企画特集:「竹島」
【波頭を越えて 竹島リポート 第1部】(5)53年前 最後の漁
11人 巡視船5隻に守られて
昭和27年1月18日。韓国が日本海などの公海上に「李承晩ライン」を引き、竹島を「自国領」にしたというニュースを聞いた八幡尚義(かつよし)(80)は驚いたものの、内心「そんな暴挙が通るわけがない」と楽観していた。ずっと前から叔父も漁師仲間もよく出漁していたし、五箇村(現・島根県隠岐の島町)の所属にもなっている。
「戦後のごたごたが片付けば、また漁に出られるだろう」
同年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約で、竹島は日本領土と改めて確定されたが、韓国は翌年、ライン内に出漁した日本漁船の拿捕(だほ)を指示。2月には日本の第1大邦丸の漁労長が射殺された。
6月末、島根県と海上保安庁は竹島調査の際、「島根県隠地郡五箇村竹島」と書いた標柱のほか、外国人の立ち入りを禁ずる立て札を立てた。日本語の脇には、ハングルも添えられていた。日韓双方が、相手の標柱を抜きあうような状況が続いていたからだ。
尚義は29年5月、島根県の要請で、地元の久見漁協関係者10人とともに竹島へ試験操業に出た。「取っても取っても翌日同じ場所にアワビがいるぞ」と父の才太郎や叔父の伊三郎から聞いていただけに胸が高鳴った。
県の漁業取締船「島風」にカナギ漁(アワビ漁)用のカンコ(小舟)3隻を載せて夜に出航。巡視船5隻が護衛する物々しい雰囲気の中、迎えた朝は波も穏やかだった。初めて目にした水平線に浮かぶ竹島は思っていたより小さく、アシカの姿が14、15頭見えた。「早く漁を始めたい」。韓国船を警戒するより、その気持ちが先にたった。
カンコを西島と東島の間に漕ぎ出し、まずワカメを取った。「隠岐の倍くらい、1〜2メートルはあった。何ぼでも取れて、すごいところやった」と目を細める。何しろ、わずか1〜2時間で舟10杯分も取れたのだ。
アワビとサザエは約100貫(375キロ)と、聞いていたほどは取れなかったが、これも隠岐の物とは違った。「目方が2倍もあって、味が良かったなあ。聞いちょった通りやった」
翌日午後に隠岐の福浦港へ帰ると、漁師仲間から質問攻めにあった。漁業権がありながら行けない仲間のいらだちを感じた。だが、このときもまだ尚義は楽観していた。
「竹島は日本の領土ちゅう感覚しかなかったですからねえ。いずれは戻ってくるから、また行ける、と信じてました」
だが翌月、韓国は竹島に海岸警備隊を派遣。その後40年に日韓基本条約と日韓漁業協定が結ばれるまで、300隻以上の日本漁船が拿捕された。尚義たちの漁は、日本側が竹島で行った最後の漁になった。
あれから半世紀。一緒に漁をした仲間はみな鬼籍に入った。尚義も80歳になり、海へ出るには体がきつくなった。それでも2年前、島根県が2月22日を「竹島の日」とする条例を制定すると、尚義には日韓のマスコミから取材が殺到。請われるまま船に乗り、竹島の方角を指して思いを語った。だがその盛り上がりも、今年の「竹島の日」にはすでに治まっていた。領土問題は解決していないのに、一過性のニュースのように扱われたことに、愕然(がくぜん)とした。
弟の昭三(78)らは、隠岐に竹島の資料館を作る計画を進め始めた。父や叔父、兄の話を折に触れ、メモ用紙に書き出している。その端々に、昭三の強い思いが、大きな字で何度も書かれている。
「生き証人」たちからは、いつまで話が聞けるのか。その間に、せめて一歩でも解決へ動き出してほしい−。(文中敬称略)
=第1部は、総合編集部 木村さやかが担当しました。