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山崎 種二 そろばん 第1話~第41話


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2007年12月03日(月) 21時21分14秒

第1話 生い立ち 第2話は↓

テーマ:6. 技術のお話し
 上州の空っ風が吹き荒れていた明治二十六年、師走の八日に私は生まれた。
干支は巳である。巳年生まれはお金に縁があるという。この話はたしかのようだ。
ただ、私の場合、皮肉な事にお金はお金でも借金を背負って人生を出発する事になった。
まさに赤字の赤子であった。

 私が産声をあげた時、私の家は水呑み百姓同然のところまで落ちぶれていたのである。
つかった産湯はとても冷たかったに違いない。しかし、もともとの百姓ではなかった。

家系をたどってみると先祖はれっきとした武士であった。七日市にあって上州を治める
加賀前田家の分家に代々仕えていたが、何代目かの時、武士を嫌って百姓になったのだという。
その後、百姓とはいえ苗字・帯刀を許されていたところからみて、まずまちがいはあるまい。
暮し向きも相当なものだったようだ。

 十一代目にあたる祖父、兵衛は横浜の生糸商原合名とも取り引きをもち、生糸相場もやっていた。
ところが、明治十七年に埼玉県秩父郡で発生した例の秩父事件が群馬にも飛び火し、
農民の襲撃を受けた。五つほどあった土蔵はすっかりカラになり、門も焼かれてしまったという。

私の記憶ではたしか土蔵が二つ残っていた。この事件をキッカケに家運が傾いたのである。
その上、兵衛の長男武平を始め、二男、三男、つまり私の伯父達は血筋を受けて才気にあふれ、
生糸相場をはったり、あれこれ事業に手を出しては失敗した。
五人兄弟の中で、四番目の宇太郎が家を継ぐことになったのは一番おとなしかったからである。
それが、山崎家の十二代目、私の父であった。

 田地、田畑は借金の抵当に入り、利息に追われることになった。当時は低利で融資してくれる
ような金融機関もなく、借金の相手は御多聞に洩れず高利貸であったからである。
その人は群馬一の高利貸といわれた森平友次であった。

今もなお覚えているのは、崩れかけた土蔵が二つ、そして祖父、兵衛の「考え五両、働き一両。
種ニよ、しっかりやってくれ。お前以外に、この家をたて直すものはいないんだよ」という繰り言だった。
はっきりと意味はつかめないながら、幼な心にも何か通ずるところがあったにちがいない。
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