3月1日(土) 濱口桂一郎氏への再反論-その1 [論攷]
降りかかる火の粉は、払わなければなりません。吐きかけられた唾は、よけなければなりません。
ということで、火の粉を払い、唾をよけるための作業を行いました。木曜日のことです。
2月28日のブログ「濱口桂一郎氏の批判に答える」http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2008-02-28はそのための作業でした。一度ならず、二度にわたって揶揄的な批判を繰り返され、「党派的だ」「党派的だ」と書かれたのでは、私としても見過ごすわけにはいかなくなったというわけです。
しかし、それでも濱口さんは「敵ではない」というのが私のスタンスですから、事実を示して彼の批判の誤りを指摘するにとどめました。ただあの程度では、濱口さんご自身も、また両方のブログを読まれている方にも、双方の主張や問題点が良く分からなかったかもしれません。
ということで、いくつかの点について、改めてきちんと反論しておこうと思います。このようなことを書くのは、私としては気が進みません。面倒くさいし億劫ですが、「党派的に正当化しようとしているだけさらに悪質」「頭隠して尻隠さず的党派性は相変わらず」などと口を際めて一方的に批判されている私としては、研究者としての立場と名誉を守るために、「正当防衛権」を行使せざるをえません。
一方的に“殴りかかった”のは濱口さんであり、私はやむを得ず、面倒くさいけれど防戦に立ち上がったというのが、この再反論であるという事情をご理解いただきたいと思います。
さて、先ず最初に、1番目の批判に対して、なぜ反論しなかったのか、ということから説明することにしましょう。それは、濱口さんの批判のいくつかは「薄っぺらな(少なくとも当該分野の専門的知見に基づいてではないという意味で)評論を量産してきた政治学者の先生方」や「おそらく五十嵐さんと仲のよい人々」に向けられたものであり、私に対する批判も濱口さんの思いこみに基づく根拠のないものですから、事実を知れば誤解はなくなると思ったからです。
最初の批判がアップされたときから、私はそのことを知っていましたが、あえて反論しなかったのはそのせいです。それに、濱口さんと私とは、専攻も近く、幅広い意味での研究者仲間だと考えていましたから、事を荒立てるような対応を自制した次第です。
しかし、それが裏目に出てしまったというのが、2回目の批判です。こともあろうに、濱口さんは前回の批判に輪をかけて、「基本的なスタンスとして知的誠実さが欠けている」と、私の研究者としての資質を問うような、ある意味では人格的な批判を意味する悪罵を投げつけてきました。「知的誠実さが欠けている」などという批判は、誰に対しても慎重に行うべきだと思いますが、とりわけ研究者に対しては「お前は研究者としての資格がない」といっているのと同じです。
このようなことを軽々に書かれるということは、濱口さん自身の人間性をも疑わせることになり、ご自身にもマイナスではないでしょうか。それほど重大なことを書き、天下に公表されたということを、果たして濱口さん自身は自覚されておられるのでしょうか。
このようなこともあって、最初の時に、きちんと反論しておけば良かったのかもしれないと、今では思っております。反論しなかったために、「五十嵐は批判を認め、反論できなかったのだ」と、濱口さんは勝手に思い込んでしまったかもしれないからです。
もし、最初の時に濱口さんの思いこみを正していれば、今回のような再批判はあり得なかったはずです。そうすれば、濱口さんにとっても、このような私に対する人格批判によって「恥の上塗り」をすることは避けられたかもしれません。
ということで、ここできちんと反論しておくことにします。それは、批判を繰り返している濱口さんの誤った思いこみを正すことになるでしょうが、それだけではなく、濱口さんのブログを読まれた方々の誤解をも正すことになるでしょう。
それに、中曽根内閣以降の政治過程における私のスタンスを理解していただくうえでも有益でしょう。また、労働の規制緩和がどう進んできたかということについても、理解を深めることになるでしょうから……。
ということですが、残念ながら、今日は予告だけにせざるをえません。現在、拙著『労働政策』の著者校正と『日本労働年鑑』の編集を行っていて時間がないからです。
具体的な中身については、明日から、おいおい書かせていただきますので、お楽しみに……。
ということで、火の粉を払い、唾をよけるための作業を行いました。木曜日のことです。
2月28日のブログ「濱口桂一郎氏の批判に答える」http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2008-02-28はそのための作業でした。一度ならず、二度にわたって揶揄的な批判を繰り返され、「党派的だ」「党派的だ」と書かれたのでは、私としても見過ごすわけにはいかなくなったというわけです。
しかし、それでも濱口さんは「敵ではない」というのが私のスタンスですから、事実を示して彼の批判の誤りを指摘するにとどめました。ただあの程度では、濱口さんご自身も、また両方のブログを読まれている方にも、双方の主張や問題点が良く分からなかったかもしれません。
ということで、いくつかの点について、改めてきちんと反論しておこうと思います。このようなことを書くのは、私としては気が進みません。面倒くさいし億劫ですが、「党派的に正当化しようとしているだけさらに悪質」「頭隠して尻隠さず的党派性は相変わらず」などと口を際めて一方的に批判されている私としては、研究者としての立場と名誉を守るために、「正当防衛権」を行使せざるをえません。
一方的に“殴りかかった”のは濱口さんであり、私はやむを得ず、面倒くさいけれど防戦に立ち上がったというのが、この再反論であるという事情をご理解いただきたいと思います。
さて、先ず最初に、1番目の批判に対して、なぜ反論しなかったのか、ということから説明することにしましょう。それは、濱口さんの批判のいくつかは「薄っぺらな(少なくとも当該分野の専門的知見に基づいてではないという意味で)評論を量産してきた政治学者の先生方」や「おそらく五十嵐さんと仲のよい人々」に向けられたものであり、私に対する批判も濱口さんの思いこみに基づく根拠のないものですから、事実を知れば誤解はなくなると思ったからです。
最初の批判がアップされたときから、私はそのことを知っていましたが、あえて反論しなかったのはそのせいです。それに、濱口さんと私とは、専攻も近く、幅広い意味での研究者仲間だと考えていましたから、事を荒立てるような対応を自制した次第です。
しかし、それが裏目に出てしまったというのが、2回目の批判です。こともあろうに、濱口さんは前回の批判に輪をかけて、「基本的なスタンスとして知的誠実さが欠けている」と、私の研究者としての資質を問うような、ある意味では人格的な批判を意味する悪罵を投げつけてきました。「知的誠実さが欠けている」などという批判は、誰に対しても慎重に行うべきだと思いますが、とりわけ研究者に対しては「お前は研究者としての資格がない」といっているのと同じです。
このようなことを軽々に書かれるということは、濱口さん自身の人間性をも疑わせることになり、ご自身にもマイナスではないでしょうか。それほど重大なことを書き、天下に公表されたということを、果たして濱口さん自身は自覚されておられるのでしょうか。
このようなこともあって、最初の時に、きちんと反論しておけば良かったのかもしれないと、今では思っております。反論しなかったために、「五十嵐は批判を認め、反論できなかったのだ」と、濱口さんは勝手に思い込んでしまったかもしれないからです。
もし、最初の時に濱口さんの思いこみを正していれば、今回のような再批判はあり得なかったはずです。そうすれば、濱口さんにとっても、このような私に対する人格批判によって「恥の上塗り」をすることは避けられたかもしれません。
ということで、ここできちんと反論しておくことにします。それは、批判を繰り返している濱口さんの誤った思いこみを正すことになるでしょうが、それだけではなく、濱口さんのブログを読まれた方々の誤解をも正すことになるでしょう。
それに、中曽根内閣以降の政治過程における私のスタンスを理解していただくうえでも有益でしょう。また、労働の規制緩和がどう進んできたかということについても、理解を深めることになるでしょうから……。
ということですが、残念ながら、今日は予告だけにせざるをえません。現在、拙著『労働政策』の著者校正と『日本労働年鑑』の編集を行っていて時間がないからです。
具体的な中身については、明日から、おいおい書かせていただきますので、お楽しみに……。
2008-03-01 09:19
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