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9月24日、今日はなんの日?西南戦争終結。1877年
2007年09月24日06時31分
【PJ 2007年09月24日】− 「維明治十年秋九月二十有四日、官軍冒暁進撃賊塁賊兵大敗、西郷隆盛、桐野利秋以下百有余人、死於岩崎谷、残兵悉降、西南之乱全平。」(引用:史料近代日本史)扶桑社版「新しい歴史教科書 改訂版」は、西南戦争を以下のように記述している。
「1876(明治9)年、政府は、旧藩に肩がわりして士族に給付していた禄を、一時金の給付と引きかえに打ち切った(秩禄処分)。これを不満とした各地の士族が、政府に反対する兵を挙げ、鎮圧された。西郷は鹿児島に帰って私学校を開いていたが、不満をもつ全国の士族は西郷に期待を寄せた。1877(明治10)年、鹿児島の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げたが、徴兵された平民からなる政府の軍隊に敗れた(西南戦争)。これ以降、士族達の武力の抵抗はあとを絶った。」
1873(明治6)年10月24日の征韓論の敗北により下野した西郷らは、鹿児島において私学校を中心に子弟を育成し、鹿児島では士族の支配体制が続いていた。1876(明治9)年8月5日の金禄公債証書発行条例の制定により、10月24日神風連の乱、27日秋月の乱、28日萩の乱と起こった士族の反乱は、1877(明治10)年2月15日、西郷隆盛が兵を率いて鹿児島を出発してその頂点に達した。22日、西郷軍が熊本鎮台を包囲するに至った。3月20日、田原坂にて政府軍は勝利、4月15日、参軍黒田清隆が熊本城に入城する。6月1日、人吉、7月24日、都城、8月14日、延岡が政府軍に占領され、9月1日に、西郷は鹿児島にもどる。9月24日、西郷隆盛は自刃、51歳であった。
この西南戦争を数字的に見てみると、出征兵員は、政府軍6万831人、西郷軍4万余人、死傷は、政府軍1万5801人、西郷軍2万余人であり、征討に関する諸費は、総計4156万7726円余りとなっている。犠牲も多く、また大変な費用がかかったのだ。
1877(明治10)年9月24日に、城山の岩崎谷で戦死または自刃したものの中で姓名が判明しているものは、桐野利秋、村田新八、逸見十郎太、高城十次、桂四郎、池上四郎、別府晋助、山野田一輔、岩本平八、岩塚長太郎、蒲生彦四郎、国府寿助、小倉壮九郎、平野正助、堀新二郎、佐藤三二、池辺吉十郎である。
余談だが、西郷札と呼ばれる臨時紙幣(軍票)が西郷軍で使用されている。1877(明治10)年6月に佐土原で発行され総額100万円(十円札8万円、五円札10万円、二円札25万円、一円札35万円、50銭札10万円、20銭札7万円、10銭札5万円)である。この札は、中馬甚七が、宮崎監獄で偽札罪で服役していた囚人を使って作らせたもので、強靭な布製である。その色は、濃茶色、葡萄色、勝色、黄色、桃色、生壁色等で種類に分けてあったという。
鹿児島だけでなく、その製造元の宮崎県下で強制的に使用されたようだ。当然、西南戦争後は価値を失い、政府も何も補償をしなかったため、大きな損害もあったという。また、政府が没収・廃棄処分をしたため、現存する数は極端に少ないとされている。発行以来、130年たった今、発見されれば、超お宝、コレクターの垂涎(すいぜん)の品である。
ところで、西郷札でも、2円札や20銭札があるのに、まったく普及してないあの二千円札は、まだ日本銀行の金庫の中で眠っているのだろうか?これは、もったいないことである。(角川版:日本史辞典、史料近代日本史などを参考とした)【了】
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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 鈴木修司【 愛知県 】
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「1876(明治9)年、政府は、旧藩に肩がわりして士族に給付していた禄を、一時金の給付と引きかえに打ち切った(秩禄処分)。これを不満とした各地の士族が、政府に反対する兵を挙げ、鎮圧された。西郷は鹿児島に帰って私学校を開いていたが、不満をもつ全国の士族は西郷に期待を寄せた。1877(明治10)年、鹿児島の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げたが、徴兵された平民からなる政府の軍隊に敗れた(西南戦争)。これ以降、士族達の武力の抵抗はあとを絶った。」
1873(明治6)年10月24日の征韓論の敗北により下野した西郷らは、鹿児島において私学校を中心に子弟を育成し、鹿児島では士族の支配体制が続いていた。1876(明治9)年8月5日の金禄公債証書発行条例の制定により、10月24日神風連の乱、27日秋月の乱、28日萩の乱と起こった士族の反乱は、1877(明治10)年2月15日、西郷隆盛が兵を率いて鹿児島を出発してその頂点に達した。22日、西郷軍が熊本鎮台を包囲するに至った。3月20日、田原坂にて政府軍は勝利、4月15日、参軍黒田清隆が熊本城に入城する。6月1日、人吉、7月24日、都城、8月14日、延岡が政府軍に占領され、9月1日に、西郷は鹿児島にもどる。9月24日、西郷隆盛は自刃、51歳であった。
この西南戦争を数字的に見てみると、出征兵員は、政府軍6万831人、西郷軍4万余人、死傷は、政府軍1万5801人、西郷軍2万余人であり、征討に関する諸費は、総計4156万7726円余りとなっている。犠牲も多く、また大変な費用がかかったのだ。
1877(明治10)年9月24日に、城山の岩崎谷で戦死または自刃したものの中で姓名が判明しているものは、桐野利秋、村田新八、逸見十郎太、高城十次、桂四郎、池上四郎、別府晋助、山野田一輔、岩本平八、岩塚長太郎、蒲生彦四郎、国府寿助、小倉壮九郎、平野正助、堀新二郎、佐藤三二、池辺吉十郎である。
余談だが、西郷札と呼ばれる臨時紙幣(軍票)が西郷軍で使用されている。1877(明治10)年6月に佐土原で発行され総額100万円(十円札8万円、五円札10万円、二円札25万円、一円札35万円、50銭札10万円、20銭札7万円、10銭札5万円)である。この札は、中馬甚七が、宮崎監獄で偽札罪で服役していた囚人を使って作らせたもので、強靭な布製である。その色は、濃茶色、葡萄色、勝色、黄色、桃色、生壁色等で種類に分けてあったという。
鹿児島だけでなく、その製造元の宮崎県下で強制的に使用されたようだ。当然、西南戦争後は価値を失い、政府も何も補償をしなかったため、大きな損害もあったという。また、政府が没収・廃棄処分をしたため、現存する数は極端に少ないとされている。発行以来、130年たった今、発見されれば、超お宝、コレクターの垂涎(すいぜん)の品である。
ところで、西郷札でも、2円札や20銭札があるのに、まったく普及してないあの二千円札は、まだ日本銀行の金庫の中で眠っているのだろうか?これは、もったいないことである。(角川版:日本史辞典、史料近代日本史などを参考とした)【了】
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