なわれている放生会(ほうじょうえ)の起源ともなった。また天平十年(七三八)、聖武天皇の勅願で境内に神宮寺「弥勒寺」が建てられた。聖武天皇が天平十五年(七四三)、東大寺大仏建立を発願したが、難工事となり八幡神に無事完成を祈念した。これにたいし全面的に協力し「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」。また大仏に塗る泥金が不足すると「必ず国内より金は出る」と次々と託宣を発し大事業も無事に完成した。天平二〇年(七四八)には東大寺の守護神に勧請され、その後東大寺の脇に手向山八幡宮が建てられた。〔後略〕(神奈備HP「延喜式神名帳」)

 ここには、8割の事実、1割のウソ、1割の曖昧さが記されています。事実は、社殿「造立」や「東大寺の守護神に勧請され」といった外的な記録=年表記、および、八幡神の一神=神功皇后は、聖武=奈良時代には祭神ではなかった、ということです。ウソは、八幡神が自己紹介した部分「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」です。欽明時代にはまだ天皇=スメラミコトという称号は存在しませんでしたから、そういった自己紹介を八幡神がするはずがありません。曖昧は、八幡神が「御示顕」したとされる「宇佐神宮奥宮大元神社」の説明を故意にしていないことです。
 近江雅和『記紀解体』(彩流社)によりますと、この奥宮=御許山の神は「比売大神」で、宇佐氏の「祖神」だそうです。近江さんは次のように書いています。

 オモト山は宇佐神宮の南東五キロのところにある標高六四七メートルの山で、山頂には太古から宇佐氏の氏上[うじのかみ](族長)によって比売大神が祀られていた。現在は大元神社と呼ばれて宇佐神宮の奥宮になっている。宇佐神宮の社殿は三殿が並び、右から一の殿(祭神・応神天皇)、二の殿(祭神・比売大神)、三の殿(祭神・神功皇后)となっている。比売大神を祀る中央の二の殿はオモト山から勧請されたもので、中央におくことは宇佐神宮の主祭神であることを意味しており、これこそ宇佐氏の祖神にほかならない。

 八幡神三神の中心の神=主神は「比売大神」であるということです。そして奈良期までは、八幡神は二神であり、平安期になって(823年)、三神化されたことをここに重ねてみますと、八幡神の中心の二神は、まず「二の殿」の比売大神であり、もう一神は「由緒記」が記すウソの部分、つまり「一の殿」の誉田天皇広幡八幡麻呂→応神天皇ということになります。
 時代が下るにしたがって、八幡神は応神天皇と神功皇后とされ、肝心の比売大神は脇神とされていきます。
 ところで、この本来の主祭神「比売大神」についてですが、近江さんはわたしたちと共有できる認識を、次のように書いています。

宇佐の比売大神に限らずその他の神社に祀られるヒメ大神については、『記・紀』にも現れず、また特定できる呼び名ではなく抽象的なために、これまでさまざまな議論の種になっている。「ヒメ大神」にはいずれも『記・紀』神話を否定する重要なカギが隠されているように思えてならないのである。

 そのとおりだとおもいます。比売大神をまつる「その他の神社」の代表は春日神社でしょうし、この宇佐神宮=八幡神の比売大神にしても、宗像三女神説ほか、不定もいいところなのです。
 この八幡神の謎の比売大神について、では、どんな「説」がこれまでにあるのか──。玄松子さんは、神社探訪のHPで、次のようにたくさんの「説」を紹介してくれていますので、引用させてもらいます。

■八幡神の比売大神
一、玉依姫説。つまり神を祀るシャーマン。
二、三女神説。宗像の神。神宮の案内はこれ。
三、応神天皇の伯母神。神功皇后の妹で、肥前一之宮の河上大明神。
四、姨神。応神天皇の伯母であり、后であり、玉依姫でもある。
五、弟日売。応神天皇の妃。
六、仲姫命。応神天皇の皇后。
七、下照姫。
八、比売語曽神。
九、姫御神。応神天皇の皇女。
十、菟狭津媛。

 合計で十種類の祭神説があるようです。しかし、これらの諸説の過半にかかわる比売大神がいます。それはいうまでもなく、瀬織津姫です。
 たとえば第3説の「肥前一之宮の河上大明神」一つを取り出してもよいですが、この河上=川上神についてはこれまでにも書いてきているように、瀬織津姫でした。また、宗像の三女神の一神に瀬織津姫の名を伝えつづける、鹿児島県出水市の厳島神社を挙げておいてよいかとおもいます(宗像三女神の多岐津姫が瀬織津姫と表示されている例に、大分県中津市の闇無浜神社も追加できます)。
 宇佐神宮奥宮=大元神社と安芸国の厳島神社が共通して「オオモトさん」と呼ばれていることを指摘していたのは、これも近江さんでした。この厳島神=宗像女神が、宇佐の大元神である比売大神と同神であることは、各種祭神説の第2説とも対応し、宇佐神宮側が比売大神を宗像三女神と括弧でくくるも表示していることとも対応しています。むしろ謎は、宗像の女神が三神化されていることにあるというべきですが、近江さんはここにふれることはありません。
 瀬織津姫が八幡神(の一神)であることは、全国の八幡神社・神宮の主祭神の座に散見されることからも、八幡神と無縁の神ではないことが想像できます。
 以下に、八幡神として、瀬織津姫が主祭神としてまつられる神社を書き出しておきます(合祀されたものは除きます)。

■八幡神の主神として瀬織津姫をまつる神社
@八幡神社【本殿主神】  静岡県榛原郡川根町笹間渡425
A八幡神社【本殿主神】  静岡県榛原郡中川根町久野脇694
B八幡神社【本殿主神】  静岡県榛原郡本川根町崎平230-2
C八幡神社【本殿配神】  滋賀県東浅井郡浅井町大依248
D八幡社 【本殿主神】  富山県高岡市早川924
E隅田八幡神社【本殿主神】和歌山県橋本市隅田町垂井622
F八幡神社【本殿配神】  岡山県英田郡作東町白水2611
G八幡神社【本殿主神】  広島県高田郡八千代町向山観嶽271-95
H八幡宮 【本殿配神】  島根県益田市白上町イ783
I八幡宮 【本殿配神】  島根県那賀郡三隅町矢原338

 これらは、明治期の祭神変更の嵐を、かろうじてくぐりぬけた八幡神社とみることができます。瀬織津姫が八幡神の比売大神であることを証言するこれらの社は、全国4万社の八幡神社の4千分の1という数です。特別に貴重な証言社というべきです。
 なお、本来の八幡神=瀬織津姫を弁天化、それも裸弁天としている八幡神社があることも添えておきます。それは、宇佐の総本社を別格とする三大八幡宮のひとつである、鎌倉・鶴岡八幡宮です(なお、その他の二社は、京都・石清水八幡宮、福岡・筥崎八幡宮)。
 鶴岡八幡宮がどういった経緯で裸弁天をまつるのかはわかりませんけど、かつて、つまり聖武時代に、国分寺・国分尼寺に、国家鎮護の祈祷呪文である「金光明最勝王経」の必備を命じていたことが関わりあるものかもしれません。
 聖武→国分寺、光明皇后→国分尼寺という、仮の男女寺の建立は、八幡神の元神の男神は応神天皇とし、一方の女神は瀬織津姫の名を隠して比売大神とし、後年には、この女神の座に神功皇后が座る──こういった影響を与えたものとおもいます。つまり、八幡神社の神宮寺である国分寺・国分尼寺の存在は、瀬織津姫の弁天化に強く影響を及ぼしたことが考えられます。
 なお、聖武は、琵琶湖・竹生島神社の神の弁天化において、直接関わった天皇でもありました。神亀元年=724年、聖武は行基に命じて、竹生島神社の神宮寺として宝厳寺を建てます。この宝厳寺の「寺伝」には、次のように書かれています。

■宝厳寺「寺伝」
 竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より、「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家太平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻しご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。
 それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師など来島修行されたと伝えられています。〔後略〕

 聖武は、天皇に即位した年=724年に、「天照皇大神」の夢告により、竹生島神社が鎮座する竹生島に宝厳寺を建て、「弁才天」をまつったのでした。ちなみに、竹生島神社の現在の祭神は、「市杵島姫命(弁才天)、宇賀神(竜神)、浅井姫命」とされています。市杵島姫命=弁才天とされていますが、京都・下鴨神社の「糺の弁天さん」は、邪を糺す大直日神の異名をもつ瀬織津姫とみられます。また、浅井姫は地主神で、これも伊吹山の神=気吹戸主神との関係から瀬織津姫とみられます。宇賀神は稲荷神のことですが、ここに「竜神」と注記していることは大事で、この稲荷神=宇賀神は、先住の日神=農耕神=竜神への鎮魂神とみることができます。
 先住の日神と水神の二神に、ここでも、三神化=曖昧化する祭神として市杵島姫命が付加され、その上に、宝厳寺=大弁才天が創祀されたとみるべきでしょう。しかし、聖武の不安は解消せず、観音堂の建立をも、翌年の725年に命じています。この観音堂に安置された「千手観音」は、那智・青岸渡寺および補陀洛山寺にもみられる「十一面千手観音」でしょう。さらに聖武は、白山の女神とも関わる泰澄に命じて、琵琶湖の渡岸寺に、現在「国宝」とされる「十一面観音」も造立させています。
 弁才天はインドの最古層の水神=川神=サラスヴァティーを仏教の守護神としたもので、この水の女神はまた「戦いの神」でもありました。その意味で、瀬織津姫が「戦いの神」でもある大将軍神とされたのとも符合します。ともかく、弁財天は水神の「荒魂」ともいえるわけで、聖武が追加した千手観音=十一面観音は、水神=滝神の「和魂」とみることもできます。いずれにしても、聖武は、この「深秘」の水神に「深く」こだわったことがみえてきました。
 なお、近江さんは、同書で、先の比売大神の謎のほかに、もうひとつ「不思議」があるとして、次のように書いていました。

 もう一つ出雲と宇佐には不思議なことがある。神社に参拝するにはどこでも「二拝二拍一礼」が作法になっているが、古来、出雲大社と宇佐神宮の比売大神だけは「二拝四拍一礼」になっている。これはどう考えるべきか今のところ私には分からない。(『記紀解体』)

 これは、とても大事な「不思議」です。出雲大社には、宇佐神宮の比売大神と同一の神が、その表向きの祭神「大国主」ほかの奥に隠れているということだとおもいます。出雲大社にも、まさに「深秘の神」が存在していることが考えられます。

382 気になったこと。 GOTO 2002/06/04 16:41

ご主人殿

毎々お世話さまです。
GWの遠野旅行の写真が出来上がり、
再び訪れる日を楽しみにしている次第です。

実は伊豆神社の鳥居の前で撮った写真で
気になっているのが伊豆大神の石碑です。
私の頭の中では伊豆大神といえば三嶋明神=事代主神。
瀬織津姫との関連はなさそうですが、いかがでしょうか?

383 伊豆権現 ピンクのトカゲ 2002/06/04 17:37

伊豆権現については、三河の田峯観音近くにも鎮座します。
過去ログ=NO240.「天照不動明王」 2002/01/23付けに少し触れてあります。
参考までに

384 津守大明神―瀧神社 ピンクのトカゲ 2002/06/04 18:21

「神社を中心としたる宝飯郡史」では、砥鹿神社境外摂社津守神社の祭神について、多裳見宿祢としています。
田裳見宿祢(多裳見宿祢)は、書紀神功皇后条によれば、津守連の祖とされ、住吉三神が、わが荒御魂を穴門の山田邑に祀せよと告げたとき、穴門直の祖・践立とともに進言した人物とされています。
一方、先代舊事本紀の巻五・天孫本紀は、天火明命の五世孫・建箇草命を多治比連、津守連、若倭部連、葛城厨直の祖としています。
つまり、津守連は、男神=アマテルノオオカミの祖型の一つである天火明命に連なるわけです。
また、書紀神功皇后条で、住吉三神より先に現れるのが、撞賢木厳之御魂天疎向津媛であることを留意すれば、津守大明神が瀬織津媛あるいは瀬織津姫と対で祀された男神=アマテルであることは明らかであると思われます。
豊川あたりから砥鹿神社奥宮=本宮山を眺めていると、本宮は、アンテナ群が頂上に聳える山との認識がある。
それが、津守神社の裏あたりから眺めると、アンテナ群が、隠れ、見慣れた本宮を見失った経験があります。
偶然なのか、それとも意識してアンテナを建てなかったのかは、わからないが...
現在の「深秘」として、深入りせずにおこう。
比売大神=肥前一之宮の河上大明神説。河上という語から丹波道主王の妻・丹波河上朗女を連想する。また、玉依姫ということになれば、賀茂神社の丹波加古夜姫とやはり、丹波との繋がりも気になるところです。
さらに、新城の竹生神社は、琵琶湖・竹生島神社を勧請したとも言われ、瀧神社(祭神:瀬織津姫)が鎮座するわけです。
また、新城の竹生神社が鎮座するあたりは、賀茂郷とも言われたわけで、賀茂―丹波の関係の深さを暗示させます。
さらに、下鴨神社の「糺の弁天さん」が、邪を糺す大直日神の異名をもつ瀬織津姫とみられるとなれば、なおさらです。

385 国譲り神話についての井沢説の検討 ピンクのトカゲ 2002/06/05 08:59

「逆説の日本史1古代黎明編」第二章大国主命編で井沢氏は、『出雲大社本殿内部の奇妙な配置』において「出雲大社は、大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿」との結論を導いている。そして、『怨霊信仰は古代から存在した』において、国史大辞典を引用して「怨霊信仰=怨念を抱いて死んだ人の霊が祟りをなすという思想、平安時代より盛んになった御霊信仰はこの考えに基づく、この時代になると政治上いろいろの葛藤があり、失意の人の怨霊が祟りをなすという考えが社会不安となって現れた」とし、続いて、「御霊信仰=非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、これを畏怖してその祟りを免れ安穏を確保しようとする信仰、原始的な信仰心意にあっては死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても恨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に祟りをなすと信ぜられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊のたたりとされた。『日本書紀』崇神天皇七年二月条に天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めてかれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下泰平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる」と記している。
ここで、重要なことは、御霊信仰の説明でかかれているように怨霊になるのは、恨みを飲んで死んだものの霊であること、子孫によって祀されることのない霊であることである。
換言すれば、オオクニヌシが、怨霊にならないためには、三輪山の大物主神が、その児・大田田根子に祀らしめたように、オオクニヌシの子孫が、オオクニヌシを祀る必要がある。
では、「出雲大社は、大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿」とする井沢氏は、誰がオオクニヌシを祀ったとしているか?
井沢氏は、アマテラスの次男の「天穂日命」の子孫=千家家を出雲大社の神官としたとしている。
井沢氏は、オオクニヌシの子孫でなく、「アマテラス」の子孫をオオクニヌシの祭祀にあたらせ、「大怨霊オオクニヌシを出雲大社に封じ込めた」とするのである。
井沢氏がいう「アマテラス」は、もちろん、男神アマテルではない。皇祖神・アマテラスである。
このあたりが井沢氏の限界であり、天皇制と向き合うときの詰めの甘さを露呈している。
天穂日命は、出雲氏及び土師氏の祖であり、新撰姓氏録の山城神別及び和泉神別の土師宿祢では、土師氏の祖・野見宿祢を天穂日命の一四世孫としている。
土師氏については、丹波道主王と関係があった旨は既に記載した。
井沢氏も「『死の宮殿』出雲大社の“右上位”と“四拍手“」で、「もともとオオクニヌシはこの地の王(神)ではなかったが、出雲が『死の国』に一番近い国なので、『死の国』に封じ込めるために、オオクニヌシをここへ連れてきて、大神殿を建てたのだ、と考えることもできる」としている。
また、『怨霊信仰は古代から存在した』においては、「イズモはなぜ『出雲』と書くか」について、「イツ」は、「厳」であり、「モ」は、「モノ」であるとの千家尊統著「出雲大社」を引用して、「モノ」は、「物の怪」の「モノ」であり、「霊魂」のことであり、「イズモ」で「厳霊」だとしている。
井沢説からいけば、書紀神功条の「撞賢木厳御魂天疎向津姫」の「厳御魂」は、「イズモ」そのものということになる。
井沢氏は、第三章卑弥呼編で「古代日本における太陽信仰の不思議」と題し、最高神=皇祖神が太陽神かつ女神であることの不思議について言及しているが、天皇制からの呪縛から逃れられないためここでもトーンダウンは否めない。

386 消えた伊豆大神 風琳堂主人 2002/06/05 16:59

GOTOさん、伊豆大神の「伊豆」=イズ/イヅ/イツをどう理解するかは定説がありませんが、わたしは、「伊豆」は地方名である前に、神名あるいは神の性格形容に由来するのではないかとみています。のちに、地方名として定着する、いわゆる伊豆半島の「伊豆」は、おそらく、この「伊豆大神」の地ゆえの「伊豆」地名となったものと考えています。
 遠野においては、伊豆神社=伊豆権現の神=伊豆大神は瀬織津姫で、これは自然な神名なのですが、しかし、その「本社」というべき、伊豆半島・熱海の伊豆山神社=走湯権現社へ行きますと、なぜか、遠野の伊豆大神=瀬織津姫の名は消されて出てきません。
 遠野の伊豆神社と熱海の伊豆山神社──どちらかが神の名を正確に伝えていないということになります。
 瀬織津姫が日高見川=北上川の水神であることについては、すでに書きましたのでくりかえしませんけど、あのあと、トカゲさんのHP「穂国幻史考」で東沢さんという方が、北上川の旧名のひとつに「伊豆川」という名があることを指摘されています。
 古来、大河はおしなべて「大井」と呼ばれていたようで、これは静岡の大井川にその呼称が定着しています。しかし、たとえば、京都の現在の桂川にしても、「大井川」と呼ばれていたことは、「大井川しぐるゝ秋の櫟[くぬぎ]谷 山や嵐の色をかすらむ」(藤原為家)からもわかります。また、桂川=保津川の分流・上流である大堰川=園部川の流域のまち・亀岡市には、その名も大井神社があります。この「大井」の神は、下流の松尾神社から「鯉」に乗ってやってきた「木俣命」=御井神=水神とされ、なぜか、この御井神と一緒に鯉に乗ってやってきたのが市杵島姫命とされています。出雲の木俣神=水神と宗像の女神が一緒にやってくるということ自体、この鎮座伝承は一考に値します。
 ともかく、北上川は、これも「大いなる井」の川とみれば、まさに伊豆大神の川ゆえの古名・伊豆川だったのでしょう。
 古事記(712年)から日本書紀(720年)という編纂・創作過程において、とても大事な神の名が消去されたこと──つまり、大年神とその妻神=水神(たとえば天知迦流美豆比売[あめちかるみづひめ]=天の水姫や、伊怒比売[いのひめ]=井の姫)たちが消去されたことは、記憶に留めておきたいところです。書紀の編纂・創作者の編集意図──水神=女神の消去という編集思想が、ここに露骨に投影しているからです。
 ところで、日本書紀において消された神は大年神(たち)ばかりではありませんでした。古事記は記していたのに、日本書紀では消された神──これが「伊豆」の神でした。
この消去の意図は、おそらく、大年神の后神につながる水神の消去と同根の編集思想に基づくものと理解できます。
イザナギがイザナミのいる黄泉国から逃げ帰ってきて「禊ぎ」をする理由を、イザナギは「穢き国」に行ってきて自分は穢れてしまったからだとしています。だから「禊ぎ」をするのだというわけです。この禊ぎの場面は、アマテラスたちの誕生にもつながっていきます。
 少し長いですが、この禊ぎの場面は大事なところですから、記紀の「違い」を比較する上でもあらためて読んでみます。

■古事記
 このようなわけで伊邪那伎大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢[けが]らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊[みそぎ]をしよう」と仰せられ、筑紫の日向[ひむか]の橘[たちばな]の小門[おど]の阿波岐原[あはきはら]においでになって、禊ぎ祓へをなさった。〔中略〕
 そこで伊邪那伎大神が仰せられるには、「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがおそい」と仰せられ、初めて中流の瀬に沈みもぐって、身の穢[けが]れを洗い清められたときに成った神の名は、八十禍津[やそまがつ]日神、次いで大禍津[おおまがつ]日神である。この二神は、あの穢らわしい黄泉国に行ったとき、触れた穢れによって成り出でた神である。次にその禍[まが]を直そうとして成り出でた神の名は、神直毘[かむなほび]神、次いで大直毘[おほなほび]神、次いで伊豆能売[いづのめ]である。次に水の底にもぐって、身を洗い清められる時に成った神の名は、底津綿津見[そこつわたつみの]神、次に底筒之男[そこつつのを]命である。次に水の中程で洗い清められる時に成った神の名は、中津綿津見[なかつわたつみの]神、次いで中筒之男[なかつつのを]命である。水の表面で洗い清められる時に成った神の名は、上津綿津見[うはつわたつみの]神、次いで上筒之男[うはつつのを]命である。
 この三柱の綿津見神は、安曇連[あづみのむらじ]らの祖先神としてあがめ祭っている神である。そして安曇連らは、その綿津見神の子の宇都志日金析[うつしひかなさくの]命の子孫である。また、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、住吉神社に祭られている三座の大神である。
 さてそこで左の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は、天照大御神である。次に右の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は月読[つくよみ]命である。次に御鼻をお洗いになる時、成り出でた神の名は、建速須佐之男[たけはやすさのをの]命である。(次田真幸訳 神名は漢字表記に戻した)

■日本書紀
 伊奘諾[いざなぎ]尊が帰られて悔いていわれるのに、「私はさきにひどく汚い所に行ってきた。だから私の体の汚れたところを洗い流そう」と出かけて、筑紫[つくし]の日向の川の落ち口の、橘のアワキ原に行かれて、禊ぎはらいをされた。体の汚いところをすすごうとして言葉に出していわれるのに、「上の瀬は大へん流れが速い。下の瀬は大へん流れが弱い」と、中の瀬ですすぎをされた。それによって生まれた神を名づけて、八十枉津日神[やそまがつひのかみ]という。次にその汚れたのを直そうとして生まれた神を、神直日神[かんなおひのかみ]という。次に大直日神[おおなおひのかみ]。また水の底にもぐってすすいだ。それによって生まれた神を、名づけて底津少童命[そこつわたつみのみこと]という。〔以下、古事記と同内容なので省略〕(宇治谷孟訳)

 本居宣長たちは、古事記の「八十禍津日神」「大禍津日神」を瀬織津姫と規定したのでした。これらの二神は、日本書紀においては「八十枉津日神」という一神として統括されます。また、古事記の「神直毘神」「大直毘神」については、なぜか、書紀はそのまま「神直日神」「大直日神」の二神として踏襲しています。
 しかし、古事記における四神(八十禍津日神、大禍津日神/神直毘神、大直毘神)を統合・総称する「伊豆能売」という神、つまり「伊豆の女神」は、日本書紀からは消去されていることがわかります。
神功皇后の創作において、彼女の「新羅遠征」からの帰りに、難波の海でその帰り路に立ちはだかる神として登場するのは、まず天照大神「荒魂」=広田神であり、次に稚日女[わかひるめ]尊=生田神、そして事代主命=長田神、最後が、表筒男・中筒男・底筒男の三神=住吉神とされています。これら神功と対峙する四神のうち、広田神=天照大神荒魂と住吉神=筒男神の二神は、あのイザナギの禊ぎの場面に登場した=誕生させられた神でもありました。
 古事記の四神(八十禍津日神、大禍津日神/神直毘神、大直毘神)は広田神社において、天照大神荒魂として統合される神であり、筒男神の三神は、住吉神と括ることができます。
 話を伊豆大神にもどせば、古事記の伊豆能売は、禍津・直日の四神の総称神である広田神=天照大神荒魂に集約され、要するに、伊豆能売=伊豆の比売=天照大神荒魂神ということになります。この等号式の先には瀬織津姫の名があることはいうまでもありません。
 伊豆という言葉の初源に関わる話を記紀に探れば、こういうことになります。したがって、わたしの理解では、「伊豆」の大神は、三島明神=大山祇/事代主ではない、ということになります。では、伊豆大神は「伊豆」の地で、どんな神として、現在想定しうるかとなりますが、これは、やはり事代主の伝承にみられる最重要な女神=伊古奈比唐ニみるしかなさそうです。
 話をシンプルにしてしまえば、事代主は、大国主の「国譲り」において、すでに美保の地で亡くなっている=殺されていますから、はるばる伊豆半島までやってきて多くの女神と浮名を流すことには無理があります。もしこの話がリアリティーをもつとするなら──と仮定すれば、それは、出雲の古層の民と、伊豆の古層の民が、同じ神をいただいていたという一点があるのみでしょう。
 出雲と伊豆──この両者に共通する音こそ「イツ」で、このイツの大神こそが、出雲と伊豆の両地で消されているとみることができます。これは、おそらく、日本書紀が「伊豆能売」を消したことと、正確に対応しているはずです。
 話を三河に重ねますと、あの出雲神社の女神「出雲大天女」は、伊豆の「大天女」でもあろうかとおもいます。瀬織津姫のフルネームである「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の「厳之御魂」=イツノミタマの「イツ」が、やはり「伊豆」「出雲」の祖型の音だろうとおもいます。
 その意味で、消された伊豆=イツの神という意が、まさに、出雲=イツ喪→伊豆喪ということになります。梅原猛さんが、出雲は神々の流竄=流謫[るたく]の地だとしていたこととも通じる話かとおもいます。
 しかし、出雲に流され、しかも出雲の地で、さらにその名を消された神がいます。それが、消された伊豆大神だろうということですが、どっこい、エミシの国の最奥(?)の地・遠野では、この伊豆大神は健在なのです。戦後現在、つまり、これだけ情報が自由に明かされる時代となりましたから、これからは、その隠された神が明かされることはあっても、これまでのように消されることはありえない時代となりました。藤原不比等はもちろんのこと、明治国家にしても、おそらくこれっぽっちも、こんな時代がくるとは予測できなかっただろうとおもいます。小不比等たちは苦々しく感じているのかもしれませんが、古来、最重要な神を消し去ることは無理だと知るべきでしょう。

387 ご教授ありがとうございます! GOTO 2002/06/05 20:32

何せ浅学の身ですので頓珍漢なことを言ったりするかと思いますが、どうぞご容赦ください。
それにしても鳥肌が立つようなお話ですね。
自分がいわゆる記紀のごく表層部分を刷り込まれて生きてきているのを痛感しています。

388 淡島さま カヤナルミ 2002/06/05 22:09

福岡市博多区に住吉神社がある。境内社として、少彦名神社があった。祭神はもちろん少彦名命であるが、別名『淡島さま』と表示版に書いてあった。すぐ側に『猿田彦大神』の石碑もあった。熊本市横手に下馬神社という神社がある。境内社として粟島神社があった。祭神は『淡島大明神』他にも、宮地獄神社(福岡の宮地嶽神社と同じ祭神だろう)、横手菅原神社(祭神は菅原道真公)があった。
古老の話によると、元々淡島さまは海に近い宇土市の小さな神社に祀られていたそうです。

389 淡島明神の不思議 風琳堂主人 2002/06/06 04:25

 GOTOさん、「伊豆」はどういう意味なのか、前から気になっていて、自分の見方を整理するよい機会をいただきました。こちらこそお礼申し上げます。

 カヤナルミさん、そちらの淡島さんの「本社」なのかどうかわかりませんけど、和歌山市加太の淡嶋神社がよく知られています。ここは、雛流しの神事発祥の神社ということになっているようです。
 同社の現在の祭神は、少彦名命、大己貴命、息長足姫命(神功皇后)の三神。
ここは、全国から不要な人形が送られてきて、わたしがうかがったときの印象では、拝殿の中も外も人形であふれかえっていて、とても異様な気がしたことを思い出しました。
 こういった人形供養を引き受ける神社はまちがいなく祓いの神がからんでいるだろうとおもったのですが、祭神は上記のごとくで、なにか秘密めいた神社だなということでそのままになっています。
 雛流しは、一対の男雛・女雛に「罪・穢れ」を仮託して「流す」という祓いの神事なのですが、そのルーツは、先住の男神・女神への鎮魂祭であることは、七夕祭と同系だろうとおもっています。ところが、この神社は、男雛を少彦名命、女雛を神功皇后と見立てていて、こういうデタラメを平気でやるんだなと、正直いって呆れたことも思い出されます。
 淡島の神は、もともと紀淡海峡の小島・神島の神で、それがどんな神かははっきりしていないようです。古事記における、大国主(大己貴の表記は日本書紀)と少彦名のコンビによる国づくりは実にほっとする話です。その印象が強いので、神功はともかく、この二神をまつるといわれれば、そうケチはつけられないなともおもっていました。
 しかし、祓いの行為を神社の看板にしていることはやはりひっかかります。それと、俚諺というべきかどうか──、ここの神は、住吉神の后神で、性病とおぼしき下の病で離縁となり、難波から流されてきてここへやってきたなどという話も伝わっています。
 これはどういうことを意味しているのかなのですが、もともと住吉神は伊豆大神=天照大神荒魂神と対の神であることが考えられ、それが(下の病で)離縁となるわけですから、真面目にいえば、住吉神のヤマト化による、天照大神荒魂神との対なる関係の齟齬→離反といったことが寓意されているとみることもできます。
 この謎の姫は、16歳で住吉神に嫁いだ、天照大神の六女といったことがあとから語られたりしますけど、これは真に受ける話ではありません。
 この伝承について、もう少しやわらかく揶揄することもできます。第一、16歳の姫が嫁いで性病となって離縁じゃ、これはどう考えても、そういった下の病をうつしたのは住吉神のほうで、この姫がその病ゆえに住吉神から離縁されたとなれば、もう筋違いもいいところの話なのです。別に義憤を語りたいわけではないのですが、人々の自然な感情としては、住吉神よりも、この流浪の姫のほうへ加担したくなるというものでしょう。
 地元の漁師さんの何人かに聞いてみて「ふうん」とおもったことがあります。それは、この淡嶋神社よりも、同社摂社とされる「春日神社」のほうが地主神だという意見でした。この紀氏の土地で春日神を地主神と見ている?──とそのときはおもったのですが、あとで調べてみると、ここはもともと、日前・国懸神の神体となる神宝を有していたところで、鎌倉時代に、春日四神のうちの三神(天児屋根、武甕槌、経津主)がここの主神となったようなのです。いわゆる「日前さん」が、この春日神社の前の神であった可能性もあり、そのことが、漁師さんたちに、まさに「氏神」さんと語らせたのでした。それと、この春日神社には、なぜか、あの残りの一神である「比売大神」は含まれていません。本殿主神の座には、これら春日三神が座り、その配祀神として、天照皇大御神と住吉神がペアでまつられています。
 淡嶋神社には、住吉神と無縁となった謎の姫神の伝承があり、本来の地主神とおもわれている「春日神社」には、脇神ながら、天照皇大御神と住吉神がまつられているわけです。
 淡嶋・淡島という名は、少なくともこの加太の淡嶋神社においては、もとは神島でしたから、淡嶋明神というより神島明神というべきでしょう。神島が淡島化されたのは、日本書紀の記述──つまり、少彦名命が大己貴の国づくりを中途で放棄して去っていく場面「少彦名命が、出雲の熊野の岬に行かれて、ついに常世に去られた。また粟島にいって、粟茎[あわがら]によじ上られ、弾かれて常世郷[とこよのくに]に行かれたともいう」(宇治谷孟訳)──この「粟島」に付会したものとおもいます。書紀はどこの「粟島」とは述べていませんので、これは強引な淡島化だったかもしれません。
 和歌山の淡嶋神社には、住吉神と対となる女神は祭神としては出てきませんけど、ここには住吉神と強い関係にありながら<離縁>された神の伝承があること、そして雛流しという祓いの神事をもっていること、そして、神島が淡島化されたこと──これらは、ここも、なにか大事な神を隠していることを示しているように感じられます。少彦名命はそれを隠す方便の神である可能性がとても高いだろうという気がしています。
 福岡市の住吉神社境内社の「少彦名神社」の異名に「淡島さま」とあるのは、やはりこの和歌山の淡嶋神社との関係が考えられそうです。わたしがみた神島と隣の島(友ヶ島)は、まさに海峡の島で、淡島か粟島か神島かといった名称にこだわらなければ、ただ島神、それも、この流れの速い海峡を渡るときに、きっと守護を祈りたくなるような島の神がそこにまつられていただろうという印象です。
 それと、この神島の隣の友ヶ島は、役小角が岩穴で修行したところでもあり、その聖地性は特別なところだったことが考えられます。今はこれ以上のことは憶測になりますのでいえませんけど、淡島神はやはりこれも大事な神を秘めていることだけはいえそうです。

390 「伊豆」を穂の国から考える ピンクのトカゲ 2002/06/06 08:44

風琳堂主人が指摘するまでもなく、記紀神話では、事代主は、「国譲り」において、すでに「美保の地」で亡くなっています。
事代主/大山祇=三島明神の等式は、成り立たないということになりますが、地名(地域)としての伊豆と事代主の接点として、終焉の地・「美保」から一つの考察ができるのではないかと思います。
オオクニヌシが、ヤマトに征服され、領土委譲を強要された王の総称であるように、コトシロヌシもまた領土委譲にあたり、和睦派の総称と見ることができます。
山陰の「美保」の地と駿河湾に面した伊豆、この伊豆の地のヤマトによる征服譚を、記紀は、ヤマトタケルの東征として語ります。
ヤマトタケル神話で一つのクライマックスが、焼津―草薙逸話ですが、この焼津の程近くに羽衣伝承で有名な「三保の松原」があります。
ヤマトタケルの東征は、実は、ヤマトタケルの東国追放であり、三島神の東漸もそれに伴う彦狭嶋―伊予皇子の東国追放である旨は、拙稿第一話拾遺八及び九で触れています。
ヤマトタケルの東国追放は、崇神―垂仁期の出来事であり、ヤマトが隣国の近江及び丹波征服に伴うものです。
象徴としての国譲りは、イズモのオオクニヌシという総称にたくされていますが、実際の国譲りは、崇神―垂仁によるものであったわけです。
羽衣伝承―天女伝説もこの丹波―近江に端を発するわけで、「三保」の羽衣伝承も丹波―近江から伝播したものと考えることができます。
丹波―近江は、神話の世界でイズモと総称され、征服され、追放された。その追放先が、伊豆であったことを「三保」の羽衣伝承は伝えているのではと思います。
穂国=東三河は、丹波の征服→丹波道主家の処分→朝廷別王の穂国追放である旨は、拙稿第一話のテーマでもあるわけです。
出雲神社の女神「出雲大天女」の氏子地・柑子の隣村・行明には、羽衣伝承が残っています。
また、古来、大河はおしなべて「大井」と呼ばれていたということになれば、当然豊川も「大井」と呼ばれていた可能性があります。
因みに出雲神社の氏子地・柑子の三大姓は、大井、北川、山本であることを付け加えておく。

391 飯盛長者 ピンクのトカゲ 2002/06/06 12:01

御津山の南中腹に鎮座する御津神社別宮・岩畳(いしだたみ)神社の東二〇〇bほどのところには、国分尼寺と号したと伝えられる灯明山龍光寺がある。
創立は、天平年中(七二九〜七四八)、開基は、飯盛長者、開山は、行基菩薩と伝えられる。
龍光寺は、御津町大字広石字御津山の浄土宗大恩寺(御津神社の南500b)の末寺で江戸時代の記録には、泙野(なぎの)村龍光寺とある。
寺号の由来は、むかし龍神が寺の杉に献灯し、不滅の光を保ったことからとする。
飯盛長者については、奈良時代、御津山南麓の龍光寺沢に何不自由なく暮らしていたが、最愛の一子をなくし、それ以後、戸外から夜毎幼児の泣き声が聞こえた。それは紛れもなく我が子の泣き声であり、それ以来、飯盛長者夫婦は、泣いて暮らした(泣野→泙野=地名由来譚)。諸国行脚していた行基菩薩が、通りかかり、その悲しみを見るに忍びず、観音像を刻み長者に与えた。長者は、近くに龍光寺を建て、観音像を祀り、我が子の菩提を弔ったとの伝承が残る。
飯盛長者が葬られた塚は、泙野神社の西200bほどのところにあり、「ゆきもり」と呼ばれる。
一方、飯盛長者の妻は紫と呼ばれ、その塚は、飯盛長者の塚からほぼ一キロ真南に下ったところにあり、紫塚と呼ばれ、故意に触ると祟りがあるといわれる。
雨の降りそうな夜には、「ゆきもり」から「紫塚」まで赤い提灯ほどの光が消えては光りながら、海岸付近まで行ったという。
岩畳神社は、御津神社の別宮とされるが、泙野神社の背後に位置し、ちょうど、泙野神社の奥宮のように鎮座している(御津神社は、御津山の北麓の御津町大字広石字祓田に鎮座)。
泙野神社、祭神は、豊玉姫命、神社の杉に龍灯が輝いていたとの伝説から明治以前は、龍天王社と呼ばれた。
岩畳神社は、泙野神社の奥宮のように鎮座しており、事実、泙野と関係が深い。
寛延二(一七四九)年の泙野の祭礼帳によれば、荒神様と稲荷様の祭礼が途絶えていることに稲荷様が立腹し、新屋敷西組の七之助の倅に憑依し「以前は、祭礼も行われ供物もあったが今はそれも行われず遺憾である」との神託があったことから祭礼が再行されたという。
『神社を中心としたる宝飯郡史』は、岩畳神社の祭神を荒御魂とするが、岩畳神社の祭神については、石畳様とも荒神様といわれており、江戸時代には、祭礼も途絶えていた。
泙野の祭礼帳にいう荒神様とは、岩畳神社の祭神をいう。
この神託以来、御津神社の祭礼の日に、七之助の子孫が、生烏賊を供えるのが慣わしになったという。
御津神社の祭礼は、神饌として烏賊を供えたことから別名・烏賊祭りと呼ばれる。
烏賊祭りの謂れは、大己貴命が伊勢からこの地に着いたとき、大塚(蒲郡市大塚町)の漁師が採れたての烏賊を献じたことから始まったとされる。
伝承によれば、御津神社の祭神・大己貴命は、御舳玉大神(みへたまのおおかみ=住吉大神)、磯宮楫取大神(いそみやかじとりのおおかみ=綿津見命)、船津大神(猿田彦)を従え、御津町大字広石字船津に着いたとされる(船津は、現在は、御津神社内に鎮座している船津神社の旧鎮座地)。
追伸:国分寺の鐘で書き忘れたが、御津町大字金野字桧河津の金谷山松沢寺(最近になって眺楓山と山号を改称)の池には、水天宮の祠があり、寺の裏の墓地には、枝張:東西一八b、南北一〇b、根回:七b弱の山桜の老木がある。

392 羽衣をとられた天女 風琳堂主人 2002/06/06 15:40

 天女はなぜ「羽衣」をとられるのか。
 この天女を、たとえば「天の水姫」が地上に降り立ったイメージとして想定してみます。
 天女は、まず水浴という行為をします。そして脱いだ衣をかけておくのは「松」。しかし、その水浴の最中に「羽衣」をとられ、天へ帰れなくなり、地上に留まるも、ある時期がくると、その衣をみつけ、あるいは取り返し、天へ帰っていくというパターン化された筋立てが、天の羽衣物語の定型で、これは全国的なものです(遠野にもあります)。
 天女の水浴の行為は、「禊ぎ」の行為とみることができます。これを「のぞく」ことは禁忌行為で、そのようにのぞかれた時点で、天女はただの美しい娘と化します。
 ここで、天女にとって「羽衣」とはなにかと考えますと、天界と地界を自由に往来できる、いわば魔法の翼なのですが、これは、水神と白馬の関係に重ねることができます。白馬あってこそ水神は自由な行為・移動が可能なわけです。
 天女はその大事な「羽衣」をとられて「泣く」わけですが、この泣く行為が比喩するものとは雨降りかとおもいます。水神に本来の白馬を奉納すれば、水神は気をよくして「雨」を止めます。また、反対に、黒馬を奉納すれば、白馬の神馬性が剥奪されたことと一緒で、水神は嘆くか怒るわけで、それが「雨」を降らせる、つまり「祈雨」となります(新城市石座神社の「木像神馬」の話とも重なるものでしょう)。
 天女はなぜ脱いだ衣を「松」にかけるのか──を考えますと、これは「松」に象徴される竜神(男神)に気を許している行為とみることができます。
 この羽衣伝説で、去られた「男」は、ときに地界を捨てて、去った天女を追いかけることもします。この話の先には、七夕話がみえるようですが、本来、この天女を追いかけたのは「松」に象徴される男神の竜神だったろうとおもいます。
 丹波(丹後)の籠神社の羽衣伝説の天女は豊受神とされます。しかし、籠神社の奥宮には、豊受大神、天照大神、天水分神がまつられ、ここも三神化がなされていてまぎらわしいのですが、ここに天の水姫=天水分神がまつられていることは見落とすことができません。
 元伊勢・籠神社の「籠」は「この」と読ませているようですが、とすれば、養蚕の郷=丹波の地の特質からも、「この」は蚕=「こ」と関わっていることが考えられます。また、桓武=平安時代においてですが、養蚕の先進地としては、丹波のほかに、伊勢、三河、近江、相模などが挙げられています。天女の「羽衣」の素材を考えれば、これも養蚕→絹→機織という関連が考えられるかとおもいます。
 そして、この養蚕→機織の行為は織姫へとも展開するはずでしょう。しかも、この天女が水神であることに重きをおくなら、まさに「天水分神」となります。その意味でいえば、籠神社の「籠」は「こもり」=「水分」の意をも含んでいることになります。「水分」は「みくまり」と読み、この音の変化は「みこもり」ともなりますから。籠神社は、養蚕神と水神を二重化している神の社、社名だということができます。ちなみに、この「みくまり」→「みこもり」は、その音[おん]から、さらに子守神・子安神へとも転じていきます。
 天の羽衣の話は、基本の部分に、「雨乞い」の行為・信心がみられるようにおもいます。

393 大國魂神社 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/06/06 22:25

ご主人、このごろの快走ぶりには圧倒されてしまいます。
心わくわくと読んでいます。
ご主人、気になっている大國魂神社にまた行ってきました。なんだか、今までと風景までが違って見えます。

まだまだ、いろんな角度から見てみたいなぁなんて思っています。

武蔵府中大國魂神社

大己貴命はこの小野郷に始めて出現した折に、一夜の宿をこうたそうな。
農家の岡野の家ではそれを断ったそうな。
ところが野口の家では、おかみさんがお産であったので、
穢れが多いからと一度はことわったものの、
かまわないからとの大己貴命の言葉に
一夜を過ごしてもらったそうな....

その後、暗闇祭りと云われる祭礼ではこの野口の仮家へ行くことが大切な神事とされてきた。真夜中に神輿が250m先の御旅所に着くとそこでの神事を行い、その後、神主と禰宜とが近くの野口の仮屋に行くそうな。
禰宜さんは一人先に本殿へと帰るとか....
野口の仮屋では腹を膨らませた妻女が、接待するのが慣わしだった云われる。
とにかく、お祭りにはこの神輿の御旅所での神事と野口の仮屋での神事が大切なものとして伝えられている。
また、今も岡野の家ではこの時,戸をしっかりと閉ざして過ごす。
これも、古の故事に習うといわれている。神事の一つである。

大國魂神社には随神門があります。
この随神門には江戸時代には、櫛岩間戸命,豊岩間戸命の2神の木像が安置されていたといいます。

「新編武蔵風土記記稿」多摩郡の条には、養沢村に門客人(あらはばき)明神社があると記されていて、ここでは門客人をあらはばきと読ませています。
祭神は櫛岩間戸命,豊岩間戸命でこの2神は古事記に「御門(みかど)の神」とあり「御門祭の祝詞」には「四方内外の御門に、ゆつ盤むらの如く寒(さや)まりまして」とあるそうです。この二神が石神さまであり、なお外からの邪霊の進入を防ぐ神としてミシャグチのことであり寒の神であるとは柳田国男が「石神問答」で云っていることです。
門客人はまろう人、地方を巡回する神を髣髴とさせますが、一方、客人社とはもともとの産土の神を,後来の神にその地位を奪われ、主客転倒させられ客人扱いされたものとも思われます。

随身門の手前左手には安産の神として、宮之盗_社が鎮座しています
江戸名所図会には、宮之姫神社と書かれているのが現在の宮之盗_社です。
祭神は天鈿目命とされています。

この宮之盗_社の祭神は以前は、須勢理比刀E奇稲田比刀E木花咲耶比唐フ三神を
祀っていました。その当時の祭神の三后妃として(素戔鳴命・大己貴命・瓊瓊杵命)祀られていたようです。

この小さな姫宮は大國魂神社の大祭の時には、神輿がここで歩みを止めて、神主は御幣を捧げます。
それから神輿は動き出したとか。

大國魂神社の傍は今でも発掘作業が行われています。
武蔵総社六所明神の付近の発掘作業では、どうも二つの神社が存在したようです。
六所は当然蝦夷を討とうとした大化の改新(645)以後の時代に出来たものといわれています。
古式の神社跡や慶長図には総社としての神社と六所明神は別々にあったことを示しています。
菊池山哉氏はこの六所明神に取り込まれた神社は西向きに建てられた総社ではなかったかとされています。
そして、小さく小さく残されたのが摂社としての宮之盗_社です。
六所明神の力が強くなり総社が六所に侵食されてとうとう、六所が総社を名乗るようになったようです。

武蔵国造兄多毛比は志賀高穴穂朝世、出雲の臣の祖、名二井之宇化迦諸忍之神狭之命十世孫。
成務天皇(異称 稚足彦尊 わかたらしひこ )(即位131〜190)の時代に定められたとします。
国造は代々世襲だったとか....
その後国司が定められたのが、考徳天皇の時代、大化改新(645)後に国府が置かれ、
この府中にも任命された国司が来て神社の守りをしたとされます。
国司が見回らなくてはならなかったのが、武蔵の国中の神社です。
全部を周る手間を省くため、ずべての武蔵の国の神々を集め祭ったとされるのが国内諸神です。
最初の国司はわからないけれど、大宝3年に引田朝臣叔父が来たとされ、その後当麻真人桜井、大神朝臣狛麿
とうとう任命されたと記されます。
この国府が置かれ国司が来た時代に総社として大國魂神社は定められ、そして延暦13年(801)に田村麻呂が蝦夷を攻め込んだのでその間に六所明神が蝦夷征伐の為に定められたと考えられています。

さてこの、宮之盗_社
この宮之盗_社の創建は景行41年(111)。六所が定められる500年前、本殿の神と由緒は同じころの創建と言われています。

武蔵総社六所明神が祭られる前の神様がこの宮之盗_社となるわけです。
宮之盗_社の姫神は大國魂大神の祭神の后妃とも云われています。
としたならば、六所が出来る前のこの地にあった神の后妃を祀ったものではないかと思うのです。
大正時代の猿渡神主は、六所に吸収されたこの姫宮は当然本殿の祭神のお后のはずとも、母神との口伝も伝えます。
宮之盗_社がこの地で大事な神様であったことは、神社の祭礼において度々相嘗されたともされ、武蔵の多くの神社が集まって奉納されてきたという青袖杉舞の神楽が、今でも七月の12・3日に行われることでもわかります。

7月12日の深夜、武蔵の宮々から集まった神主さんたちは青袖の服を着て杉をかざして舞神楽を夜通し奉納したといいます。
それが、江戸時代に六所明神から来るようにとのお達しに、武州の北野神社は行くいわれはないとはねつけます。
享保2年(1717)のこと、寺社奉行の裁定が入り、武州の北野神社は六所に行く理由はないと認められます。
これは古来、青袖杉舞の神楽に行っていたのは自分の勝手で行くいたのであり、六所明神の言いつけで行ったのではないとの争いなのです。総社がなくなり六所に吸収されたころの話でしょうか?
それ以後、武蔵総社六社宮には、武蔵の宮々は来なくなり、以後は人を頼んでこの舞を続けているとか....

だんだんに小さくされていった宮之唐ウまは今は境内にひっそりとたたずんでいます。

さて、この姫宮は安産の神ともされますが、大國魂神社の七不思議に大銀杏の蜷会(にながい)のこんな話が残っています。

「本殿裏に樹齢およそ1000年と伝えられる銀杏の大木がありますが、
かつてこの大銀杏の根元には、蜷貝が生息していて、産婦の乳がでないときに、
この蜷貝をせんじて飲むと乳の出が良くなると言われました」
また、このご神木には沢山の古釘が見つかったといわれます。
母を守りながらもたたり神としての側面もご神木は示しています。

いま、本殿の祭神を見るならば、大正時代に猿渡氏が書いた「武蔵国府名蹟誌」には
御霊大神は「古老の伝説に下女郎ともいい手、本宮大國魂大神の妃神なる由伝ふれど、今確証なければ、之を詳にすること能ず。」
と書かれています。

古玉川のすぐ傍に祀られた主祭神の一柱、御霊大神が妃神ならば、素戔鳴命とも伊弉諾命のとも言われたこの神は
瀬織津姫ではないだろうか....

とすれば、大国魂大神とは天照大神とはなりはしないだろうか...

394 龍神 カヤナルミ 2002/06/06 23:24

風琳堂ご主人
先日、熊本にて、父と龍の地名についての雑談をしていました。熊本市には龍田町、龍神橋、立田山(昔は龍田山、もしくは龍山と呼ばれたのかもしれない)があります。地図上では、立田山のそばの白川は龍のようにも見えます。二人の雑談を聞いていた母が、思い出したように黒っぽい箱を持って来ました。先祖代々受け継がれてきたものらしい。母は何度か中身を見たことがあるらしく、気味悪がって仏壇の奥に保管していたとのことです。(父と私ははじめて見た)箱には扉があり、それを開けると、右手には男神、左手には女神の人形が入っており、龍の顔の冠をかぶっていました。左手は手を合わせるような感じで手を立てており、右手には金色の玉を手の平に乗せていました。
服装から、中国や琉球の衣装にも見えます。勝手な想像ですが、竜宮城の王と王妃にも見えました。

395 龍神=龍王と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/06/08 02:26

 サクラさん、大国魂神と宮之盗_/御霊神が対の関係にある伝承はとても貴重なもので、感覚的にはもう謎は9割がた解けた気がします。おそらく、サクラさんが書かれたように、大国魂神は天照大神(の男神)であり、宮之盗_/御霊神は瀬織津姫だとおもいます。
 伊勢神宮の元宮ともいうべき伊雑宮には瀬織津姫がまつられていたはずだということを9割以上確信していたときに、それでも「断定」するにはやはり決定的な事例がほしいなとおもって、よく伊勢・志摩を歩いたことをおもいだしました。まったく幸運だったのでしょう、磯部町の郷土資料館の方から、「出てきましたヨ」と連絡をもらったときは、ほかのことは全部ほかっておいて飛んでいきました。その史料=文書は、たぶん江戸時代の、伊雑宮の御師[おし/おんし]、つまり今でいうと、伊雑宮の神様の宣伝マンみたいなことをしていた西岡家に伝わる文書で、そこには、中世時代に伊雑宮の祭神とされていた「玉柱屋姫命」は「瀬織津姫と同体」であると書かれていました。いくら確信していても、それは高い可能性をもつとはいえ「仮説」でしたから、この文書の発見と提供は、とても大きな意味をもっていました。その後、伊勢内宮の奥の院といわれる朝熊[あさま]神社が、一対の神まつりを実際しているのかどうかを確認したことなどと合わせて、瀬織津姫は伊勢の元神(の一神)である、と「断言」することを、自分に許していいのだとおもえたのでした。
 こういった決定的な史料は、神社関係からは、そう簡単に出てくるものではありません。しかし、国家や、ときの祭祀権力者たちの眼をくぐって保存されている<史料>が皆無ということはないとおもいます。いつか、宮之盗_をご先祖がおまつりしていて、そこの家ではあたりまえのように「瀬織津姫」として伝えられている──、といったことが、やはりありうるだろうとおもっています。それまでは、9割の確証・心証を、9.9割の確証にまでもっていく「傍証」を集積しておくということかもしれません。

 カヤナルミさん、お家にはスゴイものが伝わっているようでびっくりしました。その龍の一対神は、お話の「龍の顔の冠」や「玉」をもっている姿などから、おそらく龍王の一対神、正確にいえば、「八大龍王」と「善女龍王」の像かなとおもいました。
 これは、三河の大己貴神荒魂=岩畳神社の里宮かもしれない泙野[なぎの]神社=龍天王社の神でもありましょう。
 伊勢内宮の奥の院とされる朝熊[あさま]山の山頂には、その名も朝熊神社奥宮がまつられていましたが、明治時代に、この社は焼失してしまいました。同じように朝熊神社が再建されたかというと、こともあろうに、再建後は「八大龍王社」という社名で現在に至っています。
 朝熊神は一対の神で構成され、両神もまた伊勢の元神でした。そういった元神たちが、この伊勢・志摩の地では「八大龍王」と呼ばれているわけです。
 これら先住の神々を仏教の守護神たちによって「習合」させた最初の人間は、天武・持統と関わりのあった、吉野の役小角でした。彼は、この八大龍王を、現在確認できるところでは、吉野天川村の龍泉寺と、秩父・今宮神社にまつることをしています。
 小角のあとを追認した僧が空海でしたが、彼が雨乞いの祈祷をしているときに出現したというのが、いわゆる善女龍王でした(これは、国宝「善女龍王図」として高野山金剛峯寺に存在します)。
 八大龍王というのは、仏教の守護神を総称した「天竜八部衆」のなかの「龍」の部にはいる龍王たちをさしますが、日本においては、ただ龍王とよばれることが多いようです。この八大龍王は、法華経あるいは観音の守護神ともいわれています。ちなみに「天」の部には、毘沙門天とか弁才天などの「〜天」という神がいます。
 ここでこの八種類の龍王たちを説明するのは煩雑なので略しますけど、ただ、この八王のなかに、海洋の主という性格をもつ「難陀[ナンダ]龍王」、天海にいる雨乞いの本尊といわれる「娑伽羅[しゃがら]龍王」、あるいは水中に住む九頭竜とされる「和修吉[ワシュキツ]龍王」といった性格の龍王がいることだけは指摘しておきます。なお、空海が念出した「善女龍王」なる王は、この「八大龍王」には含まれておらず、これは空海オリジナルの作かとおもいます。
 三河で、「国分尼寺」の号をもつ寺が、泙野神社=龍天王社の近くにある「灯明山・龍光寺」だそうですが、この龍光寺の本家=本寺かどうかはわかりませんけど、同名の寺が四国にあります。それは、「四国霊場の総鎮守」の寺とされる龍光寺です(北宇和郡三間町)。この寺の開基は、もちろん空海=弘法大師です。
 神と仏がどのように「習合」されるかという見本のような話が、この龍光寺の開基伝承にみえますので、関係ホームページから少し引用してみます。

■稲荷山龍光寺
四国霊場第41番
本尊:十一面観世音菩薩(伝 弘法大師作)
開基:弘法大師。宗派・真言宗御室派
(寺伝)
 大同二年(=807年)この地を来錫していた弘法大師は、稲を背負った老人と遭った。老人は「われこの地に住み、仏法を守護し庶民に利益せん」と言って姿を消した。大師は仏法流布を誓いし老人こそこれ五穀大明神の化身ならんと尊像の十一面観世音菩薩を、さらに脇士に不動明王、毘沙門天を刻み堂宇を建立して安置し、稲荷山龍光寺と名付け四国霊場鎮守の寺として開創し、四国霊場第41番札所と定められた。

 ここに出てくる「五穀大明神」は稲荷神らしく、それが「稲荷山龍光寺」の「稲荷山」に反映しています。空海=弘法大師にとって、稲荷神は「仏法流布を誓」う神、つまり仏法の守護神とみなされています。稲荷神は、先住の神々の鎮魂神・総称神であることを、空海ほどの人間が知らなかったはずはないとおもわれます。この龍光寺において、守護される「仏法」を体現している仏が「十一面観世音菩薩」であることは重要です。また、この十一面観音を「脇」から守護する神(仏)として、不動明王、毘沙門天が配されていることも大事な構成かとおもいます。
 早池峰─遠野郷において、瀬織津姫の「本地仏」は十一面観音であり、また、瀬織津姫は、その滝場においては不動明王と一体化されていました。しかし、遠野=東北においては、毘沙門天は、エミシ降伏の祈願神としてやってきましたから(岩手県東和町の毘沙門天立像が代表)、それが理由かとおもいますが、十一面観音の守護神としては、この毘沙門天は除外されることになります。このあたりに、十一面観音の背後の神を視る遠野と空海の<違い>があるのかもしれません(断っておきますが、遠野において、毘沙門天がまつられていないというのではありません。十一面観音の守護神としてはまつられていない、ということです)。
 各地を歩きますと、祭神・瀬織津姫を守護するようになぜか稲荷神がまつられているケースが散見され(三河足助の天白社ほか)、ずうっと気になっていましたが、この龍光寺の神仏の配置に、それはよく表れていたというべきかもしれません。
 ところで、秩父・今宮神社の八大龍王神は、「観音から慈悲の心(宝珠=玉)をいただいた神」ともされています。この「観音」から授けられた「玉」が、いわゆる観音の「心」なのだそうです。もし、この観音が、十一面観音だとしますと、この「玉」は、まさに十一面観音の「心」というべき瀬織津姫の精霊化、つまり<宝珠=玉>化したものとみることができます。日本人の観音信仰は根深いものですが、その原点あるいは原像の神とはなにかということと関わるかとおもいます。
 不動尊、そして水神の化身としての桜が一体となったものが、福島県三春町の「滝桜」でしたが、この日本三大桜の一つとされる三春滝桜の、その「親桜」は、明治に枯れてしまいましたが、三春・龍光寺桜でした。この三春の地に、いかに瀬織津姫という滝神=水神の影が濃く投影されているかはくりかえしませんが(「三春滝桜と瀬織津姫」参照)、ここにも第三の龍光寺の名がみえるというのは、どうも偶然のことではないのかもしれません。
 龍の起源を、中国→インド→シュメールと遡ってみることは可能ですが、ここでは、伊勢の元神たちが龍王に化身する=化身させられるということに、もう少しこだわってみたいとおもいます。日本人は、滝とか龍がなぜか「好き」です。その理由を語ろうとすれば、人それぞれの「言葉」があるかとおもいます。わたしの「言葉」では、それは、日本人が「水の民」の記憶を、それこそDNAのように、感性の底深くに記憶しているからではないか──となります。
 さて、龍・龍王と瀬織津姫──の話です
 八大龍王の三王の性格を先に述べましたけど、あらためて書き出してみます。

@ 海洋の主という性格をもつ「難陀[ナンダ]龍王」。
A 天海にいる、雨乞いの本尊といわれる「娑伽羅[しゃがら]龍王」。
B あるいは水中に住む、九頭竜とされる「和修吉[ワシュキツ]龍王」。

 白山の神=白山比唐フ「本地仏」も十一面観音で、ときに、この女神は九頭竜権現などとよばれますので、ここに書き出してみました(B)。白山の女神もまた瀬織津姫である可能性がとても高いことについては、瀬織津姫を白山から勧請したとする神社(尾張・黒田神社)があることを指摘するに留めます。
 ここでは、八大龍王の象徴的な性格である@とAに絞って考えてみます。
 宇佐八幡の比淘蜷_をどんな神とみるかという多くの「説」のなかに、「肥前一之宮の河上大明神」という説がありました。この「河上大明神」という水神は、風土記では「荒ぶる神」とされ、その名は「世田姫」とされていました。該当する、風土記=肥前国風土記の「佐賀」のところを再読してみます。

■佐嘉の郡(後半)
 また、この川(佐嘉川)の川上に石神がある。名を世田姫[よたひめ]という。海の神が毎年毎年流れに逆らって潜り上ってこの神のもとに来る。海の底の小魚が沢山従って上る。その魚をおそれかしこむ人にはわざわいがないが、またその反対に、人がこれを捕って食ったりすると死ぬことがある。すべてこの魚どもは二、三日とどまっていて、また海に還る。

 ここには、世田姫=水神のところへ通ってくるのは「海の神」と「小魚」だとされています。
 河上大明神=淀姫の元名である、この世田姫は、「海の神」ではなく、「海の神」に通われる存在だということが読めるわけです。佐賀の河上神を勧請した紀州熊野・田辺の川上神は瀬織津姫でした。瀬織津姫を、戦後初めて、本気で追跡しようとした人は、内海邦彦さんでした。内海さんは『わが悠遠の瀬織津比刀xという本(講談社刊、現在絶版)で、瀬織津姫のことを「縄文の姫神」というようにみていました。
 この佐賀の風土記の記述を読みますと、「荒ぶる神」とされた世田姫という水神は、天孫族の前の「海の神」によって通われる女神であり、つまり、海神に対して先住の女神とみえますので、世田姫もまた「縄文の姫神」に該当するとみることができそうです。その世田姫→淀姫=河上大明神が瀬織津姫と同神ですので、内海さんが、瀬織津姫を「縄文の姫神」と呼称していたことは、なるほど妥当だったとあらためておもえるわけです。
 この風土記の記述から読み取れることを、八大龍王の性格にあてはめてみますと、@の「海の主」は風土記における「海の神」であり、Aの「天海」の「雨乞いの本尊」は、風土記における水神=河上大明神=世田姫とみることも可能でしょう。
 伊勢において、先住の日神(@)と水神(A)は、一体・混然となって八大龍王という新しい神、しかも仏教=仏法の守護神とされたのでした。
 空海が神泉苑で雨乞いの祈祷をどんな神に祈ったかといいますと、これが、この八大龍王でした。正確にいえば、八大竜王のAの龍王というべきかもしれませんが、当時、それを読み取った宮中人は、おそらく一握りもいたかどうか──だったことが想像されます。
 空海は、のちに、このAの雨乞いの龍王を、特に「善女龍王」として独立させます。彼は、この雨乞いの龍王に、雨乞いの女神=瀬織津姫を「感じて」いたはずで、そのことが、まさに「十一面観音」を「本地仏」として造像させた理由だったのかもしれません。
 むろん、空海の前に、白山の女神の「本地仏」を十一面観音とした泰澄がおり、その前には、琵琶湖の水神を弁天化した行基がおり、さらにその前には、那智の滝神を不動明王とし、天川の水神を弁天化した役小角がいました。「西国三十三ヶ所観音霊場」の「第一番札所」とされたのは、那智・青岸渡寺[せいがんとじ]でしたが、ここの本尊もまた十一面観音でした。
 空海たちにとって、十一面観音は、「縄文の姫神」=瀬織津姫に対する、鎮魂供養の「仏」であったことも考えられます。瀬織津姫の名は出せないが、せめて十一面観音として、最大の加護を願うという気持ちだったのかもしれません。しかし、こういった瀬織津姫隠しを是認したものこそ、ヤマトの祭祀権力の中枢にいた中臣=藤原の祭祀思想でした。
 熊野・那智の修験者たちにとって、「修験」の現場=滝場における守護神は不動明王でしたが、その「本地」の神を瀬織津姫として伝えるのが、ここ「遠野」ということになります。
 なお、このような神仏習合の元祖は、やはり役小角というべきでしょう。彼は、乱れた世と荒廃する人心を救抜する「新しい神」を祈りだしたとされますが、その最初の思念に登場したのが、いわゆる天川=天河の弁才天でした。こんなやさしい表情の女神では、とてもこの悪世を救えないということで、念出のやりなおしをして誕生したのが金剛蔵王権現で、彼がこの権現を彫った木が「桜」であることにも注意しておく必要がありそうです。
 このような神仏習合を奨励する中臣=藤原の祭祀思想が、露骨に復活するのが「明治」でした。まさに「王政復古の大号令」→「神仏分離」によって、それまで「仏」と一体となっていた、隠されていた「神」が露出してきたのが「明治」でした。国家が、そういった神を洗い出し、特に瀬織津姫の名を変更するために、神社の由緒書等を「上納」 (埼玉「大里郡神社誌」昭和5年発行)させ、また「没収」(遠野・早池峰神社)したのが「明治」でもありました。
 不動明王や十一面観音などの「仏」たちを分離=否定した明治国家の自己撞着は、狂気じみた瀬織津姫狩りとなり、そのまま一片の反省もなく、「戦後」を迎え、現在を生きています。

396 内海邦彦著『わが悠遠の瀬織津比刀x 風琳堂主人 2002/06/08 08:05

 前の書き込み「龍神=龍王と瀬織津姫」において、内海邦彦さんの『わが悠遠の瀬織津比刀xについて、「講談社刊、現在絶版」と書いてしまいましたが、これは「河出書房新社刊、現在絶版」の誤りでした。
 この本は、瀬織津姫を、もっとも感動的な熱意で追った本です。現在は入手が困難だとおもいますので、ぜひ図書館でご覧いただければ、この囲炉裏夜話の話と深い呼応を感じていただけるかとおもいます。
 なお、著者の内海さんは、この本のあと、謎の白山比唐追って白山を明かそうとされ、その中途で亡くなっています。内海さんは、戦前に内務省=特高から相当の弾圧を経験されている方で、そういった経験が、瀬織津姫→白山比唐追跡する熱意の土壌となっているようにみえます。
 風琳堂の『エミシの国の女神』の前に、内海邦彦『わが悠遠の瀬織津比刀xという本があることを、どうぞ気に留めておいてください。

397 Re:龍神=龍王と瀬織津姫 カヤナルミ改め九州の龍 2002/06/08 13:13

風琳堂ご主人
沢山の貴重な情報ありがとうございます。父や母も喜ぶことでしょう。私自身もさらに『龍神』について調査いたします。

398 龍神とは 山田明子 2002/06/08 16:43

九州の龍神さま
名前がいいですね。私も山田明子改めみづちとしたつもりでしたが,山田明子です。どうぞよろしくお願い致します。

女神の本を購入し、あまりの嬉しさに長時間,たびたび電話をしてしまいました。今でも口をつかう方が楽なので、時々電話をさせていただいております。

昨日の主人との話し
島根県と広島県に伝わる大元神楽は、殺した大蛇の鎮魂のための神事。主人から聞くところによると、大蛇は死んで龍神となり、天に昇った。大元神楽は龍神のために舞うのでしょう。
貴方の家には龍神があるとのこと、由来などお聞かせくだ
さい。出雲には龍蛇「セグロヘビ」と呼ばれている、龍神があります。
出雲大社といえども龍神はなく、龍神をお迎えしなければ,神事がはじまらない大祭もあります。
この地方も,大元神社から藁で編んだ蛇をお迎えしなければ大元神楽の式年祭はできません。
22日から東京。25、26、は岩手の予定です。全国でも珍しい青笹という場所が、遠野にも私の村にもあります。
瀬織津姫は龍神、滝の女神。青笹にも滝、そして瀬織津姫
わ思わせる,祭神は石です。
この地の青笹は山の頂上ですが、岩手の青笹はどんなところでしょうか、楽しみです。

龍神という名がうれしくて、とりとめのない話しになりました.お許しを・・・・

399 龍蛇について 山田明子 2002/06/08 18:55

出雲大社に龍蛇は奉納されており、八百万神の大社入りは、佐太神社の龍蛇神に迎えられる。と思っておりました.訂正してお詫び致します,間違いは指摘していただき、教えていただきたいと思っております.

400 お詫び 山田明子 2002/06/09 09:45

ご主人のごを落としてしまいました。誰の主人のことかと思われたことでしょう、失敗続きで失礼致しました。

401 宝満川 九州の龍 2002/06/09 13:14

山田さん
龍神の人形は初めて見たばかりで、今から調べなければなりません。仏壇の奥に保管されていたままで、家族皆が由来も何も知らないのです。

話は変わりますが、福岡の宝満川沿い、津古という所に『八龍神社』を発見しましたので、今日行ってみます。
下流には、風琳堂ご主人も注目している七夕神社(姫社神社)と老松神社が、宝満川を挟んで存在しています。

宝満川からどんな『宝』が出てくるかこれからが楽しみです。

402 等々力渓谷 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/06/09 15:35

こんにちわ!ご主人。
昨日、東京世田谷区にある瀬織津姫の祀られている神社。
玉川神社と天祖神社、そして等々力渓谷を散策してきました。等々力渓谷は区内には珍しい渓谷の感じを残していてすがすがしい気持ちになりました。沢川のゴルフ橋から下流約1kmは、武蔵野台地が侵食された渓谷となっていて、等々力渓谷と呼ばれます。 谷の深さは約10mもあり、斜面にはケヤキ、シラカシ、ヤマザクラ、カエデ類が茂り湧水も多いですが、 水のせせらぎの音は気持ちのいいものですね

矢沢川からの階段をあがり右手へ下ると弁天堂と弁天池が境内にありました。見晴台からの眺めは良く、春は満開の桜で埋め尽くされる程の絶景だそうです。
玉川神社のそばにある万願寺の別院一名等々力不動の滝場もあり、役の行者の祠や古墳群もありと盛りだくさんな渓谷です。

玉川神社はその等々力渓谷から京急線の駅を反対側にこえたところ目黒通りに沿ってありました。

祭神は
伊弉諾尊(いざなぎみこと)
伊弉冊尊(いざなみみこと)
天照皇大神(あまてらすおおかみ)

 由緒には創建は不詳であるが、御社号を元熊野神社と申し上げて居りましたが、明治四十年に村内に奉祀されておる、神明社、御嶽社、諏訪社の三社を合祀し、同時に地名を採り玉川神社と御改称致しました。

祓社は本殿右手に祀られていました。
境内はきれいに掃き清められ、祓戸社も大事にされているように見えました。

また、天祖神社は玉川警察の裏手にありますが、広い境内は掃き清められていましたが、私には空っぽな空間を感じてしまいました。
本殿左手にある祠は弁天さまの祠
そして、その横に石の台座にのって祭られていたのは大きな鏡餅のような丸い石が一つ。
どなたもいらっしゃらなかったので、この石が祓戸の神とはわからないけれど、
面白い神社でした。
弁天様は真っ白なとぐろを巻いた蛇神様が鎮座なさっていましたよ。

簡単ですがまずはご報告まで....

403 あれっ、間違えました! サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/06/09 15:40

すみません。
玉川神社は京急線ではなく東急大井町線でした。

404 佐太の龍陀が通う神 風琳堂主人 2002/06/09 16:44

 九州の龍さん、石見のみづちさん、名前が自由に変えられるというのは楽しいですね。小生も龍神亭主人とか、瀬織亭主人とかに変えようかなんておもったりしました。
サクラさん、玉川神社は元熊野神社だったのですか。瀬織津姫は、元熊野神(の一神)でもありますから、なるほどというところです。今回は、白蛇と黒蛇に象徴される龍神様の話になりそうです。

 三河の泙野[なぎの]神社=龍天王社の祭神は「豊玉姫命」だそうで、この祭神名にしましても、記紀の創作神話に惑わされなければ、肥前国の河上大明神=淀姫の異名として風土記逸文が指摘していた、豊姫のヴァリエーションの名だとみることができます。
 また、近江雅和さんの指摘では、宇佐八幡の比売大神と安芸国の厳島神は、ともに「おおもとさん」と呼ばれているようです。この「おおもとさん」→大元さんを、そのまま社名にしたのが大元神社で、これは石見国ほかによく見られます。宇佐八幡の「おおもとさん」のルーツをまるで消すかのように、大元神社となりますと、その祭神は、国常立尊または天之御中主神などとなります。
 記紀におけるトップバッターのような神様で見落としがちですが、「国常立」というのは、あの肥前国風土記の世田姫=「荒ぶる神」という規定に通ずる名称のようです。つまり、あらゆる国にいつも立っている(立ちはだかっている)「荒ぶる神」だという性格です。伊勢の外宮神の説にこの「国常立」があてられることもあります。また、「天御中主」は、天=海の主神ということで、風土記の話につなげれば、世田姫のところへ通う「海の神」とみることができます。これも、伊勢の天一神=太一神に通じていきます。
 記紀の表現に準じて、大元神を「国常立」「天御中主」のいずれかとするというのは、それなりの畏敬の念があったということでしょう。しかし、「それ以上の名は出すな」という強い規定がなされていることもたしかだとおもいます。
 神に捧げるとはいいつつも、その内容は、記紀の思想の踏襲あるいは讃歌である性格をもっているのが世の「神楽」の大半です(早池峰神楽も例外ではありません)。たとえば、大元神楽にしても、まちがっていたら訂正しますが、大元神に「楽しんでもらう」という内容なのかどうか──ということがあります。当地当地の本来の神を鎮魂・封印するのが世の「神楽」で、本来は自分たちの神様に楽しんでもらうという「神楽」の本義が変容している=変容させられている神楽が多いという気がしています。
 大元神楽の元は佐太神社の「佐陀神能」かとおもいますが、この佐陀→佐太神社の祭神構成が、これまたふるっています。参考までに書き出してみます(『神国島根』島根県神社庁刊)。

■佐太神社
〔通 称〕 神在社(おいみさん)
〔主祭神〕 佐太大神
〔配祀神〕
(中殿) 伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命
(北殿) 天照大神、瓊々杵尊
(南殿) 素盞鳴尊、秘説四座

 だれもが「?」とおもうでしょうが、南殿の「秘説四座」とはどんな神かということがあります。イザナミの命日に全国から神様が集まって鎮魂供養=物忌みするという神事が「神在祭」別名「お忌み祭」で、このときに、神在の浜=江積津の浜辺には、決まって「龍陀」=セグロウミヘビがやってきて、それが神社に奉納され、やがて海へ返されるという祭りの流れがあります。このヘビの出現は「年毎時を変えず」とされ、その不思議=「奇瑞」を「佐太の龍陀」と呼んでいます。
 その神事過程のある種の厳粛さに気をとらわれなければ、「龍陀」は、この神社の神に毎年決まって会いにくるという、七夕神事にも通ずる話といえます。つまり、龍陀は、本来の佐太の神のところへ通ってくるわけで、としますと、佐太大神は、龍陀に「通われる」神だという性格が見えてきます。ここに、肥前国風土記の話を重ねてみますと、佐太の神は、たとえば「世田姫」であってまったくおかしくありません。
 そう考えますと、「秘説四座」の神とはなにかが、あらためてクローズアップされる問いとなります。出雲の知人に神社側に問い合わせてもらったところ、この秘説神については「言えない」とのことで、まったく謎めいています。
 佐賀において、世田姫=淀姫=河上大明神は瀬織津姫の異名でした。また、瀬織津姫は伊豆大神でもあり、この伊豆神が四神で構成されることを示していたのは古事記でした。つまり、伊豆神の分身=分神は「八十禍津日神、大禍津日神/神直毘神、大直毘神」でした。日本の神まつりにおいて、「秘神」とせざるをえない神こそ瀬織津姫でしたから、この佐太神社の「秘説四座」の神は、古事記でいう「伊豆能売」、つまり、宇佐八幡の比売大神につながる伊豆大神=瀬織津姫と考えられます。そして、この比売大神は「おおもとさん」でありますから、この社に大元神楽が発祥していたことは、たしかに根拠があったということになります。
 瀬織津姫は、かつての大忌神(奈良・広瀬神社)であり、また、饒速日=ニギハヤヒの降臨伝承をもつ鳥海山の大物忌神でもあります。佐太の神が「おいみさん」と親しみを込めて呼称されていることを、ここに重ねてもよいでしょう。また、奈良の地では、古事記の伊豆能売を祭神とする式内社がありますが(大和郡山市・菅田比売神社)、ここは「正一位」という極位が付与されるほどの神挌をヤマト側から認められています。瀬織津姫の名は出さないが、最大限厚遇するしかないといった例です。岩手において、滝神=瀬織津姫は「深秘を有する」神でしたが(『邦内郷村誌』)、この「深秘」と、佐太の「秘説」は、おそらく対応しているものとおもいます。
 現在、佐太神社の神在祭=お忌み祭の主役の神はイザナミとされていますけど、もしそのとおりならば、全国の国津神、それも「荒ぶる」国津神たちまでが、この天津神のところへ鎮魂=物忌みに集まることは考えにくいです。かつての「海の神」たちこそが、いわゆる国津神化して全国の産土神となったはずでしょうから、それらの神が信奉する=「通う」、まさに大元の神は、イザナミとは別の神であることが考えられます。
 なお、厳密にいいますと、イザナミは天照大神=アマテラスの母神ではありません。イザナギが、イザナミの死の現場から逃げ帰ってきて「穢れた国に行ってきた」と言って「禊ぎ」をしたときに、伊豆神=広田神=天照大神荒魂や、筒男神=住吉神とともに誕生したのが、天照大神でした。記紀の編纂・創作者は、イザナギに「穢れた」を連発させるのではなく、イザナミの死を丁重に悼む=鎮魂する話を「創作」するくらいのセンスをもっているべきでした。ならば、佐太の地において、イザナミ神を鎮魂=追悼するために、つまりイザナミが「神去」った旧暦10月に、各地から全国津神が集まるという話も、多少はリアルなものとなったでしょうに──とおもいます。
 瀬織津姫は大元神であり、ここに消えた伊豆大神=出雲大天女の痕跡の一つをみることができそうです。

405 八龍神社 九州の龍 2002/06/10 23:13

風琳堂ご主人
八龍神社に行って来ました。宝満川の側、西鉄津古駅のすぐ横にありました。神社裏から入ってしばらくしたら、心地よい風が吹いてきました。鳥栖の姫古曽神社に行った時と同じ感覚の風でした。歓迎のそよ風だったのでしょうか?

本殿はがらんとした感じで、目についたのは色違いの天狗のお面が二つあった事ぐらい。
祭神:彦火々出見尊(日子穂々出見尊)と豊玉姫命
由緒:祭神 彦火々出見尊は、天照大神三代天孫邇々芸命(ニニギノミコト)の御子で別名山幸彦とも云い、神武天皇の祖父に当たる。妻の豊玉姫は海神の姫君である。穂々出見尊の名の由来は、稲穂が多く重なる様を表し、山幸彦も五穀の豊穣を表している。八龍神社の社名は、祭神『豊玉姫が龍神』であり、龍神を八大竜王と云う事から、略して八龍神社となったものであり、創建以来村人の厚い信仰を集め現在に至っている。

本殿横には、若宮八幡社、八龍神社、天照神社、日本武尊、素盞嗚神社と刻まれた石碑とエビスの石像があった。なぜか毘沙門天を祀る祠や、『十一面観世音菩薩』のお堂があった。境内隅には、猿田彦大神と○安神(字が読めない)の石碑あり。神社の外、道路を挟んで、エビスの像が特別に祀ってあった。仏のことはよく知りませんが、十一面観世音菩薩の名が過去の書き込みに出ていましたね。

406 御崎神社 石見のみづち 2002/06/11 00:37

九州の龍さま、ご主人さま、情報有難うございます。
ところで、龍神といえば御崎神社との関連は、どのように考えられるでしょうか。

安来市の五神神社の祭神の一柱は、御崎神となっていますが、お役目は不明とされています。また、大田市三瓶町の御崎神社は龍神まつりがあり、「龍蛇うらない」があるらしい。

美保関町笠浦,島根町野井には龍神祭りがあると聞いている。隠岐島にも御崎神社、御崎神が元禄16ねんの調査時には、10社位見ることが出来た.我が村にある、小さな祠が御崎神社であることを、2、3年前に確認しております。傍に家があるのですが、管理することもなく,朽ちているのは残念です。

4、5年前から親しくしている、大田市五十猛町の林家も龍蛇のある家で、現当主は28代です。
港の東側に「新羅神社」があり、西側に接して龍神をまつる小社がある。そして、出雲では龍蛇を龍神のおつかいだとするのに反し、この地では、新羅の国からのおつかいとして、古来大切に扱っていたそうです。

407 はじめまして。 リョウコ 2002/06/11 16:12

はじめまして。
私もホームページを作りました。
タイトルは未来です。
いろいろなカテゴリーが
ありますので一度、見てください。
http://cwaweb.bai.ne.jp/~forever

408 龍神と杉と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/06/11 18:27

 旧倭国は、記紀にとっては、異界=黄泉国という位置付けをしていたようにおもいます。この黄泉国のはじまりに置かれたのがイザナミで、この女神のいる国=黄泉国を「穢れた国」とし、その穢れの痕跡を禊ぐことによって、つまり清浄なる神として、皇祖神=天照大神(アマテラス)たちを誕生させるわけです。アマテラスと一緒に誕生させられた素盞鳴にしても、けっきょくは「悪い神」としてイザナミ=黄泉国に行くことになります(月神=水神も「悪い神」とされます)。月神は、夜=天界の黄泉国の王とされますが、スサノウは、海=黄泉国の王という位置づけで、この黄泉国王の子神たちが国津神だというわけです。もとより国津神は旧倭国の神々です。スサノウは、なぜ新羅へ行く、あるいは新羅からやってくるとされるのかと考えますと、記紀の創作時代、新羅は、旧倭国の神々がもっとも力をもっていた国だと考えるしかありません。黄泉国の王というスサノウがもし新羅からやってきたというなら、これは、当時のヤマトが、新羅を黄泉国とみていたことを表しています。つまり、「宝物」は欲しいが、忌避したい国ということです。新羅を含む倭国の民とは異質な出自をもつ系が列島へやってきて支配をはじめたとき──それが、倭国が黄泉国となったときだとおもいます。
 日本海側に限りませんけど、御崎神というのは、半島=岬に立って航海を守護する神で、水先神ともいえるわけです。特に夜、海は異界=黄泉国へと変貌します。この異界の神は、海の民にとっては<人間>を守護する神でしたが、記紀の創作者たちにとっては、アマテラスの元神でもあり、その痕跡を消す必要がありました。日本版の龍神の誕生はこのあたりにあるとおもいます。
 岬あるいは浜辺の龍神──それを象徴する木が松ですが、これが松ではなく、杉となる場合もあるようです。
三河の泙野[なぎの]神社=龍天王社は、「神社の杉に龍灯が輝いていた」という不思議な伝承をもっているそうです。ふつうなら「竜灯の松」なのでしょうが、ここは、「松」ならぬ「杉」とされています。松は龍神が宿る象徴の木で、それゆえ「竜灯の松」もサマになるわけですが、では「杉」と龍は関係があるのかと考えてみますと、どうも漠然としていて即答しづらいことがわかります。
 そもそも「竜灯の松」とはなにか、ということもあります。海老名市の関係HPの「昔話」から、まずはその概要をみておきます。

■竜灯の松
 国分に「お観音さま」とも「水堂」ともよばれている清水寺があります。現在は、龍峰寺と一緒になっています。この清水寺の仁王門の前に今から百年ぐらい前まで大きな素晴らしい松がそびえ立っていました。「竜灯の松」と呼ばれたこの松にまつわる話を紹介します。
 清水寺からそれほど遠くない所に目久尻川をせきとめてつくられた滝がありました。この滝に一匹の竜が住んでいました。竜は夜になると清水寺に行き、大きな松の一番高いところに、仏様の教えをしめす明かりをあげて、お観音様につかえていました。村人は、毎夜この松にあがる明かりを見て、喜び、この松を「竜灯の松」と呼んで大切にしました。竜灯とは、竜の灯(あかり)という意味です。
ある年のことです。
 茅ヶ崎の漁師が漁に出たところ、天気が急に変わり大あらしになってしまいました。舟は沖へ沖へと流されていくので、漁師は一生懸命こいで陸地に戻ろうとするのですが、自然の力にはかないません。そのうちとうとう夜になってしまい、どの方向に舟をこいでいったらよいかわからなくなりました。漁師はこぎ疲れて舟の中に倒れてしまいました。
 すると夢の中に、日ごろ信仰していた水堂の観音様がお姿を現され、「わたしがあなたを助けてあげます。この松の明かりを目指して、こいできなさい」と竜灯の松を示しました。ぱっと目をさました漁師は、ありがたい観音様の教えだ、と勇気を振るい起こして、はるか北に見える竜灯の松を目指してこいでゆき、陸地につくことができました。
 今は竜灯の松のあともありませんが、竜灯の松をえがいた大きな絵馬や記念碑が残っています。(HP「海老名むかしばなし」第1集)

 ここには、「水堂の観音様」につかえる「竜」が語られています。この竜が灯す火は「仏様の教えを示す明かり」とされ、とてもおだやかな善なる竜のイメージが伝わってきます。
 この話は、観音の守護神とされる「八大龍王」が民話化されたものというべきかもしれません。「海洋の主」とされる龍は「海の神」であり、この神が「川」を遡上して通うのは「水神」であったことはこれまでにみてきました(「龍神=龍王と瀬織津姫」ほか参照)。
 海の神の末裔であろう「漁師」の遭難を救うのが、水神の化身である観音と海の神=龍が灯した明かりであるということ──、つまり、観音と竜に変化[へんげ]した神への信奉が二重化された象徴物が「竜灯の火」の意味かとおもいます。水神と海神の二神が、日本の「龍神」には一体となって溶け込んでいます。
 早池峰山上では、水神=瀬織津姫は白蛇を使いとしてまつられていますが、瀬織津姫も怒れば途方もない「龍」と化します。また、地上においては、白馬をその使いとしています。あるいは、人の眼にみえる「形」としては、白蛇や白馬と化して現れるということかもしれません。滝神としての瀬織津姫については、これまでに幾度もふれてきましたけど、そもそも「滝」の字は「水」と「竜」の合成字ですから、まさに水神と竜神が一体となったものが「滝」「瀧」です。この合体の様が権現化された、つまり神仏習合化された名称の代表が、那智の滝神=「飛瀧権現」ということになります。
 さて、龍と杉です。
 屋久杉や縄文杉の例をだすまでもありませんが、杉は日本の固有木です。倭の時代には、中国から、杉は「倭木」と呼ばれていました。つまり、倭の代表木とみなされていました。こういった古名をもつ杉ですが、この木の倭国内部の古名は「まき」=真木=槙といいました。
 長寿かつ巨樹の筆頭のような「杉」ですが、その漢字の構成の「つくり」には「水」が含まれています。杉もまた、桜と同様に水神が化身した木である可能性があります(櫻の新字の「桜」も「水の女」を含んでいます。旧字の二つの貝については、おそらく、ここにも「女性」を象徴する意が込められていたとおもいます)。
 このような「杉」そのものをご神体とすることを、社名として、もっとも具体化した神社が「大杉神社」だろうとおもいます。
 岩手県宮古市にも、この「大杉神社」がありますが、この大杉神は、別名「網場様」と呼ばれ、漁業関係者から厚い信奉を得ているようです。なお、祭神は「天之手力雄命」とされます。
 大杉神社の本社所在地は、茨城県桜川村阿波985で、しかし、宮古とはちがって、本社の祭神は「倭大物主櫛玉大神」とされ、配祀神は「大己貴大神、少彦名大神」となっています。三輪山の神を祭神とするということは、宮古の大杉神の祭神と大きく異なりますが、大杉神に限っては「本社」のほうが祭神表示としては正当性があるようです。なぜなら、三輪山の大神[おおみわ]神社は、その異名=古名に「杉社[すぎのやしろ]」という名があるからです。
 (本社)大杉神社の由緒・伝承を読んでみます。

■大杉神社「由緒・伝承」
 古く大杉神社の鎮座する地は「アンバ」と呼ばれ、後に安婆、阿波、安渡、安波、安場、安葉などと表記された。この「アンバ」の地は、銚子と波崎を湾口とし、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)、利根川、印旛沼、手賀沼を内包して余りある広大な内海に、西から東にかけて突き出した半島上に在りました。
 この半島は常陸風土記に安婆島(あんばじま)と記載される半島で、そのほぼ先端にあたる地に一本の巨杉が立っておりました。
 風土記がこの辺りの地名を、海苔干しの盛んであったことから「のりはま郷」と名付けたことを伝えるように、この近隣では漁労を中心とした生活をしていたことが知られ、この住人達を守護していたのが大杉神社の当初の形であり、アンバの地に鎮座することから「あんばさま」と呼ばれるようになりました。
 また内海の至るところから見える巨杉は航海の目印ともなり、周辺住民の守護神の鎮まります神籬でもありました。
 こうした原初の信仰に加え、神護慶雲元年(767)、大和国大神神社(三輪明神)から下野国の日光山・二荒神社を開山に向かう勝道上人は、この巨杉を神籬として三輪の神々を招臨し、人々を数々の奇跡で救済するに至り、厄難守護への信仰へと発展し、「悪魔ばらえのあんばさま」と呼称されるようになりました。(境内由緒──HP「古代探訪」)

 風土記時代は、現在の霞ヶ浦の地形とはずいぶんとちがっていたようです。広大な内海に突き出した半島に、一本の大きな杉が立っていた──。このイメージは「絵」にもなりうるものです。
 岩手・宮古市の大杉神社分社は、別名「網場様」と表記されていましたが、これが「あんばさま」を示すことはいうまでもありません。ただ、関東から東北にかけての太平洋沿岸部によくみられる「あんばさま」は、航海・船の守護神です。このことは、由緒が、「航海の目印」であり、「神籬」でもある巨杉=大杉と明記していることからもよくわかります。こういった「航海の目印」としての巨杉にどんな神が宿るかを日本の神々にさぐりますと、その筆頭神は、やはり宗像神となるかとおもいます。
 航海の守護神という「原初の信仰」の上に、767年=神護慶雲元年、勝道上人によって、この「目印」の巨杉に「三輪の神々を招臨」し、大杉神ができあがるわけです。また、この神は、三輪神を付加したことによって「厄難守護」の神、「悪魔ばらえのあんばさま」へと「発展」していったようです。大杉神の基本性格である、航海の「目印」の木である性格は、三輪神が付加されたことで、より強力な航海「厄難」の守護神=大杉神=「あんばさま」となったことがうかがえます。この大杉神は、時間とともに海岸部をはるか北上しつつも、海の民に確実に伝えられ、その祭神名はともかくとして、現在にまでつながっているといえます。大杉神が三輪神と同神としますと、三輪神にも「航海の守護神」の性格を認めることができるか──という問いも浮かんできます。
 なお、「由緒」に記されていた常陸国風土記ですが、これは、藤原不比等の三男・藤原宇合[うまかい]による編纂とされます。この風土記の完成・献上は718年とされ、日本書紀の完成(720年)の前にあたります。常陸国風土記に先行する現存の風土記としては、播磨国風土記(715年)があります。同書に遅れること3年で、常陸国風土記は完成するわけですが、両書を比較しますと、常陸国風土記のもっている編集思想のほうが、より日本書紀に反映しているようにみえます。
 日本書紀の編纂・創作に深く関わっていた不比等たちと、宇合のこの常陸国風土記の編纂思想は深くつながっているはずです。このことがよくわかるのが、この大杉神が存在する「安婆島」の箇所の記述かもしれません。ただし、ここには大杉神は直接語られることはありません。しかし、当時の先住の民が、ヤマトによってどのように滅ぼされていったかが、宇合=藤原氏の眼=言葉を通してですが、リアルに描かれているとはいえます。少し長いですが、古事記・風土記・日本書紀の編集思想を貫流・底流する話でもありますので、書き写してみます。宇合は、「古老がいうことには」という客観性を装って、次のような話を、なかば得意気に記述しています。

■常陸国行方郡
 古老がいうことには、「斯貴瑞垣宮[しきのみづがきのみや]に大八洲[おほやしま]をお治めになった天皇(崇神天皇)のみ世に、東方の辺境の荒賊を平定するために建借間[たけかしま]命((すなわちこれは那珂の国造の初祖である))を遣わした。〔建借間命は〕軍士を引率して行く手のわる賢い賊どもを攻略しながら、安婆[あば]の島に露営した。はるかに海の東の浦を眺めたとき、烟が見えたので、お互いに行く手に人がいるのかしらと疑った。建借間命は天を仰いで神に祈誓して、『もし天人[あまつひと]の烟ならば、こちらに来て私の上に覆いたなびけ。もし荒賊どもの烟ならば、むこうに去って海上にたなびけ』といった。その時烟は海をさしてさっと流れた。そこで凶賊がいることがひとりでにわかった。ただちに従う軍衆に命じて早目に充分寝食をとらせ戦闘準備を充分にととのえて海を渡った。ここに国栖[くず]で名を夜尺斯[やさかし]、夜筑斯[やつくし]という二人のものがいて、みずから指導者となって穴を掘り、堡[とりで]を造り、いつもそこに住んでいた。官軍の動きを見て潜伏して守り、抵抗するので、建借間命は兵隊を放って追い駈けさせるが、賊どもはみな逃げ還って、堡を閉じて固くふせいだ。そこで突如として建借間命は大いに臨機応変の計略をめぐらし、決死のつわものをよりすぐり、山の曲り角の見えないところに伏せ隠し、賊を討滅すべき武器を作り備えた。そして、海の波打ちぎわを美々しくかざり、舟をつらね、筏を組んだ。蓋[きぬがさ]は雲のごとくへんぽんと飛び、旗は虹をかけたよう。天の鳥琴[とりごと]・天の鳥笛の音は、波の寄せるにしたがい、潮を追うて高鳴る。杵島ぶりの歌曲をうたって七日七夜遊楽歌舞した。その時賊党はさかんな音楽を耳にして房[いえ]全部の男も女もみなことごとく出て来、浜をゆるがさんばかりによろこびさんざめいた。建借間命は騎兵に命令して堡を閉鎖させ、背後から襲撃してことごとく全種族のものたちを捕虜にし、またたくまに焚き滅ぼした。〔後略〕」(吉野裕訳)

 ここに出てくる建借間命が、その後、日本書紀(720年)において大国主に「国譲り」をせまる筆頭神である藤原神=鹿島神=武甕槌神に展開していく、反映していくことが考えられます。
 常陸国の先住民は、この建借間命の「臨機応変の計略」、つまり、「杵島ぶりの歌曲」にだまされて、「全種族」が焼き滅ぼされたとされます。この先住民は「辺境の荒賊」「わる賢い賊ども」「凶賊」「国栖」と、ことさらに禍々しい存在として形容されていますけど、文面からは、ただ海辺の丘陵部の竪穴住居に住んでいて、「男も女も」歌舞歌曲を好む民以上でも以下でもないようです。
彼らは建借間命の「計略」にひっかかって全滅したと描かれているわけですが、その「計略」にあった、建借間命が利用した「杵島ぶりの歌曲」──これは、常陸国からはるか西の肥前国においておこなわれていたものであることが、肥前国風土記逸文に書かれています。

■肥前国風土記逸文「杵島」
 杵島の県。県の南方二里に一つの離れ山がある。坤[ひつじさる](南西)から艮[うしとら](北東)にかけて三つの峰がつらなっている。これを名づけて杵島という。坤にあるのは比古神といい、中にあるのを比売神といい、艮にあるのを御子神という。((またの名は軍[いくさ]神。この神が動くときはただちに戦がおこる。)) 村々郷々の男も女も酒を携え、琴を抱いて、毎年春秋に手をとりあって登り見渡し、酒を飲んで歌舞し、曲が終わって帰る。歌詞は、
  霰[あられ]降る 杵島が嶽[たけ]を 険[さか]しみと 草取りかねて 妹が手を取る ((これは杵島曲[きしまぶり]である。)) (『万葉集註釈』三)

 常陸国の先住民は、肥前国の「杵島曲」をなつかしんで、無防備になったところを建借間命たちに捕縛されたのでした。また、「杵島」の民の描写からわかることは、最初期の海洋農耕民という性格でしょうか。彼らは「軍神」を別名とする男女神と子神を三つの峰=杵島が嶽に奉祭することもよく描かれています。
 かつて、肥前国風土記は、佐賀=佐嘉郡の項で、女神=世田姫を「荒ぶる神」と形容し、この女神のところへ通う「海の神」と「小魚」を描いていました。この「杵島」の描写は、あるいは、「世田姫」と「海の神」の婚姻の成立と子神の誕生を告げている内容かもしれません。杵島が嶽の神は、「軍神」とされていることと、世田姫が「荒ぶる神」と規定されていたことは関係があるとみることもできます。
 としますと、杵島曲を共有する民である常陸国の先住民は、同時に、肥前国の「杵島が嶽」の神をいただいていた民である可能性があります。
 常陸国風土記は、現在の鹿島神宮を「香島の神子[みこ]の社」とし、同社の神を現在のように「武甕槌」とは記しておらず、ただ「香島の大神」と記しています。
万葉集の防人の歌に、この香島=鹿島の神に守護を祈る歌が採録されています。

 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍[すめらみいくさ]に我は来にしを(大舎人部千文)

 鹿島の枕詞ともされる「霰降り」ですが、この言葉が、佐賀の「杵島」の歌に出てくる「霰降る杵島が嶽を険[さか]しみと草取りかねて妹が手を取る」の「霰降る」と正確に対応していることは重要なことかとおもいます。つまり、常陸国の鹿島神の元神は、この佐賀の「杵島が嶽」の神と同神であることを強く示唆しているということです。
 なお、大杉神社の所在地は「桜川村」とあり、これは、桜川の源の神社である、現在の礒部稲村神社(西茨城郡岩瀬町)と関わりある地名であることが考えられます。礒部稲村神社の主祭神の一神に、水神(水源神)=瀬織津姫の名があり、また合祀神のなかにも、これも瀬織津姫の異名であった「玉柱屋姫命」の名があります。桜川の社の主祭神は瀬織津姫である可能性が高いというべきですが、この礒部稲村神社が、その「由緒」において「元鹿島」を主張していることも重要なことかとおもいます。あの肥前国の「荒ぶる」比売神が「香島の大神」、つまり鹿島神の元神である可能性が、これらの風土記ほかの対照からみえてきました。常陸国風土記の時代においては、鹿島神は、まだ「武甕槌」ではなかったということです。
 さて、桜川村の大杉神です。
 本社・大杉神社の神は、三輪山の神=三輪明神とされています。しかし、岩手の宮古まできますと、その祭神はまったく異質な神に変わります。試みに、その祭神のバラバラな分社をいくつか拾い出してみます。

@大杉神社【祭神…天之手力雄神】……………………………岩手県宮古市
A大杉神社【祭神…猿田彦命】[飯玉神社合祀]………………群馬県玉村町
B大杉神社【祭神…船玉命】[赤城神社境内社]………………群馬県玉村町
C大杉神社【祭神…倭大物主櫛玉大神】………………………茨城県桜川村
D大杉神社【祭神…大直日命】[麻賀多神社合祀]……………千葉県成田市下宿
E大杉神社【祭神…大国主命】…………………………………埼玉県白川町
F大杉神社【祭神…大物主命、櫛甕玉命、船玉主命】[熊野大神社境内社]…埼玉県幡羅村
G大杉神社【祭神…久々能智神、五十猛命、大屋津姫命】…三重県宮川村

 みごとというべきか、これだけ祭神名がいくつもある神も珍しいというべきでしょう。大杉神社の本社は、Cとされ、あとは分社かとおもいます。ただし、伊勢の地にある大杉神社(G)が分社かどうかはわかりません。また、大杉神を瀬織津姫の異名である「大直日命」としているDの社は、特記ものというべきでしょう。大杉神(の一神)が瀬織津姫である可能性があることは、これは心してこれらの祭神を検討する必要があることを示唆しています。
 杉の古名である倭木=まき(真木=槙)は日本の固有種ですから、Gにおいて、新羅から木をもってきて全国に植えた、いわゆる「植林の神」とされる五十猛などが、ここに祭神としてはいってくるのは安直なウソというべきでしょう。ちなみに、全国に杉(ヒマラヤ杉)が植えられるのは明治初年からで、ここに、「復古」した明治国家の祭祀思想が投影していることはいうまでもありません。
 ところで、三輪山=大神神社=杉社から勧請した本社・大杉神社の「由緒」の言葉──「神護慶雲元年(767)、大和国大神神社(三輪明神)から下野国の日光山・二荒神社を開山に向かう勝道上人は、この巨杉を神籬として三輪の神々を招臨し」ですが、ていねいに読みますと、ここには、勧請した神を「三輪の神々」とし、「三輪の神」一神ではないということになっています。
 大神神社は大物主一神の社とされていますが、わたしは、ここにも大事な水神が隠されているとみています(高宮)。
 大神二神を勧請したとする本社の祭神表示は「倭大物主櫛玉大神」とされ、大きな矛盾を抱えていることがわかります。しかし、分社のFは、この本社祭神名に対して「大物主命、櫛甕玉命」という表示をとっています。その他の分社の祭神表示に比べれば、本社の三輪明神の表示が正規であるとなりますが、しかし、Fの分社と本社を比べれば、分社の二神表示こそが正確な祭神表示となりましょう。
 大物主命、櫛甕玉命という二神の名を合成し、「甕」神=水神を削除したのが「倭大物主櫛玉大神」というべきです。ただし、分社の櫛甕玉命という祭神表示にしても、まだ抽象名です。「櫛」という女性神をうかがわせる名といい、「甕」という「水」の入れ物をいただく神──。そして、ここに分社の祭神名として登場していた大直日命という神に関わる神。さらに、本社の伝承が、自神を「厄難守護」の神、「悪魔ばらえのあんばさま」としていたように、祓い神の性格を有する神──。あるいは、この大杉神の土地=常陸国が、肥前国の「荒ぶる」比売神の土地である可能性があること──。これらの複数の条件が指し示す唯一の神は、自ずと限られてくるというべきでしょう。
 大杉神社の大神は、那智ゆかりの勝道上人が「日光」へ行く途中に、「この巨杉を神籬として三輪の神々を招臨し」たとされます。二荒山神社(中宮)の神体山は男体山(2484m)とされますが、二荒山という山があるわけではありません。男体山は、そのすぐ北東に聳える女峰山(2464m)という山と対の関係をもつ山で、この二山構成が、二荒山神社という社名や祭神の総称名「二荒山の大神」によく出ているとみることができます。つまり、荒神の二神ゆえの「二荒」山であったことが、山の構成から考えられます。二荒=日光は、華厳滝や龍頭滝ほか滝のメッカのような地ですが、日光市にある二荒山神社の奥宮は、北の女峰山から流れ出す雲龍渓谷→稲荷川の白糸滝を有する滝尾神社の可能性があります。ここに、「二荒山の大神」のほんとうの水神=滝神がまつられているとわたしはみています。現在、那智の滝神は「大己貴神」とされています。二荒山神社の祭神は、「大己貴命、田心姫命」(現在)、「大己貴命、事代主命」(神名帳)、その他「大己貴命、建御名方命」と、その祭神説は、ここも不定きわまりないです。しかし、那智ゆかりの勝道ゆえに、滝神=大己貴は強く意識されているのでしょう。不定の祭神のなかで、大己貴命だけが「不動」の神とされていることに、やはり、那智の投影がよく表れています。
 杉社の古名をもつ三輪山の神は、記紀の伝承においては大蛇=龍でした。伊勢のアマテラスも元は「男性の蛇」(筑紫申真『アマテラスの誕生』)で、これも龍でした。杉という「まき」=真木は「純粋な木の意」(辞書)であり、「直[す]ぐなる木」でもあります。この「直」の名をもつ大杉神(の一神)は、やはり大直日神を分身=分神としてもつ伊豆能売=伊豆大神である瀬織津姫とみるしかなさそうです。瀬織津姫は、邪を糺す=直す「糺の森の弁天さん」(京都・下鴨神社)でもありました。直の木=杉に化身する神としては、もっとも正当かつ妥当な神というべきでしょう。

409 鳳来寺の杉 ピンクのトカゲ 2002/06/11 19:16

杉と龍灯やっぱり意味があるんですね。
持統三河行幸の目的は、文武の病気平癒の伝承に変容しています。持統―不比等の祈願の主は、厳煙山鳳来寺に棲む利修仙人です。
この厳煙山鳳来寺の千有余段の参道脇には、樹齢四百年を越す杉の大木が鬱蒼と茂っている。
なかでも、参道の途中にある傘杉(南設楽郡鳳来町門谷一番地)は、 樹齢八百年、樹高六〇メートル、幹周り七.五メートルの神木である。
いわば、鳳来寺は、倭木=杉のお山といってよい。また、文武の病気平癒の祈願と関わりの深い本宮山は、大物主ともいわれ、ここもまた、杉の大木が茂る山(別名・本茂山)である。さらには、勝道上人と砥鹿神社についても伊予皇子の東漸で関わりがある。
利修仙人が開基したといわれる鳳来寺奥の院の裏手の岩肌は、鏡岩と呼ばれる。
その奥の院手前にあった神木七本杉のうちの一本を切り、利修仙人が一刀三礼の法をもって彫ったと伝えられるのが、鳳来寺の本尊・薬師如来像である。
この七本杉の一本をもって彫られたと伝えられる薬師如来像と同木で彫ったと伝えられる薬師如来像が、ほかに八体ある。
一体は、以前書いた西島の光福寺のそれである。
そのほかを紹介すれば、
(1) 新城市清井田の永観寺の薬師如来
(2) 同市庭野の林光寺の薬師如来(重文)
(3) 宝飯郡一宮町東郷の最勝院の前立薬師
(4) 豊橋市下地町の祐泉坊北の薬師堂の薬師如来(慈覚大師作   との言い伝えもある。)
(5) 名古屋市東区の東充寺の糸瓜薬師(往古は、丹羽郡稲置にあったと伝えられる。)
(6) 知多郡師崎町の医王寺の薬師如来
(7) 同郡豊浜町の薬師如来
庭野の林光寺の薬師如来坐像は、実際には、嘉応七(一一七一)年仏師頼与の銘がある。
現在は、林光寺の薬師堂に安置されているが、平安時代には、この薬師堂を中心に七坊を有する紫雲山大脇寺があったという。
眼病に霊験があり、平仮名の「め」の字の連続で、「め」と大書し治療祈願されたという。
この薬師堂の直ぐ北は、山姥が琵琶湖の土を掬い富士山を作ったときに掌からもれた土からできたという「うでこき山」がある。

410 椙尾八幡宮 石見のみづち 2002/06/11 22:14

杉と松が出てきて驚いています。
話しは何時もづれるのですが、元椙尾八幡宮のあった場所は,麦尾、後ろの山は松尾山,峠は松尾峠,松と麦なのに椙ではおかしい。それで麦尾神社に変更された時期があったようです。

元邑智郡市木村の神社ですが、市木神社,粟島神社など同じ場所にあり,祭神は三社共宇佐八幡とおなじです。
また、椙尾八幡宮が宇佐から勧請されたのは、1172年のことです。
それまでの700年は椙尾社だつたようです

私は尾から何かが見つけ出せるのでは、と思っておりました。ところが杉と松もでてきました。また瀬織津姫をお祭りした小社がありました。

411 鳳来寺&勝尾寺 NOといった仙人達 ピンクのトカゲ 2002/06/12 07:08

鳳来寺の利修仙人は、文武の病気平癒祈願を頼まれたとき、一丈ばかり浮上し、勅使の申出を断ったと伝えられます。
これと似た話をクミコさんが教えてくれました。
以前、弊掲示板で、クミコさんが箕面の勝尾寺(本尊:十一面千手観音)について質問されました。
その勝尾寺にも同じような伝説が残っていることにびっくりです。
まずは、勝尾寺の縁起です。
「第六代座主行巡上人は、清和帝の玉体安隠を祈って効験を示した事により、王に勝つ寺「勝王寺」の寺名を賜う。彌勒寺側は王の字を尾に控え、以来「勝尾寺」(かつおうじ)と号す。」
この縁起の「清和帝の玉体安隠を祈って効験を示した事により、王に勝つ寺」について、「天皇が時の座主行巡上人 を召したところ、上人が断った。勅使が「朝威を軽んじるのか」と責めたところ、上人は1丈ばかりその場で浮上した。驚いた勅使の報告に、天皇も「山を出なくてよいから、そこで祈祷してほしい」と伝えた。病気も平癒し、感銘した天皇は荘園を寄進し、上人を阿闍梨に補任した。上人が召喚にも応じず、天皇の臨幸を促した寺とあって「勝王」の号を賜り、「王」を「尾」に控えて、勝尾寺と名づけたという。」という伝承があるようです。
また、「摂津国名所図会」には、「寺の後ろに自然石あり、高さ十三丈又の名薬師石ともいう。(略)大己貴、少彦名の二神生まれす地により医王岩と称するか。此二神は医道の祖なり」と記載があるそうです。
この記載について、神奈備さんのhpは、「医王岩は「大己貴命と少彦名命が生(あ)れました」と『摂津名所図絵』にあり、石宝殿のたぐいとしている。元々の磐座信仰に違いない奇怪な岩である。現在、医王山持宝院(高野山系真言宗)の鎮座する近くに大宮と称する社址がある。為那都比売大神を祀っていたと云う。則ち、医王岩に降臨したのは為那都比売神であったと云うことだろう。」としているそうですが、大己貴命と少彦名命としたのは、為那都比古&為那都比売の男女二神を隠すためであり、医王岩に降臨したのは為那都比古神(男神→日神)であったと考えるべきです。
この医王岩は、薬師岩とも呼ばれるようで、また、箕面の瀧も近くにあり、さらには、近くの瀧安寺には、弁財天が祀られているようです。

412 長山熊野神社 ピンクのトカゲ 2002/06/12 18:45

戦国時代、牛久保城主・牧野候は、若宮(現牛久保八幡社)、熊野権現(下長山熊野神社)、牛頭天王(現牛久保八幡社境外末社)を氏神三社として、崇めた。
この熊野権現について、牛久保の住人・中神善九郎行忠(生年不詳〜一七一一)が現した「牛窪密談記」によれば、「崇神の時代に紀州の牛間戸という湊から徐氏古座侍郎が舟を泛べ、三河国の御津(宝飯郡御津町)あるいは、澳の六本松(場所不明)というところに着き、本野ヶ原にある常寒長山の里(豊川市下長山町)に熊野権現を勧請した。徐氏は、常寒長山の里に住み、一粒の種で百倍もの作物をなして館を建てた。周囲の人は、徐氏を尊敬した。長山の神(熊野権現)は、霊験あらたかであり、『常に天地長久を護り給う』ゆえ、三河国宝飯郡牛窪郷を常寒(トコサブ)と呼ぶようになった」と記す。
熊野権現は、崇神の時代に熊野から勧請された旨を謳っているわけである。
つぎに、長山熊野神社所蔵の『熊野三社権現縁起』によれば、長山熊野神社は、欽明丙寅(五五四)年に、疫病が流行り人々が多く死んだとき、邑に怪異がおこった。一つは、社山の大樹の梢に三光があった。二つ目は、「咲き匂う今年の花を眺め見て民の苦しみ空に知らるる」と唄う花一枝を持った神人が忽然と現れた。三つ目は、童子が、神懸りし「我は紀州牟呂郡熊野本宮、我を祀り祠を建てれば、疫病を除き、命を助ける」との神託があり、勧請されたとする。
欽明丙寅年は、欽明一五年にあたる。日本書紀によれば、この二年前に仏教が公式伝来しており、仏教の伝来により疫病が流行り、若死にする者が多かった旨を記載する。
『熊野三社権現縁起』は、元文元(一七三六)年の遷座前のものとされるが、多分に仏教批判の立場から書かれた匂いがする。
怪異の一つ目、大樹の梢の三光は、熊野権現を勧請したとする徐氏古座侍郎は、御津の湊に着いたとされることからも泙野神社の龍灯を容易に想起させる。
とすれば、怪異の二つ目の花一枝は、鎮魂の樹・櫻樹であり、花一枝を持った神人は、水の女神であろう。
また、怪異の三つ目の童子の神託は、『足助八幡宮縁起』の大深山(本宮山)に、天智の時代に現れた怪物を想起させる。
熊野神社縁起には、大宝三年に奉幣したと記載があり、持統の三河行幸となにやら関係があるように思われる。
熊野神が、この地方に進出したのは、平安末期のことであり、西三河から佐脇郷(宝飯郡御津町下佐脇)に入り、そこを本拠(佐脇神社・旧称熊野権現社)とし、盛んになったとされる。
とすれば、長山熊野神社も、その頃に熊野神を奉祭するようになったと考えられる。
熊野神社は、下長山町の東端の段丘崖上に鎮座し、現在は、鳥居前をJR飯田線が横切る。JR飯田線を挟み段丘崖下には弁天堂がある。
以前は、段丘崖から水が湧き、その涌き水で池が形成され、池に浮かぶ弁天島に弁天堂(祭神・市杵島姫)があったが、現在は、水脈が途切れたのか落ち葉が積もる空池なのが淋しい。弁天島に掛る太鼓橋(男橋)は宮嶋橋と、女橋は弁天橋の名が刻んである。
和名抄によれば、この地は、宮嶋郷と呼ばれた。宮島郷は、安芸の宮嶋=厳島神社(祭神:市杵島姫)に因むものであろう。
とすれば、熊野神以前の神が弁天堂に祀られているのではないかと考えれれる。
熊野神社所蔵の『弁財天縁起』には、「その昔、熊野神社境内に弁財天の社宇があったが、いつのまにか社宇もなくなり、田地と化していたところ、子の病気平癒を弁財天に祈念していた母親の夢枕に弁財天が立ち、社宇を建立せよとのお告げがあった」と記載する。
弁才天は、祭祀が中断していたのである。
旧宝飯郡の熊野神の本拠とされる御津町下佐脇の字名には、御所があり、ここは、持統の行在所があった跡と伝えられ、三種の神器の勾玉を置いたところを玉袋、剣を置いたところを剣、鏡を置いたところが加美と伝えられる。また、旧字名の皇子ヶ谷(こうじげつ)、御膳田なども持統ゆかりの地名といわれる。
熊野神社所蔵の『弁財天縁起』の「その昔」が何時のことか解らないが、持統行幸により祭祀が中断され、その後、熊野神が被さった可能性がある。
また、『弁財天縁起』の我が子の病気平癒を記念する母親の姿は、最愛の一子を亡くした飯盛長者を、祭祀の中断は、岩畳神社を想起させる。
なお、現在は、崖下に弁天堂、崖上に熊野神社が鎮座するのであるが、以前は、弁天堂の西隣に熊野神社は鎮座した(現在地に熊野神社が遷座したのは、元文年(一七三六)年。元の鎮座地は、それ以前の宝永七(一七一〇)年に没収)。

413 下高橋竈門神社 九州の龍 2002/06/12 19:40

風琳堂ご主人
祭神:玉依姫・少彦名神・豊受大神・雷神・菅原神・罔象女神・神功皇后 所在:三井郡大刀洗町大字下高橋字内畑古賀
『寛文社方開基』という古い書物によると、『下高橋村氏神宝満宮』は祭神:玉依姫とし、1070年、宝満山竈門神社を観請して建立される。祭神:菅原神は字内畑出口に『天満神社』として、罔象女神は字柿添に『水神社』、神功皇后は字中島に『宮地嶽神社』として祀ってあったものを大正12年6月9日合祀、高橋神社と改称した。さらに、祭神:少彦名神は薬師堂に『五條天神社』として、豊受大神は内畑屋敷に『豊受神社』として祀ってあったものを、大正13年5月、薬師堂竈門神社に合祀、さらに昭和4年5月、玉依姫命を祀った宝満宮(竈門神社)とこれらの神社を合併して、現在の竈門神社と改称した。
”緋桜や 十六詣りの 径けわし”  誰の俳句か知りませんが、16歳になった年の4月16日に宝満山に参拝するという信仰が当地にもあったとのこと。玉依媛に成人したことを報告し、良縁を願って縁結びの『こより』を結んだ。この神社には3つの鳥居があり、一の鳥居の額には『高橋神社』、二の鳥居の額には『竈門神社』、三の鳥居の額には『宝満宮』と書かれています。

414 質問 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/06/12 22:22

九州の龍さん
額が異なる一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居の形式は、全部同じですか?
三河のワクグリ神社という社は、一の鳥居と二の鳥居、三の鳥居の形式が違っていて、明らかに祭神変更が行なわれています。
額が異なるということでちょっと気になりました。

415 公地公民という呪縛 風琳堂主人 2002/06/13 01:04

 利修仙人および行巡上人が、地面から「浮上」して勅命を断る行為──これは、天皇制国家=律令制国家が一方的に決めていた「公地公民」という考え方に対して一線を画すという意志表示なのでしょう。それにしても、ユーモラスな行為とはいえます。私は天皇の土地=「公地」にはおりません──こういった意志表示を、地面=公地から「浮上」するという「形」で示すという説話パターンが、三河と攝津に共通してみられるというのは、当時、この「断り」の表現法が、修験関係者のなかででしょうが、ある程度一般化されたものだったのかもしれません。
 昨年から中学学習参考書(歴史)関係の編集で各社の教科書を見る機会が多かったのですが、この「公地公民」と関わることで、ずっと「気に入らない」とおもっていることがあります。それは、明治維新のときにおこなわれた「版籍奉還」の「教科書」の説明です。
 たとえば、ある教科書は、版籍奉還について、「政府は、1869年、まず諸大名から領地(版図[はんと])と人民(戸籍)を天皇に返させました」──と、こう説明しています。ほかの教科書では、「天皇」を「政府」に、「領地」を「土地」と表記するものもありますが、いずれも大同小異の「説明」を繰り返しています。
 土地と人民は、天皇=政府のものだという古代の「公地公民」の発想が、まさに「復古」したのが、「明治維新」でもありました。土地は人民のものではない、ましてや、産土神などの神のものではなおさらない、というわけです。公地公民──こういった先験性を暗に肯定する教科書による「版籍奉還」の説明は、戦後の説明においても、きちっとなされているわけではありません。反省→訂正の説明をしている教科書が皆無だということ、つまりなしくずしにして、「戦後民主主義」が既成事実のように語られていくわけです。
 明治国家のこの復古的な思い上がりは、大正国家から昭和国家へと継続・強化され、結果的に、神=天皇の絶対化の観念を国民の心底深く刻印することになります。教科書は、版籍奉還→廃藩置県→殖産興業=日本の近代化という美名しか語りませんけど、この近代化の水面下では、神仏分離→全国の神社に対する由緒書の「上納」=「没収」→祭神変更(新由緒書の作成)あるいは祭神の「不詳」化、そして「一村一社」という「神社合祀」による、伊勢神宮=皇祖神に抵触する神社と神の再淘汰がおこなわれていきます。これは、天皇を新しい神として神々を整理し、国内の人心統一を図るという、明治国家による、古代の中臣=藤原思想の「復古」政策という以外にありません。
 このような祭神変更および淘汰の対象となった、つまり最大の標的となった女神=水神を、わたしたちはここで明かそうとしているといってよいのかもしれません。この水の女神が、その名を知られずとも、たとえば、観音信仰、不動信仰、弁天信仰、鬼子母神信仰、そして龍神信仰と、さまざまな「習合」の形態をとりつつも、その背後=「本地」の神として、どれほど人々の心底を支えつづけてきたかは測りしれないだろうとおもっています。
 利修仙人および行巡上人の「浮上」の姿に、公地公民の呪縛を生きざるをえない「人民」の、ありていの心が後押ししている姿も感じられ、ついあたりまえのような、この国の神祇策の「おさらい」をさせてもらいました。

416 皇地皇民という呪縛 ピンクのトカゲ 2002/06/13 13:05

公地公民制は、律令制の前提となるもので、その基層には、天命思想がある。
天命思想が具現化するのが、易姓革命であり、徳がある者が天命を受け皇帝となるが、不徳となれば、その者(姓)に代り、新たに徳がある者が皇帝となるというものである。
わが国の律令制は、天智一〇(六七一)年の近江令にはじまるとされる。
しかし、公地公民制は、近江令の発布から半世紀あまり後の養老七(七二三)年の「三世一身法」で、なし崩しとなり、さらに、天平一五(七四三)年の「墾田永世私財法」で骨抜きとされる。
記紀により創作された万世一系は、過去に易姓革命がなかったことを担保するものであり、書紀撰上の三年後に「三世一身法」が制定されたのも偶然とはいえまい。
公地公民制が骨抜きとされた後、土地は、公地から皇地にかわり、最終的には、不比等の子孫たる摂関家の荘園として確立する。
一方、大化の改新(六四五年)後、淳足柵(六四七年)、磐舟柵(六四八年)が築かれ、斎明四(六五八年)には、阿部比羅夫を期にヤマトの蝦夷地進出がはじまる。
蝦夷の皇民化である。
版籍奉還の「土地と人民は、天皇=政府のもの」との発想は、「公地公民」というより「皇地皇民」にふさわしいものであり、皇民=天皇の赤子の名の下に、公民が、政府の意の恣に棄民とされたのです。
戦後においても皇地皇民の反省→訂正の説明をしている教科書が皆無だということと、今国会において審議されている有事法制、情報規制を考え合わせれば、現政権は、新たなる皇地皇民化の模索をしているとしか思えません。

417 香島「神の宮」の造営 風琳堂主人 2002/06/13 18:21

 日本において、「公」が文字通り「公=民」であったことはない、ということです。
 天智10年=671年という年は、たしかに近江令が完成した年でしたが、これには「律」、つまり刑罰の思想がまだ盛り込まれていなかったようです。その意味で、律令制度がまさに「制度」として完成=発令されるのは大宝律令(701年)のときというべきでしょう。
 この近江令の作成の前年、天智9年=670年には、戸籍=庚午年籍がつくられ、民の戸籍化=支配のシステムがすでに作動していました。
 また、「戸籍」がつくられた天智9年の前年=天智8年=669年という年は、中臣鎌足が「大織冠」「大臣」という位階と「藤原」の姓を天智から贈られた年であり(鎌足はこの贈与の翌日に他界〔10月16日〕)、さらに特記しておく必要があるのは、この669年は、鎌足の同族の中臣金[かね]によって、大祓祝詞=中臣祓がつくられた年だということでしょうか。つまり、瀬織津姫が「大祓の神」とされた年で、このことが象徴しているのは、公→皇の思想が、作動を開始したということです。
 こういった経緯のあと、671年に近江令が完成するわけですが、この年の祭祀面での象徴的なできごとは、常陸国に「神の宮」(風土記)が造られたということでしょう。鹿島の元神がこのとき、どのように遇されたかはわかりませんが、「香島の大神」(風土記)は、天智たちによって、少なくとも、おろそかにできない神として認知されていたとだけはいえそうです。
 671年11月10日には、唐の郭務?ら2000人がやってくるといった報告が対馬から大宰府へもたらされます。白村江の戦い(663年)で惨敗=完敗した天智たちにとって、この報告は、唐の襲来かというように受け取られたことが考えられます。実際は、唐は新羅と仲間割れの戦いの最中でしたから、列島への襲来は事実上不可能ではありましたが──。
 しかし、鎌足亡きあとの天智にとって、この671年は、内部では後継者問題も胚胎していましたし、外部には唐との関係が難問としてあり、相当の危機感を抱かざるをえなかったことが想像できます。669年に瀬織津姫を「大祓の神」として策定したものの、日本書紀完成後に、ヤマトが東国侵攻=皇民化に本格的に着手するといった、同じような触手を東国=常陸国へのばす余裕は、このときには、天智にはなかったとみるべきです。その意味で、常陸国の「神の宮」の造営という行為は、「香島の大神」=鹿島の元神をまずは厚遇することで、後方=東国からの蝦夷=エミシの脅威を無化する意図があったとみるべきでしょう。あるいは、<西>からの脅威に対して、自身の加護を願うといった、ある意味、都合のよい願いがあったとみるべきかもしれません(もとより、神は中立の存在ですから、加護を強く願う者ほど厚くまつることをします)。しかし天智は、この危機の年の12月3日、心中の未決の思惑を抱えたまま他界します。
 なお、この671年という天智最晩年の年には、天智によって、筑紫国に観世音寺の創建が発願されてもいます(続日本紀)。天智は、自らの死の<先>と、唐からの脅威に対する加護を、この新しい神=観音に託したのかもしれません。
 壬申の乱、前年=前夜の話です。
 瀬織津姫を「大祓の神」とした天智時代、公=皇という発想は、すでに始まっていたとみるべきでしょう。その意味で、「公地公民」は、最初から「皇地皇民」の意で使用された、不適切な「歴史用語」でした。

418 中臣=藤原鎌足の死 風琳堂主人 2002/06/14 04:48

 大祓祝詞=中臣祓が創作された天智8年=669年に、時を合わせるように、中臣=藤原鎌足は50歳で亡くなっています。
 記紀において、瀬織津姫の名は徹底して変名化され、つまり、記紀だけをいくら読んでも、瀬織津姫はわからない──そのように、記紀は作成=創作されています。一方、瀬織津姫という名を、半公的な文字空間に唯一記したのが、この大祓祝詞でした(のちの近江国風土記逸文に、この祓いの神の名として瀬織津姫の名が確認できますが)。
 大祓祝詞=中臣祓の創作者は中臣金[かね]とされます。しかし、金の一存でこの祝詞がつくられたと考えるのは無理があります。当然、金の背後に、この祝詞の創作を命じた者がいるはずと考えますと、可能性のある人物は、二人しかいません。つまり、時の天皇=天智と、その側近中の側近であり、金一族の氏頭である中臣=藤原鎌足です。勅命は天智、祝詞内容の真の校閲・創作者は鎌足とみるのが妥当かとおもいます。これは、表に名を出さない、日本書紀の真の校閲・創作者が藤原不比等であることとよく似ています。
 鎌足の死因はなんだったのかが気になり、日本書紀を再読してみて、意外なことを見落としていたことに気がつきました。該当箇所を読んでみます。

■中臣=藤原鎌足の死
 (669年)秋八月三日、天皇は高安山に登って、城を築くことを相談された。しかしまだ人民の疲れていることを哀れんで、築造はされなかった。ときの人はこれに感じて、「仁愛の徳が深くいらっしゃる」云々といった。
 この秋、藤原内大臣の家に落雷があった。
 九月十一日、新羅は沙?督儒[ささんとくじゅ]らを遣わして調をたてまつった。
 冬十月十日、天皇は藤原内大臣の家にお越しになり、親しく病を見舞われた。しかし衰弱が甚[はなはだ]しかった。それで詔して、「天道が仁者を助けるということに偽りがあろうか。積善[せきぜん]の家に余慶[よけい]があるというのに、そのしるしがない筈はない。もし望むことがあるなら何でも言うがよい」といわれた。鎌足は、「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のお役に立てず、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」云々とお答えした。
 時の賢者はほめて、「この一言は昔の哲人の名言にも比すべきものだ。大樹将軍(後漢の馮異[ふうい])が賞を辞退したという話と、とても同じには語れない」といった。
 十五日、天皇は東宮太皇弟[ひつぎのみこ](大海人皇子)を藤原内大臣の家に遣わし、大織[だいしき]の冠[こうぶり]と大臣[おおおみ]の位を授けられた。姓を賜わって藤原氏[ふじわらのうじ]とされた。これ以後、通称藤原内大臣[ふじわらのうちつおおおみ]といった。十六日、藤原内大臣は死んだ。(宇治谷孟訳)

 この天智と鎌足を過剰に美化する筆致は、藤原文学ともいうべき日本書紀の常道というべきでしょう。また、「九月十一日、新羅は沙?督儒[ささんとくじゅ]らを遣わして調をたてまつった」という記述はウソ、つまりのちの「挿入」でしょう。白村江の戦いの戦勝国である新羅が敗国に対して「調をたてまつ」るとは考えにくいからです。ここは、書紀の編纂・創作時における新羅観が書かせたものという気がします。あるいは、「落雷」と鎌足の死との関連をぼかす一行と読めなくはありません。
 藤原内大臣=鎌足の死に至る理由あるいは原因を、書紀は「この秋、藤原内大臣の家に落雷があった」と記しています。古代、落雷・地震などの天変地異は、「祟り」とほとんどイコールと感受されていました。
 伊勢の元神を改竄したときは、未曾有の天変地異=「祟り」が天武を襲いました。瀬織津姫が怒ると「雷」の姿をとることは『エミシの国の女神』が指摘していることでした。
 瀬織津姫が「大祓の神」とされた、その年に、よりにもよって、この大祓祝詞=中臣祓の創作を、おそらく命じた張本人の鎌足の家に「雷」が直撃したというのです。
 書紀が記す、鎌足の死の床での天皇=天智に話したであろう「云々」──ここには、どんな最期の言葉があったのでしょう。鎌足は死の床で、天智に向かって「私のような愚か者」と述べています。これは、型どおりの自己卑下とも受け取れますが、そのとおりの意味も込められていたのではないかと、ふとおもったのでした。
 大祓祝詞=中臣祓の創作は、瀬織津姫を、中臣氏専売のこの「祝詞」に封じるということでもありました。もし、この「云々」に瀬織津姫の名が入っていたら──と、そんな仮定をしてみますと、中臣祓の創作→落雷→鎌足の死という一連の経緯が、「瀬織津姫という神」(「中臣祓」)の「否=ノン」の意志表示とも読めてくる可能性があります。
 この、鎌足の死の最期の言葉を、書紀はなぜ伏せたのか──。これを、伏せる必要があったと読み替えてみますと、上記のような仮定も成立の余地があるなとおもったのでした。
 この仮定の延長上には、鎌足の最期の言葉「云々」を聞いた天智の、心胆凍るような表情があるのかもしれません。「香島の大神」の宮=「神の宮」が、天智の最晩年に、なぜか唐突に造営されます。その理由と、この「云々」には関わりがあるのではないか──。
 中臣祓に封じられた瀬織津姫──と、中臣=藤原の神である春日神(四神)の謎の比売大神が、ここで二重化されてきますが、これは別に明かすべきでしょう。

419 祭神変更? 九州の龍 2002/06/14 12:30

ピンクのトカゲさん
私は、神社の知識は皆さんに比べて素人同然です。
ですから、身体を動かし、ひたすら神社めぐりを行い、疑問を感じたら図書館等で調べております。皆さんに追いつくのはいつになるのでしょうか?(笑い)好奇心だけは人一倍あります。

さて、下高橋竈門神社の件もそうですが、神社を巡って気が付いた点といえば、古い鳥居と新しい鳥居が混在したところが多く、額に表示された神社名がそれぞれ違っていますね。
今のところ、鳥居の形が違うとか、色が違うということには遭遇していません。

420 冨多大堰神社 九州の龍 2002/06/14 12:53

祭神:菅原神・罔象女神(みずはめのかみ)
所在:三井郡大刀洗町大字富多字東屋敷(下川)
古文書『寛文社方開基』によると、『下川村氏神天満宮』は、菅原道真を祭神とし、寿永年間(1182)頃勧請とある。また同所には、『罔象女神』を祭神とする『水神社』があった。大正12年3月14日、この2社を合祀し大堰神社と改称した。そばには、九州最大の筑後川が流れている。私は、境内の『大きな横たわった牛の像』が気になった。一体何だろう。福岡市西区の神社でも同じ物を見かけました。境内社には、えびすの像が祀ってあった。 階段を降りたところには、そうとう古い小さな社があり、女神の像があったが、なぜか両脇には仏像があった。これが水神社だったのだろうか。不思議に思うのは、熊本市・小郡市・大刀洗町では菅原神がよく登場します。まだ廻ってはいないが、おそらく北野町や久留米市もそうなのだろう。

421 圧倒されます〜。 GOTO 2002/06/14 14:43

風琳堂ご主人さま、ピンクのトカゲさま。

情報量といい、そこから繰り広げる想像といい、
文字を追うのでメイッパイな自分ですが
感動しています。本当にありがとうございます。

ところで香島の話題に触れたとたんに(!?)来ました。
地震です。茨城県沖が震源らしいです。
鹿島、香取といえば要石。地震を引き起こす大ナマズを
押え込んでいるそうですが、これなどもアマテラス以前の
神々を押え込んでいると考えられるのでしょうか?

だとしたら、先ほどの地震は古代日本を改めて見つめ直している皆さんへの歓喜のエールだったのかも。

422 鳥居と本殿 ピンクのトカゲ 2002/06/14 17:07

九州の龍さん
鳥居には、笠木の両端が反り、鎬(しのぎ)が削られ、ヌキが柱を貫き、柱がコロビ、額束のある明神鳥居、ヌキが柱で留まる神明鳥居などの種類があります。
一方、本殿には、たとえば、切妻平入の前方の屋根を伸ばし向拝とした「流れ造り」や変わったものでは比翼の「春日造り」などこちらもいろいろな種類があります。
風琳堂主人が、社名が変えられることは少ないといっていたと同様に本殿の造りや鳥居の形式が変えられることも稀です。
本殿及び鳥居は、祭神と相関関係があります。
たとえば、神明社(大日霊女貴)なら神明造の本殿に神明鳥居といった具合です。
したがって、この本殿と鳥居の知識があれば、祭神表記がされていなくても大凡の祭神は確定できるわけです。
さて、例に出しましたワクグリ神社(「ワ」は、竹冠に隹(ふるどり)が四つに、その下に「又」、「クグリ」は、「操」。鎮座地:愛知県宝飯郡一宮町東郷)ですが、一の鳥居は、明神鳥居、二の鳥居は、神明、そして三の鳥居が明神となっています。
では、この祭神は一体何なんだってことになるわけです(一応、ワクムスビということにしてありますが)。
こういった例は、少ないと思います。
さて、このワクグリ神社、皇室でハラボテが出ると、お札を貰いに来ます。
これを単純に皇室の崇敬が高いなどは笑止の沙汰。
裏を返せば、祟られるからです。
なぜ祟られるか?答えは見えてくると思います。
ちょっとした社寺建築の本には、鳥居と本殿について書いてあります。
神社訪問の際には、鳥居と本殿についても観察すると意外なことが発見できる場合があります。

423 駒形神社の秘神? 風琳堂主人 2002/06/15 04:24

 九州の龍さん、本殿と鳥居の建築様式についてはわたしも詳しくありません。また、過去の人間の系譜についても、追おうとすると頭が痛くなるというのが正直なところです。ややこしいことはトカゲさんにどんどん聞いてください。
 GOTOさん、鹿島・香取の「要石」が封じているのは、江戸期に「ナマズ」とされたようですが、それまでは「龍」だという伝承があったようです。もとより、これは封印のための「石」ではなく、神が宿る石だったものを、「悪神」を封印する沢庵石みたいに言いかえた者がいるわけです。そのときが、鹿島・香取が国家神として、元の祭神が改竄されたときなのでしょう。
 三河のワクグリ神社の祭神とされる「ワクムスビ」=稚産霊という養蚕神が「怪しい」という話が出ましたので、この神が隠している神を明かす話を以下に載せます。これは、岩手の駒形神を明かすということでもあり、いつかふれるつもりでいたものです。この囲炉裏夜話の話としては「最長」の話となりますので、分載します。

 戦前(昭和14年時点)の神社・祭神を網羅した『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会編)において、「郷社」桜松神社を例外として、社格は「村社」「無格社」ばかりですが、祭神を瀬織津姫と明記していた神社は、岩手県下全991社中22社が確認できます。その他、たとえば滝清水神社(稗貫郡花巻町字根子桜)や桜沼神社(岩手郡雫石村字根子)などの「祭神不詳」の滝関係社・水神社まで入れていけば、瀬織津姫を祭神表記する22社は、地上にわずかに露出した岩頭の数字といえるかとおもいます。
 なお、早池峰山の峰続きの笠森山から流れ出す川に根田茂[ねだも]川という渓流があります(北上川支流・簗川の支流)。この流域にある根田茂神社(岩手郡簗川村字堂ヶ沢)の祭神ですが、昭和14年時点においては「祭神不詳」となっています。しかし、ここは、『岩手県管轄地誌』第二号(明治10年発行)によりますと、明らかに瀬織津姫が祭神であったことが記録されています(小野義春「水源地としての早池峰山」『早池峰文化』第5号所収)。明治10年=1877年から昭和14年=1939年の間に、瀬織津姫の名が消された一例ですが、こういった事例はまだ多く、かつ全国的に潜在するものとみています。
 ここで、岩手県における「祭神不詳」の神社を『岩手県神社事務提要』から抽出してみますと、全991社中47社が数えられます。そして顕著な特徴としては、桜沼神社や根田茂神社を含む「岩手郡」が29社と突出しています。2市13郡で構成される岩手県において、なぜ岩手郡一郡に「祭神不詳」とする神社が集中しているのか。
 岩手郡の筆頭神社は「最北の延喜式内社と瀬織津姫」でも少しふれましたが、県社・岩手山神社です。同社の昭和14年時点の主祭神は「大名牟遅命」で、この祭神の怪しさは、同社のお膝元ともいうべき岩手郡松尾村にあります分社・岩手山神社が「祭神不詳」としている奇異な事実を挙げるにとどめます(同社は、県社昇格への運動の最中に、大迫・早池峰神社に対して、「両社とも並の神社とは格式が違う」という書面を送っています。詳しくは『エミシの国の女神』参照)。
 こういった祭神変更・不詳問題の背後の当事神として瀬織津姫(と隠された日神=男神)はありますが、しかし瀬織津姫は早池峰山の山神かつ水神である事実に変わりはありません。江戸期においては、早池峰山は北上川の水源山の一つとして藩に「公認」されている山でした(『邦内郷村誌』)。これまでにみてきたように、瀬織津姫は、日高見川=北上川をつかさどる神であり、日高見国の聖なる水神でしたが、しかし、その祭祀分布は、日高見国の領域をはるかに越える、おそらく律令=天皇制国家以前の広大な列島各地の水神=水源神であった可能性があります。
 この水の最高神はアマテラスの前の太陽神=日神と一対の関係にありましたから、ヤマト=中臣&藤原の手によって伊勢神宮=皇祖神アマテラスが創作されたとき、中臣=藤原は、この両神を神々の歴史の表舞台から「消す」という神祗策を鉄則としていきます。その第一策として、瀬織津姫は伊勢の地から消去され、天皇=国家・朝廷の災厄・罪を祓うという「大祓の神」として、祝詞=中臣祓に封印=擬似再生されました。現在においても、神社の最高の祝詞である、この中臣祓=大祓祝詞は生きていますし、既成神社・神道にあきたらずに発生した新興の神道・神社においてさえ、中臣祓は中枢の祝詞として認められています。神社の思想の根本は、「祓い」であり、「水に流す」という言葉のルーツにある「禊ぎ」=身削ぎ=水削ぎにありますから、中臣の神祗策(水神・瀬織津姫の利用)はまことに恐るべき影響力をもっていました。また、この中臣の神祗策を、全神社に徹底化したのが明治国家でもありました。古代の神祗官は明治国家においても神祗省として存在し、それが無疵のまま、現在の神社本庁に踏襲・継続されていることは押さえておく必要があります。

1 駒形神という謎の神
 戦前=昭和14年の時点において、岩手県でただ一社、「国弊小社」という社格を与えられていた神社が駒形神社なのですが、その祭神については、県社・志賀理和気神社ともども「祭神不詳」とされていました。この不思議な記録をもつ『岩手県神社事務提要』(以下『提要』と略記)から、当時の岩手県下の駒形神社を抽出しますと、全20社が県内に存在していたことがわかります。本社「祭神不詳」の駒形神社が、瀬織津姫をまつる神社とほぼ同数確認されます。
 祭神不詳の本社・駒形神社なのですが、では分社については、その祭神はどう表示されていたのかを一覧してみます(鎮座地は戦前の表記)。

@[村社]駒形神社【祭神不詳】         鎮座地…盛岡市仙北町西蒲池
A[村社]駒形神社【祭神不詳】         鎮座地…岩手郡渋民村芋田字蒼前
B[村社]駒形神社【祭神不詳・月夜見之命】   鎮座地…岩手郡滝沢村鵜飼字外久保
C[無格社]駒形神社【祭神不詳】        鎮座地…岩手郡平舘村字本平
D[村社]駒形神社【保食神、大山祗神、素盞鳴神】鎮座地…和賀郡小山田村上小山田字上山
E[無格社]駒形神社【保食神、稲蒼[ママ]魂神】 鎮座地…和賀郡小山田村上小山田字軽井沢
F[無格社]駒形神社【保食命】         鎮座地…和賀郡岩崎村字組小路
G[無格社]駒形神社【保食命】         鎮座地…和賀郡沢内村川舟字下大荒沢
H[国弊小社]駒形神社【祭神不詳】       鎮座地…胆沢郡水沢町鹽竈
I[無格社]駒形神社              鎮座地…胆沢郡金ヶ崎村西根雛子沢
【国常立命、吾勝々天之忍穂耳命、大日霊貴命、彦火々出見命、国狭槌命、置頼命】
J[村社]駒形根神社【大日霊命】        鎮座地…西磐井郡萩荘村下黒沢字正原
K[村社]駒形根神社【日本武命】        鎮座地…西磐井郡厳美村猪岡字山口
L[無格社]駒形根神社【日本武命】       鎮座地…西磐井郡厳美村五串字本寺
M[無格社]駒嶺神社【保食神】         鎮座地…東磐井郡大原町字熊野平
N[無格社]駒形神社【保食神】         鎮座地…上閉伊郡遠野町横田字鶯崎
O[無格社]駒形神社【保食命】         鎮座地…上閉伊郡附馬牛村附馬牛字小倉
P[無格社]駒形神社【保食神】         鎮座地…上閉伊郡綾織村下綾織字向
Q[無格社]駒形神社【保食命】         鎮座地…上閉伊郡達曽部村字中斉
R[無格社]駒形神社【経津主命、大山祗命、武甕槌命】
鎮座地…下閉伊郡津軽石村津軽石字藤畑
S[無格社]駒形神社【保食命】         鎮座地…下閉伊郡刈屋村刈屋字桜木

 駒形神社全20社のうち、祭神を保食神(命)としているのは10社、祭神不詳としているのは5社ですが、保食神が駒形神とするなら、本社の国幣小社もそう表示すれば整合します。しかし、本社がそもそも「祭神不詳」としていますので、駒形神は、保食神(=ウケモチノカミ=稲荷神)という食物神・農耕神の要素をもっているとしても、祭神名としては保食神という名は仮の名だということが推定できます。
 残りの5社のうち、KLの「日本武命」、Rの「経津主命、大山祗命、武甕槌命」は明らかにヤマトが肯定する神ですから、もし本社がこれらの神だとしますと「祭神不詳」とする必然はありませんから、これらも駒形神としては除外の対象となりましょう。
 としますと、残りは2社です。本社を含めて、あらためて書き出してみます。

H[国弊小社]駒形神社【祭神不詳】       鎮座地…胆沢郡水沢町鹽竈
I[無格社]駒形神社              鎮座地…胆沢郡金ヶ崎村西根雛子沢
【国常立命、吾勝々天之忍穂耳命、大日霊貴命、彦火々出見命、国狭槌命、置頼命】
J[村社]駒形根神社【大日霊命】        鎮座地…西磐井郡萩荘村下黒沢字正原

 IJに共通して登場してくる「大日霊貴命」「大日霊命」は天照大神の別名で、もし皇祖神アマテラスが駒形神ならば、戦前において、これを祭神表示として積極的に採用してよかったはずですが、ここも、志賀利和気神社の氏子の人たちと同じように、「そうではない」ということで、あえて「祭神不詳」を通したということでしょう。また、IJのほかの祭神が駒形神ならば、それを表に出すことがはばかられる神はありませんので、これらの神もまた駒形神ではないということで、まさに「祭神不詳」となったのでしょう。
 こういった曖昧・多岐そして不詳の祭神表示をもつ駒形神なのですが、にもかかわらず、国家からは破格の社格「国幣小社」として遇されたのでした。ここで、逆に、国家が破格に遇さざるをえない神を考えますと、もっとも怪しい神=アマテラスに関わる神を想定するしかありません。
 分社の「大日霊貴命」「大日霊命」といった祭神名は『提要』においては珍しく、この表記について厳密にいいますと、「霊」の下に「女」を入れていませんので、女神・アマテラスの異名である「オオヒルメ(ノムチ)」(日本書紀)とは読めません。いいかえれば、この漢字表記ですと、たとえば「大日霊貴」は「オオヒルキ」となり、男神の天照大神の異名ということになります。単に活字の有無のことかもしれませんが、問題は、天照大神を男神と女神のどちらを含意して表記するかは大事なことで、神明社などは女神を強調するために、あえて「大日女」「大日売」といった表記を用いたり、あるいは、「性」がはっきりしない「天照皇大神」と、「皇」を入れて無難に、つまり内務省に迎合した表記をつかっています。こういった根本的な曖昧さをもっているのが「天照大神」という漢字表記でした。読みにしても、アマテルかアマテラスかで、性差が生じてきます。漢字表記だけでは判断がつかない、性差を隠蔽した神名が漢字表記「天照大神」の大きな特徴です。駒形神にしても、なんとなく漢字のイメージから男神のように受け取られがちですが、ほんとうかどうか──、これから、少しずつ明かしていければとおもいます。

2 駒形神と早池峰山
 戦後現在、この駒形神社の祭神はどうなっているかといいますと、「祭神不詳」は一応解消されたというべきか、しかし苦しまぎれといえそうな、「駒形大神」などとされています。駒形神の謎はそのままに持ち越されてきているようです。駒形神社の「由緒」等は、現在、どのように語られているか、長い「由緒」ですが読んでみます。

■駒形神社「参拝のしおり」
御鎮座地
本社 岩手県水沢市中上野町一
奥宮 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字駒ヶ岳
御祭神 駒形大神
文徳天皇仁寿元年正五位
清和天皇貞観四年従四位下(奥州最高の神階也)
延喜の制により小社と列せられる
奥宮について
往昔の奥宮は大日岳の頂上に鎮座していた。大日岳とは現在の奥宮の鎮座地なる駒ヶ岳の南方に高くそびえる霊山で、現に駒形大明神と銘する神号碑がある。
この駒ヶ岳、大日岳は牛形山その他の山々とともに旧噴火山の外輪山を形成し、駒形山というのはこれらの連峰を総称したものであり、当社が最初大日岳に鎮座せられたというのは、この岳が連峯中の最高峰であったためである。
近世の奥宮は、現在地の駒ヶ岳の頂上に建造され建坪、三坪三分五厘、宝玉造で東北にむかっている。この地、山陽は胆沢郡で伊達氏の旧領地であり、山陰は和賀郡で南部氏の旧領地であり、両氏領土の境界に鎮座せられそのうえ両氏の崇敬はなはだ厚かったから、神祠は両氏の公費営繕で二十年ごとに改造されるというのが例であった。

本社について
 当社の社地はもと塩釜神社の鎮定地であったが、明治四年五月十四日国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため県知事等の参向することもできかねる為、当時水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治七年 社殿を大いに修理し正式の遥拝所とした。さらに明治三十六年、神霊を山頂より遷座、塩釜神社は同社の別宮なる春日神社に合祀して、社殿いっさい駒形神社に編入した。
 本殿、拝殿はもと水沢城主留守宗利が寛永六年に建立したものであるが、安政六年火災に罹りことごとく烏有に帰したため、留守邦命文久三年再興したものである。なかでも本殿は西磐井郡衣川村の大工熊谷萬吉が奉納した欅(けやき)の巨木一本ですべて作られた、三間社流造である。
 さらに現社殿は、昭和八年奉遷三十周年を記念し総工費六万二千六百円(内務省補助三万二千六百円)をもって大修理、新築、社地の整備をし名実ともに陸中一の宮にふさわしい神社となったものである。

里宮について
 里宮は駒ヶ岳の山麓およそ十二Kへだてた金ヶ崎町西根字雛子沢に鎮座して戦前は境外末社として位置づけられていたが現在は、新法に依り独立して祭典を行っている。奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は天下の霊山であり、山勢はなはだ峻険であるため登拝して御神霊を拝すること困難、さらに中腹のウガイ清水より先は女人禁制であったので、里人、老若婦人の参拝の便をはかり御神霊を勧請して奉斉したとある。
 旧南部領岩崎にも里宮があるが、今は当社との関係は絶えている。

 駒形神社・本社の鎮座地はもともと塩釜神社だったとあります。明治から昭和にかけて、「国幣小社」としての体裁が本格的に整えられていったことがわかります。特に昭和8年=1933年には「内務省」からの破格の「補助」措置がとられているのは、遠野・伊豆神社本社である熱海・伊豆山神社も同様でした。
 わたしがここで興味深くおもえたのは、特に奥宮についてなのですが、次の諸点でした。

 @往昔の奥宮は大日岳の頂上に鎮座していたこと。
 A「往昔の奥宮」は近世になると、駒ヶ岳に遷されたこと。
 B近世の奥宮は「東北にむかっている」こと。
 C奥宮への参拝については、「中腹のウガイ清水より先は女人禁制であった」こと。

 @で、駒形神は、「往昔」大日岳に鎮座していたとなりますと、これは日神と関わり深い神であることがわかります。なお、ここに出てくる大日岳は、現在の経塚山(1373m)のことかとおもいますが、大日岳─駒形神の関係は、宮城県と秋田県と岩手県の境界山である、現在の栗駒山にもみられます。ここには駒形根神社がまつられています。

■駒形根神社「伝承」
 本社は御駒宮、御駒社、大日社、駒形根明神、駒形神社とも云ひ、駒ヶ嶽の絶嶺大日嶽に在るを嶽宮と称し、其東麓に当たる当村沼倉にあるを里宮と称す。
 祭神は大日霊女尊(オオヒルメ)、天常立尊(アメトコタチ)、国常立尊(クニトコタチ)、吾勝尊(アカツ)、天津彦番邇々芸尊(アマツヒコホノニニギ)、神日本磐余彦火火出見尊(カムヤマトイハレヒコホホデミ)にして、創建の年月詳かならざれども、延喜式神名帳に載する所の本郡七座の一にして、縁起に依れば人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊東夷を征伐し給ひし時、軍容堂々として其勢雷電の如く、迎ひ遮るもの無かりしかば、巨魁等は一時は要害の地に依りて防ぎしも其勢に怖れ弓矢を捨てて降を請ひ、東陲ことごとく定まりしより、尊自ら大日霊女尊、天常立尊、国常立尊、吾勝尊、天津彦番邇々芸尊、神日本磐余彦火火出見尊の六柱の神を駒形の頂なる大日嶽に斎き祀りて東国鎮護を祈り給ひ、且祭政一致の主義により万民に敬ぶ所を知らしめ給へるものにて、東国における祭神の初めなれば、古来東奥の一の宮と称し、人民怖れて此山上に登るものなかりしと云う。(『栗原郡誌』HP)

 ここでは坂上田村麻呂ではなく、ヤマトタケルが表に出て「東夷」を服しめた話となっていますが、「祭政一致の主義により万民に敬ぶ[ママ]所を知らしめ給へる」といった戦前の表現がみられ、勧請伝承によくあるパターンの一つというべきでしょう。ただし、祭神の筆頭神に「大日霊女尊」をもってきていることは注意しておいてよいかとおもいます。岩手の駒形神社の祭神を絞り込んでいったときに残った神もまた、「大日霊貴命」「大日霊命」でしたから、駒形神はどうやら皇祖神と関わり深い神だということがいえそうです。このことが、「祭神不詳」にもかかわらず、国幣小社という高い「社格」が付与された理由だと考えてよいでしょう。
 岩手の駒形神社の「由緒」にもどります。
駒形神は、近世に、大日岳から駒ヶ岳(1130m)に遷されました(A)。また、駒ヶ岳は「女人禁制」とあり(C)、としますと、同山は、修験の霊山でもあったことがうかがえます。
 さて、「往昔」=中世以前は大日岳に鎮座していた駒形神でしたが、近世に遷った駒ヶ岳の奥宮は、不思議なことに、「東北」に向いているというのです(B)。神社一般は南面するものですが、駒形神社奥宮は「東北」に向いて建立されているというのは、注意を引かないわけにはいきません。
 地図で確認しますと、駒ヶ岳の「東北」の方角には、なにか図ったように、そこには早池峰山(1917m)が聳えています。駒形神は早池峰山と対面する神だとみることができます。
 日神と関係があり、早池峰山と対面する関係をもつ神とはなにか──。駒形神社二社の由緒から、駒形神の新しい性格が少しみえてきました。
 しかし、まだ、謎は残ります。早池峰山は神が二重化されていますし、そもそも駒形神のコマガタとはなにか、ということもあります。わたしたちは、おもいきって遠回りをしてみる必要がありそうです。

3 稚産霊[わくむすび]という不思議な神
 かつて「我姫[あづま]の国」「日高見の国」「常世の国」などと称された常陸国でした(常陸国風土記)。風土記は、その総記において、「もし身を農耕にはげむものがあれば、たちどころに多くの富を得ることができ、力を養蚕につくすものがあれば、ひとりでに貧窮から逃がれることができる」(吉野裕訳)と記していました。その「養蚕」と関わる神社でしょう、常陸国=茨城県の日立市に、「養蚕の祖神」をうたう蚕養[こかい]神社があります。蚕養神社の関連ホームページによりますと、同社は、明治時代(明治34年10月)から、そう呼ばれるようになったもので、元は於岐都説神社といい、鹿島郡神栖町にある息栖神社の分社だとされています。

■蚕養神社「由緒」
 祭神は稚産霊命他(宇気母智神、事代主神…引用者注)。昔、小貝浜沖の磯に神が姿を現わしたので、里人は上子山に社殿を造り祭ったと伝えられています。古くから養蚕の祖神として信仰され、県内外から数多くの養蚕家が参詣に訪れた。初め於岐都説[おきつせ]明神と称した。明治時代に改称。通称、津明神。東国三社の一つ息栖神社の分社である。(HP「川尻の散歩」)

 祭神は「昔、小貝浜沖の磯に神が姿を現わした」とあります。この「小貝浜」は蚕養浜でもありました。それにしても、明治国家はなぜ於岐都説明神を蚕養神社と改称したのか──という疑問が残ります。
 なお、「常陸国の三蚕社」と呼ばれるのは、上記、蚕養神社(日立市川尻町豊浦)と、蚕影[こかげ]神社(つくば市神郡豊浦)、そして蚕養神社(鹿島郡神栖町日川[豊良浦])を指します。いずれも「豊浦(豊良浦)」の地名・通名が共通していて、となりますと、神功皇后の伝承をもつ山口県の「豊浦」も想起されるところです。
 それはともかく、これら常陸国を代表する養蚕三社のなかの日立・蚕養神社ですが、その元社=本社は「東国三社」の一社である息栖神社であることは重要なことかとおもいます。
 蚕養神社の本社・息栖神社は、鹿島神宮の南と香取神宮の東の交点に位置していて、これら三社が「東国三社」と呼ばれているわけです。
 現在の息栖神社の「由緒」を読んでみます(出典HPが閉鎖のようで明記できませんが、「東国三社 息栖神社略記」が原典のようです)。

■息栖神社「由緒」
(祭神)岐神、天鳥船神、住吉三神(上筒男神、中筒男神、下筒男神)
(所在地)茨城県鹿島郡神栖町息栖
 古代、和銅年間(708〜715)の鹿島地方は、鹿島丘陵の南は現在の鹿島市国末で終り、それからは大昔に沖洲であったものが、ようやく陸地続きとなり、下総(千葉県北部)の海上郡から一里を割いて香島郡に編入され、軽野郷、中島郷(息栖)、幡麻郷、松浦郷などの集落が出来て、一段と低く南へ延びていたことがわかる。息栖神社は、このような沖洲の集落の中に、応神天皇の御代三月、今の神栖町日川に鎮祭され、大同二年(807)四月十三日、右大臣藤原内麿の命により現在地に遷されたと伝承されている。岐神(くなどのかみ)を含め五柱の神を祀る事から、古くは息栖五所明神とも称され、また鹿島神宮、香取神宮と共に「東国三社」と崇められる。
 史書『三代実録』にある「仁和元年(885)三月十日乙丑条、授常陸国正六位上於岐都説(おきつす)神従五位下」の於岐都説神とは息栖神社の事とされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)

 蚕養神社=於岐都説神社=息栖神社は、大同二年=807年までは、現在の神栖[かみす]町日川[にっかわ]に鎮座していました。この伝承に、日立の蚕養神社の伝承を重ねると、「右大臣藤原内麿の命」により息栖神社が現在地(神栖町息栖)へ遷宮したあと、元地の日川に、のちに「常陸国の三蚕社」の一つとされる蚕養神社が分離祭祀されたことが考えられてきます。
 また、息栖神社の由緒からは、息栖は沖洲であったこともよく伝わってきます。つまり、この地は、鹿島・香取の沖洲=沖島であったということです。
 主祭神は「岐神」とされていますが、これも明治以降にそういった神名に変えられた可能性があります。なぜなら『木曽名所図絵』や『新編常陸国誌』などには、江戸時代、主神は「気吹戸主神」と明記されているからです。また、松尾芭蕉は、この息栖の神、および、この神栖の地(正確には神栖は1955年に息栖村と軽野村が合併して神栖村となり、1970年に神栖町となる)を、次のように句に詠んでいたことも、祭神が「岐神」ではなかったことを証言しています。

この里は気吹戸主の風寒し

 息栖神社は現在、鹿島神宮の摂社とされています。この息栖の神=岐神について、鹿島神宮側は次のように説明しています。

 岐神は東国開拓の折り、出雲の国から東国に武甕槌大神を先導した神です。(鹿島神宮HP)

『新編常陸国誌』や芭蕉の貴重な証言句を無視して、つまり当然の祭神名であるかのように、「岐神」は武甕槌神の東国侵攻への先導神とみなされています。わたしたちの神話理解の記憶では、この岐神は「天孫降臨」の場面における猿田彦神と一緒ですし、舞台を東北に移せば、「日高見川=北上川の水神」でもふれましたが、鹽竈神を先導したとされる志波彦神とも同神となります(ちなみに、鹽竈神について、香取神宮は「香取大神」と同神だとしています)。
 そもそも、息栖=沖洲=沖島自体が宗像的というしかありません。宗像神は、道主貴=道主神とも道主日女ともいわれますように、これは航海の水先神=先導神ということです。宗像の消えた男神がみえてきたようです。芭蕉の句に詠まれた「気吹戸主」が息栖神社の前の祭神(の一神)としますと、ここに、瀬織津姫との濃厚な関係が露出してきます。なぜなら、瀬織津姫を封印した大祓祝詞=中臣祓に、同様に封印された唯一の男神が、この気吹戸主だからです。
 気吹戸主に去られた日川の地にまつられた蚕養神社でしたが、ここの祭神は稚産霊神とされています。しかし、もともと息栖神は養蚕神と先導神の性格をもった総称神=男女神であった可能性が高いです。としますと、大同二年=807年に分離祭祀がなされたとき、去った気吹戸主神=岐神と対の関係をもちうる神はなにか、となります。
 京都の木嶋坐天照御魂[このしまにますあまてるみたま]神社は「蚕の社」と呼ばれていますが、それは境内摂社・蚕養神社の存在ゆえです。現在の祭神は天御中主とされていますが天火明尊の説が有力で、蚕養神社の方の現在の祭神は「保食神、木花咲耶姫、雄略天皇」とされています。後社は摂社扱いになっていますが、蚕養神社は「東本殿」と呼ばれていますので、もともとは二社というより一社二神が分離されて、蚕養神が摂社化されたというべきでしょう。このことは、「蚕の社」の呼称が優先して人々に親炙されていることからもいえるはずです。ともかく、この蚕養神社は「織物の祖神」をまつると説明されています。つまり「養蚕の祖神」は「織物の祖神」でもあるわけです。古来、養蚕→織物は女性の仕事とされていますので、日川に取り残された神が養蚕神=織物神(機織神)としますと、去った男神との関係からも女神であることが考えられます。
 ところで、気吹戸主神が「岐神」と神名変更されたように、取り残された女神も、その名を「稚産霊神」と変更された可能性もあるのではないか──。こうおもうのは、分離された気吹戸主神と、日川に残った稚産霊神が一対=ペアとなる神の関係だという話は、寡聞かどうか、これまで聞いたことがないからです。
 京都の「蚕の社」と呼ばれる木嶋坐天照御魂神社=蚕養神社にもどりますが、ここは延喜式内社の、しかも明神大社という高い格で、「月次・相嘗・新嘗」の対象社でした。しかも、貞観年間には正五位、長久年間には正一位という極位を付与された別格中の別格の社でした。また、この木嶋坐天照御魂神社=蚕養神社は、三本足の烏ならぬ三本柱の鳥居があることでよく知られていますが、この鳥居が立っているところが「元糺[もとただす]の池」で、鳥居の柱には「元糺太神」の刻銘があるように、ここは下鴨神社の「糺の森」の元社ゆえの「元糺」でした。また、この「蚕の社」の神は、『三代実録』や『梁塵秘抄』などは「祈雨神」と記しています。つまり、蚕養神は水神でもありました。なお、下鴨の糺神は、御手洗神ともされていますが、邪を糺す大直日神でもあった瀬織津姫です。祈雨神=水神かつ織姫としての瀬織津姫が京都・蚕養神社に隠れていることは、そのまま東国の蚕養神社にもあてはまるのではないかと考えられます。
 神栖町に鎮座する息栖神社と蚕養神社は、常陸川(常陸利根川)の河口部に位置し、しかも息栖神社の管轄地には日本三霊泉のひとつ「忍潮井[おしおい]」が今も湧いています。養蚕神かつ機織神かつ水神の要素をすべて満たし、しかも気吹戸主神ゆかりの女神は、やはり稚産霊神では無理がありましょう。
 この神明かしが妥当とするなら、常陸国の三蚕社すべてが主祭神を共通して稚産霊神としていますので、みな「怪しい」ということになってきます。「日本一社」(蚕影神社)とか「養蚕の祖神」(蚕養神社)とされる=自称する稚産霊神ですが、日本書紀の「一書(第十一)」は、この養蚕祖神は天照大神=アマテラスだとも記していました。日本の養蚕祖神が二神存在するというのは不自然で、どちらかがウソなのでしょう。アマテラスそのものが、女性神=水神=織姫=瀬織津姫と、男性神=日(火)神=農耕神=天照神を合成して創作された神であること、および、遠野あるいは東北での養蚕神はオシラサマ(オシンメサマ)で、この神の背後にも瀬織津姫と男神・天照[アマテル]神が投影されていること──これも『エミシの国の女神』が明かしていることでした。
 瀬織津姫の異名神といってよさそうな、この怪しい神・稚産霊を主祭神とする神社は、上記の蚕養(蚕影)神社のほかに、実はもう一社、よく知られている神社があります。それは、「東日本一の大杉」=「公津の大杉」(樹齢1300年有余。「公津」はかつて「神津」)を神木として有する麻賀多神社です(千葉県成田市)。同社は延喜式における国幣社で、その神木=大杉の存在から、ここも元は航海神の性格をもつ神がまつられていたことが考えられますが、現在、<神津の大杉>のみが、それを沈黙の言葉で静かに語りつづけているというべきかもしれません(大杉神については「龍神と杉と瀬織津姫」を参照)。なお、同社境内には、「祓戸神」としてではありますが、瀬織津姫、気吹戸主もまつられ、しかも、ここは、東北の駒形神社とも関わってくる可能性が高いですので、次にこのことをみておきます。

424 駒形神社の秘神(2) 風琳堂主人 2002/06/15 04:32

4 駒形神は小麻賀多神
 岩手の駒形神社が「祭神不詳」とされていたことは、全国的にもいえることでした。
 たとえば、明治40年に大重神社(大重は「八重」または「火雷」の誤写説あり)と合祀された駒形神社が奈良県御所市にありますが、ここの駒形神社も祭神不詳とされています。ただし、土地の人は、この駒形神のことを「きのまたさん」と呼び、祭神については不詳とするも「木股神」とも表記しています。木股神は木俣神で、古事記などの出自伝承にとらわれなければ、ただ御井神=井泉神という水神の性格が残るばかりです。
 駒形神が「木股神」だという伝承をもつ神社は、奈良からはだいぶ離れますが、もう一社あります。長野県小県郡武石村に鎮座する子檀嶺[こまみね]神社です。ここは里宮本社で、神体山である子檀倉嶽の山頂に奥宮があり、中宮を駒形神社と呼称して、三社で一社を構成しています。この子檀嶺神社は通称「木の宮」ともいわれ、これは、祭神が諏訪神二神とともに「木股神」としていることと関係しています。なお、『式内社調査報告』によりますと、「中宮は余里村諏訪社(現在駒形神社と称する)」とあり、子檀嶺[こまみね]神社の駒形神は、諏訪神ともゆかりあることになります。
 諏訪神は、その祭神名の是非を保留にしていえば、男女一対の神で構成されています。おそらく、このことを反映したものとおもいますが、長野県にもう一社、不思議な駒形神社があります。それは、千曲川流域でもある、佐久市塚原に鎮座する駒形神社(駒形明神社)です。同社は、表向きの祭神名を「宇気母智命」とするも、主祭神表示は「騎乗の男女二神体」としています。また、同社のすぐ西には名跡とされる「滝不動跡」(塩名田宿)もあり、おそらくこの駒形神社とは縁故浅からぬことが考えられます。
 ともかく、駒形神は、その漢字の字面から馬神にみえますが、たしかに馬とも関係が深いですが、まず木股神=木俣神=御井神という水神の要素をもった神であり、しかも、この神は単独神ではなく「男女二神」であることがみえてきました。
 話を「東国」へもどします。
 千葉県成田市下宿にも駒形神社があります。同社の関係ホームページは、次のような「由緒」を記しています。

■麻賀多神社
(祭神)和久産巣日神(わくむすびのかみ)
(鎮座地)千葉県成田市下宿
(由緒・伝承)
 麻賀多神社は印旛沼の東南酒々井町を中心として佐倉市・成田市・富里町等の地区に19社、駒形(小麻賀多)を加えて24社ある。祭神はすべて稚産霊であることから古代には麻賀多神社のある地区は同一氏族の氏神であろうとの説も有る。(境内略志)

 駒形神は小麻賀多神であるとのことです。そして、印旛地方には、どうやら駒形神社は5社が存在し、しかも、それらの祭神はすべて稚産霊だというのです。
 下宿・麻賀多神社の「本社」のほうの「由緒」も読んでみます。

■麻賀多神社
(祭神)和久産巣日神(わくむすび)(稚産霊:伊勢外宮豊受神の親神)
(鎮座地)千葉県成田市台方字稷山
(由緒・伝承):「式内、印旛郡一座」
 祭神は天照大神の妹神で産業を司る神として崇敬をあつめる。この地方は二千年の昔、麻の産地として麻縣(あさがた)と云う時代があった。当時麻は織物類の原料として貴重なもので朝廷の身に着ける着物はこの地より献上したと伝わり、この由来から神紋は特別に麻紋を使うようになった。
 応神15の頃印旛国造・伊都許利命(いつこり)がこの地方開発の折、夢の中でみた洞木の木の下より勾玉を掘出し、御鏡と併せ魂代(たましろ)として祭り、麻賀多大神として崇め奉仕した。
(境内社):天之日津久神社、天満宮、祓戸神(瀬織津姫、気吹戸主、速秋津姫、速佐須良姫)

 祭神=和久産巣日神=稚産霊は、「天照大神の妹神」であり、また「伊勢外宮豊受神の親神」だそうです。この由緒から、わたしは、伊勢=天照大神におもねる表示・表記をせざるをえない麻賀多神社の<不幸>を感じます。これまでみてきたように、稚産霊神はとても怪しい神です。それを正当づけるために、つまり自社の神を説明するために、依拠するものが記紀だという不幸の普遍性、いいかえれば、全国の神社に共通してみられる病に犯されているとしかいいようがありません。
 ただし、この由緒はただ一点、貴重な記録をわたしたちに残してくれています。それは、駒形の「こまがた」あるいは「こまかた」が、ひょっとすると「麻縣(あさがた)」からきたものかもしれないということです。
 麻縣[あさがた]→まがた→麻賀多(→小麻賀多→駒形)との可能性はたしかにあるものとおもいます。息栖神社=蚕養[こかい]神社の神は、養蚕→絹による養蚕神かつ機織神でもありましたが、これは三河の天白神にもいえることでした。また、天白神は養蚕神かつ「麻」の機織神でもあり、さらに、水神でもあり、絹麻を問わない織姫でもありました。しかし、天白神は農耕神という男神をもあわせて秘めていましたので、天白神は瀬織津姫という伝承が多いですが、男神を主にすれば天香香背男=天津甕星でもありました(『エミシの国の女神』参照)。
 下総・常陸国において、その先住神は星神=香香背男でした。鹿島・香取が、それぞれ凹凸の「要石[かなめいし]」で封じているとされる神こそ、この星神でしょう。また、これらの要石は、伊勢にまで続いているともいわれますように、封じられた神は、鹿島・香取かつ伊勢の元神でもあると考えられます。
 麻賀多神が、天白神に秘められた神と同神ならば、この鹿島・香取という藤原神の強烈な支配下にある地で、伊勢あるいは鹿島・香取の元神と同神だと主張することは自殺行為に等しかったとみなければなりません。祭神を和久産巣日神=稚産霊とすることを受け入れた時機がどこかにあったはずです。遠野という東北の、山奥のさらなる山奥の早池峰神社にまで国家による由緒書没収の手が伸びていたことを考えますと、麻賀多神社が正当な由緒書を保持しえなかったのは、むしろ当然のことだったと考えられます。
 同社が表示する祭神名=和久産巣日神には、稚産霊ではわからない「日神」という表記がされています。本来の日神の痕跡を消さないことが、麻賀多神社のなしえた、せいいっぱいの自己主張だったのかもしれません。
 ここで、麻縣神=麻賀多神が駒形神や天白神、あるいは息栖神と同神であり、また男女神で構成されていたと仮定しますと、麻賀多神にも男神と女神がかつて(延喜時代の前かもしれませんが)存在したことになります。諏訪神社上社は男神、下社は女神と、神の性差を「上」「下」で分けていますように、麻賀多神の男神は「大」麻賀多神、女神は「小」麻賀多神とみなされたことがあったのではないでしょうか。この女神=小麻賀多神が、東北へやってくるどこかで、あるいは時の経過のどこかで、駒形神と漢字表記されるようになったのでしょう。
 また、駒形神が馬神とみなされるようになるのは、かなり後世のことだとおもいます。もとより、水神と馬との関係は強いものでした。たとえば、神馬[じんめ]としての馬(白馬)ということもあります。これは、長野の駒形神社が「騎乗の男女神体」を祭神としていたことに、よく表れています。また、水神に「祈雨」をするために、滝壷に馬の骨を放り込んで水神=龍神を怒らせ雨を降らせるといった祈雨法は、意外かもしれませんが、奈良・石上神社においてもみられ(ここは、布留川の水神をまつるのが元の姿)、また、遠野においても記録されています。それと、水神の衰落したカッパが、川から馬に引っ張りだされるという河童駒引潭を挙げてもよいです。あるいは、馬と娘の婚姻による蚕の誕生という、いわゆる馬嬢婚姻潭を例として挙げてもよいです。このように、水神と馬と蚕は、強い関係をもっていました。駒形という漢字の字面も影響したとおもいますが、時間の集積の過程で、駒形神は、水神や養蚕神の性格を馬神に譲ったものとみるべきです。
 しかし、こういった水神=養蚕神の衰落過程があったとしても、駒形神の原点は、皇祖神アマテラスの祖型神(の一神)でしたから、ために、「祭神不詳」にもかかわらず、明治時代、国家は、破格に優遇をせざるをえなかったのだとおもいます。これはいいかえれば、神名不詳といえども、この神に対する人々の信奉の強さを物語っていました。
 くりかえしますが、駒形神(の一神=女神)は、奈良と長野の伝承から、木股(俣)神=御井神=水神でもありました(「木股」の木は桑の木だったかもしれません)。また、息栖神社=蚕養神社の蚕養神も、京都の蚕養神の探索から、水神かつ養蚕・機織神であることが考えられ、さらに、息栖神から分離された蚕養神=女神は、松尾芭蕉の「証言」のとおり、息栖神=気吹戸主神と濃厚な関係を秘めた神でした。そして、麻賀多神の一神は小麻賀多神=駒形神と表示されていたわけです。印旛沼のほとりに位置する開拓神である麻縣神=麻賀多神に、水神かつ織姫の性格がないというほうが、むしろ奇妙というべきでしょう。

5 駒形神は瀬織津姫
 あと一社、福島県古殿[ふるどの]町の鎌倉岳(669m)に鎮座する駒形神社にふれないわけにいきません。
 古殿町は、いわき市遠野町を貫流する鮫川(古名は「松川」)上流に位置しています。この遠野の鮫川の滝埜神社(現在、国魂神社境内社)、つまり鮫川の遠野「大滝」の滝神として瀬織津姫の名が確認できます(福島の遠野と岩手の遠野、ともに瀬織津姫をまつることからも、両遠野が無縁とはおもえません)。
 古殿町のホームページに、この駒形神社について、たいへん注意を引く紹介がありますので、まずは読んでみます。

■駒形神社
 駒形神社は、明治6年官令によって神社の社名祭神が変更され、現在の神名となった。
 馬の神様として祭日(旧4月8日)には子馬の生まれた家では餅をついて供え、子馬の成長と繁殖を祈る多数の参拝者でにぎわった。
 また神社名の変更以前は鎌倉岳に十一面観音が安置され、十一面観音堂と呼んだ時代もあり、その祈祷として、家内安全、厄災消除、縁結子宝成就、諸願成就の信者で盛り上がった時代もあった。
 現在は静かな動きであるが、町のシンボルの山、信仰の山、健康増進の山として町民から愛されている。

 さりげない紹介ですが、ここには、貴重な証言が記されています。

@ 「明治6年官令によって神社の社名祭神が変更」されたこと。
A 社名変更以前は十一面観音堂と呼ばれた時代があったこと。

 古殿町教育委員会に問い合わせたところ、鎌倉岳には不動滝もあり、また銘水「長寿の強清水」が湧き、ここに不動尊の祠があるとのことです。また、同山の古い社名は、戸神[こかみ]神社とも呼ばれていたとのことです。
 十一面観音および不動尊という祭祀条件は、早池峰山とまったく一緒というしかありません。山頂には十一面観音がまつられ、この観音と習合していた神、および早池峰山系の遠野側の又一の滝や荒川不動滝を含めた滝神は、すべて不動尊=瀬織津姫でした。
 あとは@の問題です。「明治6年」に国家の命令=「官令」によって、祭神は「稲倉魂命」とされたようですが(『神社明細帳』)、では、変更になる前は、どんな祭神だったのか──。
 鎌倉岳の祭祀はちょっと複雑です。現在の「鎌倉岳」という山名の前は「見岳」あるいは「鎌倉見岳」、そしてその前は、「古開山」と呼ばれていました。
 鎌倉岳の最古称に「古開山」の名が確認できることは、とても重要なことといえます。なぜなら、かつての戸神神社の戸神=「こかみ」と、この山名は正確に対応しているからです。古開山の古開=「こかい」は、蚕養=「こかい」で、戸神は「蚕神」とみることができるからです。つまり、鎌倉岳の神は養蚕神だということがいえます。
 さて、この古開山=鎌倉岳の祭祀を歴代にわたって司ってきたのは、松尾神社(=延喜式内社「永倉神社」で、現在は元名の永倉神社に復帰)の鎌田家でした。この鎌田家には、前述の、明治6年11月付の『神社明細帳』と、「文化年中(1804〜1818年)写之者也」「他見堅無用」と表紙に記された、松尾神社が管理する小社を含めた「棟札」の写しが数多く保管されています(これらを仮に「鎌田家文書」と呼んでおきます)。
 古開山=鎌倉岳は、いくつもの峯・嶽から成り、それらの総称として、現在、鎌倉岳と呼ばれています。これらの峯・嶽には、それぞれの「神」が鎮座していたようです。文書によりますと、最古の神は、天平元年=729年に勧請の「櫛ヶ峯太神」です。この神は、前後の文字が判読しづらいのですが、「木島居」の神で、明治6年時点の祭神は「天櫛玉命、櫛明玉命」とされました。
 また、永倉嶽の神として、「官令」によって駒形大明神=稲倉魂命と決定されたのが、明治6年のことでした。これが現在の鎌倉岳の代表神となります。
 しかし、明細帳には、十一面観音および不動尊と関わる、大事な鎌倉岳の「嶽」も記録されていました。このもうひとつの峯=嶽は、「清明嶽」です。この嶽神は「清明明神」と表記されるも、その祭神は「瀬織津姫命」とはっきりと書かれていました。つまり瀬織津姫は、古開山=鎌倉岳において、清明明神と呼ばれていたのでした。なお、年月はわからないのですが、古開山に十一面観音堂を「造立」するにあたって、古開山の名を「鎌倉嶽」と名称変更したのは「源基光」だと文書は記しています。
 鎌倉岳の神は、もともと古開神=蚕養神であり、十一面観音に仮託される神であったことが見えてきました。
 天平元年勧請とされる櫛ヶ峯太神の祭神名は「天櫛玉命、櫛明玉命」とされていました。この櫛玉命は、奈良・広瀬神社の「相殿」にまつられる神でもあります。広瀬神社=大忌神、つまり、同社の主祭神が瀬織津姫であることは、『エミシの国の女神』がすでに明かしています。
 また、櫛玉命は、伊勢内宮の奥の院かつ摂社とされる朝熊神社の神でもあります(松前健『古代伝承と宮廷祭祀』)。としますと、天櫛玉命と対の関係にある櫛明玉命は、朝熊水神とみられ、この水神は、内宮別宮の滝原並宮、および、同じく内宮別宮である伊雑宮の神とも同神でした。つまり、天照大神荒魂であり(『神宮要綱』昭和3年=1928年刊)、瀬織津姫でした。
 さらに、文書に記されていた「木島居」の木島は、京都の「蚕の社」とされる木嶋坐天照御魂[このしまにますあまてるみたま]神社の「木島」でしょう。木島は「蚕の島」であり、同社の本来の祭神=男神は火明命です(火明命は、「天照国照彦天火明奇玉饒速日命」の略称。「奇玉」→櫛玉命も略称)。また同社「蚕の社」の女神=養蚕神は、下鴨神社の「糺の弁天さん」ともされる、これも水神=瀬織津姫でした。
 あと、明治期にその社名を変えられた、日立市の蚕養神社(←於岐都説神社=息栖神社)の「由緒」に記されていた「通称、津明神」という、この通称名のことも挙げておくべきでしょう。瀬織津姫は伊勢内宮の荒祭宮の神でしたが、この荒祭神の異称として「津守大明神」という名があることも報告されています(近江雅和『記紀解体』)。としますと、日立の(息栖神=)蚕養神=津明神と、荒祭神=津守大明神を異神とみることはむずかしいだろうとおもいます。明治期に、なぜ、わざわざ於岐都説神社から蚕養神社へと社名が変更されたかの理由も、みえてきたというべきかもしれません。明治国家は、「於岐都説=息栖」の名を残しておくと、息栖神=「気吹戸主」から瀬織津姫の名が明かされる可能性があり、それを嫌ったと考えるしかありません。
 鎌倉岳=古開山の神、つまり蚕養[こかい]神=養蚕神がどんな神かは、すでに明らかだとおもいます。古殿町HPにあった「明治6年官令によって神社の社名祭神が変更され」という文面──、つまり、駒形神=稲倉魂命は、「官令」によって、瀬織津姫の名を「変更」した神でした。ちなみに、稲倉魂命は宇迦神、つまり稲荷神です。稲荷神は、日神=火神および水神を内封した、あるいは先住の神々を鎮魂し内包する総称神であることは、別に記したとおりです(「稲荷神と瀬織津姫」参照)。その意味で、駒形神=稲荷神という祭神表記法は、まるっきりデタラメというわけではありませんでした。ただ、瀬織津姫(および背後の日神)の神名を表に出さないこと──それだけが祭神「変更」の主意=目的であったとみることができます。
 明治期に、岩手・遠野の早池峰神社の由緒書が「没収」されたこと、および根田茂神社における祭神変更ばかりでなく、福島県古殿町の駒形神社においても、瀬織津姫の名が変えられた事実──これらは、とても重要な「史実」というべきです。
 岩手の駒ヶ岳の奥宮が「東北」の早池峰山に対面していたのは、どうやら、早池峰山の瀬織津姫のさらに奥に秘められた日神=男神のほうであり、つまり、駒形神は、瀬織津姫を深く隠していたということがはっきりしました。中臣=藤原氏の祭祀思想が、近代にまで貫徹されていることを、あらためて確認するかたちとなりました。
 なお、鎌田家文書にみられる八幡宮の「棟札」の写しの3枚──、貞享四年=1687年、享保五年=1720年、および日付不祥の三枚に、八幡神の主神(=比売大神)として、瀬織津姫の名が記されていることを付記しておきます。「他見堅無用」が指すところです。

(後記)
 原稿の最終段階で、「鎌田家文書」を見る機会をいただきました。鎌田家および古殿町教育委員会の竹貫さんに、厚くお礼申し上げます。

425 長崎の湯江神社 九州の龍 2002/06/17 22:11

祭神:菅原道真公・譽田別命(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)・瀬織津姫命
鎮座地:長崎県高来郡湯江

旅行の途中で、偶然にも瀬織津姫の名を発見しました。
地元の方の話によると、この神社は桜の名所でもあるらしい。一の鳥居の額には老松天神、鳥居をくぐると右手には境内社があり、親子三人に見える仏像があった。 左手には善神さん古墳(横穴式石室)と呼ばれる古代の古墳があり、高来町の文化財に指定されています。階段を上ると二の鳥居があり、額には老松神社、頂上に上ると三の鳥居があり、額には湯江神社とある。本殿の右手には、湯江神社の沿革が石碑に刻まれていました。

菅原道真公を御祭神とする老松神社は、建仁年間、太宰府天満宮より御分霊を奉請して祭祀された。江戸時代は七郷の社とあおがれ、村々から毎年浮立を奉納した領内第一の天満社で、明治7年に郷社に列せられた。明治11年区制から郡制への変革に伴い、三部壱と平原の住民が氏子となり奉斎してきた。黒崎名に鎮座し、元湯江村一円の住民で奉祀してきた八幡神社は、貞享年間に筑前筥崎八幡宮より譽田別命の御分霊を奉請して奉祀され、明治7年村社に列せられた。里名に鎮座した若宮神社の御祭神は息長足姫命で、里の住民で奉祀していたが、元禄5年八幡神社に合祀された。三部壱名通瀬に鎮座した通瀬大明神は、御祭神が『瀬織津姫命』で法川、善住寺、平原の住民で奉祀していたが、明治8年八幡神社に合祀された。以後、両社とも地区の住民で奉祀してきたが、祭祀を厳修し、氏子の弥栄を願うため老、松神社と八幡神社の氏子が相諮り、両社神を現在地に合祀して、昭和41年5月神社名を湯江神社と定めた。

426 有明海の瀬織津姫 風琳堂主人 2002/06/18 09:38

 九州の龍さん、「旅行の途中で、偶然にも瀬織津姫の名を発見」──こんな「偶然」はそうあるものではありません。
 この通瀬大明神=瀬織津姫の元の鎮座地「三部壱名通瀬」というのは、現在の長崎県北高来郡高来町三部壱名のことかとおもいます。地図によりますと、ここは、今、問題になっています有明海諫早湾に面したところですね。諫早湾の新しい干拓が実施されますと、「三部壱名通瀬」は、海を失うということになります。
 湯江神社の沿革を記した石碑の説明は、瀬織津姫がどのように現在の湯江神社の祭神となったかが明瞭に記されていて、とてもいいとおもいます。

@瀬織津姫=通瀬大明神は、明治8年=1875年、八幡神社に合祀されたこと。
A昭和41年=1966年に八幡神社と老松神社とが合社=合祀して「湯江神社」ができたこと。

 瀬織津姫の合祀過程を「石碑」はこう記しているわけです。
 明治8年までは、瀬織津姫は「通瀬大明神」と呼ばれるも、単独にまつられていたようです。同年4月には、明治政府は、「神仏合同布教を廃止」するとあり、この年から、「神仏分離」がより強化されたようです。こういった政府の策が、通瀬大明神=瀬織津姫の八幡神社への合祀行為と関わっていることが考えられます。
 しかし皮肉なことになりました。瀬織津姫のこの八幡神社への合祀は、考えてみれば、瀬織津姫が八幡神社の主祭神へ「復帰」したということになりますからね。いくらあとからの合祀とはいえ、八幡神社の祭神が「譽田別命(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)・瀬織津姫命」では、これは当局にとって、あまり歓迎できる祭神表示ではなかっただろうとおもいます。よくこのままで戦前を生き延びたなというところでしょうか。
 そして、昭和41年=1966年のさらなる合祀=合社です。昭和41年12月9日には、佐藤栄作改造内閣によって、2月11日を「建国記念の日」とする政令が公布されます。老松神社と八幡神社が合祀されて「湯江神社」が成立する過程にも、これまた、国家の思惑がからんでいたのかもしれません。正確にいえば、この新しい合祀には、こういった国家の思惑あるいは意志といったものを汲み取った神社本庁→神社庁の「指導」があった可能性があります。氏子の人たちが率先してこの新合祀を「相諮り」したものだったか──。いいかえれば、「氏子の弥栄を願うため」になぜわざわざ「合祀」する必要があったのか──実際のところを聞いてみたいものです。
 湯江神社の短い沿革説明ですが、こういった疑問を喚起させてくれます。紙ではなく「石碑」にあえて「沿革」を記した意味、あるいは氏子の人たちの思いを少し想像しました。
 なお、高来町の隣の小長井町には「淀姫神社」、同じく隣の諫早市御手水町には「御手洗観音」と、瀬織津姫ゆかりの社寺がみられます。
 九州の龍さん、いい報告をありがとうございました。この高来町有明海対岸の佐賀の地では、現在、瀬織津姫の名はほぼ完全に消されていますが、南の長崎の地では、瀬織津姫の、ひょっとすると戦後にまでつづく小さな「ドラマ」があるということかもしれません。

427 石神神社行きについて 米子の金太郎 2002/06/18 11:45

やっと登場できました。9月1日から3日まで、青森に行くことになると思います。瀬織津姫とどのような関係となるかわかりませんが,今とても気になっているのが,十三湖周辺と金木町周辺なのです。昨年、神事の際早池峰の神と名乗る方が,「金木の神」のことを言われました。その後たびたび白き神と名乗る神様が登場されますが,白神山地,岩木山周辺にかかわっているような気がしています。
 石神神社の件にしても,アテルィの件にしても,青森に行って確かめるしかないと感じています。宇佐神宮から始まって,丹波の天岩戸神社,島根の加賀の潜戸,佐太神社、厳島神社すべて瀬織津姫姫にかかわっていたことがわかり,ある意味ほっとしています。出雲の神と東北の神の歴史に埋もれてしまった太古の「意識」と言うべき何かが動き始めているように感じています。太陽神と水神の原初の意識の統合が望まれているように思っています。私は,どうも使いっぱしりをマタマタさせられるようです。

428 長崎轟峡 九州の龍 2002/06/18 21:46

御主人、前回の続きです。
湯江神社の本殿の裏には、石で作られたそうとう古い境内社がありました。一つ気になったのは、狛犬の横に象の顔の像があったことです。神社に象の像?
神社前の道路を多良岳方面に上ると、名水百選の地、轟峡があります。轟峡には、大龍の滝・楊柳の滝・轟の滝・潜龍の滝の大きな4つの滝があります。湯江神社とともに『桜の名所』らしい。楊柳の滝のそばには、轟峡観音堂があり、
祭神:『大山積天神』が祀られていました。この地にはこの神の民話『飛堂さん』というのがあるそうです。
轟峡へ上る途中には名水汲み場があり、老若男女がポリ容器一杯に水を入れていました。横には小さな社があり、『水神』と書かかれ、白蛇が2匹くっ付いた像があった。 轟峡は、北高来郡高来町三部壱名にあり、通瀬大明神=瀬織津姫命は元々三部壱名通瀬に鎮座しており、大山積天神にも瀬織津姫の影が見え隠れします。

429 津軽と物部の神 風琳堂主人 2002/06/19 03:13

 米子の金太郎さん、はじめまして。
 津軽の金木は地吹雪と太宰治の故郷といったイメージしかありませんが、ここは、十三湖を河口湖とする岩木川流域のまちですね。かつて十三湖周辺は歩いたことがあって、そのときの記憶では、湖の北にある日吉神社の本殿裏にはアラハバキの木碑があり、ここもアラハバキの郷だなとおもったことがあります。この神社の境内地は小さな水郷のような印象がありました。日吉神社の神体山は、さらに北の四ツ滝山かもしれません。また、岩木川の河口部のところには、なぜか遠野の瀬織津姫をまつる元社と同名社の伊豆神社があることが、妙にトゲのようにひっかかっています。
 岩木川の流域にある金木町ですが、これはあとで気がついたのですが、ここに芦野湖という小湖があって、そこへ小さな岬が突き出しています。この岬の先端には「水神宮」があって、ここには「桜松橋」という名の橋が架かっています。囲炉裏夜話のこれまでの話につづければ、金木では、ここがわたしは気になっています。
 この岩木川流域には、「縄文のヴィーナス」の土偶を多く出土する亀ヶ岡遺蹟(西津軽郡木造町)もあります。ここには雷電宮と八幡宮があります(伊豆神社本社の熱海・伊豆山神社の祭神=火牟須霊命〔=火産霊命=穂産霊命〕)の「荒魂」をまつる境内摂社は、かつて「光の宮」〔『東鏡』〕とも呼ばれた雷電社です)。
 また、紀元前後、つまり今から2000年ほど前といわれる、日本最北の水田遺蹟もあります(南津軽郡田舎館村)。ここは縄文と弥生が融合した象徴のような遺蹟かとおもっています。この田舎館の遺蹟は、正確には岩木川の支流・浅瀬石川の流域にあるのですが、この浅瀬石川の源流の山は、今は途切れていますけど、2000年前には、現在の十和田湖に聳える火山でした。カルデラ湖である十和田湖を構成した幻の火山を、わたしは仮に「十和田湖山」と呼んでいますけど、この幻の火山は、岩木山とともに、津軽の霊山だったのではないかと考えています。
 現在の十和田湖の北に、少し気になる名の山があります。それは櫛ヶ峯(1517m)といいます。「駒形神社の秘神」でもふれましたが、福島の「櫛ヶ峯」の神(男神)は「天照国照彦天火明奇玉饒速日命」を元とする「櫛玉命」でした。このことは、ここ十和田の櫛ヶ峯(正確な所在地は南津軽郡平賀町)にもいえるのではないかとおもっています。なぜなら、駒形神が鎮座するとみるしかない山=駒ヶ峯(1416m)が、この櫛ヶ峯の隣にあるからです。今は亡き「十和田湖山」に替わる浅瀬石川の源流山(の一つ)が、この津軽の櫛ヶ峯です。
 なお、岩木川の源流山系は「白神山地」です。「白神」とはなにかという問いも当然浮かんできますね。このブナの森の白神山地には、その名も、白神岳(1232m)や向日神岳(1243m)、弁天森(980m)といった、瀬織津姫の匂いがとても強い山名があります。
 津軽富士=岩木山は岩木川に巻かれるように聳えています。石神神社は地図上では石上神社と表記されていますけど、これは遠野三山の一つである石上山が、かつて石神山とも表記されていましたから、同じことかとおもいます。遠野の石神=石上神社の祭神は、香取神宮と同神の「経津主命」を主祭神とし、ほかに伊邪那美命、稲蒼[ママ]魂命とされています(『岩手県神社事務提要』昭和14年)。石上神社は、基本的には物部祖神をまつるもので、これをまつる民がヤマトに「まつろわない」とき、この物部の神はアラハバキ神となります(「まつろ」った代表が奈良・石上神宮です)。瀬織津姫が伊勢の伝承において「アラハバキ姫」と呼ばれていたことも記憶に新しいことです(近江雅和『記紀解体』)。
 わたしは、最初期の海洋農耕神=太陽神を、この物部の日神とみています。日本海沿いを北上して、この日神は、津軽の地にも足跡を残している可能性があります。

 九州の龍さん、湯江神社の追加報告をありがとうございます。轟峡のある境川の源流山は多良岳(983m)ですね。湯江神社の「本殿の裏」の境内社こそ、本来の社だとおもいます。
 湯江神社の「社殿に象の像」とのこと──これは東北でもよくみかけます。神仏習合の名残だとおもいます。象頭人身はインドの古い神を擬したもので、おそらくこれも仏教の守護神とされた「歓喜天」を表しているかとおもいます。歓喜天は、もと死人をも食うという「鬼神」とされていました。この鬼神に苦しむ民を救うのが十一面観音とされます。観音は女身に姿を変え、鬼神に仏教帰依を誓わせ、その代償として鬼神に抱かれます。鬼神が、観音と「歓喜」の世界をむさぼったということから、鬼神(たち)は「歓喜天」とされたようです。なお、神社の「象の像」は左右一対のはずで、一方は十一面観音の化身だとみますと、ちょっと感慨深いものがあります。十一面観音の裸弁天化への飛躍は、もうすぐのところにあります。
 桜と滝と白蛇──そして轟峡観音堂ですか。神仏分離後の祭神が「大山積天神」とは呆れますね。しかし、大山積=大山祗は木花開耶姫と磐長姫の父神とされますから、この二女神が瀬織津姫の異名の分神=分身とみれば、これはとても高度な謎解きを要求している祭神表示だといえるかもしれません。

430 浮岳山深大寺 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/06/20 01:09

ご主人、こんばんわ!皆さんこんばんわ!
皆さん、瀬織津姫ととってもいい触れ合いされている様子ですね。それに触発されて、私も深大寺に行ってきました。

浮岳山深大寺

昌楽院を号し、法相宗を始まりとし、のち天台宗に改む。本尊は阿弥陀如来、恵心僧都の作なりと言う。
元三太子堂、降魔の尊像、五大尊石、要石、亀島弁天祠、深沙大王社、毘沙門、吉祥天社、剣立石がある。
天平5年(733)、満功(まんくう)上人によっ創建されたと伝えられる。
鐘楼、金銅釈迦如来倚像、薬師仏、不動明王坐などありますが、有名なものは、
創建より約一世紀以前にあたる国宝の白鳳期の金銅釈迦如来倚像でしょうか。
奈良朝期の古仏の少ない関東では珍しいこの仏像が伝えられた経路は不明です。
 明治の中頃、永和二年(1376)の鋳刻がある梵鐘調査に来寺した博物館員によって、本堂脇の太子堂から発見されたというこの仏像は、満功上人が大陸から持ち帰ったとか、奈良の大和地方で造られたものを安置したとか、また近くの帰化人部落の廃寺からもたらされた客仏ともいわれていますが、いまはお堂の中で数千年の世の移り変わりをみてございます。

また、江戸名所図会には創建時のこと

満功上人が当寺を創す。そのとき神霊、水中の岩上に現れたまふ。上人その尊容を模しとゞめんとするに、御衣木(みそぎ)なし。然る七月七日玉川に霊木流れ漂うあり。則ちこれを得て薬師仏三体を彫刻し、一体を当社に納む。(余二体は下野国日光山及び出羽国にあり)と書かれています。

満功上人がここに祀ったのは深沙大王といい、深大寺の寺号もここから名付けられた。深沙大王は常に釈迦の近くにいて、その説教を一番多く聞いたという毘沙門天の生まれ変わりといわれます。あはは、簡単に言うと三蔵法師が経典を求めてインドへ旅したとき砂漠のなかから現れて助勢したという彼の沙吾浄のことと言われているらしいです。(河童だぁ)一般的には水神といわれています。
道理で、この間かいた話は亀と書きましたが、一説に蛇とも言われていますもん。

さて、このとき彫られた三体の仏像のうちの一つは日光の二荒山にかかる神橋にあるとされます。

日光山内の入り口にある神橋は、現在の形になったのは寛永11年(1634年)日光東照宮の大造替(だいぞうたい)の際で記録によればこの時に将軍・勅使・行者以外の往来を禁止(一般の人は通行できない)したとされています。
この橋は山管蛇橋(やますげのじゃばし)という別名もあるそうです。
これは、天平神護2年(766年) この地に、勝道上人(しょうどうしょうにん)が二荒山、男体山で修行をするために訪れた時、大谷川の急流に行く手を阻まれてしまい、神仏に加護を祈ると深沙大王(じんじゃだいおう)が現れ、
赤青2匹の蛇で両岸をつなぎ、その背に山管を生やし勝道上人を対岸に渡したという伝説からきているそうです。
深沙大王を祀る深沙大王堂が国道119号側(太郎杉の隣)にあるといいます。

調布には「延喜式神名帳」に布多天神社と虎柏神社と青渭神社の三社か書れています。
深大寺の伝承にこんな話があります。

聖武天皇の御世のこと、武蔵国多摩郡柏野村には右近という猟師がいたそうな。
ある日、殺生を生業とする右近の前に虎という名の美しい娘が現れたそうな。
虎は右近に殺生を止めるように願い、とうとう右近は猟師を辞めてしまったそうな。
やがて二人には可愛い娘が生まれ、その娘の美しさに惹かれたのが福満青年。
右近と虎はその恋を認めず、娘を里の池の中島に閉じ込めてしまったそうな。
福満はあきらめきれずに毎日池のほとりから娘に会えるのを願っていたと。
毎日水神の深沙大王に祈って、もし娘に逢えれば社を建て深沙大王を祀りましょうと誓ったら、その願いが通じたのか一匹の亀があらわれたそうな。福満は亀の背中に乗って島に渡って、娘に逢うことができたとさ。
これを知って畏れた右近と虎は二人を認めて夫婦にしたそうな。
その後、二人に玉のような男の子が授かって、のちに唐土にまで渡り、満功上人となり深大寺を創建しなさったと....

虎柏神社(とらかしわ神社)
虎狛神社(こはく神社・旧郷社・別名虎柏神社・調布市佐須町鎮座)
祭神:大歳御祖神・倉稲魂命
由来: 崇峻天皇2年(589)の創建とされる。狛江郷(狛江・調布)のなかでも最も早くからひらかれたところといわれ、当社はここに住居を定めた渡来系高麗人の集落神として祀られたものと推定。

深大寺を開基した満功上人の祖父右近長者の住んだ柏野の里の名と、祖母の名の虎から虎柏神社と名付けられたといわれます。
この調布の傍にあるのが狛江市です。柏野の柏字は狛の写し間違いで、かつては狛野の里だったのではないかといわれれもします。つまり柏野は狛で高麗の里ではないかというのです。
上人の父福満が高麗から来た帰化人といわれる伝承も母が高麗の人だったのも伝承もあります。
多摩川に面した狛江市の狛江古墳群からは高麗系の副葬品と見られるもの出土しています。

645年の大化改新、701年大宝律令ができて,天皇を中心とする律令国家となり,「公地公民班田収授」が実施されました。
大化改新以降,農民は税金として,「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」を負担することになりました。「調」は,地方の特産物を納めることでした。
 カラムシ(麻ににた植物)が多く採れた多摩川沿岸で,「調」として「布(ぬの)」を朝廷に納めていたので,「みつぎの布」すなわち「調布」と名付けられたそうです。麻が多いところと言う意味で,この付近を「多摩」と呼ぶようになったとか...以前に書いた布田天神の伝承にも見られるところです。
このころ,中国大陸や朝鮮半島からの渡来人が武蔵野国に大勢入植したようです。「続日本記」によると「716年5月,駿河,甲斐,相模,上総,下総,常陸,下総の高麗人,1799人を武蔵に移し,高麗郡を置く。761年4月,帰化新羅人,1031人を武蔵国に置く。」と書かれています。
この時代,かなりの渡来人が調布,狛江地域にいたことは確かなようですね。

深大寺の深大寺の寺域にある青渭神社をご報告しますね。
欅の古木がご神木として聳え立ち、鳥居をくぐると静かな空間が現れます。
深大寺とまた違った雰囲気に、この神社は産土神として鎮座しています。
深大寺より古い由緒と言われ、天神が谷戸と言われたこの神社は、もともとは「青波神社」とも「青沼神社」とも言われたようです。この神社は、式内社とされてて,論社に稲城市東青沼鎮座の青渭神社と青梅市沢井鎮座の青渭神社があります。
付近に弥生遺跡があるこのあたりは、豊富な湧き水があり、神社の前には大きな湖があったと言われています、池の水を抜いて稲田にしたとの伝承は秦氏を基にする渡来の人々が来てからのことでしょうか。
祭神は青渭大神。大己貴命。
でも神社の由緒には、はっきり縄文からの竜神と書かれています。
右近はまだ若く、この湖のほとりで獲物を追っていたのでしょうか....

右近が新羅の人であるとの伝承もありますが、反対の伝承もあります。

徳川時代、深大寺の佐須村に、名字帯刀を許されていた温井(ぬくい)と名乗る名主がいた。
佐須姓は温井家からでていて、虎柏神社の神主を代々つとめていた家である。
この温井家が右近の末裔で、系図が残っている。それによると深大寺の縁起とは多少食い違っている。天穂日命の後裔の武蔵国造、伊狭知直より十世孫の多摩郡司大領、多末宿禰の子が右近で、この右近の娘が虎女と名乗り、福満を養子にむかえている。
虎女が満功上人と赤麿を生み、赤麿が温井家につながる。
興味深いのは、この系図に福満が帰化人で高麗温井里人と書いていることである。
高句麗のあった朝鮮半島北部の平安南道、咸鏡南道には、温井里(オンジョンニ)の地名がいくつかみえる (料理昇降機HPより抜粋)

大國魂神社神社には見事な欅の並木があります。
源頼朝が蝦夷征伐に品川に上陸して府中の大國魂神社で必勝祈願したとされます。
この欅はその戦勝お礼に帰りに奉納されたものと言われます。

また、江戸時代には、滝の社なるものが六所明神(現大國魂神社)の末社としてあり、現清水丘二丁目の地に今も祭神を倉稲魂大神として鎮座まします。
「社の傍に少しばかりの飛泉(たき)あり。六所宮の御手洗池と称す。
毎年五月五日の大祭の時,神幸供奉の輩は五月朔日よりこの滝に浸りて身を清め、
神事にたづさはれりと云ふ。」と江戸名所図会には書かれています。

この滝に身を清め、祭りの日、「坪の宮」へ神官馬に乗じて奉幣使をたつるともあります。

はい、この「坪の宮」様は神社の境内ではなく、同所から西南へ一キロばかり行ったところにあります。、
江戸時代にも「今わずかな茅祠ぞんするなり」と書かれる様な小さな社です。
大國魂神社から「坪の宮」さまへ歩いていくと、国鉄南武線の駅が見えます。
その駅の手前の道を進み歩道橋を降りると、雰囲気は一変して静かなたたずまいの町並み。
坪の宮さんの場所を聞いてみると
「あんた、どこから来たの?えらいねぇ。坪の宮さんはそこの道曲がったアパートの隣にあるよ」っておばあさんにほめられて場所を教えてもらえました。

さてその「坪の宮」様は国造を祀った所だと言われています。
祭神は胸刺国造(むさしのくにのみやつこ)とされます。

武蔵国造は天穂日命にはじまる出雲国造の出雲臣を祖とすると『先代旧事紀』国造本紀にあり

□□ 无邪志国造、志賀高穴穂朝(成務)に出雲臣祖の名をニ井之宇迦諸忍神狭
□□ 命の十世孫、兄多毛比命を国造に定め賜う

と書かれています。
武蔵国造家の先祖が出雲族であり、また国造の末裔が大國魂神社の神官を代々務めた猿渡氏であるならば、この、「坪の宮」様の十世孫が調布の青渭神社の傍にある虎柏神社の神主ともなるのならば、この繋がりにやはりこの地は瀬織津姫の鎮座まします地といえそうです。
小野神社、人見の浅間神社と八幡神社、そして大國魂神社のあるこの土地で、深大寺の二人を結びつけたのは、春には桜が爛漫に咲く青渭神社のほとりの瀬織津姫となりそうです。

431 蛇の橋は、何を意味する サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/06/20 01:15

ピンクのトカゲさんが書いて下さった「蛇の橋は、何を意味する」も以下に転載させていただきます。ありがとうございます。

蛇の橋は、何を意味する 投稿者:ピンクのトカゲ  投稿日: 6月17日(月)15時06分04秒

サクラさんが武蔵の浮岳山深大寺について書いていました。
以下、簡単にサクラさんの深大寺を抜粋します。
深大寺は、天平五(七三三)年、満功(まんくう)上人によって創建されたとそうです。
深大寺の名は、満功上人が深沙大王を祀ったことから深大寺の寺号がつけられたそうです。
満功上人が深大寺を創すとき玉川に霊木が流れてきて、この霊木で薬師仏三体を彫刻し、一体を深大寺に納め残る二体は、日光山と出羽に納めたそうです。
この日光に納められた薬師仏は、二荒山にかかる神橋にあるそうです。
実は、この神橋についてのサクラさんの書き込みを引用したかったのです。
天平神護二(七六六)年、この地に、勝道上人(しょうどうしょうにん)が二荒山、男体山で修行をするために訪れた時、大谷川の急流に行く手を阻まれてしまい、神仏に加護を祈ると深沙大王が現れ、赤青二匹の蛇で両岸をつなぎ、勝道上人を対岸に渡したという伝説があるそうです。
実は、昨日の東愛知新聞の浜松/湖西の紹介記事で、この伝説と似たものが載っていました。
タイトルは、「川を練る『大蛇踊り』」です。
引佐郡引佐町西久留女木地区に伝わる大蛇伝説は、昔、孝行娘が病父の薬を買いに町まで行き、家に帰る途中雨で川が増水しわたることができなくなり呆然としていると、上流から丸太が流れてきて、橋のように川に架り娘はわたることができた。娘が振り返ると、一匹の大蛇が悠々と泳ぎ去っていったと
祭りの名は「川合淵祭り」、地元の若い衆や子供が龍頭の被り物(石見神楽のヤマタノオロチ状のもの)に入り、久留女木川の中を笛や太鼓のお囃子に合わせ『大蛇踊り』で練り歩くそうです。
また、藁人形流しなども行われるとのことです。
来月の六日(土曜日)に行われるそうです。
満功上人が深大寺を創すとき玉川に霊木が流れてきたのが、七月の七日だそうです。
なにやら関係がありそうです。

久留女木は、浜名湖に注ぐ都田川の上流に位置し、日本の棚田百選にも選ばれている山間の村落です。
久留女木は、久留米木、久留目木とも表記され、江戸時代に書かれた『遠江風土記伝』には、久留女木の名称の謂れとして以下のように紹介しています。

諸国行脚から故郷に帰った行基が、老婆に洗濯を頼むと、老婆は、今は田植えで忙しく手が離せないと断った。行基は、田植えは、私が代わりにやるからといい、藁人形を作り藁人形に田植えをさせた。田植えを終った藁人形は、当地に流れ着き、『反転(くるめき)』て止まった。そこで、久留女木の名がついたといわれる。

行基の生まれは河内といわれていますから、「諸国行脚から故郷に帰った行基」については、額面通り受け取れません。行基に仮託された初期山岳仏教者の一人(より具体的に満功上人あるいは勝道上人といってもいいが)であったと考えればいいと思います。
「藁人形に田植えを手伝わせた」という話は、土木工事を手伝った木偶が、河童になったという逸話を思い出させます。
サクラさんも深大寺の字号の由来となった深沙大王は、水神であり、西遊記の沙悟浄ともいわれるとしていますから、河童の逸話と関連があるものと思われます。
『大蛇踊り』のときに行われる『藁人形流し』も水神に関わる神事と見ることができると思います。

432 深沙大王と甕神 風琳堂主人 2002/06/20 07:49

 サクラさん、深大寺の興味深い話をありがとうございました。
 今出かけるところで詳しくふれられませんけど、「深大寺の寺域にある青渭神社」=青波神社=青沼神社が「縄文からの竜神」ともいわれるとのこと、そのとおりだとおもいます。異名の「谷戸」=ヤトは、常陸国風土記の「夜刀の神」と通じ、これも龍神とみることができます。
 また、大国魂神社末社とされていた「飛泉[たき]」=滝の社も、その異名に「六所宮の御手洗池」とありますから、これも御手洗神=瀬織津姫とみてまちがいないとおもいます。この飛泉[たき]=御手洗池で「御衣木(みそぎ)」をして向かったという「坪の宮」──ここの祭神は「胸刺国造」とされているようですが、「国造」のレベルが祭神となることは考えられません。ムサシをなぜ「胸刺」と表記するのか──これも意味あるようにおもいます。それと「坪の宮」の「坪」ですが、これは、壺=甕のことで、ここは、「甕神」あるいは「甕玉神」の社だったことが考えられます。出雲ゆかりの最重要な甕神とは、おそらく、流浪する出雲の水神である天甕津日女を想定するしかありません。
 なお、深大寺内の逆川ですが、尾張の逆川社の祭神は瀬織津姫です。「逆川」=サカガワ/サカサガワという名称は、これも要注意のキーワードです。川の流れそのものが逆流するという意味で「逆川」というのは表向きで、ヤマト化という「川の流れ」に逆らうという意味も、この名称には込められているようです。肥前国=佐賀の川上神=「逆らう神」→「荒ぶる神」のイメージもここに重ねることができそうです。
 深沙大王の「じんじゃ」は「神蛇」で、この「大王」は八大龍王にははいっていませんけど、新しい龍神の異名のようです。記紀や風土記の記述にまどわされがちですが、遠州にしてもそうですけど、善なる龍神を伝えようとする創作伝承=民間伝承の真意は汲み取りたいところですね。

(追伸)
 少し静養も兼ねて、龍神の山へ4日ほどこもります。うまく応信できないかもしれませんけど、おもわぬ収穫がありましたら、また囲炉裏夜話に書きます。

434 徐福渡来伝説 九州の龍 2002/06/20 22:36

風琳堂主人
遅くなりましたが、徐福研究会の第5章を拝見いたしました。何かピンと来るものを感じましたよ。近々現地に行ってみようと思います。『邪馬台国』は瀬高町周辺が発祥の地であり、その後久留米地方へと勢力拡大したとの説を、”今のところ”信じています。また、あの『ナガスネヒコ』が、徐福の渡来集団の末裔ではないかとの話を聞いた事もありますし、好奇心が湧いてきました。

435 ナガスネ彦 ピンクのトカゲ 2002/06/21 08:20

九州の龍さんは、ナガスネ彦に興味がおありですか?
私の母方は、ナガスネ彦末裔の伝承を持っています。
詳しくは、拙稿第二話を参照してください。

436 古代史の闇に光を!! 九州の龍 2002/06/21 13:35

ピンクのトカゲさん
ナガスネヒコ・徐福伝説・崇神(神武)の出自等、色々興味があります。神武の周りには、滅亡した伽耶が関係しているような....。伽耶も新羅系と百済系に分かれるようですね。南部伽耶諸国(浦上八国)の戦争の話も聞いたことがあります。伽耶に興味があったので、以前は『カヤナルミ』の名を使っていました。

437 下照姫 ピンクのトカゲ 2002/06/21 17:37

弊サイト掲示板にアジスキタカヒコネ一族の女神(シタテル姫・アカル姫・カヤナルミ姫)も抹殺されている?という旨の書き込みが、ありました。
これは、どう考えても、俺より風琳堂主人の領域と思いつつも、レスを付けるのが管理人の勤め、
系譜崩しを試みましたが、系譜整理に留まりました。以下が下照姫についての系譜整理です。神証し宜しくお願いします。

古事記は、下照比売は、オオクニヌシの神裔として、オオクニヌシと胸形(宗像)の奥津宮に坐す多紀理毘売命の子として記載され、亦の名を高比売とされ、天孫降臨に先立ち葦原中国に使わされた天若日子と結婚します(紀には、下照姫の系譜は書かれていない。
天若日子は、天津国玉神の子とされていますが、天若日子と下照比売の兄・阿遅志貴高日子根神と両親が見間違うほど似ていたとしています。
さて、先代舊事本紀巻三天神本紀は、下照姫を大国玉神の娘と記載するが、この大国玉神を紀は、オオクニヌシの亦の名としている。
紀同条は、顕国玉神もオオクニヌシの亦の名としているが、記は、葦原色許男(オオクニヌシの別名とされる)が、黄泉国に行き逃げ帰るときスサノオが、「生太刀・生弓矢で、八十神(オオクニヌシの兄弟)を坂に追い、川の瀬に追い、オオクニヌシとなり、宇都志国玉神(=顕国玉神)となり云々・・・」としている。
天若日子の父・天津国玉神は、宇都志国玉神(中津国の国玉)に対するものであると考えられます。天津国玉神と宇都志国玉神は、記紀特有の和魂と荒魂と考えていいかと思います。
つまり、和国玉神の子神=天若日子、荒国玉神の子神=阿遅志貴高日子根神と考えていいのではないかと思います。
したがって、天若日子の妻であり、阿遅志貴高日子根神の妹とされる下照比売は、国玉神の対神と考えられるのではないかと思います。
とすれば、和魂と荒魂に分けられる前の国玉神が、大国玉神と考えられます。
さらに、宇都志国玉神がヤマト朝廷にとっての荒国玉神(荒国魂神)とすれば、大国御魂神の存在が気になります。
記の大年神の神裔で、大国御魂神は、大年神と神活須毘神の娘・伊怒比売の子とされており、大年神は、同須佐之男命の神裔で、須佐之男命が、大山津見神の娘・神大市比売を娶して、産ませる子としていますから、記では、オオクニヌシの異母兄弟ということになります。
紀崇神条では、淳名城入姫に倭大国魂神を祀らせたが、祀ることができず、髪が抜け落ち衰弱したと記載します。
紀崇神条の倭大国魂神と記の大国御魂神は、同神と見ることができると思います。
そして、紀崇神条では、淳名城入姫が倭大国魂神を祀れなかった記載の後に、大物主神が登場するわけです。
大物主神と倭大国魂神は、関係があるというより、同神と見ていいと思います。
「出雲国造神賀詞」は、「大穴持命が国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るにのぞみ、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて・・・・大穴持の和魂を大物主櫛甕玉と称して大御和(三輪)に、阿遅須伎高孫根を葛木の鴨の神に」と「出雲国造神賀詞」は、大穴持と大物主とを同神のように扱っていますが、これが別神であり、対神であることは、拙稿第一話拾遺七で触れています。
下照比売は、阿遅志貴高日子根神=阿遅須伎高孫根と対神と考えられますから、下照比売は、大年神と伊怒比売の子・大国御魂神を親神としたと考えられます。

九州の龍さん
守備領域も似ているようです。古代韓半島の歴史等でも共通しそうです。

438 賀夜奈留美命 九州の龍 2002/06/24 09:52

あまり深入りしてなかったのですが、簡潔に述べるとこんなもんでしょうか。賀夜奈留美命は、記紀には現れない神で、歴史的にまったくの無名。出雲国造が、ヤマトに出向いて読み上げる『出雲国造の神賀詞』の中に登場する出雲を代表する四柱の一柱。神賀詞には、出雲の四柱の神がヤマトの神奈備に鎮座し、天皇の守り神になると記されており、その中に賀夜奈留美命という謎の女性が祀られています。賀夜奈留美命は、飛鳥の飛鳥坐神社に言代主神とともに祀られている。江戸時代の国学者、平田篤胤や鈴木重胤が賀夜奈留美命と下照姫が同体であったと提唱していた。

439 京都の地下の大水脈。 GOTO 2002/06/24 10:10

昨夜、NHKで放映されていた内容ですが、
京都盆地の地下には琵琶湖一杯分の地下水脈が存在しているそうです。で、その上流部分に位置するのが京都御所、更には、その先の下鴨神社なのだそうです。
天皇家にとって下鴨神社は豊富な水を司る重要な場所だそうで…。当然ながら本来は水の女神、瀬織津姫が深く関わっていたのでしょうね。
現在の下鴨神社は事代主神が御祭神で祓戸社も存在し、御手洗祭として残っているし、先日の瀬織津姫=伊豆大神を、事代主神にすり替えたお話を偶然にも後押ししてくれるような番組でした。
それにしても「水(MIZU)」と「伊豆(IZU)」って音声も
似通っていますね。

441 アラハバキについて 米子の金太郎 2002/06/24 10:50

十三湖の地図を見ていたら,洗磯崎神社を見つけました。
ここは、アラハバキの神を祀っているそうですね。9月の青森行きの行程の中に入れたいと思っています。昨年,四国に行った後,アテルイに関する神託をいただいたのですが,
その中で,「塩の道」とアヒルのことのはを辿れとありました。未だ何のことかわかりません。何かヒントになることがあればお教えください。岩木山神社のことも調べてみたのですが,ご祭神の名前が「ウツシクニタマ」となにやら分けのわからない名前でした。神社の脇にご霊水の井戸がありました。社務所で「ここは伊勢神宮に関係のある神社ですか」と尋ねたら,「そうです」と言われたのを思い出しました。」その時は,瀬織津姫という名も知らないときでしたが,龍神がおられる気がして,聞きに行ったと記憶しています。岩木山神社があることも知らなかったのですが,岩木山の森のイスキアの裏手の山の中に,小さな滝があり,そこにあった祠を見て,元宮を訪ねたら岩木山神社だったのです。今度出かけたときは,由緒をしっかり調べてみます。
 八幡神が瀬織津姫だったということで、今私が関わっている奥出雲の「金屋子神社」の安部宮司が書かれた金屋子神説の中にも八幡神という記述があります。宇佐神宮の由緒の中に、「八幡神は,鍛冶神である」と載っているとのこと。 金屋子神社は、金山彦、金山媛を祀っているとなっていますが,御神影は、ほとんど女神です。ダキニテンをダブらせたようにも見えます。説明に,ダキニテンは、天照大神の化身と言われていたと書いてありました。金屋子神社縁起には、播磨の岩鍋と言う地から、白鷺の姿になって西比田の桂の木に降りられたのを,朝日長者が見つけ,社を築き宮司となったとなっています。この伝承は,遠野物語の中に見られるものと酷似しているとのこと。金屋子神社はまた、お使いを白蛇様とされています。実際はじめて参拝したとき,ビジョンですが,社殿中から白蛇の姿を見せていただきました。何か関係があるのでしょうか

442 鍛冶神 九州の龍 2002/06/24 18:25

米子の金太郎様
鍛冶神ですか。鍛冶氏族は、雷神/火神=日神のニギハヤヒを奉斎しています。白鷺の話は、私が最近読んだ本の中にありました。江戸時代の『鉄山必要記事』の『金屋子祭文』には、播磨国の岩鍋というところから、金屋子神が白鷺に乗って、出雲国能義郡の黒田の奥の非田に着いて、桂の樹の梢に羽をやすめ、そこでタタラ製鉄を教えた、とあります。銅や鉄を精錬する人たちは、白鳥も神とあおいでいるようです。

443 倭文神と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/06/25 01:29

 北東北の水神の本家(?)といわれているのが十和田湖の龍神=青龍権現です。十和田神社は現在「日本武尊」を祭神としていますが、これは、明治の神仏分離の際に、社が延命するために、仮に国家に「申請」した祭神だということは十和田神社自身が認めています。では日本武尊の前はどんな祭神だったかといいますと、これが青龍権現、つまり清瀧権現とも熊野権現ともいわれる水神でした。この十和田湖の水神は瀬織津姫だろうということで、その痕跡あるいは証拠をみつけられないかとおもい、十和田湖へ行ってきました。結論からいえば、99.9パーセント、十和田湖の水神は(も)瀬織津姫です。十和田湖の内海=東湖の異名は「御手水海[みたらしのうみ]ですし、十和田の神への参詣前の禊ぎ場は「桜ヶ浜」だったようです。また、十和田神社の入口の宮「一の宮」(「南部一の宮」の呼称の名残)の岩座の上には、小さな石の祠でしたが「熊野那智大神」がしっかりまつられています。また、十和田神社の奥宮は「青龍権現社」で、この社の崖下が「湖中第一の霊地」とされる「御占場」です。十和田の水神が諸願を聞き届けるかどうかを、「神慮必顕おより紙」を湖面に浮かべて、沈めばかなう、不可ならば沈まないということで、この「霊地」に参ることが十和田の龍神信仰の要となっています。こういった十和田湖の水神の話を書こうかとおもっていましたら、その前にたくさんの書き込みをいただきました。
 GOTOさん、昨夜の京都の「水脈」の話──わたしも観ました。下鴨神社の御手洗池が映し出されていましたね。御手洗社=井上社の水神は瀬織津姫ですから、ひょっとすると瀬織津姫の名を聞けるかなとおもって観ていましたけど──。京の鴨氏は自分たちの祖神である瀬織津姫を鴨神からはずすことで朝廷と妥協した一族です。京の都の「水」を司るのは瀬織津姫ですから、この神をないがしろにして水飢饉もクソもなかろうといった感想です。天皇の勅使が下鴨の神に「水」の恵みを感謝する勅言の奏辞は「内緒言」だそうで、おそらく読み上げている文面には瀬織津姫の名がはいっているのでしょう。しかし、声に出しては言えないということで、あんな秘密めいた謝辞となるのだとおもいます。
米子の金太郎さん、わたしは霊感感度が限りなく零に近くてなんと申し上げてよいか迷いますけど、お話の全体の印象では、物部の神を明かせということなのかもしれません。岩木山神社にしても、荒磯崎神社にしても、物部の神、つまり伊勢の元神が潜んでいるはずとみています。宇佐八幡の中心の比売大神が鍛冶神ともなるのは、たぶん火を呼び寄せる水神の性格が基本にあるからかなとおもいました。岩木山神社の「ウツシクニタマ」というのは、大物主神という先行の太陽神を国津神化し、またヤマト化した暗称かとおもいます。これは伊勢の元神にたどれるはずですから、「伊勢と関係があるか」「はい」となったのだとおもいます。
 九州の龍さん、トカゲさん、「出雲国造神賀詞」に出てくる賀夜奈留美命が下照姫と同神としますと、そもそも下照姫とはなにかということがありますね。下照姫は独自の主張をほとんどしない神で、にもかかわらず記紀の伝承のイメージが強くて、なかなかすっきりと明かすのは難しいのですが、神社の伝承で少しひっかかっていることもありますので、うまくいくかどうかチャレンジしてみます。

 遠野にも下照姫が、一社だけですが、まつられています。倭文神社といいます。現在の同社の正確な祭神名は「天照皇大神、瀬織津姫命、下照姫命」と三神化されていますが、これは、天照大神と瀬織津姫の一対神の表示をぼかすために下照姫が追記されたと考えられます。倭文神を日本書紀に準じて、タケハヅチとしないところが「遠野らしい」というしかありません。
 瀬織津姫は養蚕神=織姫かつ水神=滝神であり、瀬織津姫が養蚕神=稚産霊に変名化されることは「駒形神社の秘神」でふれました。
 下照姫が倭文神社の祭神としてまつられる神社は、遠野のほかに鳥取県東伯郡東郷町にもあります。ここは、伯耆国「一の宮」でもある倭文神社なのですが、同国の「三の宮」の倭文神社(倉吉市)にも下照姫の名が確認できます。
 鳥取の倭文神社二社の祭神ですが、これがまた変遷おびただしいもので、たとえば「一の宮」倭文神社ですと、現在の主祭神は「建葉槌命、下照姫命ほか」とされますが、大正時代までは下照姫が主祭神でありました。また、「三の宮」倭文神社にいたっては、現在の主祭神は「経津主神、武葉槌神、下照姫命」とされますけど、明治時代の前は、武葉槌神の代わりに武甕槌神=鹿島神がその首座を占めていました。
 倭木は中国からの呼称で、列島の固有木である「杉=真木」のことでしたが、その意味で、倭の織物の代表名が、この倭文[しどり/しずおり]とみてよいのかもしれません。
 現在、養蚕→織物の神であるはずの倭文神は、タケハヅチとされるようになりましたが、これは鳥取の二社の祭神変更の例をみても、あとからの方便というべきものでしょう。しかし、こういった方便=記紀に準じたこじつけを強化反復する例もあとを絶たないというべきかもしれません。たとえば、タケハヅチは「日本最古の織物、製紙の神」などと喧伝されていますから(富士市・倭文神社「境内由緒」)。また、日本書紀の記述に準じて、タケハヅチは、東国の「悪神」とされる甕星香香背男を、鹿島神=建甕雷神、香取神=経津主に代わって討伐した武神とされています。
 武神かつ織物の祖神とされるタケハヅチですが、こういった男神のイメージが一般化されるのはかなり新しいこととみることができます。このことは、たとえば常陸国の(倭文→)静神社に、東京織物卸商業組合によって「御分社奉祝八十年記念」として「奉納」された倭文神の像が「織姫像」という女神像であるというちぐはぐさからもいえましょう。神社側は「武神」タケハヅチを喧伝しているわけですから、こういった「奉納」に、おそらく困惑したことが想像されます。しかし倭文神はもともと女神でしたから、それを像化した東京織物卸商業組合の認識→造像行為はまちがっているわけではありませんでした。織姫像の「奉納」は「受納」されるしかなかったということなのでしょう。
 タケハヅチvs香香背男の伝承は、実は常陸国ばかりではなかったという可能性をうかがわせてくれるのが、奈良市西九条にある倭文神社の「蛇祭り」でしょう。生贄を要求する悪蛇を退治するのは高僧(空海とも理源とも)とされていますが、こういった蛇=龍退治に一役買う「高僧」の仏教優位の説話が、タケハヅチの香香背男退治の話には付着しています。
 群馬県伊勢崎市東上ノ宮にある倭文神社の倭文神の性格は、「機織の祖神」であり、また「農耕、養蚕の神」とされます。同社の祭神名は「天羽槌雄神」とされますけど、養蚕→機織神は女神ですから、「〜雄神」では、ここも祭神表示としては無理があります。
 さて、倭文神が女神となりますと、では下照姫がそれに該当するのかという問いに絞られてきます。伯耆国一の宮である倭文神社は、もともと下照姫が主祭神で、大正時代に建葉槌命にその座を奪われたのでした。前の倭文神=下照姫の性格は、同社境内地に「安産石」がありますように、倭文神は「安産の神様」で、この神についての土地の伝承は、「出雲から船で渡ってきて人々に農業などの指導をした」とされています。また、下照姫は、出雲からやってきて、この倭文神社の地で亡くなったとされ、その塚が、この倭文神社近くの山中だとされていました。
 出雲の国譲りの前段における天若日子と下照姫の悲話は心打ちますが、天孫族を裏切った天若日子を喪った下照姫は、父神たちの「国譲り」後、伯耆国倭文神社の地へ流れてきたということなのでしょう。としますと、下照姫にも出雲の流浪する女神のイメージがあります。
 ところで、下照姫の塚=墓とされていたところから、「経筒」および「仏像三体、銅鏡、瑠璃玉」などが発見され、これらはすべて「国宝」と指定されたようです。下照姫の塚は「経塚」だったというわけです。また、発見された経筒の銘文には、康和5年=1103年に、僧・京尊なる人物がこれらを埋納したことが確認されたようです。
 西暦724年に初めて奏上された出雲のヤマトへの服属表明である「出雲国造神賀詞」ですが、ここに登場する賀夜奈留美命が下照姫と同神だとみますと、出雲の「国譲り」は、この神賀詞奏上の時点が正確な年だとみるべきでしょう。つまり、古事記(712年)から日本書紀(720年)の編纂創作の時間過程には、出雲国討伐の現在形の時間が埋め込まれているとみることができます。
 この「出雲国造神賀詞」には、書紀および大祓祝詞=中臣祓を露骨に踏襲した表現がみられますので、まずは該当箇所を再読してみます。

■出雲国造神賀詞
 高天原の神王[かむおや]高御魂命[たかみむすびのみこと]の皇御孫[すめみま]の命に天の下大八島国を事避[よ]さし奉りし時、出雲臣らが遠神[とほつかみ]、天穂比命を、国体[くにがた]見に遣はしし時に、天の八重雲を押し分けて、天翔[かけ]り国翔りて、天の下を見めぐりて返事[かへりごと]申し給はく、「豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿[さばえ]如[な]す水[みな]沸[わ]き、夜は火瓮[ほべ]如す光[かがや]く神あり、石根[いはね]・木立・青水沫[あをみなわ]も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平[む]けて、皇御孫の命に安国と平[たひら]けく知ろしまさしめむ」と申して、己命[おのれみこと]の児天の夷鳥命[ひなとりのみこと]に布都怒志命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神どもを、揆[はら]ひ平[む]け、国作らしし大神をも媚[こ]び鎮めて、大八島国の現事[あきつこと]・顕事[うつしこと]を事避[よ]さしめき。すなはち大穴持命の申し給はく、「皇御孫の命の静まりまさむ大倭[おほやまと]の国」と申して、己命の和魂[にぎみたま]を八咫の鏡に取り託[つ]けて、倭[やまと]の大物主櫛甕玉[くしまかたまの]命と名[みな]を称へて、大御和[おほみわ]の神奈備[かむなび]に坐[ま]せ、己命の御子阿遅須伎高孫[あじすきたかひこ]根命の御魂を、葛木[かづらぎ]に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提[うなで]に坐せ、賀夜奈留美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫の命の近き守り神と貢[たてまつ]り置きて、八百丹杵築の宮に静まり坐しき。〔後略〕

 列島の最古層の「国」を「豊葦原の水穂の国」と呼んでいることは象徴的です。また、この国は「荒ぶる国」であり、そこには「荒ぶる神」がいて、これらの神が「揆[はら]ひ平[む]け」られたのだとされます。また、この平定のあと、「国作らしし大神」すなわち「大穴持命」が「皇御孫」に自らの分身=分神あるいは関係神たちを「皇御孫の命の近き守り神」として献上し服属を表明するといった内容かとおもいます。
 出雲国造神賀詞における、この服属前の平定シーンが、いかに大祓祝詞=中臣祓の表現からの盗作に近い踏襲だったかがわかる箇所も読んでみます。

■大祓祝詞=中臣祓
 高天の原に神留[かむづま]ります、皇親神[すめむつかみ]ろき・神ろみの命もちて、八百万[やほよろづ]の神等[ら]を神集[かむつど]へ集へたまひ、神議[はか]り議りたまひて、「我が皇御孫[すめみま]の命は、豊葦原の水穂の国を、安国と平らけく知ろしめせ」と事依さしまつりき。かく依さしまつりし国中[くぬち]に、荒ぶる神等をば神問[かむと]はしに問はしたまひ、神掃[かむはら]ひに掃ひたまひて、語[こと]ひし磐ね樹立[こだち]、草の片葉[かきは]をも語[こと]止めて、天[あめ]の磐座放れ、天の八重雲をいつの千別[ちわ]きに千別きて、天降[あまくだ]し依さしまつりき。かく依さしまつりし四方[よも]の国中に、大倭日高見の国を安国と定めまつりて…〔後略〕

 もし「著作権」問題としてみるなら、後発の出雲国造神賀詞は、確実にひっかかる表現をしていたことがわかります。むろん、これは異なる作者の場合というべきでしょうが、両表現の原作者は同一の政治的志向によって言葉を繰り出していますから、たとえ著作権問題が当時あったとしても、本質的に抵触することはなかったとみることもできます。
 ともかく、出雲国造神賀詞・大祓祝詞に共通してみられる「豊葦原の水穂の国」ですが、大祓祝詞はこの国を「大倭日高見の国」とも呼んでいます。大祓祝詞の初期創作は天智時代(669年)のことでしたが、この祝詞の完成は大宝律令の頃とされます(701年頃)。したがいまして、ここに出てくる水穂の国=大倭日高見の国は、広義には列島の全体を述べんとした形容ではありますが、狭義には大和地方を水穂の国=大倭日高見の国として「平定」したという、領域不確定の二重の「国」意識が働いています。つまり、曖昧なのです。なぜ曖昧化される必要があったかといえば、「皇孫」による「平定」の拡大意志(=皇民化)は、まだ終点に達していないからだというしかありません。
 そういった広大な日高見国=水穂国、つまり水と穂=火の国である、倭国の屈強の抵抗神こそ、古事記では建御名方神とされ、書紀では天津甕星=甕星香香背男とされたのでした。ここで注意しておきたいのは、出雲国造神賀詞に出てくる水穂の国の最高神は、大国主ではなく「大穴持命」とされていることです。
 ここからはひとつの「仮定」です──。この水(穂)の国の最高神である大穴持=大己貴は、熊野那智大社においては、那智の滝神=飛瀧大権現とされていた神でもありましたから、この大穴持を瀬織津姫とみたらどういったことがいえるか──といった問いを立ててみます。
 ここで考えられることは、ただ一つのことです。つまり、これは大穴持=大己貴=瀬織津姫が服属表明を宣言するいった「仮装」がここでなされているということです。これは大祓祝詞→古事記(→風土記)→日本書紀(→風土記)と、幾重にも瀬織津姫を封じてきた経緯を振り返ることでいえるものですが、ヤマトは、ここで大穴持=大己貴=瀬織津姫に対して、出雲国造の奏上という「形」を仮装して、水(穂)の国の荒ぶる最高神に対して服属を表明させたとみることができます。神賀詞は、「大穴持」を「媚[こ]び鎮め」たとも述べています。この「媚び鎮め」が出雲大社の創建であることはいうまでもありません。この仮説の論理からいえば、出雲大社は(も)瀬織津姫を「深秘」していることになります。
 水穂の国の「昼」は「五月蝿[さばえ]如[な]す水[みな]沸[わ]き」たつ神がおり、「夜」は「火瓮[ほべ]如す光[かがや]く神」が支配していて、この両神が「荒ぶる神」だというのです。
 昼に水を沸きたたせる神は文字通り「水神」であり、夜の天空に「火」の壺のごとくに輝く星神は、まさに甕星香香背男でしょう。三河において、天白神が水神かつ織姫として認識されるときは瀬織津姫であり、温厚な農耕神の性格が優先されるときは稲荷神であり、そして星神として認識されるときは香香背男でした。
 神賀詞における、賀夜奈留美命がもし平田篤胤たちがいうように下照姫と同神としますと、この神は「大穴持」の分神または同族神ということになります。また下照姫は異名に高比売=高姫の名をもっています。これは高=多賀の姫神ということで、としますと、滋賀の多賀大社および奈良の大神神社の秘社=高宮もそうですが、伊勢外宮別宮の多賀宮=高宮の姫神でもあるとなります。
 遠野の最古社の一つである多賀神社の祭神は、男神を本社に合わせてイザナギとしていますけど、戦前までは、その一対の女神はイザナミではなく、あえて罔象女=ミズハノメとしていました(『岩手県神社事務提要』昭和14年)。これは多賀大社側の分社リストをみても、稀有な例外社でした。つまり、遠野では、多賀の女神は「イザナミではない」水神を主張していたわけです。わたしは、こういった祭神表示を、遠野の「不明」とはみていません。伊豆神社にしても早池峰神社にしても、遠野は戦前から「正直」ではあっても、神々に対して「不明」であったことはないからです。上位の社格を得るために祭神表示を変更しなかった遠野の早池峰神社は「よし」とおもいますし、本社の伊豆山神社が祭神表示を変更しようとも、瀬織津姫を一貫して主張している遠野・伊豆神社のほうをわたしは信用しています。東北のさらなる<東北>ゆえといってしまえばそれまでですが、国家の圧力に屈したまま戦後も元にもどせずにいる各社よりも、やはり遠野の主張を肯定しています。
 倭文神という機織神は女神です。武神のタケハヅチがここにかぶってくるのは筋違いです。さらに問いを絞れば、それは下照姫か瀬織津姫のどちらが本来の倭文神かということになります。
 古事記における、下照姫の「兄神」とされる阿遅志貴高日子根神をうたった、下照姫の歌を再読してみます。場面は、阿遅志貴高日子根神が天若日子の葬儀のため天上へ行き、そこで、両神の容姿風貌が酷似しているため、彼は天若日子とされそうになって怒って去るという場面に添えられた、下照姫による、阿遅志貴高日子根神が天若日子ではないことを明かそうとする歌です。古事記はこの歌を「夷振[ひなぶり]」と評しています。

■下照姫の歌(古事記)
天[あめ]なるや 弟棚機[おとたなばた]の 項[うな]がせる 玉の御統[みすまる] 御統に 穴玉[あなだま]はや み谷 二[ふた]渡らす 阿遅志貴 高日子根の神そ
【現代語訳】
天上にいるうら若い機織女[はたおりめ]が、頸[くび]にかけている緒に貫き通した玉、その緒に通した穴玉の輝かしさよ、そのように谷二つを越えて輝きわたる神は、阿遅志貴高日子根神である。(次田真幸訳)

 この歌が明瞭に示していますが、下照姫は、天上の弟棚機=機織女を美の比喩として歌っているように、下照姫は、自身が弟棚機=機織女ではないことが考えられます。いや、地上=国津神系の弟棚機=機織女であるという可能性は捨てられませんけど、少なくとも、この唯一といってもよい下照姫の自己表現においては、彼女は機織女神ではないというべきでしょう。
 なお、阿遅志貴高日子根神は、鉄の精霊神ともいわれますけど、ここで「谷二つを越えて輝きわたる神」と形容されている神だというのは暗示的です。これは何を示しているかということなのですが、わたしはすなおに、これは「虹」だろうと読んでいます。南島において、虹は龍の化身です。阿遅志貴高日子根神が輝く龍神であること──これが歌の真意ではないかとおもっています。この輝く龍神が、出雲国造神賀詞における「荒ぶる神」の形容であった「夜は火瓮[ほべ]如[な]す光[かがや]く神」と呼応するものであることも添えておくべきかもしれません。
 このように光り輝く神は、なにも天津神の専売特許ではないことは、古事記における猿田彦神の形容表現としてもみられます。たとえば、天孫降臨の段における、「天[あめ]の八衢[やちまた]に居[い]て、上[かみ]は高天原を光[てら]し、下[しも]は葦原中国を光す神ここにあり」といった猿田彦神への古事記の評──。これは、日本書紀への推敲課程においては削除されてしまいますけど、猿田彦神がまぎれもなく天照国照神であることを述べた箇所だろうとおもいます。猿田彦神が、アマテラスの祖型の神(男神)であることは『エミシの国の女神』が指摘していることでした。海洋農耕神=太陽神は龍神でもあり、それをどう「皇孫」に服属奉仕させるかというのが記紀の創作編集方針の要の一つでもありました。輝く龍神=阿遅志貴高日子根神も、日本書紀においてはその「輝き」は消去されることになります。
 さて、機織神である倭文神がタケハヅチあるいはアメノハヅチといった男神でもなく、下照姫でもないとしますと、遠野の倭文神社においては、瀬織津姫が倭文神とみるしかないとなります。瀬織津姫の織姫的性格は、三河の天白神に仮託されるときにもはっきり刻印されていた性格でした。

444 園神と韓神 九州の龍 2002/06/25 22:36

風琳堂ご主人
下記の書き込みは、じっくりと読ませていただきます。
さて、自宅にある広辞苑によると、
園神:大内裏の宮内省に祭られた神。大己貴神の和魂である大物主神という。園韓神:園の神と韓の神。古くから大内裏の宮内省に祭られた。韓神:(朝鮮から渡来した神の意か)大己貴神・少彦名神二神の称。宮内省に祀られた。
韓神祭:宮内省内に祀ってあった韓神の祭。古くは陰暦二月と十一月に行われたが、中世以後衰え廃絶した。園神祭も同日行われた、とあります。古代朝鮮半島との関係がここでもわかります。

漢国神社 
祭神 園神(大物主命) 韓神(大己貴命、少彦名命)
鎮座地:奈良市漢国町
社名は、韓神は漢、園神は国に転じたとされる。元々は率川坂岡神社と呼ばれていた。

445 伊雑宮の御田植祭 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/06/25 23:14

今朝の中日新聞に、昨日、三重県磯部町の伊雑宮で五穀豊穣を願う御田植祭が行なわれたとの記事が載っていました。
大団扇のついた忌竹を裸男達が泥だらけになりながら倒して奪い合い、御料田の中で曳き回す竹取神事に続き、菅笠に紅白の衣装の早乙女と法被姿の田道人(たちんど)が、謡や田楽に合わせ一歩一歩。苗を植える御田植神事が行なわれたそうです。
伊雑宮の御田植神事は、平安末期から鎌倉時代はじめ頃に現在の形になり、千葉県佐原市の香取神宮、大阪市の住吉大社と並ぶ日本三大御田植祭の一つだそうです。

446 園韓神と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/06/26 11:50

 九州の龍さん、広辞苑の園神についての記述──「大己貴神の和魂である大物主神」ですが、これは、あの「出雲国造神賀詞」に記載されていた、大穴持による分神あるいは関係神の献上=貢上の一神と対応していますね。

■出雲国造神賀詞
大穴持命の申し給はく、「皇御孫の命の静まりまさむ大倭[おほやまと]の国」と申して、己命の和魂[にぎみたま]を八咫の鏡に取り託[つ]けて、倭[やまと]の大物主櫛甕玉[くしまかたまの]命と名[みな]を称へて、大御和[おほみわ]の神奈備[かむなび]に坐[ま]せ、己命の御子阿遅須伎高孫[あじすきたかひこ]根命の御魂を、葛木[かづらぎ]に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提[うなで]に坐せ、賀夜奈留美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫の命の近き守り神と貢[たてまつ]り置きて、八百丹杵築の宮に静まり坐しき。

 神賀詞は、「(大穴持命=大己貴神)の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主櫛甕玉命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ」としています。和魂荒魂ということでいえば、三河の砥鹿神社においては、「大己貴神の荒魂」はアラハバキ神となります。これだけでもアラハバキ神がどういった出自をもっているかが想像されます。
 奈良市漢国にある「漢国[かんごう]神社」の神が、いつから「大内裏の宮内省」にまつられるようになったのかはわかりませんけど、漢神=園神=大物主神というのは、そのとおりの字面からすれば中国江南あたりをルーツとする神とも読めますし、韓神とされた大己貴神・少彦名神二神は韓半島をルーツとする神かとも読めます。
 しかし、こういった字面のルーツ探しはあまり意味がないのではないかという気がしています。韓神は倭神と一体同神だったことが考えられますので、ことさらに半島を列島と区別する必要は、時間を遡れば遡るほど意味をもたなくなるとわたしはみています。
 ところで、漢国神社の元神とされる「大物主神」──これは三輪山の神で、神賀詞の言葉を正確に再現すれば、大己貴神の和魂である「倭の大物主櫛甕玉命」です。この元神のところへ、養老元年=717年11月28日、相殿神として勧請されたのが、のちの園神とされる大己貴神、少彦名神でした。また、この勧請をした人物は、時の右大臣・藤原不比等でした。
 不比等は、元神の「大己貴神の和魂」の「相殿」に、「大己貴神」を勧請したとなりますと、これはとても奇妙なことになります。なぜなら、大己貴神は二重にまつられたことになりますからね。
 この奇妙さを解く鍵は、やはり神賀詞の「大物主櫛甕玉命」という表示にあるかとおもいます。「龍神と杉と瀬織津姫」でもふれましたが、大杉神=三輪神は、元々一神ではありませんでした。つまり、神賀詞は「大物主櫛甕玉命」とまとめて一神のように表示していますけど、これは「大物主命、櫛甕玉命」の二神が合成された表示だということです。
 こういった二神が本来の漢国神社の祭神だったとみますと、瀬織津姫の消去・改竄の張本人ともいうべき藤原不比等が、これを見過ごすはずはなかっただろうとおもいます。
 漢国神社の祭神変更の過程を再現すれば、
 @ 大物主櫛甕玉命から「櫛甕玉命」を削除し、ただの大物主命とする(→漢神=園神)。
 A そこへ「相殿」神として大己貴命をもってくる(→韓神)。
 これが基本経緯であったとおもわれます。しかし不比等(たち)は、いくら祭神名を変更したにしても、両神の背後には、大物主=天照大神(男神)と大己貴(女神)=那智滝神=瀬織津姫という対関係の神まつりがあり、こういった一次隠しはまだ不安を残していたはずです。おそらく、その最後の不安を解消するために、出自的には「漢神」である可能性がありますが、少彦名を付加したのでしょう。スクナヒコナは、古事記においては国づくりの無償の協力神でもあり、大己貴とセットでまつるには過不足ない神ではありました。ここでも三神化という、本来の祭神ぼかしをするための、十八番[おはこ]の常套的方法がとられたことが考えられます。
 漢国神社の異名は「春日率川坂岡神社」で、のちに春日神は藤原神とされますけど、ここにも、春日=三輪の元神(たち)がまつられていたのでしょう。春日という名を含む「異名」には、そういった痕跡がみられるようにおもいます。

447 下照姫補遺 風琳堂主人 2002/06/26 13:33

 訂正を一つ──。「園韓神と瀬織津姫」で、「のちの園神とされる大己貴神」と書いてしまいましたが、これは「のちの韓神とされる〜」のまちがいです。

 蛇足ながら、古事記における猿田彦を形容した言葉「天[あめ]の八衢[やちまた]に居[い]て、上[かみ]は高天原を光[てら]し、下[しも]は葦原中国を光す神ここにあり」ですが、この「下は葦原中国を光す神」という評は、猿田彦は、「下照彦」でもあると読めることに気がつきました。
 下照姫の命名にも「八衢[やちまた]」の神、つまり岐神=境界神の性格が付与されているのかもしれません。
 瀬織津姫が隠されたオシラサマの多くの性格のなかにも、「村と村との境においでになった神様」(佐々木喜善)というように、「境界の神」の性格があります。また、柳田國男は『石神問答』で、次のように書いてもいました。

■石神問答
『式』(『延喜式』)の佐久神の中にも近江栗太郡の佐久奈度神は殊に注意すべきものに候 地誌には瀬多[せた]川鹿飛[ししとび]の辺なる桜谷[さくらだん]神社を以て之に当てをり候は誤らずと存じ候 唯[ただ]祭神の瀬織津比当スと申し候は 思ふに大祓詞[おおはらえのことば]の「さくなだりに落ち滝つ早川の瀬に坐[いま]す神」よりの推測説にて候べく候 此の地は東国より南山城に入り立つべき天然の径路にて 昔の大石関も存りし所なれば 佐久奈度はやはりクナドの神に之れ有るべく…〔後略〕

 また、「安産の神様」=子安神とされる下照姫でしたが、オシラ神も、「子安様」「子供好きの神様」とされます。その他、下照姫は「農業などの指導をした」神ともされますが(以上、伯耆国一の宮「倭文神社」の祭神性格)、この農業神という性格もオシラ神にあります。下照姫の数少ない性格のいくつかが、すべてオシラ神の性格に包含されることを確認しておきたいとおもいます(オシラ神=瀬織湯姫の詳細については『エミシの国の女神』を参照ください)。

448 恵比須様 九州の龍 2002/06/26 23:30

風琳堂ご主人
こちらの『ホームページ』や『エミシの国の女神』のおかげで、古代の神々に関心を持つようになったわけですが、神社めぐりをしていく中で、恵比須信仰が多いことに驚ろかされました。どこに行っても恵比須だらけです。私が足を運んだ神社のほとんどが恵比須を祀ってあり、車を運転していても、歩いていてもよく恵比須を見かけます。恵比須=事代主神と聞いた事がありますが、恵比須は古代の神々を『総称』しているのかなとも思います。ひょっとして恵比須の影に.....。どちらにしても、庶民に広く深く愛され続けてきた古代の神々。何かほっとするこのごろです。

449 飛鳥川と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/06/27 17:41

九州の龍さん、エビス信仰もたしかに弁天信仰と双璧をなすといってもよいくらいに広くみられますね。
 恵比須神を含む七福神信仰は室町時代以降のことかとおもいます。エビスは恵比須とも書きますけど、戎、夷の字をあてもしますから、エビス=エミシの意も含まれているのかもしれません。
 事代主神がエビス神としますと、これはやはり出雲の国譲りの話を想起したくなります。事代主神の決断によって、いわゆる「豊葦原水穂の国」が天孫たちに「譲」られるというストーリーなのですが、コトシロヌシは、その責任をとって入水することになります。国譲りは、つまりは、事代主神の死を代償として成立したものということができます。
 こういった背景のもとに「出雲国造神賀詞」を読みますと、ここには、大穴持=大己貴によって、服属の証しとして献上された事代主の姿があります。事代主は、死後においても安眠は許されず、「霊神」として「皇御孫の命の近き守り神」(神賀詞)として再利用されているわけで、なにか痛ましい感じさえ抱かせます。
 ところで、事代主や賀夜奈留美(=下照姫)がまつられたとされる飛鳥の地なのですが、ここは飛鳥川の流域の地でもあり、ここに、この出雲の二神がまつられる飛鳥坐神社があります(奈良県高市郡明日香村)。ここの神社の由緒には、賀夜奈留美神の異名を「三日女神」と記していて、要するに、この出雲の謎の女神もミカ=「甕」神だということがわかります。甕神=水神ということは、賀夜奈留美神が、延喜時代のことですが、朝廷から祈雨の奉幣を受けていたことによっても明らかかとおもいます。こういった水神とともにまつられる事代主は、同社にも「おんだ祭」というお田植神事が伝えられるように、おそらく農耕神の要素をもつ神とみてよいかとおもいます。正確にいえば、事代主神には、美保岬の先の海で釣りをしていたなどの伝承もありますから、海洋農耕神なのだとおもいます。おそらく日本でいちばん最初に魚釣りをした神なのですが、こういった海神的性格を優先させるとき、「鯛と釣竿」のエビス神のイメージへと展開していくのだとおもいます。ただ、エビス信仰の深さ広さは、こうした魚釣りの神もありますけど、やはり人々に代わって「死」を引き受けた神だという思いが、そのほんとうの理由だろうという気がしています。
 天武・持統の政治の中心地でもある明日香村の飛鳥川──。飛鳥坐神社がまつられるこの川の最上流部には賀夜奈留美命神社が鎮座するのですが(高市郡明日香村大字栢森)、ここでふれておきたいのは、両社の中間の位置にまつられる飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社です(高市郡明日香村大字稲淵)。ここの現在の祭神は「宇須多伎比売命、神功皇后、応神天皇」とされます。
 なにやら宇佐八幡の祭神構成と似ていますが、ここはたしかに「宇佐宮」とも呼ばれていたようです(『高市郡古跡略考』)。としますと、八幡の比売大神に該当する神はなにかとなりますが、これは明らかに「宇須多伎比売命」なる神を想定するしかありません。そしてさらに興味深いのは、この女神は「臼瀧姫=下照姫命」(『五郡神社記』)と祭神理解がなされていたことです(以上、玄松子さんHP参照)。
 少し整理しますと、賀夜奈留美命=下照姫命=臼瀧姫であり、この女神は宇佐八幡の「比売大神」に該当するというわけです。八幡の比売大神が瀬織津姫であることはくりかえしませんけど(囲炉裏夜話「八幡神と瀬織津姫」「駒形神社の秘神」ほか参照してください)、この飛鳥の地で、瀬織津姫と下照姫が、図らずも等号で結ばれる可能性がよりくっきりとみえてきたようです。
 瀬織津姫は飛鳥川の水神でもあり、また瀧姫でもあったとなりそうです。
飛鳥川と瀬織津姫が無縁でないことをさらに明かす神社があります。それは、甘樫坐神社の存在です(高市郡明日香村大字豊浦)。ここは、現在、推古天皇が主祭神とされていますけど、延喜時代は「甘樫坐神社四座」とされ、『五郡神社記』は、この「四座」を、「八十禍津日神、大禍津日神、神直日神、大直日神」としています。つまり、一神にまとめれば、伊豆大神=瀬織津姫なのです。この神社は允恭天皇の時代に「盟神探湯」がおこなわれたところでもあります。氏姓を偽った者はこの邪を糺す「湯」に手を入れると火傷するといった内容だったかとおもいます。この神社が、いわゆる正邪を糺す神であることは明らかで、推古女帝が祭神だとするのは、どう考えても不自然な祭神変更例です。ここは、オーヴァーランした瀬織津姫隠しというしかありません。
 最初の飛鳥坐神社にもどれば、事代主神は、「事」=国譲りをして民の身「代」わりとして死んだ神といった意が内包された命名であったとおもいます。そして、この事代主神とペアでまつられる賀夜奈留美命=下照姫命=臼瀧姫=八幡比売大神=瀬織津姫となりますと、事代主神は、これもアマテラスの祖型の太陽神であった可能性が高いです。つまり龍神です。
 古事記は、阿遅志貴高日子根神についての下照姫の歌を「夷振[ひなぶり]」としていましたが、この「夷」こそ、エビス=夷とみることもできます。夷神=龍神の海神的要素を突出させたのが事代主神→恵比須神であり、産鉄神的要素を優先させたときは阿遅志貴高日子根神となるということかもしれません。それにしましても、下照姫が「瀧姫」である伝承は重要です。下照姫と同神とされる賀夜奈留美命ですが、この神は祈雨神でもあり、その異名として三日女神=甕神という水神の性格をもっていたのでした。としますと、賀夜奈留美命は、飛鳥川上流の「栢森[かやのもり]」の鳴雷神[なるかみ]という水神=滝神だったとみることができます。
 このように考えますと、「出雲国造神賀詞」は、一方に出雲の服属表明の意が込められていましたけど、同時に、明日香=飛鳥の地にすでにまつられていた瀬織津姫を、深く隠す意図も含まれていたとみるしかなさそうです。

451 読みました(^-^) ZOU 2002/07/01 01:15

風琳堂さんこんにちは。こちらでは初めまして。
やほー! トカゲさん見てますか?

「エミシの国の女神」大変面白く読ませていただきました。実は東北地方は行ったことが無いのですが(T_T) 長く旅をして来たような気分になれて、読んで良かった本の一冊になりました。ありがとうございます。

瀬織津姫良いですね。非常に興味を覚えてしまいました。本の中でしか知らなかったオシラ様や天白神、はたまたククリ姫もが瀬織津姫を隠しているというのは興味深いです。今後は私もこの女神を追ってみたいと思います。

先日来、奈良県内の水神の宮を何社か訪ねていて(丹生川上神社・室生龍穴神社・宇須多伎比売命神など)、どれも良いところだなあと思っていたのですが、ミズハノメやオカミ神のバックに瀬織津姫がいるかも知れないと気づくと、ひょっとして自分も知らず知らずにこの水の女神を追っていたのかも、と、密かに嬉しくなったものです。
あと、私も「三日比売」は「甕姫」ではないかと思っていたのですが、下のカキコを読んで、それが裏打ちされたような気分です。

さてさて、皇祖神アマテラスについてですが、私個人としては、安本美典氏の「アマテラス=卑弥呼」説を支持しています。もっとも安本説は、トカゲさんや神奈備さんも厳しい見方をされているようですね・・・
この考えを進めますと、皇祖神アマテラスは、その祖型の段階から女性1人と考えられることなど、御説に抵触することになりますね。まあ、シロートめが怪しげな説を信じていると思ってくださいませませ(;^_^A

アラハバキ神のことは、後書きでお書きになっているごとく、今後の研究を待たせていただきたいと思います。トカゲさんがお送り下さったログはまだ途中ですが、その中で検討されているように、瀬織津姫に関連する桜の古名である「ハハカ」に目をつけられたのは面白いですね。木を媒介にするとなると吉野裕子氏流の「ハハキ神=ハハ木神=ホウキ神=蛇神」につながるような気がします。

私は自説を出せるほど勉強しているわけではありませんので、支持する説を述べることしかできませんが、「ハハキ神」については蛇神で良いと思っています。異界の主にして現世と異界の橋渡しをする蛇神であり、それが顕現した時にアラハバキ神(顕われた蛇神)となる、と考えますと、たとえばオオモノヌシと呼ばれた三輪の神は、背後にニギハヤヒのごとき人物を想定する必要はなく、その属性においてもっとダイレクトにアラハバキにつながっていくかと思います。

対して谷川健一氏は吉野説とはまったく違ったな見方をしているなど、この神格は複雑に捉えようと思えば捉えられるようですね。風琳堂さんの、瀬織津姫とアラハバキ神のご研究が今後どのように進んでいくか楽しみです。

風琳堂さんやトカゲさんの今後のご研究の成果はこのサイトで発表されることでしょうから、またおじゃまさせていただこうと思います。
初カキコなのに脈絡なく長々だらだらと申し訳ありませんでしたm(__)m 回転の鈍い愚かなるσ(^_^;の脳ミソのためとご了承下さい。

長くなりついでの余談ですが、今年2002年8月には、こちら関西でも、エミシの勇者アテルイの1200回忌のイベントが行われると思います。情報がわかりましたら、またカキコに伺いますのでよろしくお願いします。

ではまた(^-^)/~~~

452 ZOUさんに案内されて来ました 橘まゆり 2002/07/01 11:09

古代の神々についてはずぶの素人なのですが、大祓えの瀬織津姫には興味がありました。
私の住処は大阪市住吉区の住吉大社から自転車で10分ほどの処にありますが、その境外末社である生根神社の末社に天淨稲荷という神さまが奉られています。
稲荷となっていますが、もともとは天淨大神であったようです。
縁在って、毎月の初辰の日には出来る限りお参りしていますが、正体不明のこの神さまに何故惹かれるのか未だ解りません。
こちらのHPを拝見して、天を浄める神とはどういう神なのか、ふと、瀬織津姫のお姿を垣間みたように思います。
私の拙いカンでは、天淨稲荷には天鈿女命=サルメノキミ=オオヒルメ様がいらっしゃると思っています。
しかし、おおもとを辿れば、瀬織津姫に行き着くのかも知れません。
不思議な縁を感じました。

453 アテルイと事代主 風琳堂主人 2002/07/01 12:24

 橘まゆりさん、はじめまして。
 周辺の伝承等を総合してみないと、大阪の「天淨大神」がどんな神かは即断できませんが、名称からは、おっしゃるとおり、背後に瀬織津姫が隠れている可能性が高いようです。天を浄める神、あるいは天にいて国を浄める神で、しかも「正体不明」とされる神だとなりますと、自ずと限られてきますからね。なにかみえてきましたら、また教えてください。

 ZOUさん、本のていねいな感想をありがとうございます。
アラハバキ神につきましては、ハハキ=ハハカ神の「ハハカ」が桜の古名であるということから、「荒桜神」という理解も可能かなとおもっています。これは、水神の化身としての桜神が瀬織津姫と重なること、および伊勢において、瀬織津姫=荒祭神がアラハバキ姫(アラハバキ神との対神=姫神)などと呼ばれる伝承があることからも、ある程度有効な仮説かという気がしています。ただし、ハハカ神=ホウキ神=蛇神といった性格や、産鉄の「火」に関わる神といった性格なども、この「ハハキ」という命名には複層化されていることが考えられます。また、伯耆=ホウキの荒神という意味も読み取ることができそうです。つまり、伯耆国の火神の山=大山の神という性格です。
 いずれにしましても、神々の歴史舞台で、異端の神、謎の神といったこれまでのイメージを、もう一歩踏み込んで語れば、アラハバキ神は伊勢の元神に深く関わる神ゆえに「異端」の神なのでしょう。伊勢の元神も、もとは蛇神(しかも男性神)ですから、当然、三輪山の神とも、あるいは各地の男蛇神とも共通する性格をもっています。
 三輪神=大物主の背後に「ニギハヤヒのごとき人物」ありかといえば、まずニギハヤヒが「人物」ではなくて、神に対する尊称・美称の一部が「ニギハヤヒ」という名称だろうということがあります。三輪山の神が通った姫の墓が「箸墓」とされるのですが、では、箸墓と釣りあうような、三輪山の神の「墓」はどこかと問いを立ててみますと、とたんに「人物」のイメージは怪しくなってきます。考古学的に、この箸墓が明かされるとき(がくればですが)、列島の女神の系譜の大きな結節点が明瞭になるだろうという気はしています。
 アテルイについては、今、岩手のほうでアテルイの映画の制作が進んでいて、それがこの夏に全国公開されるようです。それと、関西のイベントはリンクしているのかもしれません。
 アテルイの日高見国の国譲りとその死を考えますと、なにやら神話の事代主神の国譲りと死と、そのイメージが重なってきます。アテルイは自分からは攻めることがなくて、ヤマトの東征軍に対して防戦をしただけということで、東北サイドでは、彼を「エミシの勇者」とみています。
 アメリカの白人による西部劇に擬せば、列島版の「東部劇」ともいえる長い「征夷」を受けてきた歴史が東北(あるいは東国)にはあります。このこと自体の是非は、列島の「西部劇」ともども歴史の必然の様相・事実として認めるしかないのですが、しかし、神々の改竄は、人の「心」に関わるものですから、そこまで「征夷」されてはならないだろうということです。
 なぜ、最重要な水の神が神々の歴史舞台の中心から排除されるのか、あるいは秘されるのか──こういった問いが瀬織津姫にこだわる理由でもあります。
 三輪山にも石上神宮にも、このとっておきの水の女神が隠されています。アラハバキ神が愛した水の女神──。各地の無名の水霊を「顕神化」したのが瀬織津姫かとわたしはみています。この女神についての解明はまだ緒についたばかりですので、ZOUさんも、よろしかったら照明をあててみてください。またお寄りいただき、いい話を置いていってください。

455 広瀬大忌神は瀧祭神 風琳堂主人 2002/07/03 14:55

 江戸期延宝時代(1673〜1681年)の書とおもわれる「和州旧跡幽考」に、龍田、広瀬の二社についての興味深い伝承記録をみつけました。まずは、龍田の地名由来──。

■龍田の雷神
 龍田という事は、むかし此所に雷神落ちて、あがる事をえずして童子となりたりけるを農夫やしないて子とせり。頃しも夏の初めなりけるが隣村には降らざれども此の農夫が田のうえに白雨時々そゝぎ稲、花をなし熟して秋のおさめ思うまゝにしてけり。其の後この童子いとまこいて小竜となりて天にのぼる。かれが作る田を龍とぞ言いけるを、やがて所の名とせり。竜田は正字、立田は半仮名なり。(詞林採葉)

 雷神が落下して天へ帰れなくなり、里で田つくりに貢献し、やがて「小竜」になって天へ帰っていったとあります。この雷神は「白雨」を降らせたとありますから、雨神でもあったようです。
 天武4年=675年に、天武の勅命によって、竜田の風神と広瀬の大忌神はセットでまつられたのでした。「和州旧跡幽考」は、この竜田神と広瀬神について、旧資料を駆使して、次のようにまとめています。広瀬神が瀬織津姫であったことを再確認できそうなので、少し長いですけど読んでみます。

■竜田広瀬と瀧祭神
 龍田本社は立野にあり。法隆寺より一里余。
 竜田ニ坐ス天ノ御柱、国ノ御柱ノ神社二座(延喜式)。
 夫龍田明神の御鎮座は、天武天皇四年四月、小紫美濃王、小錦下佐伯連廣足をつかわしめて龍田の立野に風神を祠い給う。又大山中曽祢韓大をして広瀬の川曲に、大忌神を祭らしめ給う(日本紀)。抑、此の神は伊弉諾・伊弉冊尊、大八洲の国を産み給いて後伊弉諾尊、我が所生の国、唯朝霧のみありてかほりみてるかな、と宣いて、則ち吹撥ふの氣化して神となる。御号を級長戸邊命(女神)又曰く、級長津彦命(男神)。是れ風神なり(日本紀)。又飢きし時産み給うを倉稲魂命と申す(釈日本紀)。
 第一の社は(東向)、級長戸邊命。纂疏に曰く、級長とは息氣長しというがごとくなり。戸は語助字にして、邊は姫なり。女神にていますより竜田姫と申す。
 第二社は(東向)、級長津彦命。纂疏に曰く、津は語助字にして彦は男なり。風神にてまします。又北に向く社二座、南に向く社三座、坤(ひつじさる)の方に一座有り。
 瀧祭りの神、又寶山という事は伊弉諾・伊弉冊尊、海を探り給いし神の天瓊矛を納められしより瀧祭りの仙宮という(纂疏)。唯、瀧祭神と廣瀬龍田神、則ち同躰異名にして、水氣の神なり。故に廣瀬龍田の神の御名を天御柱・国御柱と申す。是れ天の逆矛の守護のもとなり(神祇本紀)。かの天瓊矛の神寶を竜田に納めしとなり。又の説に瀧祭りの宮は御裳濯川原に坐す御神なり。寶殿はあらず。地底にいます天逆太刀を納めし神仙なり(元長記)。其の瀧祭りの仙宮は常世郷と号して是れ龍宮なり(天地麗氣府録)。〔中略〕
 祭りは天武天皇五年四月朔日、竜田の風神、廣瀬大忌神を初めて祭り給う(日本紀)。

 ここで関心をひくのは、「瀧祭神と廣瀬龍田神、則ち同躰異名にして、水氣の神なり」とされていることです。いいかえれば、竜田の男神(=「夫龍田明神」)は風神であり、竜田の女神=竜田姫と広瀬神=大忌神は「水気の神」であり、瀧祭神と「同躰異名」だというように読めます。
 伊勢内宮の瀧祭神(=「御裳濯川原に坐す御神」)が、この竜田・広瀬両社の神と同神であり、しかも「其の瀧祭りの仙宮は常世郷と号して是れ龍宮なり」とみられていたようです。この伝承をいいかえますと、瀧祭神は龍宮神だということにもなります。
 現在の広瀬大社からは消去されていますけど、「大和志料」は、旧の「広瀬社由緒書」を引用して、「摂社荒祭神殿一座(昔廊内の本社の艮[うしとら]に在った)」、「天照大神荒魂瀬織津姫神を祭る」と、荒祭神=瀬織津姫が広瀬神社にまつられていたことを明記しています。
 広瀬大忌神と荒祭神=瀬織津姫と、そして瀧祭神が同神であることは、たとえば、岡山・吉備津神社社域の最奥部にまつられる瀧祭神社=瀧祭宮が、その祭神を瀬織津姫としていることからも断定できそうです。ちなみに、瀬戸内海の御崎神については「明石は赤石」(囲炉裏夜話307)で少しふれましたけど、この御崎神の本社が吉備津神社の「丑寅御崎」です。この神は、梁塵秘抄によれば「艮みさきは恐ろしや」と歌われていたように、吉備の鬼神=温羅[うら]と同神ともされます。ヤマトによって、畏怖・恐怖される最高神は瀬織津姫でもありましたから、この吉備の鬼神とも瀬織津姫は関わっている可能性があります(岡山県和気郡佐伯町の御崎神社の主祭神として瀬織津姫の名が確認できます)。
 広瀬神社は現在、その大元の大忌神を「若宇加能売命」とし豊受大神(伊勢外宮の祭神)と同神だとしています。つまり、大忌神は瀬織津姫ではないと主張しています。また、伊勢内宮側も、瀧祭神を瀬織津姫だとは認めていませんが、時間と距離が「本家」から遠ざかれば遠ざかるほど、その本家の虚と嘘を明かす結果となっています。
 本来、雷を落とす「雷神」なのですが、自身が落下したという地名潭をもつ竜田です。この地に墜落した雷神は「白雨」を降らせる雨神でもあり、「小竜」に姿を変えたように龍神でもありました。広瀬神社本社のウシトラにかつてまつられていた荒祭神は、現在、この雨神=小竜神が変身した「穂雷命」として、その対となる男性神である太陽神=櫛玉命(伊勢皇太神宮「奥の院」=朝熊神社の男神でもあり、大杉神=三輪神でもある)とともに、本殿相殿の神とされています。名はストレートには出せないが、敬してまつることだけはしている、あるいは、まつらざるをえない神というべきかもしれません。

456 夫龍田明神の「夫」 風琳堂主人 2002/07/03 15:47

 455の引用の「夫龍田明神」の「夫」は「夫=それ」と読ませているかとおもいます。掛け言葉というのは読みすぎで、一言入れ忘れました。龍田風神は、「水気の神」である龍田姫=広瀬神と対[ペア]の関係にありますから、はからずも「夫神」とはなります。こういった対神の祭祀は各地にみられるものですが、これは神まつりの一つの基本形態、古態だったのではないかとわたしはみています。補足しておきます。

457 リンクはっちゃいました ZOU 2002/07/07 01:42

風琳堂さんこんにちは。前回は丁寧なレスありがとうございますm(__)m
まゆりさんもここにお越しになったんですね(^-^)/

さて、三輪のバックにアラハバキ神という蛇神がいるかもしれないというのはある古史古伝研究家が言っていたことなんですが、それを読んで大変納得してしまいました。なので、風琳堂さんのアラハバキ論は私にとっても力強く感じられます。私の探し物のかなりの答えをお持ちみたいですね。またよろしくご教示下さいm(__)m

ところで、ハハキ神=ホウキ神はこんなところにもいるんです。http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/hachiouji.htm さすが「のりちゃんず」。この神社の祭神名が面白いでしょ。トコヨキ姫。まあ、ホウキ神はこの神社だけの習慣ではないので一概にはいえませんが、常世の蛇姫と考えるのもなかなか楽しいものです。

風琳堂さんのお考えに追いつけていないのは、私自身まだまだ不勉強なゆえですが、エミシの国に魅かれるものとして、事後報告になりますが我が家から風琳堂さんへのリンクをご承諾いただければ嬉しく思いますhttp://www1.kcn.ne.jp/~rascals/shikinokuni/link.html
いやあ、実はσ(^^)アテルイファンでして、「アテルイを顕彰する会」なんてのに入ってるんです。そのうちアテルイの墓伝承地もUPしたいです。

458 厳神之宮と出雲大社 風琳堂主人 2002/07/07 14:32

 ZOUさん、リンクの件──お礼申し上げます。こちらもリンク集「東北と日本の歴史を考える」に入れさせてもらいます。
 アラハバキといえば、昨年の秋に仙台のほうで「アラハバキ学会」が立ち上がったようです。この会の会長は遠野の人と聞いています。会がどんな志向と活動をするのかみえてきたら、自分も入れてもらおうかなとはおもっています。いい会になりそうでしたら、ここで紹介します。
 のりさんの、たぶん「水の女」的感性と臭覚が歩かせている神社めぐりはすごいなとおもっています。
 アテルイの墓──交野市にはいつか訪ねてみたいです。
 出雲大社について、仮説の大枠を書いてみました。最初に引用した書紀の「揖夜神社」は、祭神の女神に「わらの蛇」が奉納されることで知られます。この「蛇」は、アラハバキとも呼ばれています。

 日本書紀斉明天皇5年(=659年)の条に、後世の書き加えではありますが、出雲神が「予知神」であることをうかがわせる記述があります。

■出雲の神の宮
 この年(斉明天皇5年)、出雲国造に命ぜられて神の宮(意宇郡の熊野大社)を修造させられた。そのとき狐が、意宇郡の役夫の採ってきた葛[かずら](宮造りの用材)を噛み切って逃げた。また犬が死人の腕を、揖屋神社[いうやのやしろ]のところに齧って置いていた。──天子の崩御の前兆である。(宇治谷孟訳)

 斉明による百済救援のための征新羅軍の準備が、この「前兆」の翌年=660年になされます。そして翌々年の661年、斉明は「前兆」どおりに亡くなります。書紀の記述──。

■斉明の死
 (斉明7年=661年)五月九日、天皇は朝倉橘広庭宮にお移りになった。このとき朝倉社の木を切り払って、この宮を造られたので、雷神が怒って御殿をこわした。また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬ者が多かった。〔中略〕
 秋七月二十四日、天皇は朝倉宮に崩御された。
 八月一日、皇太子(中大兄)は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮につかれた。この宵、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。

 このあと、中大兄=天智による白村江の大敗(663年)が続くのですが、ここでこだわってみたいのは、斉明の死の予兆に関わるとおもわれる出雲の「神の宮」と、斉明の死に直接関わるかもしれない朝倉社の「雷神」の存在です(朝倉社は現在廃社)。
 この斉明の死のあと、天智の側近中の側近である中臣鎌足も、「雷」の直撃によって死んでいますように(669年)、「雷神」の祟りは、当時、よほど恐れられていたものとおもいます。
 斉明は、半島への西征にあたって、出雲の「神の宮」を「修造」させたとされます。この「神の宮」なのですが、書紀原文では「厳神之宮」とされています。訓は「いつかしのかみのみや」とされるようですが、ただの「神の宮」ではなく「厳神之宮」であることは、ことのほか重要な表記であったとおもいます。
 出雲国造を自認する千家尊統著『出雲大社』(学生社)によりますと、宇治谷さんの訳注とはちがって、この「厳神之宮」は出雲の熊野大社ではなく、杵築大社=出雲大社のことだと主張しています。著者は次のように述べています。

■厳神之宮
厳神之宮とは意宇郡の熊野大社のことであり、厳密には出雲郡の杵築の大社のそれではあるまいと推測する説もある。
 わが出雲大社の古い伝えではその社殿造替[ぞうたい]の歴史をあげて、垂仁天皇のときのを第一回、斉明天皇の五年を第二回とし、現在の本殿の造られた延享元年(一七四四)まで二十五回の造替があったとしている。

 出雲国造および出雲大社の歴史をどこまで古くみせるかという志向と執着は一冊全体を一貫していますが、それも根拠は記紀の記述です。垂仁期には、伊勢神宮も創祀されたとされるのですが、これは無理があることについては『エミシの国の女神』が明かしていることでした。しかし、ここで興味深いことは、出雲大社の創祀と伊勢神宮の創祀がセットで語られるということでしょうか。
 また、厳神之宮が熊野大社か出雲大社のどちらを指すものかといった結論を性急に出さないという「保留」をした上でいいますなら、「厳神之宮」の「厳神」とはなにかという問いが突出してくるといわなければなりません。出雲国造の著者の説に従えば、出雲大社=厳神之宮であり、出雲大社の神は「厳神」だとなります。
 しかし、出雲国造の熊野大社への執着は、ある意味、出雲大社のそれよりも強いものがあります。『出雲大社』で著者は、次のように述べています。

■出雲国造がまつる神
 出雲の国造がまつる神とは、意宇川の川上なる熊野の神であり、大汝神[おおなむちのかみ]とはいうまでもなく出雲大社の祭神たる大国主神をさす。そして『古事記』や『日本書紀』の神話伝承では、大国主神のためにその国譲りのあと、高壮な天日隅宮[あめのひすみのみや]を造って、「汝が祭祀を主[つかさど]らん者は天穂日命[あめのほひのみこと]これなり」と、出雲国造の祖天穂日命に、タカミムスビノミコトが、出雲の大社の祭祀を命じたとしている。
 出雲国造はこうして、出雲大社の西隣りに地を接して国造館が建てられ、大社の祭祀にずっと今日まで当ってきている。

■出雲国造と熊野神
出雲国造の本貫の地は意宇郡である。〔中略〕出雲国造はこの地の豪族であったのである。文武天皇の二年三月には、筑前の国宗形[むなかた]と出雲の意宇の郡司は、三等身以上の者でも郡司に連用することができるという特例が許されている。当時にあってはきわめて例外的な措置であるが、こういう例外があえてなされるほど、出雲の国造は強力な勢力をもっていたということである。そして、このような勢威は、熊野の神をいただき、遠い神代からその祭祀にあたってきた家であったればこそなのである。
「風土記」に大社とあるのは熊野と杵築のそれだけである。しかし両大社を列挙するときには、熊野がつねに杵築の前に上位としてあり、逆になることはない。王朝時代に朝廷から授けられた神階も、熊野が杵築よりも一階だけ上であった。これというのも熊野の大社は、もともと出雲国造が奉斎していた社であったからなのである。

 出雲国造にとって、熊野神と出雲大社の神の二神がその祭祀対象であること──このことは幾度も強調されるのですが、では、熊野神と出雲神はどういう関係なのかといった問いには、一切答えることがありません。
 出雲神を明かそうとするときの、この肝心要の問いを不問に付していることに、おそらく、出雲神の「謎」が象徴されています。
 ここで、出雲国造が執着する熊野神とはなにかということを見ておくことは、無駄ではないかもしれません。

■出雲・熊野大社の祭神
 熊野大社の祭神については「風土記」に「伊弉奈枳乃真奈子坐熊野加武呂乃命[いざなぎのまなこにますくまのかむろのみこと]」、後に述べる『出雲国造神賀詞[いずものくにのみやつこのかむよごと]』に「伊射奈伎[いさなぎ]の日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命[ひまなこかぶろぎくまぬのおおかみくしみけぬのみこと]」とあるにあわせ拠ることができる。
 つまり神名からすれば、この日本の国土を生んだイザナギノミコトの聖なる御子神(真名子)たる櫛御気野命[くしみけぬのみこと]ということである。クシとは神奇という意味をあらわす美称、ミケヌとは御饌主であり、総じて偉大なる穀物霊という意味に他ならない。意宇川が豊作の豊饒を保障するところから、その保障する神威を意宇川の熊野山(天狗山)にみとめたのが熊野の神なのである。俗にいう水分[みくまり]神的性格を、これにもとめることもできよう。

 出雲国造がまつる「意宇川の川上なる熊野の神」は、「俗に」とありますが、「水分神」だとあります。つまり、水神です。この水神の性格は、具体的には、熊野山の「明見の水」という神水に象徴されるものでしょう。

■熊野山の「明見の水」
上の社の後の山の岩間より清水の湧出を見る。俗にこの清水を明見の水とよび、この水にて目を洗えば眼病たちまち快癒するというのでありがたがられていたという。意宇の川上の聖地と、そこに坐して人々の幸せを見守る神にたいする信頼と期待、これを信仰とよぶならば、その信仰の発展が熊野大社であるといってよいであろう。

 ここには、二つめの「俗に」が出てきますが、「明見の水」という清水=神水への信仰が「発展」したもの──それが「熊野大社」だとあります。
 このように、出雲国造が重視する熊野神は、その神名「櫛御気野命」といった穀物霊=農耕神と微妙に関わる水神であること、しかも「意宇の川上の聖地」の、あるいは「意宇川の川上なる」とありますように、川上神でもあります。
 紀州熊野・田辺の川上神および肥前=佐賀の川上神が瀬織津姫であることに加え、熊野那智の滝神が瀬織津姫であることと、この出雲の熊野神=川上神は同神であることが考えられます。
 瀬織津姫の異名を再読しますと、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(日本書紀)で、この神名にある「厳之御魂」が、熊野大社あるいは出雲大社の異名である「厳神之宮」の「厳神」に正確に対応しています。
 また、この長い神名にある「撞賢木」=ツキサカキですが、これは「憑賢木」あるいは「憑榊」であり、瀬織津姫は、榊に憑く厳御魂=厳神だとみることができます。出雲国造の著者は、このことにも関わる記述をしています。

■榊は神の憑りしろ
国造を「御杖代[みつえしろ]とよぶ〔中略〕
神を招き迎えるためには榊に剣や玉・鏡を着けるのである。神祭にはすなわちこうして神籬[ひもろぎ]に鏡・剣・玉をつけて、その榊をけがれなき神聖なもの、あるいはこれにより邪霊をはらいしづめ、けがすことができないようにするのである。現行の神社祭式でも、祭礼には榊二本を社頭に立て、向って右の榊に玉を上枝に、鏡を中枝に、そして左の榊に劔を取りかけるのである。これは明治八年の神社祭式で、いわば社頭の装飾として創定されたものであるが、その本義はたんなる装飾ではなくして、どこまでも神を招き迎えるがためのものであり、榊は神の憑[よ]りしろであるわけである。
 以上のように見てくるときには、国造家の家紋剣花菱の意味もはっきりとしてくるであろう。要するに剣花菱の紋のある装束を着する国造は真榊であり、その紋所は剣・鏡・玉をあらわして、国造は祭神大国主神の憑りたまう聖なる神籬としてあるということになる。

 出雲国造は、出雲大社の「祭神大国主神の憑りたまう聖なる神籬」であり、それは「御杖代」=「真榊」と等質だという認識が書かれています。出雲において、この憑榊=ツキサカキの神として明確に認定されている神が一柱存在します。それは撞賢木厳之御魂天疎向津媛命のムカツヒメの音を内包する天甕津姫命です。参考までに、この女神がまつられる神社の由緒等を掲げておきます。

■伊努神社「由緒」
[通称] 森の宮
[鎮座地] 平田市美野町382
[主祭神] 天甕津姫命
[本殿] 生木の榊を神籬とす
[由緒・沿革]
 風土記に云う伊農郷伊努の社是なり。
 祭神天甕津姫命の夫赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と共に国巡行坐時此処に至りて薨し給う。故に此処に神陵を造り奉り、陵前に於祭祀を行い奉れり。神亀三年(=726年)に至りて陵前に榊を植えて神籬とし、御神霊を此処に奉遷し之を御霊代として奉祀す。(『神国島根』)

 ここには穏やかならぬことが記されています。ツキサカキの神「天甕津姫」は、この社の地で「薨し給う」とあるからです。伊努神社は、ツキサカキの神の「神陵」とされ、この神への鎮魂祭祀の始まりは、聖武時代の神亀三年=726年であると読めます。なお、ツキサカキの神の「夫神」とされる赤衾伊農意保須美比古佐和気能命という神ですが、この長い大袈裟な神名にまどわされますけど、これはだれもが知っている神名でいえば、天照大神のことかとおもいます。参考までに添えておけば、平田・伊努神社の宍道湖南対岸にあたる八束郡宍道町に鎮座する「伊努神社」(本宮神社摂社)は、その祭神を「天照大神」としています。また同社前の川は「佐倉川」(桜川です)といい、この川の流域には、その名も佐久良=佐倉から転じた佐久田神社(祭神:天照大神)や、宍道湖畔には向津神社(祭神:撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)が鎮座しています。宍道町は、その祭祀において、出雲ではなかなか骨のある土地柄というべきかもしれません。天甕津姫は、美濃・尾張の地にまで流浪してくる伝承をもっていますが、それにしても、天甕津姫は、なぜ、この平田の地で亡くなったとされているのか──。出雲大社の内部でなにごとかがおこったことが考えられますが、これは、今は保留の問いとしておきます。
 ところで、出雲大社の祭神名ですが、現在、「大国主神」というように常識化されていますけど、『出雲大社』で著者は、「大国主神という名をとなえる以前の名大己貴命[おおなむちのみこと](大穴持命[おおなもちのみこと])と明記しています。また、大己貴命=大穴持命は、先の引用からは、「大汝神[おおなむちのかみ]」とも表記されます。
 くりかえしますが、熊野那智の滝神は、瀬織津姫と表記するかわりに「大己貴命」としています。出雲の熊野神(の一神)である川上神=水神という性格は、その性格だけが語られはしますけど、出雲・熊野大社の神は大己貴=大穴持=大汝とはされていません。大己貴=大穴持=大汝は、熊野那智の滝神でもあり、この神は、現在の出雲・熊野大社ではなく、出雲国造が「神代の約束」(同書)によって奉仕する出雲大社の神とされているわけです。
 このようにみてきますと、出雲・熊野大社の神(の一神)である水神が、出雲大社へ遷った=遷されたことが考えられます。では、こういった遷移の元の出雲・熊野大社はどんな祭祀がなされていたかという疑問が湧いてきます。出雲国造の著者は、次のように書いています。

■出雲・熊野大社の構成
 熊野大社では、上の社を現熊野大社より西南徒歩十分の意宇川上流、比婆山を控えたその南麓に求めて熊野三社権現とよび、下の社を現神社の位置にとり、これを伊勢宮とよんで天照大神を祭神としてきた。これは中世以降、当社の衰微による俗説訛伝にすぎないが、明治四年上の社を下の社に合祀して境内社とした。しかし、祭神クシミケヌノミコトをイザナギノミコトの聖なる御子神というところから、これをスサノオノミコトにあてて解してきたことは、賛成できない古典解釈であった。祭神はどこまでも熊野の大神であり、その御名をクシミケヌノミコトというとおり、穀物霊であったのである。

 出雲・熊野大社は(も)、「上の社」と「下の社」という二社構成であったことがわかります。出雲熊野の川上神=水神は「上の社」の祭神でしたが、「明治四年上の社を下の社に合祀して境内社とした」とされます。
 また、ここには、第三の「俗説」が書かれています。曰く──「下の社」は「伊勢宮とよんで天照大神を祭神としてきた」というものです。これは「俗説訛伝にすぎない」とされるわけですが、水神=瀬織津姫と対となる伊勢の男神=太陽神は、もともと海洋農耕神であり、この農耕神=穀物神が、出雲国造が主張するところでは、「櫛御気野命[くしみけぬのみこと]であり、「偉大なる穀物霊」となります。
 伊勢神宮に刻印されていましたように、伊勢の元神は、水神(女神)と日神=農耕神(男神)の対なる二神をまつっていたのでした。この本来の神まつりの形態は、出雲・熊野大社においてもみられるというのが、「上の社」「下の社」の構成です。伊勢の元神の男性神は、大歳神であり、また猿田彦神でもありました。猿田彦は、椿大神社においては「天狗」です。出雲・熊野の神の山である熊野山が、その異名に「天狗山」とされることも、ここに、つまり、出雲・熊野大社に、伊勢の元神と同神がまつられていたことをみることができます。「俗信訛伝」として排除される「天照大神」の痕跡を、この山名は雄弁に語っているというべきです。
 現在、熊野大社の祭神は「穀物霊」とされる農耕神かつ男神である「櫛御気野命」しか語られないということは、熊野大社の「上の社」の祭神である川上神=水神=女神はどこへ行ったかということになります。熊野大社から消えた、この水神=女神の遷移先こそが、出雲大社だとみるしかありません。そして、その祭神は、大己貴=大穴持=大汝というよりも、より男神の匂いの強い「大国主神」というように名称変更がなされます。
 伊勢神宮の元神たちの改竄・消去は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、天武・持統、および中臣=藤原氏によってなされます。伊勢の元神の水神は、熊野那智の滝神、つまり熊野の水神でもありましたから、こういった伊勢神の改竄→伊勢神宮の創祀のとき、おそらく、出雲・熊野の水神の改竄→出雲大社への遷移=創祀がなされたとみることができます。これは、いいかえれば、伊勢の元神である水神=女神が、出雲大社に幽閉されたという意味でもありましょう。出雲国造が、自らの祖神を改竄され、その祭祀を担当するというのは、歴史の不幸というしかありません。出雲国造が、この自己韜晦の綾に飲まれることを拒否するには、記紀の記述を絶対化して、それを遵守している姿を強調するしかないのでしょう。
 引用をくりかえしますけど、この出雲国造の自己認識あるいはアイデンティティーを再読してみます。

■出雲国造の自己認識
『古事記』や『日本書紀』の神話伝承では、大国主神のためにその国譲りのあと、高壮な天日隅宮[あめのひすみのみや]を造って、「汝が祭祀を主[つかさど]らん者は天穂日命[あめのほひのみこと]これなり」と、出雲国造の祖天穂日命に、タカミムスビノミコトが、出雲の大社の祭祀を命じたとしている。
 出雲国造はこうして、出雲大社の西隣りに地を接して国造館が建てられ、大社の祭祀にずっと今日まで当ってきている。

 出雲国造の出雲大社の祭祀にかける自尊の心は、たとえば、「家がらの正しさは皇室につぎ、その成立は五摂家よりも古い」「国造家は皇室につぐ古格をもち」といった表現にみることができます。この出雲国造の祭祀姿勢は、自らの「死」さえも無化して続くとされます。それが、いわゆる「火継式」です。

■出雲国造の死と火継式
天穂日命は意宇郡の熊野大神櫛御気野命から授けられた火燧[ひきり]臼で鑚[き]りだした火で潔斎し清浄な躬で大国主神に奉仕することになった。神代の約束にしたがって代々の出雲国造はつねに天穂日命でなければならないのである。〔中略〕
 こういうわけで国造が死去(神避[かむさ]りという)するや、その嗣子は一昼夜をおかずただちに、国造家に古代から伝わる火燧臼[ひきりうす]・火燧臼[ひきりきね]をもって国造館を出発し、昔の意宇郡、今の八束郡の熊野大社の鑚火殿で、この臼と杵とにより神火を鑚り出し、その火で調理した斎食を新国造が食べることによって、始めて出雲国造となるのである。このことにより同時にまた、天穂日命それ自体になったというわけなのである。
 この神火相続の儀が無事すんだというしらせが国造家に到着すると、身まかった前国造を小門から赤い牛にのせてはこび出し、杵築の東南菱根[ひしね]の池に水葬することになっていた。国造は永生であるから墓がないというのがその主旨である。〔中略〕
 こうしてひとたび鑚り出したその火は、その国造在世中は国造館内の斎火殿(お火所[ひどころ]とよぶ)できびしく守り、これを絶やしてはならないとしている。国造は終生この神火で調理したものを食べ、家族といえどもこれを口にすることは許されない。

 これは凄惨な祭祀というべきです。こうまでして、出雲大社の神は祭祀=幽閉されているわけですが、こうした神まつりを強いるものはなにかと問いを立てますと、やはり伊勢神宮の創祀による皇祖神の絶対性を死守することを強いる、あるいは自己受容する、日本の神まつりの歴史と現実が浮き立ってくるというべきでしょう。
 出雲国造が死守する「神代の約束」──。このことによって封じられている神こそ、列島各地にみられる水の最高神であり、空間を出雲に限定すれば、消えた熊野大社の水神とみることができそうです。この水の女神は、三河の出雲神社の表記を借りるならば、「出雲大天女」ともいわれ、あるいは、囲炉裏夜話の論証の過程からいえば、厳神=伊豆大神ともなります。
 出雲大社の連綿たる社家=出雲国造による『出雲大社』という本は、初めてその祭祀の姿が内部から語られたもので、とても貴重な「記録」だといえます。このことは十二分に認めるものです。しかし、通読して気になることの一つは、これだけ連綿とした歴史をもつ出雲大社にもかかわらず、その祭祀や神を語るのに、なぜか自前の記録あるいは伝承が語られることなく、その由緒の根拠はすべて記紀だということがあります。もし記紀とは異質な自己主張がこの本にあるとすれば、それは、これまでみてきたように、熊野大社への強いこだわりと、大国主の異名を記紀が合計十一種類「並列」しているのとはちがって、現祭神の大国主神の「前」は大己貴=大穴持=大汝だったということかとおもいます。
 熊野大社の神と出雲大社の神──両神をともにまつる出雲国造が、この両神の関係に論及することを一切しないという不思議──。これは、わかっていて論及しないのかと一瞬おもわないわけではありませんでしたが、しかし、通読したときの言葉の勢い、リズムからしますと、論及できる根拠=文献・史料をもともともっていないのではないかということが考えられます。
 出雲大社の神を明かす基礎文献をもっていないとしますと、これはどこかで関係由緒書を喪ったことを考えてみるしかないのかもしれません。それはいつのことかということでいえば、可能性がもっとも高いのは「寛文の造営」のときだったかもしれません。

■寛文の造営
 大社の歴史にも、時に盛衰があり、戦乱の中世になって社風もようやく衰え、社殿も荒廃し高さ八十尺を維持できず、規模を縮小して仮殿式になった。近世になって第六十八代の国造千家尊光は、このような衰微を大いに憂え、北島国造恒孝とともに協力してその復興をくわだて、松江藩主松平直政の支援をえて大改革を断行した。徳川幕府も五十万両を奉納して援助した。
 そして神仏習合の弊をのぞき、境内地にあった堂塔を廃して拡張整備し、社殿を高さ八十尺という古来の正殿式に復興して寛文七年(一六七七)にはほぼ現在のようなどうどうたる規模の偉容が完成した。出雲大社の神仏分離は、じつにこの時に行われたのであって、神仏分離といえば一般には明治初年のことと思いがちであるが、当社ではこのようにきわめて早い時代の事であった。

 この寛文時代というのは、伊勢の元宮である伊雑宮が、天照大神をまつる本宮は自社だとして伊勢神宮と真っ向から対峙した時代です。岩田貞雄さんは、この論争を「神宮史上に於ても未曾有の大事件」と呼んでいましたが(「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相」)、この論争の過程で、伊雑宮側の責任者が暗殺されたのが1682年のことでした。
 江戸期、伊勢神宮最大の危機ともいうべき時代に、伊勢神宮を裏から支える出雲大社の「大改革」がなされたことは記憶しておいてよいかとおもいます。この伊雑宮事件のときもそうでしたが、朝廷と幕府は、権力を二分しつつも(政治権力は幕府、祭祀権力は朝廷=吉田神社)、表裏一体となって伊雑宮側の主張を退けたのでした。こういった幕府の意向があればこそ、「五十万両」という破格中の破格の「奉納」があったとみるべきでしょう。このとき出雲大社にどんな改変がなされたかは今つぶさに再現できませんけど、出雲国造の著者の言葉によれば、明治初年の「神仏分離」を先取りしたものだったとあり、これは、要するに、天皇と伊勢神宮の絶対化という祭政思想を先取りしたものだったという意味にも理解できます。
 この天皇制を死守せんとする出雲国造の意志は、たとえば、日本の敗戦後にとった行動からも読み取ることができます。

■出雲国造の朝廷尊守の精神
 そして私の長男である現宮司の第八十三代尊祀[たかよし]が国造を襲職した際、その精神をうけて昭和二十三年六月二十一日宮中に参内して賜謁、神賀詞を奉り、出雲産の玉造の瓊[たま]三種一連を献じたことは、意義深いものがあった。
 このことは敗戦直後のことである。赤旗は林立しデモは横行する。極東軍事裁判が日本の非を責めたて、天皇制存続についての批判はきわめてきびしく、天皇のご退位をすらももとめる声も高いというその中で、出雲国造の奉る神賀詞は、日本の正しい姿をはっきりと国民に指示し、自覚させるものがあった、といってよいのである。

 あられもない天皇制遵守の言葉というべきですが、こういった思想を支えるものとして「出雲国造の奉る神賀詞」はあるのでしょう。出雲国造にとって、この神賀詞の存在が、自己思想の根拠でもあるということが明快に語られています。
 わたしたちが瀬織津姫という神にこだわるとき、この出雲国造神賀詞と大祓祝詞=中臣祓は、記紀の編集創作思想とともに大きく立ちはだかる「表現」です。
 出雲国造の著者にとって、では、この神賀詞はどう語られるのかを最後にみておこうとおもいます。

■出雲国造神賀詞
 出雲国造の神賀詞奏上は、歴史の上では元正天皇の霊亀二年(716)二月にはじめてみえてくる。出雲臣果安[はたやす]のときである。果安は『出雲国造伝統略』によると、第二十四代国造であり、その子広嶋は『出雲国風土記』を撰進している。〔中略〕
 すなわちこの神賀詞の「神」という字は、たんに神聖という意味の形容詞ではなくて、文字通り神の奏すところの賀詞であったのである。国造が一年間斎い奉った出雲百八十六社の神々、とくに熊野に坐しますクシミケヌノミコトと杵築の大宮に鎮座する大国主神が、天皇に奏す賀詞であったために、朝廷ではこの奏上をとりわけ重視し、大切な神事としていたのである。出雲の神の神威の高さが思いしられる御儀であるが、そのことはひいては、出雲国造のもてるところの宗教的権威の高さということにもなるであろう。

 著者=出雲国造は、神賀詞を「国造」自身が奏上するのではなく、出雲の神々(「出雲百八十六社の神々、とくに熊野に坐しますクシミケヌノミコトと杵築の大宮に鎮座する大国主神」)が奏上するのだといいかえています。著者は、引用とは別のところでも、「出雲国造の奏する賀詞[よごと]とは、出雲の神たちのたてまつる賀詞にほかならない」とも断言していますが、これは詭弁というべきです。
 出雲国造神賀詞の内容は、あくまで出雲国造が奏上する内容なのです。出雲の神々のうち、特に「国作らしし大神」=「大穴持命」は、「布都怒志」たちが「豊葦原の水穂の国」の「荒ぶる神ども」を「揆[はら]ひ平[む]け」たあと「媚び鎮め」られたとされていたわけで、この「媚び鎮め」が出雲大社の創祀であることは疑いの余地がありません。この「媚び鎮め」のあとに、出雲大社の神の言葉を仮装して創作されたのが、「出雲の神たちのたてまつる賀詞」というべきで、しかも、この仮装の言葉を奏上する当為者は出雲国造なのです。この神賀詞の内容が、大祓祝詞の表現と思想を踏襲していることは別にみてきましたけど、神賀詞の創作者はだれかということでいえば、あくまで大祓祝詞の創作者と同断の思想をもった者というしかありません。
 出雲国造は自身の祖神を「媚び鎮め」たとする神賀詞を、自身の先祖=出雲臣果安が自主的に創作したとするのか──よくよく考えてみる必要がありはしないかとおもいます。

(追記)
 出雲国造神賀詞の初見について、「八幡神と瀬織津姫」「倭文神と瀬織津姫」ほかで724年と書いてきました。これはまちがいで、『出雲大社』が述べるように、716年=霊亀二年が文献上の初出というのが正しいです。過去の囲炉裏夜話をお読みいただくときはご注意ください。
 大祓祝詞(669〜701ころ)→古事記(712)→風土記T(713〜)→出雲国造神賀詞(716)→日本書紀(720)→風土記Uという流れで、出雲国造神賀詞は、日本書紀の編集創作思想と、同時代的時間および思想を共有して創作されたものとみることができます。なお、出雲国風土記(733年)は、この表現史からしますと、「風土記U」のグループに入ります。

459 ありがとうございました ZOU 2002/07/10 00:49

リンクはってくださったんですね。ありがとうございました。これからも風琳堂さんのご活躍に期待します。今後ともよろしくお願いしますm(__)m

知人にも何人か、ホツマの記述やセオリツヒメに興味を持っている人がいました。アプローチは違っても求めるものは同じなのかもしれません。

460 出雲大神と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/07/12 00:47

 ZOUさん、ホツマは瀬織津姫を唯一認知している文献ですね。アマテルが初めて瀬織津姫を見て、その優雅さにおもわず階段からずっこけるというシーンは微笑ましくて、これはなかなかの文学だなとおもっています。このホツマ文学に全面的に依拠するだけでは、日本の神まつりの歴史実態は語れないということもあり、参考にはさせてもらいました。楽しい文献文学ですし、瀬織津姫がまるで生きているように描かれていて好きな文学です。なお、ホツマは、三輪山=大神[おおみわ]神社と関わる三輪氏の末裔の作かとおもいますが、伊勢の祖型神としての天照大神=日神と瀬織津姫=水神は、この三輪山にも関わっているとおもっています。
 以下は、瀬織津姫と出雲の話の続きということでまとめたものです。
 なお、明日から本づくりの仕事の関係で、桑名と名古屋へ出張します。もし時間がとれるようでしたら、美濃の天甕津日女をまつる「花長神社」にまで足をのばせればいいなとおもっています。なにか補足できそうなことがみえてきたら、旅先からここへ書き込むかもしれません。

 出雲のツキサカキ=憑榊の神として天甕津姫[あまのみかつひめ]という女神の名がみえてきました。瀬織津姫は、その異名に「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」(日本書紀)という名をもっていて、この長い神名は、瀬織津姫が「撞賢木」=ツキサカキの神であること、また、「向津媛」=ムカツヒメ→ミカツヒメという甕の女神ともなりうる通音が含まれていて、これらは、天甕津姫=瀬織津姫の可能性を強く示唆しています。三河において、「瑠璃の壺」に宿る神として瀬織津姫がみられることも、壺神=甕神としての水神的性格を共有しているとみることができます。さらにいえば、出雲の熊野大社あるいは出雲大社は「厳神之宮」の異名をもっていたわけですが、瀬織津姫は熊野の水神=滝神でもあり、その長い神名に含まれる「厳之御魂」と出雲の「厳神」は正確に対応していることも大きな意味をもっているというべきでしょう。
 ところで、福岡県小郡市の姫社[ひめこそ]=宗像神は流浪する女神=水神でした(囲炉裏夜話344、355「荒ぶる神と淀姫」ほか参照)。この流浪する水神の話は、たとえば、出雲にみられる、このミカツヒメ=天甕津姫という女神の流浪→鎮座潭にもみることができます。
 出雲からははるか東となりますが、愛知県一宮市丹陽町に、このミカツヒメをまつる吾豆良[あずら]神社があります。現在の正確な祭神表示は「天甕津姫命、倭姫命」。同社に関する、あるいはミカツヒメについての、尾張国風土記逸文の関連記事を読んでみます。

■吾縵の郷
 尾張の国の風土記にいう、──丹羽[には]の郡。吾縵[あづら]の郷。巻向の珠城[たまき]の宮に天の下をお治めになった天皇(垂仁天皇)のみ世、品津別[ほむつわけ]の皇子[みこ]は、生まれて七歳になっても口をきいて語ることができなかった。ひろく群臣に問われたけれども、誰一人よい意見を申しあげるものがなかった。その後、皇后の夢に神があってお告げをくだし給い、「私は多具[たぐ]の国の阿麻乃彌加都比女[あまのみかつひめ]というのだ。私はまだ祭ってくれる祝[はふり](祭主)をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなるようになる」といった。帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探しだすべき人を占わせると、日置部らの祖[おや]建岡君[たてをかのきみ]がその占いに合った。そこで神をたづねさせた。その時建岡君は美濃の国の花鹿[はなか]の山に到り、榊の枝を折りとって縵[かづら]に造り、祈誓して「私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう」といったところが、縵はとび去ってここに落ちた。そこで神がここにおいでになると知って〔縵の〕社を建てた。この社名によって里に名づけた。後の人は訛って阿豆良[あづら]の里という。(吉野裕訳)

 これはとても不思議な話です。垂仁の皇子=品津別が言葉を失い、それを心配した垂仁の皇后が、夢の中で、この女神から「お告げ」を受けるというシチュエーションが語られています。皇子が言葉を回復するためには、ミカツヒメ=阿麻乃彌加都比女の祭祀が必要だというのです。
この夢告によりますと、ミカツヒメは、「多具の国」の神だと表明しています。この「多具」は出雲の「多久」かとおもいます。そして、この神は、なぜか(出雲の)「多具の国」からはるか東の美濃あるいは尾張といった地に関係づけられるように語られています。自分をまつる者がまだいないのだという言葉に、この女神の流浪の様が如実に表れています。
 この風土記逸文の話は、わたしたちに、美濃・尾張、そして元の出雲の地をあらためて探ってみよと告げているかのようです。また、ホムツワケの失語→回復の話は、古事記も記載するところでした。尾張国風土記逸文とは異なる神の名が登場してきますので、古事記の該当部分も読んでみます。

■本牟智和気王[ほむちわけのみこ]
 そこで(本牟智和気王が鵠=白鳥を見て片言を話したので、この白鳥をなんとかつかまえて献上した。この鳥を見れば、本牟智和気王は言葉を話すだろうとおもってそうしたが、けっきょくは話すことはなかったので…引用者)天皇(=垂仁)が御心痛になって、おやすみになっていた時、御夢に神が教えて仰せられるには、「私の神殿を、天皇の宮殿のようにお造りになるならば、御子[みこ]はかならず物を言うことであろう」と仰せられた。このようにお告げがあった時、太占[ふとまに]で占って、どの神のお心であるかを求めたところ、その祟[たたり]は出雲の大神の御心であることがわかった。それで、その御子にその出雲の大神の宮を参拝させるために遣わそうという時に、だれを御子に従わせたらよかろうかと占った。ところが曙立王[あけたつのみこ]が占いにあたった。〔中略〕
 そして出雲に着いて、大神の参拝を終えて、大和ヘ帰り上[のぼ]って来られる時、肥河[ひのかわ]の中に黒木の簀橋[すばし]を作り、仮[かり]の御殿をお造り申して、御子をお迎えした。そして出雲国造[いずものくにのみやつこ]の祖先の岐比佐都美[きひさつみ]という者が、青葉の茂った山のような飾り物の山を作ってその河下[かわしも]に立て、御食膳を献[たてまつ]ろうとした時、その御子が仰せられるには、「この河下[かわしも]に青葉の山のように見えるのは、山のように見えて山ではない。もしや出雲の石●(石へんに同)之曾宮[いわくまのそのみや]に鎮[しず]まります葦原色許男大神[あしはらしこをのおほかみ]を敬い祭っている神主の祭場ではあるまいか」とお尋ねになった。そこでお供に遣わされていた王[みこ]たちは、これを聞いて喜び、これを見て喜んで、御子を檳榔[あぢまさ]の葉で葺[ふ]いた長穂宮[ながほのみや]にお迎えして、早馬の急便を奉って天皇にお知らせした。(次田真幸訳 訳文のカタカナ表記は漢字にもどして引用)

 風土記逸文においては、神は垂仁の皇后の夢に登場していましたが、古事記では皇后は消去され、天皇=垂仁への夢告とされています。また、ミカツヒメ=阿麻乃彌加都比女は、古事記においては「祟り神」とされるも、「出雲の大神」と記されています。なお、日本書紀の垂仁条においては、この出雲の神の話はきれいに削除されています。
 さて、ミカツヒメという流浪の女神は、出雲ととても縁深い神であり、しかも風土記によれば、出雲の「多具の国」の神だと明かされていました。
 この「多具」という地名は、現在の平田市多久町あたりに比定できるかとおもいます。出雲国風土記の該当箇所を読んでみます。

■楯縫郡の天御梶日女[あまのみかじひめ]
神名樋[かむなび]山
 郡役所の東北六里一百六十歩である。高さは一百二十丈五尺、周囲は二十一里一百八十歩。峰の西に石神がある。高さは一丈、周囲は一丈である。そこに行く傍には小さな石神が百余りもある。古老が伝えていうには、「阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が多志村までおいでになり、多伎都比古命を産み給うた。その時お教[さと]しして申されるには『お前さまの御祖[みおや]の位[くら](御在所)に向きあって生もうと思うが、この場所がちょうどよい』と仰せられた。いわゆる石神は、すなわち多伎都比古命の御魂である。日照りつづきのときに雨乞いをすると必ず雨を降らせて下さるのである。」(吉野裕訳)

 訳文中の「多志村」は、訳者によっては「多久村」とされます(荻原千鶴)。また、楯縫郡には多久川の記載もありますので、どうやら、尾張国風土記逸文が記していたミカツヒメの「多具の国」をここに比定してよいかとおもいます。神名表記においても、天御梶日女=阿麻乃彌加都比女でしょう。
 風土記時代の楯縫郡──これは現在の平田市にほぼ該当しますが、同市は、出雲大社のある大社町の東隣に位置しています(宍道湖の北岸=島根半島内)。
 平田市には、この天御梶日女命と多伎都比古命をまつる多久神社が「多久川」の上流にあり(平田市多久町)、同神をまつる宿努神社も多久川の支流「多久谷川」の上流に確認できます(同市多久谷町)。特に興味深いのは、神体を「虹ヶ滝」とするとおもわれる宿努神社でしょうか。風土記の「神名樋山」は現在の大船山(327m)で、この山が多久川・多久谷川の源流山です。
 なお、参考までに添えておきますと、多久谷川流域には、早池峰神社元社と同名社である田中神社(祭神:火雷之命)もあり、さらに瀬織津姫との関連でいいますと、渡神社(松尾神社[=佐香神社]境内社)もあります(平田市小境町)。この渡神が瀬織津姫であることについては「三春滝桜と瀬織津姫」でふれましたけど、平田市の渡神社の祭神は、ここでは、瀬織津姫の異名の二神というべき「大禍津日神、八十禍津日神」とされています。
 書紀による瀬織津姫の異名「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」のムカツヒメと同音を内包するミカツヒメの祭地として、この出雲の「多具の国」(尾張国風土記逸文)、つまり、楯縫郡=平田市はあるということができます。各風土記(逸文)の記載が、ことのほか正確である例というべきでしょうか。
 ところで、この平田市には、再度ふれておかなくてはいけない神社があります。「伊努神社」です。ここは、ミカツヒメの「神陵」とされる社です。「厳神之宮と出雲大社」でも引用しましたが、現在の伊努神社の「由緒」を再読してみます。

■伊努神社「由緒」
[通称] 森の宮
[鎮座地] 平田市美野町382
[主祭神] 天甕津姫命
[本殿] 生木の榊を神籬とす
[由緒・沿革]
 風土記に云う伊農郷伊努の社是なり。
 祭神天甕津姫命の夫赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と共に国巡行坐時此処に至りて薨し給う。故に此処に神陵を造り奉り、陵前に於祭祀を行い奉れり。神亀三年(=726年)に至りて陵前に榊を植えて神籬とし、御神霊を此処に奉遷し之を御霊代として奉祀す。(『神国島根』)

 瀬織津姫の異名「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の「撞賢木」=ツキサカキ=憑榊の神として、この天甕津姫はあり、また「向津媛」=ムカツヒメと同音をもつ天甕津姫でもあります。広くは、ここも「多具の国」のエリアかとおもいます。由緒は「風土記に云う伊農郷伊努の社是なり」とありますので、当該の風土記の箇所をまずは読んでみます。

■出雲国秋鹿郡伊農郷
 出雲の郡の伊農の郷に鎮座しておいでになる赤衾伊農意保須美比古佐和気能命[あかふすまいぬおほすみひこさわけのみこと]の后、天甕津日女命[「甕」の元字は瓦に?ですが、以下「甕」と表記します…引用者]が国を巡ってお歩きになられた時、ここまで来てみことのりして「伊農[イヌ]波也[はや](伊農の命よ!)」と仰せられた。だから伊努という。((神亀三年に字を伊農と改めた))

 ミカツヒメ=天甕津日女は、この伊農(←伊努)の地で「伊農波也(伊農の命よ!)」と感歎あるいは慨嘆の言葉を述べたとあります。現在の伊努神社の「由緒」は、この天甕津日女の言葉を最期の言葉、いいかえれば「断末魔」のような言葉として理解したということなのでしょう。それが「此処に至りて薨し給う」ということになるようです。
 伊努神社の「由緒」と風土記の記述を突きあわせてみますと、奇妙なことがみえてきます。

 @ 神亀三年(=726年)に、「榊を植えて神籬とし、御神霊を此処に奉遷」したこと。(由緒)
 A 神亀三年(=726年)に、字を「伊努」から「伊農」と改めたこと。(風土記)

 まず@についていいますと、「御神霊を此処に奉遷」したとありますが、どこから「奉遷」したかの記述がありません。Aについては、字を「伊努」から「伊農」に変えたとありますが、そのように変更する理由が書かれていません。それと、@・Aに共通して出てくる「神亀三年(=726年)」という聖武時代の年号=時間が何を意味するか、です。
 出雲国風土記は、「老[わたくし]は、枝葉の末のことにまでこまやかに思案し、伝承の根本にわたって判断をくわえて記定した」(総記)とありますように、「思案」と「判断」によって編まれたものでした。また、奥付においても「勘造」と表記され、つまり、考えに考えて造られたのでした。そのような「思案」「判断」「勘造」によって、やっと出雲国風土記が完成するのは、風土記編纂の命が出された713年からすると、実に20年もたった天平五年=733年のことでした。したがいまして、神亀三年=726年という年は、この出雲国風土記の編纂=「思案」「判断」「勘造」の真最中にあたる時間かとおもいます。また、716年の出雲国造神賀詞や、720年にできた日本書紀の思想あるいは神名表記の影響を、出雲国風土記は当然ながら受けていることも考えられます。
 出雲国風土記には、中央=ヤマトとの関係でおこったであろうのっぴきならないドラマ、あるいは、熾烈なやり取り(たとえば「書き直し」など)が隠されている可能性があります。同風土記はそれを直接的に語ることがありません。しかし、中央の眼が、あるいは現在のわたしたちの眼も、かんたんには読み取れないような「比喩」としての表現がなされている可能性があります。それが、もうひとつの「勘造」の意味であったとしたら、これは、よほど奥を読み取る「眼」を、読者であるこちらが、心してもつしかないということになります。
 話を、伊努神社=天甕津姫にもどします。
 Aの字名変更(伊努→伊農)がされた神亀三年=726年のことですが、同じように「字」が変更されたところがあります。それは出雲郡です。

■出雲国出雲郡伊努郷
 国引きなされた意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命の社がこの郷の中に鎮座しておられる(伊努社)。((神亀三年に字を伊努と改めた))

 ここには二つ目の伊努神社の存在が記されています。しかも、秋鹿郡において伊努→伊農と変更されたことと対応するように、出雲郡においては伊農→伊努と変更されたのでした。この二つの変更はともに「神亀三年」のことであり、これらは同じ意図あるいは命によるものとみることができます。
 秋鹿郡の伊努神社と出雲郡の伊努神社──前社は天甕津姫命をまつる「神陵」とされているのですが、では後社、つまり出雲郡の伊努神社の祭神はなにかとなります。同じ伊努神社ですから天甕津姫だろうとおもってみますと、これが風土記の記述どおりの「赤衾伊努意保須美比古佐和気能命」とされています。ところが、ここでも奇妙な祭神名の差異がみられます。秋鹿郡の伊努神社の伝承においては、ミカツヒメが夫神の名を赤衾「伊農」意保須美比古佐和気能命と呼んでいたのに、出雲郡では赤衾「伊努」意保須美比古佐和気能命とされています。
「字」の変更は、神名変更にまでみられるということです。つまり、この長々しい神名は、地名変更と連動して神名変更がなされているということになります。
 ところで、出雲郡の伊努神社ですが、ここは単独の社ではなく、東の都我利[つかり]神社と対[つい]の構成をもっています。伊努神社は「西の宮」、都我利神社は「東の宮」とされますように、両社はワンペアの神社なのです。このことは、両社とも、神紋を「二重亀甲に剣花菱」としていることからもまちがいありません。なお、この「剣花菱」は、出雲大社の祭祀を仕切る出雲国造の家紋でもあります(『出雲大社』)。
 西の宮=伊努神社(祭神:赤衾伊努意保須美比古佐和気能命)に対して、東の宮=都我利神社は、出雲国造神賀詞で朝廷の守護神として登場していた、また古事記においては「迦毛大御神」ともされる、阿遅志貴高日子根命が主祭神とされます。
 ややこしいことこの上ないのですが、単純化していえば、西の宮も東の宮も、いずれも出雲の男神がまつられているわけです。しかも、それらは一対社なわけで、奇妙さはここでさらに深まるといわざるをえません。
 伊努神社における、神亀三年の地名変更と、それに連動する神名変更──。つまるところ、問いは、伊努神とはなにかとなります。
 秋鹿郡の伊努神社は天甕津姫一神を祭神とし、出雲郡の伊努神社は赤衾伊努意保須美比古佐和気能命とし、後社との一対社である都我利神社は阿遅志貴高日子根命を祭神としています。
 ここで、わたしたちは風土記の「楯縫郡」の記述を思い出さないわけにいきません。つまり、風土記は「阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命」と記していたのでした。出雲郡の「東の宮」が阿遅志貴高日子根命ということは、「西の宮」=伊努神社は、本来ならば天御梶日女命がまつられているはずとなりましょう。それが現在、男神の赤衾伊努意保須美比古佐和気能命とされているわけです。ここに「神陵」とされる秋鹿郡の伊努神社の伝承を重ねてみます。つまり、由緒が記載していた、天甕津姫命は「神亀三年に至りて陵前に榊を植えて神籬とし、御神霊を此処に奉遷し之を御霊代として奉祀す」とされていた伝承です。秋鹿郡の天甕津姫命=天御梶日女命は、どうやら、出雲郡の伊努神社から「奉遷」されたことがみえてきました。
 また、ここから、もうひとつみえてきたことがあります。それは、ミカツヒメの夫神とされる関係から、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と阿遅志貴高日子根命は同神だということです。
 ところで、八束郡宍道町上来待に鎮座する本宮神社(祭神:月夜見神)の摂社に伊努神社があり、ここの祭神は天照大神とされます。天甕津姫命=天御梶日女命は、瀬織津姫の異名「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」のムカツヒメと同神であり、瀬織津姫は伊勢においては男性神の天照大神と対の関係をもっていました。この関係は、そのまま、出雲郡の「西の宮」と「東の宮」に反映していたことが考えられます。こういった神まつりがそのまま放置されることはありえないという歪んだ祭祀の歴史を日本はもっていました。
 神亀三年、瀬織津姫はその名を天甕津姫命とされ、西の宮=伊努神社(出雲郡)から秋鹿郡のツキサカキの宮=伊努神社へ「奉遷」され、そして、ここで「薨」したとされたのでした。
 出雲郡の一方の男神をまつる都我利神社に合祀されている式内社に伊佐波神社があります。この社名の「伊佐波」は伊勢神宮の元宮である伊雑宮[いさわのみや/いぞうぐう]を表しています。その祭神は現在、伊弉諾尊とも泣沢女命とも、あるいは伊射波止美命ともされています。これら祭神三説のうち、泣沢女命は伊雑宮奥宮というべき天の岩戸社の祭神(の一神)であり、伊射波止美命にしましても、近世のことですが、これも伊雑宮の祭神とされていました。二説の祭神はともに伊勢の元社と関わっているわけで、こういった伊勢の元神がこの出雲の地にまつられていたこと自体なにごとかだというべきでしょう(伊雑宮の祭神の改竄・変更、および元神が瀬織津姫であることについては『エミシの国の女神』を参照ください)。
 ホムツワケの伝承を基軸に風土記(尾張国風土記逸文)と古事記を対照したときにみえてきたのは、阿麻乃彌加都比女=ミカツヒメは「出雲の大神」(古事記)ということでした。そして、このミカツヒメは、秋鹿郡の伊努神社においてはツキサカキの神であり、宍道町の伊努神社は天照大神でもあったわけです。また出雲大神の社は、日本書紀においては「厳神之社」とされていたのでした。これらすべての事項に関与する神として、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、つまり瀬織津姫をみることができます。
 なお、最後に、尾張の吾豆良神社と深く関わる、出雲の流浪する女神の伝承をもつ美濃の花長神社をみておきます(岐阜県揖斐郡谷汲村大字名礼)。
花長神社も「上社」「下社」の二社で構成されていますが、上社には天甕津日女命ほか9神、下社には赤衾伊農意保須美比古佐和気能命がまつられ、ここでも両社の神は「夫婦神」とされています。
 尾張国風土記逸文は、ミカツヒメをみつけるために、「建岡君は美濃の国の花鹿[はなか]の山に到り、榊の枝を折りとって縵[かづら]に造り、祈誓して『私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう』といった」とされます。この花鹿山には、「大きな榊の大木が何本もある」とされます(「谷汲村の昔話」)。ミカツヒメは、出雲から美濃にまで、ツキサカキの神として伝えられていることがわかりますが、このミカツヒメは、瀬織津姫がそうであったように、祈雨神でもありました。少し長いですが、味わい深い「昔話」ですので、ミカツヒメ=瀬織津姫を思い浮かべながら読んでみることにします。

■祈雨神としての花長神(原題「名礼村の雨乞い」)
 谷汲村の中でも一番水不足に悩まされ、ひどい時には飲み水にも事欠く名礼地区の雨乞いは、古くからある伝統の一大行事なのです。〔中略〕
 空を仰(アオ)いでもかんかんと日が照り付けるだけで、雨の降る気配(ケハイ)は全くありません。困った村役は庄屋の家に集まり、これからどうしようか、弁寿利(ベンズリ)さんの雨乞いをするか、多度(タド)さんへお参りしようかと相談しましたが、そのまま伝統の雨乞いを続けることになりました。
 その日まで村の人たちは、夫々(ソレゾレ)にお参りをしていましたが、これからは村中揃(ソロ)って名礼中にある総(スベ)ての神社にお参りをして、踊(オド)りを奉納(ホウノウ)してお願いするのです。
 午後になると、村の人たちが次々と花長神社へ集まってきました。〔慣例(カンレイ)で午前中は踊りの奉納(ホウノウ)はしない〕お下(サ)がりのお神酒(ミキ)で勢いを付けると、境内いっぱいに大きな輪をつくりました。誰も素足(スアシ)に草履(ゾウリ)ばき、年寄(トシヨリ)も若い衆(シュウ)も着物の尻(シリ)を高く端折(ハショ)り、中には蓑笠(ミノカサ)を付けた人もいます。
「東西鎮(シズ)まれ歌踊り……」
 日頃(ヒゴロ)のど自慢(ジマン)の一人が歌い始めると、これに合わせて一斉に身振(ブ)り手振りも昔のままに踊りながら回っていく。権兵衛も由蔵(ヨシゾウ)の顔も見える。みんな一生懸命(ケンメイ)なんだ。
 輪の中では、向鉢巻(ムコウハチマ)きに草鞋(ワラジ)がけの若い衆(シュウ)が、笛(フエ)、鉦(カネ)、ほら貝のお囃(ハヤシ)に合わせ桴(バチ)を高く振りかざして、胸に付けた太鼓(タイコ)を力強く打ち鳴らしながら勇ましく踊ります。
 一巡(メグ)り踊ると、休む間も無く次の神社へ向かいます。
庄屋を先頭にお囃方や大勢の人が、コンコンバケタ、コンバケタと太鼓を叩(タタ)き笛を吹きながら、ぞろぞろ歩いていくのだから賑(ニギ)やかな道中(ドウチュウ)です。
 こうして、神社毎に踊りを奉納し雨乞いをして回るのですが、この日は四つ目の神社で夕暮れとなり、踊りが終わるころには人の顔も定(サダ)かでなく、足元も危(アブ)ないので解散となりました。
 誰かが「明日も頼(タノ)むぜ。」と残りの酒をふるまっていました。
 雨乞いは、翌日(ヨクジツ)もその次の日も繰(ク)り返しつづけられました。だが、数日たっても雨は降りません。誰(ダレ)の顔にも、疲(ツカ)れとあせりの色が見えはじめました。
その日も神社に集まって雨乞いの支度(シタク)をしていたときです。にわかに曇(クモ)ってきた空からポツリポツリと雨が落ちてきました。居合わせた者は一様に空を見上げて「雨だ!」と叫びました。雲は次第に広がり、雨粒(アマツブ)の数も多くなってきたかと思うと忽(タチマ)ち土砂(ドシャ)降りとなりました。
 誰も社殿(シャデン)に入ろうともせず、頭からずぶ濡(ヌ)れになりながら、歓喜(カンキ)の声を上げました。この雨は二日二晩降り続いたと伝えられています。(HP「谷汲村の昔話」)

 ミカツヒメ、つまり「甕」の神が水神であり、また祈雨神でもある姿がよく読み取れます。花長神社は、「現在二個所に祀られている名礼地域の神社も明治43(1910)年以前は7個所に散在していた」とされ(同話の注)、名礼の人々は、当時これらの七社に雨乞い祈願をしたのでしょう。なお、この花長神社に伝えられる「雨乞い歌」には、「出世は鯉の滝のぼり」という詞がみられます。鯉は滝をのぼれば龍となり、それがかなわないと、海へ下って鯨となるといわれています。出雲大神をルーツとする花長神──、ミカツヒメの楯縫郡の伝承においてもそうでしたが、この神が、雨神かつ滝神、そして龍神とも関わっていることを添えておきます。

461 天甕津日女と桜 風琳堂主人 2002/07/18 14:48

 出雲大神=ミカツヒメをまつる花長神社がある岐阜県揖斐郡谷汲村ですが、ここには、木曽三川のひとつ揖斐川の支流・根尾川が北から南へと流れています。源流山は能郷白山(1617m)といい、この山は揖斐川の源流山の一山でもあります。根尾川は、「根尾谷淡墨桜」という桜の古木・巨木を傍らに育ててきた川です。
 そんな根尾川沿いに開けた谷汲村には、花長神社のほかに、語ることを欠かせない古刹があります。この寺は、谷汲山華厳寺(本尊:十一面観世音菩薩)といい、西国三十三ヶ寺巡礼の打ち止め=三十三番札所の寺でもあります。創建は、平安遷都後5年目の798年=延暦17年。同寺の願主は、揖斐あるいは谷汲の人ではなく、なぜか奥州会津郡黒川郷富岡(現在の会津高田町)の人とされています。
 華厳寺創建あるいは十一面観音の鎮座過程について、「谷汲村の昔話」は次のように伝えています。

■華厳寺の十一面観音(原題「谷汲山華厳寺の観音様と足跡」)
 今からおよそ千二百年ほど前のことです。
 奥洲の会津富岡というところに、大口大領(オオクチタイリョウ)という大層信心深い長者が住んでいました。
 ある日、大領さんは観音様を作って、この地にお祀りすることを思いたちました。そこで、観音様をお作りする木を探しましたがなかなか見つかりません。困った大領さんは一室に閉じ籠り、よい木をお授けくださるようにと一心にお祈りをしました。
 この願いが観音様に届いたのか、七日目の明け方大領さんの夢枕に、美しい童子が現れて、
「お前の探している霊木は奥州永井の里にある。」
 童子はそれだけを告げると、何所(ドコ)へともなく消え去ってしまいました。
 喜んだ大領さんが、早速永井の里へ来て見ると、田の中に立派な榎(エノキ)の大木がありました。見ると、木の周りに垣がめぐらせてあります。
 不思議に思い近くの人に尋ねると、
「この木は毎夜光を放ち、一本の枝でも折れば忽(タチマ)ち祟りがあると伝えられているので、誰も近寄らないように、こうして垣をしてあるのです。」
と答えました。
 それを聞いた大領さんは、この木こそ探し求めていた霊木に違いないと思い、
「この木を私に譲っていただくことはできませんか。」
と頼みました。その人は驚いて、
「これは幸い私の木ですから、差し上げるのはたやすいことですが、こんな祟りのある木をいったいどうなさるのです。」
 聞かれた大領さんは、今までのことを詳しく話して、
「観音様をお作りするのだから、祟りはありますまい。」
といって、その木を貰い受け、大勢の人夫を雇って切り倒し、京の都へ運ばせました。
 翌日から、観音様を作る仏師を探しましたが、良い仏師が見当たりません。どうしたものかと悩んでいると、彼(カ)の童子が夢の中に現れて、
「観音様は私が作って進ぜますから、二つ約束をしなさい。一つは三間(5.4メートル)四面の仮屋を造ること、あと一つは二十一日の間は絶対に仮屋へ入らないこと。」
と告げました。
 これは観音様の思召(オボシメシ)に違いないと、いわれたとおりの仮屋を造り、近くの宿で待っていました。
 やがて、約束の二十一日が過ぎたので、大領さんが仮屋へ来て見ると、そこに身の丈七尺五寸(3.25メートル)もある立派な観音様〔十一面観世音菩薩〕が立っていらっしゃいました。ああ有り難やと伏し拝みましたが、この大きな観音様を奥洲まで、どうしてお運びしようかと思案していると、またしても童子が眼前に現れて、
「お前が気遣うことはない。」
と、傍にあった藤蔓を切って観音様の杖とし、頭に笠を被せました。すると不思議なことに、観音様は御自分で歩き出されました。驚いた大領さんは、慌ててその後に従いました。もちろん行く先は奥洲のはずです。
 ところが、美濃国赤坂の宿まで来ると観音様は足を止めて、
「私は奥洲まで行かない。あそこには既に文殊菩薩がおられるから、私はここから北へ五里(20キロメートル)の山中に、結縁(ケチエン)の地があるのでそこへ行く。お前も志しがあるのならついて来なさい。」
と言われました。大領さんは奥洲へ行くのを諦めて、お伴することにしました。
 それで、観音様は大領さんを後にしたがえて、谷汲村末福(タニグミムラスエサキ)まで来ると、そこで足をとどめて、
「あそこに見える山が結縁の地じゃ。」
と仰せられ、動かなくなられました。
 大領さんはそこに仮屋を建てて、観音様にお休み頂き、その山〔丸山〕の頂きにお寺を建立することにしました。〔後略〕(HP「谷汲村の昔話」可読なものについてはルビを省略)

 本来なら奥州へ向かうべき十一面観音のはずが、この観音は途中で、「私はここから北へ五里の山中に、結縁の地があるのでそこへ行く」と告げたというのです。十一面観音の「結縁の地」として谷汲村(の丸山)は選ばれたのでした。
 谷汲村のこの十一面観音は最初「丸山」にまつられたものの、現在は「谷汲山」へと遷祀されたようです。また、華厳寺の創建者は、寺側によると桓武天皇とあります。
わたしがこの「昔話」の伝承を読んで興味深くおもったのは、十一面観音「結縁の地」としての谷汲村ということと、華厳寺の創建願主が、奥州の「会津富岡」の人だということでした。
 花長神社=ミカツヒメが、瀬織津姫と同神である可能性がとても高いことについては「出雲大神と瀬織津姫」でふれました。また瀬織津姫が神仏習合化されるときに変身するのが十一面観音であることは、早池峰山ほかの例を出すまでもないかとおもいます。なお、延喜式内社・花長神社を主張する神社は、谷汲村の花長(上)神社のほかに、同村北隣の根尾村能郷にある白山神社があります。この白山神社の白山は、能郷白山の白山ではありますが、本家の白山神と同神をまつるとみてよいかとおもいます(現祭神は伊弉册命、伊弉諾命、菊理姫命と、これも仮の神名ですが、本家白山と同神をまつっていますから)。わたしは未確認ですけど、能郷の白山神社には「白山皇正一位花長大神」の扁額(?)があるとのことです(これが事実だとしますと、白山神と花長神は同神ということになってきて、ここでも白山神=瀬織津姫の仮説がよりリアルなものとなってきます。白山の本地仏もまた十一面観音だということを添えておきます)。
 美濃の谷汲村が十一面観音にとって「結縁の地」として選ばれたこと──これは、やはり天甕津日女=瀬織津姫=十一面観音の等号関係を想定してみることで、よりその深意と真意がみえてくるというべきかもしれません。
 また、瀬織津姫は熊野・那智の滝神であり、この那智山青岸渡寺こそ「西国三十三ヶ寺巡礼」の第一番札所であり、その最後の三十三番寺がこの谷汲山華厳寺だというのも、瀬織津姫を媒介として考えたときに初めて、その打ち止めの意味も、ある種必然の相でみえてくるというべきかもしれません。
 瀬織津姫の水神的性格は、桜神ともなることはこれまでにもみてきました(囲炉裏夜話298「水神の化身としての桜」ほか参照)。華厳寺もまた「桜」の名所ではありますが、さらに興味深いのは、寺の願主の故郷である会津富岡=会津高田町の宮川沿いに鎮座する会津総鎮守・岩代一の宮とされる伊佐須美神社(祭神:伊佐須美大神)の境内には、「会津五桜」のひとつとされる「薄墨桜」があることです。根尾川=根尾谷の淡墨桜と同名のウスズミサクラを共有する会津との関係は、十一面観音の鎮座伝承もあり、おそらく偶然のことではないでしょう。
 天甕津日女をまつる花長神社を抱く谷汲村──そこに那智ゆかりの華厳寺があることは、これも偶然のことではないのでしょう。このことは、花長神社の天甕津日女と華厳寺の十一面観音、その双方の神仏の背後に、滝神かつ桜神である瀬織津姫を認めてこそみえてくるものです。観音は変化[へんげ]仏で、三十三の姿に変身するため「三十三ヶ寺巡礼」とされるわけですが、ここでもうひとつ、この観音巡礼で興味深いことをみておきます。

■宝厳寺から華厳寺へ
西国巡礼であるが、大もとは花山院に始まるといわれる。花山院の悲劇的生涯は『栄華物語』や『大鏡』にくわしい。しかし、西国巡礼が実際に庶民の間にほんとうに盛んになったのは江戸時代のことらしい。巡礼の一番から三十三番の順番なども、のちに定まったという。一番はもちろん紀州、那智山青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)である。和歌山、京都、大阪、兵庫などを巡り、近江に入る。第三十一番は長命寺(滋賀県近江八幡市)、第三十二番は観音正寺(同蒲生郡安土町)、そして打止めの三十三番が岐阜県揖斐郡谷汲村の華厳寺である。ところが、第三十一、第三十二番はあとまわしにして第三十番の竹生島宝厳寺(滋賀県東浅井郡びわ村)から、いきなり伊吹山の麓を谷汲に直行する巡礼者もあったらしい。とにかく、三十三ヵ所巡りに美濃ではただ一ヵ所、谷汲が入っている。(牧野和春『桜伝奇』)

 瀬織津姫は宗像三女神の総称神でもあり、したがって弁才天ともされます。この弁天をまつる琵琶湖竹生島の宝厳寺から美濃谷汲村の華厳寺へと、巡礼の最後の二寺を端折って、つまり「満願」のプロセスをあえて放棄してまで「直行」した人=巡礼者は、この華厳寺の十一面観音の「結縁」神あるいは<本地神>を、そうとうに認識していたことも考えられます。那智山青岸渡寺から始まる巡礼の旅の形式(三十三ヶ寺すべてまわるという形式)を捨てても最後の谷汲山華厳寺には参るということは、この華厳寺(の十一面観音)は、一番札所の那智と同じくらいに大事な霊場であることを告げています。ちなみに、瀬織津姫を封印する藤原祭祀の本質を自らの天皇位剥奪の経験とともに初めて気づいた天皇が花山院でしたが、彼は、この美濃の華厳寺にも、その贖罪の気持ちゆえか、巡礼の足を運んでいます(花山院と那智と瀬織津姫については、囲炉裏夜話353「平野神社の桜と那智の滝」、355「鬼と瀬織津姫」ほか参照ください)。
 宝厳寺から華厳寺へ──この「厳」の字をともに含む寺名ですが、これは華厳経の「厳」からとられていることは容易に想像できますけど、しかしこの字は、出雲「厳神之宮」(古事記)の「厳神」あるいは「厳之御魂」(瀬織津姫の異名)の「厳」とも通じています。根尾川の「根尾」は語源的には「丹生」であろうと指摘していたのは牧野和春さんでした。牧野さんは、この根尾川→根尾谷の最上流部で産出する「菊花石」の存在を、惟喬親王を祖と仰ぐ木地師たちは特別な思いで認めたのではないかともしていました(『桜伝奇』)。菊花石と桜──、そして伊勢の元神が出雲から流浪してきた伝承をもつ根尾川流域です。美濃の奥深い山間の地が、聖地の様相を帯びてくる条件はそろっていたというべきかもしれません。

(追記)
 谷汲村の花長神社へ行く前に、現在みえてきていることだけでもとおもい、ここに先に書き込んでおきます。ミカツヒメと桜神=瀬織津姫がもう少しピタッと重なる伝承をみつけるには、やはり足を使うしかなさそうです。会津の伊佐須美神社の川=宮川流域は鬼渡神社が集中していて、この鬼渡神が瀬織津姫でもありますから、会津の桜神として瀬織津姫を明かすことも可能かとおもっています。なお、会津・宮川の源流山は大滝山(1168m)で、宮川は阿賀川と合流西下して阿賀野川となり日本海に注いでいます(阿賀川→阿賀野川へ流れ込む支流域には、たとえば只見川などに「伊豆神社」がいくつもみられ、最上流域の滝神社のいくつかに瀬織津姫の名を確認できます)。また、会津ばかりでなく、各地にみられる「宮川」という川名は、その発祥地として伊勢をみることができるかとおもいますが、伊勢の宮川は斎宮[いつきのみや]川の「斎」がとれたものという説が出されています(筑紫申真『アマテラスの誕生』)。イツキ、イツクの「イツ」という音は「厳」にも漢字転化します。その意味で、弁才天の中興の本家というべき安芸の宮島=厳島も、もとは厳神の島という意だったのかもしれません。なお、会津高田町には、薄墨桜のほかに弁天ゆかりの桜「虎の尾桜」(会津五桜の一本)があり、ここにも十一面観音堂が鎮座しています。水神・滝神を秘めた十一面観音と桜の関係は、やはり熊野・那智をルーツとしているようです。(名古屋倉庫にて)

462 ありがとうございました。 桐生 慎 2002/07/19 14:48

 どうも、こんにちわ。
 桐生 慎と申します。こういう時代に「エミシの国の女神」なる本を出されるのは並大抵の事ではないでしょう。私のHPの掲示板でも本書を紹介させて頂きました。
 私は年に二回は三輪山に参るようになって5年になります。
 三輪に登るには摂社の狭井神社から入山料を支払い登るわけですが、三輪にも隠された岩磐がある事ご報告します。
 桧原神社から三輪へ登る道があります。
 三輪山頂から桧原へ下りると三輪の岩磐とは趣の異なる岩磐にでます。
 注連縄に稲の穂を結びつけていますので、三輪の稲荷に該当するのかもしれません。
 ただ言えるのは桧原神社(元伊勢)からアマテラスの魂を感得したのはこの岩磐に他ならぬのではないかと思います。
 三輪においても隠された女神が存在するのです。
 詳しくは書きにくい内容ですが、狭井神社は三輪をご神体とする三輪山においてその神を「狭井坐荒霊大神」と表記している事を書き添えます。
 近年までは「三輪明神大神」であったものが変えられたのです。
 歴史は再び動き出しているようですね。
 私のHPは→http://homepage2.nifty.com/musou-ann/
 です。
 参考になるようなら覗いてください。m(__)m
 本書に畏敬の念をこめてありがとうと言わして頂きます。

463 伊勢の元神としての気吹戸主 風琳堂主人 2002/07/20 19:39

 桐生慎さん、本をお読みいただきお礼申し上げます。
 三輪山の神々についてはときどきにふれてきていますけど、狭井の神はその社名からも水神であることははっきりしていますね。それが「狭井坐荒霊大神」とされていますから、この「荒霊」とはどんな神かはもう明らかだろうとおもっています。
 三輪山の神は伊勢の神と同神だというのは、正確には、伊勢の元神と同神ということかとおもいます。三輪山には高宮という最重要な社が厚いベールに包まれて存在しています。伊勢においても高宮(現在は多賀宮と社名変更して表示)があり、これは伊勢外宮の別宮とされ、表面上の祭神表示は外宮神=豊受大神の「荒魂」とされていますけど、内宮の別宮=荒祭宮の神と対の関係にあります。
 伊勢の直系の分社に山口大神宮があります(山口市滝町4-4)。同社は「伊勢皇太神宮から直接御分霊を受けて、太神宮社が創建されたのは、明治になるまでは日本国中では実にこの山口大神宮だけ」と自称しています。
 鎮座地名の「滝町」もなるほどというところですが、山口大神宮の祭神表示では、荒祭宮=瀬織津姫命とし、さらに興味深いのは、高宮=多賀宮の神を「伊吹戸主命」と表示していることです。この伊勢直系の分社が雄弁に物語っていますが、これら両別宮の神こそが大祓祝詞に封印された神なのでした(大祓祝詞の神名表記は「気吹戸主」)。
 三輪山の「高宮」には、これら伊勢の元神がまつられていたことが考えられ、そこから分離祭祀されたのが狭井神社ではなかったかと想像しています。三輪山はまだ詳しく調べたわけではありませんけど、「荒霊大神」という神名は、大物主神と対となる「櫛甕玉」神という水神=女神の異称かとみています。
 三輪山には宗像三宮に擬した岩座もあり、この山をみるアウトラインはほぼはっきりしています。杉社の異名をもつ大神神社ですが、孫分社の大杉神社では大物主命と櫛甕玉命の二神表示をしています(囲炉裏夜話408「龍神と杉と瀬織津姫」を参照ください)。
 桐生さん、「詳しくは書きにくい内容」かもしれませんけど、ぜひ三輪山の神を明かしてみてください。日本の歪んだ祭祀の歴史は、現代人の「心の病」にまで影を落としている可能性がありますから(囲炉裏夜話50の三船あめさんの投稿)。

464 暑中お見舞い申し上げます! サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/07/21 23:59

ご主人、旅先からのご報告、いつも楽しみに読ませていただいています。
今頃はどの辺にいらっしゃるのでしょうか?
帰りには鹿島の方にも行かれるとか....
楽しみにしております♪

今日も私のHPの方から「エミシの国の女神」を読みたいとのお話がありました。
本の注文が行ったらよろしくお願いいたしますね。

毎日暑い日が続いておりますので、お体にはくれぐれもお気をつけてくださいませ。
おいしいお酒飲んでらっしゃるかな?(^^)

465 流浪隠棲の里=奥美濃 風琳堂主人 2002/07/23 07:58

 サクラさん、ほんまに暑いですね。
 行くなら今日しかないだろうということで、駆け足で根尾村へ行ってきました。東海北陸自動車道の関インターから一路西へ(武芸川町→美山町→根尾村)、つまり武儀川を遡上するコースです。この道は「山ぼうし街道」と呼ばれ、武儀川の源流峠=尾並坂峠を越えると、そこは根尾村の奥谷です。
 関市から武芸川町に至る山の風情──平野部に、小振りなのですが、小さなお椀を伏せたような品のいいかたちの山が重なるように連なって、一瞬大和盆地かと錯覚するような印象が意外でした。美山町に入りますと、山の懐が急に深くなるようで、ここは杉の町なのですが、やたら杉材の積み出しのトラックや製材所が眼につきます。杉の町=美山町の武儀川沿いには、たとえば「神有」といった字名があって、ここには岩神神社があります。本殿の真裏には杉の古木が立っていて、たぶんこの木がご神体で、本殿の横には榊の木が茂っています。近くの人にどんな神様ですかと聞いてみたものの「わかりません」との応え、でも女神さんじゃないですかと聞くと、「そう聞いています」との応え──よほど役場まで引き返して確認しようかとおもいましたが、それをしていると時間がなくなるということで、ここの岩神は「女神」であることだけを地図に書き込んであとにしました。美山町と根尾村の境界の峠の手前には、継体天皇「お手植え」の「おなみ桜」の案内板があります。いきなりの継体伝説に、また道草の誘惑に乗りそうになりましたが、これも地図にメモして、峠を越えて根尾村へ(この峠の名が「尾並坂峠」で、「おなみ桜」の「おなみ」がダブリます)。
 尾並坂峠は分水嶺の峠でもあり、東に武儀川、西に根尾谷川を分けています。根尾谷川が根尾川に合流した向かいの小高い丘陵部に「根尾谷淡墨桜」があります。ここには、台風で折れた枝からつくった淡墨観音が桜の守り神とされていますけどこれは新しいものです。桜と水神の関係を確認できればとおもい、この新しい観音堂へ近づいてみますと本堂の右に延命地蔵と福徳龍神の祠があり、この「福徳龍神」がどうやら水神にあたるのでしょう。
 さて、根尾谷の淡墨桜──これがまた、継体天皇「お手植え」の伝承をもっています。樹齢約1500年と案内にあり、この樹齢の「時間」が継体伝承をよりリアルなものとしています。
 尾張一の宮の真清田=黒田神社で「発見」された「真清探当証」なる古文書が、この桜と継体をつなげる「説」となっているようです。
 おもえば、記紀の天皇譜の各伝承において、いわゆる「有徳」の伝承をもっている天皇の筆頭が継体といってよいかとおもいます。大初瀬=雄略に謀殺された履仲天皇の第一皇子、その妻=母と三人の王子たちは、雄略からの難を避けて丹波へ、そして三人の王子のうち二人(億計[おおけ]と弘計[おけ]は丹波から尾張へと流浪してきます。この三王子の二番目の王子=弘計と、尾張一の宮の宮司・吾田彦(継体の母の兄)の娘=豊姫との間にできたのが男大迹[おおと]王=継体で、彼は、雄略からの難をさらに避けるために、尾張から移って、この奥美濃に身を隠したというのです(村史の「真清探当証」)。また、村史(真清探当証)は、淡墨桜植樹の伝承を次のように書いています。

■淡墨桜と其伝説(山本皓氏が「真清探当証」を使って紹介した一文…根尾村史)
都では允恭、雄略、清康(清寧)天皇に続いて弘計[おけ]王が顕宗天皇となられたが在位三年で亡くなり、兄の億計[おおけ]が仁賢天皇として即位された。この年雄略天皇に追われ各地に離散した皇族が、都に呼び戻されることとなった。美濃の山奥、根尾谷に三十年もお暮しになった男大迹[おおと]王にも召還の勅使が訪れたが、妻の目子姫(尾張から美濃へ同道した、吾田彦の家臣・氷室夫婦の娘…引用者)が出産まじかであったので帰還の延期を願い、西の方、桧の茂る山麓の山田の畔(今村)に産屋を作り、程なく目子姫は第二王子桧隈高田王子を出産した。この方が継体天皇の次の宣化天皇である(長男の方は安閑天皇となる…引用者)。長年親しんだ里人と別れ都に帰る時、たまたま尾張一ノ宮の黒田神社(真清田神社)へ参拝した時持ち帰った桜の苗木を、第二王子の産殿の屋敷跡に植えられ、男大迹王は次の歌をお詠みになった。
  美の氏路[しろ]と生多津[おいたつ]桜は薄住よ
    千代を忘るな民の下駄[かた]みよ

 尾張と奥美濃が関係づけられる淡墨桜の植樹伝承です。この尾張と奥美濃の関係伝承は、尾張国風土記逸文が記すように、出雲大神=ミカツヒメの鎮座潭にもいえるものでした。つまり、美濃の花長上神社(祭神:天甕津日女命)と、尾張の阿豆良神社(祭神:天甕津姫命、倭姫命)です(詳しくは囲炉裏夜話460「出雲大神と瀬織津姫」を参照)。
 吉野と似ているかどうか──、どうやら、流浪隠棲の地としての奥美濃がみえてきたようです。
なお、延喜式内社・花長神社を主張する根尾村能郷の白山神社ですが、同社の社家(溝尻孫太夫)に伝わる文書に、たしかに「白山皇正一位花長神社」の「白山宝印」があることを『根尾村史』は記載しています。また、村史は、享保年間に書写したとされる『美濃国神明記』には、「熊野白山権現」という呼称があったことも記録しています。ただし、後者について、村史は「『熊野』は『能郷』の誤りか、或は旧称か、熊野信仰の名残りか」としています。この囲炉裏夜話の話の過程からしますと、熊野神と白山神は同神(瀬織津姫)ですから、「熊野白山権現」と表記されていた記録は、ちっとも「おかしくない」ということになります。
 さて、旅の駆け足は、大急ぎで花長上神社と花長下神社を写真に収め、夕方の華厳寺へ駆け込んだのですが、ここがまた想像以上の広大な霊場で、三十三番札所「満願の寺」にふさわしい広壮なつくりの寺でした。
本堂背後の山には「妙法ヶ滝」があり、ここには不動尊に守護されるように可憐な滝が一筋糸をひいていました。本尊=十一面観音の本地の「滝」というべきでしょう。
この滝の上には、華厳寺の「奥の院」があり、ここまできたら行くしかないかと夕刻の山をさらに登りました。いや、正確にいえば途中でもどってきたのですが、この山には榊がたくさんみられ、榊の神=天甕津日女の山ともいえるなとみえました。
 また、奥の院までの山路には数十メートルおきに一番札所(那智)から順々に小堂があって、おそらく奥の院まで行くと、三十三ヶ寺巡りをしたのと同じこととなるように仕掛けてあるのでしょう。十七番寺のあたりに滝(案内では龍神滝)があるのですが、ここで挫折しました。足はくじくは、あたりは暗くなってきましたし、ここから800メートルほど登って「満願成就」したとしても、帰りの道は真っ暗まちがいなしです。龍神滝のところまでで、今回の華厳寺巡りは「打ち止め」としました。なお、山案内のかすれた文字の看板によりますと、奥の院の背後、妙法ヶ岳の山頂付近に「不動明王」と「岩屋」の表示がありましたから、おそらくここが、華厳寺の聖域中の聖域なのでしょう。
 今日は奥美濃も35度くらいの暑さで、しかも予定外の山歩きで、二年分の汗をかいたようです。華厳寺の麓には「満願の湯」という温泉銭湯があり、格別の湯治をさせてもらいました。
 蛇足ですが、最後に不思議話をひとつ──。妙法ヶ滝で、那智黒のような真っ黒な小さな石が目にとまり、滝の神に「いただいてきます」ともらってきたのですが、水が乾いたあとにこの石をみますと、自然の割れ目なのでしょうが、そこに「仏」の顔が浮かんでいます。あまり特別に語る必要はないとはおもいますが──。

466 豊川の谷汲山 ピンクのトカゲ 2002/07/23 16:20

「真清探當證」には、尾張一宮・真清田神社(=真墨田神社)は、元は、黒田神社といわれたが、オケ―ヲケの二皇子が籠勝手神社(=黒田神社)をここはどこだと訪ねたとき黒田神社と応えたため、後に真清田神社(=真墨田神社)を本当の黒田神社の意味で真黒田神社といい、のちに真墨田神社→真清田神社となったと記してあるとおもいます。
籠勝手神社(=黒田神社)は、風琳堂主人が何度も指摘している「白山からやってきた女神として、瀬織津姫の名が記されている」愛知県葉栗郡木曽川町黒田に鎮座する黒田神社(白山神社)です。
一方、尾張一宮・真清田神社は、日神・火明命を祭神としています。
真清田神社(日神:火明命)と籠勝手神社(水の女神:瀬織津姫)の関係を伝える逸話と取れます。
「真清探當證」は、オケ―ヲケの二皇子を雄略の魔の手から匿い逃がしたとされる日下部使主の後裔を称する尾張一宮の土屋氏が大正末から昭和のはじめにまとめたものと考えられます。
そして、「真清探當證」は、継体をヲケ皇子の子とする遺伝でつづられるわけです。
継体は、応神(ホムタワケ)の五世孫と伝えられるわけですが、太子の時代で書かれたとされる上宮記逸文では、ホムツワケの五世孫とされています。
ホムツワケ王は、日下部連の祖・狭穂彦ゆかりの人物であり、この上宮記のホムツワケ王五世孫は、かなりの信憑性があるものとおもわれ、日下部使主の後裔を称する土屋氏も何等かの異伝承を基に「真清探當證」をまとめたのではないかとおもっています。
「真清探當證」の紹介者・小椋一葉氏はニギハヤヒ=十一面観音、記紀の創作者=天武と誤解の基に「真清探當證」を紹介しているわけですが、風琳堂主人の神証しにより瀬織津姫=十一面観音、記紀の創作者=不比等&持統なる新たな解釈ができるわけですから「真清探當證」の「再探當」は、大いに意味があることとおもいます。
さて、拙稿第一話第二章で考察したようにホムツワケ王の別名は、ミカドワケノミコトであり、東三河=穂国とも関わってきます。
先週の金・土・日と豊川天王社の祭礼が行なわれました。土曜日には、手筒の奉納が行なわれ豊川の夜空を暑く焦がしました。
この豊川天王社の神宝が利修仙人ゆかりの瑠璃の壺です。この瑠璃の壺と石座神社の比壺大神、さらには、鳳来寺の薬師岩については、既に風琳堂主人が書いていますから、ここでは省かせていただきますが、瑠璃の壺がミカツヒメに繋がることは容易に推察できます。
豊川天王社から東北に数百メートルのところに谷汲山美濃寺があります。
寺伝によれば、むかし、十一面観音を背負った行者がこの地を通りかかると、急に背中の観音様が重くなった。
行者は、この地が観音様ゆかりの地と思い観音様を安置し、立ち去った。
のちに天文年間(一五三二〜一五五四)に、本蓮社願誉上人が、堂宇を建立し、谷汲山美濃寺と称す。
古来よりこの十一面観音は、谷汲山華厳寺の十一面観音と同木同作として信仰されると谷汲山華厳寺と関連付けられている。
さらに、谷汲山美濃寺の西に100メートル足らずのところには、白山神社が鎮座し、さらにその北は、廃寺となった東光寺に因む東光町の地名が残る。東方瑠璃光如来=薬師如来の東光寺である。
豊川天王社と関係があることが明らかになってきた馬方弁才天の三明寺(大江定基の愛妾・力寿に託された水の女神)等からしても谷汲山華厳寺と豊川の谷汲山美濃寺の関係は、興味深いものがある。

467 はじめまして 鈴奈 2002/07/24 12:40

はじめまして、闇の日本史さんにアドレスがありおじゃましました。

さくらと三輪山の話題があったので書込させて下さい。

まず、さくらが話題ですが、私は三重県伊勢に住んでいまずがそこにある地蔵で「桜木地蔵・さくら地蔵・梅香寺」に関心があります。はっきりしていませんが神宮との位置でポイントになってる感じがします。

それと、倭姫御陵後がひっそりとありますが、同じ敷地に神社がありそこには「大国主神社・三輪神社・倭姫宮・神落萱神社」が書いてあります。無残にも宅地化され敷地は狭くなっています。場所は倭姫神社より外宮寄りで日蓮しょうにんゆかりの地の山上にあります。宮内庁管理なのに掲示も無く、でも存在感ありますよ。

よらせていただいてありがとうございました。

468 間違い 鈴奈 2002/07/24 12:41

闇の日本史さんにあったアドレスからたどりおじゃましました。

469 瑠璃の壺神と「結縁」の地 風琳堂主人 2002/07/24 17:12

 鈴奈さん、はじめまして。
 伊勢に「桜木地蔵・さくら地蔵」ですか。どんな由緒・伝承をもつお地蔵さんなんでしょうね。内宮別宮・荒祭宮の神は桜神ともなる水神・滝神ですし、この桜神は、もともと外宮別宮・多賀宮の神と対[ペア]ともなる神です。荒祭神と多賀神が内外宮神の元神で、これらの神の名を伏せることで、いわゆる皇祖神=アマテラスは成立するわけです。神の名を伏せる、あるいは神の名を消すということは、その神にとっては「死」と同じことで、そのように「死」を与えた者は、やはり罪障の意識から自由ではなく、それが「鎮魂」の意味の桜へと展開していきます。また、この「鎮魂」は「媚び鎮め」(出雲国造神賀詞)という本音を隠してもいましたが、ともかく、その罪障感→鎮魂の最大表現が出雲大社の創建ともなります。
 倭姫と倭武は、神話上の天照大神[アマテラス]とスサノウの関係が反映しているとわたしはみています。「桜木地蔵・さくら地蔵」にも「鎮魂」の意が込められているとしますと、それは倭姫とされた謎の女神を想定したくなってきます。それと、たぶん関わりがありそうかなとおもえるのが、「宮内庁管理」とされる四社「大国主神社・三輪神社・倭姫宮・神落萱神社」かもしれません。このなかで、特に「神落萱神社」は、その社名に「貶め」の匂いもし、ちょっと気になります。荒祭神=瀬織津姫をまつる、「岩戸落葉神社」(京都市北区)も同質の社名ですしね。なにか、おわかりのようでしたら、また教えてください。

 トカゲさん、出雲─丹波─美濃─尾張─三河と、神の通い路がみえてきたようです。
 宇佐八幡の比売大神=「大元」神と出雲大神は、その神拝の拍手の打ち方(四拍手)において他社と著しく異なる共通性をもっていることで同神とみることができ、同じく「大元さん」と親称される厳島神=宗像神も同神であり、また出雲にもどれば、佐太神社は「大元神楽」発祥の社であり、ここの秘説神も同神という可能性が濃厚となってきました。
 出雲大神=厳神は、三河・穂国にきますと「出雲大天女」とされる神で、これはツキサカキのミカツヒメ→甕神でしたから、まさに「瑠璃の壺」の女神ともなります(囲炉裏夜話375「瑠璃の壺と豊川の水神」ほか参照)。奥美濃の谷汲山華厳寺から三河の谷汲山美濃寺へという流れ、つまり、「古来よりこの十一面観音は、谷汲山華厳寺の十一面観音と同木同作として信仰される」そうですから、「谷汲村の昔話」に沿っていえば、この十一面観音は奥州へ向かう途中で、ちょうど奥美濃の華厳寺と同じように、三河を「結縁」の地として途中下車したようなものかもしれません。この途中下車の様相を語る美濃寺の寺伝が、「むかし、十一面観音を背負った行者がこの地を通りかかると、急に背中の観音様が重くなった。行者は、この地が観音様ゆかりの地と思い観音様を安置し、立ち去った」という鎮座伝承になります。
 十一面観音結縁の地(「観音様ゆかりの地」)としての三河──ここに出雲大神=瑠璃の壺神が存在していたことが、結縁の結縁たる理由とみるしかありません。
 明日は三河入りの予定です。奥美濃の華厳寺のあとは、どうやら三河の美濃寺も寄る必要がありそうです。これも「結縁」かも、です。

470 竹生島の瀬織津姫命 kokoro 2002/07/25 00:03

 風琳堂さん、はじめまして。kokoroと申します。各地の神社やあまり知られていない伝説に興味があり、そこから地域の古代を考えるのが好きな者です。風琳堂さんと『エミシの国の女神』のことは、トカゲさんのサイトで知りました。ご著書は先日、購入したのですが、さまざまな神社や小さな伝説が、とても丁寧に取り上げられていたので、夢中で読了しました。また、この掲示板の過去ログもそれに劣らず、興味深く読ませていただいております。
 ところで、風琳堂さんはしばしば宗像三神のことを問題にされると共に、6月4日のカキコでは、琵琶湖に浮かぶ竹生島や『帝王編念記』にみられる夷服岳と浅井岳の伝説を採り上げておられます。さて、竹生島の東には湖岸からやや内陸に、早崎という集落があります。そのはずれに、五社神社という神社が鎮座しているのですが、私は『帝王編念記』の記事が、この神社の祭祀と関係があったと考えています。以下は私が過去に考証した文章なのですが、引用させてもらいます。

【五社神社(びわ町早崎)】
 この神社は、かつて伊香郡屈指の社域を誇ったが、水害と戦乱で荒廃したという。中古、五柱の祭神を祀るようになったので、五社神社と呼ばれてきたらしいが、伊香郡内の式内小社、岡本神社の論社でもある(『式内社調査報告』の論社B)。ただし、当社を式内社に比定する根拠は、いまひとつ決め手に欠けるようだ。
 神社は早崎の集落のはずれに鎮座し、参道は北から入る。この参道は150mくらいあって、社地全体の規模から考えるとやや長すぎる。当社には、隣接地に流鏑≠ニいう字名が残っており、往時は流鏑馬の神事があったという。あるいは、この長大な参道は、馬場の名残かもしれない。参道は突き当たったところで右に直角に折れ、そこに東面する社殿がある。樹木は少なくないが、あまり古そうなものはない。他に境内や建築物で、特筆すべきものには気付かなかった。

 五社神社から200mほど離れた田圃の中に、大きな石鳥居が建っていた。最初は当社のものかと思ったが、耕作中のおじさんに聞いたところ、驚いたことに都久夫須麻神社の一の鳥居だと分かった。この神社は言うまでもなく琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座し、伊香郡内の式内小社である。神社と鳥居は湖水を挟んで約6q離れているが、都久夫須麻神社の住所は早崎1665番なので、行政区分上は、鳥居や五社神社があるのと同じ大字早崎に鎮座していることになる。どうやら、(湖岸の方の)早崎は、竹生島と繋がりの深い土地であるらしい。とすれば、社地のごく近くにこの石鳥居が建っていることとあいまって、五社神社の祭祀は都久夫須麻神社のそれに関わりがあった感じがしてくる。当社の社殿は、びわ町や湖北町の神社としては異例だが、東面している。そしてこれは、真西にある都久夫須麻神社を拝しているようにもみえる。
『式内社調査報告 第十二巻 東海道1』に、五社神社はかって「もと朝日の岡、浅井岡と称された早崎村内の小字岡ノ柄といふ所に鎮座して(P333)」いたとある。このことは、次の『帝王編年記』の一節を想起させる。

「霜速比古命之男、多々美比古命、是謂夷服岳神也。女比佐志比女命、是夷服岳神之姉、在於久恵峯也。次浅井比め(※「め」は、「口」偏に「羊」)命、是夷服神之姪、在於浅井岡也。是、夷服岳与浅井岳、相−競長高。浅井岡一夜増高。夷服岳怒抜刀釼、殺浅井比売。々々之頸、堕江中而成江島。名竹生嶋其頭乎(『帝王編念記』第十、元正天皇養老7年癸亥条)。」
「【訳】霜速比古命之男の子は、多々美比古命で、これは夷服岳(※伊吹山)の神という。娘は比佐志比女命で、夷服岳の神の姉であり久恵峯にある。浅井比め命は、夷服岳の神の姪で浅井岡にある。夷服岳と浅井岳はその高さを競い合ったが、浅井岡が一晩のうちに高さを増したので、夷服岳は大変怒り、剣を抜いて浅井比売を斬り殺した。浅井比売の頸は、江の中に落ちて江の島になった。竹生島と名付けるのはその頸であろうか。」

 この記事は、古風土記の逸文ともいわれ、かなり古いものらしい(ほぼ同じ伝承は、『竹生島縁起』と『伊呂波字類抄』にもある)。このうち、夷服岳の神によって斬り殺された浅井比売命は、都久夫須麻神社の現祭神である(都久夫須麻神社の祭神は、浅井姫命、市杵島姫命、宇賀御霊命の三柱)。ただしこれは、『東浅井郡誌』も言うとおり、後世の附会である感じだが…。とはいえ、この記事は、古代の竹生島と浅井岳との間に、祭祀面で繋がりがあったことを感じさせる。
 問題は、この浅井岳がいったいどこの山なのかである。このことについては、金糞山を当てる説等があるものの、有力な定説がない。しかし『帝王編念記』には、「浅井岳」とともに「浅井岡」の表記が見られる。よく読むと「浅井岡」は、「浅井岳」が夷服岳の神による切断を受けて残ったものらしい。とすれば、「浅井岳」の現状は岡であり、必ずしも山とは限らない気がしてくる。
 上記社伝によれば、五社神社の旧社地は早崎の小字岡ノ柄にあり、その場所は朝日の丘と呼ばれるとともに、浅井岡と呼ばれていた。この浅井岡が、浅井岳ではなかったか。また、もしもそうであったとしたら、「在於浅井岡也」とある以上、中古、五柱の神が祀られる以前の五社神社は、浅井比売命を祀っていた可能性がある。
 さらに考察を進めると、五社神社の旧社地、「浅井岡」が「浅井岳」であったとすれば、この神社の祭祀は、沖合の都久夫須麻神社のそれに、湖岸において対応したものだったと思われる。その場合、ふたつの祭祀の関係は、宗像大社における辺津宮と沖津宮に近くはなかったか…、これはただのアナロジーではなく、じっさいに五社神社は、天照大神、素戔嗚尊、多紀津比売命、沖津嶋比売命(※多紀理比売命)、市杵島比売命の五柱を祭神としており、そこに宗像三神が含まれているのだ。さらに、三神の中の市杵島姫命は、都久夫須麻神社の祭神でもある。
 こうしたことから、都久夫須麻神社の祭祀について考える場合、五社神社のそれに触れないで済ますことはできないように思われる。

☆ 浅井姫命(=瀬織津姫命)の身体が多々美比古命に切断されて分離し、その遺跡である竹生島と浅井岡に宗像三神が祀られている、というのは隠蔽のために、瀬織津姫命を三神化して曖昧化した操作と関係するのかもしれません。
☆ 竹生島と早崎がほぼ同緯度にあり、浅井岡は「朝日の岡」とも称したという伝承からは、太陽の祭祀を感じさせます。瀬織津姫命の古い神格に、日神としてのそれがあったことを思い出させます。

471 竹生島弁天の元山 風琳堂主人 2002/07/25 05:11

 kokoroさん、はじめまして。本と囲炉裏夜話をお読みいただいているとのこと、お礼申しあげます。
 中央側の文献としては、大祓祝詞=中臣祓の一箇所にしか、その名が登場しない女神・瀬織津姫でしたから、「各地の神社やあまり知られていない伝説」から、この女神の概要に迫るしかなかったのですが、そういった探索をしていけばいくほど、この女神の重要性がだんだんと浮き彫りになってきました。にもかかわらず、記紀は徹底してこの女神の名を表に出していないという奇妙な事実──。これは、記紀の編纂・創作思想の根本のところに、この女神の名を出さないとする、とても強い編集意志が働いているのではないか──そう考えて不都合はないことを確信しつつあります。極端に聞こえるかもしれませんけど、瀬織津姫という神を隠す、徹底してぼかすために、記紀(の神々)はつくられたともいえるわけです。
 囲炉裏夜話の探索の過程でみえてきたのは、古代最大の建築物である出雲大社は、伊勢の皇祖神創作=伊勢神宮創祀の代償行為の可能性がとても高いことです。現代の常識では考えられないようなことを、ヤマトの祭祀権力者たちは平然とやりつづけてきています。たとえば、ある社の祭神を変更する、わからなくさせるために、その由緒書を没収するのはまだ序の口の手で、それでも不安があるときは、氏子を他地へ移してしまうなどということも実際やっています。また、記紀に準じて神社を創祀することもやっている可能性さえあります。
 伊勢の元神としての瀬織津姫=宗像神ですが、これが弁天化されるときにおいても、やはり習合神は瀬織津姫であってはならないという祭祀思想が働いています。結果、市杵嶋姫命=弁才天という等号式を基本とするのですが、しかし、これにはいくつも綻びがみえ、徹底しきれていなかったようです。
 琵琶湖・竹生島の都久夫須麻神社──浅井比売命の山である「浅井岳」は現在のどこの山だろうと地図をにらむことをよくしていましたが、kokoroさんの論考で「納得」です。
 伊吹山=夷服岳と浅井岡(=五社神社の地)の背比べの話において、「浅井岡一夜増高」で、夷服岳の神が怒って浅井岡の神の首を刎ね、その首が飛んでいって竹生島となったとする伝承が、いったい何を意味するのかとあれこれ考えさせられます。ここには、夷と夷の戦い、あるいは夷と夷を戦わせるという定型化された説話パターンがみられます。基本的には、ニギハヤヒがナガスネヒコを討つ関係(日本書紀)とよく似ているともみられるのですが、しかし、ここでは男神と女神の戦いだというのが少しひっかかっています。佐賀の河上神にまつわる話を想起しますと、水神=女神こそが先住神であり、そこへ海神=日神=男神があとからやってくるわけです。しばらくは「和」の婚姻が成立したとして、その後の関係の破綻がこの話には投影しているのかもしれません。山の背比べにおいて「浅井岡一夜増高」とありますから、これは、浅井岡の神のほうが、人々の信奉が厚かったという理解もできそうです(「かつて伊香郡屈指の社域を誇った」とありますしね)。
 ところで、近江国伊香郡には、天羽衣伝承もあり、ひょっとして、天女に去られて「孤閨をむなしく守って嘆き悲しんでやまなかった」(風土記逸文)とされる男神=伊香刀美は、伊吹=夷服の神・多々美比古だったかもしれないなとおもったのでした。
 kokoroさん、貴重な考察をありがとうございました。

472 水神(女神) 鈴奈 2002/07/25 10:25

風琳堂主人さん

 はじめまして、よろしくお願いします。
 最初に宮内庁管理は倭姫御陵後だけです。(^^)
 それと、さくら地蔵は外宮の西(鎮魂の方向なのかな?)堀の近くにあります。

 新たな記述になってしまうのですが、内宮の五十鈴川近くにほこらも無い滝祭神がありますがそこは瀬織津姫みたいですよ。(憶測でごめんなさい)

 滝祭神はかつて重要だったらしい痕跡はあります。例えば、外宮の正殿と池の間に縄で囲った場所があり、そこには三つの石があります。三つ石は三角を作り頂点が「多賀宮・正殿・入り口」(東・西・北?)方向を指しているかのようです。それと同じ石が滝祭神と風日欣神の間にもあるそうです(市民は入れない場所らしい)。ちなみに外宮遷宮のみたまを入れるとき、神事をする神官の大禊(かな?)はこの石の前でするそうです。

 それと、倭姫神社付近で女性の霊がでるそうです。私が聞いたのは若い女性の楽しげな声でした。つながりや裏づけはありません気のせいかもしれません。ただ瀬織津姫も倭姫も多賀宮も「エネルギーがある」のと「静まっていない感じ」がします。私は霊能者でもないですが、例えるなら田舎に一人居る母が寂しがっているような雰囲気、訪れれば心地よくもてなしてくれる雰囲気。こんな事書いたら精神おかしく思われますよね(笑)。

 でも、ぜひ機会があったら下記にお立ちよりください。
   「滝祭神」(内宮)
   「倭姫神社」(には千度石もあるよ)
   「多賀宮」(外宮)

 2004年には公になるかな。暴れないといいけど。

                       かしこ

473 また間違い 鈴奈 2002/07/25 10:27

ぜひ機会があったら下記にお立ちよりください。
   「滝祭神」(内宮)
   「倭姫神社」(倭姫御陵後には千度石もあるよ)
   「多賀宮」(外宮)

474 やっぱり書きます 鈴奈 2002/07/25 11:38

 神宮神事に斎宮(天皇家の女性)にもできない行事を子供をたててやっているのをご存じですか? それは正殿下にある御柱をリンガに見立てその上の正殿に「ー人の女性がいる」というのが始まりだそうです。なにをしているかは伝承されてないらしいですが、想像するに「神宮全体が神(御柱)の大奥?」って感じです。神宮行事では伝承されてないけど草の根で秘儀は受け継がれていると思う。そこまで探るといけずだろうし表にしないだろうなー。

475 瀬戸田の厳島神社について 米子の金太郎 2002/07/25 12:05

しまなみ海道の中心地、瀬戸田町に行ってきました。瀬戸田町の瀬戸田港近くには、白玉さんと呼ばれる「浜の明神」がありますが、伝承によると平清盛がここから厳島神社の神様「イチキシマ姫」を、宮島へ移したといわれています。瀬戸田という名前から、瀬織津姫に関係があるところかなと思っていたのですが、面白い出会いでした。
水軍の守護神としても崇められていたと聞きましたので、ますますその気になっています。
青森行きは、四国の人の都合でキャンセルとなりました。
いずれ行けると思っています。
私の死んだ父が、先祖は「四悪の海賊」だと言っていましたが、瀬戸内海に関係がある様に感じました。
播磨の国、伊予の国とも私のルーツと瀬織津姫にかかわる
因縁があるのかもしれません。
結構面白いことが分かってくるように感じています。
瀬戸田の海は流れが速いのですが、穏やかな海でした。
また行ってみたいと思っています。
きんきょうほうこくまで。

476 水神(熊野信仰 奥之宮) 鈴奈 2002/07/26 13:08

玉置神社御祭神 和歌山県

本社 玉置神社  国常立尊(くにとこたちのみこと)
            伊邪那岐尊(いざなぎのみこと) 
            伊邪那美尊(いざなみのみこと) 
            天照大神(あまてらすおおみかみ) 
            神日本磐余彦尊(かむいわれひこのみこと)
摂社 三柱神社  倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
            天御柱神(あめのみはしらのかみ)
            国御柱神(くにのみはしらのかみ)
末社 玉石社    大巳貴命(おおむなじのみこと)
    出雲霊社  若宮社  神武社  水神社  大日社
    白山社    三石社 

紀元前37年、第10代崇神天皇によって創建、平成15年秋に御鎮座2,050年祭を迎える風格と格式を有する由緒ある古社です。

479 伊雑宮の神と滝祭神 風琳堂主人 2002/07/27 12:27

 米子の金太郎さん、いろいろと足を運んでいるようですね。
「しまなみ海道の中心地、瀬戸田町」──この近くには、「白玉さん」と呼ばれる「浜の明神」があり、平清盛がここから厳島神社の神様「イチキシマ姫」を宮島へ移したとされている話は初耳です。清盛によって市杵嶋姫が宮島=厳島へ移されたとしますと、その前は宮島の神はなんだったのかという問いも浮かんできます。さりげなく書かれていますけど、これはとても大事な「伝承」かもしれませんね。宗像三女神の総称神としての瀬織津姫ということもありますけど、平家の落人がまつった厳島神社には瀬織津姫の名が明記されていることをあらためておもいだしました(鹿児島県出水市にある厳島神社の項〔瀬織津姫の部屋のリンク集〕も参照してください)。

 鈴奈さん、内宮の滝祭神は伊雑宮の奥宮というべき天の岩戸の鍾乳洞の滝神=水神ですね。この神および伊雑宮の元神が瀬織津姫であることは『エミシの国の女神』において、すでにふれられています。また多賀宮=高宮の神(男神)は、元々は荒祭神=瀬織津姫と並んで、現在の荒祭宮にまつられていたもので、この荒祭宮の社域に内宮ができるとき、あるいは内宮が居座るときに、多賀=高の社は撤去されて外宮のほうへ遷され、さらにその神の名も伏せられたのでした。
 倭姫については本では深くふれていません。解明はこれからというところです。
 また、熊野の最重要な水神としての瀬織津姫は、わかりやすいところでは那智の滝神としてすでに明らかにされているかとおもいます。この熊野の水神の奥宮ともいうべき聖地が玉置神社で、現在の神名は「国常立尊」とされていますけど、ここは水の女神をまつるのが原初の姿かとみています。
 宇佐八幡の大元神=比売大神は、囲炉裏夜話の話の繰り返しになりますから詳しくはふれませんけど、これも瀬織津姫とみることができます。この大元神をまつる、その名も大元神社が石見地方に集中してみられますが、そこでも、宇佐の大元神=比売神の名は消え、この国常立あるいは天御中主といった祭神名に変更表示されることが多いです。また、外宮神=国常立という説もあり、豊受神そのものを含めて、まだ仮の神名なのでしょう。
 内宮の「御柱」がリンガだとすれば、これは明らかに天照大神がもともとは男神であったことを証明しているようなものです。「秘儀」は必然的というべきでしょう。
 今、旅先で書いていて、ていねいにお応えできませんけど、鈴奈さんの関心の方向は瀬織津姫の隠れた場所を探知されているようです。わたしは「理屈」でしか追えませんから、鈴奈さんの直感力、感性がうらやましくおもいます。

(追伸)
477と478削除の件は了解です。

480 出雲大明神 ピンクのトカゲ 2002/07/29 08:43

先週、風琳堂主人が三河に帰ってきました。
風琳堂主人と一緒に豊川の谷汲山美濃寺、同白山神社、そして、豊川市柑子(こうじ)町の氏神・出雲神社に行ってきました。
出雲神社は、小学校の校区で子供の頃に行ったきりでした。
豊川と同放水路の分岐点あるのが、柑子町です。豊川と放水路の分岐点には、前にも書いた羽衣の松があります。
さて、久しぶりの出雲神社、本殿の向かって右には、神明社と八幡社、左には、瘡神社の末社が鎮座します。
瘡神社の祭神は、少名彦命、寛永五(一八五二)年の棟札に瘡神社天王宮と記載され、元文(一七三六〜四〇)の棟札に瘡神天王宮と記載されている。
国内神名帳記載の出雲神社の祭神は、延宝九(一六八一)年の棟札は、二つあり、一つは、「奉造立出雲大明神宮當所繁昌守護所」ともう一つの棟札には、「奉建立大天女宮當所繁昌之所」と記載されている。
大天女は、俗に姫神といわれるものとされているが、この姫神が、瀬織津姫を表していることは、いうまでもない。
柑子の出雲神社の旧社家は、大井氏と権田氏であり、いまも柑子町には、大井氏、権田氏を名乗る人が沢山いる。
大井氏については、豊川市の北端、千両(ちぎり)町の犬頭神社の社家が大井氏である。
また、権田氏は、本宮山の参道の入り口、上長山に多い姓である。
上長山、千両ともに穂の原の北、本宮山の山裾の地である。
上長山と千両の中間あたりに宝飯郡一宮町大木がある。
先代舊事本紀に三河国造祖・出雲醜大臣の子として大木喰命の名が記されている。
一宮町大木には、大木食命を祭神とする大木神社があり、また、大木天王社(現、大木進雄神社、祭神:進雄尊)の境外末社・柏木神社は、この大木天王社の祭神の荒魂を祭神(荒魂尊)とする。
大木天王社の祭礼に奉納される笹踊り歌の一部を以下に記しておく。

進雄の末社には 並にやごろ千護の宮
  高見の御前
  ヤンヨ神もヤヨヤンヨ

  次に荒御玉の尊よ
  東に天神 西に蛭子尊よ
  北に御社宮司 南に御池す尊よ
  サーゲ

481 出雲から伊豆へ 風琳堂主人 2002/07/30 14:19

 トカゲさん、三河・豊川の出雲神社が、延宝九年=1681年の棟札によると「出雲大明神宮」「大天女宮」という呼称をもっていたということは、出雲神は「女神」であることを証言していて貴重です。わたしたちは、記紀や風土記の記述から、出雲神は「大国主」という男神だというイメージで受け取ってきました。大穴持=大己貴は大国主の別称であるとされることも、あたりまえのように信じてきたわけですが、「大天女」はまぎれもなく女神ですから、出雲の流浪するツキサカキの水神=甕神、つまり出雲大神(古事記)であるミカツヒメ(尾張国風土記逸文と花長神社や吾豆良神社の伝承)と、厳神とされる瀬織津姫が等号で結ばれる可能性を、この三河の出雲神社は補強・傍証しているともいえるわけで、その意味で、あらためて「三河」の反骨の風土を感じました。出雲大神のイメージは大きく変わらざるをえないだろうとおもいます。
 出雲から伊豆へということで、伊豆半島を駆け足でまわってきました。
 遠野の伊豆神社=走湯権現社(祭神:瀬織津姫命)の本社であるはずの、伊豆・熱海の伊豆山神社は、大正時代にまとめられた『静岡県田方郡誌』によると、「元伊豆大権現或は伊豆御宮或は走湯大権現と称す」とあり、まちがいなく遠野の伊豆神社の本社筋にあたるのですが、ここからは瀬織津姫の名はまったく出てきません。
 熱海の伊豆山神社はいつ瀬織津姫の名を消したのか──。これがいまひとつはっきりしていなくて、戦前の資料を参考までに見てみたいということで伊豆に足を運んできたのですが、この祭神変更は、かなり古くまで遡る必要があるという気がしてきています。
 しかし、前述の『静岡県田方郡誌』(大正7年発行)には、戦後の「由緒」と突きあわせると奇妙な事実も浮かびあがってきて、今回はこのことにふれてみたいとおもいます。

■明治〜大正時代の伊豆山神社の祭神
 祭神につきては、本社祭神は元来三柱にましまして、東殿は伊邪那岐命、西殿は伊邪那美命、中央は火牟須比命にまします事は、本社例祭の時両神合体の式、若宮降誕の式と云ふこと伝はり、其前に女神下の宮へ行幸の式、男神追て行幸の式あり、此両神合体と云へるは、伊邪那岐命・伊邪那美命の美斗能麻具波比の古事にて、若宮降誕と云へるは、火牟須比命の生産の段の古事の伝にして、女神下の宮へ行幸、男神追て行幸のことは予美国の段の古事の伝はれる式にて最珍しき事なるを、何年頃よりの事なりけん、本社祭神を地神第二正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊などゝ唱へ出でゝ、古典を忘るゝに至れり。平田大人の古史伝伊津神湯の條に、此伊豆神社の事を論じて、祭神を書等に天忍穂耳尊とも、彦火瓊々杵尊とも、彦火々出見尊ともあれど、此国辺に右の天皇命たちの斎はれ給ふべき所由なし云々と見え、其他本社祭神のことは、度会延経神主を始め、秋山章翁・萩原正平主などの考説ありて、既に其筋へ上申せしことも数度に及べば、前に述べたる通り、伊邪那岐命・伊邪那美命・火牟須比命三柱の大神等に確定したれど、……(『静岡県田方郡誌』)

 戦前までは、伊豆山神社の祭神は「元来三柱」だったそうで、「東殿は伊邪那岐命、西殿は伊邪那美命、中央は火牟須比命」とされていたようです。ここで興味深いのは、イザナギ・イザナミかはともかく、本社例祭において、男神・女神「両神合体の式」が重要視されていたことでしょうか。おそらく、この「合体」のあとに「若宮降誕」つまり若子の誕生を祝う「式」がつづくとも読めますが、それは伏せてあるようです。
 ともかく、戦前までの祭神としてイザナギ・イザナミがこれほど強調されていたにもかかわらず、戦後には、これらの神は祭神名からは姿を消して、ただ、主祭神は「火牟須比命」一柱とされ、境内摂社の雷電社に「火牟須比命荒魂」が関係神としてまつられるかたちとなります。
 イザナギ・イザナミという記紀神話における著名な男女神がもし戦前の主張どおりの祭神ならば戦後においても踏襲表示されるはずで、それが消えたということは、イザナギ・イザナミは戦前における方便としての祭神表示であったことがわかります。つまり、「両神合体の式」の両神は、イザナギ・イザナミとはまったく別の男女神であったことが想像されてきます。
 郡誌の著者は、引用のあと「猶神仏混淆の際旧修験者の尊崇敬祭したる祭神名を記し、己が愚考をも述べて参考に供せん」として、これまた興味深い男女神の神仏混淆時代の名称を記録しています。たとえば「遍照大権現、走湯大権現」、あるいは「日精童子、雷電大権現」です。「本社古記録」においても「本地主神」は「有二神」とあるそうで、この「二神」の神仏混淆神が、「遍照大権現、走湯大権現」、「日精童子、雷電大権現」ということになります。
 いつの時代のことかは明らかではありませんけど、修験者の祭神認識はかなり正確であったことがうかがえます。この二例を組み直しますと、遍照大権現=日精童子となり男神、走湯大権現=雷電大権現となり女神とみることができ、まさに「有二神」つまり対[ペア]の関係神が見事に表現されているというべきでしょう。
 遠野における走湯権現は瀬織津姫です。伊勢の元神としての瀬織津姫にまで遡りますと、その対神は男神の天照[アマテル]大神ですから、「遍照大権現=日精童子」は、まさに「天照大神」とみることができます。また、瀬織津姫は熊野・那智の滝神=水神でもありましたが、郡誌の著者は「伊豆山記に因れば」として、走湯=雷電権現の宮(現在の雷電宮)が、その元が熊野にあったことを明らかにしています。伊豆山記(元禄時代の作)は漢文ですので、該当部分を書き下せば、次のようになるかとおもいます。

■走湯=雷電宮の出自
醍醐天皇延喜五年、雷電宮は熊野より大島(伊豆大島)に移り、また大島から当山(日金山=伊豆山)へ移ってきた。(雷電宮の神は)異香薫空花雨之瑞をもっている。しかるのちに大雷雨あるゆえに、宮の名を雷電宮と名づける。あるいは光宮と名づける。

 延喜式神名帳が編纂された時代、いいかえれば、全国の神々が中央の手によって洗い出された時代に時を合わせるようにして、雷電宮の神は熊野からやってきたというのです。この神の移動・遷移の時間は疑問ですが、出自は正確というべきでしょう。また、伊豆大島は、役小角をはじめとする、遠流・配流の地でもあり、この島に雷電神=熊野神がやってきたということが事実としますと、どこか流罪の「影」をもつ印象が、この雷電神には付着しているのかもしれません。
 郡誌の著者は、さらに「中世仏徒当社を千手千眼大菩薩の垂跡と称す」、「上宮又走湯権現と称す」とも記しています。千手千眼十一面観音は熊野・那智の本地仏でもありますから、こういった記述からも、走湯神=雷電神が熊野神であることがわかります。また、戦前において、イザナミの宮とされた「上宮」は、実は走湯権現の宮であったこともわかります。
 この上宮が、その鎮座位置はともかくとして、現在の境内摂社「雷電宮」にあたることがみえてきました。ここには、本社主祭神=火牟須比命の「荒魂」と表示される神がいるとされるのが、伊豆山神社の「現在」です。
 伊豆山神社から瀬織津姫の名が消えたのは、元禄時代の伊豆山記にもその名がなかったとしますと、江戸期においてはすでにわからなくなっていた可能性があります。これはそうとう「昔」に遡る必要があるのかもしれません。ここで、その時機を確定することは困難なのですが、その可能性として、『静岡県田方郡誌』の次の一文(伊豆山記を援用)は注意しておいてよいかとおもいます。

■勅使としての空海
文武天皇の御宇役小角、当社の神徳を慕ひ、大島より当山に渡り、終身神明に仕え奉り、嵯峨天皇の御宇僧空海を勅使として、当山に参向せしめ玉ひ、社則法令を定めしことあり。

 役小角は妖術によって人心を乱していると「讒言」されて(伊豆)大島へ配流されていたわけですが、そのあと(といっても平安時代初期にまで下りますけど)、空海は修行のために伊豆へやってきたわけではなかったことがここに記されています。彼は朝廷の「勅使」としてここへやってきて、そして「社則法令を定め」たというのです。伊豆山神社の祭神変更の可能性の最古のものとして、この「勅使」空海の存在があることを書き留めておきます。
 なお、伊豆半島には伊豆山神社の分社であろう走湯神社がもう一社あります(下田市大賀茂町)。ここは延喜式内社「伊豆奈比当ス神社」とされる社で、祭神はその社名どおりに「伊豆奈比当ス」です。走湯神は、伊豆奈比唐ツまり「伊豆の姫神」でもあります。瀬織津姫が伊豆大神であることはこれまでにもふれてきましたけど、走湯神=伊豆奈比唐ェ「大賀茂」の地にあることも故なしとしないというべきでしょう。瀬織津姫は賀茂の祖神でもあり、その大元は、出雲国造神賀詞によれば、大穴持という出雲大神にみることができます。
 肥田喜左衛門著『下田の歴史と史跡』(私家版)によりますと、三島神=事代主との関わりで、伊豆開拓の始まりの一説を次のように記しています。

■出雲族としての賀茂族
 十世紀の地誌である和名抄に、奥伊豆は賀茂郡として五郷の名が記されている。出雲神族の支族である賀茂族が千数百年の昔、海から来住したとの説もある。

 賀茂族が「出雲神族の支族」であることは大事な伝承です(出雲の加茂岩倉遺跡の「加茂」の名も浮かびます)。
 伊豆最古の社とされるのが伊古奈比当ス神社(通称白浜神社)です。ここには、境内末社ですが、瀬織津姫がその名のとおりにまつられています。伊古奈比唐ニ伊豆奈比唐ヘ同神である可能性が高いですが、それを断定するには資料がまだ足りません。ただし、同社神官の息子さんがつとめる、伊豆半島最南端石廊崎突端に鎮座する石室神社は、現在イワレノミコトつまり神武天皇を祭神とするとされていますけど、ここは元、伊古奈比唐まつっていて、関係神官の方もどうしてこんな祭神になったかは「わからない」とのことでした。石室の神が、その地勢からいって御崎神=航海の女神であったことはまちがいなく、ここに宗像の女神が西からやってきて鎮座したことはじゅうぶんに考えられます。
 三島大神=コトシロヌシは、この伊豆の地に上陸するにあたって「地主神」である富士山の神から土地を分けてもらう伝承があります。富士山の神は、火神かとおもいがちですが、その原初は、水神の山、聖なる水源の山であったことを指摘していたのは牧野和春『桜伝奇』(工作舎)でした。やはり、宗像の女神=水神が鹿島へ向かうとき、この伊豆半島の最南端を無視して通過するとは考えにくいです。
 最後に、伊豆山神社の祭神は「元来三柱」とも関わるのですが、若宮神=天忍穂耳尊という祭神説について──。この第三の祭神名ですが、郡誌や平田大人(篤胤)はそろって否定しているようです。しかし、ホツマの伝承を挙げるまでもないのですが、瀬織津姫と天照大神の唯一の嫡神こそが、この天忍穂耳命で、この神の子神=邇邇芸[ニニギ]命が、いわゆる「天孫」として降臨する筋立てになっているのが記紀神話です。記紀は、なぜアマテルの子神を排除して天孫=ニニギを降臨させたのかは、梅原猛さんに代表されますけど、持統─文武の祖母─孫という皇位継承関係の投影だという説が現在のところ有力なのですが、しかし、これだけではオシホミミが排除されたことをじゅうぶんに語っているとはいえません。ここには、オシホミミの母神が瀬織津姫であったことが関係しているとみることもできそうです。伊豆山神社の祭礼にあった「両神合体の式」つまり天照大神と瀬織津姫の「合体」のあとの「若宮降誕の式」の「若宮神」こそ、この天忍穂耳尊である可能性は捨てられないなとおもいます。イザナギ・イザナミの「両神」の合体は、すでにないことが明らかですから──。
 探索の中間報告です。(伊豆にて)

482 憶測です 鈴奈 2002/07/31 18:15

>多賀宮は、元々は荒祭神と並んでまつられていたもので、多賀=高の社は撤去されて外宮のほうへ遷され。

内宮の敷地内(滝祭神・荒祭宮)2箇所に瀬織津姫が祭られていたんですか? 天の岩戸は外宮の山(高倉山)にある遺跡で、外宮にある亀石もそこから移したらしいんですが。なんかが違うような・・。

削除ありがとうございます。

483 伊豆から香取へ 風琳堂主人 2002/08/01 08:41

 鈴奈さん、多賀神と荒祭神が並んでまつられていたというのは、神宮の神官の古文書に書かれています(書名はたしか「神宮秘伝問答」──旅先で確認できませんが、関心があるようでしたら、『エミシの国の女神』を一度読んでみてください)。そのように並んでいた宮が撤去された跡地が、現在の「式年遷宮」用の空地=古殿地となっているとみることができます。なぜ式年遷宮がはじまったのかについては、だれもまともに言及したことがなく、そういう意味では、女神の本に初めて仮説が書かれています。伊勢神宮はなんのためにできたのかということですが、この創建の意図をどう読み取るかは、日本の国家がどのような建国の意図をもってつくられたかを読み取ることと一緒かとおもっています。伊勢神宮創建・建国の過程で排除あるいは封印されたのが伊勢の元神たちでもありました。
 滝祭神は五十鈴川の川上神というのが、たしか神宮側の説明です。五十鈴川の源流部へたどりますと、伊雑宮側の神路川の源流部と共有するかたちで天の岩戸の滝が浮かんできます。ここは、北に五十鈴川、南に神路川を分ける分水嶺の鍾乳洞にある滝です。おそらく、この滝神=水神が伊勢・志摩の最古層の地主神あるいは精霊神であったとおもいます。そこへ原初の太陽神=海神がやってきて、新しい開拓生活が始まったのではないでしょうか。この過程で、水の精霊神は農耕の太陽神と一対のかたちで人格神化されたことが考えられ、それが「荒祭神」とみることができます。この水の精霊神を天照大神「荒魂」と命名=変名したのは、むろん当初の海洋農耕の民ではなくて、そのあとに伊勢神宮を創祀しようとした人たちでした。
 この伊勢の元神たちは、律令制国家が誕生する前は、列島各地にまつられていた可能性が高く、それが、たとえば男神のほうでいいますと、書紀は「悪い神」天香香背男と呼んだりしています。天孫降臨→葦原水穂国の支配・統治に同意しない先住の神はみな「悪い神」あるいは「荒ぶる神」(風土記)と呼ばれます。
 この囲炉裏夜話は、「悪い神」「禍々しい神」とされる瀬織津姫がほんとうに「悪神」「禍神」であったのかどうかを逆検証する意図もあってここまで模索しながらやってきています。
 なお、外宮の亀石の「亀」はカメ=甕=ミカの意で、これも水神に関わっているのではないかとおもいます。内宮の地にも外宮の地にも、おそらく日神と水神は元々ともにまつられていたものでしょう。伊勢神宮の立ち上げとともに、両社は、内宮・外宮という差別化がなされたもので、両社は、当初、奥宮・里宮の関係にあったというのが元の姿だったかもしれないと考えたことがありますが、両宮の成立関係はまだくっきりとは明かされていない段階です。

「東の伊勢」の一社である香取神宮とその第一摂社とされる側高神社へ行ってきました。香取神宮の奥宮は、看板表示では「大神荒魂」、『香取神宮小史』では「経津主神の荒御魂」とされます。鹿島神宮の第一摂社は息栖神社ですが、香取神宮の第一摂社(の神)は、これまた謎めいています。

■香取神宮からみた側高神社
(側高を)また脇鷹とも書く。佐原市大倉にある。神宮第一の摂社として、古来御祭神は神秘なりと云ひ伝ふ。或は云ふ、側高神、即ち経津主神の后神[きさきのかみ]なりとも。
 昔は、この社の杜[もり]の崖下[がけした]まで浦波が寄せて、渚も最清く故に、祓除[みそぎ]する者は、皆此所で行つたと。神宮と共に、慶長・元禄両度の改造が行はれた。(『香取神宮小史』)

「古来御祭神は神秘なり」──佐太神社の「秘説四座」や、岩手の滝神が「深秘を有する」とされていたことが浮かんできます。日本の祭祀の歴史過程で、「神秘」「秘説」「深秘」とされる神は自ずと限られてきます。
 上記のように香取神宮側がみる側高神社ですが、では、当の側高神社側はどういった表現をしているかといいますと、祭神は「天神(造化三神)天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神」とされ、これでは「古来御祭神は神秘なり」とは大きく異なる表示をしています。これらが仮の神名であることは、同社由緒が別に「古来祭神は“言わず語らずの神”」、「造化三神を隠[かく]り身[み]の神という」と注記していることからも明らかでしょう。『側高神社由緒』の「八、古くより信仰の例証」の項に、「日暮[ひぐらし]家(神崎町小松)の氏神社」と題して、次のような「例証」が書かれています。

■側高明神と息栖明神
 明和九年(1772)日暮家の奥庭に奉斎した氏神社(平石)の正面に、側高明神、息栖明神と中央下に水風両神と刻まれている。実は側高の浜に祀られる瀬織津姫神と息栖の浜に祀られる伊吹戸主神[いぶきどぬしのかみ](を)水の神、風の神と崇めその当時の主[あるじ]が勧請したものである。
(註)側高神社は、香取神宮の摂社、息栖神社は鹿島神宮の摂社で、ここにも両社の左右の関係が見られる。

 側高神社と息栖神社は一対社だった可能性が語られています。そして、唐突ではありますが、瀬織津姫の名が香取の地から出てきました。
 瀬織津姫と気(伊)吹戸主は大祓祝詞にセットで封印された神で、伊勢神宮直系の分社・山口大神宮の証言から、荒祭宮=瀬織津姫、多賀宮=伊吹戸主でした。この両神こそが伊勢の元神で、本来は皇祖神が創作された秘密を明かす神ゆえに、まさに「神秘」の神、「言わず語らず」の神とされたのでしょう。
 また、同社由緒は、側高神の神威の高さの「例証」として、次のような事例も採録しています。

■鎌形金兵衛宅(氏子)所蔵の掛軸
 氏子の鎌形家に、先祖伝来の掛軸が秘蔵される。この掛軸には、側高の神と香取・鹿島二神の御姿が極彩色で画かれている。側高の神の坐[ま]します下に、両神が随神の形[かたち]で控える絵である。絵師又は画[えが]かせた者の主観に依るものとは云え古くよりの尊崇の一面と側高の神の灼[あらた]かさを物語るものとして貴重。

 鹿島・香取神の上位に立つ神は限られています。側高神は、造化三神ではありませんから、その限定の範囲はさらに絞られてきます。それは、一般的には伊勢の神=皇祖神=アマテラスとなりましょうが、しかし掛軸の側高神は雄雄しい男神として描かれていますから、これはアマテラスに匹敵する男神を想像するしかありません。つまり、男神の伊勢元神である太陽神です。側高神社の方の話によりますと、香取の神は、重要な儀式のときは必ず側高の神に挨拶にくるとされます。これは、伊勢内宮別宮の伊雑宮が祭礼の都度、摂社の大歳社=佐美長神社に挨拶するのと一緒で、伊雑宮の元神が大歳神でもあったことからも想像されるのですが、側高神社の神は香取の元神であったということなのでしょう。経津主は斎主ですから、もともとは神をまつる神でした。この経津主がまつる神こそが香取の元神であったはずで、それを「神秘」したところへ経津主が主神として座ったのが現在の香取神宮の姿かとおもいます。
 香取神宮の奥宮の神は、現在ひっそりと、あるいは空疎にまつられていますけど、この「大神荒魂」は千木の構成から本殿と明らかに異なっていて、その造りからも女神とみられます。
 伊勢と比類できる「大神荒魂」とされる奥宮の神です。この神に水神の要素はあるのかどうか──このことは神宮側の由緒からは明らかではありません。しかし、『香取神宮小史』は、「井」の神の極めつけのエピソードを記していますので、参考までに書き写しておきます。

■香取神宮の「御神井」
 当神宮の在る亀甲山には、古来参詣路の八方に八ないし十二の御神井があった。大坂井は津宮道に今も在り、最大の御神井は御手洗井で、字御手洗に在る。神楽殿の右の階段、東方に下ること二百米余、狐座山の梺にある。昔、香取神道流の始祖飯篠長威斎の下僕が、ある時此処で乗馬を洗つたところ、人馬共に即死してしまひ、同夜崖が自然に崩れて井戸を埋めてしまつた。他の処に設けたが濁つて使用できない。そこで現在地に築いたと言はれる。

 側高の浜には御手洗池があったそうで、ここの神は瀬織津姫ですから、香取のこの御手洗井の神も瀬織津姫であったとみてよいでしょう。引用にみられる、これほどの神威はまさに「荒魂」と呼ぶにふさわしいというべきですが、この御手洗井の神と奥宮の神を直接結びつける「言葉」はまだみつかっていません。
 なお、側高神社本殿の真裏には、石の祠が榊の木に囲まれるようにまつられています。平常の祭祀形態においては、対の神は左右に同格としてまつられるものかとおもいますが、日本の複雑な祭祀、あるいは歪んだ祭祀の方法によって、これらの神はその神名を変更され、前後に、つまり奥宮と本社というようにまつられるケースが散見されます。側高も香取も然りというところでしょうか。(潮来にて)

484 日神と水神 鈴奈 2002/08/02 10:55

>おそらく日神と水神は元々ともにまつられていたものでしょう。

解説ありがとうございます。元々居たんでしょうね。
三つの石を挟んで滝祭神の対象に「風日欣神」がいますし。
 滝祭神=水
 三つの石=土
 風日欣神=風・日(火)・欣(金)

485 悪神 鈴奈 2002/08/02 11:11

>瀬織津姫がほんとうに「悪神」「禍神」であったのかどうかを逆検証する意図もあってここまで模索しながらやってきています。

インド神カーリーを暴くのと似てるんですね。

486 瀬戸田の件について 米子の金太郎 2002/08/02 13:29

瀬戸田の件について訂正させていただきます。
白玉さんと浜の明神さんは、別々の場所にありました。私の勘違いだったのですが,伝承を読んでみましたところ、
白玉さんは,白蛇だったので,もともと同じのような気がしています。瀬戸田は,言い伝えも多いところです。平家の伝説とも関りの深い島です。水軍の重要な拠点だったとも聞きました。
ところでご主人は,四悪水軍についてご存知ではないでしょうか。もし何か解ることがありましたらお教えください。

487 琵琶湖と淡海公 kokoro 2002/08/05 00:02

 また、琵琶湖ネタをお届けに参上しました。

 宗像三神というのは、ありふれた祭神で、特に市杵島姫命は、神仏混淆の時代に弁財天と習合したことから、どこの土地へ行っても祀られているのを見かけます。滋賀県でも、宗像三神が祀られている神社はさほど珍しくないですが、その中で私は特に、都久夫須麻神社と奥津嶋神社に注目しています。都久夫須麻神社については、五社神社の問題と絡めて7月25日にカキコしました。奥津嶋神社の方は、蒲生郡の式内明神大社で、以下の2つの論社があります。
 A.大嶋神社・沖津嶋神社【祭神:沖津島比賣神】近江八幡市北津田町
 B.沖津嶋神社【祭神:沖津島比賣神】近江八幡市沖島町

Aは現在、式内小社の大嶋神社と同一社殿に祀られています。このことについては、両社が当初から一緒に祀られていたとは思われないため、本来の大嶋神社鎮座地は、現在の日牟礼八幡宮だったといわれます(『日本の神々』等参照)。Bは近江八幡市沖合の琵琶湖上に浮かぶ、沖島に鎮座しています。なお、Aや日牟礼八幡宮の鎮座地も、干拓等によって現在は陸続きになっているものの、かっては沖島と同じく琵琶湖に浮かぶ島でした。
 式内沖津嶋神社の論社としては、Aの方が有力視されているようです。が、同じく琵琶湖で宗像神を祀る都久夫須麻神社が、湖岸に鎮座する五社神社の祭祀とセットらしいことを想起すれば、AとBもそれに似た関係だったかもしれません。さらに、沖津嶋神社と大嶋神社にも、伝承等から祭祀面での繋がりが確認できるため、「日牟礼八幡宮(=旧大嶋神社)→A→B」は、筑前宗像大社における「辺津宮→中津宮→沖津宮」と似た関係だったかもしれません。ちなみに「日牟礼八幡宮→A→B」の鎮座地は、だいたいに南北一列に並んでおり、このことも宗像大社の場合を連想させるのです。

 面白いのは、Bと日牟礼八幡宮の社伝に、それぞれ藤原不比等が登場することです。『滋賀県神社誌』にある由緒から、それぞれの該当部分を抜き書きしてみます。

【B】「和銅五年藤原不比等、勅命を奉じて創立すると伝える。<後略>(P125)」

【日牟礼八幡宮】「応神天皇六年に天皇当国の沖津嶋之神社へ行幸なされんと思召しになり、知波之御崎と云う所より船をお使いになり湖水に到着なされた。入口に小嶋があり、此の嶋にお着きになって、天皇自ら垢離りを行われて、奥津嶋之神社にお詣りになられた。<中略>その後年を経て御仮屋の跡に日輪の形二つ見ることができた。それ故祠を建て、日群之社八幡宮と名付けると記されてあり、続いて持統天皇五年に藤原不比等日群社に詣でられ、「天降の神の誕生の八幡かも日牟礼の社になびく白雲」とお詠になり、故に日牟礼之社と改むと記され、寛平元年沖津嶋神殿雷動して、火玉飛出て日牟礼之社に入ると云う。沖津嶋之宮所は一夜にして湖水と成り、沖津嶋之神霊日牟礼社に移られた。<後略>(P119)」

 6月4日のカキコで風琳堂主人さんが紹介されているとおり、都久夫須麻神社の神宮寺である宝厳寺は、聖武天皇の勅命により、行基が開山したとされています。聖武天皇は藤原不比等の孫で、皇后の光明子は不比等の娘です。つまり聖武天皇は、かなり不比等と関係深かったといえます。こうしてみると、琵琶湖中の島々に鎮座した式内社は、宗像三神が祀られるケースが多かったとともに(大嶋神社の祭神は現在、大国主命なので、宗像三神ではないですが…)、「藤原不比等と関係がある」との観念があったように思われます。
 藤原不比等は、没後40年を経た天平宝字4年、淳仁天皇の勅命により、近江国十二郡を追封され、淡海公≠フ称号を与えられました。上記のように、彼に琵琶湖の島々に鎮座する神社との関わりがあるとすれば、この淡海公という称号もそうしたことに関係があったのかもしれません。ただ、むしろ逆に、彼が淡海公であったから、後世になってこれらの神社に彼のことが附会された、という可能性もあります。不比等に淡海公の称号を与すことになったのは、不比等の孫である藤原仲麻呂が天皇に発案した結果です。仲麻呂は近江守でした。したがって、不比等が淡海公となったのは、彼自身が近江と関係深かったからではなく、仲麻呂が近江守だったから、という気もします。しかし、『滋賀県神社誌』等で私が調べた範囲では、県内で社伝に不比等が登場する神社は上記の他にないようです。また、聖武天皇のことが登場する神社の数も、それほど多くありません(式内社では、都久夫須麻神社と下記の小江神社だけではないでしょうか)。こうしてみると、近江に鎮座する多くの式内社の中で、琵琶湖の島々に鎮座したそれの社伝だけに、不比等や聖武天皇が登場するのは、何か深い意味がある感じもします。
 とにかく、上記のような留保を行った上で、『琵琶湖の島々に鎮座する式内社には、しばしば宗像三神が祀られるとともに、「藤原不比等に関係がある」との観念があった』とすれば、それは近江地方の地主神であった浅井姫命(=瀬織津姫命)がもともとこうした島々で祭祀されており、政治的な理由で、不比等によって宗像三神が附会された記憶の残滓と考えられなくもありません。

☆ 先日、大嶋神社・沖津嶋神社に行きました。社殿の前面はかなり大きな池になっているのですが、その水源である湧泉が森の中にあって、祭祀遺跡のようでした。これらは古い水神信仰の名残りを感じさせ、何か云われがあると思うのですが、私の知る範囲では、この池や泉について触れた文献がないのです。

☆ なお、湖北町海老江に小江神社という神社があります。当社の社伝は、竹生島と聖武天皇が関係するとともに、三島明神のことが登場するので引用します。

「聖武天皇の天平十三年伊豆三島大明神を当地の三島の地に奉祀したと伝えられており、聖武天皇竹生島に国家安泰を祈念のため参籠されたとき光明皇后この間当地の光明山に逗留され、当社に鈴一個を寄進された。天正年間大火災により多くの社宝とともにこの鈴も焼失した。社の西方小江浜に御旅所があり(※この御旅所は、『式内社調査報告』によれば、当社の旧社地で、湖中の砂州上に石垣や礎石が残っているらしいです。)毎年正月の御輿途御には鈴の舞をもって始まったという。<後略>『志賀県神社誌』P509」

 小江神社は伊香郡の式内小社、小江神社の論社であり(『式内社調査報告』の論社C)、五社神社と同じく竹生島の真東に鎮座しています。その御旅所が、神社の西にある小江浜にあり、そこへの途御があったというのは、祭祀面で竹生島と関係があった痕跡かもしれません。また、あまり注目されていないようですが、近江にはこの小江神社のような伊豆から勧請されたという神社が多く、神社祭祀面で伊豆地方との繋がりがあったように思われます。それらのいくつかは、境内に顕著な湧水が見られ(小江神社もそうです)、古い時代の自然信仰を思わせるとともに、伊豆地方の神社とこの地方のそれとに通底があったのが、かなり古い時期のことだと感じさせます。

488 谷汲山美濃寺 ピンクのトカゲ 2002/08/05 12:04

昨日、豊川の谷汲山美濃寺に行ってきました。
前にも書きましたが、この谷汲山美濃寺の本尊・十一面観音は、岐阜の谷汲山華厳寺の本尊・十一面観音と同木同作ということです。
昨日は、この豊川の谷汲山美濃寺の十一面観音の御開帳ということで足を運びました。
朝九時ごろ行くと、入り口には、電柱ほどの高さの「南無観音菩薩」の幟が立てられ、十一面観音と書かれた提灯やかたがたっていました。
境内といっても非常に狭いのですが、境内では、町内(東豊町)の方が、餅をついておられました。
間口三軒ほどの本堂の中央には、目当ての十一面観音が置かれていました。
高さ六尺ほどの立像、厨子も立派なものでした。
岐阜の谷汲山華厳寺の十一面観音は、秘仏ですから、この豊川のものが、同木同作か否かは確かめようがありません。
現在、市の文化財に指定されていますが、最近、県が調査に来たようです。
制作年代とかが解ると面白いことになるのですが...
仮に谷汲山と創作年代が一致したとしても、豊川の谷汲山美濃寺の創立は天文年間といわれていますから、謎は深まります。
美濃寺の西100メートルほどのところに白山権現の祠があるのですが、十一面観音は、天台一実神道では、白山権現の本地仏とされています。
この白山権現が関係すると思われるのですが、資料もない状態です。
いずれにせよ、地元では、谷汲山華厳寺のものと同木同作と信じられ、そうした伝承が残っていること自体が重要なのではないかと思います。

489 香取から鹿島へ 風琳堂主人 2002/08/05 15:21

 鈴奈さん、カーリーは、その破壊の絶対性と女性の<性>の象徴において人々に認知されています。これは女性の多面性のひとつを突出させたものとみることもできますが、ともかく、この女神の存在は、その破壊・殺戮の物語性ともども、きちんと認められ、ある意味大事にされているとはいえます。その点、日本の瀬織津姫は、大祓神あるいは天照大神「荒魂」以上の名としては認知されていないことが、彼我の大きな差かもしれません。陰湿かつ巧妙に隠されている瀬織津姫に、いっそのことカーリーのような物語があったら、よほど日本の祭祀と文学は健康になっただろうなとおもわないわけではありません。また、シヴァ=大黒天、カーリー=大黒天女という対の構図もあり、日本の七福神信仰の一角を形成するような「影響」もみられます。信仰のルーツを探すという関心からするなら興味深いものがありますが、まずは日本の隠微・陰湿な神隠し、その当事神である瀬織津姫をどう明かすかというところでしょうか。

 米子の金太郎さん、「四悪水軍」という言葉は記憶にありませんけど、これは中世の「悪党」としての水軍を指したものではないかという気がしています。具体的には、松浦水軍、村上水軍、越智水軍、熊野水軍などの名が浮かびますが、これらが「四悪水軍」かどうかはわかりません。「悪」とか「鬼」というのは、ときの権力者が自らを「善」「人」として、支配の外にいる者、まつろわぬ者に対して一方的に命名するというのがパターンです(後世にはそれを先取りして自称するパターンも出てきますが)。ともかく、どういった権力との相対関係において「四悪水軍」(という言葉)が使われているかということでしょうね。

 kokoroさん、また刺激的な論考をありがとうございます。
 藤原不比等が直接からんでいる神社創祀の伝承をもつということで、わたしも琵琶湖の沖津嶋神社は要注意とおもっています。ほかに不比等創立とされる神社は寡聞にして聞いたことがなく、ここはとても大きな意味をもっている神社であることはまちがいありません。
 その創建年なのですが、「和銅五年藤原不比等、勅命を奉じて創立すると伝える」(『滋賀県神社誌』)の「和銅五年」=712年というのは、古事記が完成・奏上された年にあたります。宗像の女神が三神化された、つまり曖昧化された表現=古記は古事記を遡れないはずとわたしはみています。不比等は、この古事記の創作に整合させる意図があって琵琶湖へ赴いた可能性があります。
 そして遡ること20年ほど前の持統五年=691年の不比等の歌「天降の神の誕生の八幡かも日牟礼の社になびく白雲」ですが、この年は持統が大嘗祭をおこなった年で、名実ともに女帝=持統の時代がはじまったのでした。歌にある「天降の神の誕生」が、八幡神の改竄(八幡大元神の比売大神という抽象神化)+創作の意図とともに、持統女帝の「誕生」をも含意していることが考えられます。前年の690年には、伊勢神宮における第一回遷宮がおこなわれたこと──これは、伊勢神宮の現在の形式が確定→立ち上げがなされたということでもありました。
 不比等に「淡海公」という称号の付与がなされる「発案」は、孫の藤原仲麻呂によるものとのこと──仲麻呂はのちに道鏡によって滅ぼされますけど、仲麻呂の末子に徳一という僧がいます。この徳一は東国へ生き延びて、平安初期には桓武天皇とのつながりを深め、東国の祭祀にも少なからず影響を与えていきます。不比等と琵琶湖の関係は、彼の父とされる中臣=藤原鎌足と琵琶湖の関係に淵源があるかもしれません。琵琶湖には、鎌足ゆかりの鹿島神宮の元神がまつられていたことが考えられます。宗像=八幡の最重要な女神が琵琶湖の各地にもまつられていた可能性があることはおっしゃるとおりです。
 参考までに、現在わかっている琵琶湖周辺=滋賀県にまつられる瀬織津姫の祭祀リストを書き出しておきます。またなにかの参考にしてください。

■琵琶湖=滋賀県にまつられる瀬織津姫
@賀川神社【本殿主神】        蒲生郡日野町安部居1
A佐久奈度神社【馬見岡綿向神社境内社】蒲生郡日野町村井705
B敏鎌神社【高野神社境内社】     栗太郡栗東町高野726
C唐崎神社【本殿主神】        高島郡マキノ町知内924
D唐崎神社【西宮神社境内社】     高島郡新旭町旭502-2
E吉野神社【本殿主神】        坂田郡伊吹町吉槻1414
F小幡神社【本殿主神】        神埼郡五個荘町中303
G金刀比羅神社【本殿主神】      神崎郡能登川町伊庭1310
H走井祓殿【日吉大社境内社】     大津市坂本5-1-1
I佐久奈度神社【本殿主神】      大津市大石中町56
J河濯神社【長浜八幡宮境内社】    長浜市宮前町13-55
K湯次神社【本殿主神】        東浅井郡浅井町大依248
L八幡神社【本殿配祀神】       東浅井郡浅井町大依248
M湯次神社【本殿主神】        東浅井郡浅井町湯次16
N河桁御河辺神社【本殿配祀神】    八日市市神田町381
O荒神山神社【本殿配祀神】      彦根市清崎町1501
P長沢神社【本殿主神】        野洲郡中主町比江765

 以上です。淀川─宇治川─瀬田川の水神=川神として瀬織津姫を明かすこともできますが、この瀬田川の水源湖である琵琶湖に「水源神」としての瀬織津姫がまつられていることは、むしろ自然のことという見方もできるかとおもいます。その要の島に不比等は「勅命」で赴いたとしますと、これはよほどの島であったことが想像されてきます。
 あと、琵琶湖と伊豆の関係ですが、これは三河(新城市うでこき山)の伝承──つまり琵琶湖の土をもっていって積み上げると富士山となったという伝承と関係があるのかもしれません。琵琶湖の神と富士山の神は同質神あるいは関係神であることを伝える伝承という気がしています。

 トカゲさん、谷汲山華厳寺の十一面観音と「同木同作」とされる十一面観音が三河の谷汲山美濃寺に伝えられているということは、なにか三河が古代史のキーポイントの地であることをあらためて告げているようです。この観音の素材が「同木」ということになりますと、この木は、「谷汲村の昔話」によれば、会津高田町の「榎」ということになります。もし素材がわかって、それが「榎」だとなりますと、谷汲村の伝承からは二体の十一面観音がつくられた話は伝えられていませんし、当の華厳寺の観音も秘仏でだれも見ていないとのことですから、この三河の十一面観音こそがホンモノという可能性も出てきます。となりますと、新たな「謎」の発生ともなりますが、それでも、機会があったらぜひ、観音の素材木を確かめてみてください。おもわぬ展開があるかもしれません。

(以下は「伊豆から香取へ」の続きです。)
 旅の駈け足は、香取から鹿島神宮へ、です。同神宮奥宮、摂社・跡宮から息栖神社へ、そして元鹿島の二社(大生神社と礒部稲村神社)とまわってきました。
 鹿島神宮へ向かう最初、神宮の大鳥居に向かう参道の左横=北に(参道は西から東に延びています)、リュウ[案内の読み]神社(リュウは雨かんむりに龍、「オカミ」の字のつもりかとおもいます)があって、おもわず車のブレーキを踏みました。案内の表示をみますと、神宮の御手洗池にかつてまつられていたとあり、祭神はクラオカミ・タカオカミ(表記は漢字)と書かれています。これは京都・貴船神社の神でもありますが、これらの神はかつて鹿島神宮の御手洗池にまつられていて、それがなぜか境外へ遷祀=放逐されたようです。このリュウジン=御手洗神は神宮の関係社としては表記されていませんので、この神をまつったのは氏子の人だったことが考えられます。鹿島神宮は、なぜ御手洗神を神域から消去したのかという問いが、いきなり鹿島の門前で出迎えてくれたようです。
 側高神社の瀬織津姫は御手洗神でもありましたが、これは京都・下鴨神社の井上神=御手洗神としての瀬織津姫と、その名=ミタラシが一貫しています。漢字で書くといかにも手を洗う意味しかみえませんけど、ミタラシは「水垂らし」が原義なのでしょう。水垂→タマダル(レ)なども同義とみてよいかおもいます。このミタラシの名をもつ香取の「御神井」が「御手洗井」だったというのも偶然ではないのでしょう。この「御神井」の神=祭神名については、香取神宮は伏せて語らずですけど、これも瀬織津姫だと断定できそうです。
 香取神宮の門前の名物に厄ばらいダンゴ、厄おとしダンゴがありますが、これも、元は下鴨神社の御手洗池の水が湧き出す泡に擬して御手洗団子ができたことの東国版というべきで、香取の名物団子の神も、その大元は瀬織津姫とみるしかなさそうです。大祓神としての瀬織津姫が「厄」をはらいおとすこと、水神・瀬織津姫の池の泡がミタラシ団子となったこと──こういった認識が香取のみやげ物を売るお店の人たちにあるのかどうかは聞きそびれました。
 ところで、鹿島の御手洗池について、神宮側は次のように述べています。

■鹿島神宮の御手洗池
奥宮前の坂を降ると「御手洗池」があって、南崖の下の水口からは清水がこんこんと湧出して池に流れこみ、池は一メートルの水深にもかかわらず、底の砂粒が数えられるほど澄んでおり、昔から神職潔斎の池としても名高い。上古にはこの池が参道の出発点で、御手洗に使用されていたものだろう。この御手洗池近くまで北浦(流海)が溺谷[おぼれだに]を入っていたことは事実で、その時代には船で御手洗池近くまでこられたに違いない。(東実『鹿島神宮』学生社)

 御手洗池が「名高い」のは「神職潔斎の池」というより、その神水=聖水ゆえというべきでしょう。この池の隣にある茶店の人の水自慢も書き添えておきます。それにしても、この鹿島の御手洗池のロケーションは、側高の御手洗池のそれと酷似しています。
 この池の水をつかさどる神の痕跡がないかと探ってみましたが、やはりまったくありません。御手洗の神は鹿島においてはたしかに消去されていて、現在の表参道のリュウジン社の表示は事実であることが確認できます。ただ、この御手洗池と対面して、大国社(祭神:大国主命)があることが奇異といえば奇異です。出雲神と御手洗池──。
 ところで、上古においては、この御手洗池が「参道の出発点」だそうで、これは引用にもありますけど、現在の奥宮へとこの参道の坂道は続いています。御手洗池─上古の参道─現在の奥宮。その延長上、つまり奥宮の背後には「要石」という神石が位置しています。要石の異称は「御座石[みましいし]」とありますので、地震の神(?)・ナマズの頭を押さえているかどうかはともかく、この石は神籬、つまり神の依りつく石であることはたしかでしょう。
奥宮は「神体ヲハ正敷[まさしく]居奉[すえまつ]ラス、此御殿ニハ夜御座トナン、タヤスク昼夜参詣スル事ヲ許サス、天照大神影向[ようごう]ノ御社トモ云伝[いいつたわ]ル」(「当社例伝記」…『新鹿島神宮誌』)とされ、ここも神秘のヴェールに包まれていますが、奥宮神が天照大神の関係神であることは暗示的です。この奥宮の神は現在「武甕槌神荒御魂」とされていて、香取神宮ともども、本社祭神の「荒魂」と、判でおしたような表示をするさまは、これも元々は伊勢に準じたものとみることができます。
 伊勢内宮背後の荒祭宮の神(表示は「天照大神荒魂」)は瀬織津姫の異称ですが、この鹿島の地にも荒祭宮があったことは、実際に訪ねてみて初めて知ったことでした。鹿島神宮社務所発行の『新鹿島神宮誌』によりますと、荒祭宮は、現在、鹿島神宮摂社「跡宮[あとのみや]」と呼ばれ、祭神は、これも武甕槌神とされています。

■鹿島の荒祭宮=跡宮
 この摂社も独立した神社である。そして三笠神社と同じように理解しにくい面がある。『社例伝記』には「本社ヨリ南ニ当リ荒祭宮[あらまつりのみや]トテ有リ、大曲津命[おおまがつみこと]ヲ祭ル、俗ニ跡宮ト云フ是神野ト云フ里也」しかし『茨城県神社誌』には「神武天皇十七年創立。神護景雲元年大和国春日社へ遷祀の後宮跡を跡宮と改む。明治十年鹿島神宮の摂社となる」として、祭神を武甕槌命としている。神社誌分は『神社明細帳』を基本にしているので、ほぼこの通りかとも思われるが、春日へは分祀であるから遷祀という書き方は誤解をまねくおそれがある。もっとも一度跡宮へ分祀して、そこから遷祀ということも考えられないことではないが、それでまた跡宮を祀ったとすれば、二重になる。藤原光俊の「み空より跡たれたりし跡の宮その代も知らず神さひ[び]にけり」とある歌に詠まれた考え方が跡宮の社号にふさわしいかも知れない。

 消えた御手洗の神についてはふれないままでしたが、跡宮=荒祭宮については、かなり「正直」に書かれています。『社例伝記』に記されていた荒祭宮の祭神「大曲津[おおまがつ]命」は、古事記記載の大禍津日神、つまり瀬織津姫を表していることはまちがいないでしょう。
 神護景雲元年=767年に鹿島神は奈良の春日へ「分祀」されたのは事実でしょうが、荒祭宮の神は、やはり「遷祀」された可能性があります。春日大社の謎の姫大神は枚岡神社の天美豆玉比売命が遷祀されたものですが、この女神はその神名からも水神であり、荒祭宮の神も滝神=水神で、両神は同神であった可能性があります。大坂の枚岡神と鹿島の荒祭神は、春日の地で一体となって姫大神という抽象神になった、あるいは封印されたとみることもできます。
 ところで、鹿島の荒祭宮=跡宮がある「神野」(鹿嶋市神野)について、「鹿島神宮元宮司」の著者=東実氏は『鹿島神宮』(学生社)で、次のように述べています。

■荒祭宮=跡宮のある「神野ト云フ里」
 約三千年前ごろには、神野[かの]貝塚、片岡遺跡などと、鹿島神宮に関係の深い場所に、生活の跡が見られるようになる。
 神野は、鹿島神宮の南西にあたり、字の示すように神の野であり、前に述べた北浦の南、神宮橋や見目浦[みるめのうら]を見下す台地で、香取神宮に向かいあう。武甕槌神が鎮座された場所とも考えられるから、この神野の貝塚群は、古代鹿島を考える上でもっとも重要な貝塚である。この貝塚群からは、鹿の骨などで作った針、浮袋の口、モリ、勾玉など多数が出土して鹿のすんでいたことと生活の向上していたことなどが証明されている。

 神野という里は、縄文の時代から開けていたようです。著者は、この神野を「武甕槌神が鎮座された場所とも考えられる」と書いていますけど、先にみたように、ここの先住神は「荒祭宮」の神とみるべきでしょう。「香取神宮に向かいあう」神野の里にあるのが荒祭宮だったとしますと、これは、側高神社と息栖神社の関係(「側高神社は、香取神宮の摂社、息栖神社は鹿島神宮の摂社で、ここにも両社の左右の関係が見られる」…側高神社由緒)を、ここに重ねることも可能となります。
 香取の元神をまつる側高神社に対応する鹿島神宮の第一摂社が息栖神社です。息栖神社を語ろうとするとき、ここにある「日本三霊泉」のひとつ「忍潮井[おしおい]」にふれないわけにいきません。
 日本三霊泉は、「伊勢国朝熊山の明星井[あけぼののゐ]、山城国賀茂の御手洗井[みたらしのゐ]、この霊水(息栖神社の忍潮井)と日本三所の名泉なり」とされます(『木曽路名所図会』)。ここで興味深いのは、伊勢の朝熊山の水神および賀茂=下鴨神社の御手洗井の神がともに瀬織津姫であることです。これはとても大きな意味をもっています。息栖神社の忍潮井の神だけがはたして別の水神であるのかどうか──。
 図会はさらに、息栖神社の神を「気吹戸主命」とし、同社に伝わる「心有る人に見せばや常陸なるうすきの浜の忍塩井の水」という「神詠」も伝えています。意味深い歌というべきです。
 息栖神社にも奥宮がありましたが、その祭神は現在不詳となっています。伊勢・香取・鹿島に準じれば、気吹戸主(現在の祭神は岐神)の「荒魂」となるのかもしれませんが、そもそも気吹戸主がその名を変えられていますので、この仮定は息栖神社には成立しません。
 鹿島神宮と息栖神社の関係は、単純に本社─摂社といった関係ではないことを伝えているのが『鹿島宮社例伝記』(平安末期)かもしれません(『息栖神社関係資料集』)。例伝記には、息栖神社を鹿島神宮の「遙宮」としてみていたことが書かれていますが、これは、伊勢においては、その元宮=伊雑宮が当初伊勢神宮の「遙宮」とされていたこととよく似ています。伊勢の元神をまつることを「本社」という表現で命がけの主張をしていたのが伊雑宮でした。
 資料集の「諸国里人談」(1743年)から、息栖神社の忍潮井の甕=瓶の部分を引用します。

■息栖瓶
常陸国息栖明神の礒ぢかき海中に、女瓶男瓶とて二ツの奇石あり。男瓶は径一丈あまりにして銚子のかたちなり。その口とおぼしき所に溝あり。中は椌のごとく窪みて鍋の形なり。女瓶はわたり五六尺ばかり土器に似たり。土俗曰、これは神代の銚子土器なりと、此石、満潮には二三尺沈めり。干潟には水上にあらはれける。その銚子の中は素水にして潮の味ひなし。これを忍塩井の水といへり。心ある人に見せばや ひたちなる 息栖の浜の忍塩井の水
○人皇十五代若桜宮天皇御宇三癸未載二月、鎮座の額あり。
○長能曰、鹿島といふ島は、社頭より十町ばかりのきて、今は陸地よりつゞきたる島になん侍る。その所につぼというものゝまことにおほきなるが半過埋れて見えしを、先達の僧に尋しかば、これは神代よりとゞまれるつぼにて、いまに残れるよし申し侍りかば、身の毛もよだちておぼえ侍りしが、こかめそことたがひてよめりける。
  神さぶるかしまを見れば玉たれのこかめばかりぞまた残りける  長能
かしまとあれども、今は息栖の海中にあり。西行の撰集抄に、鹿島の事はみな息栖の風景なり。息栖は鹿島の旧地なるかしらず。
○又忍塩井の水は勢州山田にもあり。〔割註〕両宮の御饌に用いる水なり。
  世々を経て汲ともつきじ久かたの天よりくだす忍塩井の水

『木曽路名所図会』の歌における「うすきの浜」は、ここでは「息栖の浜」と表記されています。「うすき」は浮洲からの転訛ということなのでしょう。としますと、息栖は沖洲の意ということになります。
 なお、忍潮井の「素水」(真水)は海中から湧き出す霊水であったようです。霊水を湧出させる海中の甕=瓶は「神代よりとゞまれるつぼ」とあり、またこの水は伊勢両宮の「御饌に用いる水」と同じだというのです。さらに興味深いのは、西行が詠んだ鹿島の風景は「みな息栖の風景」だという伝承があったことでしょうか。これが事実としますと、真の元鹿島は息栖だとなります。このことがまんざらでたらめでないことは、元、鹿島神宮の神官・矢作幸雄氏が書いた『古代筑波の謎』(学生社)に、次のような記述(引用)があることからもみえてきます。

■古き神人の伝に(雑誌『神日本』第三巻第六号…昭和初期)
 常陸国鹿島の海底に、一つの大甕あり、その上を船にて通れば、下に鮮やかに見ゆるといへり、古老伝えいう。此の大甕、太古は豊前にありしを神武天皇大和に移したまひき。
 又景行天皇当国に祭りたまう時、此の甕をも移したまえるにこそあれといえり。
 此の大甕は鹿島明神の御祖先を祭り奉る壺にて、鹿島第一の神宝として、世々これを甕速日[みかはやひ]と申すといえり。
 世移り変りて、御遺体は御座ましまさぬと申すといえども、彼の大甕なお石の如くに残れり、今の甕の在る所は、昔陸にして、此の神宝預りの社役人もありしが、いまは海となれり、鹿島の社務は代々中臣氏の人にてつとめ、鎌足公までは、当初社務にてありしが都に上り、政務を預かり、遂に都に上りたまう。
 彼壺預りの人、今は社務のようにてい申すといい伝えり。

 少しわかりにくい文面ですが、どうやら、「鹿島第一の神宝」である「大甕」は「鹿島明神の御祖先を祭り奉る壺」であり、その神名は「甕速日」というらしいです。鹿島神の大元神というべきこの大甕の神は、そのルーツを豊前の国にもっているという伝承があったことも興味深いです。豊前国の大甕神は、いわゆる宇佐八幡の比売大神(出雲へ転じれば天甕津日女という甕神ともなる)である可能性がここからみえてくるからです。あるいは、「速日」という尊称をもつ神としてまず浮かぶのは、男神の太陽神というべきニギハヤヒ=天照国照彦天火明奇玉饒速日命でしょうか。同書では言及がありませんけど、武甕槌・経津主および建葉槌によって討伐されたとする、常陸国の先住神が天津甕星=香香背男(日本書紀)であったことを想起することもできます(香香背男は日立市の大甕神社に「宿魂石」によって封印されていることになっています)。
 ところで、この謎の大甕はいったいどこにあるのかということが気になってきます。『古代筑波の謎』は、「真疑はたしかめようがない」としつつも、鹿嶋市内の甕山付近かとしています。この甕山なる山がどこかは地図には載っておらず正確に読み取ることが困難ですが、同書は「鎌足神社」の南100メートルほどのところで、「この甕山近くに、末社津の東西二社があった」としています(ちなみに、跡宮=荒祭宮は鎌足神社「南」約1キロのところに鎮座)。「津の東西二社」は神宮の所管社ということで、現在「津東西社[つのとうざいのやしろ]」という社名で神宮境内にまつられています。『新鹿島神宮誌』によりますと、同社の祭神はタカオカミ神・クラオカミ神(表記は漢字)です。
 奇妙なことになってきました。なぜなら、この二神は、鹿島神宮から消去された御手洗池の神=リュウジンでもあるからです。大甕の所在地は、けっきょくのところ不確定ということです。
 ここからは仮説です。息栖神社側の古老の伝承は「海底に、一つの大甕あり、その上を船にて通れば、下に鮮やかに見ゆる」とはじまっていました。この大甕は「海底」にあるというのです。海底にある謎の大甕のイメージは、やはり「海中に、女瓶男瓶とて二ツの奇石あり」とされる息栖神社の忍潮井の「つぼ」を連鎖想像させます。また息栖神社側の伝承資料における、「かしまとあれども、今は息栖の海中にあり。西行の撰集抄に、鹿島の事はみな息栖の風景なり。息栖は鹿島の旧地なるかしらず」という言葉も浮かんできます。甕山の津東西二神という表示も、考えてみれば、息栖の「女瓶男瓶」に対応しているとも考えられます。
 元鹿島を自称する神社に大生神社があります(潮来)。ここの祭神は「建御雷之男神」一神とされていますが、その神の系譜に惑わされなければ、「男神」という表示はとても奇異な印象を与えます。なぜ本社と同じように武甕槌神と表示しないのか、という疑問が残ります。対偶神となる女神があってこその建御雷之「男神」とみますと、建御雷之「女神」がかつて存在していたことも考えられてきます。水の女神の系譜をことごとく消去・曖昧化してきたのが日本の祭祀の歴史現実で、このことは御手洗神を消去し、跡宮=荒祭宮の神を武甕槌神と変更してきたことにおいて、鹿島神宮も例外ではありません。
 もう一社、元鹿島を自称する礒部稲村神社(茨城県岩瀬町)にふれておきます。同社祭神の鎮座伝承を境内の案内表示は次のように述べています。

■礒部稲村神社の創建伝承
 人皇第十二代景行天皇四十年十月、日本武尊・倭姫命、伊勢の皇大神宮の荒祭宮礒宮を此の地に移祀す

 礒部稲村神社の祭神は合計で12柱、つまり「天照皇太神、栲幡千々姫命、天手力雄命、木華咲耶姫命、瀬織津姫命、天太玉命、玉依姫命、玉柱屋姫命、天鈿女命、倭姫命、天児屋根命、日本武尊」とされます。明治期の合祀策の影響でしょうが、それにしても、多くの神が横並びに表示されています。同社祭神の神徳は「古来より安産守護神」とされ、どうやら子安神という女性にとっての功徳をもった神として、ここの氏子の人たちは同社主祭神を感じとってきたことがうかがえます。
 訪れた印象では、宮司の方は留守でしたが、拝殿は開放され、神の威圧をほとんど感じさせない珍しい神社です。境内には白山[しろやま]桜など何本も桜の樹が植えられ、春にはなるほど桜川の水源社かとおもわせることまちがいないとおもいました。
 さて、同社の創建伝承には、「伊勢の皇大神宮の荒祭宮礒宮を此の地に移祀す」とあり、この元鹿島の社からまた「荒祭宮」の名が出てきました。ここは鹿島神宮とちがって、荒祭宮の神が瀬織津姫(=玉柱屋姫)であることを隠していないことが好感をもてます。日本の祭祀の歪みに負けていないことが、この社の開放感を醸しだしているとみることもできます。
 ここで、鹿島神宮側が跡宮=荒祭宮をどう説明しているかを確認しておきます。

■鹿島神宮側による荒祭宮の説明
あるけれども見えない世界におられる神(和魂[にぎみたま])がこの世の見える世界に生[あ]れまして降臨[こうりん]するとそれは荒魂[あらみたま]として祀られる。それで、鹿島の神が降臨されたところとして別名荒祭宮[あらまつりのみや]という。荒魂を祀[まつ]る奥宮もだから同じような由緒を持っている。(『新鹿島神宮誌』鹿島神宮社務所)

 和魂・荒魂は一般名詞ですが、社名としての荒祭宮は、伊勢神宮(内宮)別宮としての固有名詞です。この認識からすれば、礒部稲村神社が荒祭宮=瀬織津姫と表示していることを是とみるしかありません。伊勢の荒祭宮を意識せずに、この社名をつかえるはずがなく、そこにふれることなく、まるで一般名詞あるいは鹿島神宮固有の社名のように荒祭宮の名を語ることは、無意識かもしれませんが、結果的に読者をあざむく表現となるというべきでしょう。この引用の表現においてみるべきものがあるとすれば、跡宮=荒祭宮と鹿島神宮の奥宮(武甕槌神荒魂)は「同じような由緒」だということかとおもいます。
 側高神社を唯一の例外として、香取・鹿島の地から、水神=瀬織津姫の名はことごとく消去されています。香取の「御手洗井」、鹿島の「御手洗池」、息栖の「忍潮井」といった名水・神水をつかさどる神は瀬織津姫以外に今のところふさわしい神を想定することは困難でしょう。
 ところで、香取・鹿島のこれらの名水はどこからやってくるのかという問いが浮かびます。特に忍潮井のように、かつて海中から真水が湧出するといった事実を考えますと、これらの水は伏流水とみることができ、その水源山としては筑波山系を想定するしかなさそうです。
 筑波山は、香取・鹿島の地から北に視認できる山で、ここには筑波山神社が存在しています。筑波山は、男体山と女体山という対の山で構成される二神=二上山でもあります。
 たとえば香取の地において、この筑波山(の神々)はどのようにみられていたかを例証するものに、「神田耕式の田植歌」があります(『香取群書集成』第二巻)。

■香取の地からみた筑波山
あれみさい、つくはの山のよこくも
ホーイホイヤァホイ
よこくものしたこそ、わらかおやくに(東実『鹿島神宮』より孫引用)

香取・鹿島の地に湧き出す霊泉の源の山である可能性がある筑波山を、香取の民は「わらかおやくに」(=わたしたちの祖国[おやぐに])と歌っているのです。
 東氏は、「この歌詞は関東東部に広く流布していた」とし、「筑波山の付近をわれらの祖国[おやぐに]といってはばからない思想の根拠はどこにあるのだろうか」という問いを自らに与え、次のような「答え」を書いています。曰く、「もし、イザナギ・イザナミ両神が高天原に住まわれるのでなく、この二神山である筑波山に住まれたとしたら、この田植歌のもつ意義はきわめて大きいといわなければならない」──。筑波山神社の祭神かつアマテラスの祖神としてのイザナギ・イザナミという認識が「思想の根拠」ということらしいのですが、これも厳密には正確ではありません。天照大神=アマテラスの誕生にはイザナミは関与していないということがまずあります。アマテラス、ツクヨミ、スサノウたちは、イザナミの死後、イザナギの禊ぎによって誕生した神とされていて、イザナミは皇祖神=アマテラスの誕生とは無縁な存在なのです。
 不正確はもう一つあります。それは筑波山神社の祭神なのですが、これは元鹿島神宮権禰宜であった著者=矢作幸雄氏によって、筑波山神社の祭神とされるイザナギ・イザナミは、平安時代初期に法相宗の徳一(『本朝高僧伝』によれば恵美大臣仲麻呂之子)によって「設定」されたものと明かされているからです(『古代筑波の謎』)。
 では、それ以前の筑波山の神はなんだったのか──。矢作氏は、筑波山には根深い「日の神」の記憶と信仰があったことを指摘しています。その具体例として、拝殿の「神名額」のことにふれています。

■筑波山神社の「日の神」
 筑波山の男体峯は西方に位置し、女体峯は東方に位置しているところから、幣殿の西の方に「伊奘諾尊」の神号額が掛けられて、東の方に「伊弉册尊」の神号額が掛けられているのは当然だが、その両方の額の中央前方に「天照皇大神」のひときわ大きな額が掲げられている。
 ふつう、神号額は御本殿にまつる祭神名を額にして掛け、その他の神名はあらわさない。なによりもまぎらわしいからである。
 それが本殿の主祭神の額よりも、摂社にまつる祭神の額が大きく、しかも中央前方に位置しているのは、何を意味するのだろうか。
 この神名額がだれの手によって、いつ頃掲げられたかは問題ではない。それよりも、このことはいざなぎ、いざなみ両神が御本殿にまつられる神であることは異議はないが、この筑波山は日の神、天照大神の山であるという主張にほかならない。

 矢作氏は筑波山神社の権禰宜も務めていたので書き方は穏やかですが、筑波山は「日の神、天照大神の山であるという主張」が、香取の田植歌にあった「わらかおやくに」と呼応していることをここから読み取ることができます。
 筑波山は男女二神の山であること、および、水源山としての筑波山であることを考えますと、日の神の山である筑波山は、水の神の山でもあるとみるのが自然です。矢作氏は、この「水」と筑波山の関係について、次のように記してもいました。

■水神の山としての筑波山
 筑波山神社拝殿周辺にも御手水所も含めて五ヵ所湧水と流水があり、夏などは行列して御水を頂いている。
 山の水はまさに天の恵み、神の賜物である。古代人にとって、良い水は何にも代えがたい、まさに信仰の対象にもなる貴重なものであった。神の「山」は神の「水」とともにあったのである。

 著者は、筑波山における「日の神」が天照大神であることまでは言及しましたが、「水の神」の名にまでは言及していません。これは意図的なものではなく、おそらくほんとうに知らないのだとおもいます。
 筑波山の男神が、まさに「日の神」である男性神格の天照大神であるなら、女神は「水の神」である瀬織津姫であることはほぼ確定できるものとおもいます。
 筑波山の地上の水は、東麓の恋瀬川と西麓の桜川のいずれかに流れ込み、霞ヶ浦へ流入します。恋瀬川はもともと国府瀬川[こうせがわ]だったそうですが、別名に「小桜川」という名をもっています(『大日本地名辞書』)。霞ヶ浦の北で途切れる筑波山系の地にとって、桜川こそが母なる川であったということなのでしょう。
 この桜川の源流部に鎮座するのが礒部稲村神社であり、そこには、水源神(「三春滝桜と瀬織津姫」参照)としての瀬織津姫が伊勢からやってきてまつられているわけです。桜川は石切山脈(筑波山系の北部切れ目の北)の鏡ヶ池を源としています。この「石切」の「石」は花崗岩=御影石で、この花崗岩の岩盤が地下を香取・鹿島の地にまで延びていて、その地上への突出部が、香取・鹿島の「要石」なのでしょう。香取・鹿島・息栖の霊泉は、この岩盤の上を流れきたって、ときに地上へ「神の賜物」として湧出するとみることができます。この「水」の象徴の山として、筑波山はあるともいえます。香取の民が、筑波山を「わらかおやくに」と認めていたのは、日の神と水の神の山という双方の神への思いがあったゆえとみるべきでしょう。
 なお、延喜式内社「稲村神社」の論社としては、礒部稲村神社のほかに、その名も稲村神社があります(常陸太田市天神林)。礒部稲村神社も鏡ヶ池で祈雨をおこなっていたようですが、稲村神社も「水旱に霊験著大」(『続日本後紀』)とされます。しかし、稲村神社の祭神は、饒速日尊一神とされ、瀬織津姫の名は消えていますけど、ここに伊勢の元神に関わる神名が主張されていることは大きな意味をもっています。  常陸国風土記には武甕槌神の名は一箇所も出てきません。出てこないどころか、鹿島の神域にはヤマトの征夷軍(建借間[たけかしま]に象徴される)は踏み込めない様が描かれています。風土記時代には、鹿島神宮はまだ正規の神まつりをしていた可能性があります。
 鹿島の元神が「大甕」の神であることを再確認しておきます。

490 濃州谷汲山華厳寺―三州谷汲山美濃寺 ピンクのトカゲ 2002/08/09 08:15

谷汲山華厳寺

谷汲山華厳寺は、天台宗の寺刹で、その創建は、延暦一七(七九八)年といわれる。奥州白川郷の住人・大口大領が地元の文殊菩薩から授かった榎の霊木を持ち京都に行き、文殊大士に十一面観音を彫らせ、故郷に持ち帰る途中、谷汲の地に来ると、仏像が急に重くなり、動けなくなった。
大領は、この地で修行していた豊然上人の助けを借りこの地に御堂を建立したのが、谷汲山華厳寺の始まりだといわれる。
谷汲山華厳寺は、醍醐天皇(治世八九七〜九三〇)により谷汲山の山号を与えられ、天慶七年(九四四)年、朱雀天皇から勅願寺の詔を受け、今では、西国三十三ヵ寺の巡礼の満願札納めの霊場として知られる。西国三十三ヵ寺は、養老ニ年(七一八)大和の長谷寺の得道上人によって創められたといい、谷汲山華厳寺は、寛和二(九八六)年、花山法皇により西国三十三番札所の満願所と定められる。
花山は、寛和二年に藤原兼家の策謀に嵌り退位、その後、那智の千日修行の後、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の旅に出る。つまり、花山が寛和二年に谷汲山華厳寺を満願所に定めたのは、花山自身の満願成就の場所として谷汲山華厳寺が定められたことを意味する。
その後、谷汲山華厳寺は、承久の乱(一二二一年)で、寺領を没収され、建武元(一三三四)年、戦乱で諸堂伽藍がすべて焼け落ち、かろうじて本尊だけが残ったという。さらに、応仁の乱(一四六七〜七七年)などの兵火に罹い、まったくの荒廃に帰した。
そして、文明一一(一四七九)年、谷汲(花長神社のある大字名札)出身で当時、薩摩の慈眼寺の住職をしていた道破拾穀上人の夢枕に谷汲山華厳寺の本尊の観音様が立ち、復興のお告げがあり、八年の歳月をかけ再建されたといわれる。
この谷汲山華厳寺の中興の祖・道破拾穀上人は、龍神を信仰しており、雨乞いの祭りを行なったという。
日照りが続くとこの道破拾穀上人は、通称・弁寿利淵で沐浴をし、顔に特別の化粧をし、雨乞いの祈祷をしたと伝えれれています。
上人は、晩年には、木造を彫り、雨乞いの仏としたそうです。
この雨乞いの仏は、弁寿利様と呼ばれ、日照りが続くと、花長神社のある名札の村人は弁寿利様の前で読経し、弁寿利様を厨子から引きだし、弁寿利様の顔に化粧をした後、竹の輿に乗せ、弁寿利淵まで運び、弁寿利様を淵に投げ入れ、下帯姿の若い衆が、淵の中に飛び込み弁寿利様に水を浴びせ雨乞いを祈ったそうです。
この弁寿利様の雨乞いは、永正年間(一五〇四〜二〇)に起源をもつとされていますが、谷汲山華厳寺創立以前の水神(→甕神=花長神社の祭神)にその信仰の端はあるように思われます。
さらに、この谷汲山華厳寺から北に一キロほどの岐札谷川に、谷汲山華厳寺と水神(龍神)信仰との関係を示す谷汲山後山観音(岐礼観音堂)があります。
岐札の観音は、観音大士と呼ばれ、華厳寺と同じく十一面観音、縁起は、「時は、桓武の時代、場所に奥州塩釜で結ばれた」とされ、観音大士のお告げにより轟谷(岐礼谷の轟の観音水)に祀られ、その後、岐礼と伊野の中間にある通称・櫻御道に伽藍が建立され、観音大士が安置され、さらに、天文二一(一五五二)年、戦火に遭い、現在の位置に安置された。
縁起の「桓武の時代」、「奥州塩釜」から谷汲山華厳寺との関係をうかがわせます。また、轟谷から櫻御道に安置されたということから、その背後に水の女神の匂いがします。

谷汲山美濃寺

岐阜の谷汲山華厳時の本尊・十一面観音と同木同作と伝えられる十一面観音が、豊川市東豊町の修南山光明寺の境外堂・観音堂に祀られている。
俗に出口の観音様と呼ばれるこの観音堂は、明治初年に観音堂から光明寺に属することとなったが、それ以前は、谷汲山美濃寺を称していた。
文久三(一八六三)年、東海道御油宿に生まれた早川彦右衛門が明治二四(一八九一)年に書いた「三河国宝飯郡誌」によれば、「当寺の本尊は、美濃国谷汲華厳寺本尊と同木同作也。往昔回国の行者仏を負ひて、当所に至り、俄然磐石の如く重くなりて負行くことあたはず、遂に此処に据置き去ると云ふ。然るに天文年間本蓮社願誉、堂宇を建立して谷汲山美濃寺と称す。」と書かれている。
天文年間(一五三二〜五四)といえば、谷汲山華厳寺の秘仏・十一面観音が作られてから七〇〇年以上が経っている。「三河国宝飯郡誌」は、ここに、十一面観音が据置き去られたのは、往昔のこととしているから天文より昔のことであろうが、いつの頃かは定かではない。
現在、この十一面観音は、豊川市の文化財に指定されている。豊川市発行の「豊川の歴史散歩」は、この十一面観音について「この菩薩像は、像高一六〇センチ、一木造、彫眼、等身大の像である。用材はクスノキで、背ぐりが施されている。直立の姿で頭上に頂上仏面と変化面をいただき、右手は与願印、左手に蓮華水瓶をもっている。まゆじりと目じりが平行に、やや上がっている。あごの形と首の三道のふくらみや、正面の堂々とした姿にくらべて、側面は胸や肩が扁平でやせ身である。蓮肉に届きそうな長い裳裾などに、藤原期の技法が見られる。」としている。
「三河国宝飯郡誌」は、行者が背負ってきたとするが、いくら背ぐりがされているとはいえ、等身大の仏像を背負ってもってこれるものであろうかとの疑問が湧く。
谷汲山華厳寺の十一面観音は、秘仏で全く公開されていないからどのような仏像かはわからないが、華厳寺の十一面観音は、奥州白川郷の榎の霊木で作られたといわれている。一方、美濃寺のものは、「豊川の歴史散歩」によればクスノキで出来ているとされていることから同木同作と断定できない。
大口大領が二体の十一面観音を作らせたとの伝承はないが、華厳寺の十一面観音と後山観音は関わりがあるように思われ、後山観音も等身大であることから、華厳寺の秘仏と同木同作でなくとも、これら華厳寺と関係する十一面観音と同木同作の可能性はある。
また、「豊川の歴史散歩」は、「藤原期の技法が見られる」とすることから、天文年間から、さらに時代は遡るものであろう。
「三河国宝飯郡誌」は、「当所に至り、俄然磐石の如く重くなりて負行くことあたはず」と十一面観音が据置き去られた地が十一面観音ゆかりの地であることを思わせる記載がある。この地と十一面観音のゆかりとして考えられるのは、美濃寺の西一〇〇メートルほどに位置する白山権現であろう。十一面観音は、白山権現の本地仏とされるからである。
余談になるが、加賀の霊峰・白山を開山した泰澄は、白雉一一(六八二)年、越前国麻生津で生を受け、天平九(七三七)年、疱瘡の流行を十一面観音の法で鎮め、泰澄和尚と号されるようになったという。泰澄は、白山のほか後に酒呑童子が生を受けたとされる越後弥彦山も開山したとされ、雨乞いの祈祷に優れていたとされる。十一面観音が疱瘡を鎮めること一つをとっても十一面観音の裏には水の女神・瀬織津姫の影が見える。
美濃寺の西にある白山権現との関係から、美濃寺(観音堂)の建立は、さらに時代を遡れると思う。

本蓮社願誉上人

「三河国宝飯郡誌」にいう天文年間に堂宇を建立したという本蓮社願誉上人とは、いかなる人物であろうか。ここに謎を解く鍵があるように思われる。
新潟県北魚沼郡堀之内町上稲倉にある浄土宗の寺刹・竹子山宝蔵寺は、この本蓮社願誉上人を開基とする。
宝蔵寺々伝によれば、正元元(一二五九)年、北国巡礼を終えて都に帰った時頼が法然上人(一一三三〜一二一二)の弟子・願誉了浄上人(本蓮社願誉了浄大和尚)に命じて開山したされる。
北条時頼(一二二七〜六三)は、寛元四(一二四六)年三月に第五代執権となり、康元元(一二五六)年一一月二二日、執権職を北条(赤橋)長時に譲り、翌日出家し、最明寺入道覚了房道崇を名乗る。太平記などで時頼は、出家後、諸国をめぐり、民情視察を行ったと伝えられる。しかし、吾妻鏡には、時頼が諸国廻国したとの記載はない。康元元(一二五六)年九月に鎌倉一帯に赤斑瘡が流行、時頼もこれに罹り、執権を辞し、出家した後、寺院の建立や修繕を行なっている。こうしたことから寺院の開創を時頼とし諸国廻国伝説が生まれたのであろう。
宝蔵寺についても、同様の時頼伝承が生まれたと考えられるが、美濃寺の観音堂を建立した本蓮社願誉と宝蔵寺を開山した本蓮社願誉了浄大和尚が同一人物であるか否かは、一概には、確定できないが、同じ浄土宗の寺刹ということから同一人物である可能性は高いと思われる。なお、宝蔵寺が開山されたとされる正元元(一二五九)年の吾妻鏡は欠落している。
仮に宝蔵寺の開基・本蓮社願誉了浄と観音堂を建立した本蓮社願誉が同一人物であるとしたら、なぜ、天文年間なる伝承が生まれたのであろうかという疑問が湧く。
谷汲山美濃寺は、明治初年に修南山光明寺の管理となる。この光明寺は、観音堂(美濃寺)の西二〇〇bほどに位置する。
修南山光明寺、天文年間に間悟心思阿の開基という。谷汲山美濃寺の観音堂が天文年間に建立されたとするのは、明治初年に美濃寺を管理することとなった光明寺の影響かと思われる。
最後に、竹子山宝蔵寺の本尊・千手観音にまつわる伝承を付け加えておく。
時頼に開山を命ぜられた了浄(本蓮社願誉)は、撥畑周辺の山林竹林を伐り払い、田畑を拓らき稲を植え野菜を作り、幾年経過した。ある年の秋のこと、よく晴れた朝、了浄は、ほど近い田の畔に積んである稲の上にまぶしく光り輝くものを見た。何であろうかと、恐る恐ると近づいて見ると、それは、まぎれもなく千手観音の尊像であった。朝の光に映えおごそかに輝き給う尊像、余りの尊さに、ひれ伏しておがみまつり、堂の中へと還しまつったのである。
そして、朝暮礼拝怠らず数日を経たある夜のこと、この菩薩が了浄の夢枕にあらわれた。そして、遠く信濃の国戸隠から飛来し給うたことを告げられたのである。不思議なお告げに了浄は、是非ともその由来を尋ねたいと思い、仕度を整え戸隠参詣の旅に出立した。そして、その道々一人の白髪の老人に出遇った。老人は問ず語りに次のような話をした。「戸隠山では開山、手力雄命の守り本尊として、石でもない岩でもない不思議な固い塊(朱の塊)を宝物として大事にしてきた。幾世代か後に至って、善光寺の本尊が信濃に移り伽藍仏具を建造の折に一人の仏師に命じてこの不思議な塊をもって千手観音菩薩の尊像を刻ませて奉安した。ところが、この菩薩の尊像が不思議にも「仏法有縁、開発の地に移る」とのお告げ(悪夢)のあと何処へともなく飛び去ってしまわれた。」と語り終ると、老人の姿はかき消す如く見えなくなってしまったのである。

491 華厳寺の十一面観音と水神 風琳堂主人 2002/08/10 00:03

 トカゲさん、小さな謎の周辺からまた新たな謎が数珠つなぎのように派生してくる感のある話です。
 奥美濃の谷汲山華厳寺の北に位置する「後山観音」もまた十一面観音であり、この観音のある谷汲村や、淡墨桜のある根尾村を含む一帯は、根尾川および揖斐川の源流山といえる能郷白山(1617m)への水神信仰がとても強いところです。能郷白山をさらに北にたどると、いわゆる白山が聳えていて、両山ともに泰澄の開山伝承をもっています。
 白山「本地仏」でもある十一面観音の背後の水神的性格は、たとえば泰澄伝承である、「白雉一一(六八二)年、越前国麻生津で生を受け、天平九(七三七)年、疱瘡の流行を十一面観音の法で鎮め、泰澄和尚と号される」ということによく表れています。疱瘡に効験あらたかな十一面観音→白山神ということで、伊豆山神社にも境内社に白山権現→白山神社がまつられています。
 特別な水神は、その霊水によって疱瘡を無化する、あるいは清めることができるという、禊ぎ=身削ぎ(=瘡削ぎ)、あるいは祓い清める性格をもっていると信じられていたようです。この水神の霊水は、疱瘡のほかにも眼病に効くということで、よく「眼の神様」にもなります。
 また、この水神は、その水の霊力によって、たとえば雨乞いの神ともなります。その雨乞いの神が仏に転じたものが、谷汲村の「弁寿利様」(「雨乞いの仏」)なのでしょう。
「西国三十三ヵ寺は、養老二年(七一八)大和の長谷寺の得道上人によって創められたといい、谷汲山華厳寺は、寛和二(九八六)年、花山法皇により西国三十三番札所の満願所と定められる」──長谷寺は三輪山の水神を観音化したものとおもわれますが、花山法皇によって華厳寺が「西国三十三番札所の満願所」とされたとしますと、華厳寺の十一面観音は、花山にとっても特別の「観音」だったということなのでしょう。
 この花山と水(神)の関係伝承をもつ「念仏池」というのが、谷汲村名礼にあります。この池の前の道を北へ行くと谷汲山(華厳寺)へ、分岐の道を西へ行くと花長(上)神社に出ます。花長神社への古い道標の案内石がここに立っています。

■花山ゆかりの念仏池
 花山法皇が西国三十三番を巡拝せられた時、谷汲山に詣られ、帰り道で当所に休んで念仏を唱えられていると、その地から水が湧きでてきました。そして法皇の念仏に仏・仏[仏に傍点]を和しました。この故事により念仏池と呼び、その中に地蔵様を祀るお堂を造りました。
 現在も部落民は毎年八月地蔵様のお祭りを行っています。
 渇水時もこの池の水は満々と湛えられていて農業用水に利用されています。(案内板)

 花山は谷汲山に「満願」の巡礼を果たしたあと、この「念仏池」の水を湧出させたというのです。(水神が)「法皇の念仏に仏・仏[仏に傍点…「ブツブツ」と水が湧き出す泡の音をかけたものとおもわれる]を和しました」という伝承が語るのは、谷汲村の水神と花山の「満願」の唱和ということなのかもしれませんが、それにしても、花山はこの谷汲の地で、まるで空海であってもおかしくない、水にまつわる「故事」を遺したものです。
 花山法皇が西国三十三ヶ寺の「満願寺」として谷汲山華厳寺を定めたとしますと、この寺の本尊=十一面観音の背後の水神は、花山にとって、そうとうに強く意識されていたことが想像されます。くりかえしますけど、花山は那智の滝神を確実に知っていたものと考えられますので、一番=那智、三十三番=谷汲という設定は、その過程の三十一ヶ寺が水神→観音の霊地であるかどうかはともかくとして、その最初と最後の地が、水神=瀬織津姫(←ミカツヒメ)をまつる地であることはとても大きな意味をもっているとみることができます。
 この奥美濃の地は、白山神の信仰圏にあり、ここに出雲の滝神・水神である甕神=天甕津日女が流浪鎮座しています。そして、ここに継体天皇隠棲と桜=淡墨桜植樹の伝承が重なっています。根尾村の白山神社の「宝印」に記されていた「白山皇正一位花長神社」が証言するように、出雲神と白山神は「皇[すめら]」神として認知されていたのでした。
 皇神としての水神は、伊勢の元神である瀬織津姫一神以外には考えられず、それが出雲と谷汲の地にみられること、および、この奥美濃と三河から東北の地とも関係づけられることは、実に広範囲にわたる水神信仰のベースがあったとみるしかありません。華厳寺の十一面観音と会津(福島県)の関係伝承もそうですし、谷汲村の後山観音(=十一面観音)と塩釜(宮城県)も、「時は、桓武の時代、場所は奥州塩釜で結ばれた」そうですから。
 また、三河の谷汲山美濃寺の「願誉上人」が開いたとされる竹子山宝蔵寺(新潟県北魚沼郡堀之内町)ですが、ここは、田河川(魚野川支流で、合流部=<川合>の地名は「桜又」)の上流部にあり、十二山神社の神宮寺でもあるようです。社名の「十二山」は熊野十二所権現に擬したものでしょう(田河川下流域には熊野宮もあります)。熊野神と白山神が同神である可能性については、根尾村の白山神社が「熊野白山権現」とも呼ばれていたことからもいえそうです(根尾村史)。
 魚野川沿いには、ここにも瀬織津姫の名が確認できます(桐原石部神社境内社・五社神社…北魚沼郡川口町)が、魚野川と信濃川の合流部には、延喜式内社で、その名も川合神社(祭神:天水速女命、[相殿]武甕槌命)もあります(北魚沼郡川口町)。信濃川─魚野川の合流部にまつられる天水速女という女神がどんな水神かはここで断言することはできませんけど、これも背後に瀬織津姫を隠している可能性はとても高いといわざるをえません。
 会津高田町の伊佐須美神社(境内に薄墨桜の古木)には宮川の水神(伊佐須美大神)が、宮城・塩釜の鹽竈神社には地主神としての志波彦・志波姫がみられるかとおもいます(志波姫=伊豆比売の話は囲炉裏夜話301「日高見川=北上川の水神」ほか参照)。そして信濃「川合神社」の天水速女も明らかに水神ですし、三河の豊川にも水神「瑠璃の壺神」あるいは「出雲大天女」の伝承があるわけです。花長神と白山神と熊野神と出雲神はもともと一神の水神であり、それを「神秘」「深秘」したかたちでの変身仏が十一面観音とみることができます。いいかえれば、この奥美濃の地で、出雲神と熊野神(那智神)と白山神が重層し、そこに秘められた水神が習合仏化されたものとして、「十一面観音」が確認できるわけです。
 谷汲山華厳寺の「中興の祖・道破捨穀上人」は、その法名がまたふるっていますけど、この上人ゆかりの「雨乞いの仏」=弁寿利様は、雨乞いのときに「弁寿利様の顔に化粧をした後、竹の輿に乗せ、弁寿利淵まで運び、弁寿利様を淵に投げ入れ、下帯姿の若い衆が、淵の中に飛び込み弁寿利様に水を浴びせ雨乞いを祈った」とされます。根尾川の「根尾」は「丹生」からきたものという指摘をしていたのは牧野和春さんでした(『桜伝奇』)。弁寿利様の「化粧」=白粉のことを考えますと、根尾川流域には「水銀」の産地のイメージもだぶってくるようです(ベンズリ=紅刷りの可能性を指摘していたのはトカゲさんでした)。
 あと、北魚沼郡・竹子山宝蔵寺の千手観音(十一面千手観音でしょう)の元は信州戸隠の地にあったとされます(「仏法有縁、開発の地に移る」)。この山号の「竹子山」は筑後山を意味するものとしますと、熊野神降臨伝承をもつ英彦山(元は彦山)も関係があるのかもしれません。彦山→弥彦山(新潟県)開山伝承をもつのも泰澄であることからも、無縁でない可能性がみえてきます。弥彦山には、瀬織津姫の名は出していないようですが、「祓戸神社」が単独社としてまつられています。
 十一面観音と水神──その要所要所の地に瀬織津姫の影が色濃く投影されていることは、おそらく、偶然のことではないとみるべきでしょう。奥美濃の華厳寺の十一面観音は絶対秘仏の感があるようで、まったく謎めいています。この闇の十一面観音はなぜ公開されないのか──。この秘仏の絶対性はほんとうなのか、もしほんとうなら、その理由はなんなのか──機会があったら、ぜひ寺に尋ねてみたいものです。

492 竹生島と伊豆諸島 kokoro 2002/08/15 23:59

8月5日> 琵琶湖と伊豆の関係ですが、これは三河(新城市うでこき山)の伝承──つまり琵琶湖の土をもっていって積み上げると富士山となったという伝承と関係があるのかもしれません。琵琶湖の神と富士山の神は同質神あるいは関係神であることを伝える伝承という気がしています。

 これは私も感じたことです。以下、伝承面から近江と伊豆の関係を考証してみます。
 富士山には、『帝王編念記』の浅井岡(=浅井岳)と同型の説話が伝わっています。

★「駿河の足高山(※現在の愛鷹山)は、大むかし、もろこしという国から、富士山と背比べをしに渡ってきた。ところが、足柄山の明神が、生意気だと言って足で蹴崩したので、尾を引いた大きな山であるにもかかわらず、山の頭がなく低いといわれている。その山のかけら集めて海岸に陸を造った。浮島ヶ原がそれ。(『神話伝説辞典』P447)」

★「伊豆の下田に、下田富士と呼ばれる小さな山がある。まだ天城山が出来なかった遠い昔、この下田の富士と駿河の富士は姉妹富士であった。ところが、姉の下田富士よりも、妹の駿河の富士のほうが器量が良いために、人々は駿河の富士だけをほめ、姉の下田の富士のほうは見向きもしなかった。しっとの心をおこした姉の下田の富士は、とうとう伊豆半島の一番南のはしに隠れてしまった。そして真ん中に天城山という高い山を、びょうぶのかわりに立ててしまった。
 ところが、姉思いの駿河の富士は、姉恋しさに毎日毎日背のびをしていたので、ついに今のような高い山になってしまった。
 さて、こうして姉の下田の富士よりも、妹の駿河の富士のほうが背が高くなったという話が、全国に広まると、我も我もと、富士山とたけくらべをする山がやって来た。最初に津軽の富士が来たが負けてしまった。次に来た八丈富士も、磐梯山も負けてしまった。隣の甲斐駒・白根山・信濃の北岳もそろってやって来たが、これらの山々も全部負けてしまった。
 さて、このことをはるばると伝え聞いたのが、海の向こうのもろこしの国にいたあの愛鷹山(※足高山の現在名)である。これを知ると私も一度日本の富士山と背をくらべてみようと、海を渡って駿河の国に来た。そして富士山のすぐとなりに立って背くらべをしたが、あと少しというところで愛鷹山も負けてしまった。
 すると富士の神様がたいへん怒って、「海を渡ってまで、この私と背くらべにくるとはなんとなまいきな奴だ」と愛鷹の頂上をけとばしてしまった。
 それで愛鷹山は頂上がくずれてしまい、どこが頂上かわからなくなってしまった。この時けとばされた愛鷹山の頂上は、遠くへ飛んでいって相模湾に落ち、大きな島になった。これが伊豆大島だといわれている。その大島は富士山のあまりにひどいしうちに怒って、頭から煙や火を噴き出した。これが三原山になったといわれる。(蹴飛ばした頂が浮島になったという話もあります。)『愛鷹山エンサイクロペディア』サイトhttp://www6.shizuokanet.ne.jp/usr/ichirow/shinko&meisyou.htm#shinkou&meisyouより」

 こうした山の背比べ′^の説話は、わが国各地にみられ、比較的ありふれたものです(例えばそれは、三河の本宮山と石巻山にも伝わっています)。したがって、このタイプのそれが、浅井岡と富士山の双方に伝わっているとしても、単なる偶然かも知れません。が、『帝王編念記』に見られる浅井岡の記事は、古風土記の逸文ともいわれ、同型の説話群中でも、最も古いものとされます。この記事は、事例の多いこの種の説話において、古さのメルクマールです。
 富士山の説話と浅井岡のそれを比較します。山同士が背比べをし、勝負をいどんだ方が負ける、というあらすじのほか、以下のような共通項がみられます。
 @.切断されたり、蹴崩されたりした山の破片が、水中に落下して陸地になること。特に島になること。
 A.説話の中に山が3っ登場すること。
 @は、浅井岡の物語と富士山のそれとの顕著な共通項です。今、柳田国男の『日本の伝説』等で各地の山の背比べ型説話を検証しても、この点が共通するものは他にないようでした。
 Aは、上記富士山の説話に、富士山、足高山、足柄山の三山(あるいは、富士山、下田富士、足高山の三山)が登場するのに対し、『帝王編念記』にある浅井岡の物語にも、浅井岡、伊吹山(=夷服岳)、久恵峯の三山が登場することを指しています。後者のうち、久恵峯について『帝王編念記』は、伊吹山の神の姉である比佐志比女命が在るというだけで、浅井岡の物語ととくだんの関係があるような書き方をしていません。したがって、Aにはあまり深い意味はない感じもします。しかしながら、ここで大和の香具・畝傍・耳成の三山がつま争いをした伝承も、3っの山の物語であったことが想起されます。この説話は、『播磨国風土記』等にも記事のあることから、明らかに古い伝承です。あるいは、上代において語られていた、あれらの山同士の争いは、本来、三角関係の物語ではなかったでしょうか。とすれば、久恵峯にも本来、説話上で果たすべき何らかの役割があったのが、『帝王編念記』ではその部分が脱落を起こした可能性があります。
 いずれにせよ、こうしてみると上記した富士山の説話は、浅井岡の伝承と共通する部分を多く含み、したがって浅井岡のそれと同じく、同型の説話群中でも古い部類に入るようです。そうして、そのような古型を保っていると思われる伝承が、我が国の中でも琵琶湖と富士山とに伝わっているとすれば、それは単なる偶然を越えて、両地方に何らかの繋がりがあったことを示唆していないでしょうか。
 ここで、もう少し伝承を検討します。伊豆半島の付け根に鎮座する三島大社の現祭神は、大山祗命であるとか、事代主命であるとされます。しかしながら、これは伊予三島に鎮座する大山祗神社の祭神から附会されたものであり、本来の三島大社の祭神は、伊豆諸島を神格化した神、あるいは伊豆諸島の噴火・造島をつかさどる神であったといわれます。つまりこの神社は、都久夫須麻神社と同じく、島にまつわる祭神を祀った神社なのです。とすれば、都久夫須麻神社の祭祀が『帝王編念記』にある浅井岡の記事と関係があったように、三島大社のそれも上記した富士山の伝承と関係がなかったでしょうか。
 この伝承は三島大社の祭祀と関係がある、として話を進めます。足高山はもろこしという国から渡来しました。鎌倉時代の成立らしい『三宅記』によれば、三島大社の祭神は本来、三宅島に鎮座していたものが、後になって加茂郡白浜の地に、后神の伊古奈比め(※「め」は、「口」偏に「羊」)命とともに上陸したとされます。また、天武紀13年10月条には、伊豆で火山活動により多くの島々が誕生したとあります。こうした新たな島の誕生や、三島大社の祭神が三宅島から上陸してきたこと等の説話化が、海を渡っての山の来訪ではなかったでしょうか。なお、太平洋側にそびえる富士山に、もろこしから来訪があるのはおかしいのですが、三島大社の現祭神である大山祗命が、渡来系の神らしいことの反映かも知れません。
 総合すると、琵琶湖と伊豆地方には、山の背比べ型説話の古型と思われる伝承が双方に伝わっており、さらにこの伝承との繋がりが感じられる、島を神体視した古い神社がそれぞれ鎮座しているのです。とすれば、琵琶湖の神と富士山の神が同質神、あるいは関係神であるとして、しかし両者の関わりは無媒介的なものではなく、「島」、あるいは「島に関わる神社祭祀」を介して繋がっているように思われます。
 その場合、深い意味を帯びてくるのが、8月5日『琵琶湖と淡海公』のカキコで紹介した、湖北町海老江に鎮座する小江神社の社伝です。

「聖武天皇の天平十三年伊豆三島大明神を当地の三島の地(※当社の鎮座地の字名という)に奉祀したと伝えられており、聖武天皇竹生島に国家安泰を祈念のため参籠されたとき光明皇后この間当地の光明山に逗留され、当社に鈴一個を寄進された。天正年間大火災により多くの社宝とともにこの鈴も焼失した。社の西方小江浜に御旅所があり毎年正月の御輿途御には鈴の舞をもって始まったという。<後略>『志賀県神社誌』P509」

 小江神社は伊香郡の式内小社、小江神社の論社であり(『式内社調査報告』の論社C)、その御旅所がある小江浜は当社の古社地で、現在でも湖中の砂州上に神社のものらしき石垣や礎石が残るそうです。以前、カキコしたように現・都久夫須麻神社のほぼ真東には五社神社という神社があり、当社は沖合の竹生島に鎮座する都久夫須麻神社を、湖岸から祭祀していたようです。私は上記の社伝から、小江神社もまた湖岸から竹生島を祭祀する神社であったように考えていますが、だとすればここには、琵琶湖(の島)の神と三島神が、島を介して同質であることが、端的に現れているように思われます。

☆ 琵琶湖沿岸の神社には、三島大社や伊豆地方と繋がりのあるものが多く、何か理由があると思っていましたが、上記のような考えから、どうやら都久夫須麻神社の祭祀と関係がありそうです。そのような神社としては、上記の小江神社の他に、@和泉神社(湖北町上山田)、A伊豆神社(湖北町速水)、B三島神社(浅井町寺師)、C箕嶋神社(安曇川町三尾里)、D伊豆神社(大津市本堅田町)等があります。このなかでも、私は@とCに注目しています。@には素晴らしい湧水があります。

493 島神への畏敬 風琳堂主人 2002/08/18 06:25

 kokoroさん、浅井岳(岡)と伊吹山=夷服岳の背比べの類話が富士山と愛鷹山=足高山にもみられるというのは興味深いです。
 琵琶湖と伊豆の関係を直結して語るにはむずかしく、やはり媒介とする項目を必要としているようです。その項目の一つが、たとえば、おっしゃるように「『島』あるいは『島に関わる神社祭祀』を介して繋がっている」という認識になるかとおもいます。これは、いいかえれば、古代の人々にとって「島神」とはなにかという問いにもなります。
 三河が賀茂の「御河」からきたものにならっていえば、三島大社の三島は、これも「御島」という尊称からきたものでしょう。伊豆半島にとって、御島神→三島神は、ではどこからやってきたのかということで伝えられるのが、「伊豆三島神社発祥の地」とされる三宅島の富賀[とが]神社=阿米都和気命神社ですね。ここの祭神は現在、三島大明神=阿米都和気命と伊古奈比当スとされ、やはり男女対神の祭祀がみられます。あるいは伊豆七島の神津島の阿波命神社における、祭神の「阿波当ス」が「此島に坐す阿波神は是三島大社の本后也」(続日本後紀)とされるように、ここにも対神の伝承がみられます(「阿波神」はアンバサマでもあることが考えられます)。
 三島大明神の本后か愛人后かといった差異は、少なくとも神を語るレベルにおいてはまったく意味をなさないとみるべきで、これらの女神は異称同神とみるほうがおそらく健康的でしょう。
 三島大明神と伊古奈比唐ニいう対神が伊豆半島へ渡った、上陸したとされる白浜の地にあるのが、いわゆる延喜式内社かつ明神大社とされる伊古奈比当ス神社(通称:白浜神社)ですが、では、三島大明神たちは、その後、どういった経路を経て三島=三嶋大社へと移動したのかということで、これもとても興味深い伝承「口碑」がありますので引用します(出典は内海邦彦『わが悠遠の瀬織津比刀xにおける李沂東『高天原は朝鮮か』の一文)。

■三嶋神と瀬織津比
 三嶋神は伊豆白浜に上陸し鎮座したが、やがてその後、中伊豆の発展にともない、伊豆田方郡大仁町田京の広瀬神社のあたりへ勧請されて来て、ここに何百年か鎮座していたようである。大仁町田京の口碑によれば、
「三嶋明神は牛の背に乗って移ってこられた」
と伝承されており、広瀬神社には三嶋明神と最も関係の深い瀬織津比唐ェ祭られている。

 広瀬神が瀬織津姫であることは、奈良の広瀬神社(大社)の神がもともと大忌神=瀬織津姫であったことによってもいえるものとおもいますが、現在の伊豆・広瀬神社からは、伊豆山神社同様、その名は消えて=消されています(広瀬神社の現祭神は三嶋溝杙姫命)。
 李さんの原典を確認していませんが、「三嶋明神と最も関係の深い瀬織津比刀vという「口碑」があることはとても大事な証言というべきでしょう。また、「三嶋明神は牛の背に乗って移ってこられた」という伝承が表すのは、この男神は農耕神であったということでしょうし、それが海を渡ってくるわけですから、海洋農耕の民がまつる神であったともいえそうです。
 内海さんは三嶋大社の神官の言葉として、かつて三嶋大社のなかに広瀬神社がまつられていたが、現在は境外の公園「楽寿園」に遷されていると書いています(『わが悠遠の瀬織津比刀x)。楽寿園は富士山の伏流水が湧き出す地で、そこの池の小島に広瀬神社がまつられています。
 島の規模はともかくとして、かつての島神祭祀の流れはあるとみることもできます。また、広瀬神=瀬織津姫としますと、瀬織津姫の水神的性格は湧水の地にまつられることも無理がないと一応はいえますが、もともと三嶋神との対神としますと、三嶋大社の主祭神(の一神)としてまつられるのが本道のはずですから、そこから境外へと遷ったというのは、これも鹿島神宮の御手洗神=瀬織津姫が同社神域内から消去されたこととも通ずるようにおもわれます。ちなみに、鹿島神宮の御手洗池の対面に現在まつられている大国社(祭神:大国主命)ですが、ここの小さな看板案内には「旧六月三十日の夕祓に西瓜を献饌して参拝する社です」とあります。「六月三十日」は大祓の定例日で、この日の「夕祓」に、この鹿島の出雲神は「西瓜」をいただくとのことです。大祓神=瀬織津姫=御手洗神は鹿島神域から消去され、その代わりに御手洗池には大国社がまつられたことが考えられます。これまでの囲炉裏夜話の話から、わたしたちは出雲大神としての瀬織津姫の可能性も明かしつつありますから、こういった鹿島神宮の祭祀の現状に、水神に西瓜を献ずるという「せめても」という気持ち、いいかえれば、消した神=瀬織津姫に対する畏敬慰撫の意を読み取ることもできます。
 話をもどします。
 琵琶湖において山の頂き=首を刎ねられた浅井姫でしたが、それに該当するのが、ここ伊豆の地では愛鷹山とのこと──。としますと、愛鷹山の神とはなにかという問いが生じてくるのは自然です。
 愛鷹神社は式内社の桃沢神社とされます。詳しい由緒は不明のようですが、愛鷹山頂上の神は建御名方命と愛鷹大神とされ、この「愛鷹大神」はそれ以上に語られることはないものの、建御名方と対神の構成をとっていることは注意すべき表示かとおもいます。ここで諏訪神としての建御名方と諏訪湖の水神=女神についての話はくりかえしませんけど、この愛鷹=桃沢神社の祭神構成を頭において、眼を琵琶湖へ移してみます。
 kokoroさんの指摘──、つまり、竹生島=都久夫須麻神社(宗像神)の祭祀と関係がある社は、「小江神社の他に、@和泉神社(湖北町上山田)、A伊豆神社(湖北町速水)、B三島神社(浅井町寺師)、C箕嶋神社(安曇川町三尾里)、D伊豆神社(大津市本堅田町)」とのことです。
 このうち、小江神社と箕嶋[みしま]神社は現祭神を事代主命としていて、これは伊豆三嶋神社=三嶋大社と同神でもあります。その他の伊豆神社二社および和泉神社の現祭神名は未確認ですけど、伊豆大神=瀬織津姫の仮説をここで応用できるとするなら、残りの和泉神社もその社名から水神をまつる、つまり瀬織津姫をまつる社であることは想像可能でしょう(「@には素晴らしい湧水があります」)。
 この和泉神社の鎮座地にみられる「湧水」ということで連想できる神社があります。それは、「湧き水に富む村」の意をもつのが「湯次[ゆすき]」だと述べていた、その名も湯次神社です(読み方は「ゆつぎ」。浅井町大路および同町湯次に二社あり)。
 湯次神社は延喜式内社でもありますが、その論社の両湯次神社の祭神に瀬織津姫の名が確認できます。しかも興味深いことは、瀬織津姫の対神が、ここでは建御名方神(命)とされていることです。ここから諏訪湖の謎の水神(現表示は八坂刀売)へとたどることも可能でしょうが、丹波の民話が諏訪の水神=女神を瀬織津姫と明かしていたことを指摘するにとどめます。
 伊豆における伝承「口碑」をここに重ねますと、瀬織津姫はまず「三嶋明神と最も関係の深い」神であり、また、諏訪神=建御名方神との配偶神でもあるという奇妙なことになってきました。瀬織津姫はそもそも伊勢の元神である海洋農耕神かつ男性の太陽神である天照[あまてる]大神との対神です。瀬織津姫に、こういった多情関係が成立しないこと、いいかえれば、瀬織津姫という神の「貞操」を信じるとすれば、事代主神も建御名方神も、男神・天照大神の異称神であった可能性を考えるべきだとなります。
 ところで、島神の祖型を、玄界灘の沖ノ島と大島、つまり宗像神にみるとしますと、宗像の女神が三神化されたと同時に、宗像の男神もその名を消去された、あるいは変名化されたことが考えられてきます。ムナカタの音はミナカタとも通じますから、これはストレートに建御名方神に反映しているのかもしれません。
 事代主神については、実際のところ、記紀の国譲り神話に登場するものの、肝心の『出雲国風土記』には、その名は一切出てこない記紀オリジナルの創作神だということがあります。ただし、事代主が、古事記(712年)の国譲りの創作を承けて、出雲側の文献として刻印されるものに、出雲国造神賀詞があります。同神賀詞において、事代主は、大穴持によって「皇孫の近き守り神」として天皇に献上される姿が描かれています。しかし、この出雲国造神賀詞の表現は、中臣祓=大祓祝詞の思想を踏襲したもので、中央に媚びる表現ではあっても、出雲側のオリジナリティーは皆無です。出雲国造神賀詞(716年)で、事代主が天皇の守護神と設定されたことを継承したのが、日本書紀(720年)の神代巻「一書第一」、つまり、大物主神とともに高皇産霊に服属の誓いをさせられる表現とみることができます。また、事代主は、書紀における神功皇后条においては、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと](=瀬織津姫)が筆頭の「祟り神」として描かれていましたが、そのあとに登場する神でもありました(このときの事代主のフルネームは「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神[あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ]」とされ、コトシロヌシもまた厳神[いつかみ]とみられていたことがわかります)。これなども、両神の類縁性を語るものというべきかもしれません。
 大祓祝詞→古事記→出雲国造神賀詞→日本書紀という、これら一連のヤマトによる自己正当化の神話・歴史創作は、日本「建国」の命運を賭けた、最大級の国家プロジェクトの作業でした。これは、天皇譜の確定と、その前章というべき神々の系譜と舞台の確定という意図、つまり、「八百万」の神々を衛星群として、その中心=恒星は伊勢神宮=アマテラスとするという神々の等級の確定をも意味していました。当時の知の粋を集めて記紀は編纂+創作されたわけですが、これらは、その歴史創作とともに、アマテラス創作の秘密を明かす神々の元名の消去・分散・変名といった作業に、多くの時間が費やされたことが、上記関連書の成立時間の幅によく表れています(約半世紀──大祓祝詞の初期創作=669年〜日本書紀=720年)。
 島神=宗像神は、皇祖神の祖型神でもありました。宗像神は「道主貴」という導き・先導の神でもありましたから、こういった性格をもった男神として創作されたのが猿田彦でもありました。舞台を琵琶湖に絞りますと、この猿田彦が琵琶湖の重要な男神としてまつられるのが白鬚神社であることがみえてきます。

■白鬚神社由緒
[鎮座地] 滋賀県高島郡高島町大字鵜川
[御祭神] 猿田彦命(猿田彦大神) 別社名(白鬚明神、比良明神)
[由緒略記]
 古代の鎮祭創建に始まると言われているが、垂仁天皇(第十一代 今から一千九百年前)二十五年、皇女倭姫命により社殿を再建され、天武天皇(第四十代)白皇三年(白鳳之甲戊午)勅旨を以て比良明神の号を賜う。後、たびたび改造され現在の建造物(本殿、鳥居、境内社、伊勢両宮、八幡三所、若宮等)は慶長八年(約四百年前)豊太閤の遺命により、豊臣秀頼公が片桐且元を奉行として御再興(御朱印社領一万石)ありたるものなり。〔中略〕
 御社殿後方の山陵を天の岩戸と称し祭神縁申の古墳である。
 世に猿田彦神を白鬚の老翁にたとえるのは、本社の社名による。〔中略〕
 当神社は近江最古の大社であり、古くから御社名の示す如く延命長寿白鬚の神として、又縁結び、子授け、福徳開運、攘災招福、商売繁昌、など人の世の営みや業ごとの総てを先導され、殊に海上と言わず、陸上と言わず、交通の安全の導きには深遠なる御神徳を垂れさせ給ひ、世人からあつい信仰の誠が捧げられています。〔中略〕
 御祭神は、この広大な御神徳を普く伝えられ、古くから皇室及び貴顕、武将等の崇敬は極めて厚く、北は北海道、西は九州隠岐[ママ]の島々に至る迄多くの御分霊が奉斎(現在判明しているもの百五十社以上)せられている。
「近畿の厳島」と称せられ、山紫水明の社頭には、京阪神、岐阜、福井をはじめ全国各地から多数の崇敬者が熱心なる信仰を捧げて、年中絡繹としてその跡を断たないのであります。

 白鬚神社は、「近江最古の大社」とあります。しかし、これほどの「由緒」がありながら、同社は、なぜか延喜式内社としての登録からは除外されていました。その理由を一概に明かすことはむずかしいですが、ここが、伊勢の元神かつ男神の太陽神をまつる社であったこと、および、「近畿の厳島」という一般認識に象徴されますように、宗像神の匂いを残していたことがその理由の一端かもしれません。
 白鬚神社が宗像神と無縁でないことは、ここの本殿前の鳥居が湖岸水中に立てられていることが厳島と似ているということだけではなく、本殿─鳥居の正面が、沖島、つまり、あの不比等が712年に「勅命」によって創建したとされる奥津島(沖津嶋)神社と対面していることに端的に表れています。
 猿田彦神は伊勢の元神というばかりでなく、沖島の神(宗像の女神)と対面する関係にある神であることを、この琵琶湖の白鬚神社は告げているとみることができます。中臣=藤原祭祀の思想にとって、宗像神は三女神以外であってはならず、それらの総称神が瀬織津姫であることはタブーであり、ましてや、その対神の宗像男神の存在も、絶対タブーの神であったことが考えられます。
 瀬織津姫とともに大祓祝詞に封印された気吹戸主(伊勢外宮多賀宮神であり、かつて荒祭宮に瀬織津姫とともにまつられていた)は、これも、大歳神や猿田彦神ともども、まだ仮の神名です。これらは、いずれも男神の太陽神の異名でしたが、その異名に、これまでみてきた建御名方や事代主なども足すことができます。
 記紀神話の創作は、かくも多くの神名を創作することでもありましたが、それは、天孫降臨神話創作前の、先住の中心の日神と水神をどのように隠すかという一点の志向によってなされたものであった可能性がとても高いとみるしかありません。
 日神の多名変名化がなされたように、水神もまた同様のことがなされたはずで、それはまず宗像の女神の三神化の創作からはじまり、その派生潭として、木花開耶姫と磐長姫という美醜の象徴的な女神の分化創作もあったことが考えられます。両神がおうおうにして瀬織津姫祭祀を隠祭するかたちでの神名として登場してきますが、この二女神には、たんに美醜神ということ以上の性格を読み取ることも可能かとおもいます。
 たとえば、古事記における磐長姫がどういった性格表現がなされていたか、です。醜い女神というイメージは書紀の表現でしたが、古事記においては、磐長姫(表記は石長比売)は「甚凶醜」というとても強い表現がなされていました。ここには禍々しい醜さといった意が込められていますけど、その対極をなす木花開耶姫という構図は、遡れば、イザナギの禊ぎ祓いのときの誕生神として描かれていた大禍津日神/八十禍津日神と神直毘神/大直毘神という対極の構図(その総称神が伊豆能売神)に、磐長姫と木花開耶姫の象徴対比に関わる、遡源の表現をみることができます。
 伊勢の地主神=水神を曖昧化するときに、なぜ磐長姫=苔虫神が使用されるのか、あるいは、サクナダリ=桜谷の神は瀬織津姫でありますが、それが、たとえば福岡・糸島半島の桜谷神社においては磐長姫と木花開耶姫とされるのか──。また、琵琶湖において、竹生島の西岸に位置する阿志都彌神社(現在:行過天満宮)は「桜花大明神」の異名をもっていますが、ここは葦津姫=木花開耶姫とされています(今津町今津)。岩手の桜松神社においては、桜神は明確に瀬織津姫であることを、その鎮座伝承は告げています。水神の化身としての桜についてはすでにふれましたが、ただの美神=木花開耶姫は、瀬織津姫の美神としてのイメージを空疎に突出化したものとみることもできるのではないかと考えられます。同様に、瀬織津姫の祟り神=禍神という性格を突出化させたものが磐長姫ではないかということが考えられます。
 これらのやや強引にみえる解釈は、伊勢の元神の封印・変質化といった意図が記紀創作の根にあるところまで想像の視線を落としてみていえることなのですが、今はまだ仮説の段階であることをいっておきます(福岡の桜谷神社が明かされるときにはっきりするはずとおもっています)。
 さて、kokoroさん紹介の、駿河富士と下田富士の美醜神の民潭ですが、これは、美神=妹神、醜神=姉神という姉妹関係において、また、現在、富士山の神が木花開耶姫とされることにおいて、確実に記紀の美醜神の神話を下敷きにしています。伊豆半島には、「凶醜」神とされる磐長姫をまつる神社がたしかに散見されます(式内社のレベルで拾いだしますと、姫宮神社【祭神名:伊波比当ス、事代主命、誉田別命】あるいは伊波乃比当ス神社【現在:浅間神社 祭神名:磐長姫尊】)。姉思いの妹神が下田富士を気遣っていつのまにか背が高くなり、その後、各地の山々が背比べにやってきてみな負けてしまい、最後に「もろこしの国」の愛鷹山がやってきて背比べを挑んだがこれも負けてしまう──この一連の話からいえることは、富士山が風土記時代までは「荒ぶる神」の山であったものが、「日本一」という国家承認の山へと変貌していくさまが寓意されているように読めます。
 愛鷹山の蹴飛ばされた頂き部分が飛んでいって浮島あるいは伊豆大島となったとされるわけですが、ここには、愛鷹大神と伊豆大島の神との関連が語られているのかもしれません。伊豆大島には伊豆山神社の走湯神=熊野神が鎮座していたことが『田方郡誌』に書かれていました。
 愛鷹大神が瀬織津姫であるとしますと、琵琶湖─伊豆─熊野、そして宗像と、ばらばらにみえていた個別の祭祀が大きな関連の環を構成していることがみえてきます。
 島神祭祀ということでいえば、三宅島が端的に語っていましたけど、やはり男女二神の祭祀が基本型ではなかったかと考えられます。宗像ひとりが例外であるとはおもえません。

494 ご無沙汰です! GOTO 2002/08/19 10:14

ご主人殿

しばらくロムっていましたが、
夏休みを利用して屋久島と種子島に行ってまいりました。
瀬織津姫の面影を探してみたのですが…

屋久島では益救神社、種子島では宝満神社と、
島で最古といわれる御社に行ってみました。
南方系の御社らしく、かなり風通しの良いオープンな
作りになっておりました。
大鳥居にダランとかけられた大しめ縄も私にとっては
初めて見るもので興味深かったです。

屋久島は滝で有名ですから、期待はしたのですが、
益救神社は主祭神が海彦山彦の山彦さんだそうですね。
ただこの御社も一時廃れたものを再興させたようで
元神さんはよく分からないようですが。

種子島の宝満神社は玉依姫だそうですが、
こちらの玉依姫は赤米を持ち込んだという稲作発祥の
伝説が残されているそうです。
実際に参道を歩くと突当たるのは宝満の池。
この池こそが御神体そのものなのかも、と思いました。

495 尾張富士(大宮浅間神社) ピンクのトカゲ 2002/08/19 17:47

Kokoroさんと風琳堂主人の山の丈比べの話し、各地に山の丈比べの話しがありますが、尾張に「石上げ祭り」という神事があります。
この「石上げ祭り」は、犬山市に鎮座する大宮浅間神社の神事で、石を棒にくくりつけて何人かで担いで大宮浅間神社が鎮座する尾張富士に奉納するというもので、
大宮浅間神社の鎮座する尾張富士と、その南南東にある本宮山との山の丈比べに由来するものです。
大宮浅間神社が鎮座する尾張富士の近くの五郎丸村に八百比丘尼が住んでいたそうです。ある夜、大宮浅間神社の祭神:木花開耶姫命が、八百比丘尼の夢枕に立ち隣の本宮山より背が低いから少しでも高くなるよう小石を積んでくれれば、どんな願いもかなえようというお告げが「石上げ祭り」の起源だそうです。
記紀の創作の目的は、日神の女神化であり、皇祖神アマテラスの創作により、木花開耶姫命、磐長姫の水の女神の二分化が図られます。
Kokoroさんは、「伊豆の下田に、下田富士と呼ばれる小さな山がある。まだ天城山が出来なかった遠い昔、この下田の富士と駿河の富士は姉妹富士であった。ところが、姉の下田富士よりも、妹の駿河の富士のほうが器量が良いために、人々は駿河の富士だけをほめ、姉の下田の富士のほうは見向きもしなかった。しっとの心をおこした姉の下田の富士は、とうとう伊豆半島の一番南のはしに隠れてしまった。そして真ん中に天城山という高い山を、びょうぶのかわりに立ててしまった。ところが、姉思いの駿河の富士は、姉恋しさに毎日毎日背のびをしていたので、ついに今のような高い山になってしまった」という話しを紹介しています。
駿河の富士の祭神は、木花開耶姫命です。
古事記は、木花開耶姫命(古事記の表記は、木花之佐久夜毘賣)について以下のように記しています。
「是、天津日高日子番能邇邇藝能命、笠沙御前に於いて麗しき美人と遇う。誰の娘だと問えば、答えて曰す。大山津見神の娘で、名を神阿多都比賣、亦の名を木花之佐久夜毘と。何時に兄弟はあるかと問えば、我が姉に石長比賣(書紀の表記は、磐長姫)ありと答え曰す。吾れ汝と目合せむと欲うに奈何にと詔れば、僕は得曰ず、僕が父・大山津見神曰せむと答え曰す。故に、その父・大山津見神に乞い遣えし時、大いに歓喜び、その姉・石長比賣を副へ、百取の机代物を持たし奉り出す。故に、その姉は甚だ凶醜に因り見畏みて返し送り、唯、その弟・木花之佐久夜毘賣を留め一宿婚た。ここに大山津見神、石長比賣を返したことに因り、大いに恥じ、曰し送りて言う。我が女を二たり並べ立奉った由は、石長比賣を使えば、天つ神の御子の命は、雪が零り風が吹こうと恒に石の如く、常に動かず坐す。また、木花之佐久夜毘賣を使えば、木の花が榮える如く榮え坐すと誓ひて貢進した。ここに石長比賣を返し、獨り木花之佐久夜毘賣を留めた。故に天つ神の御子の御壽は、木の花のあまひのみ坐す」
神阿多都比賣の「阿多」は、薩摩国阿多郡阿多郷(現鹿児島県加世田市付近)のことといわれ、神阿多都比賣は、阿多隼人の女神であったと考えられます。この話のモチーフは、海照らしやってくる日神と隼人の女神の婚姻譚が基になっており、記紀の女神の二分化により潤色されたものと考えられます。
Kokoroさんの話しも秀麗な妹=駿河の富士(木花開耶姫)と醜姉=下田富士という女神の二分化にをあらわすものです。
尾張富士の話しでは、木花開耶姫が夢枕に立つのは、八百比丘尼ということです。八百比丘尼は、人魚の肉を食べたことにより、不老長寿となり、八百歳まで生きたとされます。
「雪が零り風が吹こうと恒に石の如く、常に動かず坐す」と延命の女神・磐長姫を思わせるものです。
「石上げ祭り」の起源譚で、大宮浅間神社の祭神は、木花開耶姫となっていますが、「張州府志」によれば、「山上に天照大神、熊野権現、伊豆権現、白山権現、鹿嶋明神、山王権現、三島明神、箱根権現及び金剛界大日、胎臓界大日祠殿あり」とされ、現在の祭神は、木花開耶姫と天照大神とされています。
一方、尾張富士と丈比べをした本宮山の西麓には、尾張二宮・大県神社が鎮座する。大県神社は、元々は、本宮山頂に鎮座したといわれ、今は奥の院がある。
山腹には、雨ノ宮社が鎮座し、雨乞いに霊験あらたかだといわれ、また、磐座・御社根磐は、瘡神だとされる。
記紀から抹殺された瀬織津姫は、鎮魂の樹・桜とも関係し、鎮魂=腫れ物を鎮めるから瘡神とも関わる。
古事記の木花開耶姫の逸話でニニギが、笠沙の岬で木花開耶姫と遇ったとするのも、瘡→笠からであろう。
なお、八百比丘尼は、若狭の生まれといわれるが、鳥取県八頭郡には、若桜町と書いて「わかさ町」と読む町名があることを付け加えておく。桜の女神・木花開耶姫と椿を手にした八百比丘尼、伊豆の大島あたりで繋がるのではないだろうか。

496 八百比丘尼と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/08/20 14:38

 GOTOさん、よい夏休みのようでしたね。
 屋久島と種子島に「瀬織津姫の面影」を探す──ですか。ここは南島の圏域に属しますから、瀬織津姫の名はストレートに出てこないかもしれませんが、屋久島が杉と滝の島とすれば、それらに瀬織津姫のスピリットは宿っているようにもおもわれます。「益救神社」という社名の「益救」に、ここの神への氏子の人たちの「思い」がかすかに残っているようです。
 南島ということでいえば、沖縄・首里城のウシトラのところに、「琉球八社」の一つ普天間宮がありますが(宜野湾市)、ここの鍾乳洞は、熊野の「女神」が籠ったところと伝えられています。この宮には、自分の眼で、たしかに先住の水神と熊野神=飛滝権現(那智の滝神)がまつられていることを確認しています。ここに那智滝神がまつられるのは中世のことのようですが、それにしても、瀬織津姫の南端の祭祀であることにはちがいありません(普天間女神は「機織」とも関係があるようです…松山御殿[那覇市首里桃原町])。
 種子島につきましては、朝廷との関係が古くから記録されていますので、ここの宝満神社=玉依姫が、「瀬織津姫の面影」といえばいえそうです。ここの宝満神社の玉依姫が、「赤米」を持ち込んだという「稲作発祥」伝説と関わっていることは興味深いです。宝満神は水分神、つまり水神ですから、ご神体はおっしゃるとおり、参道突き当たりの「宝満の池」なんでしょうね。九州の南端部は、あまり良好な条件ではなくて「東」へ移動したようですが、しかし縄文中期に遡る稲作地であったことが「石斧」の発見とともに語られていました(NHKスペシャルの「日本人のルーツ」に関する番組)。赤米と玉依姫──ちょっとわくわくする話です。

 トカゲさん、尾張富士と本宮山の背比べの話ですが、この尾張富士にも三河の「うでこき山」と同質の話(琵琶湖─富士山の関係話)があるとのこと──HP「石上げ祭り」から引用します。

■尾張富士
 大昔、神様が富士山を作るため、近江から土を両手に持って走る途中、指の間からこぼれた土で出来,近江の土を取った後は、琵琶湖になった。また、神様が近江の土を駿河へ運んで、富士山と琵琶湖を作る時、モッコからこぼれたのだ、とも伝えられている。
 尾張富士は大宮浅間神をまつる。山頂の大宮社とふもとの浅間神社を合祀し、昔は女人禁制の山として信仰を集めていた。
 尾張富士に上る途中に中宮があり、そこから少し行ったところに比丘尼岩(びくにいわ)がある。昔八百比丘尼は頭をそっているから男であるといって、この尾張富士を上り始めた。中宮から少し行ったところで、比丘尼は石に手をついた。すると、手が石に吸いついてとれなくなり、山に登れなかったという。今でも比丘尼の手の跡という岩が残っている。

 八百比丘尼は柿本人麻呂の子・躬都良[みつら]と「恋仲」であった伝承があるようです(隠岐郡五箇村・八百比売神社)。真偽はたしかめようがないのですが、人麻呂がもし藤原祭祀の本質を「知りすぎた男」として不比等によって殺されたとしますと、その子との関係を伝える八百比丘尼が残した各地の足跡地における伝承・伝説が、人麻呂のその死の理由と関わる弔いの旅であった仮説も成り立つかもしれません。あるいは、もっとシンプルに八百比丘尼が熊野比丘尼(那智の比丘尼)の流れを汲む女性とみたとしても、彼女の足跡地には、なぜか瀬織津姫の影がつきまとっているようです。八百比丘尼は、隠岐では、都万村にもその足跡を遺しています。都万村には那智滝や、瀬織津姫をまつる壇鏡神社(壇鏡滝)があります。
 瀬織津姫と関係がありそうだなとおもって滝を歩いていたとき、ときどき滝壷の側に椿がみられ、それがずっと気になっていました。この椿が八百比丘尼と関係があるものだったとしますと、椿もまた、桜とはちがった意味で鎮魂の木だったということになるのかもしれません。
 鈴鹿の椿大神社は祭神を猿田彦大神とし、ここには瀬織津姫を歌った「神歌」も伝えられています。同社は「猿田彦大本宮」を自称し、国津神第一を声高に主張していますが、この主張を支えているのは、伊勢=皇祖神の元神であることを逆手にとった自尊のようにみえます(同社は、ホツマの出版[自由国民社版]にも関わっていましたが、ここは、同じ猿田彦をまつる近江の白鬚神社と比較しますと、権力志向が特に強い、珍しい神社です)。

■椿大神社に伝えられる「五種の神歌」(『椿大神社神拝詞』)
宮川や清き流れの禊にて祈らむ事の叶はぬはなし
橘の伊勢の椿の禊にて今も清むる我が身なりけり
罪咎[つみとが]や御幣[おんべ]の川に祓ふらむ瀬織津姫の神のみいつに
かけ流す大本宮の鈴鹿川千代萬代に罪は残さず
振り鳴らす鈴の響に魂[たま]満ちてみたまのふゆを弥[いや]聞[きこ]し食[め]せ

「橘の伊勢の椿の禊」、「瀬織津姫の神のみいつ」──こういった歌の文句にも、椿と瀬織津姫が無縁でないことが表されているかとおもいます。なお「みいつ」は、漢字で書くと「御稜威」で、「稜威」は「厳」とも通じていきます(「厳神[いつかみ]」=「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の「厳之御魂」としての瀬織津姫です)。
 椿植樹をして歩いた八百比丘尼──。
 この尼さんは丹生都比売神社(伊都郡かつらぎ町)にも足跡を遺しています。本殿正面の池の中の小島に、彼女はなぜか「神鏡」を納めたと伝えられています。八百比丘尼は、人麻呂も知っていたはずの瀬織津姫消去=隠祭のことを、かなり理解していたのではないかという気がしてきます。
 としますと、尾張富士もまた、八百比丘尼ゆかりの比丘尼岩があるように、ここも瀬織津姫を隠祭する山の可能性があります。浅間神社の本社が木花開耶姫としているとき、その数ある分社のなかで、ここ尾張富士=大宮浅間神社ひとりが木花開耶姫と天照大神を併祭していることは特記ものです。本宮山=大県神社は、これも伊勢の元神と同神の太陽神が本来の祭神でしょうから、その本宮山と尾張富士は、もともと筑波山などと同様に男女神の山、対神の山であったとみることもできましょう。
 東名高速を西から走っていって、富士川あたりからみる富士山と愛鷹山は、さながら雛壇の山のようにみえます。愛鷹は足高とも表記されていましたから、愛鷹山=足高山は、富士山の側で高く聳える山、つまり「側高山」でもあるわけです。こう考えますと、香取・側高の地に瀬織津姫がまつられていたこと(「側高神社由緒」)も、理にかなった話だとなります。
 さて、三嶋大社の主祭神は事代主神とも大山祗神ともされるわけですが、後者のオオヤマツミはいうまでもなく木花開耶姫と磐長姫の「父神」とされるというのが記紀の表現でした(もっとも、書紀の木花開耶姫の言葉に、「私は天神[あまつかみ]が、大山祗神を娶[め]とってうまされた子です」(宇治谷孟訳)とありますように、大山祗神が男神でない可能性もあります)。
 このオオヤマツミですが、延暦23年=804年に桓武朝廷に提出した『皇太神宮儀式帳』によりますと、伊勢内宮=皇太神宮の「奥の院」ともされる朝熊(=浅間)神社の前の小朝熊神社(現在の社名は「鏡宮」)の祭神について、「神櫛玉命児大年児桜大刀自、苔虫神、大山罪命子朝熊水神」の三神を記録し、「形石坐[形は石にまします]」ともしています(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』新人物往来社)。
香取神宮の境内にも桜大刀自社がまつられていますが、ここの祭神は桜大刀自=桜神ということなのでしょう、やはり木花開耶姫としていて、香取が記紀を安易に踏襲していることはいうまでもありません。こういった、ある意味一般化されている香取=記紀の表記の異説として、この平安初期の伊勢の『儀式帳』があります。同書は、桜大刀自(木花開耶姫の名は書かれていません)を、記紀が記していたようにオオヤマツミの子ではなく「神櫛玉命大年児」としているだけではなく、苔虫神(=磐長姫)に至ってはその神の系譜を一言も記していません。さらにきわめつけは、オオヤマツミ=「大山罪命」の子は、上記二神とは異神であろう「朝熊水神」と明記していることです。
 この伊勢神宮側の古資料によっても、木花開耶姫、磐長姫の出自は安易に決めてかかることができないことがわかります(朝熊水神が瀬織津姫の異称である可能性については『エミシの国の女神』を参照ください)。
 それにしても、オオヤマツミのツミを「罪」と表記していることには、どんな意が込められていたのか──。
 小さな疑問は残りますが、富士山(常陸国風土記の表記は「福慈山」)は、もともと荒ぶる女神=水神の山であったものが火神=太陽神の山に変えられ、それがさらに木花開耶姫を山神とするというように、山の主神変更が、少なくとも二度にわたってなされたことが考えられます。その第一回、つまり富士山の水神が火神=日神に、その首座を譲ったときの対の山が、愛鷹山であったのではないかということが考えられます。
 ところで、尾張富士の大宮浅間神社が天照大神を祭神の一神としていること(里宮=浅間神社を頂上=大宮に合祀)は、これも、伊勢の朝熊[あさま]山(=浅間山)の主神(伊勢の元神としての天照大神)と対応しているとみることができます。木花開耶姫と対関係の神は、記紀に準じるならニニギノミコトとなります。おそらく、天照大神と対の関係にある神を木花開耶姫と認める人はまずいないでしょう。ここでも、瀬織津姫を隠祭する方便神として木花開耶姫がみられるということかとおもいます。

497 池宮神社の「御櫃納め神事」 ピンクのトカゲ 2002/08/22 17:44

台風情報でよく耳にする御前崎の西・浜岡町(静岡県小笠郡)は、遠州灘に面し、浜岡砂丘など砂の町として有名である。
町の南部・佐倉には、桜ケ池があり、池宮神社が鎮座する。参道は、南から北に延び、突き当たりに桜ケ池、右手に本殿、左手に社務所がある。
桜ケ池は、約二万年前にできた砂丘堰止湖といわれ、町の中央を南北に流れる新野川に注いでいます。
池宮神社の創建は、敏達天皇一三(五八四年)といわれる。祭神は、瀬織津姫、相殿に建御名方命、事代主命を祀る。参道の突き当たりが桜ケ池であることから池そのものが信仰の対象であった。
池宮神社では、「御櫃納めの神事」が行なわれる。「御櫃納め神事」は、赤飯を入れた御櫃を一つは、池宮神社に奉納し、もう一つは、桜ケ池に沈めるというものである。
御櫃は、数日後、空となって浮き上がるが、もし赤飯が入ったままだと忌まれるという。
また、桜ヶ池は信州の諏訪湖とつながっているといわれ、桜ケ池に納められた御櫃が信州の諏訪湖に浮かび上がるともいわれています。
この伝説に関連して、遠州の山間、信州に近い磐田郡水窪町の白神峠に、常には平地であるが、七年ごとに水が湧き出て池になる「池の平」という池があるという。
水窪では、この水が沸くときは諏訪湖の龍が遠州の桜ケ池に遊びに行くといわれているそうです。
桜ケ池と諏訪湖が繋がっているか否かはともかく、静岡市の東北部に諏訪神を祀る大野池神社が鎮座する。ここには、かつて浅畑沼という巨大な沼があり、その沼に半島のように突き出た小山の森に大野池神社は鎮座した。大野池神社が鎮座する森は「沼の婆さん」と呼ばれ、蛇体の水神だといわれる。
この大野池神社でも「七年に一度」、沼の婆さんと呼ばれる森の裏の崖から浅畑沼に赤飯が供進されたという。
「御櫃納め神事」の由来は、皇円阿闍梨(一一七四?〜一一六九)に基づくといわれる。
皇円は、遠州周知郡森の八形山蓮華寺(遠州三十三観音一番札所)に招来され、桜ケ池に大龍神を感じ、弥勒菩薩の出現を願い、龍蛇と化し、桜ケ池に入定したといわれる。
弟子の法然上人が、師皇円の霊を尋ねて桜ケ池に赴いた折、檜の曲物の櫃に赤飯を入れ、一つを池の中の皇円阿闍梨に、もう一つを池宮神社に供えた故事に基づくものとされる。
皇円は、比叡山で皇覚に師事し、比叡山功徳院に住し、弟子三千人を用したという。浄土宗の開祖・法然(源空)は、はじめこの皇円に師事した。
桜ケ池の奥の院といわれる小笠郡菊川町の応声教院の歯吹如来像は、法然が桜ケ池を訪れた帰途に安置したものとされています。
皇円桜ケ池入定については、元禄一五(一七〇二)年に美濃の僧・卍元帥蛮が書いた「本朝高僧伝」のも書かれていますが、事実か否かは定かではありません。
では、何故このような伝承が生まれたのであろうか。
皇円は、「扶桑略記」を表した学僧である。「扶桑略記」は、神武から堀河(在位一〇八六〜一一〇七)までを漢文の編年体で表したものであり、神社仏閣の縁起なども多く取り上げている。
こうしたことから皇円は、瀬織津姫についての知識もあったのではないか。
また、「御櫃納め神事」については、法然も関わっているが、法然の弟子で一ケ谷の合戦で年若い敦盛を討って後悔し出家した熊谷次郎直実は、はじめ伊豆権現に行っている。
また、法然の孫弟子・良弁は、鎌倉に「天照山光明寺」を建立している。
皇円―法然―良弁という法統の中で庶民の信仰の核心のようなものが伝えられたのではなかろうか。
また、道元禅師は、永平寺の鎮護として白山権現を祀っている。
奈良仏教が貴族の仏教といわれるのに対し、鎌倉仏教が今日の庶民の間で広く信仰されているのは、記紀により抹殺された神を投影していたからではないかと思う。

498 諏訪縁起と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/08/23 15:37

 トカゲさん、中世というのは、仏教の質が、それまでとはまったく変わった時代かとおもいます。特に鎌倉時代の始まりは、日本の権力構造が二重化したといいますか、権力の中心点が少なくとも二つできたということでもあり、それまでの貴族仏教・国家仏教は形骸化し、農民・武士の新しい仏教が発生したということでもあったかとおもいます。これは、神社の管理・祭祀においては、純粋神官ではなく修験仏徒がおこなうといったことや、いわゆる本地垂迹の思想によって、それまでの「神」が新しく説明づけられるといった現象がおきてきます。
 そういった時代背景があってこその、池宮神社の桜ヶ池の納櫃祭=御櫃納め神事かとおもいます。桜ヶ池はその名のとおり「桜の名所」らしいですが、ここでわたしが関心をひかれるのは、次の三点です。

@池宮神社の祭神が瀬織津姫であり、相殿神は建御名方命、事代主命とされること。
A納櫃祭における櫃の中身が「赤飯」であること。
B納櫃祭の櫃が諏訪湖に浮かび上がる伝承をもっていること。

 @〜Bは密接に関わっています。
 Aにつきましては、GOTOさんのメモ──つまり、種子島の宝満神=水神と赤米のことを連想させてくれます。神に奉納される赤飯のルーツは、縄文稲作の赤米にありましょうから、これは対馬においてもみられますが、列島の稲作起源を象徴するコメであり、その代替物である赤飯が桜ヶ池の神に捧げられるということは、瀬織津姫のもっている性格の古層をみるおもいです。もっとも、この納櫃祭は法然によるものとしますと、これは法然の「知」の賜物とみるべきかもしれません。
 Bにつきましては、諏訪湖の水神=女神が瀬織津姫である可能性は、これまでにも、この囲炉裏夜話の話題になってきたもので、それをさらに補強・傍証する「伝承」とみることができます。池宮神社の相殿神に建御名方が配されていることもうなずけるというものです。
 諏訪神の鎮座・本地潭として「諏訪縁起の事」があります。これは、室町期にまとめられたとされる『神道集』(現在一般に読めるのはその抄録。東洋文庫)に収録されているものですが、これを読んでも、諏訪神の一神=女神が瀬織津姫であることがよく伝わってきます。
「諏訪縁起の事」は、その始まりの箇所で、「東山道の筆頭は近江の国、その甲賀郡の地から荒人神が現われた。神の名を諏訪大明神という。この神出現の由来をくわしく調べてみよう」(貴志正造訳)と書かれていて、一瞬読む者を「え?」というおもいにさせます。諏訪神=建御名方神は、記紀によれば出雲の神でしたからね。それが、諏訪神の出現地を琵琶湖の近江としているわけですから、これは興味をかりたてられます。
 諏訪縁起の話は神道集のなかでも特に長くて全文を引用できません。内容を簡略していいますと、「甲賀郡の地頭をしている甲賀権守諏胤[こうがごんのかみよりたね]」の「三人の息子」の末子・甲賀三郎と奈良の春日権守の孫娘「春日姫」の「夫婦の道」が話の基調にあり、両者が諏訪で神となる筋立てとなっています。この鎮座過程には、春日姫と生き別れた甲賀三郎による、異界=地底の国々を抜ける人生波乱の物語が大半を構成しているといってよいのですが、この物語の作者がスゴイのは、その虚構創作の想像性もさりながら、話の後半において、三郎と再会してからの春日姫について、その性格を、次のように描写していることです。

■春日姫の性格
 その後(三郎と再会後)、春日姫は、
「気にそまぬ土地にいて、いやな甲賀次郎(三郎の兄。この次郎のために、三郎と春日姫は生き別れとされた)の身の果てを見聞きするさえ憂鬱です。さあ、いっしょによその国へ移りましょう」
と、天[あめ]の早船[はやふね]を用意して、中国の南方にある平城国へ渡り、その国で早那起梨の天子にお目にかかって、神道の法を授けられた。「高天ヵ原に神とどまり、神々の末孫神ろぎ神ろみの命をもって」と受けて虚空を飛べる身となった。また「国内の荒ぶる神たちを神払えに払う」と受けて、悪魔・外道たちを他へ退ける神通力を会得した。また科戸[しなと]の風の天の八重雲を吹き払うごとく」と受けて、いながらにして三千世界を見通す徳を得た。「焼鎌の利鎌[とがま]をもって生い茂った木の根もとを打ち払うごとく」と受けて、一切世間の有情非情が心の内に思うことを空でさとれる徳を得た。「大津のほとりにいる大船の舳[へさき]の綱を解き放し、艫[とも]の綱を解き放して、大海の底に押し放すごとく」と受けて、賞罰覿面[てきめん]に有効な、衆生を育てる徳を得た。

 春日姫が会得した数々の「神道の法」が、最後の「大津の〜」だけが微妙に異なるものの、その他すべての「〜ごとく」が正確に中臣祓=大祓祝詞(=六月晦大祓)の文言から引用されています。
「諏訪縁起の事」の作者は、春日姫を、大祓祝詞の姫神であることを明確に認識しています。しかも、祝詞の基本性格である祓いの主旨──「天皇[すめら]が朝廷[みかど]に仕へまつる官官[つかさつかさ]の人等[ひとども]を始めて、天の下四方[よも]には、今日より始めて罪といふ罪はあらじ」という、つまり国家祓いの神という性格をみごとに無化して、あるいは逆転させて、「虚空を飛べる身」、「悪魔・外道たちを他へ退ける神通力」、「いながらにして三千世界を見通す徳」、「一切世間の有情非情が心の内に思うことを空でさとれる徳」、「賞罰覿面[てきめん]に有効な、衆生を育てる徳」を、春日姫が新しく身につけた「神道の法」だといっています。
 こういった描写にみられる春日姫が大祓神=瀬織津姫の比喩であることはもう明らかで、それがわざわざ「春日」姫と命名されているわけです。縁起の作者は、春日四神の謎の比売神=春日姫が、暗に大祓の女神と同神であることをもここで明かしていると読むしかありません。
 そういった、春日姫が諏訪の女神でもあるわけです。
 甲賀次郎の横恋慕に嫌気がさして日本から「よその国」へ行った春日姫たちでしたが、甲賀氏の氏神「兵主大明神」によって、「どうか本国へお帰りになって、衆生守護の神におなり下さい」と懇願され、ついに本国=日本へ帰ってくることになります。
 春日姫たちの帰国=諏訪鎮座の箇所を引用します。

■春日姫から諏訪神へ
 夫婦二人は車(天の早車)に乗り、兵主大明神の使者とともに信濃の国蓼科の嶽に到着した。梅田、広田、大原、松尾、平野などの大明神たちも集まり、後につき従われた。信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神という名で上の宮として出現された。〔中略〕
 また春日姫は、下の宮として現われた。維摩姫(三郎の異界における妻神)もこの国に渡って来て、神と現われたが、春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い、同じ国内に住みましょうと宮地をえらんで社を建てた。今の世に浅間大明神というのがこれである。

 春日姫と甲賀三郎の「夫婦の約束」は、「天上では比翼の鳥、地上では連理の枝、それらの深い愛情よりもなおまさるかと思われる」とも作者は記していましたから、異界の「維摩姫」との「夫婦の約束」は一見矛盾するようにみえますけど、「春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い」とありますように、春日姫と維摩姫は、生死・明暗の世界を象徴する、つまり合わせ鏡のような同神であるということなのでしょう。その維摩姫が「浅間大明神」となる、つまり富士山の神となるわけで、この縁起が描き出した神まつりの真相潭は途方もない認識によって語られたことがわかります。
 なお、本地垂迹の思想によって語られる諏訪神については、「甲賀三郎方は上の宮に現われた。本地は普賢菩薩である。春日姫は下の宮に現われた。本地は千手観音である」とされます。
 諏訪神のこの鎮座・本地潭は、両神が「地頭」の子というように、時間感覚からすると鎌倉時代を舞台にしていますけど、諏訪神鎮座が鎌倉期でないことは明白ですから、この縁起の話者・作者のモティーフは時代探究にあるのではないとみるべきでしょう。

春日姫(=春日四神の比売神)=大祓神=諏訪神(=富士神)=千手観音

 こういった等式を想像させるにじゅうぶんな「春日姫」描写がなされていたことにおいて、「諏訪縁起の事」が一級の神明かしを先駆的になしていたと認めることができます。そして現在、わたしたちは、大祓神=瀬織津姫であること、および、桜ヶ池=池宮神=瀬織津姫であることと、同池が諏訪湖と通じている伝承(遠州七不思議の一つ)を知っているわけです。縁起が伏線としていた、この等号式に、もうひとつ等号をつけることができることがはっきりしてきました。この中世の謎の作者に敬意を表したいとおもいます。

(付記)
 富士山と愛鷹山の背比べの話における、愛鷹大神が「もろこしの国」からやってきたとされる伝承ですが(囲炉裏夜話492、493参照)、愛鷹山の神=瀬織津姫としますと、これは、この「諏訪縁起」の「よその国」=中国からの帰国潭と関係がある話であることが考えられます。中世の唱導者たちが共有する世界があったのかもしれせん。

499 三島と鴨・秦 あかね 2002/08/24 21:41

ご無沙汰して失礼しておりますm(__)m。随分、以前で申し訳ございませんが、赤石の件について有難うございました

●さて、三島神社といえば、伊予ではなく、大阪の北摂・高槻市(赤大路町説と三島江町説あり、これを一宮・二宮とする説もある、三宮は確か溝咋神社、三島鴨県主の地)に鎮座する『式内三島鴨神社』が、大山祇神の最初の降臨地で、最初の三島神社(山祇神社)だとされていますね。大山祇神はここから瀬戸内海・大三島の大山祇神社に移られ、その後、事代主神も溝咋姫との婚姻によって三島鴨に祀られて、更に事代主神は出雲の美保神社から伊豆の三嶋大社へと移ったと伝わります(三三島)。それで三島鴨神社には、大山祇神と事代主神の二座が祭られています。因みに、伊豆の三嶋大社祭神は江戸期迄は大山祇神とされていましたが、明治の調査で事代主神であったことが分かり、現在はその両神が併記されてはいますが、これは本当のところは判りませんね。

私は伊予・伊豆と同様に、“高槻市の三島鴨神社の大山祇神も、元来は島神”であると思っています。なぜなら、三島鴨神社は現在地へ移る以前はもともと、高槻付近の淀川内に位置した「中之島」(三角州)に鎮座していたからです。三島鴨神社は水運を守る神・水神であって、くらわんか舟の時代には、舟を使った商売の神ともされました。
また、この辺りには雄略帝の頃から木津川・淀川水系(淀川は大阪湾へ注ぐ)に沿って賀茂一族が展開してきており、大山祇神が祀られている神社に、賀茂一族の神である事代主神が合祀されたものだと考えられます。
三島明神と呼ばれる神は二つあって、大山祇神と事代主神であるわけですが、諸説あるにせよ、高槻・茨木市の地元では、“三島鴨神社の神は、鴨の神”であるとされております。鴨の神であれ何にせよ、京都の下・上カモ(鴨・賀茂)神社神事は、水を司る神職一族・鴨脚(イチョウ)家が神事を開始してカモの祭が始まる事と同じ様に、更には三島鴨・溝咋神社と磯良神社との関係から、三島鴨神社の大山祇神にも水神(航海神)の要素は欠かせないと思います。
ですから、大山祇神は本当ならば、山民・海民の神であることを示す『大山津見神』と書くのが、一番ぴったり来るのかもしれません(何処の社か忘れましたが、山津見神社があって、山民を象徴する白狼が狛犬です)。
尚、三島鴨神社の三島はお書きの通り、御島から来るものだと云われております。しかし私は、航海の神でもあることから考えると、三島は「見島」である可能性を見たいと思っています。山口市沖にある見島なんぞは、案外、その秘密を握る島なのかもしれません。

そしてご存知の通り、三島鴨神社の事代主神の対の女神は、溝咋たたら姫で、隣の茨木市の溝咋神社と、三島鴨は夫婦社とされます。葛城の鴨都波八重事代主神社(通称下鴨神社)の神が、この三島鴨神社に滞在された折に、すぐ近くの溝咋神社におわす溝咋姫と親しくなって、その間に五十鈴姫(神武天皇皇后)をもうけられましたと伝わります。
あ、大山祇神の娘は、神武天皇の曾祖母・富士山の女神でもある木花咲耶姫ですね。
というわけで、何が云いたいのか自分でも判らなくなってきたので端折ってすみませんが、八百比丘尼の父は、秦道満であることから、鴨と秦による三島明神伝播の跡もそこに見たいなと思っておるわけです。

●蛇足ですが、兵庫県西脇市にも、隠岐にもある都万(つま)地名はあります。アマツマラ縁の地とされ、これにより、多可郡(託賀郡、多賀・高等とも書かれる)は大和鍛冶起源地であるとされます。西脇市の都万(津万)には、瀬織津姫を祀る神社はありませんが、この辺りの加古川本流上流には、「津万滝」(西脇市上比延)という奇岩が露出する舟の難所があって、『竹内大浄神社』という、何か瀬織津姫を連想する?社が鎮座しています(すみません、祭神・由緒は、まだ未確認です)。
同じ西脇市ではありますが、加古川支流の杉原川と加古川本流の合流地点辺り(西脇市戎町)には、以前、お話に出た祓い戸としての瀬織津姫等を祀る『川下(カワシモ)神社』があります。川下に対して、川上社もあるのが自然なんですが、見当たりません。何ででしょうね。多可郡八千代町にある、貴船神社(祭神は猿田彦)がそれだとしたいところなんですが、こちらは同じ加古川の支流でも、野間川なので、該当しないようにも思います(下流域の加西市では住吉神)。ならば、杉原川上流を見ればいいわけなんですが一体、どの社なのか?農耕・開拓・道主だけでなく、水神の要素も持つ神と云えば、杉原川上流域には『式内荒田神社』(中町安楽田と加美町的場説あり)があって、この神はこの辺りの在地首長女神・巫女神である姥神・「道主日女」です。この姥神とは、神立にて天目一命へ献じる酒造りの清水を守って醸す神です。川上社が荒田神社とするなら、やはり道主日女も瀬織津姫であった可能性もありますね。

500 m(__)m あかね 2002/08/24 21:47

同じような事をまた書いて、すみません。尚、杉原川の更に上流には、清水神社という、道主日女の社もあります。

502 大山祇神と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/08/25 19:18

 あかねさん、お久しぶりです。
 大山祇神の「最初の降臨地」であり、「最初の三島神社」とされる、摂津の三島鴨神社に伝わる「三三島」説を読んでいますと、大山祇神と事代主神の関係がどうもはっきりしていなくて、要するに、これだけでは「よくわからない」というのが本音です。ここから、大山祇神は伊予の大三島へ移ったとか、その大山祇神と関係不明の事代主神は、三島鴨神社から出雲の美保神社へ移り、そこから伊豆の三嶋大社へ移ったといわれましても、三島鴨神社の本家主張の枠を越える話とはおもえず、こういった伝承はかなり新しいものではないかという気がします。
 この三嶋鴨神社にもし伝承上の「古さ」が感じられる話として考えられるのは、その社伝によりますと、淀川の御島(中之島)に「淀川鎮守の社」として創建されたということと、大山祇神は「百済」からやってきた「渡しの神」とされていることでしょうか。この神が百済からやってきたかどうかはともかく(百済説の根拠は伊予国風土記逸文でしょうが)、わたしは、三島鴨神が「淀川鎮守」の神としてまつられたことと、それが「渡しの神」とされていることが重要な伝承ではないかと考えます。
 淀川という呼称は、「淀姫」の名からきたものだろうとおもわれますが、では、淀姫とはなにかとなります。これは前にもふれましたけど、この女神は、風土記やその逸文を総合しますと、肥前=佐賀における「荒ぶる神」=世田姫と同神である、肥前国一宮・与止日女神社の女神のことがやはり考えられてきます。
 与止日女神社には川上神社の別名もありましたが、紀州田辺の川上神は肥前国からやってきたとされ、この田辺の川上神社は、その祭神に瀬織津姫の名を表記しています。
 淀川の本流水系には、河口から御霊神社、御手洗神社(加茂建豆美命神社境内社…枚方市走谷【三島鴨神社の淀川対岸】)、宇治川になりますと橋姫神社、瀬田川になりますと佐久奈度神社と、ここでも瀬織津姫の名が確認できます。
 このように、水神=川神としての瀬織津姫の存在が色濃く投影されているのが「淀川」ですから、そこに三島鴨神社が「淀川鎮守の社」として創建されたとしますと、この神社にも瀬織津姫が隠祭されていることが想像されます。それは、たとえば、「三島鴨神社の神は鴨の神」といわれることに、まずその関連の匂いがします。下鴨の水神が瀬織津姫である可能性については、これまでにもふれてきていますのでくりかえしませんけど、問題は、三島鴨神社が大山祇神と事代主神の二神を祭神としていることです。
 ここからは仮説、しかもかなり異端の仮説になるかとおもいますが書いておきます。
 日本書紀は、その編集ミスか、木花開耶姫の言葉として、大山祇神が女神であることを告げていました(「私は天神[あまつかみ]が、大山祇神を娶[め]とってうまされた子です」宇治谷孟訳)。書紀が記したように、もし大山祇神が女神だとしますと、三島鴨神社における事代主神との併祭表示がまったく新しい仮定をよびこんでくることになります。
 伊豆半島の考察から、三島明神(=事代主神)と対の関係にある神は、まず伊古奈比盗_でしたが、それが三嶋大社へ鎮座する過程においては、伊豆田京の広瀬神=瀬織津比唐ェもっとも関係が深い神だとされる伝承が報告されていました(内海邦彦『わが悠遠の瀬織津比刀x)。
 また、大山祇神は「渡しの神」とされることで想起されるのは、瀬織津姫もまた「渡神」とされていることです(「三春滝桜と瀬織津姫」参照)。
 木花開耶姫と磐長姫の「父神」とされるというのが、一般化された大山祇神のイメージですが、しかし、それに異論・異説の余地を残した最初が、この一般化を呼び寄せた原典の一つである『日本書紀』自身であるというのは皮肉なことです。また、この異論・異説をさらに増幅させることになったのが、伊勢神宮側の文献=古資料である『皇太神宮儀式帳』(804年)でした。
 オオヤマツミは、その漢字表記にとらわれなければ、単純に「大いなる山の神」の意です。海神・水神は、そのまま山神ともなります。
 オオヤマツミ=女神説の余地をはからずも書き残してしまった『日本書紀』があり、木花開耶姫と磐長姫の「父神」ではなく、「朝熊水神」の親神としてオオヤマツミを朝廷に報告した『皇太神宮儀式帳』があるわけです。ある意味、「権威」をもっている、これらの資料が述べていることは、オオヤマツミ神の根本的な曖昧さだということでしょう。
 記紀の創作はただ神名ばかりでなく、その神にまつわる「物語」もあわせて創作するということでしたから、こういった創作が地に足のついた伝承(古くからその土地土地に伝えられてきた伝承)から採取されたものでなかったゆえに、このような破綻表現がみられるのではないかと考えられます。
 大山祇神は、山神であると同時に島神でもあり、それが、肥前国風土記ほかにみられるように、先住の「荒ぶる神」=水神=女神でもあると仮定しますと、『皇太神宮儀式帳』がオオヤマツミを表記するときに、あえて「大山罪」と「罪」の字をあてた表記をしていたことも腑に落ちます。
 大山祇神が「百済」神であるかどうかですが、これも倭の圏域を考えれば、百済・新羅の差はあまり意味がないというのが基本ですけど、もうひとつ意味がないことの伝承を挙げておきます。それは、「赤石は明石」でもふれましたが、延喜式内社「伊和都比売神社」に関わります。
 この式内社を自分のところだと主張する社はいくつかあるのですが、そのなかに「稲爪神社」があります。ここの祭神が、不思議なことに「大山祇大神」とされています。伊和都比売は明らかに女神ですから、稲爪神社の祭神表示は一見矛盾するようですけど、オオヤマツミ女神説をここにあてはめることができるとしますと、矛盾が矛盾でなくなることになります。
 また、この稲爪神社の「由緒」の一文には、次のような記載があるそうです(神奈備HP)。

■稲爪神社の由緒にみられる祭神の雷神性
 推古天皇の御代、三韓我国を傾けんとして鉄人を大将として八千余人来攻したる際、伊予国小千益躬、之を迎え討てとの勅命を受け、氏神愛媛県大三島大山祇神社に祈願し、播州明石にて迎え討つ。此の時大山祇大神の瑞験によりて一天俄にかきくもり、稲妻稲光の中に鉄人を平げることが出来た。依って大山祇大神の現われ給うた地に一社を立て、稲妻大明神と崇め奉り、後世、稲爪神社となった。

 三韓軍の「鉄人」たちの来襲が史実かどうかの是非はここでは問いませんけど、大山祇神が「稲妻大明神」ともなる神威をもっていることは注意しておいてよいかとおもいます。また、この由緒伝承は、「三韓征伐」の主人公というべき女帝=神功皇后は、そのモデルが斉明女帝のほかに、推古女帝も考えてみよと告げているのかもしれません。三韓軍の主力国が新羅だとしますと、それを撃退した神が百済神だと伝承されることはありうることかとおもいます。記紀が親百済の思想によってつくられていたことも想起されてきます。
 あと、加古川支流・杉原川の荒田神社ですが、たとえば、和歌山県那賀郡岩出町にあります荒田神社は、その祭神に「天疎向津姫命」の名を伝えています。この神名が、書紀記すところの撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=瀬織津姫を表していることはまちがいないでしょう。杉原川の荒田神社が、その祭神を「道主日女」(同じく道主日女をまつる清水神社も、その社名から水神であることが想像されます)とし、この女神は「姥神」とされるとのこと──。
「荒田」は「天照大神の荒魂の意味」と記していたのは玄松子さんでしたが、荒田神=道主日女が宗像の女神、つまり宗像三女神の総称神としての瀬織津姫だという仮説は、この「姥神」にも関係してくるかとおもいます。
 瀬織津姫が大祓神とされたのは、淀川上流部の瀬田川においてでしたが、そこの佐久奈度神社(まほろば研究会)は、瀬織津姫のことを次のように説明しています。

■三途の川の姥神
 神道の最高祝詞である『大祓詞』には「高山の末短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売という神、大海原に持ち出でなむ」とあります。勢いよく流れ下る川の力によって人々や社会の罪穢れを大海原に押し流してしまう、川に宿る大自然神であることがわかります。
『大祓詞』の最古の注釈書といわれる『中臣祓注抄』では、「速川の瀬」を「三途の川なり」と説明しており、『神宮方書』においては「瀬織津姫は三途川のうばなり」と書かれております。人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きの神であるともいえます。

『神宮方書』なる注釈書の原典をみる機会がないので残念ですが、神道世界において、「瀬織津姫は三途川のうばなり」という性格規定があったことがわかります。瀬織津姫が「悪神」からさらに三途川の脱衣婆=姥神とまでされています。それを、「人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きの神」だとするのは、瀬織津姫が中臣=藤原氏によって祓い神としての性格設定がなされたことを根拠とする解釈ですが、これが無理な解釈であることはいうまでもありません。それにしても、佐久奈度神社は、自らの大事な神を脱衣婆神とする「由緒」を臆面もなく公表したものです。
 蛇足ながら、佐久奈度神社の祭神は大祓神四神を現祭神としていますけど、延喜式においては「四坐」となっておらず、ここは近江国風土記逸文が記録していたように、瀬織津姫一神がもともとの祭神だったとみるべきでしょう。脱衣婆神=瀬織津姫としてヨシとするのではなく、自社の祭祀・歴史の真相を明かす遡及を、佐久奈度神社には期待したいところです。
 杉原川の荒田神社の道主日女が「神立にて天目一命へ献じる酒造りの清水を守って醸す神」とのこと──。このことで想起されるのは、隠岐の都万とも関係してくるのかもしれませんが、宮崎・西都市の西都原古墳近くに鎮座する都萬神社でしょうか。ここは、「お酒の発祥地」、「新嘗祭の起源」の社と自認し、神徳は「縁結びの神」とされています。祭神は、これも大山祇神と関係しますが、木花咲耶姫命とされています。祭神の異説に、抓津姫[つまつひめ←そうつひめ]命もありますが、ここで興味深いのは、この神社の前の川名も「桜川」だということでしょうか。この桜川は一ツ瀬川の支流なのですが、都萬神社のすぐ上流部には、ここにも速川神社(祭神:瀬織津姫)と気吹戸主神社(祭神:気吹戸主)という、伊勢の元神の男女神がまつられています。木花開耶姫が最初からの祭神であったかどうか──調べることがほんとうに多そうです。

503 訂正と補足 あかね 2002/08/25 20:11

ごめんさない。確認したら、間違いがありましたm(__)m。

訂正)
●>(赤大路町説と三島江町説あり、これを一宮・二宮とする説もある、三宮は確か溝咋神社、三島鴨県主の地)
 ⇒(高槻市赤大路町鴨林<旧島下郡>の『鴨神社』が上社、同市三島江町の『三島鴨神社』<島上郡>は下社とする説あり。茨木市五十鈴町<旧島下郡溝咋村>・『式内溝咋神社』<下宮>の「上宮」は、同市学園町・溝咋遺跡の地にかつては鎮座していた。三島には弥生期後半より、三島鴨族よりも先に三島溝咋族が定住し、溝咋耳族の地であった)
●>『式内三島鴨神社』
 ⇒『三島鴨神社』(延喜式の三島鴨神社は島下郡とあるため、天坊幸彦博士は、赤大路の『鴨神社』がそれであり、現『三島鴨神社』は「三代実録」にみえる『三島神社』に該当するとみる。赤大路鴨林は三島鴨族の本拠地)
●>淀川内に位置した「中之島」(三角州)に鎮座
 ⇒往古淀川が海のように流れ、淀川の「川中島」(川に突き出た州)に鎮座(三島=三島江、淀川には多数の中州が点在しており、これを御島或いは三島と呼んだ)

補足)
◆三島のミは神霊、シマは神庭で、神霊が降臨する地ともしたい。淀川氾濫原の湿原でも、褐鉄鉱を原料とする野蹈鞴製鉄が行われた可能性もあるため、シマは蹈鞴場=神場とも考えられ、神場へ降臨する三島神に産鉄の要素を見る事も出来ると思う。
◆三島溝咋耳族と三島鴨族は、同じ南方系文化を持つ海人族ですけど、耳族は鴨一族ではありません。
◆高槻市三島江町の現『三島鴨神社』は、仁徳天皇の時代に、百済から渡来した「大山祇(おやまずみノ)神」が津の国の御嶋に坐した事に始まると伝わる(伊予の大三島神社社伝)。沢史生氏は、祇(つみ)は天つ神に対する国津神の意とし、大山祇神は山岳を支配し、鉱業生産を支配する神であり、同時に海神(ワダツミ)でもあると説く。大山祇神は多くの神格を持ち、航海・鉱山・武神・鵜飼の祖とされる。
◆事代主神が熊鰐と化し、三島溝咋姫のもとへ通ったのは、カモ族が木津町岡田へ出て来た以降(恐らく雄略天皇の時代)の話らしい。
◆『三島鴨神社』を三島の鴨神社と理解すれば、赤大路の『鴨神社』がある。この鴨神社祭神は、大山祇神であり、大阪府神社明細長には、もと島下郡と称し、三島鴨社や五位鴨社とも、三島神とも申し伝えるとある。また摂陽郡談には、この祭神は「鴨御祖大神」とあり、京都の下・上カモ神社と同神で鴨氏の祖神である。また新撰姓氏録では、三島県主(=三島宿禰)と賀茂県主は同祖とするため、鴨神社は三島県主がその祖神を祀ったものだろう。対して三島江の『三島鴨神社』の元々の祭神は、「三島溝杭耳命」だと推論出来る(前述した天坊博士説・高槻市広報紙より)。
◆天坊博士は、伊予や伊豆へ移ったのは『三島神社』であって『鴨神社』ではないとされたが、高槻市広報紙では、『三島鴨神社』が移動したのだと推察する。
◆沢史生氏は、大山祇一族は朝鮮南部から渡来して、鹿児島半島野間岬や長崎県野母崎に橋頭堡を築いたアタ族だとし、その後、大隈・日向・伊予・淡路・摂津・熊野等に勢力を張る一方、黒潮を利用して伊豆諸島へ上陸し、伊豆半島へやって来たアタ族もおり、その時期はBC1世紀半頃とする。また一方では、中伊豆地方の田方平野を開拓した大山祇一族がおり、この一派は、知多半島美浜町野間に足跡を残した後、東海地方の太平洋岸沿いに狩野川流域へと移動。そして知多半島への進出過程で、摂津三島郡にて溝咋姫(セヤダタラヒメ)神話や、宇治市の県神社(コノハナサクヤ)、岐阜県不破郡の南宮神社(カナヤマヒコ)等に神話を残し、開発を進めながら東を目指したとみる。この大山祇一族を追うように伊豆へ来たのが事代主系の神を奉斎するカモ族で、伊豆国は中伊豆・田方郡の大山祇勢力と、南伊豆・賀茂郡の事代主勢力に分割統治されたが、のち、伊豆7島と賀茂郡の大山祇勢力は、事代主勢力を防ぎきれずに南伊豆から手を引いたとする。つまり、沢氏は伊豆への侵略勢力はまず大山祇のアタ族が、先住の縄文人を服従させその後、事代主勢力のカモ族が伊豆に上陸し、大山祇勢力を席捲して伊豆を手中に収めたと説く。
◆「溝咋神社祭神・溝咋耳命」は、“和泉地方では「大陶祇(おおすえつみ)命」といい、陶器製作にも力を入れた(3C後半〜4C代)”と伝えられる。「溝咋耳」の溝は農業用水路、咋は溝を支える杭で、安威川周辺の水を管理した古代豪族の長。産鉄・農耕・製陶・土木工事等の技術者集団呉ノ勝・多氏族とする説が有力。
◆学園町にあった溝咋神社上宮の祭神は、五十鈴媛(娘)・溝咋耳(父)・天日方奇(アマヒカタクシ)日方(兄)で、下宮の式内溝咋神社祭神は、この3神に加えて溝咋玉櫛媛命と、素戔鳴命・天児屋根命が祀られている。溝咋遺跡で見られるように、溝咋族は2世紀代から最初、この遺跡周辺に居住していたと思われるが、古墳時代の洪水によって生活基盤を失い、彼らは現溝咋神社へ移住したと伝わる(溝咋神社伝)。
<以上、主に大橋忠雄氏著・「鬼ものがたり 鬼と鉄の伝承」を参考とする>

504 三島神の東漸 ピンクのトカゲ 2002/08/26 12:20

あかねさんが、三島神について書いていました。
三島神については、弊サイトの第一話拾遺九「彦狭島東漸と砥鹿神社」でもふれています。
拙稿第一話拾遺九では、記紀の考霊条の彦狭嶋(古事記の表記は、彦寤間命)の「系譜崩し」と「予章記」の記載から伊予、庵原、下野に鎮座する砥鹿神社は、越智氏の東漸と関わっている旨を書きました。
この視点から、もう少し、三島神東漸くについて補足しようと思います。
予章記は、「考霊天皇と磯城県主・大目の娘・細姫との間の伊予皇子(彦狭島)が、伊予国伊予郡神崎郷に住し、和気姫を娶り三人の子を産んだ。三人の子は、空船に乗せられ流された。三人の子供は、海童に養われ、吉備の小島に着いた。子供らには、それぞれ宅を造て、これを三宅と呼んだ。第一子は、吉備の小島留まった」と記載します。そして、「第一子の子孫が三宅氏であり、第二子は、船を作って、八歳にして駿河国清見崎(現清水港)に着く。大宅を造って住したことから、大宅を氏姓とした。子孫が多く、大宅の周囲に庵が建並んだことから、この地を庵原と呼ぶようになった」ときさいします。
また、越智系図では、この大宅氏祖を第一子とし(第二子を三宅氏祖とする)、伊豆三嶋是なり、現三嶋大明神、従一位諸山積大明神というなりと記載する。また、「考霊天皇の第二皇子・伊予王子=彦狭嶋命が、和気姫を娶り三子を産み給う。嫡子の御船、伊豆国に着く(後略)」と記します。
「越智系図」では、伊予皇子の第一子を三島大明神としていますが、第一子を三宅氏とする「予章記」との間で混乱が見えます。
この三島大明神について、三宅島の壬生家に伝わる「三島大明神縁起」は、三島明神は、薬師如来の申し子として天竺に生まれ、七歳の時に母が亡くなり、継母とそりが合わず無実の罪に問われて追放になり、唐・高麗を経て日本に渡ってきて、富士山の神に出会って一緒に島を作ろうということになり、七日七夜の間に伊豆に十の島を創成。そこに三島明神の八人の妃神と二十七人の御子神を配置したと伝えます。そして、この三島神が日本に渡って最初に坐したのが、三宅島の富賀(とが)神社だと伝えます。
三宅氏と三宅島の関係などを考え合わせますと、富賀(とが)=砥鹿とも考えられます。この富賀神社は、延喜式神名帳の阿米津和気命神社に比定されています。
庵原の砥鹿神社は、かつて九万神社と称したそうですが、上浮穴郡久万町には、宝亀四(七三三)年、大三島の大山積神社を勧請した三島神社が鎮座します。
伊豆の三嶋大明神と伊予の大三島鎮座の大山祇神社の祭神が同神か否かはともかく、「予章記」や壬生家所蔵の「三島大明神縁起」は、越智氏の伝承が影響していることは確かです。
つぎに下野鎮座の砥鹿神社は、祭神を手力男命とします。
甲州の東八代郡中道町に鎮座する佐久神社は、往古、甲斐の国が一面の湖水であったとき、土本毘古王が、大岩を射抜き開裂し、疎水に成功した。土本毘古王は甲斐の国造の祖となった沙本毘古王と同一人物であるとします。この佐久神社の祭神は、もちろん土本毘古王(沙本毘古王)で、建御名方命と菊理媛命を相殿とします。
佐久神社では、土本毘古王(沙本毘古王)の別名を手力男命としています。
古事記開化条では、沙本毘古王を甲斐国造祖、日下部連祖としており、丹波道主王は、この沙本毘古王のことであり、本牟津別王が丹波道主王の子とされ、穂別の祖とされる朝廷別王のことであるから佐久神社の手力男=沙本毘古王とする社伝は、さすが、沙本毘古王を国造の祖とする甲斐の国といった感じです。
さて、この佐久神社の拝殿前にも要石と呼ばれる長方形の石があり、この石は、甲斐国中央の標目として建てられたと伝えるが、湖だった甲斐国を大岩を射抜き疎水したとする伝承から鹿嶋の要石とも関係があるように思われる。
佐久神社の要石については、子安信仰も被さっているが、やはり丹波氏を通して賀茂氏とのつながりが見えてくる。

505 大山祇神と事代主神 風琳堂主人 2002/08/28 01:58

 あかねさん、大山祇神、事代主神についての資料をありがとうございました。
 事代主神に比べますと、大山祇神は、いわゆる神の物語が語られることが少なくて、多要素・多性格を包含する大きな概念神のような印象をもっています。この神の唯一といっていい主張は、木花咲耶姫と磐長姫の「父神」として、磐長姫を嫌ったニニギに対して、「お前たちの寿命は、だから短いだろう」といった託宣をすることくらいでしょうが、考えてみますと、「天孫」に意見を言った神ですから、これだけでも相当な神であったことが伝わってきます。
 しかし、これ以後、大山祇神の「言葉」をわたしたちは読む機会がなく、重要な神であることはわかっていても、存在としては影のうすい神という印象は否めません。
 囲炉裏夜話の話の過程で、瀬織津姫と木花咲耶姫・磐長姫が切って考えることがむずかしく、この記紀における著名の両女神の「父神」とされる大山祇神とはなんなのかと、にわか仕立てで考えはじめているといったところでしょうか。
 沢さんいうところの「大山祇一族」(のアタ族)が実体をもった「一族」であったのかどうかわかりませんけど、中伊豆において「縄文人を服従させ」て統治し、南伊豆においては「事代主勢力のカモ族」が勢力を張って伊豆半島を「分割統治」したという見取図=仮説で、わたしの関心をひいたのは、田方郡=中伊豆の田京における瀬織津姫の存在です。大山祇一族が仮に存在したとしますと、瀬織津姫は大山祇一族と関係があった可能性もみえてきますが、ただ、瀬織津姫はカモ族にも関わっている可能性があります。ここのところをどう考えるかがむずかしいところです。
 今回は少し原理的な話になりそうで、読んで面白くないかもしれません。

 神は人とともに移動する──これは「定理」といってよいでしょう。しかし、瀬織津姫という神の祭祀についていいますと、この定理は半分の真しか表さないという奇妙なことになってきます。
 瀬織津姫祭祀の前過程のあとには、今度は瀬織津姫祭祀の消去の過程があります。この全過程を明かすことは至難ですが、中間過程の分岐点に、現在の日本国家の原型が成立する闇のゾーンがあります。
 トカゲさんの三島神の東への伝播が伊予の越智氏の「東漸」と関係があるという説のほうが、系図・系譜に弱いわたしにも実態に即したものだなとおもえます。ただし「三島神」が大山祇神か事代主神かといった議論になりますと、これは一概にいえないことがみえてきます。三島神は、これも、まずは「島神」という性格でくくれるところまでが、現在いえることかなとおもっています。
 神は人とともに移動する──。「神」が人の「心」の投射体(共同幻想)としますと、神はたしかに人=族の移動とともに移動します。もし人の心が変わるなら、神も変わるわけで、これは一般論です。つまり、人=族の生活の変化とともに、その神はやはり変化するだろうという意味で一般論なのですが、少なくとも瀬織津姫祭祀とその消去の過程においては、人の「心変わり」には、生活の変化に対応した自然性を超えた「変異」がみられます。この変異には、その地その地固有の生活びとの「心」を排除あるいは歪曲するような、外からの「力」の行使がみられるわけです。
 鉱産神としての大山祇神はそのとおりだとおもっています。これも生活の変化の対応における、神の性格の一側面が突出したものとしてそうだとおもっています。
 この「側面」ということを具体例として教えてくれるのが、『皇太神宮儀式帳』が述べていたことでもありました。つまり、儀式帳には「大山罪命子朝熊水神」と記されていたように、「朝熊水神」を生み出したのはオオヤマツミということになり、ここに、大山祇神=鉱産神をあてはめますと、水神の親神は鉱産神となります。これは逆ではないのかという素朴な疑問が生じてきます。
 朝熊水神という水神にもし親神がいるとしますと、開闢神か、あるいは大いなる山神(儀式帳の認識はこちら)を想定するしかないはずで、水神あるいは山神が鉱産神となることはあっても、水神に限定していえば、その逆、つまり、鉱産神が水神となることはないだろうとなります(山神と水神の発生はどちらが源初性をもっているかといえば、やはり水神の方にその「古さ」を認めるしかなく、その意味で、水神はのちに、いいかえれば、人々の生活の伸展・変転が「山」と深く関わるようになって、初めて山神を誕生させると考えられます)。
 三島神=大山祇神が「島神」としますと、この謎の大山祇神は、同様に島神である宗像神とはまったく無縁の島神なのか──。こういった素朴な問いも浮かんできます。
伊予の大山祇神社側は、自社(の神)をどう説明しているかをみておきます(神奈備HP)。

■大山祇神社由緒
(祭神) 大山積大神
(鎮座地)愛媛県越智郡大三島町宮浦3327
(由緒)
 御祭神大山積大神は、天照大神の兄神で山の神々の親神に当たり(古事記・日本書紀)、天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、和多志大神(伊予国風土記)と申し上げる。
海上安全の守護神である。
 地神・海神兼備の大霊神として日本の国土全体を守護し給う神であるところから、古代より日本総鎮守と尊称され、朝廷を初め国民の崇敬は各時代を通して篤く、中世は四社詣、五社詣の中心となり、平安時代既に市が立ち現在に続いている。
 御分社は全国に10,000余社祀られ、延喜式名神大社に列せられ、伊予国一の宮に定められた。明治以降は国弊大社に列せられ、四国で唯一の大社としして尊崇されている。 (読みやすくするために読点を補った)

「天照大神の兄神」というのは、イザナギがイザナミの死の因となったカグツチを切り刻んだときに誕生したのが大山祇神だという書紀の記述をいっているのでしょう(そのあとにイザナギのイザナミのいる黄泉国巡りによる「汚垢[けがれ]」を禊ぎ祓ったときに、伊豆能売神ほか天照大神の誕生を記す)。
 書紀は「大山祇神」の表記をしていましたが、古事記のほうは「大山津見神」、カグツチを斬ったとき、その「頭に成れる神」として、正鹿[まさか]山津見神、「胸」からは淤藤[おど]山津見神、「腹」からは奥山津見神、「陰[ほと]」からは闇[くら]山津見神、「左手」からは志芸[しぎ]山津見神、「右手」からは羽山津見神、「右足」からは戸山津見神が誕生したとされます。オオヤマツミは、古事記の部分神を総称した神(由緒の表現では「山の神々の親神」)ということなのでしょう。ちなみに、カグツチの性差についてですが、書紀は、カグツチが埴山姫を娶って稚産霊[わくむすひ]を生むというように男神の系譜を記しています。しかし、古事記は、書紀とは異なり、カグツチの「陰[ほと]」と表記していましたので、最初は女神であった可能性もあります。
「海上安全の守護神」──宗像神もまたそうですが、ここには宗像神との関係は語られていませんけど、オオヤマツミが「島神」であることがよく表れている性格表示です。
「日本総鎮守と尊称され」──こういった最大表現がなされることと、カグツチの死の代替神として誕生したオオヤマツミの出自とはイメージが合いません。おそらく、ここにはまだ語られることがない大山祇神の大きな「謎」があるのでしょう。
 この「謎」と関わることになるとおもわれる、神奈備さんのコメントがありますので、それも引用します(同神奈備HP)。

■大山祇神=ニギハヤヒ説
(大山祇神社は)日本総鎮守と尊称されてきた。鎮座している大三島は単に島であるだけではなく、最高峰の鷲ヶ頭山がその名の通りのたたずまいを示す。境内の樟群は原生林の名残を留めている。裏山には磐座とおぼしき巨岩が群在する。この島を含む地域は小千国[おちのくに]と呼ばれたが、越智氏の出自には二説があり、薩摩の坊津を根拠とし大山祇神を祖神とする越智氏か、饒速日命を祖とする越智氏かであるが、後者の物部系の説の方が有力である。

 大山祇神がニギハヤヒと関係ある神だという説は傾聴に値します。
 話を東北にもってきますと、出羽三山のひとつ湯殿山神社のことが想起されます。ここの主祭神は、大山祇神とされていますが(『日本の神々の事典』学研)、そのご神体の朱に染まった巨岩の背後上には、「天照大神」がまつられています(これは自分の眼で確かめています)。この神体岩の朱色は鉄分によるものでしょうから、のちに産鉄=鉱産の神としての大山祇神が表示される理由といえばいえるかとおもいます(「月山鍛冶」の存在も浮かびます)。
 ちなみに、この湯殿神=大山祇神の背後の神についてですが、これは、「駒形神社の秘神」で引用しました、「鎌田家文書」収録の「神社明細帳」(明治6年)にも関係記載がありました。同明細帳は、湯殿山神社(表記は湯殿社)の祭神を「天照大?尊」と記していて、明治初年までは、湯殿神=大山祇神という祭神表示は一般化されていなかったことが考えられます。また、神仏習合時代の湯殿山の「本地仏」は大日如来で、それをみても湯殿山が太陽神信仰の山であったことが考えられます。
 つまり、湯殿山神社においては、天照大神(饒速日の尊称をもつアマテル神)を秘めたオオヤマツミという表示がなされている可能性があるわけです。なお、湯殿山神社の祭神は、「大山祇命、大己貴命、少彦名命」とする三神説もあります(阿部良春『出羽三山の信仰と伝統』東北出版企画)。こちらのほうが現在の登録上の表示でしょう。
 トカゲさんの越智氏あるいは三島神の東漸説は、時間差の問題はあるにしても、物部氏の「東漸」とも重なるということかもしれません。三島神=天照大神(男系太陽神)の可能性があることを添えておきます。
 あと一つ、大山祇神が「女神」である可能性を記していた書紀でしたが、これは変だという話ではなく、その通りに受け取ったならどういうことがいえるかなのですが、これは、大山祇神もまた稲荷神と同様に、両性具有神、つまり水神と日神をともに秘めた神である可能性です。大山祇神社の「由緒」には「地神・海神兼備の大霊神」と書かれていました。この「兼備」された「地神」は、『肥前国風土記』の表現を借りれば、「荒ぶる神」=水神としての地神であり、同風土記は、そこへ通ってくる「海神」の存在を記していました。三宅島の「三島大明神縁起」においても、「富士山の神」=地神と「三島明神」=海神とみることができそうです。伊豆諸島の島づくりにおける二神の協力関係がここにみられます。大山祇神の「根本的曖昧さ」について補足していうなら、わたしの理解では、この原初の二種の神を「兼備」するのが大山祇神ではないのか──となります。こういった理解が無理のないものとしますと、三島神=事代主神は、大山祇神の海神的性格を特化したものということも考えられてきます(出雲の事代主神は、その「釣り」によく表れていましたが、この神は明らかに「海神」として描かれていたとおもいます)。伊豆の三嶋大社における三島神=事代主神/大山祇神という不思議な祭神現象をどう考えるか──。あまり自信ありませんけど、一つの見方ということで書いておきます。
 人=族の種類だけ島神も種類がある──。これは、人=族が独立単体に存在しているときにはそうだったかもしれませんが、それらの「族」があるまとまりとなる、つまり統一的な上位の共同体を形成する過程で、性格を同じくする神は統一神名になり、それを受容することが、それぞれの人=族共同の了解としてあったとみることができます。
たとえば水神の痕跡ということでいえば、古事記の「大年神の神裔」として記されていた配偶神の「伊怒比売[いのひめ]、香用比売[かよひめ]、天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]」にみることができるでしょう。これらは、統一した水神名誕生の前過程の女神たちであることが考えられます。あるいは、ここにも、宗像同様の三女神化の論理がみられるのかもしれませんが──。

(付記)
 伊怒比売は、出雲のミカツヒメ(=伊農姫=伊努姫)へと通じる名であることも気になるところです。このことと関わりがあるのかどうか──、出雲大神に関わる「伊農」をもつ地名が、伊豆半島の南端、弁天岬(弁財天岬)の西に伊農岬としてあります(南伊豆町)。「伊農」は出雲の固有地名であることが考えられ、としますと、カモ族=出雲族による半島経営を示唆する地名とみることも可能でしょうか。
 これはいつもおもうことなのですが、人族は、その奉祭する神以上にその名=氏族名を転々と変えますし、変えた上に、系図操作と創作がかぶってきますので、これを追跡し、その氏族の系を証明することの難しさです。これはトカゲさんのテリトリーです。人は、神に比べますと、限られた時間を生きざるをえないために、その時々の絶対力関係のもとに、「変名」を受け入れてきたということでしょうか。これは逆に、氏族名を変えないとき、同じように絶対力関係のもとに、奉祭する神の「変名」を受け入れてきたともいえます。

507 恋の水神社と桜姫 ピンクのトカゲ 2002/08/28 12:59

風琳堂刊「エミシの国の女神」第三編「受難の女神」に知多半島にある美浜町に鎮座する「恋の水神社」についての記載がある(一九六頁)。
恋の水神社の祭神は、美都波能女命。恋の水神社の由来は、神代の頃、大己貴命と少名彦命が国造りをしているとき少名彦命が病気になり大己貴命が一刻も早く全快するよう祈願したところ、電光とともに美都波能女之命あらわれ、この地の水を与えれば病も癒えると告げ、少名彦命は回復したと伝えられる。
その後、聖武天皇の妻(光明子のことか?)も、この霊水により病気平癒したと伝えられる。
また、「恋の水」といわれる謂れについては、桜町中納言の息女桜姫が家臣青山何某と恋仲となり、桜町中納言の反対を押し切り、山城国愛宕郡北山村に隠れ住んでいた。ところが、青町何某が病気にかかり、桜姫の必死の看病のかいもなく、一向に回復にせず、桜姫が願をかけたところ、「知多に恋の水という霊験あらたかな神水がある。その水を飲ませよ。」とのお告げがあった。桜姫は、この地に水を汲みに訪れ、その所在を土地の者に問えば戯れにて「今まで来たくらい東の方」と答えが返ってきたため、桜姫は落胆の余り遂にこの地に倒れてしまった。近くには、桜姫の墓標が立つ。
この桜町中納言とは、藤原成範(一一三五〜八七)のことで、父は、藤原通憲です。
成範の父・藤原通憲(?〜一一五九)は、章納言に任ぜられるが、まもなく出家し、円空を名乗り、ついで、信西と改める。妻の朝子(成範の母)は、後白河の乳母、後白河朝に黒衣の宰相として権力を振るう。
後白河(在位一一五五〜五八)は、鳥羽(在位一一〇七〜二三)の子である。鳥羽には、後白河のほかに崇徳(在位一一二三〜四一)、近衛(在位一一四一〜五五)がいるが、崇徳は、実は、鳥羽の祖父・白河の子であるとされ、白河は、無理やり鳥羽を退位させ、崇徳に皇位を継承させた。そして、白河が死ぬと崇徳を退位させ、近衛を皇位に就け、近衛が夭逝すると、後白河を立てた。
鳥羽、崇徳確執の中、摂関家でも関白藤原忠実の子・忠通(長子)と頼長(次子)との間でも確執が生じていた。こうした中で鳥羽が亡くなると、頼長は、崇徳を奉じ兵を揚げた。崇徳側についたのは、平忠正、源為義である。一方、後白河側には、忠正の甥の清盛、為義の子の義朝がつく。
後白河側の桜町中納言の父・信西は、義朝と諮り、崇徳側を破る。保元の乱(一一五六)である。乱の後、信西は、忠正、為義を死罪に処し、清盛、義朝が、叔父、父の首を切る。
義朝は、娘を信西の子・是憲に嫁したい旨を申し出るが、信西は、武人の婿に当たらずとこれを辞退する一方で清盛の娘を息子・成範に迎える。
面目を潰された義朝は、清盛が都を留守にした隙に、後白河の近臣で信西を快く思っていない藤原信頼とともに信西の屋敷を囲み信西は、脱出するも自害。成範も下野に流される。平治の乱(一一五九)である。
その後、信頼、義朝は、清盛の反撃にあい敗れ、永暦元(一一六〇)年、成範は、太宰大弐に任ぜられる。
成範の娘・桜姫については、「恋の水神社」の由来に現れるだけだが、正史には、成範の娘・小督の名が載る。小督は、高倉天皇の女房で、平清盛の女婿・藤原隆房に見初められたのち、高倉天皇の寵愛を受け、範子内親王を生んでいる。
「山槐記」治承四(一一八〇)四月一二日条では、範子内親王出産後は出仕せず、その後出家をしたと記載され、「平家物語」では、小督が内裏を去った悲しみのあまり高倉天皇が崩御されるとしている(事実ではない)。
一方、「源平盛衰記」は、小督は、京都東山の清閑寺(本尊十一面千手観音、清閑寺は花の中山とも呼ばれる。)で出家させられたと記載されています。
「山槐記」の著者・藤原忠親は、小督が出仕をしなくなった理由について「子細あるか、その由を知らず」と記しているように、その理由については謎ですが、小督に、恋の水神社の由来の悲恋があった可能性は否定できません。
しかし、平治の乱、知多半島というと入浴中に殺された源義朝が思い浮かぶ。同じ美浜町の野間の鶴林山大御堂寺(通称:野間大坊)には、源義朝の墓があり、義朝の無念の供養に木刀が奉納されています。
おそらく、義朝の鎮魂と、小督の父・桜町中納言の名から桜姫の伝説ができたのであろう。
桜町中納言成範は、都の屋敷を山桜で満たしていたことからその屋敷は櫻の宮とよばれた。
また、奥州白川の薄墨桜(現在はない)は、桜町中納言のお手植えの伝説も残る。

508 弥都波能売神と桜姫 風琳堂主人 2002/08/29 08:15

 恋の水神社には「美都波能売神」の神像がまさに天女だなとおもえるように描かれた掛軸が奉納してあって、この水神への思いを強くする人たちがいることがわかります。この掛軸の女神は、同社の伝承に基づくものでしょう、龍を供としていた図像だった記憶があります。
神はとても小さな姿をとって出現する──その象徴のような神がスクナヒコナ=少彦名ですが、この小さな神の病の体をなぜ、霊水を飲ませて快癒させたのが「美都波能売神」とされます。
 小さな神=スクナヒコナということで、神が海から小蛇の姿でやってくるという「佐太の龍陀」も、イメージとしては一緒だなとおもわれます。この出雲の小蛇については、伊勢にも同じ伝承があり、また、小蛇は、三輪山の神(=大物主)がモモソヒメのところへ通ったときの「本姿」でもありました。
 オオナムチによる国づくりを手助けするスクナヒコナ神話ですが、スクナヒコナは、海を照らしてやってきた神(=海照神)=大年神出現の前に姿を消すことを考えますと、大年神=アマテル神の幼年の姿を比喩した神だったのかもしれません。
 さて、恋の水神社の「美都波能売神」ですが、この名称は古事記の「弥都波能売神」からきたものであることは明らかです。ただし、「弥」を「美」に置き換えて表示していることから、前述の「天女」観も投影した「置き換え」とみられます(これは、伊雑宮の氏子の人たちが、その奥宮あるいは聖地ともいうべき「天の岩戸」の鍾乳洞の滝神を「美都波の女神」と親称していることと通じるようです)。
 古事記においては、この水の美神は「弥都波能売神」と表記されていたのですが、日本書紀においては、同じ読みで「罔象女神」と表記されることになります。
 弥都波=ミツハ(ミヅハ)は、「水走[みづは]」からきたもので、水を湧出し走らせる意味という理解が主流のようです(岩波・古事記注および『島根の神々』)。「水走」の神から伊豆の「走湯」の神を連想することもできますが、書紀は、この「水走」の意を伏せるように、この神の表記を「罔象女神」としたのでした。中国の古文献『淮南子』などは、「罔象」は水に住む怪物だとしていますから、書紀は明らかに古事記の(「水走」→)弥都波を貶める意向で表記変更しています。本居宣長や岩波の注などは、瀬織津姫の「瀬織」を「瀬に降りる」と理解していますが、これはミズハ=水端の神という解釈によるものかとみられます。わたしは、「瀬織」は瀬を織りなす水の流れ、つまり「滝」そのものを表すというように考えますけど、ともかく、書紀は、かなり意図的に貶めの表記をしたことはまちがいありません。
 恋の水神社は、自社の神を、書紀ではなく古事記に準拠し、さらに「美」神であるという意を付加して祭神表示をしたようです。そこに「桜姫」の伝承があるとのこと──。
 水神の化身としての桜、あるいは桜神としての瀬織津姫といった話に、また「桜姫」の話題です。
 この桜姫の父とされる桜町中納言=藤原成範ですが、この人物がまた「桜愛」を実践したようです。トカゲさんの「囲炉裏夜話」の話の補足として、小川和佑『桜と日本人』(新潮選書)から関係箇所を引用しておきます。

■『平家物語』の桜
 文学の中に取り上げられる八重桜は、王朝の女流歌人伊勢大輔が歌に詠んだナラヤエザクラが最も古いが、摂関時代に貴族たちに愛された八重咲きの桜は、『平家物語』の桜町中納言(藤原成範)の桜愛の物語に描かれる。
 平治の乱の主役で、院の寵愛を集めた信西はあえなく討たれ、その子成範は不遇の身となる。わが身を嘆く中納言成範は、わが屋敷を桜山に変え、ひたすら桜愛に生きるのだが、花のいのちの短いことを惜しみ、中国泰山の神・泰山府君(延慶本『平家物語』)に祈り、神の加護によって花のいのちを三七、二十一日延ばしたと語られる。
 この桜がタイザンフクン(泰山府君)である。
 ヤマザクラと、おそらく奈良時代に遣唐使が持ち帰ったであろうカラミザクラ(唐実桜)の自然交配種である。『平家物語』の「花も心もありければ、二十日の齢を保ちけり」とあるように開花期間は長く二十日を数える。
 花は親木のようにごく淡い白に近い中輪、花弁は四十枚から百枚。緑の若葉が開いてから花をつける。遅咲きで、四月中旬から五月初旬まで。オオシマザクラ系の大輪の八重桜と違って、その花姿は気品と寂しさを感じさせる。
 鎌倉時代に成立した平家琵琶の語りによって、この桜は人びとに知られていった。
 桜町中納言の桜の挿話を劇化したのは、室町初期の能楽者世阿弥であった。
 足利幕府による武家式楽である能楽によって、タイザンフクンの名は不動のものとなった。世阿弥は南北朝争乱後、覇者となった地方武士層に、このあわれ深い王朝の桜愛をドラマ空間に形象化して見せた。

 尾張知多の「恋の水神社」の「桜姫」の伝承はなにをものがたるのか──。「義朝の鎮魂」がからんでいたとしますと、これは伊豆の頼朝が台頭する前夜の話となります。
義朝の子である頼朝にとって、伊豆権現は、彼の守護神であり、かつ北条政子との「縁結びの神」でもありました。
鶴岡八幡宮の創建は、源頼義が、前九年の役(1051〜1062年)に勝利したあと、源氏の氏神として由比ヶ浜にまつったものを、頼朝が鎌倉に遷し、「鎌倉幕府の宗社」「関東総鎮守」とされます。八幡大元神の宇佐八幡の比売神が、伊豆権現=走湯神(=熊野神)と同神であることも考えられ、奇しき綾糸は結ばれているのかもしれません。それと、頼朝に挙兵を勧めた文覚の存在もあります。熊野那智における文覚の壮絶な修行と、那智の滝神によって、彼が死の淵から救われる話なども想い出されます。
 恋の水神社に桜が植わっていたかどうかは記憶にありませんけど、桜姫の恋人の病を治すために、はるばる京都から知多まで同社の霊水を汲みにやってきて、桜姫はここで亡くなるというのは、尋常の伝承ではありません。その亡くなり方が、ここには「霊水」はなくて、その場所は「今まで来たくらい東の方」にある──、そこまではとても行けないということで、桜姫は落胆のあまり亡くなるわけです。
 この話には、霊水の本源地が「東」へ移動したことが語られているのかもしれません。「今まで来たくらい」の距離を「東」にとりますと、それは駿河の半ばあたりでしょうか。富士山あるいは伊豆は、すぐ先です。

509 ちょっと、お聞きしてもいいでしょうか? さかな 2002/08/29 11:26

はじめまして。
初めてこのHPを拝見したので、同じ質問があったらお許しください。
(ログが膨大で読みきれませんでした)
瀬織津姫とはおしらさまのことを言うのでしょうか?
ご教示のほど、よろしくお願いします。

関係ありませんが、先月、田舎に行きまして塩釜で神代文字入りのペンダントを買いました。
裏面は、瀬織津姫でした。

510 オシラサマと瀬織津姫 風琳堂主人 2002/08/30 05:34

 さかなさん、はじめまして。
 ご質問の前に、塩釜で(鹽竈神社で、でしょうか)、神代文字のペンダントが売られているのは初耳で、しかも、その裏面に「瀬織津姫」とのこと、これまた初耳で「え?」という感じです。「神代文字」との組み合わせだそうですから、ひょっとして、ホツマ(秀真伝)を根拠としてつくられたペンダントかなともおもいましたが、そうしますと、鹽竈神社が販売することはないだろうという気もしますし……。あるいはキャラクターグッズかもしれませんが、不思議なペンダントですね。なにか詳しい制作経緯がおわかりのようでしたらまた教えてください。

 瀬織津姫は、東北(東国以北)にきますとオシラサマにもなるということです。瀬織津姫の基本性格は水神あるいは滝神ですが、のちに織姫(棚機姫)の性格もみられるようになります。
 この織姫の性格がオシラサマの多くの性格の一つである養蚕神→織姫の性格につながっていきます。
 オシラサマは一般的には東北固有の土俗信仰的な「家神」とされますが、オシラ神は、元は伊勢の神でもありましたから、神社祭祀の対象となる「神」でした(そのときの神名が瀬織津姫)。また、オシラ神はザシキワラシとも、河童ともなります。詳しい話は『エミシの国の女神』をお読みいただくとありがたいのですが、オシラ神がもっている多様な性格(現在わかっている限りでは、佐々木喜善、ネフスキーなどの調査によって合計11種類の性格伝承が報告されています──まだあるかもしれませんが)、および、神仏習合の様(同、8種類の神仏名がオシラ神の「本地」の神仏名として語られる)から、オシラ神は謎の神とされてきました。しかし、これらの多様な性格と多くの神仏名に秘された神が瀬織津姫であるとみられます。
 本の出版のあと、つい最近ですが、「鹿島シンメイ」とよばれるオシラサマもあることを知りましたが、鹿島神につきましても、その元神に瀬織津姫が隠祭されている可能性がとても高く、オシラ神に隠された神(の女神)が瀬織津姫という仮説は、まだ崩れていないかとおもっています。
 この東北のオシラ神のルーツは、水神・機織神など、これも多くの性格をもつ、三河の「天白神」という神へとたどることができます。三河の天白神は、オシラ神と同様に、多くの神が投影されていますけど、調査では瀬織津姫の名がもっとも多く確認されています。また、この神は、伊勢から三河へやってきたとされます(『岡崎市史』)。では、伊勢において、水神や機織神など天白神と同性格をもつ神とはなにか、あるいは、オシラ神の11の性格伝承に合致する伊勢の神とはなにかと考えていきますと、現在のところ、オシラ神(の女神)に該当するのは、やはり瀬織津姫以外に、その可能性をもった神はないだろうとなります。
 本の繰り返しのような概略の説明しかできませんけど、オシラ神というとても小さな神として、しかもとっても大事な神として、東北の草分け的な家々に伝えられてきたには、それこそ歴史的な大きな理由があります。もしオシラサマを調べるなら、この歴史がもっていた「力」の部分をも汲んでお考えいただけるとよいかとおもいます。

(追伸)
 過去ログが「膨大」といえば、たしかにその通りですね。今、どうやって読みやすくするか検討中ですが、とりあえず、左の「目次」の最下段に「過去ログ」をまとめて入れてありますので、必要なところは検索機能を使って飛んでいただければとおもいます(数字などで、化け字がまだ直っていないところがありますけど)。

511 ありがとうございました。 さかな 2002/08/30 08:23

 丁寧なお返事をいただきまして、ありがとうございました。
 『エミシの国の女神』読んでみます。HPもまだ全部読めていなくて申し訳ありません。
 塩釜神社・志波彦志波姫神社で売っているお守りの裏面は「速開津姫」なんですが、「瀬織津姫」と同神と認識していたので、「瀬織津姫」と書き込んでしまいました。すみません・・・・・・。
 ペンダント神代文字は「シホカマノミハシラノオホカミオホミシルシ」という字だそうです。
ペンダントに書いてある由来を記載します。

■由来
 このお守りは古来の八陵御神印をかたどり、文字は神字(当社に伝はる)をもって記された「塩竃三柱大神御璽」を表します。
 姫神は、迷える人を助け導く、御祭神塩土翁神の御神徳(神威)を頂き大海原の彼方に全ての罪穢れを祓い却る、速開津姫と伝えられます。

 「おしらさま」については、偶然なんですけれども言語の一致を見つけまして、そのうちにまとめようと思っているのですが、

ルーン文字
「23(othila)」 <世襲の土地、領土>
エトルリア語
 ウシル=太陽
エジプト語
 ウシル=オシリス

 となり、日本神話の「大国主」と定義できるのですね。
 特に、ルーン文字の「23(おしら)」が「スセリ姫と大国主が世襲した州(くに)」と考えると、スセリ姫とは、もしかしたら名前をたくさん持っているのではないか、そう思ったんです。
 瀬織都姫、三穂都姫、イチキシマ姫など、スセリ姫と重なるところはないでしょうか?
 大国主の正妻という割には、主神としてまつられている神社が少ない気がしますし(ほとんどみません)、嫉妬深いくらいしか印象がなく、よくわからない神様です。(歳徳神という異名もありますけど・・・・・・)
 伊勢とおしらさまの関わりはちょっと不勉強なので、本を拝見させていただき、勉強します。

 そういえば、元鹿島は潮来の「大生社」だと本で読んだ気がします。これは、何か関連があるのでしょうか?

512 近江の瀬織津姫神 kokoro 2002/08/30 10:05

 風琳堂主人さんが8月5日に、滋賀県で瀬織津姫を祀る神社のリストを公表しています。

>■琵琶湖=滋賀県にまつられる瀬織津姫
> @賀川神社【本殿主神】        蒲生郡日野町安部居1
> A佐久奈度神社【馬見岡綿向神社境内社】蒲生郡日野町村井705
> B敏鎌神社【高野神社境内社】     栗太郡栗東町高野726
> C唐崎神社【本殿主神】        高島郡マキノ町知内924
> D唐崎神社【西宮神社境内社】     高島郡新旭町旭502-2
> E吉野神社【本殿主神】        坂田郡伊吹町吉槻1414
> F小幡神社【本殿主神】        神埼郡五個荘町中303
> G金刀比羅神社【本殿主神】      神崎郡能登川町伊庭1310
> H走井祓殿【日吉大社境内社】     大津市坂本5-1-1
> I佐久奈度神社【本殿主神】      大津市大石中町56
> J河濯神社【長浜八幡宮境内社】    長浜市宮前町13-55
> K湯次神社【本殿主神】        東浅井郡浅井町大路785
> L八幡神社【本殿配祀神】       東浅井郡浅井町大依248
> M湯次神社【本殿主神】        東浅井郡浅井町湯次16
> N河桁御河辺神社【本殿主神】     八日市市神田町381
> O荒神山神社【本殿配祀神】      彦根市清崎町1501
> P長沢神社【本殿主神】        野洲郡中主町比江765

 このうち、由緒の調べがたい境内社(ABDHJ)と『日本の神々』等に行き届いた記述のあるIを除外した11社について考証してみました(祭神については、『志賀県神社誌』の記載で統一しました。)。

1.河川からの来訪
 F小幡神社   【瀬織津姫神、速開都姫神、気吹戸主神、速佐須良姫神 外13柱】
 N河桁御河辺神社【天湯河桁命、瀬織津姫神、稲倉魂命】
 この2社はいずれも、神崎郡の式内小社、川桁神社の論社です。Nの祭神中、天湯河桁命(湯河板挙)は『日本書紀』によれば鳥取部の祖です(『新撰姓氏禄』では鳥取部の祖、角凝魂の三世孫)。

「鳥取部は、古事記の垂仁天皇の段に、「鳥取部 鳥甘 品遲部 大湯坐 若湯坐」を定められた事が見える。ここから推察すると垂仁天皇の御代に定められた鳥取部が、本郡に居住し、その氏の神として、祖とする角凝魂または三世の孫に当たる大湯河桁命を祀った神社ではなかろうか。(『式内社調査報告』P201)」

 鳥取部は、ホムチワケノ王の言語障害を巡る物語を介して、「吾縵の郷」と繋がります。したがってこの線から、瀬織津姫神にアプローチすることも可能です。ただし、私の感覚では、「河桁」という語だけで、川桁神社の祭神を「大湯河桁命」に比定する考え方はやや強引な感じを受けます。同じ「河桁」に注目するにしても、むしろ別の解釈を取りたいです。気多神社の「気多」について、先人の研究を引用してみます。

「かって中山太郎が「気多神考」を書いたことがある。気多神社は、能登、越中、越後、加賀、越前、但馬、飛騨、岩代の諸国にあり、また気多という地名は因幡、但馬、遠江にも分布する。これらはすべて海または川に沿ったところである。(大林太良『私の一宮巡詣記』P218)」

続いて、折口信夫が気多神社の「気多」を解説した文章も引用します。

「けたとは、水の上に渡した棒で、橋の一種であるとは言えますが、橋ではないので、間のあいている渡し木なのです。(中略)神は海からすぐ上がるのではなく、一種の足溜まりを通って上がったらしいのです。それで、けたという土地が日本の海岸地方に分布しており、又、古い信仰が残っている理由なのです。けたという所は、海から陸地へ上がる足溜まりですから、その土地が同時にけたと言われます(『同書』P219から孫引き)」

式内川桁神社は論社の多い神社で、FNも含め『式内社調査報告』には6社もの論社が登載されています。これらは、鎮座地が川辺であるケースが多いです。そのいずれが本来の式内社であったかの詮索はともかく、この神社は川の神を祀る神社であったように思われます。とすれば、社名にある「川桁」とは、こうした川神が河川から来訪する「けた」、すなわち「川けた」ではなかったでしょうか。

2.記憶と附会
 E吉野神社【瀬織津姫大神、武甕鎚大神】
 K湯次神社【建御名方命、瀬織津姫命】
 L八幡神社【主祭神:応神天皇 配祠神:建御名賀多命、瀬織津姫命】
 M湯次神社【建御名方命、瀬織津姫命】

 EKMはそれぞれの由緒で、浅井郡の式内小社、湯次神社であったと主張しています(『式内社調査報告』では、K→「論社A」、M→「論社B」、Eは取り上げられていない)。そのいずれが本来の湯次神社であったかはともかく、弓月寺という神宮寺名が文献にあることから、湯次≠フ読みは本来ゆつき≠ナ、当社は浅井郡に居住していた秦氏が、祖神である弓月君を祀った古社であったことは、古くから諸書で説かれています。現在のところ、弓月君と瀬織津姫神にとくだんの関連は認められません。したがって、これらの神社に祀られている瀬織津姫神は附会されたものと考えます。Mが鎮座している浅井町湯次≠ヘ、地形図でゆすぎ≠ニふりがなをされています。音便によりゆつき≠ヘ現在、ゆすぎ≠ノなっているようです。このゆすぎ≠ェ濯ぎ≠ニなり、そこから禊ぎのことが連想されて瀬織津姫神が附会されなかったでしょうか。
 あるいは、ゆすぎ≠ニいう音だけで、瀬織津姫神を附会と考えるのは強引かも知れません。しかしながら、K〜Mが鎮座する浅井町は、中臣金連の終焉地です。『日本書紀』によれば、壬申の争乱後、近江朝側の重臣だった金も捉えられ、浅井郡田根で斬殺されています(天武元年8月25日)。この浅井郡田根が現在の浅井町で、小谷山の南東部すぐのところには昭和29年まで田根村がありました。こうしたことから、地域の意識に残った大祓詞の作者、金の記憶が、この附会を後押ししていると考えられます。
 なお、Eについてはその由緒を『志賀県神社誌』から引用しておきます。

「往古は湯次神社と称し、弘治元年の「神覚」によれば、湯次明神、浅井郡奥草野荘吉槻に鎮座と明記され、社号は往古湯次中世嗣と書き、ユスギと言った。東浅井郡十四座の一つである。「神名帳考証」に世嗣村明神と称したが、後年吉槻と書き、ヨツキ、ユツキという。詞の中の佐久那太理が桜谷となまり、桜は吉野を連想して、吉野神社となったと言われる。(P443)」

 ここでは桜樹が特権的に扱われているとともに、やや唐突に吉野のことが出てきます。9世紀前半の浅井郡湯次郷には、的臣吉野という戸主がいたので、この地域と吉野との繋がりは結構、古いかも知れません。また、近江には蒲生郡を中心に勝手神社や金峰神社といった名称の神社がみられ、それらの社伝を調べると、修験道と関係があったことが伺えます。Fへ行ったとき、社家の方らしい女性から聞いたのですが、この神社にある霊泉で修験者が禊ぎをしてから吉野の金峰神社へ行くという信仰が、つい最近まで残っていたそうです。なお、K〜Mと違い、Eで瀬織津姫神と一緒に祭られているのは建御名方命ではなく武甕鎚命です。これはちょっと不思議です。
 Lは社伝によれば「元亀天正年間の兵火により古記録等を失っているが、文禄年中に長浜八幡宮を勧請し又湯次の庄、湯須神社の分霊をも奉斎したと伝えられている。<後略>(『志賀県神社誌』P470)」そうです。

3.女神の島々
 O荒神山神社【主祭神:火産霊神、奥津日子神、奥津比賣神 配祠神:瀬織津姫神、速秋津比賣神、気吹戸主神、速佐須良姫神】
 『志賀県神社誌』からの引用です。

「社伝によれば、起源は天智天皇の御宇、近江国に四ケ所の祓殿が設けられた。『近江輿地志略』によると「荒神山、上平流村、下平流村の中間にあり。(中略)中世当国四所の祓殿というは南三郡は韓崎、西二郡は白鬚社前、北三郡は木本中四郡は此荒神山なりといふ」とあり、犬上、愛知、神前、蒲生の中四郡の祓殿であった。<後略>(P74)」

 中世、琵琶湖沿岸に四ケ所の祓殿があったというのは、なかなか興味深い記事です。また、四ケ所の祓殿のうち韓崎神社と白鬚神社(※ただし、正確には「白鬚社前」。)は由緒ある名社であり、それらを含めた四ケ所での祭祀となると、国家的な規模の祭祀を感じさせます。なお、白鬚神社については、493で風琳堂主人さんが、示唆的なカキコをなさっています。「北三郡は木本」とある木本≠ヘどこのことか不明です(余呉町池原に樹本神社がありますが、琵琶湖からかなり離れています。)。
 荒神山神社の鎮座地は、彦根市西部にある標高284mの荒神山です。この山は周囲を広い田圃に囲まれ、北麓は曽根沼という大きな沼になっています。湖水からも1〜2qしか離れておらず、現在のように地続きとなったのは干拓等の結果で、上代は明らかに琵琶湖に浮かぶ島だったと思われます。荒神山は、沖津嶋神社や日牟礼八幡神社へも南西に約15qほどで、竹生島や沖津嶋のような琵琶湖沿岸の島々に鎮座する神社が、しばしば市杵島姫命を祀っており、しかも、それが瀬織津姫神のことを連想させることを考え併せたとき、たいへん興味深いです。

4.女別當命という祭神
 C唐崎神社【瀬織津姫神、速開都姫神、速佐須良姫神】
 上記Oの社伝に引用されていた『近江輿地志略』では、近江にあった四ケ所の祓殿のうち、「南三郡は韓崎」とあります。この唐崎≠ヘ、大津市唐崎に鎮座している日吉大社の境外摂社、唐崎神社のことでしょう。当社の由緒書きを引用します。

「日吉大社の古記によると、舒明天皇六年(六三三年)、琴御館宇志丸宿弥がこの地に居住して、「唐崎」と名付けた。御祭神・女別當命は宇志丸宿弥の御妻君で、この地に松を植えて、持統天皇(六九七年)の御代に創建したと伝えられている。
 天智天皇が白鳳二年(六七五年)三月この地に臨幸あらせられた時、湖上の海舟に田中恒世という者が神命を受けて唐崎の松の下にお送り申上げ、その時船中にて恒世は粟飯を供した。帝は大へん喜ばれ、毎年この期に粟飯を食されるのを約束されたと伝えられている。この例が今日も日吉大社例祭、山王祭で執行される唐崎沖での「粟津の御供」神事に残されている。
 古来この唐崎は七瀬之祓(ひちせのはらい)の一処と定められて、朝廷の夏越の祓を始め、国家の大事に当っての祓を行うについての要所と定められた霊場であった。」『玄松子の記憶』http://www.genbu.net/place/index.htmサイトより

 当該唐崎神社は女別當命を祭神にしていますが、この女神は瀬織津姫神のことのように思われます。神仏習合思想の影響を受けて、日吉大社が比叡山の地主神化した際、摂末社も天台教学の体系によって再編されました。「瀬織津姫神→女別當命」は、それに伴う神名変更だったでしょうか。私は、松は龍に関わりの深い植物である、という風琳堂主人さんの洞察に感謝しているのですが、この説話にも松が登場します。また、夫婦神であったとされていることにも興味をひかれます。
 さて、Cの唐崎神社は高嶋郡の式小社、大川神社の論社です(『式内社調査報告』の論社A)。この神社は百瀬川が琵琶湖に注ぐ河口付近に鎮座しており、大川神社という本来の社名から言っても水の神です。おそらくこうした立地や水神格から大津市の唐崎神社が連想され、社名が変更されたのでしょう。Cの祭神が瀬織津姫神であるのは、大津の唐崎神社の祭神、女別當命が瀬織津姫神のことである徴表と思われます。

「本社は創立不詳といへども、天智の朝既に鎮座あり、当時「大川神社」と謂ひ、天智の朝沿湖の川社として修祓の祭礼を行わせらる。
 文徳天皇仁寿元年六月頃より「辛崎」と称し、享保の頃より「唐崎」の社号を称するに至る。(『式内社調査報告』P610より、『神社明細書』の孫引き)」

5.佐久良庄の三社
 @賀川神社【瀬織津姫命】
 『志賀県神社誌』から社伝を引用します。

「創祀年代不詳。蒲生郡志に「佐久良庄三社の一にして祭礼古へより長寸大屋両社と関連し同日なり、社伝に天応元年の勧請と見ゆ、貞治三年小倉右馬允当社を修造す、小倉氏は佐久良城主なり。<後略>(P332)」

 当社は、佐久良川流域のかって佐久良庄と呼ばれた地域に鎮座し、ここにもキィワードであるサクラ≠ェ登場していることは、ご存じの通りです。長寸神社と大屋神社は同じ佐久良川流域に鎮座する式内社であり、当社を含む三社の祭日が同日であったというのは、これらの神社に祭祀面で繋がりのあった可能性を感じさせます。光仁天皇の天応元年、右大臣の中臣清麿が勧請したとされ、「この佐久良ノ庄三社は共にその勧請が同じとして、古くより祭礼日を同日にして神輿途御を行っている。又、中臣清麿即ち藤原氏崇敬の春日社の別宮として摂社を祀るのも同じである。この事は、三社が古くから何らかのつながりを持ち、中央との結びつきを意味するのではなかろうか。(『式内社調査報告』P166〜167)」

6.魅惑的なイメージ
 P長澤神社【主祭神:天瀬織津姫神 配祠神:多記利姫神、市杵島姫命外五柱】
 『志賀県神社誌』より、社伝を引用します。

「社蔵の「長澤神社表録」によれば、大宝三年の創建と伝え、近江国司紀朝臣友安が朝廷に奏聞、官符を賜って宮殿を造営、神田、封戸が附与され、正一位勲三等長澤三処太神の勅額が揚げられたという。境内の長澤池は、菖蒲の名所として名高く、高倉院の御宇安元二年五月ごろ、藤原俊成は、「長沢の 池のあやめを 尋ねてそ 千代のためしに ひくべかりやる」と詠み、鎌倉将軍源頼朝は文治七年に禁制を立て、この池の「杜若」の無断伐採を禁じた。<後略>(P233)」

 この神社は現在、社地の横に見苦しい道路擁壁があって、景観が損なわれていますが、付近には広範囲にわたって著しい湧水の形跡が認められます。かっての水辺に鎮座する美しい境内だったでしょう。私が行った一昨年の盛夏は長い間、雨が全くなかった時期だったためか、長澤池の水は枯れていました。
 ここで登場する菖蒲をはじめ、瀬織津姫神を追っていくと現れる桜、椿、松、泉、富士といったイメージは、美しく魅惑的ですが、反面、花札に登場するようなありふれたものとも言えます。もしも、瀬織津姫神を畏れる者達があったとすれば、こうした紋切り型で、たやすく真似される弱いイメージを押しつければ、女神から文化的ポテンシャルを奪うことになります。

7.こんぴら様
 G金刀比羅神社【瀬織津姫】
 この神社がなぜ、瀬織津姫神を祭神としているのかは不明です。通常、金刀比羅神社の祭神は大国主命(大物主命)なので、何か理由があったと思われます。『志賀県神社誌』の由緒は以下だけです。「安政四年十月当伊庭の商人中村新九郎の祖等が讃岐国琴平山金刀比羅宮より分霊を勧請して伊庭蛇塚の地に小祠を建立した。(P378)」

☆ 今日からバス釣りも兼ねて、琵琶湖周辺の神社巡りに行ってきます。

513 宝満神社 なにがし 2002/08/31 14:06

はじめまして、なにがしと申します
>宝満神社の玉依姫が、「赤米」を持ち込んだという「稲作発祥」伝説
九州の大宰府に竃門神社があり、こちらにも玉依姫が祭られています。このお山はもとは竃門山だったようですが後に宝満山と変わったようです。種子島の宝満神社と繋がりがあるかも知れませんね。

514 黄泉国の女神たち 風琳堂主人 2002/09/01 07:39

 さかなさん、あのペンダントは塩釜神社・志波彦志波姫神社で売っているのですか。
 裏面に「速開津姫」──。「ルーン文字」、および「由来」にある「八陵御神印」「塩竃三柱大神御璽」についてはまだうまく理解ができませんけど、このペンダントの「姫神」が「迷える人を助け導く、御祭神塩土翁神の御神徳(神威)を頂き大海原の彼方に全ての罪穢れを祓い却る、速開津姫と伝えられます」という文面から、大祓祝詞に出てくるハヤアキツヒメのことだとはわかります。
 塩釜の地主神でもある志波姫は伊豆比売と同神であり、さらに諏訪姫でもある可能性があることは、これまでにもふれてきていますが(「日高見=北上川の水神」ほか)、これらの神が共通して秘めてきた神が瀬織津姫でもあるようです。
 ハヤアキツヒメは、瀬織津姫とハヤサスラヒメとともに大祓いの三女神を構成しています(男神は気吹戸主神一神)。この祓いの三女神は、もともと瀬織津姫一神であったものが、大祓祝詞が推敲される過程で三女神化された可能性があります。さかなさんが速開津姫と瀬織津姫を「同神」とみられたことは、そのとおりだろうとわたしもおもいます。
 元鹿島とは鹿島の元神をまつる社ということでもありますが、潮来の大生神社はその一つで、ここは「建御雷之男神」を祭神としています。神域は広く、往古、ここから鹿島の地へ大氏が開拓移動したのだといわれますと、そうかもなとおもえてきます。建御雷之男神というのは古事記の表記からきていますが、神名にあえて「男神」とあることは、建御雷之「女神」もいたことが考えられてきます。この雷神の「女神」となる可能性のある神は、伊勢神宮の祭祀過程をみますと、これも瀬織津姫の可能性がとても高いといえます。
 スセリヒメについては、大祓祝詞の一女神と関わりのある可能性がありますので、少しまとめてふりかえってみます。

 ハヤアキツヒメは、古事記では「速秋津日売神」と表記され、「速秋津日子神」と対神のかたちで「水戸神」として描かれていましたが、日本書紀においては、「水門の神たちを速秋津日命という」という描かれ方になって、その名はぼかされています。
 いずれにしてもハヤアキツヒメは、水戸、水門の神、つまり河口の神として設定されているといってよいのですが、ここには、当然ながら大祓祝詞(「六月の晦の大祓」)の描写に基づく性格規定があります(祝詞の表記は「速開都比盗_」)。
 東北でいいますと、阿武隈川の河口神としてハヤアキツヒメの名がみられますけど(宮城県亘理町・安福河伯神社)、岩手・青森にまできますと、たとえば馬淵川の川口神社(八戸市)ではハヤアキツヒメとともに瀬織津姫の名が表れてきます。
 河口神というのは「川神」の部分神であるというのが自然な理解かとおもいます。つまりは川神=水神というのは、もともとは水を司る神としては一神であったはずで、実生活の感覚からいえば、それを川上、川中、川下=河口などと、それぞれの水神を特別に分けて立てる必然はないわけです。
 それを上流は瀬織津比盗_、水門=河口は速開都比盗_、海原の下の根国を司るのは速佐須良比盗_と、「罪」の消去の流れを司る女神たちを配したのが大祓祝詞=中臣祓でした。この祝詞は、水の流れを自然とみるというより、国家=朝廷関係者の「罪」を無化する流れとして、その要所要所に「祓い」の女神を配した=分神化させたとみられます(正確には、速佐須良比盗_の前に風神=気吹戸主神による「罪」の吹き飛ばしがありますが)。ともかく、大祓祝詞の創作は、水神がもっている自然性の変質化でもありました(都合のよくないことを「水に流す」といいますが、この言葉のルーツでもあります。ただし、川→海の「水」の浄化力には限界あり)。
 ところで、この河口神=ハヤアキツヒメは、神道世界においてはどのように「解釈」されていたかを少しみておきます。

■清原宣賢『中臣祓解』のハヤアキツヒメ解釈
速開都比塔gハ、月神ノ御事也。或ハ、水門神トモ申也。水門神ニ、二神マシマス。一ヲハ、速秋津日子神ト申。太神宮別宮、滝祭宮、是也。一ヲハ、速秋都比売神ト申。太神宮別宮也、並宮、是也。一切ノ悪事ヲ、消滅スル神也。陰陽道ニ、五道ノ大神ト申、是也。

 清原宣賢(1475〜1550)は、吉田神道の理論家ですが、伊勢神宮内宮にあります「滝祭宮」は速秋津日子神、滝原宮並宮は速開都比盗_という「解釈」がなされていることがわかります。古事記の記述に基づいた解釈に一見みえますけど、宮川上流に位置する滝原宮並宮が「水門神」=河口神とするには無理があります。また、神宮側の資料である『神宮要綱』(昭和3年)によれば、この滝原宮「並宮」および伊雑宮の神は「皇大神荒御魂」という規定がなされていました。この「皇大神荒御魂」は内宮の元宮というべき「荒祭宮」の神と同神で、この神が瀬織津姫でした。また、滝祭神も、荒祭宮祭祀の前における滝神=瀬織津姫でした。
 吉田の解釈はかなりこじつけ的でしたが、しかし興味深いのは、「速開都比塔gハ、月神ノ御事也」という理解でした。ハヤアキツヒメかどうかはともかく、水神は本来「月」と関わる女神だという認識がここには投影しています。月神を男神として創作したのは記紀でしたが、これは太陽神=日神を女神として創作(皇祖神=アマテラスを創作)したゆえの無理な整合化というべきものでした。
 伊勢の地の広範囲にわたって(実際はもっと広範囲)、瀬織津姫祭祀がなされていたことが考えられますが、ハヤアキツヒメが瀬織津姫の一分神であることの傍証話です。
 大祓祝詞における残りの女神は、ハヤサスラヒメ=速佐須良比盗_とされています。
 本居宣長は瀬織津姫を禍津日神(悪神)という理解をしていましたが、宣長は、この速佐須良比盗_を須勢理姫(古事記の表記は「須勢理毘売」)と同神という理解をしていて、これは卓見でした。宣長が速佐須良比盗_と須勢理毘売を同神とみた理由は次のように「解説」されています(『日本の神々の事典』学研)。

■本居宣長の速佐須良比盗_・須勢理毘売同神説
 本居宣長は、この速佐須良比唐、素佐之男命の娘の須勢理毘売と同じ神であるとみる。その理由は、大国主神が八十神[やそがみ]の禍事[まがごと]により根の国におもむき、須勢理毘売のはからいにより顕国[うつしくに]へ帰り、大事な仕事をすることができた。これは速佐須良比唐フ神徳により、人々が罪穢れを祓い福を得るのと、ことのおもむきが同じであるという。世の中の凶事[まがごと]はすべて黄泉国にはじまり、結局また黄泉国に帰るのが祓いの本義であるという。(茂木貞純)

 宣長による速佐須良比盗_と須勢理毘売が同神とみる根拠は、「速佐須良比盗_の神徳」によるもので、「ことのおもむきが同じ」ということらしいのですが、「神徳」による同神説では、説得力は乏しいとみるしかありません。
 古事記における、素佐之男の娘・須勢理毘売の存在は「黄泉国」の女神であることはわかるものの、「顕国」つまり、生の国へやってくると、とたんに生彩を欠いた神となります。具体的には、高志の国の沼河比売[ぬなかわひめ]という女神(水神)に対する猛烈な嫉妬神という姿以上には描かれません。これは、依って立つ基盤=国が異なるところへやってきたゆえに、須勢理毘売にとっては「嫉妬」は唯一の自己主張だったのかもしれません。この「嫉妬」に転換する須勢理毘売の存在に眼をうばわれがちですが、黄泉国から生の国(顕国)への帰国・転換時に、大穴牟遅神は大国主神と名を変えます。
 天の岩戸の内部もおそらく黄泉国であり、そこから出てくる天照大神もそうでしたが、黄泉国の通過儀礼によって神は微妙に質を変えて再生するということなのでしょう。須勢理毘売の「嫉妬」は、その夫神の心移りに対する嫉妬のように描かれていますけど、ここは、夫神の変質再生という姿に対する異和の表現とみることもできます。
 イザナミは黄泉津大神[よもつおおかみ]とも表記されていました(古事記)。そのイザナミのいる国の住人(住神)である素佐之男もまた黄泉国の王であり、その娘の須勢理毘売も当然、黄泉国の女神だということになります。女神は黄泉国を出自とするという、陰陽思想による、かなり一方的な解釈が、こういった表現の底辺にあるとみることができます。速佐須良比唐ェ「罪穢れ」を根国=黄泉国にもっていって無化する力をもっているとすれば、同じ黄泉国の須勢理毘売も同神の可能性がある──。宣長の「神徳」による同神説は、「黄泉国」というキーワードに置き換えて語られる必要があるとおもいます。
 記紀創作時における朝廷内部にハバを聞かせていた陰陽師たちの思想は、最初から素佐之男命を黄泉=陰の国の神とし、アマテラスを生=陽の国の神として設定する意図があったものとおもわれます。国家=朝廷の「罪穢れ」を浄化することを、具体のイメージで、その無化の過程を表現したものが大祓祝詞=中臣祓でした。この祝詞の創作・推敲過程で、最後の黄泉国の女神=速佐須良比盗_が、たとえば素佐之男であったとしても、特段おかしなことはなかっただろうことが考えられます(もっとも、大祓祝詞の創作・推敲時に、のちに古事記に初めて記される「素佐之男命」という神の名が認知されていたかどうかは怪しいものですが──)。
 ともかく、神道世界においても、この速佐須良比刀¢f佐之男説を説いていた人物がいました。前に引用しました清原宣賢です(『中臣祓解』)。

■速佐須良比盗_=「悪神」説
 此神(スサノウ)ハ、悪神ニテマシマスニ依テ、天上ニモ、エスミ玉フヘカラス、又葦原中津国ニモ、エヰ玉フヘカラストテ、諸神ノ、根国ヘ、追ヤリ玉ヘリ。故ニ、根国底国ニ、マシマス也。陽神ニテ、マシマセトモ、根国ニ御坐アルホトニ、比塔g申也。

 陽神=男神といえども、根国=黄泉国にあるときは比刀¥乱_となるという考え方のようです。清原の時代は室町期ですから、この考えをそのまま記紀の創作時に応用することは慎重にすべきでしょうが、スサノウ=ハヤサスラヒメが「悪神」という規定がなされていることは注意しておいてよいでしょう。
 舞台を記紀の場面に転じますと、「悪神」=禍津日神の存在がまず浮かんできます。清原は同書で、瀬織津姫を禍津日神と神直日神ほか、イザナギの禊ぎ祓いのときに誕生した多くの神々(八十禍津日神〜建速素佐之男命まで)の総称神という理解をしていました。清原のこの総称神という理解は、瀬織津姫一神を、ほかの禊ぎ祓いの神と同格とみるのではなく、大祓いの最高神とみていたということなのでしょう。
 ハヤサスラヒメとスセリヒメが同神であり、ハヤサスラヒメとハヤアキツヒメが瀬織津姫の分神としますと、論理上、スセリヒメも瀬織津姫の分神である可能性があります。
 このことは、八幡の比売神が宗像三女神として理解されてきたものの、この八幡比売神=宗像三女神が瀬織津姫であることとも関係してきます。たとえば、宇佐八幡から神を勧請した、石見国邑智郡の市木神社の社伝においては、スセリヒメが宗像三女神の総称神(「此ノ三神ハ一体分身ノ神ニシテ一体ノ時ハ須勢理毘売ト称ス」)という認識がなされていたことを、一つの例証として挙げておきます。
 記紀──特に古事記における、大穴牟遅神→大国主神を筆頭とする神々の物語は、かなり高度な文学作品として完成されています。当時の宮廷作家の創作センスは群を抜いた力量であったことを認めざるをえません。
 しかし、この文学的神話表現の底を貫いているのは、黄泉国を忌避する思想と、黄泉国の神は女神とみる思想ということでしょうか。だれだって死の国はイヤといったレベルで語ってしまってはみえなくなってしまうのですが、当時の記紀の創作者にとって、倭→日本という国家誕生を証明する書物として、特に日本書紀はつくられたことを考えますと、彼らにとって黄泉国とは、たしかに死一般のイメージとして、想像の範囲内では考えられたでしょうが、まだ周辺のまつろわぬ国を異界国(=エミシの国)とみる、つまり黄泉国とみなしていたことが考えられます。
 このまつろわぬ異界国の民が奉祭する神は、まさに黄泉国の神として、神話に形象化されたのでしょう。その黄泉国の神は、「悪神」であり、かつ「女神」であることを特徴としていることは重要で、そこに、黄泉国の大社である出雲大社の創建の意味もあります。
 天日隅宮ともいわれる出雲大社に封じられた神こそ、最大の黄泉国の神であったわけで、その圧倒的な神威を封じるために、あるいは慰撫するために(「出雲国造神賀詞」の表現では「媚び鎮め」)、当時最大の建造となったのだとおもいます。神社の注連縄の太さは、封じる神の威力に比例するとすれば、出雲大社の注連縄の太さにもそれはいえるはずです。また、出雲大社の注連縄の巻き方が他社と逆巻きというのは、出雲大社の神の複雑な神の性格とその封印を表しているとみることができます。
 大国主神の正妻とされるスセリヒメでしたが、出雲大社における祭祀の実態は、その主神と比較しますと、その差は歴然としています。出雲大社は、夫婦二神というよりも、出雲大神一神のみをまつるものとみられます。
 黄泉津大神=イザナミ──ハヤサスラヒメという黄泉国の女神の大きな流れがあり、そこに生=木花咲耶姫と対比されることにおいて死=磐長姫や、大物主との関係で亡くなる箸墓の姫=倭迹迹日百襲姫(箸姫=橋姫です)などが、この「黄泉」の大河の支流をつくっています。
 イザナミはしばしば熊野の水神として祭神表示に登場してきます。その是非は保留ですが、ハヤサスラヒメも水神=瀬織津姫の分神としますと、これも水神であり、モモソヒメについても、たとえば讃岐国においては、明らかに水神の異称として祭神化されています(田村神社=定水大明神、水主神社)。磐長姫=苔虫神は、伊勢の地で水神=瀬織津姫にかぶって表示される神でもあり(朝熊神社御前神社)、これも「苔」から水の匂いもします。
 水神=女神はなぜ黄泉国の神とされるのか──。いろんな答え方があるとおもいますが、わたしの現在の理解では、やはり、伊勢の大元神に水神=女神があり、それが絶対的な陽の神=アマテラスと対極にある神だという認識が記紀および大祓祝詞の創作者たちに存在したゆえだろうとなります。これはいいかえれば、この水の女神を奉祭する民の国に、それまでとは異質な神の国が誕生したことによるものではないのかとなります。
 大きな概論のような話です。

515 琵琶湖の瀬織津姫 風琳堂主人 2002/09/01 07:44

 なにがしさん、はじめまして。
 種子島の宝満神社の「宝満」はおっしゃるとおり、福岡の宝満山(←竃山)からきているものとわたしもおもいます。この宝満山は水源山でもあり、そこに鎮座するのが玉依姫なのですが、この仮名の女神の性格はやはり水神とみることができるとおもっています(玉依姫の「玉依」が霊憑、神の依り代の意という一般的な解釈は可能ですが、「ある神」の異称とみたら、そこにはどんな秘められた神がみえてくるかといったことがあります)。現在確認できる、たとえば下鴨神社を筆頭とする「玉依姫」をすべて洗い出してみたら、そこには既成の神観が大きく変わる「なにか」が潜んでいる可能性があるとおもっています。よかったら試みてください。

 kokoroさん、近江あるいは琵琶湖周辺の瀬織津姫をまつる神社についての資料と考察をありがとうございました。
 伝承・由緒等については初めて読むものばかりで、kokoroさんがふれられた神社については補足する資料をもっていませんので、いつか自分が歩く機会に参考にさせていただきます。
 いただいた考察で、kokoroさんの分類にしたがって、少しメモを──。

1 河川からの来訪
 折口信夫さんの「川けた」考をわたしもとります。川に桁を組み、そこで衣を織って神の来訪をまつ棚機の女神のイメージが喚起されます。

2 記憶と附会
 湯次をどう理解するかはむずかしいなとおもいました。秦氏と瀬織津姫にもし関連があるとしますと、養蚕→機織のことがあります。こういった技術を見守る神がいたとしますと、まんざら無縁でもないことも考えられるのですが、秦氏の出自そのものが闇に包まれていますので、判断は保留です。
 あと、瀬織津姫祭祀の消去過程を考えますと、記紀の神々ならばともかく、瀬織津姫については、「付会」神として祭神表示される可能性は少ないのではないかという気がしています。
 湯次[ゆすき]が「湧き水に富む村」という意味だと主張されていることも捨てがたいです。
 Eの吉野神社の祭神表示で、「瀬織津姫大神」と「武甕槌大神」が併祭されていることは一見奇妙ですが、鹿島神宮摂社・息栖神社の男甕・女甕や、元鹿島・大生神社の「建御雷之男神」に対する消えた「女神」の可能性ということを考えますと、あるいは奇妙な表示ではないのかもしれません。東北の虫追い祭りに出てくる鹿島人形は男女対の神とされますし、福島の浜降り神事では、瀬織津姫と武甕槌が一年に一度の「逢瀬」をします(「たんたんぺろぺろ祭」)。それと、鹿島神宮の本宮と奥宮の配置は縦ではなく、横並びになっていて、これは通常の奥宮の配置とは異なっていて、ひょっとすると鹿島神はもともと男女二神ではなかったのかとも考える必要がありそうだとおもっています。

3 女神の島々
 琵琶湖から唯一流出する瀬田川畔において、天智天皇──中臣金/鎌足によって瀬織津姫は大祓いの神として設定されたわけですが、その天智が琵琶湖の四方に「祓殿」を設けたという伝承をもつ荒神山神社。この一社のみに、瀬織津姫の名が残っているというのも、不思議といえば不思議です。あとの三社のうち、「木本」は不明としても、白鬚神社と韓崎=唐崎神社から瀬織津姫の名がいつどのように消えたのか──不思議です。
 荒神山はかつて「島」であったとしますと、たしかに宗像神の匂いがします。それと「荒神」という社名です。「荒ぶる神」としての地主神の女神のイメージでしょうか。

4 女別當命という祭神
 現在、瀬織津姫の名を出していない唐崎神社(日吉大社摂社)の祭神=女別当命(同社の由緒では、この祭神の読みは「わけすきひめのみこと」とルビを振っています)が瀬織津姫である可能性については、わたしもそのとおりだとおもっています。
 天智と琵琶湖の関係を考えるとき、その祭祀で特記すべきものは、大津遷都とともに三輪山の神を坂本の地に勧請してきて、現在の日吉大社を「国家鎮護」の神としたこと(668年)と、その翌年=669年に、瀬織津姫を佐久奈度神社において大祓いの神としたこと、でしょうか。
 日吉大社の社域を流れる川は大宮川といい、そこに走井橋がかかっています。この橋のたもとに「走井祓殿」の小さな祠があり、ここに瀬織津姫がまつられています。現在の大宮川は穏やかな流れですが、13世紀には社殿一切を押し流したという、まさに「走井」だったようです(中井国重『日吉神の謎』)。この走井という呼称がミズハ=水走と関連するものであることは明らかで、大宮川の河口部が「新唐崎」という地名となっているのも、摂社・唐崎神社にちなむ命名であることが考えられます。
 日吉大社の地主神は、大年神と天知迦流美豆比売の子神とされる大山咋神と、その妻神=鴨玉依姫とされ、社殿背後の牛尾山(八王子山)の山頂にまつられていました(現在、山頂には両神は「荒魂」の名でまつられています)。牛尾山には朝陽を反射する巨岩(金大巌[こがねのおおくら])があり、湖東・湖南の人々は、そこに太陽神の存在を認めていました。記紀ができるのは、天智亡きあと半世紀ほどあとのことで、ここの地主神が最初から大山咋神だったかどうかは検討を要するとおもっています。この神体山・牛尾山の異名に「八王子山」という名があることも、この検討の余地を示唆しています(アマテラスとスサノウの「誓約」による五男三女神の計八神の子神たちにちなむ山名の可能性があり、天照信仰の名残りであることが考えられます)。
 天智は琵琶湖の祭祀にどこまで関与したのかということでいえば、わたしは、不比等時代に比べたらまだ穏やかなものだったろうという気がしています。中臣金/鎌足による大祓祝詞の創作があるにしても、です。天智は鹿島神宮の社殿をつくったりしていて、この東国の神に対する天智の意識は、鎌足の関係で一見説明づけられるようにみえますけど、鎌足の死が雷の直撃によるものという書紀の記述・記録は、天智の内部で、雷神の祟りを畏怖する感情の表れとしての社殿造営ではなかったかとおもわれます。

5 佐久良庄の三社
 賀川神社は瀬織津姫一神を祭神とし、祭礼を同日とする「佐久良庄の三社」の一社とのこと。あとの二社は、長寸神社と大屋神社。
 ここで不思議なのは、長寸神社と大屋神社の二社は延喜式内社なのですが、賀川神社のみはそこから除外されていることです。ちなみに、長寸神社の祭神は「事代主命、【配祀】天照荒魂神」、大屋神社の祭神は「五十猛神」。光仁時代、右大臣の中臣清麿によって、この「三社」がなぜまとめて勧請されたのか──問いは問いとしてそのままにしておきます。

6 魅惑的なイメージ
 長沢神社──主祭神・瀬織津姫に配祀された神は「多記利姫神、市杵島姫命外五柱」とのこと──。「外五柱」にタギツヒメが含まれているのかどうかですが、この表示ですと、タギツヒメ=多岐津姫=滝津姫=瀬織津姫という可能性もありそうですね。としますと、鹿児島県出水市の厳島神社や大分県中津市の闇無浜神社と同種の祭神表示となります。瀬織津姫が宗像三女神の一神として表示される三例目となります。
 桜、椿、松、泉、富士──たしかに花札世界に近いです。それぞれの指標・象徴事物が、どれほど美と毒をあわせもっているかを描き出さないと、わたしたちも文化ポテンシャル零の瀬織津姫談議に落ちかねません。要注意ですね。

7 こんぴら様
 金刀比羅神社の祭神が瀬織津姫一神というのはたしかに不思議です。大物主神との併祭を嫌ったのでしょうが、瀬織津姫が残って大物主神が脱落した珍しい例です。氏子の人に、どんなふうにここの神が伝わっているか、実地で聞いてみたいものです。
 同社の「由緒」に、「讃岐国琴平山金刀比羅宮より分霊を勧請して伊庭蛇塚の地に小祠を建立した」とあります。ここから読み取れるのは、讃岐の金刀比羅宮にも瀬織津姫祭祀が隠れている可能性と、「蛇塚」とはなにかということでしょうか。

 kokoroさん、琵琶湖にまた行かれるとのことで、バス釣りの合間に、もし時間がとれるようでしたらですが、天智・天武・持統の産湯の伝承をもつ三井寺(御井寺・園城寺)の近くにある「日御前神社」(三尾神社境内社)に関する情報がわかればまた教えてください。日御前神社は大津皇子の后「瓜生姫」(正体不詳)の創建と伝えられます。持統によって無念の死をとげた大津でした。その大津ゆかりの瓜生姫が創祀した日御前神社なのですが、ここは祭神名からしてはっきりしていませんし、瓜生姫がどんな意図でこの社をまつったのかもはっきりしません。
 書紀は、大祓祝詞創作の翌年=670年、山御井の傍らに諸神をまつり、ここで中臣金が祝詞を奏したとしています。この祝詞がどんな祝詞だったか決めつけるわけにいきませんけど、状況は、大祓祝詞の内容からいっても「諸神」に関わりますし、初めて大祓祝詞がここで奏された可能性があります。また、三天皇の産湯の「御井」をつかさどる神はなにかということもあり、その神と「日御前神社」の神は関係があるのではないか──。日御前神社という社名からも、瀬織津姫の匂いがしてきますが、これはまだ、調べる動機の話です。
 琵琶湖は、西の日吉(比叡)=比良連峰といい、南の近江富士=御上山といい、東の伊吹山といい、旧い太陽神に囲まれて水の神=湖神が存在していたイメージがあります。北の扇の要の位置に湖水神をまつる竹生島があるのかもしれません。七瀬の祓いは平安時代からのことですが、その祓いの思想のはじまりも琵琶湖です。日神と水神によって守護された「近淡海」の国に天智がやってきたときから、琵琶湖の神々の祭祀の揺れ・変質がはじまるのでしょう。

516 宝満神社と種子島について若干の追加を。 GOTO 2002/09/02 18:01

先にご指摘のあるとおり太宰府からの勧請だと思われますが、赤米に関する神事はもっと古かったと考えるのが自然ですよね。
「玉依姫」という名前自体はある意味普通名詞のような
イメージではないかと思っています。
種子島の南に宝満神社がありますが、これに対になって
北端に蒲田神社があります。御祭神は鵜葺屋葺不合命。
玉依姫の旦那さんとすれば当然なのでしょうが、
屋久島の益救神社がある時から火遠理命を祭っているのを考えれば、こちらも中央(朝廷)からの南下の影響?と思えてきます。

ちなみに宝満神社はかつて種子島最南端の神社でしたが
現在では門倉岬(南蛮船漂着地、鉄砲伝来の場所とされる)に御崎神社が立てられています。こちらの御祭神は大国主神です。どうやらこの岬、地元では自殺の名所で有名らしいです。それでわざわざ大国主神を勧請したのかな…

種子島ではガローヤマという森が多く存在していまして、
これは列しい祟り森でもあったそうです。
つまり森山信仰こそが種子島本来の姿なのでしょうね
このガローヤマの総元締めが宝満の池を包む森と思われます。

不思議なことに、宝満神社を中心に西に鉄砲伝来の門倉岬、東に宇宙開発事業団の種子島宇宙センターが存在しています。日本の未来を変える技術3つの発祥の地が並んでいるのは興味深いことです。今でもロケットの発射前には宇宙開発事業団の職員が宝満神社へロケット発射の成功と無事を祈念に参じるそうです。

517 言語の一致から見るいろいろ さかな 2002/09/03 07:31

 風邪と熱射病でダウンしております。まだまだ暑いですね。いつまで暑いのでしょうか・・・・・・。
 本屋で本を注文しました! 来るのが楽しみです。
 「八陵御神印」は、ペンダントの形になってるのだと思います。お近くに行く機会がありましたら、ぜひ、見てみてください。宝物館には釜石産の餅鉄があって、餅鉄の奉納された日本刀もありました!
はじめてみたので感動しました。
 「塩竃三柱大神御璽」・・・・・・。鹽土翁のことを三柱というのは、比良夫貝に手を挟まれて海に沈んだときの「つぶ立つ・底どく・泡立つの御霊」をいうのか、住吉三神と同神なので、その三柱なのかはわかりません。なんでしょうか?
 塩釜の地主神でもある志波姫は伊豆比売と同神であり、さらに諏訪姫でもある可能性があるというのは、前に何かの本で読みました。鹿島神が本来は「安曇磯良」であると「琉球神道記」には書いてあって、住吉三神と同体であり、さらに宗像三神の子であり、「タケムナカタ」なのだと。伊豆というのは知らなかったのですが、「磯=五十=伊豆」という字解になるのでしょうか・・・・・・? 磯を五十と表記すると、五十猛命みたいな名前になりますね。

 また、難しい資料を提示してくださり、ありがとうございました。たくさんあるんですね。
 風琳堂主人さんの書き込みで、見えてきたものがありますので、書かせていただいてもいいでしょうか。文がヘタクソなので、読みづらいと思いますが、汲み取っていただけると嬉しいです。

◆ルーン文字(数字)の「23(othila)」から見えること。
 水戸に二十三夜尊桂岸寺がありますが、この二十三夜尊とは、安産と二十三夜の月の神であり、天妃・天后・娘媽神ともいわれており、月の神、水の神とされております。また、行基作の勢至菩薩(午年の守護仏)が奉られているそうです。天妃・天后は文字通り、巫女だそうですが、天(太陽)の妃・后と解釈していいと思います。
 県内には「月待ちの瀧」という二十三夜尊の信仰の場として、二十三夜の月が出るのを待って祈願したと伝えられている場所があります。 「速開都比塔gハ、月神ノ御事也」というのは、この「二十三夜尊=おしらさま」そのものではないか、と考えられます。
 二十三夜尊は三月二十三日の生まれだそうですが、この日あたりは(暦によって変わるのかもしれませんが)古代ペルシアでは新年としていたそうです。(現在はどうなんでしょうか?)

◇月と犬とコノハナサクヤ姫と丹生
 ペルシア語で犬を「sag(サグ)」といいますが、コノハナサクヤ姫の象徴である「サクラ」はこの「サグ・ラ(犬の国)」から来たのかもしれません。(ちなみに間諜する人を「犬」といいますが、「アメノサグメ」は、「犬女(サグメ)」といえるかもしれません)
 アラム語とペルシア語を混ぜて「コノハナサクヤ」を解析すると、
  コハナ=祭司
  サグ=犬
  ヤ=神
 という意味になります。
 コノハナサクヤ姫は「安産の神」であるように(これは、神話の産屋に火を・・・・・・ということからなのかも知れませんが)、「犬」も「安産」を司っているんですね。
 古代(万葉)の「犬・狼」の呼び名は「ま」でした。ペルシア語の「mar(まー)」は「月」を意味しますが、犬と狼が月や黄泉に関連する動物とされるのは、こういう言語の一致もあるかもしれません。
 他にも「月」は「もり」と読んだりできるのですが、韓国語で「もり」は「頭」や「梅里」ともなるそうです。万葉のころ、「コノハナ」は「一番(頭)」に春を告げる花である「梅」をさしていたそうなのですが(「サクラ」になったのは、それよりも後です)、「梅=産め」ということで、安産と結びつけられたのかもしれません。 

 犬を使いとする神は丹生都姫の子とされる「狩場明神(または犬飼明神)」もいます。これは、アラム語の犬という言葉「kalb(かるぶ)」から、「狩場」になったと思われます。
 丹生都姫や狩場明神は「錬丹」の神なので、鉱脈(沙の蔵)の目印として山桜を使ったという説から「サクラ」が「コノハナサクヤ姫=丹生都姫」の象徴になったと考えてもいいのではないでしょうか?
 鉱脈の神で月の神でもある丹生都姫の性質のひとつに、「男女の仲立ち(月下氷人)」というものがあります。相手探しからお産まで、という太っ腹な神様というところでしょうか。

◇太陽と犬
 次に、エトルリア語の「ウシル=太陽」と犬(狼)の関連を見ていくと、トルコの方の話でゼウスの子、アポロンたち(双子だった)を身ごもったレトがクサントス川の岸辺で出産し、川をアポロンにささげ、生まれた地を「狼の国」と名付けたというものがあります。太陽神アポロンは「川」も司っていることがわかります。
 北欧の神話で最高神のオーディンの使いにも狼がいます。
 レプチャ語(安田徳太郎氏の本によると、万葉時代の日本語に近い、ヒマラヤ人の言葉だそうです)では「ツク=太陽」だそうなので、ツクヨミは月だけではなく、太陽も司っていることになります。
 本来の太陽神は黄泉に落とされて蓋をされてしまった、ということでしょうか?
 ちなみに、新聞で「太陽はツルツルと昇る」という昔の言葉を集めた本の記事を見ました(欲しいのですが、タイトルを忘れました・・・・・・)。カゴメ歌の「ツル」は太陽のことなのか、と勝手に思いました。

◆スセリ姫と織姫
 「スセリ」とは、「着物の裾」が「すせ(そ)り→すそおり→そとおり」と転訛したものだと考えられます。
 スセリ姫は黄泉国で大国主に「ひれ」を与え、難を救っています。そうして二人は夫婦になることからも、織姫(ヒレを夫や翁などにとられた天女)との共通が見られます。
 スサノヲが二人にかけた言葉は「宇賀の山に宮を作り州を治めよ」というものですが、「宇賀=トヨウケ」ということではないでしょうか? この二神でトヨウケということなのでしょうか?
 そしてこれは、「ウシル=太陽・オシリス(豊穣と冥界の王)」の冥界の話でもあり、スセリ姫はイシス
(オシリスを黄泉から再生させた妻神)やイシュタル(オリエントの豊穣神)ととらえることができます。
また、イシュタルは「金星」にも関わりが深く、前の記事に出ておりました、「カガセオ」とも関連付けられると思います。

◆瀧と山
 レプチャ語では「タキ=山」というそうです。山の神が水(タキ)神とあがめられるのは、言語的には矛盾しないようです。また、韓国語では「タキ=巫」ですよね。

 やっぱり、スセリ姫と瀬織津姫は同じ神さまだと思えます。勝手なことをつらつらと書きました。すみません。

 黄泉国で気になっていた平泉が浮かんできました。
 奥州藤原の里に五月に行ったときに、このような社を見たんですが、天満宮(菅公)、白山神社、蔵王権現。また、毛毬寺のすぐそばには、伊豆山権現がありました。
 平泉の由来は、白山中宮の別當寺「平泉(へいせん)寺」からとったものだそうです。そうすると、平泉(日高見)は奥州藤原が滅びるまでは、黄泉国の拠点と位置付けられるのでしょうか?(アテルイもいましたし)
 また、死の国で暦を思い出しました。裏鬼門は死門とあるのですが(鬼門は生門)、その未申の方角の神(干支の神)が大日如来(密教の根本神で天御中主神と同神)というのは、面白いですね。そういえば、コノハナサクヤ姫の本地仏も大日如来です。

518 桜について ピンクのトカゲ 2002/09/03 12:48

さかなさん
始めまして
モリの解釈を韓国語からしているようですが、やはり、韓半島と日本は、一衣帯水、ペルシャ等とは、比較にならないぐらい、その影響は、大きいものです。
古代においては、尚更のことです。
サクラについてもペルシャ語やアラム語を持ち出す前にまず、韓国語でというのが、原則だと思います。
瀬織津姫を調べだし、瀬織津姫とサクラが関係するであろうことに気がついたのは、昨年の秋です。
重複しますが、確認のため、そのときの書き込みを以下に記載します。

三修社「韓日辞典」でサクラに関係しそうな言葉を調べますと
sa-geu-ra-ddeu-ri-da(euは、ゥとィの中間音 具体的には、口を横に開いたウ 最後のダは、動詞の終止形 ji-daのdaも同様)
sa-geu-ra-ji-da
sa-geu-rang-i(ng+iは、用言の名詞化語尾)
が出ています。
sa-geu-ra-ddeu-ri-da(他動詞)には、
@錆びさせたり朽ちたりさせてなくならす。
A(怒り・腫れ物などを)なだめる;散らす。
sa-geu-ra-ji-da(自動詞)には、
@錆びたり朽ちたりしてなくなる;朽ち果てる。
A(怒り・腫れ物などが)鎮まる;おさまる。
sa-geu-rang-i(名詞)には、
(錆びつくとか朽ちて)使えないもの
と出ています。
ddeu-ri-da及びji-daは、sa-geu-raの語尾について
それぞれ他動詞、自動詞を形成させ、
ng+iは、用言を名詞化させるわけですから
sa-geu-raには、
@錆びる;朽ちる
A鎮魂する
の意味があることになります。
日本史上、最大の怨霊・崇道上皇の陵は、桜塚
桜樹は、鎮魂の花ということになります。
では、サクラが韓国語地名かというのは、早計です。
記紀及び風土記の一連の編纂過程と密接に関連する
「好字二字令」を考慮する必要があります。
また、戦前の創氏改姓(韓国人に日本風の名前を名乗らせた。)においては、
俺は、人間以下の犬並だという皮肉を込め
「徳」の字を氏名に多く用いた例があります。
※徳の韓国音dokから英語のdogを引っ掛けた。
持統の死を賭けた三河行幸→瀬織り津姫抹殺を目的とする祭神変更などを考慮すれば、
サクラにも、この「徳」と同様の心理が働いたことも十分に考えられます。

サクラと瀬織津姫の関係について以上のように考えたわけです。
さらに、サクラ=サクヤは、万葉の頃は、梅のこととご指摘ですが、古事記の天岩戸隠れ条で「天香山の天の波波伽(朱櫻)を取りて、占合ひまかなはしめて」と桜について記載されています。
記紀は、持統―不比等の創作であるわけですが、「天岩戸隠れ」のモチーフには、太陽の死と復活のモチーフが基層になっています。
天岩戸隠れの逸話は、素神との誓ひ逸話のあとに書かれているわけですから、ここでの天照は、女神を指すものと思われます。
サクラの文献初出が女神の死と復活においてであるということをまずあげておきます。
書紀は、コノハナサクヤ姫をアタツ姫の別名としており、このアタツ姫の逸話は、隼人などの南方系の逸話を記紀が取り込んだものと考えられています。
コノハナサクヤ姫が先でなく、サクラ=鎮魂の樹が先にありきだということです。
このコノハナサクヤ姫は、笠沙岬で登場するわけですが、サクラ=腫れ物を沈めるから笠沙の笠は、瘡だと考えられるわけです。
瀬織津姫を祭神とする池宮神社の鎮座地は、小笠郡浜岡町佐倉、笠→瘡とサクラの例は、掲示板を遡れば、数多くの例をあげてあります。
また、サクラ=鎮魂の樹から瀬織津姫解明の糸口がつかめたものと自負しています。
ペルシャ語、アラム語などを持ち出す前に、サクラと瀬織津姫の対応例をあげていくことだと思います。
なお、伊勢の奥宮・朝熊神社は、櫻の宮と呼ばれていました。
サクラについては、これで十分だと思います。

519 狩場明神 なにがし 2002/09/04 01:16

狩場明神とは丹生総神主の一人なんですよ。空海の時代奈良は明日香の丹治家から和歌山は伊都郡の丹生氏に養子に来た人なんです。丹治氏と丹生氏の家系図には丹治氏は職業を犬山師とかかれています。犬を獲物に噛みつかせてとるような狩をする猟師だったようです。彼が丹生氏に養子にきて総神主を継いだころ、空海がこの地にやってきて彼は密教を守護することを約束したんです。そして彼の死後空海は彼を狩場明神として祭りました。「狩場」が彼の狩人であったところからとった名前なのか、あるいは銅山を「狩場」と呼んだところから狩場明神と呼んだのか分かりません。狩場が銅山からであれば丹治氏が銅と関わっていたこととつながるんですがね。

520 ありがとうございました。 さかな 2002/09/04 07:41

ピンクのトガゲさん
はじめまして。
レスをありがとうございました。
韓国語に明るくないので、勉強になりました。
古韓国語について、ご教示のほど、よろしくお願いします。
ただ、韓国語だけに重視しなくていいと思うのですね。
韓国も、高句麗、百済などは元は南下してきた遊牧民ですから、オリエント語にも大きく影響されていると思いますし、万葉の時代は交易が盛んで、「トカラ人」などいろいろな人種が入ってきていたわけですから(法隆寺ではパフラヴィー語の焼き印がある香が見つかってますし)、言語のちゃんぽんはありえると思うのです。記紀はそれ以降に作られたものですから。
ペルシア語やいろいろな言語での古事記解読を試みている研究者もいるそうですが、論文を読みたいです。
「サクラ」に関しては、鉱脈に関する花という説は、正しいと思います。ただ、なぜか「梅」がひっかかるのです。
そして、「スセリ姫」もひっかかるのです。
また、梅も鎮魂の花、といえば菅公に関連する花ですね。
また、記紀は改竄されていると思いますが、しきれていないところを見つけるのが楽しいと思います。
とにかく何かを自分で見つけた!と思う瞬間が楽しいのですね。歴史を楽しみつつ、藤原さんの鼻をあかしたいです。(汗)

なにがしさん
はじめまして。
葛飾の「穴穂部押羽」が「犬飼」であった、という伝承から、「カルブ=狩場」を導き出しました。葛飾は「真間」というところの、穴穂部氏です。氏名の本に「間人」の読み方が列挙してあって、そのなかに「まひと」というのを見つけたのですが、穴穂部が犬飼でもあったということは、「犬人」という意味もあるのではないかと思ったんですね。
「穴穂=鉄」と「軽=銅」の話でもあるのかな、と。「カル」は「カルブ」と同じ意味を持たせているのかなと思いました。
また、「カル」は韓国語で「双子」のことだと掲示板でご教示くださった方がいました。韓国語の「カル」には「太陽」という意味もあるので、これはアポロンの双子の話に通じると思います。
独語(会話を勉強していたので)の「kali(かり)」は「塩湖、海藻」ですし、「kalt(かると)」は「寒い、冷たい」などの意味があるので、「カル」はスサノヲとも関連するのではないかと思います。

521 あの・・・・・・ さかな 2002/09/04 09:02

 私は自分の調べたことと、何かみなさんが調べていることから新しいことが見えるといいな、と思って自分の調べたことを書かせていただいただけで、批判をしているのではないので、ご迷惑なら、このまま失礼させていただきます。

522 言語の流入について ピンクのトカゲ 2002/09/04 10:20

さかなさん

仰るように、奈良東大寺の正倉院をはじめ、オリエントの文物が日本に渡ってきています。
モノが渡ってきたのだから言語も渡ってきたかといえるかどうかです。
法隆寺にパフラヴィー語の焼き印がある香があるからといって、それが言語も日本に渡ってきたとの証明にはなりませんし、おそらく、その文字を読めた人も読もうとした人もいなかったのではないかと考えられます。
古代は、現在のようにインターネットもなければテレビもありません。オリエントの言語が日本まで渡ってくるには、当然、人の移動もあったわけです。
確かに、多少の人は来たかもしれません。しかし、それが、日本語に影響を及ぼすほどの人の移動であったか否かといえば、否と考えます。
16世紀にヨーロッパから宣教師が、この日本列島に渡ってきます。古代にオリエントから来た人の数より数段多いでしょうし、滞在期間も比べ物にならないと思います。
では、これらヨーロッパからの言語がどれだけ日本語といて定着したか。
天麩羅、合羽、襦袢、歌留多、ギヤマン等いくつかの言葉は残っていますが、日本語からすれば、ほんの一部に過ぎません。
これと比べても古代にオリエントの言葉が日本語に流入した確立は、はるかに低いでしょう。
ただし、古代でなく16世紀の宣教師の渡来とともに多少のオリエントの言語も流入したことは考えられます。
また、百済あるいは高句麗経由でとの指摘をされていますが、韓国語では、サクラは、鎮魂を意味しますから、サクラについては、オリエント語から流入したという説は成り立たないのではないのでしょうか。
古事記をペルシャ語で読むより、ペルシャ語が、どんな経路で流入したか。この証明が先なのではないでしょうか。

さて、韓国語で「カル」は「双子」の意味だそうですが、韓国語で双子は、ssang-seng-I(双生児の韓国読)またはssang-seng-a(双生兒の韓国読)で、「カル」が双子を意味するというのは、はじめて聞きました。
一方、太陽=カルですが、日(直接的には、一日を意味する)をhalといい、韓国語のH音と日本語のK音が対応するからhal→kalということだと思います。
その説明がないと誤解を受けるし、カル=太陽なる説が一人歩きするように思います。
掲示板で教えてくれたそうですが、特にネットの世界では、こうした一人歩きしている説が多いです。

さかなさん「このまま失礼させていただきます」などといわずに「藤原さんの鼻をあかし」是非是非一緒にやりましょう。

523 囲炉裏夜話の考え方 風琳堂主人 2002/09/04 12:11

 GOTOさん、種子島の「祟り森」とされるガローヤマの話は興味深いです。
 それと赤米と玉依姫。種子島の玉依姫はどんなイメージかということで、以下の伝承をみつけましたので読んでみます。

■玉依姫と宝満神社
 昔々、神を恐れない人々が山を荒らし宝満の池で泳いだりしました。 これが神の心に触れたのか干ばつが続きました。困った農民達は宝満の池の水を田に引くことを話し合い、谷を掘って行きましたがだんだん池の近くになると大きな岩が出て、その岩の中から真っ赤な血が噴出して来たり、怪物が出て来たりで大騒ぎになりました。 そこで遠妙寺の坊さんが七日間「人々の無礼をお詫びし、雨を降らせて下さい」と祈ったらにわかに大雨が降って田んぼの稲は生き返り農民たちは救われました。雨が晴れ霧が消えていくと、宝満の池に小船に乗った綺麗な女が現れました。その美しいこと気品の高いこと、この世の者とは思われません。恐れ入った僧はこれこそ玉依姫のお姿であろうと思い「どうぞ玉依姫様茎永の田に稲がよく実りますようにお力を下さい。姫様を宝満大菩薩と申し敬い祭ります」と申し上げたら、にっこりされて船も姫もかき消すように消えました。それからお宮を建てて玉依姫を菩薩として御祭りしました。それがこの宝満神社です。今でもこの時の堀の跡が残っています。(南種子町商工会HP)

 ここに登場する、謎の天女は雨乞いの神です。「遠妙寺の坊さん」は、この神を「玉依姫」「宝満大菩薩」と命名したようです。この「玉依姫」は、人々の心に映っていた水の女神の原像に近いのかもしれません。尾張知多の「恋の水神社」において、病の少彦名の体をなで、霊水によって癒したとされる「美都波能売神」にも通ずる水の美神のイメージですね。「遠妙寺の坊さん」は、この水神を、たとえば瀬織津姫と命名してもまったくおかしくはなかったとおもわれますが、しかし、ヤマトの中央思想は、こういった水の神を「黄泉国の神」「禍津神」といった悪神のイメージに染め上げました。

 さかなさん、『琉球神道記』記すところの、鹿島神(の男神)=安曇磯良説は、わたしもその可能性はかなり高いとおもいます。磯良神は海神で、河童神のルーツにある神ですが、この海神と対となる女神(海神に通われる神)が、たとえば種子島の玉依姫=水神だと考えています。また、五十猛は、磯猛でもあり、これも海神を基本イメージとしているとみることができます。
 ルーン文字ほかの言語を援用して日本の神々の名や地名を分析したりすることで、あるいは、ある言語で記紀が読み解けたとして、そのこと自体はオモシロイにしても、記紀成立を促した思想を明かすこととは似て非なるものとおもっています。
「二十三夜尊」がオシラ神と通ずる話はそのとおりでしょう。しかし、これも、(異)言語の音象によって読み解かれるものというより、人々の生活の時間化がもたらした、いわば民間信仰化の度合の問題かとおもいます。
 この囲炉裏夜話では、そういった民間信仰化された神仏などの原像の神を明らかにするということと、その原像の神が、記紀において、なぜ消去・封印・変名されたのかを、「日本」という国の誕生時の問題ともども明らかにするということ──これが、当面の大きな柱かとおもっています。
 小粒ではありますが、「藤原不比等」は現代にもゴロゴロいますし、それが一国の首相になったりするのが「日本」の現実です。元を断て、元を明かせ、です。
 さかなさんの話で、だれも「批判」されたとはおもっていないとおもいます。ここは「個人」が自分の言葉で語る(できれば、「夜話」ですので一話完結で)ことと、それに対して「批判」があればそれも自由です。実りある論戦はあってよいとおもっています(感情的なケンカは、匿名をはずして、「表」でやっていただくのが健康的と考えますが)。
 明かされることを待っている神がまだたくさんいます。さかなさんも、スセリヒメならスセリヒメを、ぜひ明かしてみてください。
 あと梅と桜について──。桜は日本の固有木ですが、梅は遣唐使がもたらしたもの(渡来木)で、なにか梅のほうが「古い」とされる話が散見されますけど、それは誤解です(念のため)。

 なにがしさん、狩場明神=高野明神には、丹生川の水神との対神(男神)も習合しているイメージがあります。空海にとって狩場明神は、道主貴としての猿田彦か、国譲りの大国主に近い、地主神(の一神)ともみられるとおもっています。丹生神についてはまだ本格的にふれていませんけど、いずれ、というところでしょうか(丹生の女神も明かされることを待っている神かもしれません)。

(追記)
 よその掲示板を見ていておもったことがあり、また、よい機会ですので、近い将来ここでもありうるかもしれないこと──について、少し書いておきます。
 それは、この囲炉裏夜話で、批判に名を借りた感情の応酬(本論外の小さな異論の応酬)をされるなら私的メールでやってください、ということです。ほかの掲示板の考え方は知りませんけど、ここはあくまで「公開の場」ですから、第三者=読者の視線・思いをよくよく考えて、私物化しないようにお願いします。度を越えたもの(読むに耐えない論議)は、編集責任者=管理者の一存で削除するか、実名を公表することを要求します。いいかえれば、匿名での感情的な論戦・応酬・逃げは認めないことをここにはっきりさせておきます。自分の言葉に、自他ともに責任をとっていただくことを原則とします。

524 ご主人様 なにがし 2002/09/04 23:51

>狩場明神=高野明神には、丹生川の水神との対神(男神)も習合しているイメージがあります。
狩場明神は空海の時代の一人の人物ですから、私のイメージとしては狩場明神は高野明神に含まれると言ったところでしょうか。高野明神であれば水神の対神と言うイメージもありますね。丹生都姫=爾保都姫はさておき、爾保都姫に爾保は「水が集まるところ」と言う意味の播磨の方言だとか。で丹生都姫神社は数ある澤の1つを選んで建てられたとありますから、個人的には水神色が強く感じています。ですが、一般的には万能の神と言うイメージが強いですね。あるときはかつらぎ修験の親神と言われたり、鎌倉時代には軍神とされ、鉱山の神でもあり、御神体が稲穂であったりと他にいろいろ言われていますが、丹生氏にとってはなんでもありの唯一の神なのかも知れません。

525 ご迷惑をおかけしました。 さかな 2002/09/05 07:44

ご主人さん、トカゲさん、
ありがとうございました。

場違いな書き込みをしたのかと思ったので。すみません。
でも、論戦も遠慮したいです・・・・・・。
歴史は単なる趣味で、そこまで壮大な背景はない、個人的な楽しみの一つなので。

昨日本が届きました。

526 ご無沙汰しております。 サクラ 2002/09/05 20:16

ご主人、ご無沙汰しておりましたが、いつもここは楽しく読ませていただいております。

ますます、充実してくる皆様の書き込みにも、納得したり、そんな考えもあるのかと思ったりしております。
皆さんの書き込みにそして、それに真摯にお答えてくださる風琳堂さんやトカゲさんにはいつも感嘆の声をあげております。(^^)

ご主人
遠野にはもう、秋の気配が漂っているのでしょうか?
そして散策によい季節になりますもん。
私も秋には瀬織津姫の祀られる神社に行きたいと思っています。
そのときにはご報告します。

うふ、読書の秋....

さかなさん
本が届かれたのですね。(^^)

529 うん(^-^) あかね 2002/09/06 02:59

さかなさん
 初めまして。私も論争って苦手なんでございます。いつまでたっても慣れないです。同じく、壮大な思想背景も殆どありませんので只々、趣味の歴史に憩いを求める日々ざんす。で、単なる思いつきや閃きを述べさせていただいて、皆様に遊んでもらっております。だから今後共、是非お付き合下さいね。さかなさんのカキコ、楽しいですもん!
 私としてはさかなさんと同じく、オリエント等からの影響の度合はともかくとしても、その線もあるかなと思っております。特に産鉄絡みの用語は、技術専門用語でもあるでしょうし、製鉄起源等を考え合せますと、技術伝播に伴ってその言葉が一部、伝わった可能性もあると、やっぱり思います。専門用語って今でも、同じ分野へは流入しやすいし。その当時の特殊・先進技術は畏怖や信仰?の対象でもあったでしょうし、信仰絡みだと余計にそのまま、単語が入ってくる場合もあっただろうなんて、素人ながら考えます。伝わった専門用語は少なくとも、技術を掌握出来た権力者の立場においては、その用語も技術(相撲にもペルシャ?起源説とかありますね)も重要視したんだろうなと思ってます。
 例えば、サンスクリット語を同様に論じていいのかどうか判りませんけど、マンダラも火のズイとか、表層に貼る膜だとか、それらが重なり合ってる円錐状空間を示す?だとか何か、炉や坑道を連想出来るかのような言葉でもあるな、などと思ってしまいます。マンダという同じ響きをもつ単語は、山形では科の木を指すそうですし、鉄坑道の入口をいう(鉄坑道入口は吉祥姫様から黄金と百足に出て来ると教えていただいた)用語としても、列島にあるそうですもん。それから出雲系多族には、低湿地を示す茨田(マンダ、マムタ、萬多、ウハラタ)の名を持つ、『茨田連』(北河内茨田郡<三島や交野郡周辺>と山城の乙訓郡)・『茨田親王』(桓武天皇第5皇子)なんてのもあります。あ、イランにはマンダ人なんて族もありますね。言語学的一致なのかどうか私には全く判らないし、書いていいのかも判断出来ないけど、取合えず思い付きもヒントになるのではと思っています。法道仙人はペルシャ人や印度人だと言われていたり、山伏にもこれらの人種がいたとされる事にも、何か産鉄絡みでも理由があるのだと考えます。平安京だったか失念しましたが、ペルシャ人の屋敷跡も出ておりますもんね。
 トカゲさんのおっしゃるように、韓国などからの言語流入が一番、可能性としては高いのだと思います。ですがサクラについてはともかくとして、世界は案外、狭かったのではないかと、こんな事も考えてしまいます。トカゲさんも、色んな意見があってこそ、面白く、あかし甲斐があるとお考えですね(^^)v。

kokoroさん
 昨年の春頃でしたか、神奈備さん掲示板にて、多と、兵主配置についてのレスを有難うございました。今頃、こんな事を風琳堂ご主人の場をお借りして書いてごめんなさいm(__)m。失礼をどうぞお許し下されば幸いです。あの直後、モニターが壊れてしまって一月半ほど使えず、タイミングを逃してしまったままとなってしまいました。とても嬉しいレスでした。茨木市の太田神社祭神が田根子とされるのは、上記の茨田連や阿久刀(芥)氏(芥川周辺)、物部が茨木・高槻、枚方市・交野市(交野郡)の低湿地等におり、そして百済王族が交野郡にもいた事と、三島神の移動とが絡んでいるせいではないかと、漠然と思っています。

530 自分も人活かせる論議 ピンクのトカゲ 2002/09/06 08:36

掲示板の趣旨と少し外れますが少しだけ
私は、学生時代武道をやっていまして、そのとき教えられたことが今でも考え方の基本となっています。
それは、武道と武術は、違うということです。お花を如何に活かすかが華道であり、人との出会いを如何に活かすのが茶道、道とは、活かすこと、人を傷つけるだけなら『術』に過ぎないと教えられました。
歴史道という言葉は、ないと思いますが、人を傷つけるだけの不毛の論戦は、さかなさんやあかねさんと同様、私も好みません。
人を活かし、自分も活かせる、『論』の戦いではなく、「論」の応酬ができたらと思っています。
さかなさんとメールで少し話題にした法道上人(仙人)についてあかねさんが書いていくれました。この法道上人と聖母信仰の関わりなどは、瀬織津姫→神仏習合→十一面観音の考証として、面白い切り口になるのではと思っております。
また、あかねさんが技術専門用語は流入しやすい旨について言及されていますが、技術専門用語については、言語の流入の度合いは高くなると思います。
私も本業は、プラスティックの成形ですから歴史は趣味です。
十数年前ですが、韓国の成形現場で「バリガナッタ」、「ヒケハダ」という言葉を耳にしました。「バリ」は、金型のパーティングラインに樹脂が漏れてできる薄い板状の余材(英語でモールドフラッシュ)を指す技術用語で、「ナッタ」は、「生じる」です。また、「ヒケ」は、樹脂の冷却時の収縮によるクボミなど変形することを指す技術用語、「ハダ」は、英語のDO動詞に当たります。「バリが生じる」→「バリガナッタ」、「ヒケる」→「ヒケハダ」いずれも日本の技術用語がそのまま韓国で技術用語として定着した例です。
この例に示すように、その地では知られていない最新の技術や文化が流入したときは、言葉も一緒に流入するという傾向は強いと思います。

531 m(__)m あかね 2002/09/06 15:33

ピンクのトカゲさん
 あんがとさんです。んで、私は更にシルクロード、翡翠の道でしたっけ?(すぐ忘れる奴(^^ゞ)、海の道なんぞから、オリエント方面などの技術用語、もしくは相互?に伝播しあってるぞ〜〜なんて、やっぱり思っちゃうのでありまする。でも、草薙の剣の別名・ツムガリや、銅としてのクリなどは、朝鮮語だろうなぁ。
 まぁ黄金分割なんかはともかく、特に日本の古建築に多い白銀分割はどう考えればいいのかなんて、私の頭ではさっぱりぐるぐる巻き状態となってるわけなんですけどねー(@_@)。水平・垂直軸概念の交差じゃぁ、ドーマンじゃ、大陸・インドシナ・マレーじゃぁ、篭目じゃと言ってしまいたくなりますが。えへへ、ほんまごちゃごちゃです。
 また裏目って凄い技術、道具ですし、案外これなんぞは太子一族や列島オリジナルだったりしてと、夢想してしまいます。何にせよ凄いぞ、列島古来の職人・エンジニア!
風琳堂ご主人、自分でも主旨のようわからん話で、脱線してごめんなさい。

532 気にしないで 石見のみづち 2002/09/06 16:57

さかなさんへ
ここは、自分の思ったことを述べるところです。さかなさんの意見に異論を述べてもらって、勉強になるということを忘れずに・・・・
私は、瀬織津姫と桜にこだわって4年、ほとんど何も見えてこなかった。それが、本とホームページに出会い、多くの気づきを頂きました。今、又違う角度から瀬織津姫が見えつつあります。
本と皆さんに出会えてよかった。

ちょつとづれて居るおばさんですが、よろしく

533 丹生都比売という神 風琳堂主人 2002/09/06 18:22

 囲炉裏夜話はさいわいに心根のやさしい人が書き手・読み手で参加してくれているようで、あらためてみなさんにお礼申し上げます。心根のよくないのは、主人一人ですので、さかなさん、「遠慮」ご無用です。こんなこと、こんな資料があるetc.──また教えてください。

 さくらさん、遠野は今日から(?)「秋」になりました。例年に比べるとずいぶん遅いです(盆を過ぎると、はかったように「秋」となる、コタツ・ストーブが要るという実感があります)。
 瀬織津姫は伊勢に深く関わっていますけど、少なくとも自分のなかでは、瀬織津姫の始まりは遠野からでした。どうぞ、遠野の瀬織津姫(たち)に会いにきてください。

 あかねさん、産鉄の民と等身大の視線にすっと降りていくことができる感性はいつもすごいなとおもっています。観念の投網で括りたがるのが小生です。産鉄あるいは鉱産と瀬織津姫の関係についてはまだふれないようにしていますけど、これは潜在的に深く関わっていると考えています。
 そういえば刀剣用語で「?」という語がありますね。読みは「はばき」で、これなども「アラハバキ」(瀬織津姫の対神)と関わる可能性があるかもと考えたりします。「ははか」が桜の古語だということと、この「金の祖」=ハバキがどこかでつながるのではという予感があります。心優しき「鉄」の女──あかねさんにはたくさんお聞きしたいこともありますので、そのときはよろしくお願いします。

 トカゲさん、自他を活かしてこその論の応酬はそのとおりですね。掲示板などは特にそうですが、言葉と言葉の関係に、人と人の関係がほぼ重なってきます。論議の心得=道をはきちがえたやりとりは認めませんという話を「原則論」として書いたつもりでしたが、「よい機会ですので」という枕言葉がおもわぬみなさんの気遣いをさせてしまったようです。「よい機会」ですので、あの「言葉」の使い方は削除させてもらいます。
 聖母宮の祭神は神功皇后だとされる、そんな無茶苦茶な祭祀を強要してきたのが日本の神まつりの実態でもあります。たとえば、マリアがマリア観音となること──、そのことに込められた人々の思いに、「言葉」はどれほど届いているか──これが、歴史、神様談議の要、あるいは「レベル」をみるリトマス紙です。そういったことに鈍感な思想、つまり「藤原」の思想に代表されますが、これはきちんと相対化=無化される必要がありましょう(また心根のよくない話になりそうです)。

みづちさん、なんだか「昔」が思い出されます(今は笑い話です)。みんなの得意分野を総合していきますと、「藤原さん」も「持統ババア」も骨抜きになる、時間の問題かもしれませんね。よし、元気が出てきましたでござる(あかね節ふうに)。

 なにがしさん、丹生都比売がなんでもありの神、万能の神だというのは、そのまま瀬織津姫であってもおかしくないといった印象を受けます。
 丹生の「丹」が水銀の意としますと、この女神は水銀[みずがね]を生み出す神か、あるいは、丹生川(丹を生みだす川)の水神=川神となります。いずれにしても、丹生都比売は、「水神=川神」が鉱産神=水銀神へと特化されたときの呼称を性格の側面に付着させていることはたしかですが、しかし、神の性格の核の部分にはやはり「水神」は動かしようがないとわたしはみています。
 また、丹生都比売が、ご指摘の播磨方言「水の集まるところ」という「爾保」と通ずるとして、これもやはり水がらみですし、爾保津比売(播磨国風土記逸文の表記)にしても、やはり「に」の音を共有していることに意味があるのではという気がしています。
 あと、「丹生都比売」という名の神の誕生あるいは流布については、やはり空海の存在が密接に関わっているのではないかと考えています。つまり、丹生都比売という女神は、平安期以降に本格的に流布されていく神ではないのかという、まだ保留事項もありますけど(たとえば、「誕生」ということでいえば、「丹生祝天平十二年籍文」なる一文に「丹生津比刀vの名があるとのこと〔風土記解説〕)、しかし、基本的に、空海との関係は大きいのじゃないかとみています。
 丹生都比売の名を、記紀はなぜ一言も記さなかったのかという問いもあります。記紀編纂+創作の時代、この神の名はまだ存在していなかったのではないかとみられるのですが、まちがっていたらご教示ください。
 ところで、丹生川は紀ノ川=吉野川の支流ですが、同じ名の川が二本ありますね。これもとても基本的なことなのですが、たとえば吉野川の上流にある「丹生川上神社上社」には、社名に「丹生」の名がありますけど、その祭神に丹生都比売の名はありません。同じことは中社・下社にもいえます。丹生都比売が、その祭神名として登場してこないのは、「タブー神」だからとしますと、「丹生」の女神がもっているこのタブー性は、ではどこからやってくるものなのかということがあります。その可能性として、わたしは、「丹」の鉱産としての特権的価値ゆえに秘されるといった解釈ではなく、この女神の、もうひとつ背後の神にまで遡ってみてみる必要があるように感じています。
「丹生」の女神の基本性格が水神であることを考えますと、紀ノ川上流部における祭祀から、この女神は紀ノ川=吉野川本流の川神でもあるとみてよいでしょう。紀ノ川河口部の最重要な女神はなにかと考えますと、やはり日前大神の存在が浮かんできます。この神は伊勢の元神(の水神)と同神の可能性がとても高いです。ともかく、紀ノ川=吉野川本流の「丹生」を社名にもつ神社から、なぜこの女神の名は消されているのかという「不思議」の話です。
 前に隅田八幡神社の方と話をしたとき、二つの丹生川の間に東ノ川という、これも紀ノ川の支流ですが(橋本市と五條市の境界川)、この川の流域の河津(川津・香和津)神社のいくつかに瀬織津姫がまつられていることを教えてもらいました(五條市の香和津神は同市・黒駒神社境内社の大屋比古神社に合祀され、そこで大綾津日神と名を変えられていますが、元地では「瀬織津比当ス」と表示しています…すせりさんのHP)。これらは神社本庁には登録されていない社です。丹生都比売のエリアに同じ質の、つまり、とびきりの水神が二神存在していること──これも調べてみる価値がありそうだなとおもって、そのままになっています。
 丹生都比売という神──。魅力ある謎を多く秘めた女神です。

534 花祭りの里と花山の隠れ里―大入 ピンクのトカゲ 2002/09/06 18:33

花祭りの里で知られる東栄町は、旧三輪村、旧本郷村、旧御殿村、旧振草村、旧下川村、旧園村の六ケ村が合併してできた。旧園村は、北は豊根村、東は静岡県佐久間町とまさに秘境の地である。その旧園村の中心・東園目の集落から西、大入川を挟んで対象する位置に大入(おおにゅう)の集落があった。現在は、廃村となった「大入」は、「王入」とも「皇入」とも表記され、花山天皇の隠れ里の伝承を残す。廃村になる前は、花山院末裔を称する花山家が住み、墓石や過去帳には、花山入覚法皇の名が記され、氏神熊野神社は、花山大権現とも称され、棟札も残っている。
以下、旧園村が昭和一七年に調査した「郡史編纂資料」(ガリ版刷)から花山天皇についての記載を引用する。なお、原文は、漢字カタカナ混じり文であるが、カタカナは平仮名に直し適宜読点を入れた。
花山(かざん)天皇は、冷泉天皇の第一皇子にして、御諱は、師貞。藤原伊尹の女・贈皇太后懐子を母とし、安和元(九六八)年、一〇月二八日、藤原伊尹の館にて生まれ給う。同年一二月二二日、親王となり、安和二年八月一三日、立太子。天元五(九八二)年二月、御元服。永観二(九八四)年八月二七日、円融天皇の譲位を受け一〇月一〇日、登極。寛和元(九八五)年一一月二一日大嘗祭を御挙行遊ばさる。天皇は密かに仏道に入らせ給わんとする御心を懐せらる。時にしばしば藤原兼家、政権を執らんとす。天皇は、伊尹の女の生む処にして、伊尹の子・義懐、また天皇の御信任厚く、兼家の乗ずる隙なかりしが、天皇、遁世の御志しあるを察知し、窃に乗じ譲位を乞い野望を遂げんとして、道兼をして窃に御出家を勧め奉る。天皇は、その言を聞き給い、遂に寛和二年六月二二日夜、貞観殿を出でて、華山元慶寺に向い給う。道兼及び僧厳久の二人、天皇に従い参らせしが、道兼は途上、藤原道綱をして、剣璽を皇太子懐仁(一条天皇)に渡し奉らんとす。天皇ここに始めて兼家に諮られたるを御悟らせ給いしが、既に遅く、皇位僅かに二年にして御退き給い、剃髪して法号を入覚と御申される。時に御歳一九、太上天皇の御称号を御受けさせ給わで、偏に法義を奉じ持律清厳。あるいは書写し、あるいは山に登りて仏性を見、あるいは比叡山に上りて廻心戒を受け近畿の霊場名刹を巡歴す。
明治三五年、時の大日本美術会調査員・萩野重省氏が、花山天皇の御事跡調査のため来王したる事あり。その語るところによれば、花山天皇は、藤原道兼の奸訐によって寛和二年六月、在位僅かに二年にして皇位を御退き給い剃髪遊ばされ、法号を入覚と御申され、西国三三番の札所・谷汲山を出御遊ばされて、三河路に道を取らせ給いしが、その後の御事跡が一切不明なり。
花山家に蔵さるる天皇御自作に成るという御自像の御木像は、時に花山院天皇の御英姿なりと折り紙を付しあり。追って帝室博物館より沙汰あるべきを約し、王入を去りて上京中の萩野氏は途中、長野県飯田にて急逝したる事、数年の後を経て、これを知り、それがため今日に至る。
花山院天皇御聖地・古屋敷及び御山陵と称する周囲には幾丈余りの想像にあまりある杉の巨木切り株が今なお現存す。現位置の境内は約二反歩余りありて、御神木には、杉、檜は申すに及ばず松、樅、栂、樫等の巨木鬱蒼とし、山ホトトギス、又は古来霊鳥と言われる仏法僧、飛来し啼き明かすことあり、なかんずく、樅、栂、樫の如きは周囲丈余なるものありて、その栂たるや枝振り奇形にして時々、飯綱八天狗が御翼を休め守護すという。
明治初年、設楽郡富永庄大入村古屋敷より現在の位置に神殿を移転し鎮座す。既住は花山家及び花山院天皇御出家の後、唯一の侍従として側近に御奉仕し御供参らせ来るは平野家のみなりしが、徳川三代将軍家光公の時代、寛永八(一六三一)年九月一二日、輝一、通名・蔵右衛門が上の屋敷へ別家し、花山家二戸、平野家も別家を出して四戸となる。その後、他所より移住し来たる家あって、現在(昭和一七年当時)七戸、人口約五十名となる。花山家、平野家ともに家は五百年前の釿(ちょうな)建なり。平野家は家号を「おおや」といい、その祖は、侍従として側近に御奉仕したる藤原義懐が在中弁性成で在らねばならぬが今は判然とし得ず。
古来より花祭りをもって祭礼となす。旧暦霜月一四日なりしも明治中頃より新暦一月二日を祭礼日と変更し、いまだかつて一年だに休祭したる事なし。花祭りその起源は花山院天皇崩御お遊ばれし後、その御遺徳を偲び奉りて、天ノ岩戸前の御舞を行う祭礼として奉祭す。花山院天皇の御祭りなるに因りて花祭りと申し奉るという。
以上が、園村刊「郡史編纂資料」の花山天皇関連の記載である。

一段落目は、花山の出生から退位までを書いたことであり、一般的な花山の資料と異なるものではないが、若干の説明を加えておく。
花山の外祖父・藤原伊尹(九二四〜九七二)は、太政大臣、花山は、二歳で立太子するが、祖父の伊尹は、花山が生まれた四年後、母の懐子は、その三年後に死去している。
花山を退位させ、政権をとらんとした藤原兼家は、御堂関白道長の父、実行犯の道兼は、道長の兄である。一方、伊尹の子で花山の叔父に当たる義懐は、花山の即位に伴い権中納言になったに過ぎない。このとき兼家は、右大臣である。
花山の皇太子となったのは、円融(花山の叔父)と兼家の娘・詮子の間に生まれた懐仁(後の一条)であった。
花山の遁世の志しとは、最愛の女・藤原為光の娘を失い意気消沈していたことを指す。兼家は、これに漬け込み、息子の道兼に花山とともに出家するよう誘わせ、花山が剃髪した後、道兼は、剃髪する前の姿を一度、親に見せておきたいといってそのまま帰らず、三種の神器を懐仁に渡し、懐仁を即位させた。後の法皇と異なり、この時代は、出家すれば、隠居同然で何の権力もなかった。
花山は出家の一月後、播磨の書写山円行寺の性空上人と結縁している。これが『あるいは書写し』をさすと思われる。また、正暦年間(九九〇〜九四)には、那智に行幸し、西国三十三ヶ所観音霊場を順拝している。これが『近畿の霊場名刹を巡歴』したことを指す。
二段落目の末文は、西国三十三ヶ所観音霊場を順拝し、最後の三十三番札所の美濃の谷汲山華厳寺から三河路に道を取ったとしているが、そうした記録は見当たらない。
また、花山は、寛弘五(一〇〇八)年二月八日に平安京左京一条四坊三町にあった花山院でこの世を去っているから「大入」で生涯を閉じたということはありえず、花山は、出家した後、還俗したとの記載はなく、還俗していなければ。妻帯できず、子を作れば女犯の罪になるわけで、仮に三十三観音礼状を巡拝した後に「大入」に来たとしても、花山の子孫というのは、可能性としては非常に薄い。
しかし、「大入の花山家」では、過去帳、墓石などでその祖を花山入覚法皇としている。
不比等の末裔・藤原氏に翻弄された花山を始祖とする伝承が何故生まれたのであろうか。

まず、この「大入」から連想されるのは、「丹生」である。
この「大入」と「丹生」について『坂東千年王国』のHONさんが、科学的な土壌調査と平行して丹生の地をを調査研究した松田壽男著『丹生の研究』に「三河の大入」という一節がある旨を教えてくれました。
HONさんによれば、松田氏は、越前の大丹生・小丹生の例を引いて、丹生の大小、あるいは村の出来た後先から大入・小入と呼ばれたのではないか、としているそうですが、花山天皇隠れ里の伝承を持つ旧園村周辺には、小入の地名はありません。
 松田氏は、奥三河の「大入」にも調査に入ったそうで、採取した土壌の試料を微量分析したら、水銀含有率は0.0009%だったそうです。紀州の高野山奥の院付近では0.005%だそうですから50分の1です。
「丹生」は、「丹」の字から水銀と関わるわけですが、「丹生」は、「壬生」と同義であり、「壬生」は、「乳部」のことであり、皇子・皇女の養育係のことだとされます。
古事記仁徳条で「大后石之比売の御名代として葛城部をさだめ、太子伊邪本和気命(履中)の御名代として壬生部を定め、水歯別命(反正)の御名代として蝮部(たじひべ)を定め、また、大日下王の御名代として大日下部を定め、若日下王の御名代として若日下部を定め給う」と記載しています。

石之比売は、葛城曾都毘古の娘であり、葛城氏の娘であることから、葛城部とされたことが解ります。
また、水歯別については、多治比(たじひ)の柴垣宮に都を置いたことから多治比→蝮部とされたと考えられます。
また、大日下王及び若日下王については、それぞれ諱が冠せられています。
太子伊邪本和気一人が諱などを冠せず、ただ「養育係」を意味する壬生とされています。「壬生」自体に「養育係」の意味があるわけですから、伊邪本和気が諱などを冠せず、「壬生」としたのには、太子(ひつぎのみこ)であるから、諱を忌避したと考えられます。
つまり、蝮壬生部、大日下壬生部、若日下壬生部が正式な呼び名ではないかと考えられます。
この蝮部の「蝮」に金属民の影を読み取ったのは、あかねさんで、あかねさんは、金属神の租形は、水神であると考えています。
水歯別を考えるに、皇位を継承し、多治比(たじひ)の柴垣宮に都を置いたことから、その「壬生」が「蝮部」と呼ばれたわけであり、皇位を継承する以前の「壬生」は、「水歯部」であったと考えられます。
書紀反正条は、瑞歯別の誕生逸話として「生まれながらにして、歯、一つ骨の如し、容姿美麗。ここに井あり。瑞井と曰う。即ち汲みて太子を洗う。時に多遅(タジ=虎杖→イタドリ)の花、井の中にあり、因って太子の名となす。故に多遅比瑞歯別天皇と称え申す」と記載しています。
書紀では、「水歯」を「瑞歯」と表記し、「瑞歯」の「瑞」は、「瑞井」の意ということになり、「瑞歯」も、水(井)に関するものだということになる。
水歯別の「水歯」は、水の女神=弥都波能売(みずはのめ)の「弥都波」であり、「水歯部」は、「弥都波能壬生」であり、あかねさんが考える「金属神の祖形は、水神」を裏付けるものになるのではないかと思います。
空海は、狩場明神・丹治(たじ)家信の協力を受けて、高野山を開いたとされています。
丹治は、蝮部(多治比部)であり、この丹治家信が丹生氏に婿入りしたことを指摘したのは、「なにがし」さんです。
高野山奥の院付近の土壌の水銀含有量が多いことは、松田氏の研究で明らかにされています。
空海の高野山開基を助けた丹治氏は、丹治=金属民であり、丹生氏に婿入りしたことから丹生に水銀の意味が生じたのではないかとも考えられます。
ここで整理すれば、「丹生」は、「多治の壬生」=「丹治の壬生」から「丹生」になり、「丹治家信が丹生氏に婿入り」なる伝承が生まれたのではないかと考えられ、この丹治家信が水銀採取者であったことから「丹治の丹生」→「丹生」が水銀を意味するようになったのではないかと考えられます。
ということになれば、「大入」の「入」も無理に水銀(丹)との関係を求めなくとも、その祖形である「弥都波能神」と関係があったと考えていいのではないかと思う。
「弥都波能神」→「美都波能神」を祭神とする「恋の水神社」に桜姫伝承が残り、花山もまた衣笠山に桜樹を植えている。
大入の花山伝説の基層には、水神及び桜が関わっているように思われる。
また、花山は、谷汲山華厳寺を観音三十三番札所に定めるが、華厳寺の本尊は、十一面観音、本地仏は、白山権現である。
さらに白山信仰と花祭りは、密接な関係がある。大入の花山伝説にも瀬織津姫が横たわっているように思える。

536 ・・・ (゜O゜;) あかね 2002/09/06 20:59

うぇ〜ん、ハハカについて書いてたのが、全部消えた…(T_T)。トカゲさん、お約束の件なんですが、ちと立ち直れないので、後でまたカキコしますね…_(・・)φボー

537 丹生 なにがし 2002/09/06 22:11

ご主人様
>丹生の「丹」が水銀の意としますと、
私の勝手な考えですが「丹」は赤いものを表しているのではと睨んでいます。ただ「丹」を「に」に当てたのはどう言うことなのか?と言いますのも、早稲田大学の松田教授は、昔は「丹」を「に」と読まなかったとの事です。いつから「丹」を「に」と読むようになったか知りたい所ですが。で、丹が赤を表しているのであれば、朱の原料でる水銀もあてはまりますし、赤米をイメージすると稲作の神、ひいては稲作には水が必要ですので水の神と言う事になるのかなあ?なんて連想しています。もともと丹生氏は丹生酒殿神社を里宮(本宮)、丹生都姫姫神社を山宮としていたようです。でその酒殿神社の祭神が稲穂なんです。また、高野山の近くの相ノ浦と言う所には丹生都姫が洞穴の前にハンマーと鏨を持って立ち、高野明神が斧をもって切り株に座っている掛け軸があるようです。その絵がいつ書かれたものかは分かりませんが、ただそのころには丹生都姫は鉱山の神様という見方もされていたと言うことでしょう。また丹生氏の1280年ごろの財産相続の古文書には「大堝(おおるつぼ)」なるものがあります。これが何に使われていたのか?今となっては分かりませんが、水銀を扱っていた可能性はあると思うんですね。

>核の部分にはやはり「水神」は動かしようがないとわたしはみています。
>「丹生川上神社上社」には、社名に「丹生」の名がありますけど、
いづれの丹生川上神社も前には川が流れており、また丹生氏本拠地の丹生酒殿神社は昔は紀ノ川のそばにあったと思われる形跡があります。そして丹生都姫神社はいくつかの澤のなかから1つの澤を選んで建てられたとありますから、丹生都姫は水と関係が深い神だと私も思います。

>流布については、やはり空海の存在が密接に関わっているのでは
空海と丹生氏は深い関係にあったと私も思っています。空海が紀伊の誰かに送った手紙に、「私の先祖のだれだれは、貴殿の先祖の名草彦の分かれであるので、是非会いたい」と書かれています。このあて先が分からないのですが名草彦から紀氏か丹生氏かと見られているようです。そして丹生氏は空海が来たときに密教を守護することを約束しております。丹生都姫神社の人事権は空海以後仁和寺(御室派真言宗)が持っておりました、そして1280年ごろ高野山派真言宗がその実権を奪うのですが、どちらの時も丹生氏は丹生都姫神社の総神主を勤めています。つまり、真言宗とはそれだけの関係なのか、空海が高野山に来る以前から丹生津姫神社の神主であったため、神事は丹生氏しか出来なかったのか。そして、高野山が実権を握ると、寺領に真言宗を意味する丹生神社の勧請が行われます。つまり高野山派真言宗行く所丹生神社がついてまわると言うことです。こうして丹生津姫は広められていきました。

>記紀編纂+創作の時代、この神の名はまだ存在していなかったのではないかとみられるのですが、
その可能性もありますよね。あるいはあくまで名前が広がったのが真言宗のおかげだと考えたら、もともとは地方のマイナーな神様だった可能性もありますよね。但しその場合は爾保都姫≠丹生都姫となるのかも知れませんが。

>日前大神の存在が浮かんできます。
丹生氏と紀氏とは親戚です。一応豊耳からとされていますが、実際は分かりません。ただその密接さはかなりなものだと思われます。例えば婚姻関係もそうですが、紀氏は国造に新任になり、都に上った帰りには丹生酒殿神社へ参拝することを慣例としたようですし、丹生氏の浜下り神事では紀氏の日前宮の草の宮(紀氏の先祖?)に行き紀氏と神事を行っていたようです。丹治氏、大伴氏とも親戚ですが紀氏との関係が一番深いかも知れません。

あかね様
あかね様の行く所いく所で同じ事を書いてますので、もしかしたら完全に覚えられたとか。耳にタコができていたらすいません。

538 丹治氏 なにがし 2002/09/06 23:04

ピンクのトカゲ様
>「丹治家信が丹生氏に婿入り」なる伝承が生まれたのでは
伝承ではなく、丹生氏の家系図と丹治氏の家系図からのことなのでほぼ事実と見ています。ただ、一般的には丹生氏の家系図を正しく記載された書籍がないため、多くの人が間違った認識をしているかも知れませんね。なぜ丹生氏の実際の家系図が無視されているのか私には分かりませんが。どうも丹治氏が丹生氏から出たという系図にしたいという意図があるようですね。丹生氏の家系図にもあるように「丹治氏の系別に之あり」なのです。で何故狩場明神こと丹治家信が丹生氏に養子に来たのか?ですが、丹生照元には照千代という女の子しかおらず、甥にあたる家信を養子にしたとのことです。だから丹治氏家系図には家信の時代は中絶となっているのです。そしてどちらの家系図にも書かれていることは「丹治氏は28代宣化天皇の末裔であり、本職は犬山師である」と言うことです。本当に宣化天皇の末裔かは分かりません。丹治氏が当時そう言っていたら丹生氏の家系図もそうなるでしょうし・・・。犬山師は狩人のことの様ですね。確か今昔物語に書かれていたかと(すいませんうろ覚えです)。丹生氏も犬を天皇に献上するぐらいですから犬との繋がりはあったのでしょう。

ちなみに、丹生氏に関するHPを書いているものでつい丹生に関して沢山書きこんでしまいました。お許しを。

539 初めまして 杜 かじか 2002/09/08 18:02

初めまして。
杜かじかです。
「エミシの国の女神」大変面白く読ませていただきました。
こちらのサイトはZOUさんの「イメージ歴史館」で知りました。
突然で申し訳ないのですが、質問してもいいですか?

9/16、岩手県水沢市で、アテルイ記念、姫神コンサートです。
9/13から9/17まで岩手に参ります。
そのときに目立ちたかったから、という理由で 現在蝦夷の衣装を創作中ですが、せっかくなので、早池峰の瀬織津姫をお参りします。
その衣装で。
ですが... 9/15と9/16の午前中しか時間がないんです。
一番お勧めの神社(どんぴしゃり、末社じゃなくて本家本元)はどれなんですか?
遠野の来内村の伊豆神社ですか?
大迫の田中神社ですか?
東和の大澤滝神社ですか?
東和には、丹内山神社と毘沙門天を見に行くので、ここが妥当かな、とかかんがえていますが、出来れば、ご本家にご挨拶に行きたいのです。

やっぱり早池峰山山頂ですか?

541 お久しぶりです ZOU 2002/09/08 23:57

かじかさん、やほー!
風琳堂ご主人、ご無沙汰しておりますm(__)m

杜かじかさんから私宛てに同様のご質問を頂いたのですが、愚脳にして東北地方の知識の無い私には、残念ながら答える事ができませんでした(^_^;)

かじかさんは、東北地方やアテルイに関してたいへん鋭く研究されている方です。風琳堂ご主人のお知恵を拝借できますれば私も嬉しく思います。よろしくお願い致しますm(__)m

>トカゲさ〜ん!
かじかさんに「エミシの国の女神」P328のS氏の正体を明かしてしまいました(^_^;)
わはは・・あしからず・・・

542 丹生都比売という神U 風琳堂主人 2002/09/09 01:15

 データが消える──わたしもたまにあります。小さな分量なら再度言葉を復元できますが、言葉が次の言葉を呼び込んで……といった、ひとつの「言葉世界」にまでなったところで消滅したりすると、復元はもうほとんど不可能です。時間をおいて出直すしかない──。あかねさん、リフレッシュ、です。

 ZOUさん、今晩は。杜かじかさん、はじめまして。
 蝦夷の創作衣装で瀬織津姫参り──ですか?
 とても奇抜で、さぞ瀬織津姫もにっこりかなとおもいます。アテルイと瀬織津姫──、田村麻呂を媒介させると、この三者はつながってきます(瀬織津姫は鈴鹿山=峠の神でもあります)。
 早池峰─遠野郷で瀬織津姫をまつる「本家本元」の神社は、やはり遠野の早池峰神社か、瀬織津姫が降り立ったとされる伊豆神社でしょうね。ただし、神社には「神」はいつもいませんから、瀬織津姫のスピリットと会いたいということなら、迷うことなく、遠野・早池峰神社北にあります「又一の滝」をお勧めします。

 トカゲさん、奥三河に花山伝承があること、息づいていることがなにごとかですね。そして、その花山が花祭りの「起源」と関わっているという話──。谷汲山華厳寺と奥三河が直結する伝承を、花山の奥三河行といった史実の問題として論じる必要はまったくありませんけど、華厳寺から三河へという両地の関係づけを奥三河の地が伝承としてもっていることが興味深いです。花祭りと白山信仰、花祭りと天白神、それと、花山と桜&那智滝神、花山と谷汲山華厳寺、さらに、花山と花祭り──、これらのばらばらにみえる関係事項のどれにも関わっている神として、瀬織津姫が想定できます。
 氏族としての丹生氏とは別の角度から、丹生都比売について、もう少しおもうところを書いておきます。

 なにがしさん、「丹」と丹生都比売についてのコメントをありがとうございました(長い話は、ここではまったくかまいません)。
 昔は「丹」が「に」と読まれていなかったという松田説について──。たとえば、日本書紀の神武東征条における、熊野の「女賊」として殺される「丹敷戸畔」などは「たしきとべ」と読ませているようで、なるほどとおもいました。しかし、古事記における、神武が皇后選びをする場面での「美和の大物主神」が「丹塗矢」となって「勢夜陀多良比売」の「富登」を突くといった神話(その後、神武の皇后となる「富登多多良伊須須岐比売(比売多多良伊須気余理比売)」を生む)──このときの「丹塗矢」はやはり「にぬりや」と読ませている可能性があります。
 辞書によりますと、「に」は、もともとは地や土を表す「な」の転という説があるそうです。この説を裏付けるのが、古事記の「丸邇坂能邇袁 波都邇波」云々で、岩波の口語訳は「丸邇坂[わにさ]の土[に]を 初土[はつに]は」としています。また、なにがしさん指摘の、「に」は色としての赤・朱を表している例──、これもたしかに古事記にあります。「邇具漏岐由恵」──岩波訳は「丹黒き故」としていて、「邇」を「丹」に置き換える訳をしています。赤黒いといった形容を「にぐろい」と表していることがわかります。
「地・土」と「赤・朱」をともに表すのが「に」としますと、「邇」は「赤土」を表しています。土のなかの特に赤土という意が「丹」で、その色を強調するときには「に」と読ませるということかもしれません。赤土=辰砂としての「丹」は、硫黄と水銀の化合物で、そこから水銀を含む、あるいは水銀を産出する土の意で「丹生」という語が誕生したのかもしれません。
 こういった見方で「丹生都比売」を再考しますと、この女神の名称は、「赤土姫」ということになり、これは水銀素を含む土神・埴神の性格を前面に出した神名となります。
 貴船神は、丹生川上神にならっていえば「賀茂川上神」で、平安期には、丹生川上神とともに「雨師神」として重視されます。また、丹生川上神社には、大和盆地の地主神とされる大国魂神をまつる大和神社の「別宮」という位置づけがみられます。これをどう考えるかはむずかしいのですが、朝廷にとって、その所在地の土地神と水神は、必ずセットでまつるという認識があったのかもしれません。このことは、平安京へ遷都したとき、上賀茂神社の別雷神が京の地主神と設定され、川上神としての貴船神がセットとなることにもみられます。ただし、丹生川上神社の川筋は奈良盆地を通っていませんから、京都の場合とは少し異なります。これは、「吉野」が特別の聖地だという認識が朝廷側にあったゆえと考えておくことにします。
 ところで、丹生川上神社の創祀は、天武天皇によるものとされます。つまり、壬申の乱のあと、白鳳四年=676年に、天武天皇の「夢告」として「人声聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」として丹生川上神の祭祀がはじまったと「由緒」は記します。聖地・吉野において、同じ天武創祀をうたう社に天河神社(天河大弁財天社)があります。こちらは正確な創祀年がわかりませんけど、この社の異称は多く、たとえば、「坪内弁天社」(「坪」は「壺」の意)、「吉野熊野中宮」、「天河坐宗像神社」などがあります。天河神は現在「市杵嶋姫命」とされ、配祀神に「吉野坐大神、熊野坐大神」と表示されていますが、この社前の川が熊野川本流の最上流部にあたる「天ノ川」で、この天河神も、丹生川上神にならっていえば「熊野川上神」となります。熊野川上神が宗像神でもあることで、熊野の水神がどんな神かは雄弁に暗示されているというべきですが、ここで、丹生川上神は、(丹生川=)吉野川=紀ノ川の「川上神」という仮説を考えてみます。
 紀ノ川─吉野川が、ある時期「丹生川」の異名をもっていたという話はまだ聞いたことがありませんけど、丹生川上神社中社(蟻通神社)社前の川である高見川(吉野川支流)はかつて「丹生川」とよばれていたようです(神社側の主張)。この川がかつて吉野川本流筋とみられていたかどうかは現在わかりませんけど、高見川=丹生川としますと、丹生川上神社の比定社としては現在の「中社」が有力となってきます(同社に伝わる、後醍醐天皇「この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空」の歌も後押ししています)。
 また、この「中社」を中心にみますと、さらに興味深いことがわかってきます。つまり、高見川をさらに遡ってみますと、水分神社が二社鎮座していることに気づきます(東吉野村平野、滝野)。川名は「平野川」と名を変えますけど、高見川の最上流部の水分神社二社のいずれも、祭神を瀬織津姫としています。丹生川上神社中社(祭神=罔象女神)が主張するように、高見川=丹生川としますと、ここで、瀬織津姫が「丹生川上神」でもあることになります。
 紀ノ川流域には、東吉野村の水分神社二社のほかに、たとえば合祀されているとはいえ山崎神社(岩出町)に瀬織津姫の名を確認できますし、同じ岩出町には、祭神を、瀬織津姫の異名「天疎向津姫命」とする(していた)式内社・荒田神社もあります。
 丹生氏と紀氏が親戚関係にあり、その祭祀を共有する関係もみられるとのこと──。この指摘は仮説の話を一歩リアルなものとして語ることを応援してくれているようです。
 紀ノ川河口部の日前大神が瀬織津姫を秘めていること(『エミシの国の女神』参照)を考えますと、中流域に空海影響下にある丹生都比売のエリアがあるとしても、上流部には瀬織津姫がまさに「丹生川上神」として確認できるわけです。これらが偶然のことでないとしますと、丹生都比売の背後の神もまた瀬織津姫である可能性は、とても高いとみることができます。空海は、伊豆山神社においては、その祭祀に朝廷の「勅使」の資格で関与していました。伊豆山神社から瀬織津姫の名が消えたことと空海が関係あるとしますと、丹生都比売という神の祭祀にも、同系の疑念は消せないことを正直に書いておきます。
 空海を貶めるつもりはありませんけど、彼は高野明神から土地を「十年」借り受けるときに、「点」をこっそりつけて「千年」に書き換え騙し取ったという、ダーティーな伝承も遺しています(これは、鹿島神が春日さん=猿田彦から、その土地を詐取する伝承とまったく一緒です)。空海のこの汚点の伝承が生まれるには、それなりのことがあると考えるのが自然です。空海という人物──彼は絶対的な「善」の仏徒とはいいきれないとみる必要もありそうです。
 紀ノ川─吉野川の最上流部は丹生川と異称していたことがあるのではないか──。こう考えますと、吉野川本流の最上流部に丹生川上神社上社(川上神社)が式内社「丹生川上神社」を自社と主張している理由もうなずけることになります。
 紀ノ川─吉野川の上流部が、あるいは吉野川そのものが「丹生川」と呼ばれていた可能性はないのか──遠野にいては、ここまでの話しか書けませんけど、なにか情報があればまた教えてください。

543 ご返答ありがとうございました。 杜 かじか 2002/09/09 03:07

 風琳堂ご主人、こんばんわ。
杜かじかです。
とても貴重なお返事、ありがとうございました。
おかげさまで予定が決定いたしました。
9/15に遠野の早池峰神社と又一の滝、9/16の朝に東和の丹内山神社と毘沙門天をお参りしてきます。
しかし、いまガイドブックで調べてみたら、
「大出から又一の滝まで往復4時間」
...4時間かよ...
その上、この神社に行くだけでもタクシーで1万は行きそうで怖いです。
滝のお姫様に会いにレッツらゴー。

544 陽だまりの言の葉 1 さかな 2002/09/09 07:02

 風邪をぶり返してしまいまして、ひどい頭痛でPCを開いておりませんでした。
 また、返事のペースもとっても遅いので、余計に気を使わせてしまいまして、すみませんでした。

ピンクのトカゲさん
 丁寧なお返事を毎回いただきまして、ありがとうございます。
 あんまり、NETであちこち行かないもので(ここのHPも図書館のPCで見つけました)、知らないことが多いのですが、よろしくお願いします。
 「道」のお話は、心が温かくなりました。こういう陽だまりのような言葉はいいですね。言の葉とは「心の一葉」ということだそうですが、一枚一枚の葉に心が宿って「言霊」という、昔の人の感性はすごいな、といまさらながらに感じます。

◆続「サクラ」
 まず、韓国語の「サクラ」は他にも「内通する」という意味があるようなんですね。「日本語と韓国語」(文春新書)に書かれてあって、悪い意味での「犬」と使われているようです。これは、スラングみたいなものなのでしょうか? ちょっと、韓国語の辞書を持っていないので、わかりません・・・・・・。

>サクラが韓国語地名かというのは、早計です。
 これは戌(犬)の刻あたりから「夜」になると思うのですが、「サクラ」とは「月の国・夜の国」などという意味があるのではないかと思いました。「黄泉国」の比喩なのではないかと。 エジプトのアヌビス(山犬)神は死者を守る神であるので、意味は通るのではないかと思いました。
 「サクラ」というのを地名と見るなら、犬に関する言葉にちかい、高麗(こま=狗)ということかもしれません。(でも韓国の発音ではありません・・・・・・)
 神社の「狛犬」は、神社を「神(隠身=死者)のいますところ=黄泉の国」とした場合の「守護」としての意味も含むのではないでしょうか。
 こうしてみると、韓国語の「サクラ=鎮魂」というものと、「死者を守る=御霊鎮め」ということは同じで、「犬が守る黄泉の国」の解釈に問題はないような気がします。(^‐^;;;

◆鹿の角
>古事記の天岩戸隠れ条で「天香山の天の波波伽(朱櫻)を取りて、占合ひまかなはしめて」と桜に
>ついて記載されています。
 上不見桜ともいうものですよね。えーっと、実はこの章で非常に嫌な記述がここなんです。
 アマテラスをよみがえらすために、鹿占をするというところですけれど、「ハハカで鹿の骨を焼く」というのは、「鹿を屠る」ということで「他の生物の命を代償としてアマテラスが戻ってくる」という、人として感情的に嫌だなという・・・・・・。私が狩猟民族ならばこれらは違和感のない行為で、鹿占の後に感謝をもって、お肉をいただくのだろうと思いますけど・・・・・・(鹿占の後の鹿は本来はどうしていたのでしょうか? 疑問です)。(-_-;
 古事記の天若彦のところの注釈には、「天の迦久とは、鹿の神霊なり」と書かれています。これを、天香山と同じと見て考えてみます。
 他の古事記の本では「ハハ」とは大蛇又は蛇であり、刀を意味するという注釈もありました。「ハハカ」とは「剣」のだということなのですね。
 ケルトの神話に「ケルヌンノス」という闇の神がいます。ケルンとは角という意味なのですが、この神は頭に鹿の枝角を生やし、左に蛇(ハハ)、右に金(カニ・カ)のトークを持っています。鹿の角は切ってもまた生えてくるということで、生命力と再生のシンボルでもあります。
 こういう神話等と照らしあわせると、ハハカというのは「鹿の角」なのではないか、と推測できます。
 石上神宮にある「七支刀」は、かたちから見ても祭祀器具だと思うのですが、「鹿の角」に似ています。また、百済王から神功に送られたという七支刀は本来二本あって、もう一本は吉備津彦神社に送られたという伝承もあります。二本の七支刀はまさに「鹿の角を模した刀」といえるのではないでしょうか。
 天香山を鉱山と見た場合でも、ハハカが「鹿の角のかたちの刀」でも変ではないなと思います。

◆罪人と笠と鹿の革
>このコノハナサクヤ姫は、笠沙岬で登場するわけですが、サクラ=腫れ物を沈めるから笠沙の笠
>は、瘡だと考えられるわけです。
 これは、蘇民将来と三輪山の大物主の話と一致するのではないでしょうか。

>笠→瘡とサクラ
 スサノヲは青い蓑笠を着てさすらいました。
 斎明天皇のときに出てきたモノノケは、青い油笠を着ていたというのも、このスサノヲに重ねることができると思います。また、このモノノケが葛城から生駒(アイヌ語の「イコマ」は「鹿」というらしいです)というのも、とっても気になります。
 旧約聖書のカインは弟殺しの罪によって、額に鹿の角を生やされたそうです。
 スペインのトスカーナ地方の伝承では、カインは罰として月に追放されたと言うことです(カインは月神・さすらい神=スサノヲということでしょうか)が、ケルトのケルヌンノスの神話と共通しているし、これと類似した記述が日本にもあります。
 日本書紀の応神天皇十三年九月に、髪長姫の父・日向の諸県君牛は角のついた鹿の皮をかぶって天皇に「娘を奉ります」と言ったとありますが、日向の諸県君牛は「罪人の印をつけてさすらう神」の「牛=スサノヲ」として書かれていると推測できますので、髪長姫はスサノヲの娘ということなのではないでしょうか。

◇蓑笠と鹿の革
 「ハハカ」の別名に「樺(サクラの一種)」というのがありますが、「カバ」と読めるは「蒲葵」もあります。これは蓑笠などの材料になるのですが、「蓑笠(カバ)=鹿の革」とすると、この「蒲葵」も「ハハカ」に含まれるのではないか、と考えられます。
 他に、「蒲」は大国主が因幡白兎を助けたときの植物で、「葵」は籠神社や上下賀茂神社の「葵祭り」に関係がある植物です。

◇鹿、いろいろ
 韓国版「天女の羽衣」の話は、「鹿」が男に「一番下の天女の羽衣を奪え(弟姫ということでしょうか)」、と二人の仲立ちをします。

 記紀自体がオリジナルの話の構成かというと、ちょっと疑問です。他国の影響も強いのではないかと思えるところが多いと感じますが、証明はできないです。力量不足ですみません・・・・・・。

◆「カル」補足
 在日韓国の方が、軽の皇子の「カル」は「カルビ=双子」のことだといっていたと教えていただきました。 また、「カル=太陽」は小林氏の本で見たと思います。易の話を交えてかかれていたのではないでしょうか? それと、「ハル」はマライ語でも「太陽」だそうです。
 アッカド語でも「kal」は「犬」といいます。

◆訂正と追加
 ペルシア語の月は「mah」です。ついでにアッカド語では「mah=偉大な」となり、これはサンスクリットの「マハー」に当たるのではないかと思います。

長い戯言でした。

545 陽だまりの言の葉 2 さかな 2002/09/09 07:03

風琳堂主人さん
 なんだか、お騒がせしましてすみません。
 脳の集積回路がちょっと変で、視点がおかしいかもしれませんが、そういうところは気にせずに流してくださると嬉しいです。(´‐`;;;

 気になる言葉がひとつあるのですね、応神は気比で名前を交換して、「ホンダワケ(ワカ)」になったとありますが、ホンダワラというのは、海藻のことですよね。他にアイヌ語の「ワッカ」は「水」ですが、ペルシア語の「わか」も「聖水」という意味があり、「ほだー」は「神」という意味なので、「聖水の神」となるのですね。
つまり、安曇磯良(海神)と名前を交換したということもありえるかな、と思うのですが、どう思われますか?

>梅と桜
 たしか、桜は縄文時代からあったように記憶しています。梅と桜は同じバラ科の植物なので、花が似ています。
 私が梅にこだわるのは、縄文時代の漆製品が気になるからなんですが、もしも、漆器が日本で作られ、漆を塗る工程が縄文時代とほぼ変わらないと証明されたなら、梅の実を使ったものもあるかなと、ひそかにこれらの痕跡が縄文の地層から出てこないかと願っています。(これは完全に妄想です)

サクラさん
 はじめまして。
 今、本を読ませていただいてます。(^‐^)
 私も来月、十和田湖方面に行く予定です。きりたんぽ鍋が楽しみです。
(大手旅行会社のツアーなので、行きたいところへ全部は行けないし、定員数が足りないと中止になってしまうのですが)

あかねさん
 はじめまして。こちらこそよろしくお願いします。
 ありがとうございます。私のも閃きカキコなのですが、おそろしくとんでもないことを書くことがあると思います。
 自分が楽しくないと何事も持続しないので、三日坊主になってしまうのです。(^‐^;
 サンスクリット語も一致するものがあるようです。「サンガー=僧伽」で「サンカ」に転訛し、山伏や山の民の意味になったといわれるものもありますよね。 印度人の僧が来日しているので、仏教の経典が原典で持ち込まれているのではないか、と推測はできると思うんです。タタラ=タタール説なんかもあった気がします。
 でも、難しい本は読まないので、わからないことが多いですけども。みなさん、とっても勉強なさっているので、書き込みが大変です。「読みの国」にまた、入りたいと思っています・・・・・・。

石見のみづちさん
 はじめまして。
 私のものの見方が、かなりピントがずれている(異論)と思うので(個人の思いつきによる歴史観なので)、書き込みを躊躇してしまうのですね。ですが、こんな変な視点にも心広く対応していただけて嬉しいです。よろしくお願いします。m(_ _)m

546 気比大神 風琳堂主人 2002/09/09 13:46

 かじかさん、9月15日は、そういえば遠野郷の年に一度の、最大のお祭りの日でした。各集落から、それぞれの「鹿[しし]踊り」など、自慢の祭礼の「芸」をもちよる、年に一度の交流祭の日で、遠野にこんなにも「人」がいたのかとびっくりするくらいの人出となります。エミシの創作衣装で歩いても、残念ながら(?)、あまり目立たないかもしれません。
 又一の滝へ行かれると決めたなら、わたしも瀬織津姫に会いに行きたいですから、よかったら案内します。
 丹内山神社本殿背後の大岩がご神体で、この岩神がアラハバキ神です。大沢滝神社は、ここから車で5分もかからない近さです。

 さかなさん、ホンダワケ=ホンダワラできましたか。
 気比大神=伊奢沙和気大神命(古事記)と応神(品陀和気命)による名の交換の話は、あまり作為性を感じさせない、古伝の痕跡を遺している箇所です。古事記収録のこの話を日本書紀が再録したとき、書紀の編者も、この話は、今ふうにいえば「わかんない」と正直に書いていて、少し笑わせてくれます。
 古事記は「ほんだ」の説明をしていませんが、書紀は「解説」を書いています。

■「ほんだ=鞆」説
 時に年十三歳、天皇(誉田天皇)が孕まれておられるとき、天神地祇は三韓を授けられた。生まれられた時に、腕の上に盛り上った肉があった。その形がちょうど鞆[ほんだ](弓を射た時、反動で弦が左臂に当るので、それを防ぐためにはめる革の防具)のようであった。これは皇太后(神功皇后)が男装して、鞆をつけなさったのに似られたのであろう。それでその名を称えて誉田[ほむた]天皇というのである。
 ──上古の人は、弓の鞆[とも]のことを、「ほむた」といった。(日本書紀…宇治谷孟訳)

 弓の話ならトカゲさんでしょうが、「ほむた」の命名を鞆にみる書紀の解説は苦しいこじつけです。書紀の編者もそのあたりを自覚していて、上の話に続けて、古事記の話を「ある説」として紹介しています。「わかんない」という箇所です。

■皇太子と気比大神による名の交換
ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国[こしのくに]においでになり、敦賀の笥飯大神[けひのおおかみ]にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神[いざさわけのかみ]といい、太子を誉田別尊[ほむたわけのみこと]と名づけたという。それだと大神のもとの名を誉田別神、太子のもとの名は去来紗別尊ということになる。けれどもそういった記録はなくまだつまびらかではない。(同上)

 気比=笥飯大神の元の名は「誉田別神」、応神の元名は「去来紗別尊」となるが、「つまびらかではない」と書紀も解明する気がないようです。
 敦賀の気比大神がどんな神であったかといえば、書紀の「誉田別神」という表記から、「田」の神、つまり農耕神の性格要素をもっていることがうかがえます。
 古事記にもどって、気比大神をみてみます。

■海神としての気比大神
亦其の神(気比大神)詔りたまひしく、「明日の旦[あさ]、浜に幸[い]でますべし。名を易[か]へし幣[まひ]献らむ」とのりたまひき。故、其の旦[あさ]浜に幸行[い]でましし時、鼻毀[やぶ]りし入鹿魚[いるか]、既に一浦に依れり。是に御子、神に白さしめて云[の]りたまひしく、「我[あれ]に御食[みけ]の魚[な]給へり」とのりたまひき。故、亦其の御名を称えて、御食津[みけつ]大神と号[なづ]けき。故、今に気比大神と謂ふ。亦其の入鹿魚の鼻の血?[くさ]かりき。故、其の浦を号けて血浦[ちうら]と謂ひき。今は都奴賀[つぬが]と謂ふ。(古事記…倉野憲司訳)

 敦賀の地名潭でもありますが(ほかに、都怒我阿羅斯等による地名潭もあります〔「額に角の生えた人」→「角鹿」(→敦賀)…書紀・垂仁条)、気比大神はイルカを皇太子の食材として提供する姿が描かれています(御食津大神)。つまりイルカ漁をつかさどる海神でもあることがわかります。書紀と古事記を重ねますと、気比大神は、古い海洋農耕神とみてよいでしょう。
 さかなさんの「安曇磯良」(海神)はそのとおりかとおもいます。この海神は、列島沿岸各地に、海の民によってまつられていた神で、原初の海照神=天照神(日神)の要素をもっていた神でもありましょう。敦賀にいる、その神の名をいただいて、つまり神の意向に応えてという意を込めて、「誉田天皇=応神天皇」と、あとから命名されるわけです。
 ここには、水神の女神の姿は描かれていませんけど(気比神宮内には「気比の長命水」という神水があります)、敦賀の地の東には、航海の守護神の山であり、とびきりの水神の山でもある「白山」が控えていることも、視野に入れておきたいところです。
 敦賀の海へはキス釣りで何回か行ったことがあり、なつかしく思い出されました。

547 サクラと鹿神―一つの仮説 ピンクのトカゲ 2002/09/09 18:16

さかなさん

>「道」のお話は、心が温かくなりました。
実は、条件付だということを書き忘れました。どんな条件かというと、「持統―不比等擁護を除く」という条件です。「持統―不比等擁護」は、徹底して叩きます。そのときは、さかなさんも援軍お願いします。
つぎに、韓国語サクラについて、三修社の日韓辞典では、「内通」は、漢字の音読みのne-dongしか出ていません。
警察の犬という意味での犬は、apjami、あるいは、権力の犬の犬の用法として、noeが出ています。
文春新書の「日本語と韓国語」で原義が書いてあれば、教えていただければ、再度調べます。
サクラと悪い意味での「イヌ」というと、まず思い浮かぶのが、露天商が、客寄せに、客を装わせる仲間の『サクラ』が思い浮かびます。韓国語では、baramjamiです。Baramは、風とかの意味ですから、サクラとイヌの直接の関係は浮かんできません。また、露天商の符牒の「サクラ」についてもそれほど遡れるものではないと考えます。
ここで、サクラと瀬織津姫という話しに立ち帰れば、瀬織津姫隠しは、持統の意志により行なわれたわけであり、瀬織津姫あるいは、その二神化された一神・コノハナサクヤ姫との関係でサクラを考える必要があるのではと思います。
まずここに基本(サクラ=鎮魂の樹)があり、そこから派生して、黄泉の国の比喩が生まれたと考えるべきではないでしょうか。

つぎにウワミズ桜については、あかねさんが立ち直れば(?)書いてくれると思います。
この鹿を葬るというのも播磨風土記にも出てくることで、あかねさんが得意な分野です。
三河との関係で瀬織津姫を踏まえての論になりますが、その前に一つ質問があります。
ハハカ=鹿の角の刀は、何かの本で書いてあったのでしょうか。
だとすれば、こういう説明の方がすんなり繋がると思うのですが、
三河一宮・砥鹿神社の末社に守見殿神社があり、その祭神に迦久神の表記があり、この迦久神は、守見殿神社に合祀された鹿角神社の祭神とされています。幕末から明治に掛けての吉田羽田八幡宮の神官・羽田野敬雄は、砥鹿神社神官・草鹿砥宣輝に、この鹿角神社について尋ねたところ「社地は、宝川の辺りに在り、社はなく、一つの塚を祀れるのみなり。鹿の御霊を祀ると社伝に在りといわれた」と記しています。
さかんさんが指摘する古事記の「天の迦久」とは、古事記国譲りの条の天迦久神を指していると思われますが、この天迦久神は、天照大神の命により天尾羽張神の許に仕えたとされたと記載されています。
先代舊事本紀は、この天尾羽張神の別名を稜威雄走神(いずのおばしりのかみ)と記載しています。
この稜威雄走神のまたの名として先代舊事本紀は、甕速日神、槌速日などをあげていますから日神と仮定できます。
遠野の伊豆神社は、伊豆走湯権現で修行した四角藤蔵が勧請したということですが、伊豆走湯権現の原神(水の女神と対で祀られていた日の男神)と仮定すると、先代舊事本紀は、この記載のあとに、「(稜威雄走神)の兒の建甕槌之男神(別名:建布都神・豊布都神)は、常陸国の鹿島に坐す石上布都大神である」と記載しており、風琳堂主人の鹿嶋神の考察などから、迦久神=鹿神と隠された水の女神との関係は、益々濃厚なものになり、石上布都大神とも関係してくることになります。
さらに、先代舊事本紀は、この稜威雄走神を天安河上に坐す天窟之神であると記すわけですから、この神は、天窟=天岩戸の神でもあるわけですから、稜威雄走神が鹿神(天の迦久)そのものとも見れるわけです。
以上、先代舊事本紀と砥鹿神社末の鹿角神社からハハカについて考察しましたが、いかがでしょうか。

つぎに、笠→瘡について
斎明のモノノケは、斎明の葬儀を眺めていた大笠を被った鬼のことですね。
生駒(イコマ)は、アイヌ語で「鹿」の意味。この説は、東大阪在住の進藤治先生が「長髄彦の実像(幻想社)」で唱えたものです。
余談になりますが、進藤先生は、十数年前、私に古代史の手ほどきをしてくれた師であり、拙稿「穂国幻史考」のプロトタイプができたのも進藤先生に負うところが多いんです。

つぎに樺について、蓑の方でなく、箕と樺の関係については、私のところの過去ログで書いている東沢さんが詳しいと思います。

最後に「カル」について
まず、在日を含めて韓国人の方の説は、万葉集や古事記を韓国語で解釈するというものが多いですが、古韓語を証明する資料は、ほとんどないということです。日本では、万葉集及び古事記に古語が残されていますが、韓半島では、日本の和歌の原型になる郷歌は、あったものの現存する郷歌は、十数首です。
韓国語で万葉集が読めるというのは、本末転倒で、日韓の漢字の音の音韻対応から万葉集や古事記を資料として古韓語を復元するという作業をまずやる必要があります。
そうした中で、季男徳教授の「韓国語と日本語の起源(学生社)」は、真摯な態度の著作であり、信頼できるものと思い、久しぶりに、ページをめくってみました。詳細はかなり専門的になりますから省きますが、季教授は、「kar」を日韓祖語として「線条」を意味する言葉とし、語根末子音のrが落ちたko、koの交替形のkuが原始日本語であっただろうと推測しています。
その派生語として分裂したさまを表す語の例をあげ、その一つに「訓蒙字会」にkal-oki(双子)を意味する言葉があるのをあげています。
軽については、木梨軽皇子と穴穂部皇子の軽矢(銅製の鏃)、穴穂矢(鉄製の鏃)の逸話があり、なにがしさんは、狩場明神の狩(カリ)は、軽(カル)の変化だと見て銅のことだとの説を上げています。
軽の皇子の名は、孝徳、あるいは上述の木梨軽皇子と普通名詞と考えられますが、これらの皇子が双子であったとの説を裏付けるものはありません。
むしろ、双子ということになれば、武内宿祢と成務、きのつくの宿祢と仁徳に双子を思わせる記載があります。

zouさん

かじかさんに正体を明かした「エミシの国の女神」P328のS氏って「三河を探索する上で、貴重な資料の提供や助言を頂いた」と著者の菊池展明が書いていらっしゃるS氏のことですか?
どんな人でしょうね。ひょっとして、この掲示板にも、現れているのでしょうか?
それより、著者の菊池展明は、どうしているんでしょうねぇ?
zouさん菊池展明さんの正体もかじかさんに明かしてください。

風琳堂主人に一言

何々で「ござる」は、「忍者ハットリくん」です。
あかね節風は、何々で「ございまする(@_@)」です。
ねぇ〜あかねさんm(__)m

550 山直には何かある あかね 2002/09/10 16:33

 ようやく立ち直りまして、カキコさせていただきます。トカゲさん、ござるも好きですけど、確かにございますると、よく書きますね、私。あかねには、おじゃる丸のあかねの意味も入れてますので、実はその辺から来てたりもします(^_^)v

風琳堂ご主人
 お役に立てますかどうか分りませんが、こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。ハバキとハハカ、何となく関係あると私も思ってます。鞴、鹿繋がりもあるかなぁ?
 それから、お褒めいただきまして有難うございます。照れちゃうなぁ(^^ゞ。何か私、砂金の掘り方とか、鉱物、鉱山マニアへとどんどん近づいていってますが、本当は鉱山そのものに特に興味があるわけではなく、やっぱり鍛冶と鋳師、土師、山直中心です。そこら辺から道具史等にも興味がいってます。うちの家系としては、直接的に鉱山採掘へ関った家は存在しないので、本当に鉱山の民の視点から見る事が出来ているのかどうか、自分ではちょっと疑問であります…。でも、有難かったです。
 あ、赤土姫、誠に嬉しいお考えです。なぜなら、ニホツヒメさんについても、以下↓のようにも思ってますので。只、この辺りって確か、水銀鉱脈としては出ていなかったはずなんで、その辺が苦しいんですけど。もし間違ってたらm(__)m。HONさん、教えてちょ!砒素ならそこから北へ上がっていくと出てたりします。熊野等と同じく、錬丹術の鉱物派と、薬草派の地でもありますなー。
 それから、空海については、お大師さんとして馴染んで育っており、思い入れもある方だから難しいです。例えば、中世被差別民史を読んでますと、「非人」という言葉を最初に記録へ残したのは、見える限りでは空海なんですよね…。親族には高野山にもお墓があった者もいるし、お大師さん、好きなので悲しいです。それでも好きですけど。

なにがしさま
 たこ、大好きさ!といっても記憶力減退のため、忘れちゃってる部分もあるので、耳たこになってなかったりする〜(>_<)。とにかく、なにがし様の丹生研究は、私にとっても誠に有難いものなんです!!丹生と丹治、ニホツヒメさんは、播磨の山直・山連等とも恐らく、大いに関ってますよね。風土記作成には、山直の意図がかなり入っているだろうし、丹治は託賀郡に、丹生は山直の本拠地・賀毛郡にも確かいましたもん。丹生山だって、もと東播磨だもーん。それにこの近くには加古川支流が流れてるから、鉱物神の他に、水神・豊穣神・開拓神の線も強いですよねー。
 そうそう、丹生山って廃坑がありますね。丹生山東隣の確か、帝釈天山だったかな?は銅山なんですけど、丹生山は何の鉱山だったのでしょうね。鉄分は多い土であっても、鉱山として鉄が採れたと言えるほどの量は、出ていなかったのでは。丹生山の赤土はむしろ、伏見稲荷大社の稲荷山の赤土のように、三条鍛冶が刀の仕上げに用いたり、河内鋳師が鋳型に使ったようなカタチなどで利用したのかもしれない。それだからこそ、丹生(タンジョウ)山に百済王子恵が、韓鍛冶を率いてやって来て、託賀郡〜美嚢(ミノウ・ミナギ)郡にいた大和鍛冶と技術提携しあったのでは、と思ってます。
 で、狩場明神の狩(カリ)は、私も軽(カル)の変化で銅だと考えてます。東播磨も高野山辺りも、銅山が多いもん(^_^)v。そう言えば、多胡も多治比真人氏だぁ。

さかなさん
 サクラのサを、沙とすれば、この“沙(シャ、砂)は、色の歴史では「赤土」「朱砂(丹砂・辰砂・朱沙)」”を指しますから、赤土・辰砂の出る地となるのですよね。豊後風土記の海部郡丹生郷に、“山の沙を取って朱沙に用いた”とあります。そうすると、どうやら丹生都姫にもサクラは関っておりそうですね。
 クラは暗い、穴とみて、赤土の出る穴となり女神に相応しいな。こりゃ、古代の水銀の狸掘りですな。それに朱は赤いので、日(太陽)・火・男性神の要素も加わります。あ、赤土を掘るのは男性の掘り手だから、それで赤土成り・交合となって、これでいいのか。面白いな。でもクラを穴⇒坩堝、炉を指すという線もあると楽しいんだけどなぁ。
 また、アカ(赤系〜黄系色)とは、アもカも共に鮮やかで明るい事の音義語であって、アは接頭語で、カが語根とする説や、カは日(太陽)・火・血を指すという説もあります。対して青は、古代では草木の緑色を指し、緑系〜青系までの寒色系統をいいます。
 ここで、スサノウの青い蓑笠の青というのが、ちと気になります。衣服令以前ではまだ、後世のような身分上の衣色の定めはなかったから、青系統が即、下位の色とも言えないです。ですが、庶民階級の氏人は晴着に山藍で摺染した青摺衣や丹土の汁で摺った丹摺衣を用いたそうなので、スサノウは権力者から普通の人になったという意味で捉えてもいいのかもしれませんね。蓑笠の風体が、被差別民・罰の要素を持つのは、中世半ば以降の話だったと思うのですが、これも詳しくは失念したので、今は何とも言えないですm(__)m
 タタラ=タタール説はよく聞きますね。隕鉄なども考えると、あり得るのではないでしょうか。山岳寺院は山伏を含む山民等が、大いに協力して盛り立てたので、サンカが持つ蝮部起源の話と、部の山部が蝮部内に含まれていたか、或いは山部の一部と思われる蝮部から考えると、サンガーという線だって、一概に否定は出来ないのではないかと感じます。よく分らないけど。
 あ、蝮部のお話はトカゲさんが御詳しいです。いずれにしても、サンカの本拠地である丹波には、大岳(ミタケ)という、役行者が大峯の次に開いたとされるお山があり、一時は大峯修験以上に盛んだった事もあるそうです。
 安曇磯良神について私も同感です。大阪府の北摂・茨木市の、天照御魂・疣水・磯良神社辺りも面白いですよ。桜・疣だけでなく阿保親王の雨乞伝承等も残ります。
 また、サクラの夜の説も、暗い黄泉の国、坑道、坑道を掘る・守る犬とも捉えてみたら、韓国語かどうかは私には分らないけど、残しておきたい説です。
 うわみぞさくら=上溝桜⇒うわみずさくら=上不見桜については、後述しますね。ご存知だと思うけど。梅もちょっとだけ、書くつもりです。

552 山直から蝮を考える あかね 2002/09/10 16:50

ピンクのトカゲさん
 534を拝読して嬉しくなりました。花山から大入を導き出されるなんて、さすがトカゲさん!!何か、私のバラバラな頭の中まで、整理していただいた気分です。
 なにがしさん、未だに蝮部と山部の関りについてまとめずにいてごめんなさい。トカゲさんちやサクラさんちのBBSにて、書いておるので既にご覧になっておられますね。それに蝮部は、トカゲさんがこちらで書いて下さったので、よかったです。すいましぇんm(__)m。

>水歯別については、多治比の柴垣宮に都を置いたことから多治比→蝮部とされたと考えられます。
 この辺のお話は、河内鋳物師・大和鍛冶と大いに関るので、地域についてご説明させて下さい。
 反正天皇の多治比之柴垣宮があった多遅比野とは、南河内の丹比郡(後世、丹南・丹比などに分かれた)であり、多遅比野の地名は、反正が称したものです。部落名としては多治井として残ります。しかし、多遅比の範囲は恐らく、河内国丹南郡(もとの丹比郡)の七郷(野中・丹下・丹上・菅生・黒山・狭山・土師)を含む広範囲のものであったらしく、更に狭山郷日置庄(多分、河内鋳物師の発祥地は現・美原町大保<ダイホ>)については現在の狭山町とその北方の堺市の一部も含んでいたらしいです。
 堺には、山直の山直神社があり、堺市は要路であり堺目でもあるので、境界・坂合の神を祀った山直に似つかわしい地であると同時に、丹比とも繋がりそうです。山直の東播磨北部の本拠地・託賀<タカ>郡賀眉<カミ>里には、天児屋根命と同神説もある、鍛冶神・式内天目一神社の近くに、丹治地名も残りますから面白いところです。尚、天児屋根命は、大保の河内鋳師家に伝わる烏丸大明神縁起によると、石凝姥命が鉄釜を造って差出した神でもあるとします。
 また美原町に往時の面影を見出すならば、この付近一帯の大小700余の灌漑用水の人口溜池と、南方隣り狭山町の崇神天皇期に造られた巨大な狭山池だそうです(多分、南河内松原市周辺等にもいた葛井<フジイ>氏など多族が中心となって行った土木工事)。この事は、大和政権の河内平野進出と、河内国の屯倉や部民の村落がおかれた歴史を示すようです。大保の南には前方後円墳の黒姫塚が。他には聖徳太子創建と言われる阿弥陀址、丹比氏の氏寺と推定される丹比廃寺塔跡、式内小社丹比神社、藤原氏の別族・菅生氏の菅生神社等が存在します。寺院としては平安半ばの融通念仏宗(11寺)、真言(4寺)、真宗(2寺)、黄檗宗(一寺)等があります。
 この地で河内鋳物師が起った理由は、4世紀以降、色んな渡来人や、百済の韓鍛冶卓素(卓素には金屋子同神説もある)、鉄盤や鋳盤・瓦博士(ハカショ)などが来朝して、利便性の高い河内地方にその技術が伝わった事に遠く溯ります。東播磨の大和鍛冶起源地のアマツマラ=天目一命の起源は、5世紀以前に溯りますから、大和鍛冶や鋳師は、東播磨から河内へ移動した事も有り得ます。ここで又、山直と丹比地方が関るわけです。その後、和銅元年(708)に、鋳銭司についた多治比真人が、鋳師・鍛冶を統率して、丹比に住み、更に多胡碑に見えるように移動したわけです。
 加えて山直には、仏教を擁護し、仏教伝来地は播磨ではなかったか、というアコさんの興味深い説もあります。高麗僧恵便も、山直の本拠地・東播磨を特に好みましたし、法隆寺荘園や秦氏・鴨の地も多い播磨ですから、鉱物とその技術重視はなるほど、ですね。奈良の大仏鋳造には、山直(部民も)が技術指導にあたったというお話もあります。
 それから丹比郡で用いた鉄は、備中・播磨(西播磨宍粟郡・佐用郡辺り)方面からの移入です。銑鉄ですね。大和鍛冶起源地周辺と同じく、鉄を他所から運んだんです。(丹比郡データについては「中居鋳物史」より)

>この蝮部の「蝮」に金属民の影を読み取ったのは、あかねさんで、あかねさんは金属神の租形は、水神であると考えています。
 有難うございます。ご存知の通り、東播磨最北部の託賀郡は、風土記以前は丹波国、つまり出雲国でしたから、そういう意味でも蝮部に、金属の民・山の民・山守部を見たいのです。ここは加古川源流域のすぐ近くで、銅山地帯ですもん。更にそこに、船材供出・鉱山民としての多族も加わるのでは、と思ってます。託賀(当時は丹波)の大海人は、多だと考えますので。

>水歯別の「水歯」は、水の女神=弥都波能売(みずはのめ)の「弥都波」であり、「水歯部」は、「弥都波能壬生」であり、あかねさんが考える「金属神の祖形は、水神」を裏付けるものになるのではないかと思います。
 又々、有難うです。そう思います。そして私、根拠はあやふやですけど「ハ」は端で、この場合、水に関するものですから、水の流れ出る端、所=山入端=里山(端<ハ>山)、谷口も指すのではないかと思います(端山の奥には深山)。それから、播磨では蝮の事をハメと言いますので、地面の破目、刀の刃目、交合でもあるかなぁ、と想像してます。歯一つって、見事な刃の姿を表すなのかなと。イタドリについては、なにがしさんちで、無謀にもひたすら色々、想像させていただくばかりです。

>『茨田連』(北河内茨田郡<三島や交野郡周辺>と山城の乙訓郡)・『茨田親王』(桓武天皇第5皇子)もあります。
 これは529で書かせてもらった茨田の話です。クロマンタ(黒鉱かな、金と銅が中心?)は鉱山ではないかという吉祥姫さんの説から、マンダ繋がりで思い出したんですが、“茨田も蝮と関る”のではないでしょうか。単なる思いつきで恐縮ですが…。(吉祥姫さん、こちらで書いてごめんなさい。ヒントを有難うございます)
 『茨田(マムダ)連』とは、多朝臣と同祖で、多族は出雲意宇(オウ)郡の名を負う族だから、出雲・土師氏系だと思われる山直と関ってたりするかも。茨田連は、北河内茨田郡(茨田郡は恐らく高槻や茨木の島下・島上郡や山城国乙訓郡も含む)にいた一族ですし、摂津から山越えしたらすぐ、播磨や丹波等に入れますので。茨田連は、天武13年に宿禰の姓を賜り、一部は茨田宿禰とも称しました。
 和名抄では『茨田』を『萬牟多(マムタ)』と読み、「マムタ」は低湿地・荒蕪地の意味だとするそうです。延喜式では「茨田」を「ウハラタ」と読ませ、「ウハラ」は「イバラ」(茨木市のイバラ)の古語だとか。蝮は低湿地や草の茂った地におり、土木・産鉄の多ですし、何か蝮部と関係があるかも。
 茨田連が登場する話としては、仁徳紀に茨田連ころも子が、淀川の茨田堤築堤にあたって危うく人柱になるところを、瓢箪(フクベ)が沈まなかったら逃れたというものがあり、これは茨田連と秦・新羅系渡来人がこの築堤を担当したことを言うらしいです。この話と似たものは書紀の同じ仁徳紀にあり、吉備の中国の分岐点川嶋河に住んでいたミツチの毒気に苦しむ人々を、笠臣の祖の県守がヒサゴ(フクベ)を投入れて沈められなかったらお前を殺すといって、殺して助けたというのがあります。吉備や笠臣といい、大和勢力との境界であった播磨と、茨田の関係も疑いたくなります。
 茨田の名を持つ皇族としては、『茨田親王』(桓武天皇第5皇子、新撰姓氏録を藤原園人らと作成)があり、母は藤原朝臣鷹取の娘「小屎(オグソ)」。鷹取は不比等の孫「魚名」の子で、膳部を置き茨木市の総持寺を創建し、神道・仏教・陰陽道を取り入れた包丁式創始者、吉田神社を祀った藤原山陰(ヤマカゲ)の曾祖父です。膳部にはアヘ、高橋、笠臣?等も絡みます。
 他には、用明天皇と宍粟部間人皇后の第4皇子の『茨田皇子』(厩戸皇子の同母弟、古事記では茨田王)。天平期の不詳の方『茨田女王』があります。
 そして男大迹大王の6番目の妃、関姫は『茨田連小望』の娘か妹であるそうな。オオドノ、息長からも山直へと繋がるのですが、想像に過ぎない事を長々とすみませんでした。(茨田連関連については「北河内古代人物誌」さんHPを参考にさせていただきました)

553 芥田 あかね 2002/09/10 17:34

552の茨田関連で追記します。
 高槻市・茨木市と播磨との関りを示すものは、天照御魂などの他に、高槻市西部を南北に流れて淀川へ注ぐ芥川中流域にいた、「阿久刀(アクト・芥)連」も考えられます。チリ・アクタの芥田ですね。芥川や茨木の安威川上流域には銅山がありました。山岳寺院もございます。
 芥川の名は芥氏に因み、芥氏は天津系とされ、住吉神を祀る「阿久刀神社」(郡がの近くにある、笠森稲荷も対岸にあって近い)を奉じ、祓戸の神・禊の神とされていますが、海人・多の説もあったと思います。この芥川の下流域・淀川近くに、三島鴨神社はありますから。(うろ覚えで書いてますので、神社や族の正式名が間違っていたらお許し下さい)
 播磨にて芥で思い浮ぶものはと言えば、針間鴨山直の本拠地(=山直一族の本拠地)、風土記の賀毛(カモ)郡にある芥田村と、その村にいた河内鋳物師が、姫路市の野里へ移動して、野里鍛冶・鋳物師の代表家「芥田家」(鍛冶)となった、という伝承です。
 尚、藤原秀郷がおこした天明鋳物は、播磨から5人の河内鋳物師を連れてきたことに由来します。この鋳物師たちは後に、播磨へと帰ったそうで、賀毛郡(加西市・加東郡)〜姫路へと移った線も考えられます。
 ご主人、瀬織津姫さんから脱線してごめんなさい。加古川の女神を巡る想像に絡む一つとして、ご勘弁下しゃい…

554 丹生都比売という神V 風琳堂主人 2002/09/12 01:15

 トカゲさん、あかねさん、「忍者ハットリくん」は、あの「にんにん」という呪文で煙に巻くナイーヴな少年忍者のことでしたね。大祓祝詞の呪文は気に入りませんけど、「忍忍」の呪文はワタクシ好きでございまする。 (~m~)!
 丹生都比売という神──遠野にいて書けそうなことを、もう少し──。

■爾保都比売と赤土(「播磨国風土記逸文」…吉野裕訳)
 播磨の国の風土記にいう、──息長帯日女[おきながたらしひめ]命(神功皇后)が新羅の国を征しようと思ってお下りになったとき、もろもろの神たちに祈り給うた。その時、国を固めなされた大神の子爾保都比売[にほつひめ]命が国造の石坂比売[いはさかひめ]命に託[つ]いて教え給うには、「私の祭祀をよくしてくれるならば、私はここに効験あらたかなもの(赤土)を出して、比々良木の八尋桙[やひろぼこ]根附かぬ国、乙女の眉引[まよびき]の国、玉匣[たまくしげ]かがやく国、苫枕[こもまくら]宝ある国、白衾[たくぶすま]新羅の国を丹波[になみ](赤い波)でもって平伏[ことむけ]給うであろう」と。そして赤土を出し賜わった。その土を天の逆桙に塗って、神の舟の前後に立て、また御舟の裳[すそ](外装)と兵士の着衣を染め、また海水を掻き濁して渡りなされた時、底をくぐる魚も、また高く飛ぶ鳥どもも往き来せず、前をさえぎることもなかった。かくして新羅を征し終えて還り上りまして、すなわちその神(爾保都比売)を紀伊の国の管川[つつかわ]の藤代の峰にお鎮め申した。(『釈日本紀』十一)

 赤(朱)=丹[に]が「魔」を祓う呪力をもった色、聖なる色であることがよく伝わってくる話です(この「赤」に聖性をみる思想は、縄文の時代にまで遡るものです)。また、「逸文」が記すように、魔あるいは死魔を遠ざけるとされた「に」(→水銀)は、のちに修験の人間にとっては仙薬(不老長寿の秘薬)ともなり、産金鉱産者(修験者と矛盾しない)にとっては、さらに金精製の絶対媒体としての鉱産物として認識されていきます。
 ところで、播磨国風土記は715年頃の完成とされ、これは、比較的まとまって読めるかたちで残った五つの風土記のなかでは最古のものです(ほかは、718年頃の常陸国風土記、733年の出雲国風土記、同じく733年頃とされる豊後国風土記、肥前国風土記)。
 風土記のなかで、播磨と常陸が特別に意味があるとすれば、それは、古事記(712年)と日本書紀(720年)の間につくられていることでしょう。両風土記は、古事記の影響下にあるとはいえ、日本書紀に影響を与えている可能性があります。
 風土記逸文を額面どおりに「逸文」としますと、この爾保都比売の性格および紀伊=紀の国への鎮座伝承を伝える「播磨国風土記逸文」は、最古のニホツヒメ(→丹生都比売)の記載となります。しかし、播磨国風土記のあとに完成する日本書紀には、「爾保都比売」の名が登場することはありませんでした。
 出雲国風土記の作成には、山陰道節度使・多治比真人が、常陸・豊後・播磨には藤原宇合が関わっていた可能性が高いですが、播磨国風土記の監修・作者は不明とされます。しかし、あかねさん指摘の「山直」が関わっていた可能性があることは、同風土記の各「里」の書き出しが、たとえば、賀古郡鴨波[あはは]の里は「土は中の中である」というように、まるで地質・土質調査の報告書のような始まりを徹底していることからもうなずけます。
 播磨国の「土」が風土記によってこのように詳細に報告されていることは、逆にいえば、朝廷側がそれだけ同国の「土」を重視していた表れとみることができます。こういった、朝廷重視の対象となっていた「土」=「に」の国=播磨国における、まさに土神・埴神=「赤土神」とみてよい爾保都比売なのですが、書紀はこの女神をなぜか完全に無視しています。
 播磨国風土記の、奔放ともいえる、あるいは未推敲ともいえる、神々の婚姻やら土地譲りの話は、ほかの風土記にはみられない大きな特徴です。そこに「逸文」とはいえ爾保都比売の名が残っていたというのは、ある意味「奇跡」に近いことだったのかもしれません。
 播磨国風土記が影響を受けているとすれば古事記のみと考えますと、引用の「逸文」にもそれはいえるものです。つまり、このことは「神功皇后」の新羅征討潭を下敷きにしていることに端的に表れていますが、しかし、古事記は、「逸文」における「赤土(を塗った天の逆桙)」の記載をしていません。少し長い引用となりますが、該当の古事記の箇所を読んでみます。

■古事記には記されない爾保都比売
「西の方に国有り。金銀[くがねしろがね]を本[はじめ]と為[し]て、目の炎輝[かがや]く種種[くさぐさ]の珍しき宝、多[さわ]に其の国(新羅)に在り。吾今其の国を帰[よ]せ賜はむ」とのりたまひき。爾に天皇(仲哀)答へて白したまひしく、「高き地[ところ]に登りて西の方を見れば、国土[くに]は見えず。唯大海のみ有り」とのりたまひて、詐[いつはり]を為す神と謂ひて、御琴を押し退けて控[ひ]きたまはず、黙[もだ]して坐しき。爾に其の神、大[いた]く忿[いか]りて詔りたまひしく、「凡そ茲[こ]の天の下は、汝[いまし]の知らすべき国に非ず。汝は一道[ひとみち]に向ひたまへ」とのりたまひき。是に建内宿禰大臣白しけらく、「恐[かしこ]し、我が天皇[すめらみこと]、猶[なほ]其の大御琴阿蘇婆勢[あそばせ]」とまをしき。爾に稍[やや]に其の御琴を取り依せて、那麻那摩爾[なまなまに]控[ひ]き坐しき。故、幾久[いくだ]もあらずとて、御琴の音聞えざりき。即ち火を挙げて見れば、既に崩[かむあが]りたまひぬ。〔中略…仲哀の死に付随する「大祓」の描写が入る〕亦建内宿禰沙庭[さにわ]に居て、神の命[みこと]を請ひき。是に教へ覚したまふ状[さま]、具[つぶ]さに先の日の如くにして、「凡そ此の国は、汝命の御腹に坐す御子(のちの応神)の知らさむ国なり」とさとしたまひき。爾に建内宿禰、「恐[かしこ]し、我が大神、其の神(神功皇后)の腹に坐す御子は、何[いづ]れの御子ぞや」と白せば、「男子[をのこ]ぞ」と答へて詔りたまひき。爾に具[つぶさ]に請ひけらく、「今如此言[かくこと]教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲[ほ]し」とこへば、即ち答へて詔りたまひしく、「是[こ]は天照大神の御心ぞ。亦底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ(此の時に其の三柱の大神の御名は顕れき…割注)。今、寔[まこと]に其の国を求めむと思ほさば、天神地祇[あまつかみくにつかみ]、亦山神及[また]河海の諸[もろもろ]の神に、悉に幣帛[みてぐら]を奉り、我が霊魂[みたま]を船の上に坐[ま]せて、真木の灰を瓢[ひさご]に納[い]れ、亦箸[はし]及[また]比羅伝[ひらで]を多[さわ]に作りて、皆皆大海に散らし浮かべて度[わた]りますべし」とのりたまひき。(倉野憲司訳 「 」内の句点は削除した)

 神功による新羅征討が史実かどうかはここでは問いません。
「播磨国風土記逸文」における託宣神=爾保都比売による新羅征討援助の言葉(「私の祭祀をよくしてくれるならば、私はここに効験あらたかなもの(赤土)を出して、比々良木の八尋桙[やひろぼこ]根附かぬ国、乙女の眉引[まよびき]の国、玉匣[たまくしげ]かがやく国、苫枕[こもまくら]宝ある国、白衾[たくぶすま]新羅の国を丹波[になみ](赤い波)でもって平伏[ことむけ]給うであろう」)は、古事記では、「是[こ]は天照大神の御心ぞ。亦底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ」と書かれていることがわかります。また、住吉神(底筒男、中筒男、上筒男)は、天照大神の「我が霊魂[みたま]」ともされていて、天照大神の分神が住吉神であることがここからわかります。
 古事記と「逸文」を対比しますと、「逸文」のほうは、天照大神(の[我が霊魂])をあえて爾保都比売に言いかえていることがわかり、これは特記すべき特徴というべきでしょう。
 同じ神功による新羅征討潭を載せるにあたって、「逸文」が、託宣神を天照大神から爾保都比売に変更して書いていた理由については現在のところ不明です。しかし、古事記とこの「逸文」を重ねて読むことは内容上可能であり、爾保都比売が天照大神と無縁でない神であることだけは、確実に伝わってきます。
 古事記→風土記(逸文)における、この神功皇后への託宣神表示のブレあるいは変更は、では、日本書紀ではどのように表記されることになるのかもみてみます。

■「祟られる神」としての撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(神功)九年春二月、仲哀天皇が筑紫の香椎宮[かしいのみや]で亡くなられた。皇后は天皇が神のお告げに従わないで、早く亡くなられたことを傷んで思われるのに、祟られる神を知って、財宝のある国を求めようとされた。群臣と百寮に命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎宮[いわいのみや]を小山田邑に造らせられた。
 三月一日、皇后は吉日をえらんで斎宮に入り、自ら神主となられた。武内宿禰に命じて琴をひかせ、中臣烏賊津使主[いかつのおみ]をよんで、審神者[さにわ](神託を聞いて意味を解く人)とされた。幣帛を数多く積んで、琴の頭部と尾部におき、請うていわれるのに、「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょう。どうかその御名を知りたいのですが」と申された。
 七日七夜に至って、「伊勢の国の度会の県の、五十鈴の宮においでになる、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」と答えられた。またお尋ねして「この神の他にまだ神がおいでになりますか」といわれると、「形に現れた吾は、尾田の吾田節[あがたふし]の淡郡[あわのこおり]にいる神である」と。「まだおられますか」というと「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神[あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ]がある」と。「まだありますか」というと、「有るか無いか分らない」と。審神者のいうには、「今答えられないで、また後にいわれることがありますか」と。答えて「日向国[ひむかのくに]の橘[たちばな]の水底にいて、海藻のように若々しく生命に満ちている神──名は表筒男・中筒男・底筒男(住吉三神)の神がいる」と。「まだありますか」と。「あるかないか分らない」と。ついにまだ神があるとはいわれなかった。神の言葉を聞いて教えのままに祀った。その後吉備臣の祖、鴨別[かものわけ]を遣わして熊襲の国を討たされた。いくらも経たぬのに自然と従った。(宇治谷孟訳)

 書紀は、中臣烏賊津使主を「審神者」としていて、中臣氏を半ば意図的に登場させることをしています。彼は、神の言葉の解読を仮装して、託宣神というよりも祟り神の名を執拗に聞きだしていきます。最初の「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」一神では足りずに、ほかにまだ祟り神はいるだろうといわんばかりに、「淡郡にいる神」や「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」や住吉神(表筒男・中筒男・底筒男)の名を明かしていきます。しかし、わたしたちの関心からいえば、ここでは、託宣神の筆頭神として、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が明記されていることでじゅうぶんかとおもいます。
 仲哀─神功記に登場してくる、託宣神あるいは「祟られる神」を整理しておきますと、

天照大神(古事記)→爾保都比売命(「逸文」)→撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(日本書紀)

となります。
 書紀・神功皇后条は、新羅征討後、神功の船をぶじに帰還させない神、つまり「祟られる神」を再登場させています。ここにはどういった神が記載されていたかもみておきます。

■天照大神「荒魂」の登場
 皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞いて、武内宿禰に命ぜられ、皇子を抱いて迂回して南海から出て、紀伊水門[みなと]に泊らせられた。皇后の船は真直に難波に向った。ところが船は海中でぐるぐる回って進まなかった。それで武庫の港に還って占われた。天照大神が教えていわれるのに、「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国(摂津国広田神社の地)に置くのがよい」と。山背根子[やましろのねこ]の女[むすめ]、葉山媛に祭らせた。また稚日女尊[わかひるめのみこと]が教えていわれるのに、「自分は活田長峡国[いくたのながおのくに](摂津国生田神社)に居りたい」と。それで海上五十狭茅[うなかみのいさち]に祭らせた。また事代主命が教えていわれるのに、「自分を長田国[ながたのくに](摂津国長田神社の地)に祀るように」と。葉山媛の妹の長媛に祭らせた。表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えていわれるのに、「わが和魂を大津の淳名倉[ぬなくら]の長峡[ながお]に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる」と。そこで神の教えのままに鎮座し頂いた。それで平穏に海をわたることができるようになった。

 ここでわたしたちは不思議な記述を目にしているといわざるをえません。「荒魂」「和魂」の登場です。書紀は、祟り神を明かそうとした追及で記していた神の名と、この二度目の祟り神の登場のさせかた(その神名表記)で、微妙な変質化をしています。天照大神の「荒魂」、住吉神の「和魂」という分化の意図はなんなのかという問いも浮かんできますが、これは、古事記、風土記よりも、書紀が、神々の曖昧化を強く意図する編集・創作方針によってつくられたからだと考えるしかありません。
 風土記から書紀へ──。ここで、書紀の編纂者たちは、播磨国風土記の記述を当然眼にしていたことが考えられます。古事記の天照大神を風土記が爾保都比売という神に変更した経緯を再現することは困難ですが、「逸文」を含む播磨国風土記が記していた、「ある神」が、古事記の記載とはまったく別の神名であったことは、書紀編纂者にとっては、その整合性を図る必要が生じたこととおもいます。それが、書紀に、「淡郡にいる神」=「稚日女尊」や「事代主命」を追加登場させた理由だとみることができます。
 書紀は、仲哀を死に追いやった祟り神の筆頭神として「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」を登場させていましたが、この神の異名が天照大神荒魂であることを明記した箇所がここ、つまり第二次祟り神登場の場面でもありました。
 古事記→播磨国風土記逸文→日本書紀という流れで、そのいずれにも瀬織津姫の名は出てきませんけど、この瀬織津姫の登場の無さと、丹生都比売の登場の無さとは質が決定的に異なります。なぜなら、爾保都比売=丹生都比売という同神の可能性を播磨国風土記(逸文)は語っていたわけですから。
 書紀における、この稚日女尊の登場は、その後、天照大神(荒魂)=爾保都比売という等式はオソレオオイということなのでしょう、爾保都比売=丹生都比売=稚日女尊という危うい同神説、あるいは混乱した同神説を生みだす根拠ともなります。
 仲哀─神功に関する新羅征討潭の記述を上記の三書がともに記しているとき、その託宣神あるいは祟り神として登場してくる神の名としても、瀬織津姫の名は変えられ伏せられています。しかし、伊勢の荒祭宮が、書紀記すところの「伊勢の国の度会の県の、五十鈴の宮」に該当しますし、なによりも、荒祭宮が「天照大神荒魂」を、つまり瀬織津姫をまつることを考えますと、「逸文」の爾保都比売も、瀬織津姫の変名化された異名である可能性はすこぶる高いといわざるをえません。
 神功による新羅征討潭を最初に記載したのは古事記でしたが、すでにこの書から瀬織津姫の名は削除→変名化されていたわけです。古事記の不備を補足し、きたる「正史」のための補助資料収集(の名を借りた各地の神まつりの洗い出し)の意図を隠しもつ官選の風土記において、瀬織津姫の名が無事に残ることは、やはりありえませんでした。ただし、一件の例外はありましたが(近江国風土記逸文)、それも、瀬織津姫が大祓いの神としてという条件下で、つまり伊勢神宮の祭祀と抵触しないということで、神名消去の淘汰から逃れることができたにすぎませんでした(しかし、だからといって、近江国風土記逸文の資料的価値が下がるものではありません。逆です)。
 逸文の爾保都比売記載もまた、資料的価値は一級とみることができます。瀬織津姫の異名として、爾保都比売の名が記載されていたとしますと、このことは、播磨国風土記全編についても、同質の変名化の可能性を考えることを要求・示唆していることになります。同風土記には、たとえば、出雲御蔭大神、太水神とされる玉津日女=賛用都比売、道主日女=玉依比売、近江(琵琶湖)の神など、瀬織津姫と置き換えてもまったく不自然でない女神たちが多く登場していますが、これはまた別の機会にふれるべきものでしょう。
 丹生都比売=爾保都比売として、その背後の神に、瀬織津姫の存在が色濃く投影されていること、あるいは同神の可能性(の高さ)についての補足話です。

556 ハハカの概略 あかね 2002/09/13 02:45

風琳堂ご主人
 あはは、そうですね、忍忍。私も好きです)^o^(ぷっッ
 ちゃんと軌道修正して、瀬織津姫さんと絡めて整理していただきまして、ありがとうございます。とても分り易いです!私はついつい、播磨や摂津・吉備から見ちゃいます。それにしても、瀬織津姫さんは、本当はどんなお名前の神様だったのか、知りたいなぁと思っております。
 あ、都万の話ですが、東播磨託賀郡の都万はアマツマラ縁の地なんですが、そこには、兵主神社もあります。このお社には、かんなび山はありませんから、加古川交通の要衛の地だったということに加え、兵主以前から川の水神が祀られていたのではないかと思っています。神奈備さんも、それ以前からの、何かの信仰の地ではなかったかとおっしゃっていました。同感です。この都万(津万)には、「水美味し」の意もあるようですし。
 尚、東播磨の都万にある神社としては、兵主の他に、以前に述べました「式内大津乃命神社」(渡しの神)、「竹内大祓神社」(お社名、又失念したので間違ってるかも。以前書いたものが正解です)があります。面白いですね。

 またハハカについて遅くなってましてm(__)m。簡単にいいますと、ハハカは丹波と関り深く、多紀郡日置の『波波伯部』(ほうかべ)というのが、それを扱う民・献上するなのでありました。
●「播磨屋」さんHPの波波伯部氏↓
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/houkabe.html
●「古樹紀之房間」さんHP、波比伎神の実体↓
http://users.hoops.ne.jp/shushen/keijiban/hahiki.htm

 尚、ハハカというのは、生物学の世界では上溝桜だとされますが、本草学などでは樺桜だといわれます。樺桜は種としては不明の桜で混合種だとされますので、上溝桜のほうがハハカであるとした方が正しいのかもしれません。樺桜には大山桜系だという説もあって、その説から云えば、東日本系の桜となります(種としての山桜は西日本に主に自生)。丹波の波波伯部としては、摂津や丹波・播磨などに自生する上溝桜のほうが入手しやすいとも言えるのかもしれません。いずれにせよ、樺桜の語源は、万葉集の「山部赤人」の長歌で、山桜を「かには(迦仁波)」と表現しているところに遡りますので、上溝桜にせよ、樺桜にせよ、山部もサクラに絡んでいると云える気がします。あ、アイヌ語からきている説もあります。
 個人的にはやはり、サクラのほの白い花は、ほの明るい、火を囲んで頬がほんのり照らされること、夜明けの『日(太陽)』『火』も指してる気もしますが、よく分らないところです。今、うろ覚えで書いておりますので、間違ってたらm(__)m。まとめますね。

557 ハハカの概略 あかね 2002/09/13 02:54

●「播磨屋」さんの波波伯部神社を書いてませんでした。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/view/hokabe.html

558 どうもありがとうございました。 さかな 2002/09/13 07:49

風琳堂主人さん
 いつも詳しく解説していただきまして、ありがとうございます。
 宇佐と気比は同神と風土記にはありますよね。気比とは、吉備の別表記でもありますので、吉備津神社の祭神も同じということでしょうか?
 また、高良大社の玉垂神は、明星天子の子の月天子という伝承があり、武内宿祢という説がありますが、安曇磯良は武内宿祢なんでしょうか? 武内宿祢と名前を換えたということになるのかな、と悶々と考えています。

ピンクのトカゲさん
 またまた詳しく説明いただきまして、ありがとうございました。
 韓国語のサクラは日本の言葉が残ったもののようです。(最近のものでした)

>コノハナサクヤ姫との関係でサクラを考える必要がある
>のではと思います。
 牽牛星の古名は「犬飼星」だし、「犬人」「狗人」は犬の遠吠えをして宮門を守った隼人の別称だそうなので(広辞苑)、犬や狼にはなんかあると思ってしまいます。

>ハハカ=鹿の角の刀は、何かの本で書いてあったのでしょ
>うか。
 「ケルヌンノス」からの閃きなのですが、何かの本に書いてあるのかはわかりません。すみません。
 また、再構築していただきまして、ありがとうございました。参考になります。
 七支刀は下向きにすると雷の形になるので、タケミカズチの性質に(雷神)となるのかな、と。これが「厳矛」なのでしょうか? 「稜威雄走」というのは、雷光がかけぬける瞬間をとらえたような表現みたいな感じです。

あかねさん
 ハハカの記事、ありがとうございました! 個人的にいろいろつながりそうなので、すごくうれしいです。

>青摺衣や丹土の汁
 青丹よしですね! 平安時代の狩衣は狩襖(かりあお)といって、「襖(おう)」が「あお」になまったそうですすが、狩衣が「香に羅の青き襲ねたる――」とあるように、「狩の衣」が「青」と表現されているのが、なにやら臭いと思うのです。
 「赤土」と「青土」、「赤金」と「青金」というのがありますが、これにもなにか関連があるのでしょうか?

560 (^_^)v あかね 2002/09/13 09:08

さかなさん
 私、さかなさんと何やら志向が似てる気がします。あはは、失礼だったらごめんなさい。無論、主な興味の対象は異なってますが、何と言うか、歴史の楽しみ方の部分で似てるかもかも。いろいろ考えて、連想がぐるぐる繋がって、答えが導き出せたりしていくのは、とても楽しいですよね(^_^)v。

 そうざんす。青丹よしです。さすが、するどいです!書いてなくても分って下さって嬉しいです。奈良の青土というのも面白いもんですねー。
 なるほど、平安をおっしゃってるのですね。それなら、納得で、同感です。で、赤土(陽・男性・男神・火・日・血)、青土(陰・女性・女神・夜・闇・月・暗)は、赤青で陰陽・交合ですじゃ〜〜。今、仕事中なので、詳しく書けないけど、また色のことなど、是非、お話しあいたいですね(^.^)。

561 青と赤の話 風琳堂主人 2002/09/13 15:59

 さかなさん
「気比の神宮は宇佐八幡と同体である。八幡は応神天皇の垂迹で、気比の明神は仲哀天皇の鎮座である」(越前国風土記逸文…「神名帳頭註」収録)──。一般に八幡神とされる応神天皇ですが、宇佐の大元神は比売神=女神で、そこへあとから応神と神功がかぶって、八幡三神となります。気比の男神は海神=海洋農耕神でしたが、もし逸文がいうように、気比神=宇佐八幡神としますと、気比には、大元神=比売神が伏せられている、隠されていることになりますし、宇佐八幡の応神も海神にかぶった祭神である可能性をみたほうがよいかとなります。
 吉備神に海神(磯良神)を探るなら、やはり鬼神=温羅[うら]を考えてみる必要がありそうです(囲炉裏夜話454「広瀬大忌神と瀧祭神」を参照してください)。吉備津神社には瀬織津姫が社域最奥部にまつられていて、温羅との習合がみられます(祟り神の共通性ということでしょう)。
 磯良神は、対馬にみられるように、海洋農耕神かつ日神ですから、武内宿禰と置き換えることは不可能とおもいます。ただし、神功皇后が、中国の歴史書に記されていた卑弥呼の存在と整合させるための記紀のフィクションとしますと、武内宿禰もフィクションとなります。つまり、ここでいうフィクションは「暗喩」の上の虚構という意味ですが、なにものかの比喩的存在をベースに創作加工したものとしますと、神功は水神を、武内宿禰は日神を大元にもっているか、あるいは、その後継態である地方豪族内部のトップ関係を元に創作されているとはいえるかもしれません。いずれにしても、神功皇后は、記紀編纂・創作者にとって、中国=唐を強く意識した歴史創作の産物であることだけはいえるものとおもっています。瀬織津姫隠しに神功皇后が祭神とされることや、日前大神(=瀬織津姫)を氏神としていた紀氏の祖が武内宿禰とされますから、わたしもどこか「悶々」です。
 七支刀=雷光説はいいですね。鹿島神は、大氏・物部氏の祭祀対象神でもありました。建御雷之男神(古事記)と消えた「建御雷之女神」──あわせて雷神です。鹿島の武甕槌神は、稲荷神や大国主神同様、これも対神(水神と日神)の総称神かと、最近考えるようになってきました。

 あかねさんとさかなさんの「青丹」の話──。
「八坂丹は玉の名である。玉の色の青いのをいう。それ故に青八坂丹の玉という(越後国風土記…「釈日本紀」収録)──「丹」が赤ばかりでなく「青」も表すということですね。
 小野老朝臣の歌「青丹よし奈良の都は咲く花の薫[にお]うがごとくいま盛りなり」──この有名な歌は、小野老が大宰府の地で平城京をおもってうたった歌とされます。
 ここに出てくる「花」は桜ですが、問題は「青丹」です。青丹は青土のことですが、ここでいう「青丹」の「青」は、色の青というよりも、朱雀門に象徴されますように、誕生(塗って)間もない朱色の鮮やかさを表しているという説があります(HP「からしら萬朝報」)。
 三種の神器の一つともされるヤサカニの勾玉です。
 宝玉としての玉については、筑前国風土記逸文に興味深い記述があります。

■宗像神の神体
 西海道の風土記にいう、──宗像の大神が天から降って埼戸[さきと]山に居られた時に、青?[あおに]の玉をもって、((一本には八尺絮?玉とある))奥津宮[おきつみや]の表象とし、八尺瓊の紫の玉をもって中津宮[なかつみや]の表象とし、八咫[やた]の鏡をもって辺津宮[へつみや]の表象とし、この三つの表象をもって神体の形として三つの宮に納め、そして神隠[かく]れ給うた。それで身形[みのかた]の郡という。後の人は改めて宗像といった。その大海[おおあま]命の子孫は、今の宗像朝臣らがこれである。云々。(『防人日記』下)

 ここに出てくる二つの玉──「青?[あおに]の玉」と「紫の玉」ですが、前者は、越後国の「青八坂丹の玉」と同系種かとみられます。しかし、「紫」と「青」の関係は、現在の色彩感覚でいえばですが、同系色となります。宝玉の対極性、つまり、潮満玉(珠)、潮干玉(珠)といった対極・対比性を重視しますと、宗像の「青」と「紫」(碧)という色彩対比は不自然な印象を受けます。逸文に出てくる「青?」は、これも「青丹よし」同様、「に」つまり朱の鮮やかな色(若々しい色)とみたほうが、対比性が強調されるような印象をもちます(珠玉=朱玉は、謎の「朱の勾玉」ということになるのかどうか──。わたしなど、おもいうかぶのは赤玉ポートワインくらいですけど)。
 赤─青のあかねさんの陰陽・交合説からいえば、青は幽界の水の色をおもわせますし、そこに日・火の神が赤の棹差すイメージが浮かんできます。赤と青が融合し、赤をも含む青を「藍」といい、それが「愛」だというのは、わたしの説ではありません(「藍は青より出でて青よりも蒼し」)。
 あと、色の対比でいえば、白と黒(玄)もあり、これらは中国の四色に対応しています(「中国では四季を色に分けるが青は春の若々しさ」「夏は燃える朱」「秋は静謐の白」「冬は幽玄の玄[くろ]」…前述HP)。
 中国の四色にて宗像の二つの玉の色を語ることはできませんけど、播磨および伊豆の青玉神社の「青玉」が、文字通りの「青」色の玉だったのかどうかという話です。播磨の青玉神社の神は、加古川支流・杉原川の「川上神」とみることもできそうですし、下流の荒田神社の神は道主日女(風土記)、つまり、宗像神でもある(あった)というのも、大いに関係ありそうです(ちなみに、紀ノ川の荒田神社の神は「向津姫命」でした〔向津姫=瀬織津姫=八幡比売神=宗像女神〕)。
 古事記の注は桜の古名とされる「波々迦」を「朱桜[かにわさくら]」のことととしていて、あえて「朱」の字をあてています。樺桜もたぶんそうだとおもいますけど、桜の原種木とされる上溝桜は、花色はこれも朱色ではないようです。「かにわ」の音にこだわれば、「樺」=樹皮に「朱」をみていたのかもしれません。太占=鹿占で、桜(の樹皮)が燃え上がるとき、どんな色を発するのかなどと想像をめぐらしたりしています。あかねさんの色彩考、ハハカ考、楽しみにしています。

562 琵琶湖と禊 kokoro 2002/09/13 22:01

515> 湯次[ゆすき]が「湧き水に富む村」という意味だと主張されていることも捨てがたいです。

 湯次のある浅井町中部の平野部は、虎御前山とか小谷山といった山塊によって、東西北の三方が塞がれています。この平野の中を、田川という河川が貫流しているのですが、これらの山塊に阻まれて逃げ場を失った田川の伏流水が、平野の中央部で湧出しているのが見かけられます。国土地理院の地形図で「湯次」は、「ゆすぎ」とふりがながしてありますが、浅井町湯次に鎮座する湯次神社は「ゆすき」神社と訓むようです。したがって、「ゆすき」が「湧き水に富む村」の意であるとすれば、地誌的に頷けるものがあります。また、浅井という地名もこうしたことと関係がありそうです。
 ただし、そうとすれば上記の湯次神社周辺に、湧水がみられてもよさそうですが、私の見た範囲では気づきませんでした。これに対し近くにある下記の神社に、そうした湧水の顕著なものが見られます。

 ・平野神社【主祭神:素戔嗚尊】東浅井郡浅井町尊勝寺668

当社には、社殿の手前に小さな小屋があり、中に泉があって、今でも湧き出した水がその下からたくさん流れ出ています。境内は林に囲まれていますが、この林になった部分は土地が低くなっており、疎らな杉の中に湿地でよく見かける種類の草が生い茂っています。これは迎越来の池≠ニいう神池の跡で、当社はこの池の跡が、本殿や拝殿のある陸のような部分を取り囲んでいるのです。周囲が田圃になる以前の迎越来の池は、今より広かったと思われ、かってのこの神社は、池中の人工の島に鎮座していたように思われます。
 犬上郡豊郷町安食西663に鎮座している阿自岐神社は、多島式の庭園に中に鎮座し、現在は地形が変わっているものの、かっては社殿も池の中の島に鎮座していたと言われます。この庭園は上代に築造されたらしいですが、あるいは平野神社の迎越来の池も、こうした古代庭園の遺跡かも知れません。なお、阿自岐神社の庭園にはシュウズという清泉があり、往古、祭神が禊ぎをしたと伝わっています。
 平野神社の祭神は瀬織津姫神ではなく、素戔嗚尊ですが、禊ぎに関わる近江の神社には、素戔嗚尊が祀られているケースが見かけられます。

 ・瀧之宮神社【主祭神:須佐之男命】蒲生郡日野町村井1420
「創祀年代不詳。馬見岡綿向神社の境外末社であり、夏越祓の地であった。当初は河原に在りて河原宮と称した。寛文四年現在地に遷座された。境内に雌雄の滝があり故に滝之宮という。(『志賀県神社誌』P324)」

後述する櫻椅神社の場合も含め、近江で祭祀されていた古い禊ぎの神には、素戔嗚尊が習合されるケースがあったようであり、平野神社の素戔嗚尊も、こうした文脈から眺めるべきかもしれません。当社には、「みたらし会」という付属の敬神団体があり、名前が禊ぎのことを連想させることも言い添えておきます。

トカゲさん> 瀬織津姫とサクラが関係するであろうことに気がついたのは、昨年の秋です。

 瀬織津姫神と桜樹に関係があるというのは、慧眼だったですね。近江にはサクラの名が付いた下記の神社が鎮座しています。

 ・櫻椅神社【主祭神:須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命】伊香郡高月町東高田3631

この神社は、伊香郡の式内小社で、「櫻椅」は現在、「さくらはし」と訓まれていますが、単に「さくら」だったとする考証も多いです。『式内社調査報告』には、この神社について「伴信友は、『神名帳考証』で栗太郡佐久奈度神社との関係を考えている(P445)」とあり、その内容までは紹介してないため、詳しいことは不明ですが、江戸末期の大国学者も同じ意見だったようです。当社の昭和27年の神社明細帳によると由緒は以下の通りです。

「当神社は第五十一代平城天皇が御宇伝教大師の勧請に係り祭神須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命を奉斎す。太古此の所は湖にして郡国とも無かりし時須佐之男命肥の川上なる八俣遠呂知を退治し給ひて此の所の東の側なる阿介多と称する小高き所に来臨ありて御剣につける血を洗ひ給ひし御霊跡なりと伝ふ、延喜式内社にして佐久良波志とも称し土人桜の宮とも称したり。(『式内社調査報告』より孫引きP445)」

近江は龍蛇伝説の宝庫で、人を苦しめる悪蛇が退治された、というような伝承はいたる所に残っています。そういった中でこの由緒は、大蛇退治自体ではなく、須佐之男命が剣に付いた大蛇の血を洗った、という事跡にポイントがあって異色です。あるいはこれも、当社の祭祀が禊ぎと関連していたことを示唆していなかったでしょうか。

515> それと「荒神」という社名です。「荒ぶる神」としての地主神の女神のイメージでしょうか。

 この神社は、竈の神を祀った神社なのです。荒神山神社の社名も、三宝荒神から来ています。その事情は、前回のカキコで引用した『志賀県神社誌』にある由緒の<後略>の部分に明らかなので、そこも引用します。

「また同書(※『近江與地志略』)に「平流山奥山寺、荒神山にあり、寺記に曰く行基菩薩御老年に至り犬上郡四十九院の宿より始めて此処まで四十九の伽藍を建立し、奥山寺を奥の院とす。故に奥山寺の名あり。」また「『三国伝記』にも此事あり。本尊大日如来、左右に文殊、不動を安置す。奥山寺とも仮殿寺ともいう。寺院四坊あり。千手寺、念仏寺、勝正寺満蔵院是也。」と記している。これらの寺院が建立されたとき、三宝荒神を勧請し、竈の神が奉斎されたことが、当社の始まりとされている。<後略>(P74〜75)」

したがって、荒神山神社に配祠されている瀬織津姫神等は地主神であり、現在、祀られている竈の神と直接の関係はないことになります。ただ、竈の神はことのほか清浄の地を好むとされるので、三宝荒神を勧請するのには、禊の神である瀬織津姫神の聖地がふさわしいとされたのかもしれません。ふと気が付いたのですが、竈の神を祀る神社には、湧水が見られるケースが多い感じがします。
 荒神山神社は荒神山の山頂にあり、まことに清浄の地です。琵琶湖の眺望もすばらしく、対岸の比良山系や、湖北の竹生島も見渡せます。午後になって、湖のさざ波に太陽光線が反射している様子はたいへん印象的です。頂上までは車道がついているので、おススメです。

515> 光仁時代、右大臣の中臣清麿によって、この「三社」がなぜまとめて勧請されたのか──。

 由緒によれば、大屋神社、長寸神社、賀川神社の佐久良庄三社は、光仁天皇の天応元年、勅命により右大臣の中臣清麿によって勧請されました。

 @賀川神社【主祭神:瀬織津姫命】蒲生郡日野町安部居1
 A長寸神社【主祭神:事代主命、天照荒魂神】蒲生郡日野町中之郷1565
 B大屋神社【主祭神:五十猛命】蒲生郡日野町杉228

こうした神社の由緒というのは、後世に創作された場合があるため、無条件に信用するのは危険です。しかしながら、光仁天皇の天応元年勧請≠ヘ、享徳3年(1454年)の奥書を持つ長寸神社『社記』にも記載があり、かなり古い由緒のようです。そこで、この社伝をそのまま真に受けることにし、天応元年という年を考察してみます。
 天応元年4月3日、光仁天皇は山部親王(桓武天皇)に譲位し、同年12月23日に崩御します。したがい、この三社が勧請された時期は、彼の最晩年だったと言えるでしょう。『続日本紀』からは、この年の初めから病と不眠症に苦しんでいた天皇の様子がうかがえます。右大臣の中臣清麿(=大中臣朝臣清麻呂)は、歴史の上では影の薄い存在ですが、天皇からの信望が厚く、敬神家だったようです。したがって天応元年に、勅命を奉じて彼が行う祭祀の課題とは、天皇の病気平癒ではなかったでしょうか。
 今、『続日本紀』で、即位から譲位までの、光仁天皇の治世を通読すると、後半になって大祓いを多く行ったことが出てきます(宝亀6年8月、同6年10月、同7年5月、同8年3月、同9年3月)。特に宝亀9年3月の大祓いは、皇太子だった山部親王の病気平癒のために行われたもので、皇族が病になったときに、大祓を行う場合のあったことが伺えます。
 佐久良庄三社の祭神を見ると、@の瀬織津姫神はむろんのこと、Aの天照荒魂神も瀬織津姫神のことであると思われます。Aの祭神は、現在、事代主命と天照荒魂神ですが、『興福寺官務牒疏』には2神の他に素戔嗚尊が載っており、後世、脱落したもようです。また、Bと後で紹介するCの祭神は、素戔嗚尊の御子神なので、これらの神社は素戔嗚尊の祭祀と関わりがあったように思われます。上の方で書きましたが、近江で素戔嗚尊を祀っている神社には、禊ぎとの関連を感じさせることがあります。こうしてみると、天応元年における佐久良庄三社の創祀には、光仁天皇の病気平癒を祈願した大祓、との目的がなかったでしょうか。これらの神社はいずれも佐久良川に近い場所に鎮座し、水辺との親密さが認められるのも示唆的です。
 しかしながら、天応元年というのは光仁天皇の病が重くなった年であると共に、朝廷と東国の関係が最も緊迫していた時期でもあります。この線からのアプローチも、検討してみるべきでしょう。
 佐久良庄三社は春日大社と関係があったように思われます。

「共にその勧請が同じとして、古くより祭礼日を同日にして神輿途御を行っている。又、中臣清麿即ち藤原氏崇敬の春日社の別宮として摂社を祀るのも同じである。この事は、三社が古くから何らかのつながりを持ち、中央との結びつきを意味するのではなかろうか。(『式内社調査報告』長寸神社の項 P166〜167)」

ここで、「春日社の別宮として摂社を祀るのも同じである」とあるのは、上述した享徳3年の長寸神社『社記』に、奈良の春日大社の別宮として摂社を祀る、とあることを指したものです。これはたいへん興味深い記事であると思います。
 『続日本紀』によると、天応元年4月1日に光仁天皇の病状が悪化して危篤に陥ったとき、

「散位・従五位下の多治比真人三上を伊勢に、伯耆守・従五位下の大伴宿弥継人を美濃に、兵部少輔・従五位下の藤原朝臣菅継を越前にそれぞれ遣わして、関所(鈴鹿関、不破関、愛発関)を固めさした。(宇治谷孟氏訳『続日本紀』(下)P258)」

とあります。当時は奥州におけるエミシの反乱が激しかったので(前年に、在地の長官の反乱で多賀城が略奪・炎上)、天皇が危篤になると同時に、東への関門であるこれらの関を固め、警戒したのでしょう。
 さて、春日神はもともと、鹿島の武甕鎚命と香取の経津主命を勧請したものです。これらの祭神は本来、大和朝廷の東国経営と深い関わりがあり、畿内的な権益を擁護する東国の塞の神でした。近江は東山道の起点であり、その終点には陸奥や出羽と言ったエミシの国々が控えています。また、大化の改新の詔では、「北は近江の狭狭山の合坂山より以来を、畿内」とありますから、逆に言うと、近江は畿内の終わりなのです。さらにまた、鈴鹿・不破・愛発の三関はそれぞれ、近江と伊勢、近江と美濃、近江と越前の関門であり、すべて近江との境界に設けられています。とすれば、エミシによる反乱が激化する中で天皇が危篤という危機的な状況下、近江に塞の神としての春日神を祀ることは、朝廷にとって意義深かったと思われます。恐らく、天応元年4月1日に鈴鹿・不破・愛発の三関を軍事的に固めたことに対し、神祇の側で対応するものと言えなかったでしょうか。その場合、遠野地方の瀬織津姫神が、坂上田村麻呂の伝承と関わりがあることにも関連するかも知れません。

 1つ補足します。近江で、天応元年に中臣清麿によって勧請された神社がもう一社あるのです。

 C藤切神社【主祭神:田心姫命、市寸嶋比賣命、奥津比賣命】蒲生郡永源寺町甲津畑214
「四十九代光仁天皇元年、右大臣中臣清麿が勧請した、大同三年殿宇創立、鳥羽帝の天永三年舎人物部友主が社殿を再建、小松院慶永元年再築の事が棟札に記されている。
 此地は伊勢越え千種峠の要津にて古は交通頻繁の要衝であった。当社は其の麓に鎮座し境内広闊の山社である。延喜式近江の調に黒藤三十斤あり、其の藤は此の山より貢進された。藤切谷は其処なりと伝え藤切の社名これより来る。<後略>(『志賀県神社誌』P357)」

 この神社は佐久良庄の隣谷に鎮座しています。天応元年に勧請された神社群で、なぜこの1社だけが別の場所なのか、伊勢との関連、祭神の宗像三神 ── 実に興味深いです。

515> 七瀬の祓いは平安時代からのことですが、その祓いの思想のはじまりも琵琶湖です。

 最近のカキコで私は、近江ローカルの、しかもあまり知られていない神社にかなりこだわっています。記紀には登場しないものの、禊ぎの神としての瀬織津姫神は一般的な存在ですから、こうした態度は悪しき偏重に思われるかもしれません。しかしながら、瀬織津姫神のことを度外視して、単に禊ぎについて考える場合でも、その歴史において琵琶湖の存在は抜きにできないと思われます。アオコが発生するようになる以前の琵琶湖には、「三尺下がれば仏の水」という言葉があったそうです。生活排水等を流しても汚染が残らない、この湖の強い自浄力を述べたらしいですが、この言葉の深層には、琵琶湖と禊ぎ・祓いを繋げて考える、かなり古い観念の残滓があったようにも思われます。琵琶湖と禊ぎの関係について、示唆的な一文を見つけたので、ちょっと長いですが引用します(風琳堂主人さんにとっては、言わずもがなの内容でしょうが、前提事項の確認としてご容赦願います)。

「 びわ湖は、畿外から畿内へ侵入するところの疫神を湖を用いて祓いや禊の儀式によって、防ぎ、祓い落とし、流しさるところであった。
 人と同じように、あるいは人について道を歩いて畿内に入ってくる疫神・鬼をくい止める畿内第二次圏こそ近江の湖水であったといえる。
 そして、その最後の地点が大津市北郊の唐崎であり、瀬田川沿いの大津市大石の佐久奈度神社ではなかったかと思われる。
 唐崎での禊は著名であるが、佐久奈度神社もまた、『文徳天皇実録』に仁寿元年(851)『近江国散久難度神』を明神に列すとあり、『三代実録』では貞観元年(859)、近江国佐久奈度神社に従五位下を授くとある。
 『延喜式』では建部大社とならぶ明神大社で、祭神は瀬織津姫命である。この神は瀬田川中流の鹿跳にふさわしい神名であるが、『二所大神宮御鎮座伝記』によると、天照大神荒魂で荒祀神であり、祓戸神というと記されている。畿内に入る最後の地点として大規模に禊のなされた時代のあったことを推定させる。
 さらに、この大石よりやや上流であるが、黒津において「夏祓堂跡」が知られている。『近江與地志略』によると、『夫木集』に永範が「千早振田上河の清き瀬に年千を祈る夏祓して」と歌っており、その頃に夏祓堂は現存していたであろうと推測している。
 また、『集玉集』の滋鎮の歌に「田上や網代は冬の物なれど来て見よ夏の祓處を」とあり、やはりこの地点が祓いを行う所としてかなり著名であったことを思わせる。
 この夏祓いは、名越祓いとて六月晦日に川辺にて行われるものであるが、あるいは、遠く天智天皇の時代に、大津宮の四角四堺に位置していたのではないかとさえ思わしめる。同様なことはそれ以降もいえることであり、祓処として注目してよかろう。
 この禊や祓いを示す遺物として斎串や人形が知られているが、最近の調査では、余呉川の河口部にあたり、塩津湾の入口に相当する尾上(※おのえ)の湖辺で、斎串と人形と櫛がセットで出土している。そこには明瞭な石敷が汀線間近に設けられており、一見祓の祭祀場を連想させるものであった。
 湖西でも高島町鴨において斎串や人形が皿に盛られた柿とともに出土し、木履の出土とあいまって祭場が存在したことを推測させている。この地点は琵琶湖の汀線から離れるものの、旧汀線(内湖にともなうものかもしれないが)に接し、あわせて若狭の小浜から陸路にて近江に至る最初の要衝であった。遺跡は一時期の郡衙として予想されるものであったが、この地点に立ち寄る人々は、旅のつかれを癒すとともに日本海沿岸であるいは峠でまとわりついてきた鬼を祓い、疫神を流し去る挙動に出たにちがいない。
 『日本霊異記』の中巻、「閻羅王の使の鬼、召さるる人の賂を得て免す縁、第二十四」によると、諾楽(奈良)の大安寺の西の里に住む、楢磐嶋なる人物が、越前の都魯鹿(※敦賀)の津に商いに来て帰るとき、忽然に病を得、ひとり帰路につくが、近江の辛崎(※からさき)でかえりみると3人(3人の鬼)が追いかけてくる、そして山代の宇治椅(橋)で追いつかれた、との記載がある。
 この辛崎や宇治橋のほとりこそ、このような疫神・鬼を祓う祭場であったが、追い来る鬼が改めて強く意識される場でもあったにちがいない。
 この辛崎(唐崎)の地である穴太でも、最近の調査では多数の斎串が出土しており、将来、大宮人の船のつながれた辛崎の遺構や祓・禊の祭場が明らかになるだろう。
 この辛崎は、平安時代には七瀬祓の一つにあたり、すでにのべた佐久那谷(佐久奈度神社付近)とともに近江を代表する祓所であった。この七瀬とは、他に摂津国の難波、田簑島、河後、山代国の大島、橘小島が定められ、畿内を疫神から守るものであったことがうかがわれよう。
 以上のように唐崎と佐久那谷(桜谷)を結ぶラインから以西は畿内として意識され、最後の強烈な祓いがなされた祭場であった。しかし、この最後のラインに至るまで、三関をこえた湖辺のいたるところでたえず禊と祓いがくりかえされたにちがいない。(丸山竜平氏『琵琶湖と埋蔵文化財』P3〜6、昭和59年)」 

 こうして、琵琶湖のことが禊・祓いの場として意識されるに伴い、中臣金連たちによって、その祭祀を主催する瀬織津姫神という女神が、作為されたのでしょう。が、その場合、ゼロから創造された訳ではなく、湖国沿岸に地主神として古くから存在した水神や龍蛇神に習合されて作られなかったでしょうか。だとすれば、近江に鎮座するあれらの古社たちを検討すれば、女神の神格の古層に触れられると思うのです。

515> kokoroさん、琵琶湖にまた行かれるとのことで ── 天智・天武・持統の産湯の伝承をもつ三井寺(御井寺・園城寺)の近くにある「日御前神社」(三尾神社境内社)に関する情報がわかればまた教えてください。

 三井寺と「日御前神社」の伝承、何かありそうなのを感じます。ちょっと時間がかかるかもしれないですが調べてみます。

あかねさん> 昨年の春頃でしたか、神奈備さん掲示板にて、多と、兵主配置についてのレスを有難うございました。

 覚えてて下さったのですね。嬉しいです。これからも、よろしくお願いします。(^^)/

☆ 三連休は、またまたまたまた近江に行って来ます。

563 お伺いします Rinaa 2002/09/13 23:09

 はじめまして。神話について興味のある者ですが、こちらのHPで私の住まいから徒歩5分程の神社が記載されていたので、びっくりしました。愛知県岡崎市天白にある天白神社です。図書館にて調べましたら短い文章で紹介がされていました。また、神社の神楽堂には小さな額の中に筆書きで「瀬織津姫の命」とありました。もしそれでよろしければ記事をお送りします。また、岡崎図書館には愛知県下の歴史書があり、文献のみであればいくらか集められると思います。

564 たまには短文 ピンクのトカゲ 2002/09/14 19:30

さかなさん

そうですね。隼人から犬を見直す必要がありますね。
サクヤ姫の逸話では、サクヤ姫はアタツ姫の別名としてかかれていますし、このアタツ媛は、隼人の伝承がモチーフになっていますから
それと、隼人についても火明命を考慮して考えれますね。
それにしても
>「稜威雄走」というのは、雷光がかけぬける瞬間をとらえたような表現みたいな感じです。
とみたのには、脱帽です。伊豆走湯権現の雷電社とも関わってくるでしょうし、風琳堂主人の喜ぶ顔が目に浮かびます。

Kokoroさん
櫻椅神社について伴信友が栗太郡佐久奈度神社との関係に言及しているというのには、驚きとともに「やはり」という気がしました。
というのは、江戸時代の(江戸時代のという限定をとってもいい)国学者の代表とも言える本居宣長は、死ぬ前の一年ほどで二百首もの桜の歌を残していますし、死後自分の墓所に山桜を植えろだの位牌は、桜の木で作れだの細かく指示をしています。
おそらく宣長も桜と鎮魂のメカニズムを知っていたのではないかと思います。
桜と鎮魂というのが日本史上、最大の秘事であったのではないかという気がしています。

565 祟り神と鬼の国 風琳堂主人 2002/09/15 05:23

 Rinaaさん はじめまして。
 岡崎の天白神社の情報をありがとうございました。
 岡崎の図書館には3度ほどうかがって、とても親切にいくつかの資料を出していただきました。たしか、この岡崎市天白町の天白神は、伊勢からやってきたと市史に書かれていたかとおもいます。もし、神社側自前の由緒書があるようでしたら、ぜひお送りいただけるとありがたいです(神社にうかがったときは、神官の常駐のない神社だった記憶があります)。
 岡崎を含む、矢作川沿いには天白神が集中してみられ、その多くが瀬織津姫を天白神の異名で呼んでいるようです。また、この天白神は、東三河(奥三河)の花祭りにも関わり、さらに、東北との関わりでいいますと、オシラサマのかたちでこちらへやってきます(天白神・オシラ神についての詳しい話は『エミシの国の女神』に書かれていますので、よろしかったら、本を岡崎の図書館でご覧になってください)。

 kokoroさん、禊ぎの聖地としての琵琶湖の話をありがとうございました。
 瀬織津姫と素佐之男(素盞鳴)は、祭祀上とても関係深いものがあります。八坂神社然りですが、たとえば、三河最古の天白神社とおもわれるのが、蒲郡市の天白天王社ですが、この社名にも表れていますように、両神は至近の関係にあります。厄神・疫病神が、逆転して、つまりその異力・神力を借りて、諸々の「厄」「疫病」を祓う、退散させる神となるようです。
 天白天王社もそうでしたが、祭神として表示されるときには、記紀記載のスサノヲが優先され、結果、瀬織津姫は背後に隠れるパターンが多いとみています。ただ、岡崎を中心とした三河地方では、天白神は水神(治水の神)といった性格でとらえられていましたので、瀬織津姫の名が多く残ったことが考えられます。
 いただいた報告のなかで、琵琶湖の瀧之宮神社は、その社名からも(社域内の滝の存在からも)、ここは、須佐之男命を祭神とするのは奇妙で、なんらかの祭神変更の手が加わっていることが考えられます(ほかにもいえますけど、たとえば大正時代の郡史などには、案外、本来の祭神名が記載されていることがよくあります。明治期のすさまじい祭神変更の嵐も、全国的に徹底しきれていなかったものがあり、少し時代の雰囲気がゆるやかになりかけた大正期ゆえに、消し忘れのように残っていたことが考えられます。次の「嵐」は、昭和天皇即位と明らかに関係していますけど、昭和初年にやってきます。明治期と、この昭和初期の二大「嵐」によって変えられたものを、戦後になっても修復せずに、そのまま自社の由緒・祭神として現在に伝えているケースが多いので、要注意です。なるべく古い史料・資料と突き合せてみるとおもわぬ発見があったりします)。
 荒神山神社は「竃の神」がメインで、瀬織津姫は地主神として「配祀」されているとのこと、また「竃の神はことのほか清浄の地を好む」というのも興味深いです。竃の神といえば、九州の宝満神が浮かびます。なぜ玉依姫(竃門山=宝満山の水神)が竃の神なのかという不思議もありますけど、これも火─水の対極かつ相互補完の関係から転じたものとみるべきかもしれません。
 三宝荒神について──。丹後半島の籠神社は、同社の「秘記」によりますと、「籠神社、亦の名浦島大明神」とされ、同半島にはたしかに浦島神社=宇良神社(与謝郡伊根町)があります(浦島神社の社宝は潮満珠、潮干珠)。浦島神は徐福伝承と習合していますけど、丹後半島には徐福伝承をもつ新井崎神社もあります(与謝郡伊根町)。この新井崎神社の祭神は、徐福、事代主命、宇賀之御魂命とされ、これらが「三宝荒神」とされています。三宝荒神は神仏混淆以降の名称で、どの三神をそう呼ぶかはかなり恣意的で、宝神と荒神の二律背反的な神の性格を語っているのだろうとおもっています。
「竃の神を祀る神社には、湧水が見られるケースが多い」──なるほど、です。日本書紀からは消されてしまいますけど、古事記は、大年神と天知迦流美豆比売の子神として「竃神」(別名:奥津比売=大戸比売)と記していました。竃神の母神は、まさに天上の水姫でしたから、竃の女神が「水」と縁深いことは古事記の記述からもわかります。それと「清浄の地を好む」というのも、正確には「清浄の水の地を好む」ともみられますし、なによりも、この天知迦流美豆比売という水神は、天上=山上において水をつかさどるとしますと、その後の瀬織津姫と、あるいは宝満神=玉依姫とも、水神・水分神のイメージは過不足なく重なってきます。古事記の記述を媒介しますと、琵琶湖の荒神山神社の祭神構成がそれなりにみえてくるようです。
 荒神山が、比良山系と竹生島を視認できる位置にあること──これは大きな意味があるとおもいます。なにも地図に線を引いてその延長上にどんな山あるいは神社があるかといったレイラインの発想をせずとも、まず視認できる空間が単独の「世界」としてあったとみることのほうが、たぶん古代びとの感覚に近いはずという気がしています。
 大屋神社、長寸神社、賀川神社の三社が(また、藤切神社=宗像神が)、光仁時代にまとめて勧請されたのは、光仁の病気平癒と、畿外のエミシ侵入を防ぐ祈願のためというのは、これも納得の分析です。「近江は畿内の終わり」という朝廷側の認識は、三関(鈴鹿・不破・愛発の関)の配置に端的に表れています。いいかえれば、畿外=東国、エミシの国という認識が朝廷側に根強くあったことがよくうかがえます。
 琵琶湖=近淡海の聖なる水(湖水)が、なにも国家レベルの大祓をもちだすまでもなく、天智の前から自然の禊ぎ場であったことはまずまちがいないとおもいます。「三尺下がれば仏の水」をたたえるのが琵琶湖で、これはなにも天智や中臣金/鎌足の独占すべき「水」ではなかったとおもいますが、天智は琵琶湖の四方に禊ぎ祓いの場を設けたのでした。
 天智の都=大津を基点にみますと、難波津からはるか先とはなりますが、白村江の完敗後、「西」は、唐・新羅の威圧の方位にあたり、一方、「東」は、皇化を無縁とする東国=エミシの国の威圧の方位にあたっています。西に顔が向いているときは、背後=東に対する広大な防御堀として琵琶湖はあったでしょうし、最悪のときは、逃走路としての水路(海路)としての琵琶湖であったかもしれません。琵琶湖を自陣の「海」とみなさなければ、大津京の安堵は成り立ちません。琵琶湖の四方に祓い所を設置する意味を考えますと、琵琶湖そのものの聖性への尊意もありましょうが、この湖水の神は絶対「敵」にまわしてはならない神であったのではないか──。天智個人の禊ぎ場ならば、大津京の近く、つまり唐崎一箇所で足りたはずで、それを琵琶湖の四方=四所に置くというのは、琵琶湖を包含する「全体」を考慮したものという印象があります。
 kokoroさんの前回の分を読んで、こう考えていたのですが、今回、丸山竜平さんの一文を読みますと、琵琶湖の四方ではなく、「大津宮の四角四堺」とあり、上の見方は保留かなともおもいはじめています。ただ、天智の「四方」の意識が、たんに都=大津宮の四方にとどまっていたとはおもえず、やはり琵琶湖全体にまで拡大してあったのではないかとも考えられ、結論は、今回は保留としておきますが、丸山さんの「畿内に入ってくる疫神・鬼をくい止める畿内第二次圏こそ近江の湖水であった」という言葉──これもいたく納得です。
「近江は畿内の終わり」──琵琶湖は、鬼たちを防ぐ境界湖でもあったとなります。ここで問題は「鬼」はどこからやってくるのかということがあります。これは「疫神・鬼」の国とはどこを指してそう認識されていたのかということでもありますが、これが正確に、三関の外(畿外)であることで、「疫神・鬼」のいる国と東国(エミシの国)が重なってきます。
 以下は、畿内・畿外という区分けのこととも重なりますが、畿外=「鬼の国」とみたとき、朝廷側にはどんな神まつりの意識・実践があったかということを、祝詞の世界に探ってみたものです。

 日本書紀・神功皇后条は、「祟り神」の筆頭神、いいかえればトップバッターの神として、瀬織津姫の異名である「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」、「天照大神荒魂」の名を刻印していました。
 伊勢の元神を封印(大祓祝詞=中臣祓に封印)し、また改竄(瀬織津姫の水神的性格と男神の日神の神名を合成し、皇祖神=アマテラスを創作)した、朝廷側の罪業の意識は、瀬織津姫を、その名は出せないものの、最高の「祟り神」とみなすことで、恐れまつること、つまり、「天皇」あるいは「伊勢」という制度(支配の装置)がつづくかぎり永遠の負の神まつりをおこなわざるをえないという、宿命の祭祀を背負い込んだことが考えられます。
『延喜式』(927年)に収録されている祝詞の数々のなかに、「祟り神を遷[うつ]し却[や]る」と題された祝詞があります。これは、解説によりますと、「わるい神を追放する祭で、必要のある時に臨時に行う」ものだそうで、ここにいわれている「必要のある時」とは、一言でいえば、国家危急のとき(と朝廷側が認識したとき)を指すのでしょう。具体的には、「外敵」との戦争時とか、朝廷内部に争乱が生じたときとか、厄病が国内に猛威をふるったときとか、天変地異のときといったことが考えられます。
 国家にふりかかる災いの元は、この「祟り神」のせいだという、自らの過去の「罪」は棚に上げたご都合主義的な認識ですが、しかし、中臣=藤原氏を筆頭とする彼らは、本気でそうおもっていました。そのことが、露骨に表現されていたのが、この「祟り神を遷し却る」という祝詞でした。

■祟り神を遷し却る(祝詞)
「高天[たかま]の原に神留[かむづま]りまして、事始めたまひし神[かむ]ろき・神ろみの命[みこと]もちて、天[あめ]の高市[たけち]の八百萬[やをよろづ]の神等[かみたち]を神集[かむつど]へ集へたまひ、神議[かむはか]り議りたまひて、我が皇御孫[すめみま]の尊は、豊葦原の水穂の国を、安国と平らけく知ろしめせと、天の磐座[いはくら]放れて、天の八重雲[やへぐも]をいつの千別[ちわ]きに千別きて、天降[あまくだ]し寄さしまつりし時に、誰[いづれ]の神をまづ遣はさば、水穂の国の荒ぶる神等[かみども]を神攘[かむはら]ひ攘ひ平[む]けむと、神議り議りたまふ時に、諸[もろもろ]の神等皆量[はか]り申さく、天の穂日の命を遣はして平けむと申しき。ここをもちて天降し遣はす時に、この神は返言[かへりごと]申さざりき。次に遣はしし天若彦も返言申さずて、高つ鳥の殃[わざはひ]によりて、立処[たちどころ]に身亡[う]せにき。ここをもちて天つ神の御言[みこと]もちて、また量りたまひて、経津主[ふつぬし]命・建雷[たけみかづち]命二柱の神等を天降したまひて、荒ぶる神等を神攘ひ攘ひたまひ、神和[やは]したまひて、語問[ことと]ひし磐根樹立・草の片葉[かきは]も語[こと]止めて、皇御孫の尊を天降し寄さしまつりき。かく天降し寄さしまつりし四方[よも]の国中[くぬち]と、大倭日高見[おおやまとひだかみ]国を安国と定めまつりて、下つ磐根に宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて、天の御蔭・日の御蔭と仕へまつりて、安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫の尊の天の御舎[みあらか]の内に皇神[すめがみ]等[たち]は、荒びたまひ建[たけ]びたまふ事なくして、高天の原に始めし事を神[かむ]ながらも知ろしめして、神直日・大直日に直したまひて、この地よりは、四方を見薺[みはる]かす山川の清き地[ところ]に遷り出でまして、吾が地と頷きませと、〔中略…「幣帛」の数々の描写がはいる〕祟りたまひ建[たけ]びたまふ事なくして、山川の広き清き地に遷り出でまして、神ながら鎮まりませと称辞[たたへごと]竟[を]へまつらく」と申す。(武田祐吉訳 ただし、神名等は原文に基づいて漢字にて表記)

 この「祟り神を遷し却る」という祝詞が、その下敷きとしている「表現」はなにかといいますと、それは、大祓祝詞=中臣祓=六月晦大祓であったことは、次の大祓祝詞の文面・文言をみれば一目瞭然でしょう。

■大祓祝詞(部分)
「高天[たかま]の原に神留[かむづま]ります、皇親[すめおや]神[かむ]ろき・神ろみの命[みこと]もちて、八百萬[やをよろづ]の神等[かみたち]を神集[かむつど]へ集へたまひ、神議[かむはか]り議りたまひて、『我が皇御孫[すめみま]の命は、豊葦原の水穂の国を、安国と平らけく知ろしめせ』と事依さしまつりき。かく依さしまつりし国中[くぬち]に、荒ぶる神等をば神問はしに問はしたまひ、神掃[かむはら]ひに掃ひたまひて、語問[ことと]ひし磐根樹立・草の片葉[かきは]をも語[こと]止めて、天の磐座[いはくら]放れ、天の八重雲[やへぐも]をいつの千別[ちわ]きに千別きて、天降[あまくだ]し依さしまつりき。かく依さしまつりし四方の国中に、大倭日高見[おおやまとひだかみ]国を安国と定めまつりて、下つ磐根に宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞[みず]の御舎[みあらか]仕へまつりて〔以下略〕

 祝詞「祟り神を遷し却る」の表現が、大祓祝詞の文言を、まるごとに近い反復をしていることがわかります。また、この露骨な踏襲表現の上に、日本書紀の「国譲り」の派遣神である建雷神と経津主神を記載し、出雲ではなく「大倭日高見[おおやまとひだかみ]国を安国と定め」たとしています。この二神をわざわざ表示していることで、いわゆる藤原神がここでも強調されていることがわかります。なお、古事記の国譲り派遣神はタケミカヅチと天鳥船神でしたから、このように、あえて藤原神を記載する「祟り神」の祝詞は、大祓祝詞と日本書紀の合体表現だとみることができます。いずれにしても、出雲国造による「出雲国造神賀詞」ともども、「祟り神を遷し却る」の祝詞は、大祓祝詞のヴァリエーションともいうべき、中臣=藤原氏の思想的な主導でつくられた祝詞だと断定することができます。
 では、その上で、「祟り神を遷し却る」と大祓祝詞との「違い」はなにかと問うてみますと、まず、「祟り神」の祝詞には、大祓の神とされた瀬織津姫の名がないということが大きな特徴です。「祟り神を遷し却る」において、大祓祝詞の表現を踏襲しつつも、「祟り神」と設定されている神の名は具体的に明らかにされていませんけど、わたしたちは、日本書紀の記述から、最大の祟り神として「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」「天照大神荒魂」という名があったことを記憶しています。
 具体的な神名は保留としても、この祝詞は、書紀に祟り神の筆頭神として描かれていた神(を含む「祟り神」たち)に対して、「荒びたまひ建[たけ]びたまふ事なく」「祟りたまひ建びたまふ事なく」というように、「どうぞ祟ってくれるな」という内容に終始していることが読み取れます。
 また、この祟り神を、どこからどこへ「遷し却る」とされているのかということでいえば、それは「皇御孫の尊の天の御舎[みあらか]」から「四方を見薺[みはる]かす山川の清き地[ところ]」「山川の広き清き地」へとなります。「皇御孫の尊の天の御舎」は皇居、つまり「国中」の中心中の中心ということはわかりますけど、「どこへ」の箇所は特定できない書き方となっています。「四方を見薺かす山川の清き地」といわれて、富士山かと一瞬おもわないわけではありませんけど、これは特定不可能の「国中」外の「山川の清き地」なのでしょう。なぜなら、「国中」は、朝廷の思想によって統一されるに従って、つまり「水穂の国の荒ぶる神」が平らげられるに従って、拡大・変動していきますから。
 ここでひとつ興味深いことがあります。それは、この祟り神(たち)が、祝詞では「皇神」とみなされていることです。これは、祟り神を皇居内でまつることで祟りを無化することをしていたゆえ、「皇御孫の尊の天の御舎」内の神ということで「皇神」の名称が付与されているのでしょう。
 このように、皇居内で祟り神を鎮魂祭祀することが常態だとしますと、「祟り神を遷し却る」とは、よほどの事態が生じたときとみることができます。要するに、皇居内の鎮魂祭祀によっても、国の危機・危難は改善されない、もう皇居内祭祀だけでは鎮魂は不可能、手に負えないとおもわれたとき、この「祟り神を遷し却る」の祝詞が奏されたのだろうと考えられます。これが、この祝詞が「必要のある時に臨時に行う」の「臨時」のほんとうの意味かとおもいます。
 もう手に負えない、だから、元の「山川の清き地」に帰すから、どうぞこれ以上祟ってくれるなというのが、この祝詞の真意でしょう。
 自分がおりたくもないところから、本来の地へ帰れということだとしますと、これは、祟り神とされた神(たち)にとっては、ある意味「解放」されることでもあります。また、そのことで、「皇御孫の尊の天の御舎」を中心とした「国中」が「祟り神」追放で安泰となるなら──、こういった気持ちが皇孫たちの側にはあるということなのでしょう。
 おそらく、この祟り神の追放という行為と心情がのちの「節分」、つまり鬼やらい=追儺[ついな]の年中行事となります。したがって、祟り神と鬼は、もともと同質の邪神(荒ぶる神)とみなされていたという理解もできます。
『延喜式』には、追儺、つまり、祟り神=鬼を追い払うというときに奏される祝詞も収録されています。「儺祭詞[なのまつりのことば]」といいます。短い祝詞ですので、全文を読んでみます。

■儺祭詞
「今年[こんねん]今月、今日今時[こんじ]、時上直府[じじょうじきふ]、事上直事[じじょうじきじ]、時下直府[じげじきふ]、事下直事[じげじきじ]、及山川禁気[きゅうさんせんきんき]、江河谿壑[こうがけいがく]、二十四君、千二百官、兵馬九千萬人、衆諸[もろもろ]の前後[まへしりへ]左右に位置[はべ]りて、各[おのおのも]、その方[みち]のまにまに、あきらかに位を定めて候[さもら]ふべし。大宮の内に、神祇官[かむづかさ]の宮主[みやじ]の、いはひまつり敬[ゐやま]ひまつる、天地[あめつち]の諸の御神たちは、平らけくおだひにいまさふべし」と申す。事別[ことわ]きて詔[の]りたまはく、「穢悪[けがら]はしき疫[えやみ]の鬼の、処処村村に蔵[こも]り隠らふるをば、千里のほか、四方[よも]の堺[ほとり]、東の方は陸奥[みちのく]、西の方は遠つ値嘉[ちか]、南の方は土佐、北の方は佐渡より遠方[をち]の処を、汝等[なむたち]疫の鬼の住処[すみか]と定めたまひ行[おもむ]けたまひて、五色[いついろ]の宝物、海山の種種[くさぐさ]の味物[ためつもの]を給ひて、罷[ま]けたまひ移したまふ処処方方に、急[すみやか]に罷[しりぞ]き往[い]ねと追ひたまふと詔るに、?[かだ]ましき心を挟[わきばさ]みて、留まり隠らば、大儺の公・小儺の公、五[いつくさ]の兵[つわもの]を持ちて、追ひ走り刑殺[ころ]さむものぞと聞しめせ」と詔る。

 語の細かな解説は省きますけど、祝詞前半の格調高い漢文リズムは、後半の「事別[ことわ]きて(特別に)詔[の]りたまはく」からガラリと変わります。これは文体の変化ばかりでなく、内容にもそれは表れています。これまでみてきた大祓祝詞などは中臣氏が唱えるものでしたが、この儺祭詞は、陰陽寮で陰陽師が唱えるものとされます。
 大祓祝詞や「祟り神」の祝詞に比べると、この儺祭詞は新しいものという印象を受けます(平安初期か)。朝廷の勢力圏を、この東西南北の各地にあてはめて、祝詞の制作時期を推定するという方法もありますが、多分に儀式的な祝詞ということもありますので、『延喜式』(927年)現在の祝詞として受け取っておくこととします。
 祝詞の内容をみますと、ここで追い払われるのは「穢悪[けがら]はしき疫[えやみ]の鬼」とされ、「東の方は陸奥[みちのく]、西の方は遠つ値嘉[ちか](長崎県五島列島…引用者)、南の方は土佐、北の方は佐渡より遠方[をち]の処を、汝等[なむたち]疫の鬼の住処[すみか]と定め」るという宣言がなされていることがわかります。延喜時代には(も)、朝廷側は、陸奥・佐渡以北、南は土佐以南、西は長崎(五島列島)以西を、「汚らわしい鬼の国」だとする祝詞を、毎年唱えていたというのです。
 延喜時代には、陸奥の南部は田村麻呂たちによってすでに掃討→支配に入って100年以上たっていましたが、その戦闘の激戦の記憶が「鬼」のイメージを増幅させていたことも考えられます。
 ともかく、これより先(遠方)は「鬼の国」と規定されていた陸奥と佐渡なのでしたが、ここで、「穢悪[けがら]はしき疫[えやみ]の鬼」を「穢悪[けがら]はしき疫[えやみ]の神」と置き換えてみることもできましょう。
 祝詞の多くは中臣氏が唱えていましたが、斎部氏もわずかですが、自前の祝詞をもっていました。たとえば、「大殿祭につけて行われる宮殿の御門の神を祭る祭の祝詞」(解説)とされる「御門祭[みかどほかひ]」という祝詞があります。
「御門祭」で、宮廷の四門(四方内外の御門)を守る、つまり外からの悪神の侵入を防ぐ神とされていたのは、クシイワマド・トヨイワマド神とされ、外敵神から、門をしっかり閉ざして守りぬけといった内容の祝詞です。
 この斎部氏の祝詞で興味深いのは、御門神二神がどんな神から宮殿を守っているのかが次のように述べられていることです。

■天のまがつひといふ神
四方四角[よもよすみ]より荒び来む、天のまがつひといふ神の言はむ悪事[まがごと]にあひまじこり、あひ口会へたまふ事なく、上より往かば上を護り、下から往かば下を護り、待ち防ぎ掃[はら]ひ却[や]り、言ひ排[そ]けまして〔後略〕

 意訳すれば、宮廷の四方から荒神としてやってくる(荒び来む)、「天のまがつひといふ神」が言う「悪事[まがごと]」に共鳴したり、言葉相手になることなく、四方をよく守り、追い払え(それがクシイワマド・トヨイワマド神の役目だ)といったところでしょう。
 ここで、わたしたちにはなじみ深い「天のまがつひといふ神」(瀬織津姫の異名)が出てきました。それも、外敵神として、です。
 これまでの一連の祝詞および日本書紀の記述を総合しますと、瀬織津姫は、一方で、大祓の最高神として設定されるも(大祓神はのちに四神とされますけど、当初は瀬織津姫一神であったこと──このことは、kokoroさんの資料の一文に、佐久奈度神社は「建部神社とならぶ明神大社で、祭神は瀬織津姫命である」と明記されていることからもわかります〔丸山竜平『琵琶湖と埋蔵文化材』所収〕)、一方において、祟り神・鬼神・疫神・禍々しい神(禍津日神)という、きわめつけの悪神の規定をも受けていることがわかります。
 瀬織津姫は、伊勢の祭祀から分離されたときから、この二律背反の神を生きることを強いられたといってよいのですが、この背反する性格の二重性は、そのまま境界神の性格ともなります。ある境界で、その神が、どちらに向かって外敵神を防ぐかは、その神をまつる者の立っている場がどちらなのかによって決定されてきます。
 橋もまた境界の象徴で、宇治橋の橋姫(橋姫神社の祭神)が瀬織津姫であることや、峠などもそうですが(たとえば鈴鹿山=峠の神も瀬織津姫)、境界神とされた瀬織津姫のその二重・背反する性格がよってきたるところは、やはり、伊勢の祭祀からの強制分離に淵源があることを再度はっきりさせておきます。瀬織津姫は最初から境界神だったわけでもなく、ましてや祟り神でも祓神でもなかったということです。瀬織津姫を恐れたのは、直接的には、この神を大祓祝詞に封印した者と、伊勢の祭祀を改竄し、この改竄を正当化するために記紀(の神々)や祝詞を作成し、各地の神社の祭祀を改竄した当事者たちというべきですが、その後、この神に対する恐怖のイメージは一人歩きしていきます。しかし、瀬織津姫を恐れる者は、中臣=藤原の国家思想のみで、そこと一線を画して生きてきた庶民にとっては、この神は恐怖神とはまったく逆の「やさしい神」以上でも以下でもないことは、各地の伝承から首肯できるものとおもいます。
 もし「日本」に「自由の女神」、「文学の女神」が存在するとすれば、そのもっとも近いところにいる神が、この瀬織津姫かもしれません。各地の、この神にまつわる伝承が全体にわたって見えたところで、いいかえれば、客観的に評価することができる時点で、この「かもしれません」は、断言に変わる予感もあります。もう少しです。

566 色の話 さかな 2002/09/15 08:45

あかねさん
 趣向が似ていると言ってくださいまして、こちらこそうれしいです。(^-^)
 脳をぐるぐると(私の場合くだらないことが多いですが)使うと、ボケないので年をとらないかもしれないです。
 いろいろとお話を聞かせてください。m(__)m

>赤土(陽・男性・男神・火・日・血)
 これは火なんですね。

>青土(陰・女性・女神・夜・闇・月・暗)
 そうするとこれは水になるんですね。

 塩土翁の塩って水(し)火(お)と書くそうなんですが、塩土翁=サルタヒコ=同祖神が男女一体の像で表されるというのがなんとなくわかりました。

>赤青で陰陽・交合ですじゃ〜〜。
 これで紫ということですが、そうすると紫はなんでしょう?

風琳堂主人さん

>吉備神に海神(磯良神)を探るなら、やはり鬼神=温羅[う>ら]を考えてみる必要がありそうです(囲炉裏夜話454
>「広瀬大忌神と瀧祭神」を参照してください)。
>吉備津神社には瀬織津姫が社域最奥部にまつられてい
>て、温羅との習合がみられます(祟り神の共通性というこ>とでしょう)。
 過去ログを拝見しますに、「うら=浦嶋太郎」ということかと思うのですが、この「うら」の妻である「阿曽媛」は、浦嶋太郎の妻の天女=瀬織津姫なのでしょうか?

>「丹」が赤ばかりでなく「青」も表すということですね。
 辞書には「丹」は「土(はに・に)」の意味で書かれていましたが、赤と青をあわせると紫(丹)になるということなのでしょうか? こんがらがってきました。 

>青?[あおに]の玉をもって、((一本には八尺絮?玉とある))奥津宮[おきつみや]の表象
 これが「青」で「八坂=スサノヲ」となり、

>八尺瓊の紫の玉をもって中津宮[なかつみや]の表象
 これが紫で「丹=土」となり、

>八咫[やた]の鏡をもって辺津宮[へつみや]の表象
 これが「赤」で(サルタヒコの目は八咫のアカガチとかいう記述)、アマテラスに当たるのでしょうか?

 この丹=紫ってなんでしょう?

 潮満玉(珠)、潮干玉(珠)というのは三種の神器であり、その擬人化が宗像神や上記の神なのでしょうか?

ピンクのトカゲさん
 ただの閃き個所を評価していただくと、うぬぼれますので・・・。(-_-;
 文献とかの資料と照らし合わせた論証は出してないので。トカゲさんが形にしてくださったので、より鮮明に見えてわかりやすくなったのだと思います。

>伊豆走湯権現の雷電社とも関わってくるでしょう
 賀茂の謎にもつながるといいです。

 また、いろいろご教示ください。m(__)m

567 丹生都姫 なにがし 2002/09/15 22:55

●爾保都姫=丹生都姫
広島市に丹生都姫を祭神とする爾保姫神社が黄金山なる山にあります。近くには丹那と言う地名もあり、摂社には竃神社もあります。創建は神功皇后がここに泊まったときに矢を放ち刺さったところがこの神社の地であるそうな。確か爾保都姫の功績がもともとの発端だったような?

●竃門神社と玉依姫
昔父に聞いたことですが、戦後のころ、高校の先生が玉依姫=丹生津姫だと言っていたとか。恐らくそれは下鴨神社でしたっけ???玉依姫が丹塗りやでほとをつかれて・・・。それが根拠なのかどうなのか分かりませんが。で、ちなみに、和歌山県の丹生氏は神主に昇進するとき竃門神社の前にて昇進の儀式を行います。丹生都姫じゃないんですね。なぜなんでしょう?なんかこれと似ていますね。ちなみに、竃門神社の祭神は奥津彦奥津姫でこの丹生氏の根拠地のもともとの地主神のようで、大伴氏が祭祀を行っていたようです。大伴氏が丹生氏に養子に入ってからは丹生氏にて行われていたので、もしかしたらもともとは丹生氏の儀式ではなく大伴氏の儀式だったのかも知れません。ちなみに、大分にも大伴氏と丹生津姫の関わる地があります。大伴氏の誰かが大分に行ったときに、難破したが丹生津姫に助けられたとか。

568 たまには短文(私も) kokoro 2002/09/17 00:00

565> 厄神・疫病神(※としてのスサノオ)が、逆転して、つまりその異力・神力を借りて、諸々の「厄」「疫病」を祓う、退散させる神となるようです。

 素戔嗚尊と天照大神の両神は、記紀の誓約生みの説話において、「吹き棄つる気吹きのさ霧に」様々な神々を成立させました。その中で宗像三神は、天照大神が素戔嗚尊の携帯する十拳剣を「吹き棄」って誕生させたため、彼の御子神とされます。また、素戔嗚尊の娘のスセリ姫は、この時に生まれた訳ではないですが、しばしば速佐須良姫神への連想をさそい、両者を同一の神格とする本居宣長の考証まであります(ご主人による最近の紹介で知りました。)。こうした御子神をめぐる文脈、また極めて印象的な「吹き棄つる気吹きのさ霧」のイメージから、禊ぎに関係のある神社で祀られている素戔嗚尊とは、気吹戸主神に習合されたものである可能性も考えられなかったでしょうか。

569 ちょこっと調べました。 さかな 2002/09/17 07:31

 青玉とは、竹の異称だそうです。
 また、安曇磯良が舞った「細男」舞いは「青農」と書き、「細」は「ささ」と読むことからも、青=竹(ささ)になったのかもしれません。
 また、「ササラエヲトコ」は「月読」の別称なので、安曇磯良は「月読」であるのではないかと思います。
武内宿祢の武は「竹・建」とか表記されるので、なんか、関係があるような気がしてきました。
 紫では「紫雷」という言葉がありました。これは、刀の光の形容だそうですが、呉の宝剣の名前でもあるそうです。呉藍(紅)と関連が出てきそうです。「紫」とは「八束の剣」のことでしょうか? また、雷光とは刀の光の形容に使われていたということからも、タケミカヅチとつながります。
 「紫霞(しか)」というのは、「仙宮」などの意味があるようです。個人的に、「ささなみのしか」とは「月宮」のことなのか、と想像しました。
 八咫の鏡の別名は、「真経津の鏡」なので、やはり、鹿島神やサルタヒコと関連があるようです。

 こうしてみますと、やはり、三種の神器と鹿島三社(住吉や宗像と同神)は対応しているのではないかと思いました。

 色の話から大きく「トンデモ」に脱線しました。住みません。

570 吉備の鬼神と祓神 風琳堂主人 2002/09/17 15:53

 さかなさん、瀧祭神が龍宮神でもあるとしますと、籠神社=浦島大明神(「籠神社秘記」)の海神=日神が通う女神が滝神=水神であること──が想像されてきますね。籠神社が「元伊勢」と呼ばれるには、同系の通婚伝承があるということなのでしょう。
 吉備の温羅[うら]が浦島太郎かどうかはともかく、鬼退治神話には、温羅は「身長一丈四尺、両目はらんらんと光り輝き、力は鬼のようにつよく、性格は荒々しくとても凶悪な男」といった形容がなされていて、これでは猿田彦のイメージだなという印象を受けます。
 温羅の伝承は、崇神天皇のとき、吉備に派遣された「四道将軍」の一人、吉備津彦=五十狭芹彦命と激闘を演じ、最後は鳴釜神となって吉備の守護神となる──これが一般に親炙されている筋立てです。阿曽媛は温羅の妻(神)とされ、阿曽媛には温羅の霊=鳴釜神を鎮める役目が負わされます。温羅の怨霊鎮めが転じたものが、吉備津神社の鳴釜神事(吉凶占い)です。
 死後、鬼神・祟り神とみなされる温羅なのですが、吉備津神社には、これまた折り紙つきの祟り神である丑寅御崎神(女神)がまつられています。温羅との関係を考えますと、「天照大神荒魂」の例にならっていえば、温羅の「荒魂」ということもできそうですが、温羅自身がすでにじゅうぶんに「荒神」ですから、これは、温羅の祟りを鎮める役目を負わされた阿曽媛の「荒魂」とみたほうがよいのかもしれません。
 この丑寅御崎神についての過去ログを再読してみます。

■温羅と瀬織津姫
 広瀬大忌神と荒祭神=瀬織津姫と、そして瀧祭神が同神であることは、たとえば、岡山・吉備津神社社域の最奥部にまつられる瀧祭神社=瀧祭宮が、その祭神を瀬織津姫としていることからも断定できそうです。ちなみに、瀬戸内海の御崎神については「明石は赤石」(囲炉裏夜話307)で少しふれましたけど、この御崎神の本社が吉備津神社の「丑寅御崎」です。この神は、梁塵秘抄によれば「艮みさきは恐ろしや」と歌われていたように、吉備の鬼神=温羅[うら]と同神ともされます。ヤマトによって、畏怖・恐怖される最高神は瀬織津姫でもありましたから、この吉備の鬼神とも瀬織津姫は関わっている可能性があります(岡山県和気郡佐伯町の御崎神社の主祭神として瀬織津姫の名が確認できます)。(囲炉裏夜話254「広瀬大忌神は瀧祭神」)

 御前[みさき]神社分社の祭神に瀬織津姫の名があることは偶然ではなく、やはり「恐ろしや」の神として瀬織津姫はみなされているということなのでしょう。
 温羅と阿曽媛──両者を「人」とみるか「神」とみるかで、そのとらえかたが異なってきます。ところで、温羅を朝廷=崇神から派遣されて討伐したとされる吉備津彦=五十狭芹彦命なのですが、これは、日本書紀に記載される「四道将軍」の一人とされます。しかし、古事記のほうを読みますと、三人の「将軍」は記載されるも、吉備津彦の名だけがなぜかありません。古事記→日本書紀の制作過程で、新しく追加されたのが吉備津彦なのです(その理由は現在のところ不明ですが)。
 また、日本書紀神功皇后条の祟り神を明記した(「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の名を明かす)箇所で、その祟り神を鎮めまつった直後の記載として、「その後吉備臣の祖、鴨別を遣わして熊襲の国を討たされた。いくらも経たぬのに自然と従った」という記述があります。
 書紀のこの記述を真に受けますと、鴨氏が吉備の経営に関わっていたことがわかります。吉備津彦=五十狭芹彦命がはたして鴨氏なのかどうか──むしろ、吉備津彦に殺された温羅のほうに鴨氏の祖神(の一神)をみたほうがよいのではないかといった疑念が浮かびます(これはトカゲさんの「系譜崩し」にまかせたいとおもいます)。
 鴨氏は、京都下鴨神社においては、瀬織津姫を井上神=御手洗神(=禊祓神)に変更していますけど、瀬織津姫は下鴨神社の祭神でもある玉依姫と同神の可能性があります。
書紀が記すように、吉備の鴨別と「熊襲の国」が関係あるものとしますと、熊襲の国の阿蘇都比(阿蘇神社祭神)の名も浮かんできます。吉備の阿曽媛と阿蘇の阿蘇都比塘氛泱ウ縁とおもえないのは、阿蘇が鴨氏ゆかりの地であること、および神名に「アソ」を共有することに加え、熊襲の国・阿蘇山には、滝神を明らかに「女神」とみている「寄姫滝(現在名は白糸滝)」があることです(ここの滝神は、岩手の桜松神社の伝承と同様に、滝神は織姫でもあるとされ、桜松神社にも「白糸の滝」が語られていましたが、その滝神が瀬織津姫とされます)。

 あと、赤+青=紫──。この色彩の調合感覚は現代のものでしょう。越後国風土記(逸文)の現代語訳が「青い」と表記していること、あるいは、筑前国風土記(逸文)が「紫の玉」と表記していること──これらの「青」「紫」は、原文においてもそのように表記されているのかどうかまで遡って確認してみる必要がありそうですね(その上で「こんがらがる」ことにしてはどうでしょうか。きっと、茜色のあかねさんがすっきり解き明かしてくれます)。
 なお、潮満珠は満珠(水の玉)、潮干珠は乾珠(火の玉)として伝えるところもあります(「熊襲の国」の「元伊勢」とされる幣立神宮…熊本県阿蘇郡蘇陽町)。幣立神宮においては、「満珠(水の玉)」によって、「清水を確保し田畑を開いた」とされます。
(と、ここで、さかなさんの次の書き込み──とりいそぎ質問のみ)
「青玉とは竹の異称だそうです」──出典を教えてください。
刀の光の形容としての「紫雷」、「呉の宝剣の名前でもあるそうです」──同上です。
「紫霞」=「仙宮などの意味があるようです」──これも、同上です。
 とても興味深い話ですが、ここから仮説を組み立てるにしても、そう考える元となった「土台」をなるべくならきちんとしておいたほうが……という気がします。このインターネットの世界は「伝聞」が勝手に一人歩きする可能性が高いですから、土台となる出典を曖昧にせずにお願いしますね。他説と自説の境界を曖昧にしないように、です。遠野物語の負の側面──過剰な伝聞・噂の重層によって、遠野物語のコアの部分が霞むこととどこか通ずるかも、です。

 なにがしさん、玉依姫=丹生都姫説は、わたしも肯定できます。
丹生氏─大伴氏の関係において、丹生都姫よりも竃門神を上位におくことを考えますと、丹生都姫(丹生氏の氏神)が、その氏族の力関係もありましょうが、やはりこれも仮の神名ゆえかなともおもわれてきます。
 玉依姫=丹生都姫説に奥津姫も加えての同神説もありえます。和歌山の竃門神社(祭神:奥津彦、奥津姫)と九州の竃門神社(祭神:玉依姫)の関係はきっとあるはずで、両社の祭神表示をみても、玉依姫=奥津姫の同神説の可能性は高いです。ここに等号で結ばれる三女神たちは、まだ仮の名ですが、奥津姫の母神とされる天知迦流美豆比売(大年神の后神)まで入れて考えますと、これらの神の共通項は「水」あるいは「水神」です(九州の竃門神=玉依姫は、大宰府を基点にすると、鬼門=ウシトラの神ともなります)。
 鴨氏は、自らの祖神を朝廷との関係で御手洗神(禊祓神)に降格=変神化させてまつっているとわたしはみています。その降格における元座の「空白神」を玉依姫と呼んでいるのだと考えています。
 なお、伊豆の鴨氏は出雲族といわれますので、京都の鴨氏の地に「出雲」の地名やら、下鴨神社摂社に出雲井神社があるのも、偶然のことではないのでしょう。下鴨神社の井上神=御手洗神は「出雲神」でもあることが考えられます。

 kokoroさん、スサノヲとアマテラスの「誓約」(古事記は「宇気比」)による、宗像三女神やオシホミミなどの子生みの話──どこか不自然だが神代のことだから、とあまり問うことなく、わたしたちは受け入れてきました。
 イザナギとイザナミまでは交合[まぐわい]という子生みの前提の自然性が確保されていたわけですが、イザナギが黄泉国(イザナミを象徴とする死の国)から逃げ帰ってきて「禊ぎ」をすることで、最後に「三貴子」として「天照大御神」、「月読命」、「建速素佐之男命」を誕生させたことから、不自然性はすでにはじまっていました。
 この古事記の不自然な子生みの描写の前になにがあるかというと、伊勢神宮の改竄創祀ということがあり、これは(男神)天照大神→(女神)天照大神=アマテラスの創作ということでもありましたが、この女神=天照大神の存在を、どう無理なく皇孫の祖神として系譜づけるかというのが、記紀の編纂・創作者の、まさに創作力が問われる箇所だったろうことが考えられます。
 女神=アマテラスと男神=スサノヲの子生みにおいて、交合[まぐわい]の関係があってはならず、その擬似交合をウケヒ=誓約という言葉に代替させたわけです。
 スサノヲの描写は、出雲へゆくまでは、乱暴で、やたら泣き喚くマザコンの神です。出雲で「大人」になるというストーリーは、スサノヲの「人生潭」としても読めるわけで、この創作力は下手な文学以上ということができます。
 しかし、「交合」の自然性を否定し「誓約」と言い換えた記紀の表現には、皇祖神=アマテラスに絶対聖性を付与するという思惑があったはずでしょうし、さらにいえば、宗像神を三女神化する意図も、そこには隠されていたこととおもいます。
 天照大神から皇孫・天孫降臨の物語へ行く前に、この不思議な交合=誓約によって誕生した皇子神=オシホミミの存在があります。オシホミミの、存在としての影の薄さという不自然さですが、これは、記紀が、オシホミミの出生に深くふれることができなかったからだろうとみるしかありません。ホツマの伝承が生彩・異彩を放つのはこの部分で、つまり、同書は、オシホミミを、瀬織津姫と天照大神の(交合の結果による)子神であると伝えているわけです。
 スサノヲとアマテラスによる「誓約」──その子神誕生のキーとなる描写が「吹き棄つる伊吹の狭霧」ですね。スサノヲと気吹戸主神の「習合」をここに感じ取られたkokoroさんの感性に脱帽します。わたしは、大祓祝詞に気吹戸主神が付加されるのは記紀以降ではないかとおもっていましたので、ここにまで遡って気吹戸主神とスサノヲを重ねることはしたことがありませんでした。
 スサノヲが祓いと関係してくる描写は、古事記などでは「祓われる神」→被追放神としてですし、ほかに、「備後国風土記(逸文)」における「蘇民将来」潭における「茅の輪」のことがあります。茅の輪くぐりという、厄祓いの神事が一般化するのはかなりあと(中世以降)のことかとおもいますけど、祓神としてのスサノヲのはっきりしたイメージは、この風土記(逸文)が最古のものだろうとおもいます。
 祇園神とスサノヲが習合し御霊祓いがはじまるのは平安時代からで、御霊・疫神祓いの神事における表向きの主役がスサノヲとなります。しかし、この神事には、そこへ桂川から通う謎の祓いの女神がいました。ここでことさら「謎」という必要はないのですが、この女神は桂川(古称は大井川)の水神で、この女神が到着しないと祓いの神事ははじまらないということです(出典をすぐに明記できません。調べておきます)。
 瀬織津姫とスサノヲがともに祓神とみなされることを考えますと、起源的には、スサノヲの「誓約」時における「気吹[いぶき]」のイメージは、たしかに大祓祝詞における、罪穢れを吹き飛ばす気吹戸主神のそれに連鎖します。それと、八坂神社における、スサノヲと桂川の女神です。スサノヲが気吹戸主神と重なる要素はあったとみることができそうです。

571 あ、すみません さかな 2002/09/18 07:00

 取り急ぎ、調べた本をお書きします。
  青玉・細男・真経津の鏡=「広辞苑」
  紫雷・紫霞他、紫や鹿に関するものは=「漢語林」

 普通の辞書しか持っていないので、だいたいはこれで調べます。なので、歴史の難しいことはわかりません。すみません。あやしい情報に見えるのは、本人があやしいからでしょうか・・・・・・。
 特に漢字を調べるときは、その漢字を使った熟語などが載っていて、象形文字の意味までわかるので漢語林は便利です。

 それと、ピンクのトガゲさんからのご紹介なのですが、風琳堂主人さんは先代旧事本紀を最近注文なさったとか。
私もぜひ購入したいので、出版社を教えていただきたいのですが、よろしくお願いします。

573 古史古伝も記紀の影響有り ピンクのトカゲ 2002/09/18 11:22

古墳維持さん

秀真伝が瀬織津姫について触れていることは、風琳堂刊『エミシの国の女神』でもふれていますから、承知しています。
>考古学との擦り合せによって秀真伝は西暦336年成立の本物の古文献であることを確信しております
この確信の証拠を示す必要があるのではないでしょうか。
秀真伝自体、記紀という「神々の総合カタログ」に影響されていますから、記紀を解体し、記紀の虚実を見極めて後に検討すべきかと思います。
>忍穂耳尊は紀元前47年前後の生まれです。
この辺りが既に記紀の虚構(天皇制の呪縛)に毒されています。

574 たまには少し短く 風琳堂主人 2002/09/18 13:41

 さかなさん、「本人があやしい」のは風琳堂主人だけです。
「あやしい情報」かどうかは出典をみてみないと判断できませんので、それが知りたかっただけです。辞書には、その語の初出用例が記されているとおもいます。その原典文献がわかると、その言葉がいつごろ、どのように使われていたかがほぼわかりますので、それでお聞きしたわけです。
 また、出典が辞書ではなく、ほかの人が書いたものだとしますと、それも、ときには検証の対象となる場合もあります。その語がどういった時代背景と文脈で使われているかとか、その語に対する著者の理解に無理はないかとか──。
 特に古代については、丸ごと謎といってよい世界ですから、他説を鵜呑みにして自説をくっつけたりしますと、あとで足元からあっけなく崩れることになりかねません。お互い気をつけましょう。
『先代旧事本紀』は、批評社という出版社から出ているようです。

 古墳誰時さん、はじめまして。
 秀真伝[ほつまつたゑ]のご紹介をありがとうございました。
 瀬織津姫=向津媛について、最新のホツマの研究ではどこまで明らかにされているのか、とても興味があります。
「瀬織津姫は天照大神(男性の実在者)の正后(向津媛)で紀元前1世紀中頃の実在者」とのことですが、いくつかお尋ねしますので、よろしかったらご返事ください。

@ 瀬織津姫=向津媛は、日本書紀では「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と表示され、祟り神の最高神とされています。最新の研究では、その「祟り神」とされる理由は、どう理解・解釈されているのか。
A @と関わりますが、向津媛は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の略称におもえます。この長い神名について、ホツマ研究ではどのように解読・解釈がなされているのか。
B 瀬織津姫は、伊勢内宮では、荒祭宮および瀧祭宮の祭神でもあります。瀬織津姫祭祀を各地にみますと、水神・滝神としてまつられていることが多いです。このように、滝神として瀬織津姫がまつられることについて、「研究」はどういった理解をしているのか。
C 瀬織津姫は、国家・朝廷の罪・穢れをはらう大祓の神とされています。ホツマでも、最初からそのような大祓に関係していたのか。もしそうでないなら、なぜ、瀬織津姫は大祓の神とされたのか。
D 瀬織津姫は「紀元前1世紀中頃の実在者」とのこと──天照大神はともかくとして、瀬織津姫はどこで生まれ、どこで亡くなったとされているのか。また葬られた「塚」は、どこに比定されているのか。

 囲炉裏夜話の読者も関心がある質問かとおもいます。お答え、楽しみにしています。

577 補足 ピンクのトカゲ 2002/09/18 19:22

古墳誰時さん

風琳堂主人の質問に対する回答とも関わるのですが、この掲示板では、瀬織津姫という神の神格および何故、記紀において抹殺されたかを考察しているわけです。当然、ホツマに名前が出てくるのは、知っていましたが、ホツマからは、瀬織津姫については、何も解明できないということです。

誤解しないように付け加えれば、これは、ホツマが偽書であるか否かとは、無関係な問題です。
ですから、ホツマが最古の書云々について力説は、この掲示板では、沿わない書き込みであり、無意味であることを理解願います。

これ以上の力説は、それこそ、「これは、ホツマ研究者の間でのお考えであって事実とは無関係です」そして、「ホツマ研究者の描いている古代史像はたぶん間違っています(事実を曲げている)。」という水掛け論になりますから

578 廣田神=八幡神 風琳堂主人 2002/09/19 03:07

 古墳誰時さん、ホツマに記されていた、天照大神と瀬織津姫が一対神(夫婦神)を構成するという記述・伝承は、瀬織津姫を明かす上で大きな示唆に富んだものでした。
 この対なる関係を各神社や山神の配置に探ることで、瀬織津姫という神がどのように日本の祭祀の歴史から消され、変更されてきたかがかなり判明してきました。その意味で、ホツマの伝承は一級のものであることをわたし(たち)は認めています。
 ホツマの記述内容の全体を史実とみるかどうかには、たしかに「距離」があります。これは、古事記・日本書紀に対しても同様のスタンスでみているつもりです。
 ただ、記紀の背後には、「日本」という国の成立の問題、つまり現代の国家へと通底する建国思想があります。当時の祭政者たちによって、記紀は全力でつくられたことは確かです。この記紀という基本文献を解読することは、それほど簡単なことではなく、だからといって、「古史古伝」を援用して解読するという方法ではなく、必要ならば記紀自身にその破綻を語らせるべきで、援用資料は、民衆が長く伝えてきた各地の伝承(神社・寺院の伝承を含む)のみとすることを方法としています。
 この方法は、日本の国家成立を果たそうとした思想を解読することと、その国家思想との関係下で具体的に生きてきた、生きざるをえなかった人びと(わたしたち)の「心」をも読むということを同時に果たすだろうとおもっています。ホツマ一書を研究することだけでは、この現代にも通ずる国家思想と「心」の問題にふれることにはならず、その意味で、多くの伝承、しかも貴重な伝承の一つとしてホツマを認めています。
 ホツマの成書時期については、ホツマ研究者の方とは、少なくともわたしは異論をもっていますが、そのことを論争する前に、記紀の解読・解体の作業のほうが当面の必要課題だろうと認識しています。瀬織津姫の全貌はまだ十全に明らかにされたわけではありませんので。
 質問させていただいたCに対する古墳誰時さんのお答え──、つまり、瀬織津姫は「天照大神の正后」であり、「記紀で天照大神が女神に書き替えられたので、瀬織津姫の居場所がなくな」ったという認識あるいは「推察」の延長上に、わたしたちの現在の作業はあるかとおもっています。
 あと、Dのお答えで、瀬織津姫が「葬られた「塚」は不明(未発見)」だが、「確か西宮神社に祭られたとか」とあり、この西宮神社は廣田神社から独立したものですから、天照大神荒魂の名で瀬織津姫をまつる廣田神社のことかと受け取りました。
 同社の関係HPを見ていましたら、「諸社のタブーを記した本」とされる『諸社禁忌』(鎌倉時代前期の作)に、廣田神は「八幡同体」という言葉をみつけて、前に、この囲炉裏夜話で八幡大元神=瀬織津姫の話を書いてきましたので、ここにもそれはいえるかと感慨深いものがありました(HP「ままうさ美術館」)。
 古墳誰時さん、トカゲさん、ホツマの成書時期等をめぐる実りある論争のときは、わたしが当事者になりますので、ここは双方静かに引いてください。古墳誰時さん、トカゲさん、穏やかな応答を感謝します。論争の「よい機会」はまだ先にあるとおもっています。今は、まだしておくことが山積(はからずも瀬織津姫の父神?)の状態ですからね。

579 ありがとうございました。 さかな 2002/09/19 07:49

風琳堂主人さん
早速注文をします。ありがとうございました。
広辞苑(第四版)には調べたこれらの初出用例が載っていなかったのですが、辞典の元を調べないといけないのですね! 父が学生時代に使っていた昔の小さい辞典にはしつこいぐらいに初出用例が載っているのですが、辞書自体も省略化されているんでしょうか。

ホツマ、宮下、ウエツフミなどに散らばっているものを拾い集めていけば、真実は見えると信じています。
だけども、記紀でもなんでもそうですが、盲信してはいけないような気がしますので、よい方向で歴史の再構築ができるといいですね。(^-^)

582 Re:補足 ピンクのトカゲ 2002/09/19 12:39

古墳誰時さん
>
> >神武(ジンム)
> >
> > 崇神の行跡を神話的に反映させた人物。その源流(ルーツ)は、韓半島。

拙稿お読みくださり有難うございます。

583 ホツマの瀬織津姫讃歌 風琳堂主人 2002/09/20 04:52

 さかなさん
 小・中学生用の語彙辞典ならばともかく、初出用例を示さない辞書が増えてきているとすれば、それは問題です。広辞苑4版が、そういった方針で編集されているとしますと、岩波は出版姿勢にヤキがまわったといわれても仕方がありません。広辞苑といえば、かなりの厚さと値段です。その普及性は、「国民的」と称される類の出版物です。ある意味、日本の辞書を代表する伝統ある出版物だったはずです。一般化された言葉の意味や使い方を示しておけばそれで足れりとする編集方針で編まれたとしますと、これは辞書のハウツー化を是認・促進するものとなります。字源・語源・初出用例をおろそかにする編集感覚は、まさに「辞書の奢り」というしかなく、わたしが出版社のシャチョーならば、その編集責任者は「喝!」です。読者を舐めていると評されても文句はいえません。
『先代旧事本紀』ですが、タイミングの悪いことに、出版社(批評社)から「品切れ」の通知がきました。急いで読みたければ、古書で探すしかないようです。

 古墳誰時さん
 瀬織津姫について、ホツマ最新研究のなかで新しい像がみえてきたら、またいらしてください。ヤマト側の諸書が瀬織津姫を祟り神・悪神扱いしているとき、ホツマ一書のみが、この女神を、優雅で慎みあるやさしい神、民に慕われる神と描いていたことは画期的なことです。

瀬織津姫の慎みに民のなす業身を砕き働くとても心向く(ホツマ第十六章)

 ホツマにおける、その他の神々の生成等には異論がありますけど、この瀬織津姫讃歌の表現を先駆的になしていたことで、ホツマは後世に誇ってよい書だとわたしはおもっています。

 トカゲさん
 記紀の解読・解体の第二ステージにはいったのかもしれません。じっくり、確実にいきましょう。

584 お久しぶりです 九州の龍 2002/09/22 00:15

しばらくの間、日本古代史の調査をしておりました。いやー。日本という国は、隠す国ですね。呆れてものがいえません。

585 「隠す国」の話 風琳堂主人 2002/09/23 13:11

 九州の龍さん、「日本という国は隠す国」──ご指摘、その通りだなとわたしもおもいます。
 国家というのは多かれ少なかれそうですが、日本は特に「国体護持」という、いわば、天皇を「蛙の臍[ヘソ]」(遠野某氏談)みたいに真ん中に置いて、この1300年という時間をつくってきていますから、その水面下で「臍」の護持のために多くのことが隠されてきているのでしょうね。こういった蛙の臍の建国思想が、近代国家の顔と鵺[ぬえ]的に癒着して前面に打ち出されてきたのが明治で、「臍」が「国民の心の拠り所」となるのも、明治以降の「教育」の結果かとおもいます。
 この国体護持の象徴的神社が、表は、皇祖神をまつるとされる伊勢神宮、裏は、元は幕末の「官軍」の戦死者への慰霊社からはじまる靖国神社です(「賊軍」の慰霊社はどこにあるのでしょう)。全国約8万神社を統括する、巨大な宗教法人が神社本庁(伊勢神宮を本宗と仰ぐ)で、その国体護持の思想を国政に反映させようとするのが神道政治連盟。この「連盟」に賛同してできたのが神道政治連盟国会議員懇話会で、その会長が、前総理大臣の森喜朗、副会長が小泉純一郎でした。現閣僚の何人かも、この懇話会に所属しています。
 この国体護持の思想は、本質的にテロリスト・テロリズムを内蔵しています。日本では「自爆テロ」というところを「鉄砲玉」「特攻隊」という漢字表記になります。組織末端の「鉄砲玉」たちは消耗品で、組織上層部はいつも安全地帯にいるというのは、いわばギャングの組織と一緒かもしれません。日本がアメリカと付和雷同して「テロと戦う」というなら、自らの足元もみたほうがよいだろうとなります。テロが「非文明社会」の産物という規定がなされるとするなら、日本はまさに「非文明社会」を内蔵していることになります。自らがテロリストのトップともなりうる人間が一方で「特攻隊」に涙して、一方で「テロと戦う」という、この論理矛盾に気づかない不思議の国が「日本」というべきでしょうか。
 テロリズムが国家規模で発現したものが「戦争」ですが、国家の意志表示としての戦争はテロリズムといわれずに、「正義の戦争」となります。「正義」が相対的な観念であることに、冷静でいたいものだとおもいます。
 国家的なテロリズムを体現する国と、テロリズム国家を内蔵する国が「国交正常化」するとしても、それはどっちもどっちもの国家癒着だなと、ここ数日の「ニュース」を見ていておもったのでした。国民個人個人の生命よりも「国体護持」を優先する国が「日本」だというのは、たとえば、アメリカが戦後体制における国際的優位性を確保するといった思惑・事情はあったにしろ、1945年の広島・長崎の原爆投下を招来した「御前会議」の経緯によっても明らかで、「日本」の国体の体質は相変わらずというところでしょうか。
 幕末ですと官軍・賊軍の色分けがなされますけど、古代には賊軍は「鬼」と呼ばれていました。明治期、日本の国家像を決定したのは、「官軍」のトップたちと、彼らが認定した一部の有権者(1%の国民=臣民)でした。その他99パーセントの民草が、「臣民化」「皇民化」の対象となります。歴史教科書は、アジア各国の「皇民化」しか記しませんけど、日本国内に対して、まず徹底した「皇民化」がなされてきたことを書くべきでしょうが、それをしている教科書は皆無です。これも「隠す国」の話です。自分も、「鬼」の末裔であることを隠しません。

586 熊本の多婆羅国 九州の龍 2002/09/23 21:00

以前お知らせしました、私の実家に伝わる、男女2体の『龍の冠』を被った王と王妃らしき人形に関する件ですが、朝鮮の史料によると、古代の熊本には、多婆羅国tabaraという国がありまして、別名『龍城国』というそうです。何となく龍宮城をイメージする国名です。熊本には、玉名tamanaや田原坂tabaruzaka(たはらとは読まず、なぜか、たばると読みます)の地名があり、私の親戚には田原taharaがいます。

こういった貴重な史料を、朝鮮総督府は闇に葬ろうとしましたから、とんでもない連中です。

587 肥前・肥後は「一つの国」 風琳堂主人 2002/09/25 08:26

 九州の龍さん、韓国統監府→朝鮮総督府による、朝鮮側の史料に対する焚書行為はかなりひどいものだったようです。日本側の記紀研究の学者では、たしか黒板勝美が中心だったかと記憶しています。
 龍さんがいわれている「朝鮮の史料」がなんなのかわかりませんけど、古代熊本には、「多婆羅国」、別名「龍城国」があったというのが事実としますと、たしかに「龍宮」のイメージも喚起されてきますね。
 肥前国(佐賀)と肥後国(熊本)は、もともと「一つの国」(火の国)だったというのは、肥前国風土記や肥後国風土記(逸文)が記すところでした。地図帳をパラパラみていて気づいたのですが、地名の「〜原」を「〜ばる」と読ませているのは、熊本でいいますと、阿蘇山を中心とした地域によくみられるようです。また、「〜ばる」は、沖縄にもたくさんみられる地名ですね。ヤンバルクイナという鳥の名も浮かびます。
 琉球も、龍宮・龍神信仰が古くからあり、かれら海洋農耕の民は、中国江南あたりから黒潮に乗って南島経由で北上し、有明海あるいは八代湾あたりにやってきたかもしれないななどと想像したりしています。
 阿蘇の地主神が「阿蘇都比刀vだとしますと、肥前国の「荒ぶる神」とされていた川上神=与止姫=世田姫と同神の可能性もありそうです(肥前・肥後は「一つの国」)。阿蘇の開拓神は「健磐龍命」とされ、その対神とされる阿蘇都比唐フ父神も「国龍神」だそうで、どちらも「龍」を神名に含んでいることは、なるほど「龍城国」にふさわしいのかもしれません。神武神話に付会した「由緒」の表層を除去しますと、龍神信仰がコアの部分に残るとみてよさそうです。そして、この熊襲の国においても、女神・男神の陰陽神が中心の神々だということが、きっとなにごとかなのだとおもいます。
 阿蘇山には、東国・鹿島の先住民が東征軍=建借間命によって滅ぼされたとき、その「計略」としてつかわれた「杵島曲[きしまぶり]」(肥前国風土記)=「杵島ぶりの歌曲」(常陸国風土記)の歌と関わるであろう、杵島岳(阿蘇五岳の一つ)という山名も注意をひきます(「杵島曲」については、囲炉裏夜話408「龍神と杉と瀬織津姫」を参照してください)。これなども、肥前・肥後国は、もともと「一つ」ということを示しているのかもしれません。
 そういえば、この「杵島」の字を含む宗像の女神がいますね。市杵嶋姫命──。

588 東表国 九州の龍 2002/09/25 23:48

朝鮮半島・大陸の史書の原書を読んだわけではありませんが、関連する書物を読みますと、九州大分の宇佐八幡宮の地は、かつて『東表国』または、豊日国、豊国という日本最古の国があったそうです。邪馬台国よりも古く、BC1000年頃の縄文時代ですから驚きです。九州大学の教授が、この地の製鉄遺跡からBC700年頃の鉄文化の存在を立証し、考古学界の定説を覆しました。しかし、この遺跡を隠そうとする動きもあったそうです。やはり『隠す国、日本』です。

589 宇佐神宮の元宮 風琳堂主人 2002/09/26 15:00

 各地の豪族が服属儀礼として「女」を差し出す、貢ぐといったパターンを学論的に語ることはできますけど、景行天皇については、あまり真面目に取り上げるとバカみたいといえるくらい色好みの描写がなされています。書紀は合計で80人の子を各地でつくった、しかも「容姿端麗」を選んでといった条件がときどきに記されていますので、この天皇はメンクイの好みが強かったようです。このプレイボーイ天皇を、「私の性質は交接のことを望みません」と袖にしたのが美濃の「弟媛」とされます。書紀は、「弟媛が考えるのに、夫婦の道は古も今も同じである。しかし(景行に)ああかこうか問い質すこともできず困る」と書いています。弟媛は、自分の代わりに、姉の「八坂入媛」を「顔も良く志も貞潔です」と推挙すると、景行はあっさりと八坂入媛に乗り換え、彼女との間に「七男六女」をもうけたとされます。
 書紀は「七十あまりの御子は、みなそれぞれ国や郡に封ぜられて、各国に赴かれた。だからいま諸国の別[わけ]というのは、別王[わけのみこ]の子孫である」と、天皇との遠い血縁を保証するわけです。景行条は、書紀の編集・創作思想がもっている統治の方法・考えがよく表れている箇所ですが、書紀の編纂時点からははるか「昔」の話なので、景行を揶揄するエピソードも挿入できたのでしょう。
 この景行が九州に征旅をしたとき、その最初に出てくるのが、また、最初に帰順表明をしたとされるのが、「その手下は非常に多く、一国の首長である」とされた「神夏磯媛」という女性首長でした。この神夏磯媛の治めていた地が、どうやら「東表国」=「豊日国」「豊国」にあたるようです。宇佐の謎の比売神、その系に属するのがこの神夏磯媛としますと、書紀は「鉄」の記載をあえてしていないことがわかります。宇佐神宮の元宮とされるのが、奈太宮=奈太八幡社(大分県杵築市奈太)ですが、ここの前の浜は砂鉄の浜でした。
 国東半島の中心の山は両子[ふたご]山で、この山の頂き近くには走水観音や、南麓の大田村小野の地には比岐神社(祭神:瀬織津姫)があって、これらと、宇佐神宮との関係を調べてみたいものとおもいながら、そのままになっています。また、中津市には、闇無浜神社(祭神:豊日別国魂神、瀬織津姫神、ほか宗像二女神など)もあり、「豊日国」をよく伝える祭神名がここにみられます。あと、湍津姫が単独で降臨したとされる八津島神社(速見郡日出町)も、当然「豊日国」のエリアですから、これらも宗像→宇佐の神を考えるときに大きなヒントを与えてくれる神社かとおもっています。
 縄文製鉄については、東北(岩手)でも縄文遺跡の地層のすぐ上からタタラ製鉄の遺跡が出ています(上閉伊郡大槌町…釜石市北隣)。しかし、調査にきた中央の学者は「なにかのまちがいだろう」の一言で、そのままになっているようです。また、この地域(遠野の西部)の石棒には、石よりも堅い鋭利な道具をつかったとしか考えられない、精細・微細な彫刻がほどこされているものも出土していて(東和町博物館に展示)、わたしは、縄文期には、そのアート感覚の豊かさとともに、鉄文化がすでにあった可能性はとても高いと考えています。宇佐地方あるいは豊日国の鉄文化の古さ(BC700年頃)も、それは「ありうる」という印象ですね。

590 神夏磯媛 九州の龍 2002/09/27 16:26

前から、若宮神社は気になる神社でした。インターネット上に、『香春岳西麓に、若宮神社がある。現祭神は仁徳であるが、元は神夏磯媛を祭った神社である。』この地の伝承が、記紀の元になったものである。とありました。

以前、瀬高町にある若宮神社を訪ねました。事前に、祭神が瀬織津姫であることは知った上での訪問です。現地での祭神に、仁徳天皇の名がありました。神夏磯媛=瀬織津姫でしょうか?

591 広田神社と具足塚 クミコ 2002/09/29 19:20

風琳堂御主人
長らくご無沙汰しました。
時々覗かせていただきながらも、敷居が高くてなかなか寄せていただけないまま随分時間が経ってしまいました。
いろいろなご指摘やご紹介の伝承、時々ドキッとしながら拝読させていただいております。
この度は
>瀬織津姫の塚
にドキッとして、「西国街道」(向陽書房)という本を開いてみますと広田神社と具足塚という見出しで簡単な説明がありましたので、瀬織津姫の塚ではないでしょうが、写しますね。

山崎からほとんど西南へ斜め一直線に進んできた街道が旧広田村をすぎる御手洗川をわたると、急に南へ方向を変えて西宮へ下って行く。その橋を渡らないまま川上へ約二百メ−トル、高座橋を左に見て二、三十歩のところを右に登る坂が三方に分かれている中央の道をわずかに登ると左に石段があり、民家にいき当りそうになるのを避けて左へ登ると頂上に大岩がころがっている。それが具足塚である。昭和四十九年夏、西宮市が発掘調査して詳しい報告書が出版されているが、南に口を開いている羨道部はかなり崩れていて、玄室の上は天井石が大きく、中の土を取り去ったので原形がはっきり分かる。そこからガラス玉107個、武器 装身具 馬具など金属的なもの59点、土器42点など多数の遺物が掘り出された。丘を利用して作られた古墳であるが、そこに立つと南、西、東と三方は広く遠望できる地点で、昔の人は神功皇后が新羅征西の帰途武具を納めたところだといって鎧塚だともいわれていた。ここを中心に南北西の方に近く遠く多数の古墳や、もう少し古い弥生時代の遺物が出ていて、遠い歴史の跡を残している。その一つとして広田神社も数えられるであろう。
 千五十年前に「名神大社」と記録される広田神社は具足塚から西南へ直線距離三百メ−トル、馬場に三百メ−トルの松並木を残している大社である。養老四年(720)には完成している「日本書記」の中に「神功皇后が新羅の国へ遠征の帰り、謀叛を起こす皇子の情報を知って紀伊の港に直行しようとしたが、難波に近づくと舟がぐるぐる廻るばかりで進まない、やむ得ず務古の水門まで後戻りして占いをすると天照大神のお告げがあって、わが
荒魂をば皇居に近づくべからず、常に御心広田の国に居らしむべしと教えられた。出征の前には和魂は王身に服ひて寿命守らむ、荒魂は先鋒として御船を導かむと教えた神である。それで大神の荒魂を広田にまつることにして山背根子の女、葉山媛を以って奉仕することにした。」と書いている。風や雨を司る、農民にとっては重要な力を持つ神としての信仰も永く続いている。
 平安末期に流行していた歌に、
 関より西なる軍神、一品中山、安芸なる厳島、備中なる吉備津宮、播磨に広峯惣三所、淡路の岩屋には住吉、西の宮。
 わが子は二十に成りるらん、博打してこそ歩くなれ、国々の博党に、さすが子なれば憎かなし、負い給うな王子の住吉、西宮。
 神のめでたく現ずるは、金剛蔵王はく王大菩薩、西の宮、祇園天神大将軍、日吉、山王加茂上下。(「梁塵秘抄」)
 平安時代まで、西宮は広田神社のことで、現在の西宮は南宮と呼ばれていた。霊験ある神として庶民はもちろん、貴族にまで篤い信仰を受けていたこたは、都の貴族の社参や歌合せ、頼朝の平家討伐戦勝祈願の寄進などによっても知られる。
 今は広壮な社殿が新築されたが、周囲に民家が密集してくる中で、境内の丘一帯に自生する「コバノミツバツツジ」という植物学者のいうつつじが季節には美しく咲き。県はこれを天然記念物として指定している。

この「コバノミツバツツジ」の群落は四月下旬頃にいっせいに薄紫色の花をつけ、一帯が紫雲がたなびいたようになるそうですよ。
「紫雲たなびく」とはこの花のことなのでしょうか?

ところで真中の歌の意味がよくわからないのです。
それに「山背根子の女、葉山媛」とか出てくると全然分かってないので
風琳堂御主人よろしくご教示おねがいいたします。

592 宇佐神宮の元宮U 風琳堂主人 2002/09/30 04:14

 クミコさん、こんばんは。
 紫雲=瑞雲から、ひょっこり顔を出している龍と水の女神のイメージが湧きました。
 天照大神荒魂(=瀬織津姫)を広田の地にまつる役とされる「山背根子の女、葉山媛」については、わたしもその素性についてはわからないです。これはトカゲさんの系図資料と分析の力を借りたいところです。具足塚についても意見を控えます。
 平安末期の「今様歌謡」を集めたのが『梁塵秘抄』ですが、引用分で少し気になることもありますので、メモしておきます。

■軍神とみなされた神たちT
関より西なる軍神、一品中山、安芸なる厳島、備中なる吉備津宮、播磨に広峯惣三所、淡路の岩屋には住吉、西の宮。

 ここで「一品中山、安芸なる厳島」とされるのは厳島神(手元の本では「一品中山安芸なる厳島」と「、」がありませんので、ここは厳島神=宗像神とみておきます。「備中なる吉備津宮」の「吉備」なのですが、本の注によりますと、原本では「たひ」とされているようです。「備中なるたひ津宮」が原本となりますと、これは「備中なる滝津宮」(吉備津神社内にあり)と考えられ、としますと、ここの神は瀬織津姫となります。「播磨に広峯惣三所」の「広峯」がどこのことかわからず、これは保留。「淡路の岩屋には住吉、西の宮」の「淡路の岩屋」と「住吉、西の宮」が重なるのかどうかはわかりませんけど、少なくとも「西の宮」=廣田神が「軍神」とみなされていることはわかります。保留の「広峯惣三所」の神と、男神の住吉神を除きますと、残りの厳島神、滝津宮の神、廣田神の三女神が「軍神」とみなされていることがわかりますが、これら三神が瀬織津姫の異名であることは興味深いです。
 ちなみに、『梁塵秘抄』は「関より東の軍神」も記しています。

■軍神とみなされた神たちU
関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、また比良の明神安房の洲、滝の口や小【朱線消去】熱田に八剣、伊勢には多度の宮。

 本の注は【朱線消去】の元文を「野ゝミヒテ」としています。「滝の口や小野ゝミヒテ」としてもよくわかりませんが、「滝の口」の小野神ということかもしれません。多摩・小野神社の祭神は瀬織津姫ですし、鹿島神(元神=荒祭宮神)、諏訪神(女神)も瀬織津姫ですから、いかに「軍神」として瀬織津姫が重視されていたかがわかります。もっとも、瀬織津姫の名を表にださずに、その神威のみはいただきたいということですから、調子がいいというか、ご都合主義の話です。
 二つめの歌──。親を捨て、今は二十歳になったであろう博党(博打打ち)のわが子、しょうもないやつだが、住吉、西宮の神よ、どうか見捨てないでくれといった内容でしょうか。
 三つめの歌──。「神のめでたく現ずるは、金剛蔵王はく王大菩薩、西の宮、祇園天神大将軍、日吉山王賀茂上下」の「金剛蔵王はく王大菩薩」ですが、これは、役小角念出の「金剛蔵王権現」と泰澄念出の「白王」=白山妙理大権現のことかなとおもいます。両権現、もとは同一神ですから、並び称して不思議はないといったところでしょうか。「日吉山王」の奥宮神(女神)は「玉依姫荒魂」とされますから、これも「賀茂上下」と並べることに無理はありません。
 軍神、めでたき神として廣田神=西宮神が認知されているわけですが、一方、『梁塵秘抄』は、吉備津神社の丑寅御崎神を「恐ろしや」とも歌っていたのでした。瀬織津姫が両刃の神威をもっていることは、朝廷の祭祀責任者がもっとも強く認識していたこととおもいます。そのよい例が鳥海山の神(大物忌神)でした。厚くまつらないと、この神は蝦夷の側に加担してしまうという認識が、大物忌神(=瀬織津姫)を破格に優遇祭祀する、せざるをえない理由でした。

 九州の龍さん、宇佐神宮の元宮とされる奈多宮(「奈太宮」はまちがい)について、地図帳でその鎮座位置をたしかめていて気がついたのですが、奈多宮の前には、岩礁くらいの小さな島なのかもしれませんけど、その島名が「市杵島」とあります(厳島とも記す)。宇佐の大元神=比売大神が宗像神とみられることと関係するネーミングです(あとからの付会的な命名かもしれませんので、断定はしません)。
 景行が人皇天皇だとしますと、この人物と同時代の女首長=神夏磯媛を、瀬織津姫と、無媒介に等号で結ぶのはむずかしいかとおもいます。また、瀬織津姫そのものが「首長」として多くの「手下」をもっていたというのも、瀬織津姫の物語化(後世の奥浄瑠璃などに顕著)ならばともかくですが、イメージ的には少しずれるなという印象があります。ただし、宇佐神を、いつきまつる女首長としてはありえますね。
 ところで、香春[かわら]岳と神夏磯媛が関わるとしますと、もうひとつの宇佐神宮元宮ともいわれる香春神社(不比等存命中の元明天皇和銅二年=709年に創祀。延喜時代の社名は辛国息長大姫大目命神社)の三祭神(辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命)の「豊比売」に、宇佐の大元神、比売大神が重なってくるのかもしれません。「豊国」「豊日国」の女神であることを、この「豊比売」という神名はストレートに表しています。香春大神は新羅神ともいわれるのは、祭神の一神である辛国息長大姫大目命の「辛国」にみることができますが、ここは、宇佐比売神に八幡神がかぶる、並祭される基点となる神社かとおもいます。香春神が鉱産神(香春岳北の銅産に顕著、まさに「和銅」の神)ともされるのは、八幡神が「海神」を基層神・核神にもつものの、新しい鉱産神として天日槍・天之日矛なども二重イメージ化して成立した神だということ、つまり、それが新羅神の「新羅」の意味だろうと理解しています。
 また、豊比売=豊姫は、肥前国においては、川上神=世田姫=淀姫の異称でもありました。肥前の「荒ぶる神」でもあったこの女神は、宗像の「珂是古」によって鎮祭される神であったわけで、そこに宗像神の改竄→流浪する女神の姿が投影されてもいました。また、この川上神は肥後国においては阿蘇都比唐ニ同神の可能性もあり、としますと、豊姫という神を奉祭するエリアは、かなり広大であったことになってきます。
 香春岳は、ここも三岳からなりますが、最北の三ノ岳の神が豊比売命とされます(ちなみに、一ノ岳=辛国息長大姫大目命、二ノ岳=忍骨命)。ここで興味深いのは、『大宰府管内史』によりますと、「豊比売命は香春神社の祭礼の時だけ香春神社にいて、祭礼が終わると採銅所(三ノ岳北の地名)にある、俗称、「古宮八幡宮」に帰社する」とされることです(HP「豊後国新風土記」)。そして、さらに興味深いのは、この古宮八幡宮の旧跡地が「阿曾の隈」「古宮の森」と呼ばれていたことです(神奈備さんは、阿蘇隈宮の後裔が古宮八幡神社としています)。
 豊比売と「阿蘇」が無縁でないことがここからわかります。紀元前1世紀頃、「百余国」に分かれていたとされる「倭」ですが(漢書地理誌)、これは、同系豪族の分割統治だったのでしょう。もとは、この豊姫という謎の女神と、日神を奉祭する広大な圏域が存在していたのではないかともおもえてきます。日神(天照大神)の第一子である天忍穂耳尊が、この香春岳の祭神の一神として「忍骨命」の名で伝えられていることを重要視しますと、日神と豊姫と呼ばれる女神を共有信奉する世界が存在していたことを想定したくなってきます。
 日神をまつる、あるいは日神に仕える卑弥呼(=日巫女)に、神夏磯媛はつながっていくのかもしれません。記紀が記載を躊躇し、記載を忌避した卑弥呼の存在は、結果、神功皇后に擬せられることになります。しかし、記紀の編纂者の発想とはまったく異種の神まつりをしていたのが、卑弥呼(たち)だったのでしょう。卑弥呼が仕えた日神は、皇祖神(女神=天照大神)とは別の、男神である日神=太陽神であったことが考えられ、それゆえに、記紀は卑弥呼の存在を記載しなかった、記載できなかったとみることもできます。
 香春岳の頂きの「神池」(豊前国風土記逸文は「頂上に沼がある」と記す)に、消えた水神(三ノ岳に後退か)の痕跡がみられるのかもしれません。この消えた水神が豊姫、あるいは三神化される前の宗像の女神としますと、多くのことが、辻褄があってきます。
 祭神が神夏磯媛から仁徳に変更された、香春岳西麓の若宮神社──。この社の近く(西)の彦山川沿いには、つまり、香春岳の川といってよい金辺川が彦山川(風土記の記載は「真漏[まろ]川」「この河の瀬は清い。それで清河原の村と名づけた。いま鹿春の郷といっているのは訛ったのである」)と合流する<川合>の地には、瀬織津姫を本殿配祀神としてまつる菅原社=天満宮もあります。なお、金辺川の「川上」に、あの豊比売の社である阿蘇隈宮=古宮八幡神社が位置しています。
 少なくとも、肥前国における川上神=豊姫=淀姫、および、宗像女神(宇佐神宮=八幡宮の比売大神)が瀬織津姫であることは、ほぼ断定してよいと考えられます(記紀においては、天照大神と対神を構成する瀬織津姫=宗像女神は三神化され、つまり、曖昧化の記述が意図的になされます)。謎の豊姫の奉祭範囲は九州全体にまで拡大して考えることができそうですが、これはまだ断定の手前です。ただ、古代九州が「比売」の国であったことは、卑弥呼の存在からというのではなく、やはり「豊姫」の存在によっていえそうかとおもっています。このことは、7世紀後半から8世紀初頭にかけての隼人の一連の蜂起で、彼らは大隈、日向に七つの「城」を築いていたとされますが、そのうちの最強の二城の一つが「比売乃城」と呼ばれていたことからもいえるかもしれません(あとの一つは「石城[いわき]」…宇佐八幡託宣集)。
 そういえば、『梁塵秘抄』(平安末期)における「西」の「軍神」には、八幡神は記述されていませんでした。しかし、720年の、大隈隼人の蜂起制圧の加護をヤマトが祈ったのは宇佐神でした。このときの宇佐神は、のちに武神とされる八幡神というよりも、東の最強の軍神=鹿島神に秘められた荒祭宮の神と同神である、宇佐の大元神=比売神であったことが考えられます。
 源平の戦いのとき、源氏が必勝祈願をしたいくつかの神のうちに廣田神がいました。一方、平家方の祈願神は厳島神でしたから、源平両者とも同一の神に祈願していたことになります。神は、いずれにも与しなかったというのがほんとうのところでしょう。
 なお、豊姫=淀姫は神功皇后の「妹」とされたりしますけど(肥前国・与止日女神社)、豊姫あるいは日神をまつっていたであろう神夏磯姫が景行時代に記載されていますので(日本書紀)、景行のあと(成務→仲哀のあと)に、神功皇后が記載されることを考えますと、豊姫=淀姫が神功皇后の「妹」であるというのは時間的に矛盾し、成立しません。これは、藤原宇合あるいは中臣祭祀によって、のちに強弁的に主張された偽説とみるしかなさそうです。

593 齋殿(ときどの)神社 クミコ 2002/09/30 20:52

御主人ありがとうございます。
具足塚古墳は六世紀後半頃のものらしいのです。神社との関係を探るのは難しいですね

以前、広田神社末社 齋殿神社の説明をメモしたものが出てきましたので書いておきます。

御祭神 葉山媛命

神功皇后 廣田神社御創建の際 皇后の命をうけて天照皇大神之荒魂を御心廣田の国に鎮祭された最初のいつき宮で四月八日の祭日には歴代の神伯白川氏はとくに深い関心を有して参拝されたことが伯日記に散見される
古くより廣田神社の東北御手洗川畔に鎮座されたが享保12年遷座にあたり當社も境内西山に遷座し明治44年末社松尾神社に合祀せられ更に今度の廣田神社本殿の復興に際し一字を設け祭祀厳修することになった。

走り書きのメモで誤字、脱字があるかもしれません。
以前書きました甲山 そばの神呪寺と越木岩神社 それから
越木岩神社近くに、空海が鷲におそわれ櫻の霊木に封じ込め、その木で十一面観音を彫り本尊とするという鷲林寺もあります。
ここはまだ行ったことがないので行ってみたいと思っています。
この辺りの事をもっとていねいに調べられたらよいのですが、なかなか力がおよびません。
芦屋からこの辺りまで以外に近くて八十塚古墳や上ヶ原出土古墳など古墳が点在しています。あちこち気になると迷子になってしまいますが、その時にはまた助けてくださいませ。

594 神有寺=中山寺の秘神 風琳堂主人 2002/10/01 07:16

 クミコさん、こんばんは。
 梁塵秘抄の「関より西なる軍神」の「一品中山」は中山寺のことではないかという指摘をトカゲさんからもらいました。厳島の対岸部に中山の地名もみられますが、「一品」という表記を読み飛ばしていたようです。なるほど、中山寺の秘神が「軍神[いくさがみ]」とみられることは同寺の縁起からかすかに透けてみえてきますね。それと、この寺の山号は「紫雲山」で、紫雲たなびくのは中山寺が「本家」かもしれません。
 中山寺は聖徳太子創建と伝えられる古寺ですが、この寺の鎮魂・鎮霊の対象は、聖徳太子や蘇我馬子によって滅ばされた物部守屋とも、神功皇后・応神に敵対したため、武内宿禰(日本書紀)あるいは難波根子建振熊命(古事記)によって追いつめられ、琵琶湖(淡海)に入水自害をとげた忍熊王(仲哀后・大仲津姫の子)ともされます。
 中山寺に隠された神ということで、まず表に出てくるのが、この忍熊王と物部守屋(物部氏本流)ですが、同寺の縁起で印象深いのは、聖徳太子が守屋の怨霊・悪鬼に悩まされていたとき、夢に仲哀天皇の后・大仲津姫(神功の前の后)が現れ、「この地より北に紫の雲のたなびく地がありますので、その山に寺を建て亡き人々をお祀り下さい。悪鬼も鎮まるでしょう」と告げたことです。この縁起の言葉をそのまま受け取りますと、無念の死を遂げた忍熊王ではなく、「亡き人々」という無名の複数の「人々」を祀れといっていることになります。この複数無名の怨霊には、忍熊王やその兄の香坂王も含まれるでしょうが、もっと広い意味をもった夢告であった可能性があります。
 中山寺の本尊は十一面観音菩薩で、ここは花山ゆかりの西国三十三観音巡礼の二十四番札所でもあります。花山は、ここを基点に、長谷寺の徳道上人の遺志を継ぐかたちで西国三十三観音巡礼を復興し、同寺を「根本道場」としたとされます(このため、花山は西国巡礼の「中興の祖」といわれます)。熊野那智の青岸渡寺が一番札所、最終の三十三番札所は美濃の華厳寺ですが、三十三ヶ寺の「根本道場」である中山寺に、その特殊神事である「星下り祭」(西国三十三霊所の神々が星になって中山寺に集まる)が伝えられること──、このことは、中山寺が、いわゆる根本道場の「根本」たる寺だという意味はなにかということを考えさせてくれます。
 中山寺が三十三箇所の観音に化身した神々が集合する寺だとしますと、ここには、那智(青岸渡寺)から、また谷汲山(華厳寺)から、そして竹生島(宝巌寺)からも、観音に化身した神がやってくることになります。
 三十三ヶ寺すべての霊場を調べたわけではありませんけど、上に例として出した寺々の観音には、少なくとも瀬織津姫が秘められています。那智、竹生島、谷汲山──。
 これは、たいへんなことを意味していることになります。かんたんにいえば、中山寺は、各地の観音に化身した神として、瀬織津姫の分神たちが集合する寺だということになるからです。 
 中山寺は、出雲の「神有月」にならっていえば、「神有寺」となります。出雲に各地の国津神が年に一度集合するように、中山寺には、各地の観音に秘められた神が年に一度集まってきます。中山寺奥の院が、この地に各国津神を分散してまつる中心寺であることも、故なしとしないというべきでしょうか(HP「中山寺の星下り」)。
 各地の瀬織津姫(たち)が集まる中山寺──。梁塵秘抄に「軍神」とみなされていたとしても、まったく不思議はないという話です。

595 八女津媛 九州の龍 2002/10/01 17:40

風琳堂主人

直感ですが、筑後地方には若宮神社が多いですね。しかも、矢部川付近に多い。川を上流に上っていくと、八女津媛神社があります。瀬高町の若宮神社には、瀬織津姫が祀ってあり、何となく瀬織津姫と八女津媛の関連を感じとりますね。

596 すみません 下茂 もりひろ 2002/10/02 02:01

はじめまして!!
革命音楽集団ProtoBeatJapです。
ロック,テクノ,ヒップホップを混ぜたような
曲やってます!!
ぜひみて見て下さい。

597 日向神と八女津媛 風琳堂主人 2002/10/02 06:15

 矢部川流域の若宮神社の祭神は「水波売命」が多いのではないでしょうか。この祭神名は、水神社などにもみられるようですね。矢部川上流には「日向神ダム」ができて、おそらく、大事な水神・滝神が、ここにも沈んでいるのかもしれません。ダム湖の名に端的に表れていますように、八女津媛は「日向神」でもあるのでしょう。
 日本書紀景行条は、「水沼県主猿大海」の奏上の言葉として、「女神がおられます。名を八女津媛といいます。常に山の中においでです」とし、この八女津媛については、宇佐の「神夏磯媛」のように女首長ではなく、神(「女神」)と明記しています。この書紀の記載は「八女」の地名潭ともなっていきますが、しかし、「八女」は、八乙女の略か、あるいは、水波売=ミズハメの「はめ」からきているのかもしれません。
 矢部川河口部では、若宮神社に瀬織津姫は合祀されていましたが、瀬織津姫の名は、中流域では、立花町田形と黒木町湯辺田にあります「釜屋神社」二社の主祭神として確認できます。この釜屋神社二社を遡りますと、天戸岩からはじまる「日向神ダム」を経て、八女津媛神社(矢部町「神の窟」地区)に出ます(源流の峠あるいは猿駈山を越えますと、出雲岳が聳えています)。
 八女津媛神社の創建は、書紀の八女津媛の記載時代とはちがって、時代はずいぶんと下ることになる、719年(養老三年)とされます。つまり、日本書紀の編纂の真っ最中に創建されたことになります。
 八女津媛神社の興味深い神事に「浮立」があります。これは豊作祈願あるいはお礼の神事かとおもいますが、この「浮立」の奉納神事を同じくもつ興味深い神社が佐賀県にあります。天山神社といいます。
 石見のみずちさんから教えてもらったのですが、この天山神社は、厳島、竹生島、江ノ島へ「弁才(財)天」を分祀した「本家」とのことだそうです。天山神社は、天山(1046m)そのものを神山とする神社で、おそらく、東隣の彦岳(845m)と対の関係にあります。両山は脊振山系の南の主峰といってよいかとおもいますが、彦岳山麓には、その名も「男女神社」(祭神未確認)があります(佐賀郡大和町)。
 ちなみに、この大和町を流れるのが嘉瀬川=川上川で、これまでも再三にわたってふれてきました与止日女神社=川上神社が、男女神社と同地区にあります。なお、与止日女神社近くには「地主宮天照宮」という意味ありげな神社もあります(小城町の天山神社の近くには、大日宮もあり、これらは、男女神社のように対関係にあることが考えられます)。
 囲炉裏夜話の読者の方からも、脊振山頂上の脊振神社には弁財天がまつられているという情報をいただいています。佐賀県は極端ともいえるくらい瀬織津姫の名を一社も残していない県ですが、そのことと、弁天の大元社の存在は関係があるのかもしれません。
「浮立」を共通して伝える八女津媛神社と天山神社──。八女津媛の川であろう矢部川にまつられる瀬織津姫は、天山を水源山の一つとする嘉瀬川の与止日女神社=川上神社の隠された祭神でもあるわけです。八女津媛と瀬織津姫が無縁の水神・川神と考えるほうがむずかしいようです。
 瀬織津姫のあの長い異名──撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の「向津媛」(向津日女)もまた、「日向神」を表しているとみることができます。

598 穂国とアラハバキ ピンクのトカゲ 2002/10/03 08:10

アラハバキというと東北の神をイメージする人が多いと思います。
しかし、アラハバキを社名とする神社が、東三河=古の穂国に五箇所鎮座します。
まず、第一は、三河一宮砥鹿神社末の荒羽々気社です。そして、第二は、砥鹿神社の奥宮―本宮山に鎮座する同名の荒羽々気社、第三は、国道一五一から本宮山スカイラインに入る三〇一号に道を取り次の信号の右手に鎮座する竹生神社末の荒羽々気社、一五一をさらに北上し、設楽原に鎮座する式内石座(いわくら)神社末の荒波婆岐社、そして、愛知県と長野県の県境―北設楽郡豊根村の下黒川に鎮座する熊の神社末の荒羽々気社と、合計五個所にアラハバキを社名とする社が鎮座します。アラハバキは、東北の神というより、穂国―豊川流域の地主神と言っていいかと思います。

穂国の荒羽々気社について整理するとともに、穂国のアラハバキ神に限りという条件付で話を展開させていただきます。

まずは、現在あげられているアラハバキについての諸説を紹介します。

従来からの説としてあげられるのは、地主神あるいは門神とする説、賽の神とする説です。
これに対して、吉野裕子氏は、ハバは蛇のことであり、蛇神としています。また、近江雅和氏は、インドの古代神「アーラヴァカヤクシァー」が日本に入ってきてアラハバキ神になったとしています。
一方、盟友・風琳堂主人は、朱桜の古名の波々伽と関係するのではとしています。
そのほか、「東日流外三郡誌」では、長髄彦と関連付けたり遮光器土偶と関連付けたりしています。

穂国のアラハバキ社の祭神を見てみますと、豊根村及び竹生神社の荒羽々気社では荒御魂と、砥鹿神社の荒羽々気社は、里宮、奥宮ともに「祭神」の荒御魂としています。一方、石座神社末の荒波婆岐社は、祭神を豊磐窓、櫛磐窓としています。

石座神社の荒波婆岐社を除き、荒御魂というのが、その実体のように考えれます。
砥鹿神社里宮の荒羽々社は、「砥鹿神社誌」によれば、江戸時代中期までは、個人により奉祭されていたとされますから、この「祭神の」という断り書きをどう読むかです。
砥鹿神社の祭神は、大己貴命あるいは大物主神といわれていますから祭神の荒御魂ということになれば大己貴命あるいは大物主神の荒御魂ということになります。
奥宮の荒羽々気社は、大己貴命あるいは大物主神の荒御魂を祭神とすると見ていいかと思いますが、単に荒御魂ということになれば、瀬織津姫=波波伽神という風琳堂主人の説が、砥鹿神社奥宮を除く東三河のアラハバキ神については、妥当ではないかと思います。

石座神社末の荒波婆岐社は、上述のように祭神を豊磐窓、櫛磐窓としていますが、古事記は、この神を天孫降臨に随伴した神とし、「天の岩戸別の神、またの名を櫛岩窓(くしいはまど)の神といひ、またの名を豊岩窓(とよいはまど)の神といふ。この神は御門の神なり。」と記載し、天岩戸別神の別名とします。
従来説の門神説は、これが根拠になるわけです。
先代舊事本紀は、天窟に坐す神として天尾羽張神(あまのおはばりのかみ)をあげ、この神の別名を稜威雄走神(いづのおばしりのかみ)だとしています。

稜威雄走神からまっさきに思い浮かべるのが、伊豆走湯権現であり、風琳堂刊の『エミシの国の女神』では、遠野の伊豆神社(祭神:瀬織津媛)は、伊豆走湯権現で修行した四角藤蔵が勧請したと書いています。
瀬織津姫と桜=波々伽木の関係については、この掲示板でも何度も触れています。
また、石座神社の祭神は、天御中主とされますが、『エミシの国の女神』でも指摘している通り、その分社(額田町石原)は、天照国照彦火明命(額田郡史)としています。
稜威雄走神=伊豆走湯権現の等式が成り立てば、やはり、風琳堂主人の説が、もっとも正鵠を射ているものと思います。

また、従来説賽の神で思い浮かぶのが、彼岸と此岸の境の三途の川の渡し守=脱衣婆です。この脱衣婆=瀬織津姫とする説もありますから、従来説も瀬織津姫というキーワードを当て嵌めれば風琳同主人と近い説に鳴るのではないかと思います。
また、近江説は、アーラヴァカヤクシァーが大元神となったとしていますが、大元神は、太一神と見れますから、太一神→荒祭宮とみれば、ここでも瀬織津姫が絡んできます。
吉野説もハバ=蛇としているわけですから、ハバキは、蛇神の宿る木ということになると思います。とすれば、蛇神=水神ということになり、水神の宿る樹=桜樹→波々伽木となるかと思います。

では、砥鹿神社奥宮の荒羽々気社をどう解釈するかです。
本宮山と瀬織津姫ということになれば、まず思い浮かぶのが、八合目あたりにある陽向の滝(陽向→天疎向津姫)です。
ここが瀬織津姫とすると、ことさら同神をもう一つ祀る必要もないでしょうから、荒羽々気神=瀬織津姫の等式も奥宮の荒羽々気神については、成立しないように思えます。
江戸時代の絵図を見ると、本殿の真裏に薬師堂が建っています。現在は、本殿と休息所をつなぐ道の傍らにある守見殿神社(祭神:和御魂)です。
薬師如来の垂迹神とすれば、大己貴命より大物主神が相当しいのではないかと考えられます。
拙稿でも触れてありますが、大物主神は、男神であり、海光(あまてらし)やってきた神とされていますからアマテル神の祖形と考えられ、その荒御魂ということになれば、消された水の女神と対で祀られていた日の男神と解釈できるのではないかと考えられます。
里宮についても祭神の荒御魂=荒羽々気社、和御魂=守見殿神社(薬師)とされていますから、同様に見ていいのではないのではないかと思われます。
となれば、里宮の消された水の女神は、どこかということになりますが、砥鹿神社の神水を司る饌川水神社(祭神:罔象女)ではないかと思います。
このように、考えていきますと、現在、竹生神社には、瀧神社(瀬織津姫)が鎮座していますし、竹生神社の荒羽々気神=荒御魂も消された水の女神と対で祀られていた日の男神と解釈できますし、石座神社の荒波婆岐社の祭神についても豊磐窓、櫛磐窓とするより祭神(天照国照彦火明命)の荒御魂と解釈できるのではないかと思います。対で祀られた水の女神は、比壺大神(壺神→甕神)となります。

「東日流外三郡誌」のアラハバキ説に触れる前に竹生神社の荒羽々気社について、もう少し触れさせてもらいます。
「千郷村誌」によれば、竹生神社の荒羽々気社は、白井家が奉祭していたとされています。
アラハバキと白井で思い浮かぶのは、菅江真澄(本名:白井英二)です。
真澄は、「えみしのさへき」で牛窪村の喜八を父母の住む近隣の人としています。
喜八は、牛窪村代田に居住しており、近隣の集落には、白山権現を産土神とする集落があります。
この集落は、吉田に飛び地をもっており、この飛び地から真澄が手習いを受けた植田義方の邸宅までは、二~三百メートルほどです。
さらに真澄の死亡を伝えたとされるのは、渥美郡入文村とされています。渥美郡には、入文村はありませんが、同じ豊川左岸の八名郡に入文村があり、ここの西隣も白山権現を産土神とする集落です。
竹生神社の荒羽々気社の旧跡の近くにも白山権現を産土神をとする集落があります。
白山権現の本地仏は、十一面観音であり、尾張葉栗郡黒田神社では、瀬織津姫=白山権現としていることは風琳堂主人が指摘しています。
真澄と白山権現との関係、さらには、白井家とアラハバキ神との関係から、隠された水の女神と対で祀られていた日の男神という仮説は、補強されるものと思います。

「東日流外三郡誌」の一つの特徴は、アラハバキ王国の王を長髄彦とする点です。
東北の覇者=安倍氏は、長髄彦の兄・安日彦の裔とする系図があります。安倍氏=安日彦の裔とする現存する最古の系図は、藤崎系図です。奥付に永承一三(一五〇六)年とあります。
三河と長髄彦の関係は、拙稿第二話で触れていますが、三河富永氏が長髄彦の裔とする伝承を持ち、野田館垣内城主となる前は、前述の石座神社の神官であったと伝えられています(三河富永系図を所蔵する富永一統の滝川氏は、石座神社の氏子であり、神官も勤めている。)。伝承によれば野田館垣内城主・千若丸が首を撥ねられ、富永氏が野田館垣内城を追われるのは、藤崎系図の奥付の前年、永承一二年のことです。

「東日流外三郡誌」は、菅江真澄(同書では、菅井真澄と表記される。)が関わっていた旨も記載されています。
「東日流外三郡誌」には、三河の伝承の伝播が考えられ、さらには、アラハバキ神そのものの伝播も瀬織津姫の北上から考えれば、三河から東北に伝播したと考えられます。

599 日向神と八女津媛U 風琳堂主人 2002/10/03 15:57

 トカゲさん、アラハバキ神についての「まとめ」をありがとうございました。
 伊勢の荒祭宮の神(瀬織津姫)が「アラハバキ姫」とも呼ばれる伝承を記録していたのは、近江雅和著『記紀解体』でした。この伝承一つあるだけでも、瀬織津姫とアラハバキ神が、濃厚密接な関係にある神々だということを伝えて余りあるというべきでしょう。
 ヤマト側の諸文献によりますと、アマテラスとしての天照大神の「荒魂」というのが、瀬織津姫の性格規定でしたが、三河においては、瀬織津姫を変名・異名化したとみることができる大己貴(砥鹿神社)あるいは大国主(御津神社)の「荒魂」がアラハバキ神とされます。
 アラハバキ神の核心=核神部分には、瀬織津姫と対関係をなす日神(男神)の天照大神の存在が埋め込まれています。「天照大神はアマテラスという女神である」とヤマト側によって決定→創祀されたときから、それまでの男神の天照大神はアラハバキ神とされる運命を歩きはじめたといえます。
 瀬織津姫は、桜神=波々迦神でもありましたから、瀬織津姫の対神の日神の名をストレートに表に出せないならば、瀬織津姫=波々迦神の「荒魂」、つまりアラハバキ神としてまつるぞというのが三河・穂国でした。この、秘してまつるしかない男系の日神は、記紀においては、大物主神、大年神、猿田彦神、さらにはニギハヤヒなどの異名をもって、まるでそれぞれが別神であるかのように記載されていますが、もとは男系の日神(伊勢の元神の一神)でした。三河・穂国は、アマテラス「荒魂」というヤマト側の瀬織津姫規定を、その表示方法を、まさに逆手にとったように瀬織津姫の異名の「荒魂」と表示をしていたこと──これはわかってみると、三河のしたたかさ、反骨の気概が、よく伝わってくるといえる表示法でした。
 アラハバキ神が東北固有の神ではないということを如実に証言しているのが三河ですが、さらにいえば、出雲においても、水神に奉納する藁の大蛇をアラハバキと呼んでいますので、どうやら蛇神の男神をアラハバキと呼ぶことは、多義を含意した呼称だというのが「アラハバキ」の実態かとおもいます。
 アラハバキ神をまつることを表化することは、伊勢の女神化された日神の思想(皇祖神の思想)に真っ向から対峙することになり、それゆえ、アラハバキ神は、長い時間(1300年間)にわたる皇化=王化によって、ワラジ=ハバキ神にまで貶められてきたというのがほんとうのところでしょう。水神が河童神とされるのとよく似ているというべきですが、アラハバキ神は河童神のように、画像化しうる如実な伝承を明確にもっていなかったため、現在、その変異の過程をたどりにくくなっているのかもしれません。
 三河・新城市の石座神社の主神は、合祀神を整理していきますと、天御中主命と比売大神の二神が残るものとおもいます。この天御中主という祭神は、明らかに記紀を意識し、記紀に迎合した、あとから表示をした(おそらく表示を強要された)神名です。三河の山奥部にまつられる石座神社分社が雄弁に語っていましたが、同分社の祭神は「天照国照日火明命」としていて、本社祭神と決定的に異なる表示、本来の表示をしていたのでした。また、本社の比売大神が「比壺大神」ともいわれるのは、たんに売→壺の類字による誤記の問題ではなく、壺=甕神としての比売大神を意味していましたから、これはこれで大きな意味を語っているとみることができます。男神の日神が神仏習合化されるとき、それは薬師如来とされることは、遠野の早池峰山がよく象徴していました(同様に、水神は十一面観音と化します)。薬師が手にもつ壺は、瑠璃の壺で、この壺=甕には瑠璃=水の精霊神がいるというイメージを喚起させてくれたのも三河・穂国でした。
 石座神社の表向きの祭神=天御中主命が、瀬織津姫=宗像神とも関わる神社を、三河からははるか西の地となりますが、九州肥前国に再度みておきます。以下は、日向神=向津媛の話の続編です。

 前回、「日向神と八女津媛」を書いたあと、石見のみづちさんから「天山神社由緒書」などを収録した資料の提供をいただきました。お礼申し上げます。
 一般に、弁財天の背後に宗像神(市杵嶋姫)がみられること──、しかし、ここにはもうひとつ「裏」がある、つまり、宗像神は伊勢祭祀の根幹に関わる神であり、それゆえに、記紀は、宗像神を三女神という分化・曖昧化することを念入りに神話創作したことが考えられます。また、持統と中臣=藤原の祭祀思想は、宗像三女神の総称神としての瀬織津姫を伊勢から分離したあと、一方で大祓神として定着を図るとともに、一方で弁財天あるいは十一面観音という神仏習合の「神・仏」としてまつりなおすという方法をとっていきます。この弁財天の大元社(の一社)ともいうべき天山神社は、要注意の社かとおもいます。同社の由緒書を読んでみます。

■天山神社由緒書
 抑々[そもそも]人皇四十一代持統天皇の御宇異国人鎮西対馬に来泊して将に異国の風俗を拡[ひろ]めんとす。因て茲[ここ]に参議藤原安弘(房前のこと…引用者)勅命を蒙りて之を退治す。時に天皇其の功を賞して晴気の里を賜ふ。民人、安弘の徳を慕ひて集り来りて天山の下に住む。是に於て天御中主命を天山の頂上に祀りて庶民擁護と為し、五穀豊饒を祈れり。年ありて然る後、文武天皇の大宝元年辛丑[しんちゅう]歳十一月十五日、白雲天山を蓋ひ、散じて本山・広瀬・岩蔵の上に至り留る。是に由りて安弘又天御中主命を此の三地に勧請して以て天山大明神と言へり。其の頂に在るを上の宮と号し、其の下に在るを下の宮と号す。

 由緒は、「持統天皇の御宇異国人鎮西対馬に来泊して将に異国の風俗を拡[ひろ]めんとす」、それゆえ藤原房前は「之を退治す」とありますが、関連する記述は日本書紀にはみあたりません。これは、藤原思想が根深くもっている反新羅感情、あるいは反新羅の思想ムードが書かせたもので、史実としては取るに足りない創作的因縁話とみるしかありません。
 こういった創作とともに、神社側が主張するこの「由緒」は、端的にいって、不比等の子である藤原房前の過剰な美化に彩られた内容となっています(同社社家は藤原房前を祖とすることが、こういった房前美化の由緒を語る理由なのでしょう)。また、房前の「徳」を慕う「民人」のために天山山頂(上の宮)に「勧請」した神は「天御中主命」とされ、また、大宝元年=701年に「下の宮」三社に同神を勧請祭祀したのも藤原房前(安弘)とされます。しかし、この由緒書だけでは、天山神社がなぜ「弁才(財)天」分祀の「本家」=大元社とされるのかはまったくわかりません。
この神社側の「由緒」にあきらかに異論を呈した書として、『肥前国古跡』(下巻)があります。同書には、「岩倉天山大明神本地弁財天は大唐国弁財天山の尊霊也」とあり、さらに、「筑前国志賀島や安芸国厳島、そして近江国竹生島、また相模国榎ノ島の弁財天も皆天山の弁財天の分霊なり」と記載されています。社名かつ山名の由来が、唐の「弁財天山」からきたものかもしれないことも想像されます。ともかく、この書には、たしかに、厳島、竹生島、榎ノ島(=江ノ島)などへ弁財天を分祀したことが記されています。
 天山神社の「由緒書」と『肥前国古跡』の記述との間には、大きな落差があります。一般常識に照らしても、宗像神をはずしたところで、天御中主命が弁天化するとはまったく考えられないことですから。
 天山神社には、上宮、下宮があるという「由緒書」ですが、現在は、小城町に巨石を神体とする中宮もあるとのことです(近くに大日宮のある社です)。としますと、この由緒書の内容は、かなり古い時代のものかもしれません。
 天山神社の現在の祭神を列記しますと、天御中主命を筆頭神とするも、ほかに、湍津姫命、市杵嶋姫命、田心姫命、倉稲魂命とされます。
 天山神社の由緒書を信じれば、宗像神(湍津姫命、市杵嶋姫命、田心姫命)と稲荷神(倉稲魂命)が「あとから」追加された印象を受けますが、これは、逆であるとみたほうがよいのかもしれません。宗像神(女神)と稲荷神=倉稲魂命とされた日神(男神)が元々の神で、持統─文武時代に、そこへ天御中主命をかぶせて、元の祭神を曖昧化したとみるべきでしょう。あるいは、元々の太陽神(消えた宗像の男神か)を天御中主といいかえてまつり、あとから稲荷神を付加して、その大元の男女二神の祭祀を曖昧化(三神化)したかのいずれかでしょう。
 持統─文武時代というのは、持統自身が紀伊の日前宮や伊勢(の荒祭宮)、および伊勢周辺の伊雑宮、滝原宮・並宮など、瀬織津姫の関係神社(の祭神)を改竄した時代で、また、大宝二年=702年(天山神社の「下の宮」の祭祀がはじまるのは大宝元年)には、三河へ一月という長期の「謎」の「行幸」(三河重要社の祭神変更をおこなう旅の可能性大)をなした時代でした(詳しくは『エミシの国の女神』を参照ください)。奈良の地を基点にすれば、肥前国(火国)ははるか西になりますが、天山神社の祭祀に藤原氏(しかも不比等の子)が直接関わっていたことは、隠された大きな意味があるとみるしかありません。
 天山神社の元々の神(の一神)は宗像女神であったことが考えられ、おそらくそれゆえに、松浦水軍(東北エミシの末裔・安倍宗任も関わる)によって、その本拠地の田島神社(現祭神:宗像三神、異称:上松浦明神)などとともに、この天山神社は厚く信奉されてきたのだとおもいます。松浦水軍は、天山神を田島神と同神、つまり宗像神という航海守護の神とみなしていたことが考えられます。航海の守護神として、北極星に擬せられる天御中主も一見該当しないでもないですが、これも、そもそも弁天化しうる神はなにかと考えれば明らかで、藤原思想がどう強弁しようとも、天御中主は似て非なる天山神というしかありません。
 なお、松浦水軍と瀬織津姫が無縁でないことを示唆するのは、この水軍の創始に、前九年役で捕虜となった安倍宗任(貞任の弟)が関わっていることです。偶然とはおもえないことなのですが、茨城県千代川村の宗任神社の境内社・手水社には瀬織津姫がまつられていますし、さらに、遠野では、宗任の妻「おない」さんが、役の戦乱から遠野へ逃げのびてきて、伊豆神社(祭神:瀬織津姫命)に合祀された伝承さえもあります(「綾織村誌」)。
 くりかえしになりますが、天山神社の「浮立」という豊作祈願の神事を、八女津媛神社が同様に伝えていること──、このことは、八女津媛もまた、宗像神=瀬織津姫であることを告げているようにおもわれます。これは遠野にいて書けるぎりぎりのことで、八女津媛もまた、「弁天」とされる可能性はあったはずと考えられますので、いつか、八女津媛神社の現地の伝承を、自分の眼と耳で探ってみたいものとおもっています。今は、九州を歩く楽しみの一つとしておきます。九州の龍さん、時間があるようでしたら、どうぞ「楽しみ」を先取りしてください。

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