企画特集:「竹島」
【波頭を越えて 竹島リポート 第1部】(3)念願の地先権
太平洋戦争勃発で開拓断念
拝啓、竹下官房長官殿−。昭和46年12月、当時83歳だった八幡才太郎は東京の議員会館を訪ね、竹島の返還への思いをつづった手紙を竹下登に届けた。才太郎は本人との面会を求めたが会えず、やむなく秘書に手渡して隠岐へ戻った。
五箇村(現・島根県隠岐の島町)の収入役も務めた才太郎は、同村が竹島の地先権を持つにもかかわらず、領土問題が進展しないため竹島での漁ができない現状を打破してほしいと懇願し、竹島と隠岐のかかわりを付記している。だが、「島根県選出の偉い先生だから」と才太郎が頼った竹下が問題解決に動くことは、結局なかった。
三男の昭三(78)は昨年1月、この手紙や才太郎の日記から、竹島の話をまとめた「竹島日誌」を編集、発行した。昭三は竹島で9回漁業に従事した叔父の伊三郎からもさまざまな話を聞いていた。才太郎からは膨大な資料を託されていた。竹島を伝えることは使命とも感じた。
折しも、島根県が制定した「竹島の日」を迎えるに当たり、竹島問題はこれまでにないほど取り上げられていた。何十冊とコピーをとり、マスコミや自治体、議員など、思いつくところ全部に送った。韓国マスコミは昭三の自宅へ殺到し、混乱を懸念した警察官が警戒するようにまでなった。
昭和初期まで、山林の多い五箇村で現金収入を得る手段は、木挽(こびき)と塩漬けにした魚を島外へ売ることだった。
だが、大正末期ごろから製材所が発達し、木挽材は売れなくなった。次いで製氷所が発達すると鮮魚が流通し、塩魚は売れなくなる。村民の生活は困窮し、才太郎のいた久見(くみ)漁港では何度も集会が開かれ、打開策を論じた。竹島の海が海産物の宝庫と知っていた才太郎は「竹島の漁場を活用してはどうか」と提案した。
カナギ漁(アワビ漁)用のカンコ(小舟)を載せる母船を建造して竹島周辺で操業し、いけすも作る。海産物は境港や舞鶴港に出荷し、そこを販路の基地として京阪神に売り込む−。壮大な計画に、漁民の夢は膨らんだ。昭和2年、久見漁業組合は竹島の地先権獲得を目指すことを決定。「読み書きも堪能だから」と、当時40歳だった才太郎が20円の「経費」で手続きすべてを一任された。
松江へは、久見から本土への定期便が出ている西郷港まで約6キロの山道を5〜6時間かけて越えここで1泊、さらに朝の船で約半日の道程。少なく見積もっても1往復に4日はかかった。だが、「他県が(竹島を)ねらってアシカ漁の準備をしている」との情報もあり、才太郎は足しげく松江へ通った。
「今はトンネルができて道が整備され、バスも走っているが、当時は大変な道のりだった。草履にはだしでそんな山道を黙々と歩いていた親父を、私は尊敬しています」と昭三は話す。海が荒れて船が何日も出ず、港で足止めになったこともあり、交通費と宿泊費がかさんで結局足が出た。1年半後の4年4月、念願の地先権が付与されると、久見の港はお祭り騒ぎになった。
だが組合に資金は乏しかったため、事業開始は積立金がたまるのを待つことに。そこへ太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)し、竹島開発は結局断念せざるを得なくなった。文字通り、足を棒にして奔走した才太郎の悔しさは、言葉にできないほどだった。李承晩ラインがひかれ、久見の漁師が一方的に締め出された後も、漁協に何の補償もない現状は才太郎にはあまりにも耐え難く、最後まで嘆いていた姿が昭三の目に焼きついている
「今の若い人たちに、声を大にして申し伝えたい。竹島は、そうやって日本人が開拓し、守り伝えてきた大切な領土なんだ、と」(文中敬称略)