第17錠『五十嵐すみれ(5)』
◆
真夏の夜は嫌いだ。蛆が這うような熱気が、そこら中に蔓延している。
窓を開け放っていても、心地よい風が室内に吹き抜けることもない。繁原が実家から拝借して
きたという年代物の扇風機だけが、気休め程度の微風を私に送り続けてくれる。
私はソファに身体を預けて、何時間もこうして繁原の帰りを待っていた。
薄暗い部屋の中で、つけっぱなしのテレビの液晶画面だけが、そこに幽霊でも立っているかの
ようにぼんやりと光を放っている。天気予報によると、沖縄から九州にかけて台風が上陸する
おそれがあるとのことだった。台風が進路を変えてこっちまで来てくれれば、この不愉快な熱
気も少しはマシになるかもしれない。そんな馬鹿げたことを考えながら、一分一秒を無駄に過
ごしていた。
繁原がアパートに戻ってきたのは、時刻が午前0時を回ってからだった。彼は洗面台で顔の
表面に貼りついた疲れを洗い落とすと、冷蔵庫から発泡酒の缶を二つ手に取って、居間へとや
ってきた。彼が敷居の付近に立つと、パチンという音とともに部屋の暗闇がかき消された。
「起きてるなら電気くらいつけとけよ。光熱費とか気にしなくていいって言ってるじゃん」
続けざまに、エアコンが音を立てて口を開いた。
「…寝ようとしたけど寝れなかったの」
本当は光熱費のことが気がかりだった。私はこのところ、合鍵を使って毎日ほど繁原の部屋
に入り浸っている。彼が不在の際も、昼夜を問わず我が家のように出入りしている。家人が二
人に増えれば、その分光熱費も二人分だ。
繁原は私が寝転がっていたソファに程近い床に腰を下ろすと、私に発泡酒を差し出した。
「飲む?」
「いらない」
私がそう答えると、彼は一人で晩酌を始めた。ソファの縁を背もたれにして、膝を立てながら
発泡酒を煽る。知性も品性も感じられない深夜のくだらないバラエティ番組を見ては、酒を喉
に通す合間に「アホすぎるだろこいつらw」と突っ込みを入れている。
そんな繁原の横顔を見ているだけで安心した。室内に燻る熱気にうなされながら過ごした時
間が報われた気分になる。身も心も委ねられる人物が同じ空間にいる、という事実だけで、私
は空腹が満たされた幼児のような心地になる。
昔からそうだった。第一理科室での蜜月を生きる糧としていた頃から、私はなにも変わって
いない。自分以外の人間は誰も他人だと思える。だからこそ、もっとも近しい他者を求めて止
まない。変わったのは、この胸の渇きだけ。砂の中で喘ぐような渇きだけが、年齢とともに増
していく。
「ねぇ」
私はソファに横たわったまま、裸足のつま先で繁原の背中を撫でる。彼はくすぐったそうに
身を捩って私の顔を見た。彼の怪訝そうな眼を見ていると、期待と好奇心に胸が膨らんだ。
「早くシャワー浴びてくれば」
「疲れて動く気しねぇ。これ観終わったら浴びるよ」
私は身体をバネみたいに起こして、繁原の手からテレビのリモコンを奪い取った。テレビの電
源を落としてやると、彼は拗ねた子供みたいな顔で私を見た。
「なにすんだよ」
「ねぇ、お願い。汗臭いのは嫌いなの」
彼は束の間言葉を探しあぐねている様子でいたが、私がつま先を彼の膝の付け根のあたりに這
わせるのを見て、諦めたように重い腰を上げた。
「…面倒臭ぇ女だな」
言い方はぶっきらぼうだが、彼とて悪い気はしないのだろう。口元が笑っているのを私は見逃
さなかった。なんてことはない、いつも通りの予定調和だ。
繁原がシャワールームに入ると、薄い壁を通して、大粒の雨が窓を叩くような音が居間にも
響いてきた。私は喉元に込み上げてくる高揚感を抑えて、彼がテーブルの上に置いた飲みかけ
の発泡酒を一口だけ啜ってみた。少しだけ気が抜けていて、腹部をさすりたくなるような後味
だけが残る。
手にした発泡酒の缶を、しばらくじっと見つめていた。
繁原は深夜のバイトの勤務から帰ってきた時は、決まっていの一番に発泡酒のフタを開ける。
私も彼に薦められてこれまでに何度も酒盛りに付き合ってきたが、今でもアルコールは口に合
わない。どうして彼は、こんな胃にもたれるようなものを、生命の水だと言わんばかりにごく
ごくと飲むことができるのだろう。私には理解できない。
「中学生の頃、背伸びして飲んだ酒は不味かった。高校生になっても背伸びをして、飲み会で
何度も馬鹿を見た。だけどいつからだろうな?知らないうちに慣れてたよ。いつの間にか大人
になってたってことかな」
かつて繁原はそんなことを言っていた。ようは免疫の問題なのだろうか。だけど私は、いつ
まで経っても慣れない。酒を飲めるのが大人で飲めないのが子供だというなら、私はいつまで
経っても子供のままだ。いつだって自分も他人も嫌いなままで、人恋しさに免疫はない。私は
第一理科室で中原くんとじゃれ合っていた頃から、なにも変わっていない…あの頃も今も、子
供のまま…
「馬鹿馬鹿しい」
缶をテーブルの上に戻して、口元を拭った。
答えが出ない疑問に取り憑かれているよりは、思考停止のほうがまだ健全だ。繁原と私は一心
同体ではない。心の理解者と呼べるほどに心が通じ合っているわけでもない。だけど彼は、私
のことを知りたいと言ってくれる。今では私も同じ気持ちだ。
毎日顔を合わせて一つずつでも互いの心の隙を埋めていけば、いつかは正真正銘の心の理解
者になれるだろう。そんな子供じみた淡い期待だけが、私の唯一の望みだ。
シャワールームから出てくると、繁原は肩にかかるくしゃくしゃの髪を指先でもてあそびな
がら、再びテレビをつけて晩酌を始めた。私はマネキンみたいにソファにもたれかかったま
ま、じっと彼の後ろ姿を見ていた。
そうやって待っている時間は長くはなかった。繁原はきりのいいところでテレビの電源を落
として、空になった発泡酒の缶を流し台へと運んだ。戻ってくると、彼は翌朝の献立でも訊ね
るような口調で、短くこう言った。
「…する?」
「うん」
私が首肯すると、彼は無言で部屋の明かりを落とした。
つくづく、どこまでも予定調和だ。どちらの要求かによって辿るべき道筋は違っていても、
その後に行われる行為にバリエーションと呼べるほどの違いはない。することはいつも同じ。
ただ儀式のように、まさぐり合うだけだ。
深い井戸を覗き込むような薄暗い部屋の中で、彼の息遣いと、エアコンの吐き出す微風の音
しか聴こえない。
繁原と私は一心同体ではないし、心の理解者と呼べるほどに心が通じ合っているわけでもな
い。だからいつもこんなことをするのかなと、彼と素肌を重ねながら、なんとなく思った。
その翌日、久し振りに父と会った。大学を休学する旨を伝えるためだ。
父が仕事を終えるのを待って、父の職場に近いレストランに二人で入った。なんでも好きな物
を注文していいと言われたが、私は食事に頓着がない。粗食でも餓死しない程度に腹の足しに
なればそれでよかったので、軽食で済ませた。これは日常生活でも同様だ。私は強欲なあの母
とは違って、幼い頃から質素倹約が無意識に身についている。
「たまには実家に帰って、顔を見せてくれないか」
鶏肉をフォークとナイフで丁寧に切り分ける父の顔は、前回会った時よりも少しやつれて見
えた。私がいなくなってストレスのはけ口を失った母とともに生活するのは、なにかと苦労が
付きまとうのだろう。
「顔ならこうしてちゃんと見せてるじゃない。無茶言わないでよ」
私はもう、母や妹と顔を突き合わせて生活するのは二度とごめんだ。だからこそ、今の生活
を与えてくれた父には感謝している。父となら、食事くらいは付き合える。
私は父に、適当に理由を取り繕いながら、大学を休学する理由について話した。学習の内容
に疑問を感じるだの、あそこにいてもしたいことが見つからないだの、理由はなんでもよかっ
た。父は私に同情的だ。なにを言ったって、最終的には私の考えを容認してくれることは、最
初から想像の範囲内だった。
案の定、父は頭を抱えながらも、最終的には私の要求を呑んでくれた。この人は家族間の折
衝には耐えられない性質なのだ。
生活費の援助も、これまでと変わらず継続してくれるとのことだった。しかしこれ以上父に
気苦労をかけたくはなかったので、父が契約してくれたアパートに生活実態がないことは、伏
せておくことにした。
「ただし一つだけ条件がある」
話の最後に、父はそう付け加えた。家族間の交渉で父が食い下がることは珍しかった。無償
の愛にも限界があるということだろうか。
「月に一度でいいから、こうして父さんに顔を見せに来なさい。母さんやさくらが嫌いなら実
家に帰らなくたっていい。いっしょに食事をしよう。元気な姿を父さんに見せてくれ」
父のくたびれた顔を見ていると、とてもその提案に首を横に振ることはできなかった。私は
毎月必ず会いに来ると約束して、父と別れた。
父と別れた後、車のヘッドライトのようなネオンがまばゆい繁華街を抜けて、私は最寄のタ
ーミナル駅へと足を向けた。駅のホームへと通じる広場にはビルの壁面を姿見にしてブレイク
ダンスの練習をする若者や、細い声で唄うギター弾きで活気づいていた。夜こそが自分たちが
輝く舞台だと信じきっているように、彼らの表情は明るい。
そんな連中や、串焼きのように肩を寄せ合って歩く同年代の女たち。見ていて不愉快な気分
になる。ミュールが石畳を叩く音も、彼女たちの笑い声も耳障りだ。ダンスミュージックもフ
ォークソングも、消えてなくなれ。心が落ち着かなくて、いらいらする。
これだから、人の多いところは慣れない。ささくれ立つ気持ちを胸に抱えたままで広場を渡
ると、その途中に碁石の固まりのような女性の集団を見つけた。彼女らの髪の色は茶と金で統
一されており、着ている服は黒か白、アクセサリーは銀一色に統一されている。現在ではこう
いう格好をパンクだのゴシックだのと呼ぶのだろうか。私には無個性を絵に描いたような集団
に見えた。
私は一瞥を投げるだけで彼女らの脇を素通りしたが、その直後に背後から私を呼び止める声
があった。
「ねぇ、ちょっとあなた」
振り返ると、先ほどの集団の中の一人の女性が、隈のようなアイシャドーに縁取られた瞳を私
に向けていた。彼女はブーツの踵を鳴らしながら私に近づいてきた。フリルのついたミニスカ
ートの裾から、丸めた絨毯のような脚を覗かせている。
「あなた、スミレさん?スミレさんよね…?」
彼女は偶然再会した旧友の名を呼ぶ時のように声を弾ませていたが、あいにく私にはこのよ
うな手合いと知人になった記憶がない。頭の中でクラス名簿を広げてみても、目の前にいる太
ったカラスのような女性に該当する人物はいなかった。
「もしかして、覚えてない…?」
そう訊ねられたので、私は正直に首を縦に振った。すると彼女は、私の前に片腕を差し出し
て、手首を包んでいた鋲ブレスを外してみせた。彼女の手首の皮膚には、鍬で土壌を整地した
後のような直線的な盛り上がりが、いくつも連なっていた。見覚えのある、リストカット依存
症の手首だった。
彼女はその丸い顔の表面に柔らかい笑みをたたえて、こう名乗った。
「ほら、前に一度会ったじゃない。私よ。夢飼玲奈」
夢飼玲奈とは、もう二度と会うことはないと思っていた。この小さな島国には、億単位の人
間が暮らしているのだ。私は彼女の生活圏も、本名も知らない。ましてや私たちは、たった数
時間の会話を最後に、一年以上交流が断絶していたのだ。仮に数奇な偶然に導かれ街ですれ違
ったとしても、私たちはそれに気づくこともないだろう―――
そう信じていたのに、私はこうもあっさり彼女と再び対面してしまった。
突然のことに面食らって戸惑う私を、玲奈は喫茶店へと引っ張っていった。彼女はこの思い
がけない再会を奇妙な縁だと感じているようで、とても上機嫌だった。
「今日は私の奢りだから。なんでも好きな物を注文して」
彼女は父と同じようなことを言う。私は注文したキリマンジャロを口に運びながら、彼女の手
元に次から次へと運ばれてくる食器に唖然としていた。もう夕食時は逸しているのだ。食欲旺
盛にも、限度というものがある。
「今日はこの近くで好きなバンドのコンサートがあってね。ネットの友人とプチオフ会みたい
なことしてたの。そしたらその帰りにすみれさんと会うなんてね。すみれさんはこの近辺に住
んでるの?凄い偶然」
食うか喋るかどちらか一方にして欲しかったが、玲奈は一度喋り出すと止まらなかった。そ
の口調は、まるで十年来の親友と思い出話に花を咲かせているかのように、馴れ馴れしかっ
た。
だが、私にはそのような玲奈の振る舞いが、どうにも解せない。以前対面した時、私は彼女
の自己陶酔的な態度に嫌気がさして、彼女にコップの水を被せてその場を後にしたのだ。その
後和睦に至ることはなく、私は彼女との関係を一方的に断った。恨まれこそすれ、再会を喜ば
れるなんて、本来ならばあるはずのないことだ。
「あなたは…」
私には、狐のように目を細くして笑う玲奈が、かえって不気味に思えた。
「あなたは、私のことを恨んではいないの?」
訊ねると、玲奈はスプーンを持つ手を止めて、目をしばたたかせた。まるでこんな質問をさ
れるなんて予想していなかった、とでも言いたげに、顎に指を当てて宙を見つめた。
「どうして?」
「どうしてって…私はあなたに、あんな失礼なことをしたのに」
「ああ、そのことね…」
私だって、玲奈に許しを乞おうと思っているわけではない。ただ純粋に、彼女の行動が不可
解でならないだけだ。和解には対話という過程が必要なはずなのに、私たちはそのプロセスを
踏んでいないではないか。なのに彼女は、なぜ再び私と対面して、こうも邪気のない天真爛漫
な表情ができるのだろう。
玲奈は組んだ手の上に下弦の月みたいに丸くカーブした顎を乗せると、なんでもないことの
ように、さらっと言ってのけた。
「私はね、変わったのよ」
「変わった…?」
「そう、変わったの。この一年の間にいろいろあって、私は変わったわ。確かに一年前、あな
たに水を浴びせて逃げられた時は、私も憤慨したわよ。後を追って、駅のホームから突き落と
してやろうかと思った。あなたのパソコンにウィルスメールを送りつけてやろうかとも考えた
わ。あなたが私の敵みたいに思えた。あなたのことを思い出す度に、壁に唾を吐きたくなるよ
うだったわ」
それは私も同感だと思ったが、口には出さなかった。
「…でもね、時が経つにつれて、気づいたのよ。本当に愚かだったのは、私のほうだったんだ
ってね」
目から鱗が落ちそうだった。私がこれまで彼女を軽蔑してきたのは、彼女がそのように我が身
を省みる心など持ち合わせていないような人間だと思っていたからだ。
「前にすみれさんと会った時の私は、傷つきやすい自分の性格に酔って、あなたにそれを押し
付けようとしていたわね。自分を世界から弾き出された被害者だと思い込んで、あなたもそう
なんだと勝手に決め付けていたわ。あなたの立場なら、私みたいな見た目も心も醜い女に似た
もの同士だなんて言われたら、腹が立って当然よ。今になって振り返れば、水をかけられるの
も仕方のないことよね」
玲奈の口から、こんな謙虚で真摯な言葉が聞けるとは思わなかった。私が知っている傲慢で
恥知らずな彼女とは、まるで別人だ。
それからも玲奈は、自身に起こった変化について、その詳細を語り始めた。この一年間の私
生活の紆余曲折や、その当時の心境。ほとんど彼女が一方的に喋っているだけだったが、聞い
ていて悪い気はしなかった。
時が過ぎれば、人は変わるものだ。砂を舐めて暮らしていたって、そんなことが永遠に続く
わけではない。些細なきっかけがいくつも積み重なって、人は次第に変化してゆく。
だけど私はそうはなれない、という思いが漠然とあった。この世には、手の施しようのない
不良品も存在する。今更、別人のように生まれ変わった自分なんて想像できない。明るい未
来、穏やかな心。そんなものは、私には絵本の中の世界のように現実味がない。
「ありがとう。今日は楽しかったわ」
別れ際、私は世辞ではなく、本心から玲奈にそう言った。
玲奈は丸い顔を更に丸くして笑うと、一枚の紙切れを私に差し出した。
「これ、私が職場で使ってる名刺。気が向いたら、いつでも連絡してちょうだい。またいっし
ょに食事しましょう」
名刺には、携帯電話の番号とアドレス、それにハンドルネームではない、彼女の本名が記載さ
れていた。本田陽子―――漫画や小説にでも出てきそうなハンドルネームとは似ても似つかな
い、ごく平凡な、ありふれた名前だった。
「必ず連絡するわ」
それは世辞には違いなかったが、この名刺の存在を心のどこかに留めておくのも悪くはない
と思った。
最後に小さく会釈をして、私たちは駅の改札口で別れた。
そしてまた、同じフィルムを何度も焼き増ししたような日々が戻ってくる。
私は外界を遮断するように繁原のアパートに入り浸り、彼が部屋に戻ってくると、馬鹿の一つ
覚えみたいに同じことを要求し続けた。繁原は度々それを億劫がったが、一度それが始まる
と、他のことなんてなにも考えられない微生物みたいに、私ともども動物じみたその行為に没
頭した。
私はセックスを神聖視することはないし、繁原だってそんな気は毛頭ないだろう。ただ、他
の手段を知らないだけだ。それは、普段は完全には理解し合えない私たちが、他のことなんて
なにも考えられない微生物と化す、という一点において、共通することができる行為だった。
閉じた部屋の中、頭は蒸すように熱くなっていって、世界が抽象化される。
堪え切れずに漏れ出る息と汗の匂いに耽溺して、私たちはこうすることでしか互いを理解でき
ない、ということを理解する。後にはいつも、膝を抱えたくなるような後悔だけが残った。
繁原は、理解し合えないから互いに理解し合おうとするのだと言った。その通りなのかもし
れない。ならば、私たちはいつになれば、どこまでも通じ合える心の理解者になれるというの
か。
先が見えないというのは、一生かけて底の見えない落とし穴を落ちていくような気分だ。
私の中でとうとうなにかが切れたのは、盆を過ぎたある日のことだった。
その日の夕方、私は繁原と二人でショッピングモールを訪れていた。繁原が専門学校の授業も
アルバイトもなく終日自由の身でいられる日は、そう多くない。私は彼の部屋で惰眠を貪って
いるだけでもじゅうぶんだったが、彼はたまの休日にはよく外出したがった。
ショッピングモールの敷地内は、平日にも関わらず多くの人で賑わっていた。世間では今は
夏休みだ。女子高生のグループや大学生の男女が、切って貼ったような笑顔をぶら下げて、広
場を歩いていた。
その広場で、彼の姿を見つけた。彼は地面の蟻を観察でもするかのように、顔を下にしてと
ぼとぼと歩いていた。無造作に伸びた髪で顔が隠れていても、私は輪郭だけで彼の素性を判ず
ることができた。
「……な」
彼の名を呼びかけて、私は言葉を飲み込んだ。
―――中原くん。
「どうかしたのか?」
思わず立ち止まっていると、隣の繁原に肩を叩かれた。
「なんだよいきなり、幽霊にでも会ったみたいな顔して」
幽霊だって?その通りかもしれない。密室で過ごしたあの日々が風化してしまってからも、
心のどこかではいつも彼の名前を呼んでいた。
胸に正体不明の感情を宿した。その正体も突き止めぬままに尻切れとんぼで密室での日々が
終わってしまったことを、後悔しているのかもしれない。あの時抱いた感情の正体は、私が心
の理解者という言葉の意味について考えれば考えるほど、靄がかかって見えなくなっていくよ
うだった。
「なんか忘れ物でもあった?」
繁原は中原くんに気づいていない様子だった。私は首を横に振って、彼に気取られまいと中
原くんから視線を逸らした。
だけど、その場を動くことはできなかった。喉の奥では、私は中原くんの名前を呼んでい
る。動揺しているのか、胃の中で渦が巻いている。ずっとひた隠しにしていた正体不明の感情
が甦るような感覚を覚える。
「腹が痛いのか?だったらトイレ行くか?」
私は繁原の間の抜けた質問に再び首を振って、彼のシャツの袖をきゅっと掴んだ。そうして
いないと、膝から地面に落ちてしまいそうだったから。
結局、私は中原くんに声はかけられず、しばらくすると繁原の腕を引っ張って、反対側へと
歩き始めた。その後の私はずっと上の空だった。本当に幽霊にでも怯えているかのように。
その日の夜も、私は繁原の腕に抱かれた。抱かれながら、中原くんのことを考えていた。
そんなことは初めてだった。部屋を出た後で、ガスの元栓を閉め忘れてやしないかと、不安が
頭から離れない。そんな感覚だった。その夜のセックスは、胸が詰まって、息苦しかった。
空も明るんでくる時刻。微かな窓の明かり以外は影に飲み込まれた部屋の中で、壁に背を預
けて膝を抱えていた。繁原はベッドの上で、シーツを蹴飛ばして寝息を立てている。私の心は
落ち着かないままで、一睡もできずに朝を迎えてしまった。
密室で過ごした日々は、まだ風化していなかった。今の私はあの頃のわだかまりの延長線上
に生きている。彼が思い出の中の人物になっていれば、私も夢飼玲奈がそうしたように、懐か
しんで声をかけるくらいは、できたはずなのに。
とどのつまり、私はなにも変わらないままで、今の今まで生きている。こうして膝を抱えて
いる今も、密室の日々は続いているのだ。
私は荷物の中から一葉の名刺を取り出すと、そこに書かれた電話番号をプッシュした。しば
らく海に潜ったようなコール音が続いた後、私の名を訊ねる声が聴こえてきた。こんな非常識
な時間だというのに、彼女はまだ起きていた。
「私、すみれよ。五十嵐すみれ」
この時、私は夢飼玲奈に初めて本名を告げた。彼女は歓待の言葉で私を受け入れてくれた
が、私は声が震えてしまって、どんなふうにこの感情を言葉にすればいいのか量りかねてい
た。出てきた言葉は、きっと相手にすれば要領を得ないもので、私にとってはわけもなく心に
留まっている詩の一節のような、ぼんやりとしたものだった。
「ねぇ、教えてよ…どうすれば変われるのよ」
そんな取り留めのない言葉が、雑巾から搾り出す一滴の雫のように、口から出てきた。
携帯電話のスピーカーの向こうで、玲奈が「突然どうしたの」と小さく驚いていた。
「本当、どうしちゃったのかな」
自分でも、自分が分からなくなる。長い間不感症でいたせいで、久し振りの胸の痛みに、動揺
しているのかもしれない。
搾り出した言葉の後に、しゃくり上げるような嗚咽が続いた。
◆