企画特集:「竹島」
【波頭を越えて 竹島リポート 第3部】(1)初めて語る拿捕・抑留
3年半“人質外交”の犠牲に
「これは本気だ、と気づいたとき、ものすごい恐怖に襲われた。今でも、昨日のことのように覚えている」
下関市の伊達彪(81)は、韓国の軍艦に拿捕(だほ)された半世紀以上前のことを、この夏、初めて語り出した。
27歳の夏だった。「第五玉力丸」に乗り、2隻1組で底引き網漁をしていた。対馬海峡の巨済島南30カイリ。海面は濃霧にかすんでいた。船長の伊達は操舵(そうだ)室で、左舷約200メートルを航行する主船を見守っていた。
後方から物音がしているような気がしたとき、突如霧をくぐり抜けるように軍艦が現れ、左舷50メートル横を並航し始めた。
「韓国船だ!」。慌てて非常ベルを鳴らした。跳び起きた船員たちは、主船との間に渡された漁具の切断にかかった。
銃を構えた兵士に至近距離で威嚇されながらも、懸命に振り切ろうとする玉力丸と追いすがる軍艦はジグザグに並航を続けた末、ついに拿捕。2人の兵隊が乗り込み、軍艦へ移るよう命じた。
続いて軍艦は主船の追尾を始めたが、突如左へ旋回。不思議に思っていると、艦長は重々しく「(李)ラインを外れました」と宣言した。主船が李ラインの外へ逃げ切ったため、追尾をあきらめたのだ。
艦内に連行された伊達はさらに、「ダッダッダッダー」という機関砲の連射音を何度も聞いた。身を縮めていると、軍艦の機関長が「皆殺しにされますよ」とつぶやいた。恐怖で縮めた体が、ぶるぶると震えた。
さらに銃撃が続いた後、軍艦は別の日本漁船2隻を拿捕し、船長たちを連行してきた。言葉もなく顔を見合わせる三十数人は、その日の夕方、釜山まで運ばれた。
伊達の長い抑留生活が始まった。
伊達が拿捕されたのは昭和29年7月19日。韓国が竹島を含む公海上に一方的に「李承晩ライン」を設定し、領海とすると宣言した2年後だ。だが、ラインが廃止され、韓流ブームに沸く21世紀の今も、伊達が拿捕された現場よりずっと日本寄りの海域で、韓国の違法操業が後を絶たない。
今年3月。夜の闇をついて松江市沖約16キロの日本領海内でアナゴ漁をしていた韓国漁船6隻を、海上保安庁のヘリコプターが発見した。停船命令を無視して四方へ逃走する船を海上保安部の巡視船や水産庁の取締船などが12時間にわたり追跡し、4隻を拿捕した。
新日韓漁業協定が発効した平成11年に、日本のEEZ(排他的経済水域)内において違法操業したとして拿捕された韓国漁船は20隻。ピークの14年(33隻)以降は減少を続けているが、水産庁の担当者は「違法操業自体が減っているのではなく、手口が巧妙化し、検挙できなくなっている」とため息をつく。
伊達が拿捕・抑留時代のことをこれまで語ろうとしなかったのは、あまりにつらく苦しい記憶と、「周囲に迷惑をかけた」という思いのためだ。だが81歳を迎え、老いを感じたとき、進展しない竹島問題がどうしても気になった。あの経験を、今語り伝えておかねばならないのではないか。取材に応じるため、伊達は病院から指示された再検査の日程を延期した。
形ばかりの裁判で懲役1年の判決を受けた伊達は、「3カ月以上抑留された人はいない」と検事から言われていた。だが、抑留船員の釈放を求める日本に、韓国側は李ラインを認め、朝鮮半島に残した日本人の財産請求権を放棄するよう迫るなど“人質外交”を行い、結局抑留は3年半もの長期に及んだ。
昭和33年2月、釈放されて下関へ帰ると会社は倒産していた。別の会社に就職して再び漁船に乗った。
「韓国は不法に引いた李ラインを根拠にわれわれを拿捕し、抑留し、人質に利用した。その海に今も近づけず、何も解決していないのは情けない。竹島問題をこのまま放置すれば、将来もっと大変なことになる」
この思いに、国はどう応えてきただろうか。(文中敬称略)
韓国に実効支配されているわが国固有の領土、竹島の領有権をめぐる問題は、国交正常化から40年以上が経過した今日も何ら進展していない。関係者の話から、その原因を探った。
【用語解説】李承晩ライン
1951年(昭和26)6月付のサンフランシスコ講和条約草案で竹島が日本領に含まれると、韓国は自国領土とするよう修正を要求したが米国は拒否、同年9月に調印された。領土の最終決定は平和条約によるのが国際法上の原則だが、李ラインは条約発効まで3カ月というタイミングの52年1月に宣言された。米、英、中国も違法性を指摘したが、翌年李大統領はライン内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、漁労長の射殺事件が発生した。
李ラインの表向きの理由は「隣接国との平和維持」だったが、韓国の対日賠償要求を米国が抑えにかかっていたため、今後の日韓本会談への支援は得られないとみて、交渉材料を作り出そうとしたのが真のねらいだったとされる。65(昭和40)年の日韓基本条約締結までの13年間、李ラインによる日本漁船の拿捕は300隻以上にのぼり、4000人近くが抑留された。