『友情を疑う』 (清水真木 中公新書 2005)
最後の「あとがき」まで読んで、著者の「結論」が、私がこれまで抱《いだ》いてきた漠然とした思いと酷似していたのには、苦笑いするしかなかった。
しかし、友人や友情の意味を明らかにするという本書の意図に反し、結果的に、これらの言葉が「使えない」という唯一の可能な使い方であるという結論に辿りつかねばならなかった……。明るい未来にも希望にも言葉を費やすことなく本書を終えることになるのであろうか。「友人」や「友情」という言葉の取扱説明書には、ただ「使えません」という文字だけが大きく記されている。この状態をそのまま放置せざるをえないのであろうか。 (p190)
「友人」という言葉、ましてや「親友」という言葉を特定の他者に対して軽々に使えなくなってから、随分になる。
相当の好感と共にお付き合いしていると自身では思う特定の他者に公の場で言及する時は、「友人」という言葉を、「(親しく)お付き合いさせていただいている」とか「(嗜好、趣味などを同じくする)仲間」とかいう言葉に置き換えてしまいがちだ。
何故なら……「友人」という言葉は、一方の片想いでしかない(かもしれない)相手に対しては使えない、という気がしてならないからだ。
「友人」という言葉は、私にとっては、相手からも概ね同じほどの感情を以て思われているという確信が持てなければ、とても一方的に使える言葉ではない。私の方が誰かを「友人」だと感じていても、その相手が私とは「ちょっと親密度の高い知り合い」程度の付き合いしか望んでいなければ、その相手は、私から「友人」として周囲に公言されることを決して喜ばないであろう、と思うからだ。
極端な例かもしれないが、ちょっと想像してみてほしい。
なお、現実に我が身に起こったことでは全く以てないので、念の為(笑)。
つい昨日まで名前も知らなかった相手から、サイトの感想などを色々と書き込んだメールが来たとする。
私のサイトの日記で紹介してもいいですか、と書かれていたので、相手のサイトに出掛けて、さらっと確認する。
嗜好もそこまで一致しているわけではないみたいだし、深い付き合いをする気までは持てないけど、メールは礼儀正しい感じだったし、まあ紹介程度ならいいかと考え、承知の返事を出す。
そして数日後、紹介しましたという連絡を貰ったので再度出掛けてみたら、相手が自分のことを「友人の○○さん」と書いているのを見た……。
……その書きように「ぞっとする」という人は、この点に於いては、私と似た感覚の持ち主であろう。
ウェブという不特定多数の見る場で、自分が親しくしたい相手から一度メールを受け取った程度で「友人」と一方的に公言して憚らない、そんな、対人距離感の何処か狂っている相手とは、私なら、交誼を結びたいとは思わない。
けれども、相手の感覚が、「メールで優しく──あくまでも相手の受け取り方であり、返事を出した側は単に、冷淡に響かないように言葉を選んで和らげながら、つまり礼儀に則った親しさを以て書いただけ──承諾してくれたことが即ち既に『友人』と言っていいレベルの付き合いである」のだとしたら、仮に人伝に当の「友人」の不快感を知ったとしても、「えっ、どうして? 返事をくれたじゃない? 友人になりたくないと思ったら、返事なんかくれない筈じゃない?」と思えて、「○○さん、あんな親切なメールをくれたのに、ちっともわからないわ」と困惑するのみならず、「変な人、ひどい人、いい人だと思ってたのに何様のつもり、サイテー!」と批難するかもしれない。
勿論、これは、かーなーり極端にしてみた話だ。しかし、どの程度の回数或いは深さの遣り取りがあれば「友人」と思えるかという感覚は、このような例を持ち出すまでもなく、個々人によって異なる筈だ。だから、私の方が「もう友人と思えるほどに遣り取りをしている」と思っていても、相手の方はまるでそうは思っていないかもしれない。
そういったことを悶々と考えていると、到底、軽々に「友人」という言葉を使う気にはなれない。それは裏を返せば、「友人」とは互いの人生の中で勝れて特別な位置付けと意義を持つ存在であるべきだ、という思いを私が心の裡に持っている、ということでもある。
……まあ、こういったことを綿々と書いていたのではちっともこの本の紹介にはならないので、先へ進もう(苦笑)。
★★★★★
既にアマゾンのレビューでも書かれているが、これは、いわゆる「友情とは何であるか、友人とは何であるかを語る書」ではない。そういった友情論を取り扱ってきた西洋哲学を効率的に概観出来る論文という趣がある。
しかし、哲学者や思想家ではない我々の発する「友情とは何ぞや、友人とは何ぞや」という少しく情緒的な問い掛けに対する直接の答はなくとも、此処で書かれている西洋の哲学者達の友情論を読んでいると、自ずと、「友情とは、友人とは」という考えを深めてゆく便《よすが》になる筈である。
我々に馴染みの、親密性を云々するような友情論とは異なるので、特に最初の方は取っ付きが悪いかもしれない。だが、著者の文章自体はそれほど難解ではないと思うので、読み進め、哲学者達の言葉に色々と感じるものが出てき始めたら、しめたもの(笑)である。
友情論に挑んだ哲学者達の共通認識は、本書p16〜17から(引用ではないが)拾い上げてみると、
・理想的な対人関係を成り立たせる為に必要な相手こそが「友人」と呼ばれるべきであり、その友人達を結び付けるものこそに「友情」の名を与えるべき
・友人は「もうひとりの私」でなくてはならない
・親しさが介在しているかどうかは、ふたりの人間が互いに友人である必要条件ではない(一部の思想家の論を除く)
といったことらしい。
親しさは友情の証ではない、というのは、日常生活の中では余り出会わない考え方かもしれない。けれども、哲学者達は別段、友人達の間に生まれる親しさを否定しているわけではない。単に、親しさは「友情」の副産物であり本質ではない、必要条件ではない、と考えているだけである。
「友人」が「理想的な対人関係を成り立たせるために必要な相手」であるならば、「理想的な対人関係」とは何であるかということが論じられるのが妥当であり、そこが、それぞれの哲学者の論の差異に繋がってゆくわけである。
本書では、時代を下りながら、それぞれの哲学者・思想家の論を採り上げている。何故そのような論が唱えられるに至ったか、彼らを取り巻く時代や環境にまで目配りして記載しているので、非常に理解し易かった(……私には)。
その中から、私の印象に残ったもの……16世紀フランスの思想家モンテーニュ(1533〜92)、18世紀フランスの思想家ルソー(1712〜78)、18世紀ドイツの哲学者カント(1724〜1804)の友情論を簡単に(……?)紹介してみることとし、最後に、本書の筆者自身の見解について触れることにする。
■モンテーニュの友情論
本書で紹介されている中で、最も理想的で羨ましい(が、なかなかこの域には到達出来まい)と感じた友情論である。
しかし、これを紹介するには、先に古代ローマの哲学者キケロ(紀元前106〜紀元前43)の友情論について、少し触れなければならない。
■キケロの友情論
キケロは、その晩年の著『ラエリウス』で、友人とは「家畜」のように「最大の利益」を基準にして選ばれるものではなく、「もうひとりの私」のようなものとして理解されねばならないと述べている。端的に言うなら、付き合うこと自体に価値のあるような関係こそが本来の対人関係であり、理想的な対人関係であり、自分の目的の為の手段や道具として利用するという意図に基づく関係は、理想的な対人関係(=友情)ではない、ということである。
ところが、面白いことに、キケロの中では、自己の利益の為に相手を手段や道具として利用するのは、理想的な人間関係ではなくとも、悪しき人間関係ではないらしい。そういう者がいたとしても、深刻な事態は引き起こさないというのである。何故なら……
キケロによれば、利益を引き出したくなる相手は優れた者であり、優れた者の友人は優れた者であり、優れた者が優れた友人から手に入れようとするのは、優れたものでしかありえないのであり、不当な利益や不当な損害が発生する怖れはないからである。 (p49)
……まあ、この“おめでたい”気がする意見に同意出来るか否かはさて置き(苦笑)。
では、キケロは、どんな「友人」を、最も有害なものとしているのだろうか。
キケロが『ラエリウス』の中で“悪しき友人”の典型として採り上げているのが、世界史的には無名に等しい、ガイウス・ブロッシウスという人物である。
世界史では「グラックス兄弟の改革」で知られるグラックス兄弟、その兄ティベリウスの「友人」であり支持者であったブロッシウスは、『ラエリウス』の主人公との対話で、概ね以下のようなことを述べる(注:原文の引用ではなく、エッセンスの再構築を以て記す)。
「ブロッシウス、君は何故、暗殺されたティベリウス・グラックスに協力していたのかね」
「私は彼を非常に尊敬していたので、彼が望むことは何でもしなければならないと考えていたのです」
「何でも! それでは、グラックスがカピトリヌス丘にある神殿に火を放つことを望んだとしてもかね?」
「彼は決してそのようなことは望まなかったでしょう。しかし、もし彼が望めば、私は彼の言う通りにしていたでしょう」
キケロは、このブロッシウスの答を、「何とも不埒な言い種」とする。
キケロや彼の流れを汲む友情論に於いては、「友情」とは、人間らしい生活に不可欠な空間である「公共の空間」を成立させる為の基盤であり、「友人」とは、
「共同体のすべての構成員の利害にかかわる公共の事柄について合意を形成するための合理的なコミュニケーションの相手として姿を現す他人」(p20)である。そこで大切なのは、そのような合意形成のプロセスに参加する意欲(……少しく乱暴な言い方をするなら、「政治」の場に参加する意欲)の有無であって、意見や利害の一致や、親しみを覚えるか否かといったことは、前提とされていない。
それに則って見れば、ブロッシウスのような、友人が望むなら犯罪をも厭わないという「友人」は、「友情」についてとんでもない心得違いをしている不埒者であるということになるわけである。……くどいようだが、我々がしばしば思うような、“友人との付き合いは私的な領域に属するものである”という前提は、此処には存在しない。そして、古代ローマの頃の「公的」は、「政治的」とほぼ同義である。だから例えば、我々にとっては充分に公的な場である労働の場は、「公的」な場ではない。……といった前提を設けて改めて眺めれば、我々にも理解可能な論ではないだろうか。
……ただ、今の時代に生きる私などは、この遣り取りを読むと、ブロッシウスが「彼(=グラックス)は決してそのようなことは望まなかったでしょう」と、グラックス本人でもないのに躊躇なく答えていることの方に目が行ってしまい、そこまで相手の行動を確信的に言い切れる(そしてそれが過たない)友人関係というのはそうもなかろう、などと思ってしまうのであるが(苦笑)。
■改めて、モンテーニュの友情論
モンテーニュは、その著『エセー』の中の「友情について」という文章で、キケロの『ラエリウス』で非難されているブロッシウスを擁護している。モンテーニュの見解では、キケロがラエリウスに語らせた言葉の方が、友人や友情への無理解を反映しているものに過ぎない。ただ、混同してはならないのは、その擁護は、ブロッシウスとグラックスの間の意思疎通が「真の友人」のそれに相応しいということに対するものであって、彼らが為した公的な行動、つまり「グラックス兄弟の改革」を擁護しているわけではないという点である。
キケロは、友人たちの付き合いが犯罪の原因となり、公共の空間を混乱させることに注意を促した。キケロの友情論において、友情は、つねに公共の事柄への影響という観点から理解されていたのであり、そのかぎりにおいて、友情とは不安定なもの、私たち一人ひとりの生活の安定を脅かす危険なものであった。
これに対し、モンテーニュによれば、人間にとり、公的な活動に従事することよりも、むしろ、誰かの真の友人であり、誰かを真の友人として持つことの方がはるかに価値を持つ。キケロの場合、友人を持つ存在としての私のアイデンティティは、どこまでも、社会において私が担う役割に求められるべきものであった。〈中略〉これに反し、モンテーニュは、公的な存在としての私と友人との間に本質的な結びつきを認めない。したがって、友人の行動を公共のルールよって制限してはならない。たとえブロッシウスが友人であるグラックスのために社会に損害を与えたとしても、それは、ブロッシウスの行動の価値を損ねることにはならない。友情に殉じて罰を受けるのは、むしろ、友情が確かなものであることの証拠と理解されねばならないことになる。 (p102〜103)
勿論、モンテーニュは、友人との付き合いが社会秩序よりも大切であると主張することによって、
「たとえば、友人のために公共の事柄を壟断したり、権力を濫用して、友人にとって都合のよいように法律や規則を変更したり、気に入らない人間を排除したりするのを認めているわけではない」(p104)のだが、モンテーニュにとっては、公的な活動が誰にとっても至上の価値を持っているわけではない。友人のための行動が罪になるとしてもその行動の価値が損なわれないのは、その為である。
モンテーニュには、己の「分身」と見做すことが出来るような友人、ラ・ボエシーがいた。モンテーニュが友人や友情を語る時、念頭にあったのは、早世したその友人、ラ・ボエシーの存在であった。モンテーニュにとり、ひとりの人間が持つことの出来る友人は唯ひとりであり、友人とは、己の分身のような存在である。分身としての友人との一対一の付き合いこそが、真の友情の表われである。友人達の間に作用する「引力」は「説明することの出来ない宿命的な力」であり、つまり真の友情とは「説明することの出来ない」ものであるというのが、モンテーニュの結論である。
さらに、完全な友情によって結びつけられた二人の友人は一体であるから、二人のあいだには、たがいに対する義務というものも存在しない。私に課せられているのは、私自身に対する義務である。 (p87)
もちろん、私は友人とすべての経験を共有し、友人の身に起こったことはすべて、私自身の身に起こったこととして受け取る。そして、私には、友人が窮地に陥ったとき、友人を助けるために、自ら進んで危険の中に飛び込んで行く覚悟がある。もっとも、モンテーニュが確認しているように、友人との付き合いは自発的であって、強制されるべきものではないから、窮地に陥った友人を助けることは義務ではない。たしかに、私には生命の危険を顧みずに友人を助ける用意があるけれども、私が友人を助けるのは、義務を果たすためではない。相手を助けたいという気持が生れ、その気持が行動に反映されれば、結果的に、私はその人の友人と見做されるにすぎないのである。 (p88)
全面的に献身したいと願う相手が友人であり、全面的な献身という「義務」を果たす相手が友人であるわけではない、というのが、モンテーニュの主張なのである。
但し、
モンテーニュは、ラ・ボエシーとの付き合いが自らの人生に欠くことのできないものであったことを強調している。しかし、友情が誰にとっても必要であり、友人を持つことが誰にとっても価値あることであると主張しているわけではない。モンテーニュは、自らが友情に与えた評価がモンテーニュ自身のためだけのものであると考え、他人にこの評価を押しつけることを慎重に避けている。 (p89)
……本筋とは少し外れるが、そういう姿勢は、私の好むところである。
■ルソーの友情論
本書で紹介されている中で、最も背筋に悪寒を覚えた友情論である(苦笑)。
もっとも、
「ルソーの思想というのは、多面的であるとともに多義的でもあり、おびただしい自己矛盾を含んでいる。ルソーは、評価の視点をどのような側面に求めるかによって、その都度まったく異なる相貌を見せる」(p127)ので、彼の友情論に寒けを覚えたからと言って、ルソーの思想全てを否定する気はない。……まあ、私にとっては、昔から何かと共感しにくい思想家であることは間違いないが。
ルソーによれば、「友人」の名に値するのは、不幸な者、つまり、病んだ者、弱い者、疲れた者、苦しみを抱えた者、悲しみにうちひしがれた者だけである。「……友情というのは、痛みを軽くして、苦痛を慰めるために、不幸な人々に特別に与えられたものなのではないかしら?」ルソーは、『ジュリーあるいは新エロイーズ』の中で、登場人物の一人「ヴォルマール夫人」にこのように語らせている。〈中略〉人間に「共感」のような能力が具っているとしても、この能力は、他人の喜んでいる姿や満足している姿を前にした時には、まったく作用しないとルソーは主張する。むしろ、ルソーにとり、他人の幸福というのは、羨望という非常につらい利己的な感情を刺戟するばかりの、憎むべきものなのである。 (p130〜131)
忘れてはならないのは、ルソーが、人間としての最も望ましい在り方を「自然状態」……他人と共存することなく、ただひとりで孤立して生きることであると見ていたことである。だから、人間が他人と共に生活することを選んだとすれば、それは、「自然状態」では解決出来ない問題に対処する為である。
「すべての対人関係は、助けを求める者が、助けを求められる者の前に姿を現し、この窮地に陥った者が相手の持つ『憐れみ』という『人間本性』に根を持つ利他的な感情を刺戟する時に始まらねばならない」(p132)ということである。
友情とは理想的な対人関係である、という共通認識に則れば、ルソーにとり、友情とは、不幸な者達のお互いに対する「憐れみ」を本質とするもの、ということになる。憐れみ合い慰め合い助け合う不幸な者達こそ、友人本来の姿である。
友情というものが不幸な者たちのあいだでしか成立しないとするなら、そして、不幸な者たちの憐れみ合い、慰め合い、助け合いこそ友人との付き合いの不可欠の要素であるとするなら、友人たちにとって欠かすことのできない義務は、たえず相手の近くにいること、あるいは少くとも、相手とたえず連絡を取り合うことであり、その頻度や密度は高いほどよいということになるであろう。というのも、いつでも友人の近くにいなければ、友人を助けることも、友人に助けてもらうこともできないからであり、たがいに相手の「温かみ」を感じることもできないからである。相手と頻繁に顔を合わせることによって維持されるような親密で「温かみ」のある雰囲気、ルソーにとり、これは友人との付き合いによって中心的な位置を占めるものであった。 (p133〜134)
ルソー以前の哲学者や思想家達にとって、友人との付き合いが親密な雰囲気を持っていること、毎日のように顔を合わせる者と友人として付き合うこと、それそのものは、好ましいことではあっても、それが友情の有無を決定付ける要素ではなかった。しかし、ルソーは、それを友情にとって必須のものと見た。そこが、ルソーと彼以外の哲学者達との友情論を分ける、大きな相違点である。
それとともに、友人たちが不幸な者たちであり、たがいの不幸に対する「憐れみ」によって結びつけられている以上、友人たちのあいだには、考えうる限りあらゆる点について利害や意見の一致が見出されなければならない。『政治経済論』や『社会契約論』において、共同体の構成員が「一般意志」という名の主権者に無条件で服従すべきことが強調されていることが示しているように、意見や利害を共有していない者たちがともに生きることはできないとルソーは考えていた。 (p135)
友人たちは、自分の恥を晒すようなことであっても、たがいに何でも打ち明けることができなければならないとルソーは主張する。打ち明ける内容は惨めで恥かしいほどよく、反対に、打ち明けるべきことを何も持たない者は「友人」の名に値しないことになる。表現を更めるなら、私たちは、意見や利害を友人と共有し、たがいに慰め合い、助け合う必要があるのであるから、友人に対して秘密を持つことは不要であるばかりか、許されないことですらある。友人への遠慮、友人とのあいだの距離、これらはすべて取り払われるべきものであることになる。友人たちは、友人であるかぎり、各自の心の中をすべて相手に向って晒し、相手の生活や心の中に大胆に踏み込んで行かねばならない。ルソーによれば、これは、単に許されているばかりでなく、友人としての義務ですらある。「いつでも、自由に、率直に」語り合うことができてこそ、「友人」の名に値する。〈中略〉何一つ秘密のない関係、あらゆる問題について何一つ意見の不一致が生じないような関係、これがルソーにとっての理想であり、ルソーはこのような関係を「透明」な関係として描いている。 (p139〜140)
しかし、これを読んで悪寒を覚えるということは、ルソーの友情論が一面の真理を抉っているからかもしれない、とは思う。こういう何処か病的な(と私は感じる)関わり方を「友人」に対して求めてくる人は、確かにいるし。……詳細は割愛するが、他ならぬルソーその人が、そういう人であったようである。本書ではその点についても紙幅を費やしているので、御関心があれば一読されたい。
また、このルソーの友情論を理想として強要し、社会を「透明」なものに作り替えようとした試みの中で
「もっとも大規模でもっとも古くもっとも不幸な試みの実例」(p140)として、著者は、フランス革命を挙げて解説している。ルソーの友情論は、他人と異なる発言や行動を一切認めない全体主義に結び付く要素を含んでいるのだ。この辺りも興味深いのであるが、此処では割愛する。
ちなみに、
親密な雰囲気に対するルソーの肯定的な評価は、ルソーの友情論がモンテーニュの友情論に似ているかのような印象を与える。しかし、モンテーニュは、自分とラ・ボエシーとのあいだの友情を「完全な友情」と表現し、ルソーが理想とするような友情を「普通の友情」と呼んで両者を区別する。モンテーニュによれば、「普通の友情」とは、「何かのきっかけ、または都合によって結ばれた交際やなれなれしい関係に過ぎないのであり、私たちの魂は、そのようなきっかけや都合によって維持されているにすぎないのである。」 (p134〜135)
例えばの話だが、Aという人とBという人が趣味の共通によって意気投合して結び付いた「普通の友人」であった場合、時が流れてAの趣味がBの趣味と全く一致しなくなった時、果たしてAとBは昔に変わらぬ親密な付き合いを続けることが出来るだろうか。趣味の共通という「きっかけ」或いは「都合」によってのみ結ばれ続けている交際であるなら、その「きっかけ」或いは「都合」が失われてしまえば、維持され得なくなってしまうのではなかろうか。そう考えると、モンテーニュの主張はよく理解出来る。
あと……本書に関係なく、極めてどうでもいい余談だが(汗)、高校生の時分、教科書に載っているルソーの肖像画を見た私達は、「沖雅也にそっくり!」などと言っていたものである(爆)。
■カントの友情論
本書で紹介されている中で、最も共感出来た友情論である。
カントの友情論は、アリストテレスからルソーまでの、カント以前のすべての友情論が自明のものとして承認してきたいくつかの前提を斥ける。そのため、カントの友情論は、これまで本書で取り上げてきた哲学者たちのいずれの見解にも似ていない独特のものとなった。 (p168)
カント以前の哲学者・思想家達の友情論では、何の付き合いもない複数の人間がたまたま同じ空間で生活するという状況が仮想されている。そして、それらの人間達が、人間本性に根差す何らかの「引力」により結び付けられ、互いに相手を「友人」と認めるようになる過程を述べる。友情とは何であるかという問題は、「友人」達の間で作用する「引力」とは何であるかという問題となっていた。
これに対し、カントは、このような枠組を受け入れない。カントの友情論では、あらかじめいかなる対人関係にも拘束されていない単なる人間の集合のようなものは前提とはならない。さらに、友情というものが、これらの無色透明の人間たちのあいだに発生する単純な「引力」であるという理解も斥けられる。カントによれば、私たちは、生きているかぎり最初から、周囲の人間たちとのあいだに張りめぐらされた錯綜した対人関係の中に投げ込まれている。そして、この対人関係の中では、「引力」と「斥力《せきりょく》」と呼ぶことができるような二種類の相反する力が同時に作用しているとカントは考える。
カントが「引力」と呼ぶのは「愛」である。これに対し、「斥力」として作用するのは「尊敬」であると考えられている。周囲の人間たちとのあいだの引力と斥力の強度は、たえず変化しているのであり、友情というのは、カントによれば、愛という引力と尊敬という斥力の微妙な均衡状態であることになる。「二つの人格が等しい相互的な愛と尊敬によって一つになること」、カントは友情をこのように定義する。 (p169〜170)
ある種、目から鱗が落ちるような印象を覚える。友情について主張する意味や立場こそ違えども、友人とは互いに引き付け合うもの、というのが、これまでに見てきた哲学者・思想家達の見解であったように思う。だが、カントは、友人について、引き付け合いながらも距離を取ろうとするものだ、という視点を示している。友情が
「引力と斥力から合成されたもの」(p170)であり、友情という言葉が
「それ自体としては、友人たちのあいだに働く引力と斥力のあいだに生じるある種の均衡状態にあとから与えられた名前に過ぎない」(同)という見解は、本書の中で、最も私の実感に近いところにあった。
また、カントは、友情とは、例えばモンテーニュが理解していたような安定した確実なものではない、と考えている。彼は、友情が不安定な「脆いもの」であることを主張している。
カントにとり、友情は不安定で脆いものである。そして、友情が脆いものであるのは、友情を構成する二つの要素のうち、斥力としての尊敬が脆いものであるからに他ならないとカントは理解する。カントのこの理解に従うなら、友人との付き合いを他の類似の対人関係から区別する目印は、尊敬という斥力であり、したがって、友情とは、引力として理解されてはならず、むしろ、本質的に斥力であることになる。
友情が合成されたものであり、友情を維持する時にもっとも大切にすべきことが友人に対する尊敬であるとするなら、友情の危機とは、友人とのあいだが疎遠になり、関係が希薄なものになっていくことではなく、反対に、友人への愛が友人への尊敬よりも優勢になり、尊敬という斥力にもかかわらず、友人との距離が縮められる時に生れると考えねばならない。友情の危機は、愛の解消のうちにあるのではなく、尊敬の破壊のうちにある。 (p171)
故に、ルソーが理想としたような、友人に対しあらゆる遠慮を捨て「憐れみ」の感情に衝き動かされて友人の生活や心の中に土足で踏み込むような対人関係は、カントにとっては否定すべきものである。対人関係に於いて「自分のことを他人に打ち明けたいという欲求」を感じることを無視はしていないが、周囲の人間に対して見境なしに何でもかんでも打ち明けるということは「無教養」の証拠であるとする。
教養のない者は、誰かと仲よくなったかと思うと、すぐに喧嘩別れをしてしまう。教養のない者は、対人関係が引力と斥力のバランスの上に成り立っていることを理解せず、尊敬という斥力など無視して相手とのあいだの距離を無理に取り除き、相手の生活の中に土足で踏み込もうとするからである。 (p174)
教養ある人間とは、友人を友人として扱うためには、引力と斥力の均衡を維持することが必要であることを知っている者、友人とは何よりもまず尊敬に値する者でなければならないことを知っている者であり、したがって、「自分の判断の大部分を自らのうちにしまっておくことを余儀なくされる」存在、そのかぎりにおいてさびしい存在なのである。 (p174〜175)
ちょっと難しくなってくるが、カントの理解に従えば、友情が壊れるのは、一方(或いはお互い)が「相手の尊敬を失う」ような振舞をして、愛と尊敬のバランスが崩れた時である。「自分の判断の大部分を自らのうちにしまっておく」とは、つまり、自分の心の中のことを打ち明けることで相手の尊敬を失う可能性に思いを致し、それを慎重に保留するという態度である。……友人の尊敬が、友人への愛が優勢になることで破壊されてしまうという一見理解し難いようにも思える理屈は、誰かを“愛し過ぎる”ことによって却って相手との関係を失ってしまった経験を持つ者であれば、直感的に頷けるのではないだろうか。
■親しさという牢獄
様々な哲学者・思想家の友情論を紹介した後、筆者の筆は、現代の社会のありように向く。詳細は割愛するが、様々な友情論の前提となってきた「市民的公共性」は現代では変質し失われており、したがって、
「現代では、『友人』や『友情』という言葉が使われるとしても、それは、派生的な意味、あるいは類比的な意味で使われているにすぎない。友人や友情が機能するための前提が失われているからである。現代の日本人が熟知している友人や友情とは、友人や友情の残映にすぎないと考えねばならない」(p180)というのが、筆者の見解である。
友情は消滅するどころか、却って日々その役割を増大させている。このような印象を私たちが持つとすれば、それは、見ず知らずの他人に対しては礼儀正しく接するのではなく、むしろ、相手の生活の中に入り込んで積極的に親切にすべきであるという主張に出会うことが増えたからであるに違いない。災害が発生すると現場に駆けつけ、被災者の生活を援助したり、地域や建築物の原状回復に自発的に従事したりするいわゆる「ボランティア」の活動は、最近肯定的に受け取られているものの典型である。困っている人を助けること、これはごく自然な行動のように見える。しかし、冷静に考えてみれば、被災地でボランティアが従事している作業というのは、本来、地域の住民が自ら行うか、あるいは、地方自治体や政府が責任をもって行うべきものであって、大量のボランティアの手を借りなければ災害からの復旧が進まないとなれば、それは、行政の不作為や制度の欠陥を示す事実に他ならない。 (p181)
ところが、政府や地方自治体は、ボランティアをあてにしないで済ませるよう努力すべきであるのに、反対に、ボランティアを行政の必要不可欠の部分であると見做し、ボランティアの労働を最初から前提としているように見える。そして、政府や地方自治体は、単なる善意にもとづいて行われることは無条件で信頼すべきこと、自発的に無償で行われる労働は何の留保もなく善と認められるべきこと、ボランティアは、制度の欠陥を単に補うものではなく、社会の重要な担い手であること、このようなコンセンサスを形成しようとしているようにすら見えるのである。 (p182)
ボランティアそれ自体は否定されるべきものではないのだが、筆者は、政府や地方自治体がボランティアを奨励している、更には、自発的であるべき「奉仕活動」を強制的なものとして教育に取り入れようとしていることを捉え、
「恐怖政治の時代のフランスで、政府が友愛を自発的に行使するよう強制すべきものとして理解していたという事実」(p183)を連想して、警鐘を鳴らしているのである。
そもそも、人類の歴史の中で、構成員の善意や自発的な活動をあてにする社会というものが存在したことはない。構成員の善意をあてにし始めると、その社会は必ず滅亡するはずである。善意にもとづく行動は、公平への配慮を欠いているために、公共の空間を支配している社会的な正義(公正)の原則を動揺させ腐蝕させるからである。ボランティアや奉仕活動が、共同体全体の利害にかかわるような仕事に必要な全労働力の中で現在以上に大きな比重を占めるようになれば、少くとも日本の場合、無責任な善意は、社会制度にとり深刻な脅威となるに違いない。奉仕活動やボランティアは、「新しい公共」を産み出すのではなく、反対に、制度の欠陥を善意で埋めることを当然のこととして要求する「透明な」社会、つまり、愛国心へと収束して行くような友情に代り、「親しさ」が支配する社会、他人の善意に頼らなければ生きることのできない社会、「親しさ」という名の牢獄を作り出してしまうであろう。 (p183〜184)
私の感想を述べるなら、社会の構成員の善意、それ自体は、決して咎められる性質のものではないと思う。しかし、それを当てにしなければ成立しない社会というのは、確かに、何処かが歪み病んでいるのではないかと感じられる。それは、私が、ルソーの理想とした「友情」に何かしら言いようのないおぞましさを覚えてしまうことと、同じ根を持つに違いない。
誤解のないよう申し添えておくと、筆者の言う「無責任な善意」の「無責任」には、非難の意はない。この語は、それ以前の記述、
「そもそも、ボランティアというのは、定義上、自発的に、しかも無償で労働に従事する存在であるから、労働の結果に責任を負うことはない。最悪の場合、あるボランティアが依頼された仕事を大した理由もなく放棄したとしても、誰も彼を責めることはできない」(p181)の延長線上にあるものである。したがって、恐らく、「義務や責任を負わない善意」と言い換えても構わないものであろう。
本書は、古今の友情論を追うことで、最終的に、現代社会が向かおうとしている危機に、読者の目を向けさせている。新書という、基本的に余り紙幅を費やすことの出来ない発表媒体の中で此処まできちんと持ってきている筆者の力量には、素直に脱帽する。