オーマイニュースだけじゃなくて、これまでいろいろな雑誌とか書籍の編集者の人を見てきた。
どれがいいとか悪い、ということじゃなくて、これは考え方の違いなんだろうけれども、すごく手を入れて、元の文章がわからなくなるくらいにして、活字になるときには、まるで編集者の書いた文章みたいになっちゃう編集者もいれば、筆者の記事をほとんどそのまま載せちゃう人もいる。これにも二通りあって、「編集」どころか「てにをは」の間違いまでそのまま載せちゃう「なんにもしない型編集者」、そして、てにをはくらいはちゃんと直したうえ、筆者に請い合わせをする編集者、問い合わせをしない編集者など、本当にさまざまな編集者とか編集部がある。
ぼくがつきあっていたころのソフトバンクの編集の人は、ほとんどが「なにもしない型」だった。逆にアスキーの編集者は「思いっきり直しちゃう型」だった。
それも同じ社内、同じ編集部でも、まず統一した基準はなかった。から、まさに個人によるところが多かった。
仕事で文章を書く、ということは、それでお金をもらう、ということもあるわけだから、書く文章は編集部の意図に沿ったものを書く必要がある。そこで、編集部がどんなに自分の文章を扱っても、校正で返ってくる文章を直す以外は、一度文章を自分の手から離してしまったら、あとは編集者の思う通りにしてもらうしかない、というところがある。そのとき、筆者はまな板の上の鯉になる。もちろん、筆者すべてがそうだ、ということはないが、あくまでぼくの場合は、ということだが。
中には、すばらしいものを書くのに、自分の文章への思い入れが激しく、しょっちゅう編集者と喧嘩して、結局はなにかのきっかけで筆を折った、という筆者は、それこそゴマンといる。そういう人をたくさん目の前で見た。
結局、編集者がどういう人であろうと、筆者一人で本も雑誌も作れるわけではない。筆者は名前こそ表に出ているものの、結局のところ「本を作る」という共同作業に参加している一人員に過ぎない。ただし、名前を表に出すから、そのぶん人に名前を知られることは多くなり、編集者よりも立場が上になる筆者はたくさんいる。責任を実名で負うぶんだけ、報酬も社会的地位も、編集者よりも少々いいことだってある。でも、それが筆者であろうが、編集者であろうが、みんなで気持ちよく仕事をしよう、ということは変わらないはずだ。
最近はあちこちのWebサイトでも「オレは筆者だ!だからオレの書いたものは一字一句直すな!」なんていう筆者もいると聞く。でも、筆者でも、本当はそれほど偉くないものだ。文豪だって「てにをは」の間違いをしているし、編集者からその間違いを指摘されて直すこともある。
要するに、筆者の社会的な立場はそういうものだ、ということ。
しかし、筆者としては、オーマイニュースの場合、編集者が編集している様子も見えないし、編集後、表に出される前にどういう文章に変わっているのかが見えない。筆者としては、大変に「怖い」と思うことがある。掲載直前でもいいから、編集された文章が筆者に見えるようにはできないものか。。。。
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