

6月号 表紙

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■Books(書評) 6月号
花畑
水上 勉著/講談社 1,700円
老人と娘との切ない交流を描く
日本へ出稼ぎにきたフィリピン人の娘たちと信州佐久の老職人たちとの、愛しくも切ない触れ合いを描いた、気持ちのいい小説である。去年の夏、八十五歳で他界した著者の遺作となった作品。
かつて旅先の北京で天安門事件に遭遇し、心不全で倒れた老作家が、持病の心筋梗塞を抱えて、寒さのきびしい軽井沢の山居を引き払い、温暖な信州佐久の山村に移り住む。
小説の前半は、まだ建築途上の山荘に出入りする職人たちや、その連れの出稼ぎのフィリピン娘たちとの交流を、身近小説のように淡々と描いたもの。
新幹線工事の余得で、突如片田舎に出現した安普請の毒々しい歓楽街。そこで風俗嬢として働くけなげな異国の娘たち。その娘たちを小鳥のように愛でる佐久の老職人たちの、どこかとぼけてのどかな在所の語り口がいい。
こんな印象的な述懐がある。
「私や小寺源吉のように、七十をすぎた老人組には、どことなくよそよそしくされる威勢のいい日本人娘よりも、外国から働きにきている娘の、なぜかたよりなげで、ひかえめに生きている態度の方が好ましく眼にうつる。源吉さんにいわせると、『何もかもに、ひたすら手をあわせてありがたがる』その心だてにほだされるのである。」と。
小寺源吉は七十三歳になる左官職人だが、独り身で気楽なせいもあって、風俗嬢のカオルさんを家へ呼び、食事をつくってもらったり、一緒に風呂に入ったりして、年金も仕事で稼いだ金も惜しげもなくわたしている。性的な関係はなにもないのだが、それが嬉しいのだというのだ。
小説の後半はこの源吉さんとカオルさんとの交流が芯になって、出稼ぎの娘たちの哀しみや、あどけない愛らしさが切ないほどに描き出されていく。
源吉さんがつぶやく。
「センセよ。おらた、磯辺へ嫁にいってる実の娘よりも、カオリが好きだった。作市らのように元気もねえから、寝てやる勇気はなかったけもよ。この年ンなって、仕事して帰る夕暮れにあの娘が、ふた股の杉木立で待っていねえと淋しいんだわな。おかしなもんだな。おらた年とってから急に春がきてよ、鳥が肩にとまってくれてさえずってたような気分を味あわせてもらってよ」
そんな老職人の幸せな日々も、不意打ちのような警察の一斉取締で、風俗営業法違反と不法滞在で娘たちが逮捕されたことで、あっけなくくずれ去ってしまう。
娘たちが歓楽街から姿を消した秋、山荘の花畑の花も時ならぬ霜で全滅し、老作家は主治医と妻の忠告に従って山を下りる。自身の死を予感したような、淋しい末尾である。(評・深大寺恒)
大人の友情
河合隼雄著/朝日新聞社 1,200円
ほんとうの友とは何か
友情は人生最後の財産といわれるが、友情について書かれた処世の書は、古今東西数えきれないほどある。どれも確かに友情とは何かを教え、「ほんとうの友人」をもつことは人生においていかに大切かを教えている。
文句のつけようがない。では「ほんとうの友人」とは、どんな友人をさすのだろうか。著者は次のようなエピソードで、友人とは「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」と、ある心理学者の講義を紹介している。このような友人は「究極の友人」かもしれない。つまり深い信頼関係で結ばれた友人こそが、「ほんとうの友人」ということだ。
「賢い人には友がいない」という日本の諺がある。確かに頭がよく切れて、すべてを見抜いている友人には近づきがたい。「馬が合う」いい人物だが、あまりにも賢すぎてどうにもならない。友人は少しバカがいいのではないだろうか。こっちも少しバカになって。
著者はいう。「友人の悲しみに同調するのは、それほど難しくはないが、喜びに対しては、思いがけない嫉妬が動きはじめることが多いのである。この方が普通だと言っていいだろう」と。これは至言であり、そのために出る釘は打たれるのだ。お互いに友人気取りでいるが、与謝野鉄幹の詩句のように、「我が喜びに友は舞う」だろうか。とすれば友情は、世の栄達や出世のないところでしか育たないようだし、一心同体の友情などは、不可能に近いとも著者はいう。鋭いリアリストの眼である。
友情があれば、そこには「裏切り」もあるだろう。だから常に裏切りの可能性を持つ関係を認めた上で、相手の弱点よりもよさを感じるのが、強いではなく深い友情ではないだろうか、とも著者は裏切りの回避を示唆している。いろいろな事情にもよるのだろうが、考えさせられる。つまり友情の裏切りとは、相手に対する自己同一視の産物ということだ。
友情も、現代のような国際化された時代になれば、複雑になるのは当然である。「去る物日々に疎し」というが、遠く離れると友情も疎遠になることは否定できない。
だが毎日顔を突き合わせる友人よりも、年に一度も会えない遠い友人のほうが、深い友情を感ずることもある。文化や習俗の違う友人ほど、そのように感じられるのはどうしてだろう。電話や手紙、そして贈り物の交換なども友情の支えになっているようだ。
友情についての諺も多くのことを教えてくれる。それらは、ぎすぎすした人間関係において、非常に重要になってくるのは確かだろう。(評・亜沙ふみ郎)
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