2005-10-29-Sat 交流会 
今日はまず医者に行った。昨日行けなかったから。整形外科に行ったのだが、骨は異常なかった。あったらやだけど・・・。筋を痛めたということで、湿布を貼って包帯グルグルに。そのあと交流会へ。ゼミで知り合った方がたまたまOBOGとの交流会を主催する団体に入っていて、面白そうだったので行ってみた。今日は起きたら全身倦怠感で行かないつもりだったんだが、行って本当に良かった!また世界が広がりました。今日強く納得してこう思いました。所属している団体しか自分を語るものがない人間にはなりたくない。たとえばとある大企業に所属しているとして、「○○に勤めています」例えばsonyでも三菱でもホンダでも、何でも構わないんですが、人が「お〜、すごいね」というような大企業に所属していたとしても、「そこで何をしているか」について語ることができない人間はダメ人間です。「俺は○○で働いてるんだぜ」とえばってみても、中身のなさ丸出し。・・・別に自分で気づいたんじゃなくて、経営者の方がおっしゃっていたのですが。かなり当たり前のことなんですが、今日初めて気づいたんじゃないかと思います。どう考えてもこのままいけば自分はそういう人間になっていた。これに気づけただけでも、貴重な体験だったといえます。今後の自分について考えなくてはいけないですね・・・。
基本的には3年生と修士1年が多かったのですが、1年もちらほら居ました。同クラが2人。ゼミで一緒の人が2人。そのうち1人は主催者側ですが。
東大生専用SNS「toudy」の運営をしている人と知りあいになって、入れてもらいました。ご存知無い方、空メでSNSに入るのに抵抗ある方など募集中。招待させていただきます。
読了。最近本を買って読むことが多いです。「友人たちよ、友人などいないのである」(byアリストテレス)
一般に言われる「友情」、「友人」に対し、友情のために違法行為をしても良いのか?等の疑問から、友情とは何かという問題を西洋哲学の歴史から問う本でした。友情と公共心は時として相反する。あなたはどちらを選択するのでしょう?俺はものを疑う訓練をしてないからか、最後のカントの主張を丸呑みです。友情は愛という引力と尊敬という斥力の均衡によってなりたつのであり、尊敬を失えば友情は失われる。すごい大ざっぱに述べてみましたが、確かにそうだと思います。尊敬できない人間を果たして友人と呼びうるか。
まぁ、何でも話し合える友人が数人いりゃいいよ。
大多数とは浅く広く・・・(ニヤ
友人と言う言葉には頼り過ぎてはいけない、率直に意見を述べることはできるという感じがします。
また、なんでも話せたり(相談など)、頼りにできるのは友達な気がします。
高校で作るのは‘友達’で、大学で作るのは‘友人’な気がしてきた。
そうですねぇ、友人と友達だと、友達はより親密な感じがしますね。友人だと、滅多にあえなくても互いに切磋琢磨する、というようなのも含むかなぁという感じですな。
>元
う〜ん、そうだのう。友達と友人の差異に関してはこの本とは関係なかったかな。とりあえず本の中身では、そもそも「友人」に親しさは前提されていないんだよな。つまり親しくなくても友人と呼びうると。「友人とは、公共の利害を一致させるために、共に議論しようとする者」のことを指すというのが結論だった。要するに私的な関係を友人とは呼ばないのだな。公的に、共同体の利害について各人違う意見をすり合わせて、合意を作ろうという意志を持つ人々を友人と呼ぶのだとか。要してない。よくわからぬがそういうことらしい。