企画特集:「竹島」
【波頭を越えて 竹島リポート 第1部】(2)ダイヤモンドの海
糧を稼いだ命懸けの漁場
「トド(アシカ)はあまっちょった(たくさんいた)が、漁はきついし、恐ろしかった。トドは船を跳ね飛ばし、噛(か)みちぎってしまうんだ」
昭和9年5月。「竹島漁猟合資会社」の橋岡忠重に雇われ、約1カ月間竹島での漁に従事した吉山武(96)は、70年以上前の竹島の様子を鮮やかに覚えていた。西郷町(現隠岐の島町)発行の「ふるさとアルバム西郷」に収められた竹島でのアシカ漁の写真を見せると、突然、吉山が「ら(おれだ)」と指さした。
示したのは「昭和9年6月、竹島・東島の浜撮影」とされた写真。当時23歳の吉山が、口元を引き締め、ねじり鉢巻き姿で写っている。「黒田、大和屋、福田屋、米屋…」と、吉山は一緒に写る15人の名や屋号も次々と挙げ、後日調査に訪れた島根県の竹島問題研究会のメンバーを驚かせた
昭和初期に竹島で撮影された写真は何枚か地元に残っていたが、被写体本人が確認できたのは初めてだった。この調査をきっかけに、「これはあそこの米屋では」と、次々と詳細が判明。日本で長らく放置されていた「竹島資料」が、一気に厚みを増すことになった。
吉山はカナギ漁(アワビ漁)専門。「隠岐の島後(とうご)で右に出るものはなかった」と息子の高重(69)はいうが、竹島でカナギ漁を担当したのは「最もよく働く」と連れて来た朝鮮・済州島の海女4人。吉山は未経験のアシカ漁を手伝わされた。「漁師というより、体格のいい力持ちばかりが集められた」という。
洞窟(どうくつ)の入り口に網を張り、洞窟内にいるアシカを追い立てて網へ押し込む漁は、とにかく体力勝負。「噛まれちゃあ、ちぎられてしまう」と屈強な吉山がその怖さを強調する。「すばしっこい米屋が網をうまくさばいた。あいつは相撲も強かったからなあ」と懐かしんだ。
海女は日本語も堪能で、食事の支度もしてくれた。だが、朝鮮半島の船が操業していたことは、見たことも聞いたこともない。「海女が雇われて来るようになって初めて、(韓国は)漁ができると知ったようだった」
今は韓国が実効支配していて、日本からは行けないと話すと、意外そうな表情でつぶやいた。
「もうあの島、行かれんかの。つまらんだか」
同じくカナギ漁の名人だった八幡伊三郎は昭和8〜13年、計9回竹島に渡った。アワビを探す仕事柄、海中の様子は誰よりも熟知していた。
竹島の話を折に触れ聞いていたおいの八幡昭三(78)は約30年前のある日、「竹島の外観は航空写真を撮れば簡単に分かるが、海の中のことはおじさんにしか分からない。ひとつ地図を描いてくれないか」と頼んだことがある。「おれは長年苦労したからな。全部分かるぞ」と二つ返事で引き受けた伊三郎は、半分に折った障子紙に、筆でものの10分で描き上げた。
底瀬でアワビがよく取れる場所。サメに子供が襲われないよう、アシカが出産に使う、2つ並んだ洞窟。竹島周辺は浅瀬だが、あるラインから急に400〜600メートルもがくんと落ち込んで深くなる。このため潮は速いが、栄養分が多く、ワカメも大きいしアワビも良質のものが取れる−。伊三郎は「このへん(隠岐)の海が石ころだとしたら、竹島の海はダイヤモンドだぞ」と目を輝かせた。
基本日当は1円50銭。牛1頭が7円ぐらいだった当時では、破格の手間賃だった。それだけに、えりすぐりの“プロ”が集められたのだろう。吉山も当時を、「収入が倍になって、かか(妻)が喜んだなあ」と笑顔で振り返った。
竹島をただの「小さな無人島」として、韓国へ譲って「友情島」にできないかと書き、物議をかもした新聞も日本にはある。だが、日本の漁師たちの体験したそこは、まさに命を賭けて生活の糧を稼いだ「宝島」だったのだ。(文中敬称略)