 |
ピラミッド型の建物はメディアセンター。決算発表はセンターから生中継する=インド・バンガロールの本社で |
|
---|
27年前に仲間6人と、資本金250ドルで始めた小さなIT企業は、いまや従業員8万8000人のインドを代表する企業となった。「頭は資本主義、心は社会主義」を公言する「アジアのビル・ゲイツ」が描く大国の未来は。
――欧米企業からソフトウエアの開発や保守を受託するビジネスで急成長しました。
当時のIT業界では複数の重要な変化が起きていました。ソフトウエアはハードウエアと別売りされ、小型で安く高性能のコンピューターが相互にネットワークでつながるようになった。処理が簡単で速いデータベースが開発され、100ドルを切るソフトも登場した。頭脳さえあれば低コストでソフトを開発できる環境が整ったので、爆発的な需要があると読みました。
――インドでは優秀な人ほど国外に出て行きました。なぜインドで起業を?
欧州で働いていた時、共産主義者から資本主義者まで様々な考えの人々と議論する中で悟ったのは、巨大な貧困を抱えるインドでは、「富の分配」より先に「富の創出」が必要だということでした。多くの仕事を作るには起業しかない。幸い祖国には職のない優秀な技術者があふれていた。安価で優秀な才能を使えば、ソフト市場で欧米企業に勝る価値を提供できると考えたのです。
――順調でしたか。
創業から10年は規制だらけ。海外渡航も外貨購入も政府の許可が必要で、コンピューターを1台輸入するのに3年待たされた。91年の経済改革で一気に追い風が吹きましたが、続々と進出してきた外資との壮絶な人材の奪い合いも待っていた。周囲からは「君たちもこれまでだ」と言われました。
――外資規制の緩和に反対しなかったのですか。
母国で彼らと戦えずに、どうして世界で勝負できるでしょうか。見劣りしない給与を準備し、会社の設備を充実させ、インド初の従業員ストックオプションも導入しました。最初の10年の成長率は12倍。92年からの16年間は2700倍です。私たちは競争で磨かれたのです。
――ITはインドをどう変えたのでしょう?
インドの起業家たちに、自分も世界のトップと互角に戦えるという自信を与えました。IT産業で生まれた雇用は人々の所得を押し上げ、小売業やサービス業を発展させ、そこでも多くの雇用を生みました。
――とはいえ、人口11億人のインドでIT産業の雇用は約1200万人に過ぎません。
その通り。インドには読み書きのできない人が大勢いて、大半は経済発展の遅れた地方に住んでいる。彼らを雇用する製造業の創出が必要です。それを成し遂げた中国に見習うべき点は非常に多い。
――今もトイレ掃除で1日を始め、会社は利益の1%を貧困支援に投じています。あなたにとって、富とは何ですか。
豊かなインドを実現するには、機会に恵まれた人間が、そうではない大勢の人間の生活向上のために必死で働くしかないのです。車も家も洋服も、しょせん1人が消費できる量には限りがある。富は大勢の他者と分かち合ってこそ、本来の力を発揮するのです。
文・後藤絵里 写真・竹谷俊之
 |
高い理想を追う経営者は緻密(ちみつ)なリアリスト。「神様は信じるが、神様以外はデータで示せ」がインフォシスの合言葉 |
|
---|
■富の分配より前に富の創出を
バンガロールにあるインフォシス本社は、排ガスと土ぼこりに煙る外界から隔絶されたユートピアだ。
東京ドーム7個分の敷地に芝生が広がり、客船やピラミッドの形をしたビル、社員用のジムやプールが点在する。小柄なムルティさんを見つけた若い社員たちが「写真を撮らせて下さい」と寄ってきた。彼にあこがれて入社する社員は多い。
81年、小さなアパートで始まったインフォシスの成功物語は今も若者を引きつける。創業メンバーの7人はIT企業の同僚で、いずれも中産階級の出身。財閥のような潤沢な資金も政府とのコネも一切なかった。
「前CEOのニレカニは戦略と顧客管理、現CEOのゴパラクリシュナンは技術……。得意分野が異なる六つの才能をまとめるのが、経営にも技術にも通じるムルティだった」。メンバーの一人、ディネシュ取締役(53)はそう話す。
■世襲禁じる
志と価値を共有する彼らがめざしたのは家柄やカーストに影響されない「プロによる、プロのための、プロの会社」だ。企業統治を経営の柱に据え、創業者一族の世襲も禁じた。ムルティさんの息子は米ハーバード大博士課程に在籍する俊秀だが、継がせる気はまったくない。
父親は実直な高校教師。8人きょうだいの5番目のムルティさんは苦学して最難関のインド工科大学大学院に進んでコンピューターを学び、フランスに渡った。初代首相ネールを尊敬する熱心な左翼だった彼は、豊かな欧州を見て驚き、「社会主義が掲げる富の分配より前に、富の創出が必要だ」と痛感する。
74年に帰国。民間企業で7年働き起業した。だが、当時のインドは海外投資や輸出入、外資との提携が厳しく制限され、融資も満足に受けられない。最初の10年は低成長が続く。頼みの米国の合弁企業も利益を出せず、失望した創業者仲間の一人は去った。90年のある土曜の朝。ムルティさんは創業メンバーをオフィスに集めた。
「ある企業から100万ドルで買収提案があった。君たちの意見を聴きたい」。数分の沈黙の後、メンバーは口々に「売却もやむを得ない」と答えた。最後に、黙ってみんなの話を聴いていたムルティさんが口を開いた。「私は売るつもりはない。君たちの株は私が買おう」
■ビスタ参画
資金などなかった。「私は成功を確信し、今が夜明け前の一番暗い時だとわかっていた」。4時間の議論の末、メンバーが出した結論は「あなたがそこまでの覚悟ならついていく」だった。「あれで経営陣の結束は固まり、二度と揺らぐことはなかった」(ディネシュ氏)
翌年、転機が訪れた。湾岸戦争や政局の混乱で外貨危機に陥ったインド政府は大幅な規制緩和に踏み切ったのだ。その後、米国のITブーム到来で受注額が急増。「十分に準備した者にチャンスは味方する」との言葉通り、植民地時代の産物の英語と米国との時差を生かして急成長した。いまやエアバスA380の主翼の設計やウィンドウズ・ビスタの開発にも参画する。
「会社の最大の資産は人材」が口癖だ。収益の5%を人材教育に投じ、05年には約200億円かけて故郷マイソールに人材教育の拠点をつくった。
「毎日5時半にわが社の資産はいなくなり、会社の価値はゼロになる。彼らが翌朝元気に戻ってくる会社にするのが、われわれ経営者の役目なのです」
■銀座のデパートで教えられた
――なぜコンピューターを専攻したのですか。
大学院では制御理論を学ぶつもりが、ある時、寮で米国人教授が「人々の未来を変えるコンピューターという機械」について熱く語るのを聞き、夢中になってしまったのです。
――猛烈な仕事ぶりで知られます。現役を退いて退屈では?
とんでもない。国内外の企業の社外取締役を引き受け、東大や米スタンフォード大の諮問委員もしています。インドにいるのは月に4、5日。仕事以外では物理学と数学の本を読み、クラシックを聴くのが好きです。
――日本にもよくいらっしゃるそうですね。
日本はアジアで最初に先進国入りし、世界2位の経済大国になった。東京は大都市なのに安全で清潔。勤勉さの価値を世界に知らしめたのも日本人です。深い教訓も学びました。
――どんなことを?
あれは82年。銀座のデパートでエレベーター係の若い女性を見て、日本人の友人に「彼女は一日中同じことをして退屈しないのかな」と聞いたんです。友人が日本語に訳して伝えると、彼女は笑顔で「私はお客様を気持ちよくお迎えするこの仕事で給料をいただき、それに誇りを持っています」と答えました。
――ムルティさんは何と?
いや、もう恥ずかしくて。あんな質問をした自分の愚かさに顔から火が出る思いでした。彼女に働くことの意味を教えられました。今でもこの体験を社員に話し、仕事と向き合う姿勢の大切さを説いているんです。
◆ チェックポイント ◆
■「21世紀のガンジー」
経営コンサルタントの大前研一さんとムルティさんの出会いは15年前にさかのぼる。大前さんがマレーシアのIT化戦略の政策立案を手がけていた時、インドで「オフショア開発」という「電話線一つで国をまたぎ雇用を生むビジネス」がおこっていると聞き、現地のIT企業を訪ねた。インフォシスは社員数百人の中小企業だった。
印象的だったのはムルティさんの哲学だ。「ネールが唱えた『富の分配』を信じてきたが、存在しない富を分け合うことはできない」との言葉に、「ついに変革者が現れた」と思った。意気投合した大前さんは95年から数年間、同社などと合弁を組み、オフショア開発を手がけた。
ムルティさんに代表される公共意識の高いインドの経営者を大前さんは「21世紀のガンジー」と評する。「貧困の解消というガンジーが見た夢が経営の根底にあり、ITを使って幸福な社会を実現しうることを自ら示してみせたのです」
経済学者の小宮隆太郎さんは約10年前、夫妻でバンガロールに招かれ、温かい歓待を受けた。小宮さんの娘婿はムルティ夫人の実弟で著名な天文物理学者だ。「質実な生活、ヒンドゥー教の信仰に基づく高い理想と社会奉仕の精神。信心深く清貧だった土光敏夫さんの生き方と似ていますね」
|
46年、インド南部のカルナタカ州生まれ。インフォシス社の最高経営責任者(CEO)を21年間務め、現在は取締役兼チーフメンター。同社は99年にインド企業で初めて米ナスダックに上場。売上高は3592億円、当期利益998億円(07年3月期)。
|
 02年11月、インドを訪問したビル・ゲイツ氏と
|
|