企画特集:「竹島」
【波頭を越えて 竹島リポート 第1部】(4)アシカの繁殖地
「飼育」しサーカスへ販売
「あん人は、だいぶんアシカを持って帰りました。そこの川に泳がしておりましたなあ」
昭和初期に竹島でアシカ漁に従事した中本歓太郎の妻、クニ子(94)は、久見漁港(島根県隠岐の島町)近くの川に当時、アシカがたくさんいたと話す。
「竹島漁猟合資会社」の共同経営者の一人、橋岡忠重の聞き書きには、「昭和11年春秋2回出漁、20頭近くアシカを捕獲し相当の利益があった。木下サーカスには、14年まで秋とれる小さいアシカを1匹200円にて売却した」とある。同社では当初、毎年1000頭前後捕獲したアシカの皮を皮革製品に、油脂をせっけんなどに加工販売していたが、橋岡は昭和8年から、生け捕りにしたアシカを年20〜30頭、サーカスや動物園へ売るようになった。
大阪市立天王寺動物園には、園長が竹島でのアシカ漁に同行し、捕らえたニホンアシカを同園で飼育したという記録も残っている。主要な繁殖地だった竹島からは、京阪神の広い範囲に「竹島産」が流通していたのだ。
歓太郎が竹島へ出漁したとき、クニ子は乳飲み子を含む4人の子育てに追われていた。「危ない航海で、生きて帰れるかは分からん」と聞かされ、前夜には水杯を交わした。出漁中は、毎日子供の手をひいて近くの神社にはだし参りをし、無事を祈った。船が無事に着いたかも分からなければ、いつ帰るという見通しも立たない。さぞ心配だったでしょう、と聞くと「(夫が)いない間の百姓仕事は大変でした」と、ぽつりとつぶやいた。
力自慢だった夫は、アシカ漁専門で活躍。帰るとまたカナギ漁(アワビ漁)や農作業に戻って働いた。
歓太郎が出漁していたころ、「親方」は税務署の目が届かない竹島でさかんにどぶろくを作っていた、と八幡昭三(78)は父、才太郎から聞いている。それを隠岐へ「輸出」して稼いだが、賃金に不満をつのらせた漁師たちは、どぶろくを飲むばかりで働かなくなり、3年後に赤字になった「親方」は方向転換を余儀なくされた−と。
叔父の伊三郎は「竹島のどぶろくはうまかった」とよく話していた。奥から水が落ちている洞窟(どうくつ)があり、その水はやや塩気があるが飲料水にもでき、どぶろくに適したらしい。「米を15俵も隠岐から運び、夜はどぶろく仕込みの仕事をした」という。酒を飲まない歓太郎はクニ子にどぶろくの話も漁の話もせず、「飯は十分食えた」とだけ語っていた。十分な食事と酒だけが、厳しい仕事のせめてもの慰みだったのだろう。
隠岐には子アシカの飼育係もいた。昭三は「釜屋のじいさん」と呼ばれていた近所の老人が世話をしていた姿を覚えている。じいさんは川の中に作ったいけすにアシカを放し、いつもそのそばで、アシカの毛皮の上にあぐらをかいていた。
「アシカは生後3カ月までは死亡率が高いが、半年を過ぎてしまうと人に慣れないうえ、芸も覚えなくなるから、3カ月から半年になるまでは、こっちで育ててから売っていた。小魚を与えると、後をついてくるほどなついたりして、そりゃあかわいいもんじゃった」
隠岐では戦後しばらくまで、川に泳ぐアシカが日常的に見られた。だが、竹島での繁殖は昭和47年まで確認されたものの、個体の最後の目撃例は50年。その後、生息情報は今も得られていない。
原因には、隠岐の人々による捕獲も挙げられているが、許可制だった漁は常に「保存計画」と並行して進められていた。だが戦後、竹島の実効支配を始めた韓国政府は保護政策をとらず、むしろ軍事要塞(ようさい)化により環境破壊が進んだ。「李承晩ライン」が引かれなければ、ニホンアシカたちは今も、竹島の洞窟で体を休めていたかもしれない。(文中敬称略)