質問

QNo.3806700 もしも学校が、好きな教科だけを選択できるとしたら
質問者:eienn 小学校はいいとして・・

中学校、高校は、
半年後とに自分の好きな教科を、選択できるんです。
時間的に可能なら、何教科でもOK。
体育だけでもいいし、全教科でもいい。

授業料の問題はここではおいといて。

私は、いくら体育が好きでも、
よほどの才能が無い限りは、(あっても?)
体育だけを選択するようなことは、だれもしないと思います。

なので、能力に著しい偏りが生じることは無い、
と、私は推測するのですが。

デメリットは、能力の偏り。
メリットは、勉強意欲の向上。など。

どう思いますか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3802893.html
困り度:
  • 暇なときにでも
質問投稿日時:
08/02/24 22:04
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回答

ANo.12 >無論、漢文の授業も選択式にすべきです。
>やりたくない人にやらせるほど、役に立つ授業では無い。
また、
> 商業や経済を学びたい人が、古文や三角定理を学ばなければいけないのです。
> それは非効率的だと思いませんか?
と仰っていますが、

役に立つかどうかという、技術や手段の話をしていて、
何をすべきかという、目的の話をしていません。

やりたいから、楽しいから、といった基準をもってして、
なんでもありにはできないんです。

やりたいこと、楽しいことにも色々ありますから、
なぜやりたいのか、どう楽しい(つまり、充実している)のか、
そこが大事だというのが、目的の話です。

そこの話をしないでおいて、既に決まっている目的のために、
しかもその理由が、やりたいから、楽しいからというだけの目的のために、
役に立つかどうかの話をしていても、そこから目的はでてきません。

例えば、町内の清掃というボランティア活動について考えを巡らせてみてください。
ゴミ拾いなんて誰でもできるんです。寒いから関節がちょっと痛むねーなんて言いながら、
(語弊があるかもしれませんが、身体能力の低い)年配の方がやってたりするんです。
(ゴミ拾いに参加すればいい、という話では決してありません。)

別の例としては、最先端の科学を研究しても、そこからその研究の目的は出てきません。

技術や能力がなければ、人の役に立てないとお考えなら、それはなんともさびしい限りです。
また、必要な技術や能力が備わっていても、それを使わないということもあるわけです。

学校教育は目的に関わる問題も取り扱っています。技術や手段に関わる問題だけではありません。

質問者さんが、古文や漢文、三角定理の学習をされたくない、嫌だ、
といった以外に仰りたいことがあるようには思えません。

やりたくない、そしてやりたくないことはやらないのであれば、
できる限りやらないで済ませるしかありませんね。
商業や経済を学ばれたいのなら、どうぞ思う存分、授業外になさって下さい。

やりたいことがある、楽しいことがある、というのは、
様々な可能性を秘めている状態であるとしか言えません。
だからこそ、学習する側に、学習内容を一任することはできないのです。
やりたくなくなったから、やらない、楽しくなくなったから、やらない、
といった判断基準へ、学習内容の最終的な判断を委ねることはできないのです。
回答者:candypen
種類:回答
どんな人:一般人
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回答日時:
08/02/29 11:52
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回答

ANo.11 > 高校生だって(大学生だって?)将来のイメージなんて持ってる人がどれだけいますか。

だ・か・ら、高校でも大学でも「必修科目」ってものがあるんですよ。

個々人が自分の将来を性格に完全にイメージできるなら、あなたの言うような制度もありえます。ですが、それは無理というもの。だから、将来のイメージが固まってゆく度合いにあわせて、少しずつ選択の余地が増えてゆくのです。

> 私たちの知らない、思想の及ばない場で決められたことが、
> 私たちの生活を拘束している。

だから、そう思うならあなたはあなたで「意見」を言えばいい。
でも、ここでの「回答」をみれば、それは、到底『社会』に受け入れられるようなものではないことはよくわかったでしょう?あなたの意見が容れられないのは、単にあなたの意見が傾聴に値しないから、ってだけのことです。

あなたは要するに「オレ様」ってやつで、自分を物差しにしてしか物事を判断できないのでしょう。あなたの持つ、短い短い物差しでは、こういう社会のあり方にかかわるような議論にかかわるのは、そもそも無理なんです。

あなたは「守株」という言葉を持ち出しましたが、あなたの言っているような議論は2〜30年前からずっと言われているけれど、やってみたらうまくいかなかったから「最近は」だれも相手にしない議論なんですよ。株にしがみついているのは、誰が見たってあなたの方なんです。

漢語の知識云々というなら、あなたは「無用の用」と言う言葉も多分理解していないんじゃないでしょうか。それを知っていれば、あなたもこんな「質問」に時間を割かないですんだんじゃないですか?

> 商業や経済を学びたい人が、古文や三角定理を学ばなければいけないのです。
> それは非効率的だと思いませんか?
冗談じゃない。
いまどき、商業や経済を志すものが、古文や三角関数を学んだこともなしに勤まるとでも思ってるんですか?

そんな、何もわかっていないあなたが出した「折衷案」とやらに対する私の意見は、どこが「折衷」案なのかわかりませんが、「論評に値せず」です。

まずは、少しは大人の言うことを聞くことです。
人の言うことは聞かずにオレの言うことは聞け、まさしく子供の駄々ですね。
回答者:anachronism
種類:回答
どんな人:経験者
自信:自信あり
回答日時:
08/02/29 07:38
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この回答へのお礼>到底『社会』に受け入れられるようなものではないことはよくわかったでしょう?

そうですか・・?
結構いい手ごたえを感じているんですけど・・
能天気なんですかね。

物指し?
では長い長い物指しを持っている人を教えてきただけませんか?
指標にしたいので。

>やってみたらうまくいかなかった
何を目的に「やった」んでしたっけ。
そして、何をもって「うまくいった」と判断し、
何をもって「うまくいかなかった」と判断するのですか?
私の物指しでは短すぎて、それを決めることが許されないようですので、教えてください。


無用の用、知らなかったです。
というか、そんなこと言ったら、
「この世に無駄なものは何も無い」、に近い。
教育に哲学を持ちこまないでください。
あなたの回答を見ていると、中学のときの教師を思い出します。
哲学とか教育論とかよく持ち出していた。
嫌なこと思い出させないでください。

古文と経済はどう関係しているんですか?
検討もつかない・・。

周りに、あなたのような大人ばかりいるわけではないので。
子供は時代の縮図ですから。
知ってください。

回答

ANo.10 昔の人は良いことを言っていますね。
「思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし」
自分ひとりで考えるばかりで学ぶことをしなければ、独り善がりになって危険だ。2500年以上前の人の言葉です。

こういう言葉がスラッと出てくるのも、そして
「あぁ、それは論語の言葉ですね」
「そう、孔子です」
「確か前段がありましたよね」
「はい、学びて思わざれば則ち罔し、です」
と知識が共有できるのも、みんなが同じように(この場合は漢文ですが)学んだ成果だと思いますよ。
回答者:hukuponlog
種類:回答
どんな人:専門家
自信:参考意見
回答日時:
08/02/28 05:21
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この回答へのお礼韓非子中に、「守株」がありましたよね。

いたずらに古い習慣を守って、時に応じた物事の処理ができないこと。

少なくともこの言葉だけは、時代を越えることができると思いますね。

ことわざやなんかも、今の時代では当てはまらないものがありますからね。


無論、漢文の授業も選択式にすべきです。

やりたくない人にやらせるほど、役に立つ授業では無い。

回答

ANo.9 少し言い方が悪かったかもしれない。
物事を判断するには、主体性を持つことと同時に、きちんとした見識が必要。主体性を持っているだけでは意味がない。ただ、主体性形成によってそうした見識を深めようというインセンティブが増大するということは言えるので、あえて主体性ということのみを書いた。
中学生・高校生の判断なんて所詮ごく限られた見識と感情によってなされるものであるから、そこに頼って放任するのはマズいということがまず一点。つまり、見識がないというのは、すなわち盲目の状態であって、将来の方向性が盲目的決定によってなされるのは良くない。古文や数学は将来使われるかと言われれば、使わない人が圧倒的に多いだろうが、それを学ぶことを完全に選択制にしてしまうと、一時の限られた状況下における判断によって一生の可能性が大きく制限されてしまうということが起きる。もちろん、中学生・高校生が選択を行う時にそんな自覚はしてないので、それこそ不幸なことになる。もし主体性形成がなされようとも、また「選択は自業自得」という自覚を持とうとも、その判断は所詮かなり制限された見識によるものであるから、どちらにしろ不幸。だから、勉強に偏りを出していくのは、教養・見識を強制的に身につけさせた高校程度より後で良いのではないかというのが個人的考え。
ただ、主体性形成によってそうしたことへのインセンティブの増大がかなり期待できるという点は考慮する必要があると思う。しかしながら、同時に主体性形成にあたって教養が大きな役割を果たすということも見落としてはならない。
また、放任主義が主体性形成を促すということも一概に言えない。更に、一律の教育が主体性形成を阻害するというのも一概に言えない。そうした見識はある意味においてステレオタイプ的と言える。フロムの「自由からの逃走」のような逆説(この場合にあてはまるかは別の話だが、自由の持つ逆説のイメージとして好例なので例に出した)もありうる。つまり、「放任された時に皆真剣に考えるようになる」という前提を考え直す必要性を感じざるを得ない。そうした主体的行動のインセンティブとなるものが、意外と強制された学習であったりする。

正直なところ、自分が現在進行形で置かれている教育環境があまりにも特殊(つまり「自業自得」を生徒や教員のほとんど自覚しているような環境)なので、この意見が客観性を持ちうるかについては非常に怪しい。

結局は、将来の可能性を制限しかねないという点が大きい。その点に於いては強制的な学習というのは一定の効果をあげると言って間違えない。ただ、理想的環境において放任するというのも方法としてはある。しかしながら、その理想的環境は放任主義によってのみでは構築されえないという逆説があるのではないか。その点を考える必要があると思う。
回答者:christophe
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:
08/02/27 19:31
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この回答へのお礼見識がなければ、選択できない。
見識を与えるには、ある程度の詰め込み教育は必要。

結論。
全教科選択式は不可能。
(常識で考えるとそう)
___________________
(以下は私の勝手な考え)

詰め込まれる「前」と
詰め込まれた「後」では、見識の量もそうだが、
「質」が変わってしまう気がする。

詰め込まれる前の、「無知」に私はむしろ価値を感じている。
知識は、世界(視野)を広めるのか。
生半可な知識は、むしろ世界を狭める気がした。

学校は閉塞的だ。
社会の縮図といいながら、まるで違う。
籠の中と外の違い。

抽象的な表現をするなら、学校と社会の境目をもっとなくさなければいけない。
(中学と高校がもっと、専門学校のように、実質的な資格やスキルを身につけられる場であってほしいが、公共の施設である以上は限界があると知る・・・)

回答

ANo.8 巻くっきりフリーに選ばせたらとんでもない能力の偏りになるでしょう。

最低限各教科何時間は取らないといけない。
その上で各専門的な事業は掘り下げてとることが出来る。
そのようなシステムならいいでしょうが、
まるっきり取らないことも可能というのは、「自分のしたくないことも我慢してする」ということが無くなりよくないと思います。
回答者:dai-ym
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:
08/02/27 13:47
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回答

ANo.7 教育する側が、教えるべきこと/教えたいことと、
学習する側が、学習すべきこと/学習したいこととが、
合致しないからでしょう。

教育の目的は人格の完成にあります(教育基本法)。
学習する人間が、好きな能力を伸ばすことは目的とされていません。
もっとも、好きな能力を伸ばすことこそが、
人格の完成に資すると判断されれば、話は別なのでしょう。

ただし、歴史教育に関しては、必修になるかもしれませんね。

必修科目、選択科目などというと、大学での講義を思い出させられます。
みなさん、好きな講義とってましたか?
らくーな講義を調べて、とってましたか?
回答者:candypen
種類:回答
どんな人:経験者
自信:自信あり
回答日時:
08/02/26 15:40
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回答

ANo.6 >構成員全員に必要な知識など存在しません。
それは質問者様の個人的意見です。少なくとも日本政府はそう考えていませんし私の知る限り一般常識として義務教育はそのように認識されています。あえて付記するのであればこの場合における最低限の知識と言うのは“個人が自身に求める最低限の知識”ではなく“共同体が構成員に要求する最低限の知識”であるということです。現在の教育内容が最善であるとは思わないし、必要な変更はなされるべきでも最低限のラインを保障するが必要であることに変わりはありません。

>折衷案として、中学一年時は、今と同じ必修科目を学ばせる。
>中学二年もしくは中学三年からは、すべて選択性に移行する。
>というのはどうでしょう?
 より現実的なプランという意味であれば選択科目の枠を増やしつつ必要最低限の必修科目を確保するほうがいいように思います。なぜ質問者様は全ての、部分的ではない、決定権を子供に委ねなければならないとお考えになるのでしょうか?

>猶予を与えれば子供たちは自分で有効な選択をできると思います。
 なにか具体的な根拠はあるのでしょうか?私個人の感想としては自分の適性や嗜好も定まらない思春期の子供たちに有効な選択をさせる事はきわめて困難なように思います。


>少なくとも、その一年間、「今の中学一年生」とは全く違う視点で、勉強に臨むと思います。
 それは仰るとおりなのかもしれませんが、
・ただ楽な履修を選んでしまう子供たちが出てきて将来に有効な履修を行った子供たちと比べて埋めがたい差ができてしまいかねない事
・必修科目がないので統一的な学習進度の確認が難しく受験システムの構築が困難になる事
・個人の為の教育以外にも社会の為の教育と言う公教育の機能が果たし難しくなる事
などのデメリットを考えるとわざわざ全科目を選択性にしなければならに程の理由が浮かびません

>折衷案を使えば、この問題も解決ですね。
 中1までの内容で浅く広く学べると認識されているのなら仰るとおりです。

>「好き、嫌い」で判断していないし、そのために変革を望んでいるわけでもありません。
 失礼しました、文脈から誤解してしまったようです。

>学校は楽しくても、「勉強に疑問を抱く」生徒はいますよ。
 現状を是としているわけではありません、しかし質問者様の案は現在のシステムより多くの深刻な問題を抱えかねないように思います。
回答者:tooma37
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:
08/02/26 13:57
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回答

ANo.5 現在でも、中学や高校の課程には選択科目と必修科目とがあり、生徒の側に「選択」の余地はあります。逆に言えば必修の科目とは、中学、あるいは高校において、最低限身につけておくべき、と判断された科目であり、「選択性にすべきではない」という判断が下されたものです。だからこその「必修科目」なのです。

もちろん、必修と選択との見直しは定期的に行うべきものだし、行われています。その選択について意見をお持ちということならば、それはそれで「意見」すべきものでしょうが、そもそもすべてを選択にしてしまうということは、選択にすべきか、必修にすべきかという「検討」自体をしていないことを意味するわけで、まず説得力がありません。それを生徒の側に押し付けてしまえば、結局のところ混乱を招くだけでしょう。

そもそも、学習する内容が有用か無用かというのは、ちゃんとその知識を身につけなければ理解できないわけで、学習する前にそれを選択するというのは、不可能に近いのです。政治経済に数学の知識は欠かせないし、数学には国語の読解力が必要です。現代社会において知識というのは相互に複雑に関連しあっていて、どれが必要でどれが不要かなんて、大人でもわかっていない人は少なくありません。
すべてを選択性にするというのは一見理想的に思えますが、中学や高校の個々人が自分の責任でそれを適切に選択できるということは、自分の将来を正確にイメージできるということであり、そもそもできっこないのです。だから仕方なく、それを多くの専門家が考えて議論して、今の必修と選択とを決めているわけです。

それに意見しようというのであれば、それはご自由でしょう。ですが、それにはそれなりの経験と知識がなければ意見自体できません。あなたにその自信があるなら意見すればいいし、受け入れられないのであれば、それはあなたの言っていることに説得力がないからでしょう。
回答者:anachronism
種類:アドバイス
どんな人:経験者
自信:自信あり
回答日時:
08/02/25 18:49
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この回答へのお礼だれがどこでいつ、
必修と選択を決めているんですか。
私たちの知らない、思想の及ばない場で決められたことが、
私たちの生活を拘束している。

>専門家が考えて議論して、今の必修と選択とを決めているわけです。

なにを議論したのか、少しは伝えてほしいです。
そうすれば、「何故勉強するのか」なんてくだらない疑問を、誰ももたずにいられるでしょう?

「強制」されている、
それだけで勉強に対してマイナスなイメージをもつ者もいます。
自分で選べる、
だからこそ「責任」が生まれるし、「楽しみ」も生まれる。
結果として能力の質が上がる。

>将来を正確にイメージできるということであり、

高校生だって(大学生だって?)将来のイメージなんて持ってる人がどれだけいますか。
持っていたとしても、そんなのたわいも無い空想でしょう。
イメージできるまで「待つ」ほどのものでしょうか。

半年毎に選択できれば、十分では?
そこまで甘やかさなければいけないの?
子供はそんなに愚か?

私には、「過保護すぎて、子供が可哀想」にしか見えません。

あと、下に書いた折衷案にたいする意見も聞かせていただけると助かります。

回答ありがとうございました。

回答

ANo.4 生徒が主体性を持てば効果を発揮すると思いますが…無理だと思います。
それは、大学入試で受ける学部(広い意味で言えば、文系理系とか)ですら得意教科で決めてる人が多いということを考えれば明白な気がします。絶対に偏ります。科目選択なんて、結局はその時の興味や自分の社会認識の反映にすぎない、いわば気まぐれなものになるというのは目に見えてますし。高校生がみんなその教科が持つ重要性について認識できているわけじゃないですから。というか、認識するのは不可能です。だから、認識が不足している状況で、ある意味感情的な選択によって可能性を狭めるのは良くないということになります。
僕も、「自業自得」論を推したいところではありますが、それはあなたがたまたま「自業自得」を主張できるほどの主体性が教育課程に於いて形成されたからであって、大部分の人はそこの段階に達していない気がします。まあ、そういう立場に立つと一概に肯定できません。
というか、主体性を形成するのも教育の重要な意義であって、その形成においてある種強制的な最低限の知識の詰め込みというのは、社会に関する認識を深めさせるという重大な意味を有すると思います。ということで、高校くらいまでは教養をつけさせるっていう意味で、「学校」においては一律の教育を行うべきなんじゃないでしょうか?
回答者:christophe
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:
08/02/25 17:34
この回答への補足この回答に補足をつける(質問者のみ)
この回答へのお礼主体性が無いから、このシステムが不可能なのではなくて、
主体性を持たせるには、このシステムが必要なのでは?

与えられたものだけをこなすだけの、
そんな教育で主体性を生もうとすること自体、非効率的。
むしろ今の教育は、主体性を抑えるように仕組まれているように感じますけど。

そもそも、自分の好きなことに関してのみ造詣が深くなること、
能力に偏りがでること、
それ自体、問題かどうか疑問なんですよね。
社会のため、
なんて陳腐なうたい文句は、個をないがしろにする。
個の集合が社会なのだから、個の幸福こそが社会の幸福では?

>一律の教育を行うべきなんじゃないでしょうか

一律な教育と、主体性、
水と油のような関係に思いますが、気のせいですか?

共同体の中での連帯や、協調性、大事だと思います。
しかし、
主体性のない人間は、真の意味で協調などできないと思いませんか?
上辺だけのそれは、破綻するし、精神を疲れさせます。
主体を持って、
他人と自分とを、一定の距離で分けて、関係性を認識する。
そこで初めて、真の共同体たりえるのでは無いでしょうか?

それから、下にある折衷案に対する意見も聞かせていただけると助かります。

回答ありがとうございました。

(管理人さんへ。決して、一方的な主張ではなく、回答者様の、より深い意見を望むが故の文章となっています。消さないでください)

回答

ANo.3 学校というのは、「お国が国の戦力になる最低限の能力を持った人間を育てるための機関」と捉えると、義務教育である中学までは「広く浅く全般的な教養を身につける時期」といえるでしょう。

高校以降なら質問者様のいうようなカリキュラムもある程度は可能だと思います。
実際、商業科や体育科などは自分の好きな科目を重点的に勉強するための学科ですし、普通科でもある程度の科目の選択が学校によってはできます。

義務教育と高等教育の役割の違いや区別をはっきりさせた上で、もう少し案を練り直してみてはどうでしょうか??
回答者:fanfanfan4
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:
08/02/25 15:00
この回答への補足この回答に補足をつける(質問者のみ)
この回答へのお礼>実際、商業科や体育科などは自分の好きな科目を重点的に勉強するための学科ですし、普通科でもある程度の科目の選択が学校によってはできます。

具体的な数を知らないので、推論になってしまいますが・・
私は、就職や仕事に必要な知識「だけ」学びたかったので、
商業科や、農業科・・普通科とは違う高校を探しましたよ。
けれど実際そんなに数もないし、
あったとしても、数学や国語などは必修。
商業や経済を学びたい人が、古文や三角定理を学ばなければいけないのです。
それは非効率的だと思いませんか?


>義務教育と高等教育の役割の違いや区別をはっきりさせた上で、もう少し案を練り直してみてはどうでしょうか

大事なことですからね。


回答ありがとうございました。

回答

ANo.2  授業料の問題を除外されているので、制度設計の為のコストの問題も除外してお答えします。
 必修教科を設定せず完全に自由な授業の履修を許可するのにはどうかと思います。それは質問者様の仰る“最低限の自由”の範囲を超えています。特に中学での実施は共同体の構成員に必要最低限の知識を提供すると言う義務教育の存在意義を損なってしまいます。

>私は学校が大嫌いで、不登校も経験しています。
>その中で、
>どうすれば学校が楽しくなるのか
 それは質問者様の個人的な意見です。学校が大好きで楽しいと持っている学生も大勢います。
 私は高校を中退し大検を経て大学に進学した口ですが、私のような立場の人間の救済制度を整備してほしいとは思っても私個人が学校を好きでない事を理由に制度全体の変革を求めたりはしません。


>なんでもかんでも、大人が子供に口出ししなければいけませんかね?
 いけない事はないです。ただそれは全く口出ししてはいけない事にはなりません。

>子供が一教科だけ選んで、未来に後悔するようなことがあっても、
>それは自業自得。
 私はつい最近まで中高生に接する仕事をしていましたが自身の将来を主体的に考えその責任を負える子供など殆どいませんでした。無論教育で彼らの主体性をある程度まで育てることは可能だと思いますが精神的にも不安定な思春期の人間にその後の人生に多大な影響をあたえる教育内容決定の全権限と全責任を負わせることはあまり理に適わないように思います。

>学校はあくまで、浅く広くを教える場。
 浅く広くすら学ばない子供も出てきますね。
回答者:tooma37
種類:回答
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:
08/02/25 10:58
この回答への補足この回答に補足をつける(質問者のみ)
この回答へのお礼>共同体の構成員に必要最低限の知識を提供すると

構成員全員に必要な知識など存在しません。
Aさんにとって必要最低限でも、Bさんにとってはそうではない。
Aさんは学校が楽しい。Bさんは、楽しくない。
そういう差が生まれます。
それを解消するために、「個人が選ぶ」というシステムを推奨しています。
しかしやはりネックなのは、「自分にとって何が必要で何が不必要なのかの判断能力が低い」ということ。

>精神的にも不安定な思春期の人間にその後の人生に多大な影響をあたえる教育内容決定の全権限と全責任を負わせることはあまり理に適わないように思います。

ということですね。
この意見に一理どころか何理もあるので、折衷案として、
中学一年時は、今と同じ必修科目を学ばせる。
中学二年もしくは中学三年からは、すべて選択性に移行する。
というのはどうでしょう?
高校から選択性に、という意見もありますが、
一年間の判断時間、猶予を与えれば子供たちは自分で有効な選択をできると思います。
少なくとも、その一年間、「今の中学一年生」とは全く違う視点で、勉強に臨むと思います。
自分の将来のために、科目の意義や意味を、今とは比較できないほど、真剣に考えることでしょう。

>浅く広くすら学ばない子供も出てきますね。
折衷案を使えば、この問題も解決ですね。

>それは質問者様の個人的な意見です。学校が大好きで楽しいと持っている学生も大勢います。

「好き、嫌い」で判断していないし、そのために変革を望んでいるわけでもありません。
選択性の授業のほうが、子供たちの未来のために有効だと思うから提案しているのです。
自分はもう教育の現場から離れた者ですから、第三者の目で判断しています。
学校は楽しくても、「勉強に疑問を抱く」生徒はいますよ。
学校が嫌いな者のための案ではなく、すべての子供たちの未来のための案です。

回答

ANo.1 まぁ、茶飲み話だと思いますので、気楽に答えますが駄目でしょうね。

>時間的に可能なら、何教科でもOK。
ここがまず問題。つまり、ということは、逆に「選ばなくても良い」ということになるでしょう。そうすると、一日1時間程度、好きな教科だけ受けて下校するやつが大量に出ますよね。

人間っていうのはそういうものです。楽な方へ逃げたがる。(少なくとも私はそうです)

そうかと言って、「最低○時間は教科を選ぶこと」と決めたら、好きな教科を選択できることになりませんよね。

それと、中高生の場合(特に女子にはこの傾向が強いのだけれど)「その先生(の教え方・人柄)が好きだから、その教科が好きになる」ということも普通にあるでしょう? 逆に、その先生が嫌いだから、今まで好きだった教科が嫌いになった、とかね。

昔の人は上手いことを言ったもので、「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」と言って、付き合って分かる事ってたくさあるじゃないですか。

あと、半年では体系的な学習はできないから、どうしてもユニット形式の内容(つまり大学みたいな感じ)になるわけだけど、数学や通史なんかはそれでは教えられないよね。そうすると、教科や教材が実質的にかなり偏って、例えば「日本の歴史を古代から近代まできちんと学びたい」なんていう希望には、そもそも応えようがなくなってくる。

そして最後に、中高校では行事が結構たくさんあって、これが学校生活を厚みのあるものにしているわけだけれど、これもたぶんできなくなるでしょう? だって、3時間で下校するやつ、午後から登校するやつなどが出てくることになるのだから。

ま、そんなわけで、デメリットの方が多いかな、と。
回答者:hukuponlog
種類:回答
どんな人:専門家
自信:参考意見
回答日時:
08/02/25 00:32
この回答への補足この回答に補足をつける(質問者のみ)
この回答へのお礼>人間っていうのはそういうものです。楽な方へ逃げたがる。

何が本当の「楽」なのか、
そんなことは、14〜18歳の人間なら理解できると思ったのですが・・・
だから質問文に、
>私は、いくら体育が好きでも、
よほどの才能が無い限りは、(あっても?)
体育だけを選択するようなことは、だれもしないと思います。

と書いたのですが、そうではないと、あなたは言うのですね?

私は学校が大嫌いで、不登校も経験しています。
その中で、
どうすれば学校が楽しくなるのか、模索した結果、
生徒の自主性を尊重する、
という結論に至ります。
どんな結果であれ、責任は「己(おのれ)」にあるのだど知らしめ、
己にのみ依存し、それが真の自由であることを知ってもらう。
そのときに初めて、ヒトは一人では生きられない、
その事実を許容できるのです。

最低限の自由も与えないで、退屈な現実だけをつきつけるから、
いつの時代も、教育改正の声が絶たないのです。

なんでもかんでも、大人が子供に口出ししなければいけませんかね?
子供が一教科だけ選んで、未来に後悔するようなことがあっても、
それは自業自得。
それは、子供の将来を心配しないからではなく、
周りが決めたことをやって得た安寧に、
価値なんてないし、自分で考える力の無い人間が、今増えているからこそ、新しい教育が必要だと思いませんか。

>数学や通史なんかはそれでは教えられないよね

学校が教えないと、学ばないんでしょうか?
どうしても学びたいなら、自分で学べばいい。
学校はあくまで、浅く広くを教える場。
深く掘り下げたいのなら、自分でやればいい。
そう思うのですが。

学校は行事のためにあるものではないし。
一応、修学旅行はいけるし、
合唱だってできるし、運動会も、
全校生徒の投票で決めでもすればいい。

そんなものは微々たる問題。
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