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艦長「申し訳ありません」 目を赤くし頭下げ続け

2008年02月28日03時01分

 「申し訳ありませんでした」。イージス艦「あたご」と漁船清徳丸の衝突事故で、あたご艦長の舩渡(ふなと)健1佐(52)が27日、清徳丸船長の吉清(きちせい)治夫さん(58)と長男哲大(てつひろ)さん(23)の家族に対し、目を赤くしながら頭を下げた。事故から1週間余がたったが、2人の行方は分からないまま。謝罪後、会見した艦長は、当直などの引き継ぎの不十分さや、事故海域の混雑ぶりへの認識の甘さを認めた。

 制服姿の舩渡艦長は、白い帽子を脱ぎ、敷居をまたいだ。頭を下げ、玄関扉を閉めた後も、数分間、その場で立ち続けた。

 治夫さんと哲大さんが、ふだん家族と食事をともにしていた四角いテーブルのある居間には、親族7人が座った。テーブルの前に治夫さんの兄・高志さん、その隣に治夫さんの姉と妹が並んで座り、舩渡艦長、吉川栄治海上幕僚長とテーブルをはさんで向き合った。居間の端には、体の弱い治夫さんの妻と母親。艦長と海幕長は正座し、両手をじゅうたんにつけて頭を下げ、謝罪の言葉を述べたという。

 親族の一人で、事故当日、清徳丸とともに漁場に向かっていた康栄丸船長の中ノ谷義敬さん(63)が口を開いた。「(親子は)沖にいればよいライバル、陸にいれば大事な家族だった。2人を失い、家族にとっては胸を突かれたような思いだ」。舩渡艦長は目を赤くして、ずっと無言で頭を下げていた。

 さらに別の家族はこう伝えた。「2人を失った悔しさは消えない。でも二度とこんな事故が起きないように後輩を指導してほしい」。艦長らは何度もうなずいた。

 訪問は約30分間。艦長らが吉清さん宅を後にすると、中ノ谷さんは言った。「ちゃんと見張っていればあの事故は起きなかった」。一方で「言いたいことはたくさんあったが、ずっと頭を上げずに謝罪されると、こちらも責める気持ちがなくなった」とも話した。高志さんも「めいっぱいの謝罪をしていただいて、気持ちの整理がついた」。

 舩渡艦長は続いて新勝浦市漁協川津支所を訪問、応接室で外記栄太郎組合長など組合幹部と向き合った。

 頭を下げる艦長に対し、外記組合長は目元にハンカチを当てて言った。「立派な船頭だった。せがれは、心がやさしい。将来を背負う一人と考えていた」。そして、こう付け加えた。「日本の指折りの船と千分の1しかない小型の船がなぜ衝突したのか。原因をきちっとすることで安全な航行ができる」。

 艦長は、目を赤くしたまま聞いていた。

     ◇

 海上幕僚監部によると、舩渡艦長は「あたご」が三菱重工長崎造船所で建造されていたときから、艤装(ぎそう)委員長として船の製作に加わり、昨年3月に自衛隊に移管された時点で艦長となった。それ以前に3回にわたって護衛艦の艦長を務めたが、最新のイージス型護衛艦は初めてという。

     ◇

 記者会見での舩渡艦長との一問一答(要旨)は次の通り。

 ■「異変」の把握は

 ――仮眠中に誰から事故を知らされたのか。

 最初に汽笛が鳴った時点で「何かあるな」と思った。その後、艦内マイクで「衝突」という意味のマイク(放送)が入って分かった。

 ――事故の直前に何か起きていると把握していたということか。

 そういうことになるが、海上保安庁の捜査の中に入っているので(説明するのは)そのくらいでお願いしたい。

 ――現場海域の運航についての指示は。

 一般的な指示はしている。それは航海の間、常にしていること。海域に応じた指導はしている。

 ――当直士官への指示などは十分だったか。

 通常の指導のなかで特に大きな問題はなかった。何か足りないところがあったのではないかとは考えている。

 ――船の多い海域で仮眠していて直接指揮をしなかったことに問題はないと考えているか。

 決して問題がなかったとは思っていない。

 ――小型船だからよけてくれるという認識は。

 ない。

 ■事故後の対応は

 ――事故後、防衛省にはいつ連絡を入れたのか。

 総監部から護衛艦隊司令部に報告した。(事故後)20分とか30分だった。最初に海保に実施(通報)し、それから(同省に)上げているので時間はかかったと思う。

 ――航海長を事情聴取のために防衛省に戻した。誰から指示を受けたのか。

 はっきり特定できない。航海長を指名したのは私だ。「誰か状況の分かる者を送れ」という指示だった。

 ■艦長の責任は

 ――艦長としての責任はどう考えているか。

 あたごの指揮は私がとっているので、私に責任がある。監督責任を含めた全体の責任だ。船の運航態勢についても私が日ごろから指導していることなので、そういった責任はある。

 ――今回の現場のような海域を通過する際は自分ですべて指揮をとるべきだったと、悔いているか。

 あの海域で漁船が多い状況であったということを理解していないのは問題だった。混雑する海域とは認識しているが、あの時点であれだけの漁船が入っているという認識はなかった。

 ――自身の進退は。

 捜査が終わってから、と考えている。

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