wonder wonderful
88.
涙は間もなく止まって、私は視線を足元に落としたまま、隊長の黒い革靴がひどく汚れているのを見ていた。王宮から出てくる時には、礼装だからと誰もが磨き上げられたそれを身につけていたのを思い出して、この一日半、本当に忙しかったんだなとぼんやり思う。向かい合うようにしている自分の靴の爪先と比べて、隊長の足おっきいなぁとどうでもいいようなことに驚いたり。
早く離れなきゃいけないなと思いながら、頭に乗せられている手のぬくもりを体中の神経が感じようとしていて、なかなか手に力をこめることができない。
波の音が一定の間隔で行き来し、与えられるあたたかさを感じるために目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうなほど気持ちが落ち着いていくのが分かる。
隊長はそれ以上動かなかったし口も開かなくて、私がずっとそのままでいれば、延々付き合ってくれそうな気すらした。それはそれで物凄く魅力的で、同じくらい不毛なプランだ。こんな海辺で馬鹿みたいにいつまでも突っ立って人の胸借りててどうする。
自分の手に力をこめるのには、気力がいった。
それでも。
「……よく、泣きました」
本当にこの人の前では不思議なほど泣き姿を晒していると我ながらおかしくなって、笑いながら手に力をこめた。
「……気は済んだのか」
隊長が軽くからかいを含んだ声で言ってくれるのを心底ありがたく思う。
うん、済んだ。ありがと、と頷きながら、目が腫れたと両手でわざと子どものようにぐりぐりとこする。
「そうか」
すい、と呆気なくぬくもりが消えるのに正直に胸が痛んで、物欲しげな顔になっていそうな気がして慌ててその場から歩き出した。いかん。感情の抑制機能が著しく低下している。
「じゃあ、帰ろっか。隊長、あんまり休んでないんでしょ。大丈夫?」
「一晩や二晩眠っていなくても動ける」
「ええ。すごいね。最長どれくらい持つの」
「気力の問題だろ」
「気力ったって、限度があるでしょう?」
すぐに私の隣りに並んだ隊長とどうでもいい話をしながら、まずいなぁと空を仰ぎたい気分になった。だってすごい勢いで意識がこの人に集中しようとしてる。もう結構長い間一緒にいて、その顔も姿も見慣れてしまっているはずなのに。今更なにが見たいんだ私。
自分の目線のすぐ先にある肩幅がすごく厚いこととか、鼻の形いいなぁとか、相変わらず唇乾いてそうだなとか。それから、それから。睫毛の色も茶色っぽく見えるなとか、……深い青い色が、すごくいいな、とか。
お願いだから止まって私。
自分で自分に懇願する虚しさといったらない。だって無駄なんだもん。
久々に「落ちた」感覚に激しく動揺してるのがよく分かる。
少し離れた場所に繋がれていた馬は当然だけど一頭だけで、それに気付いた瞬間また動揺する。
「なにしてるんだ。早く乗れ」
乗りますけど。乗るけど! 鞍に手をかけて鐙に片足をかけ、よいしょで自分の体を馬上に引き上げる時に腰を持って押し上げてもらうんだけど、腰掴まれた瞬間異様に恥ずかしかった。ぎゃあ、と内心で叫んでるとあっという間に馬の上で、ああー心臓に悪いわと思ってると、すぐさまその原因が背後に飛び乗ってきた。ちょっと待って。すごく近いんですけどこの距離! ひい、と赤くなったり青くなったりする内に、手綱を取るために隊長の両腕が私の体の両側からまわされれば、自分で呆れるくらい動悸が激しくなるのが分かった。お前は少しは落ち着けよ。自覚したからって反応しすぎなんだよ。隊長に乗っけてもらうの初めてじゃないじゃん。ヨーサムにだって同じように乗せてもらったじゃん!
でも、すぐ背中に感じる熱はどうしようもなく隊長のもので、その熱を意識せずにいることは今の私には到底無理で。こんな状態で王宮まで帰るのかと思ったら別の意味で泣きたくなる。神様、これはなんの試練ですか。
「お前さ、痩せた?」
「は!?」
人の気も知らないで妙なことを言い出す隊長を思わず振り返ったら、予定外に近い距離に顔があってそのことにまた慄いて前を向く。そうだよ。馬に乗っている時は真っ直ぐ前を向いておかなきゃ。
馬はゆっくりと歩いていて、喋るのには支障ない。
「前に抱えた時より薄くなってる気がする」
声、近い。
と言うより。
「いつ!」
あんたに抱えられた覚えは一切無い!
また振り返って怒鳴りそうになるのを必死で抑えたけど、なに言ってんのこの人。
「前にユーリアの城から帰った後。お前、潰れただろ」
「……!」
うわああ。嫌なこと覚えてるな、この人。
しかも、潰れたって。それあんたのせいでしょ。さらっと人が勝手に潰れたみたいな言い方しないでよ。それよりもあの時、やっぱり隊長に運ばれたのか……。
運ばれてる自分を想像すると、頭から火を吹きそうになる。顔じゃないよ。もう頭全体が発火しそう。サイアク。
「女の人に体重の話するのはルール違反ってやつだと思うけど」
「重さの話じゃなくて、お前が薄いって話だろ」
「薄いってなに」
「ここが」
言うなり、なんでもないことのように隊長の片手が腰を掴んだ。触られたところに、一気に神経が集中する。
「薄いだろ。ちゃんと食ってんのか、本当に」
「……さ、さわるなー!」
「ば、暴れるな!阿呆か!」
「阿呆は隊長でしょ。いきなり人の腹を掴むってどういう了見」
「掴んでないだろ」
「掴んだ!」
ぎゃあぎゃあ騒いでると、向かいから同じく馬に乗ってやって来たこの土地の人らしきおじいさんに、なんだか微笑ましい目で見られた。ちょっと、おじいさん、誤解ですよ。なんでそんな顔して、おはようございます、とか言って去っていくの。
「……絶対、馬鹿だと思われた。隊長のせいだからね」
「お前が騒ぐからだろ」
さすがに恥ずかしくなっておとなしく前を向いたけれど、こんなやりとりですら決して嬉しくないとは思っていない自分に気付いて呆れた。
(まあ……いいか)
前と同じように、左手には海が広がっていて、天気はよくて、そうして隊長に乗せてもらって王宮に帰っている。
どうせ王宮に帰り着いてしまえば、この人はこの人の生活へ戻る。私は、……多分だけど、もうすぐ帰る。よく考えてみなくても、きっとこんな時間は今だけだ。
淡々と進む思考に、自分でもがっかりする。出てきた結論にもやっぱりがっかりして、でもこればかりはどうしようもないと思った。本当に。
「コカゲ」
「なに?」
はーもうせつないなーと苦笑いしながら、しばらく無言でいたら、隊長がまた話しかけてきた。
さっきから一度も走り出す気配がないんだけど、こんなにのんびり帰ってていいのかな。いや、私は嬉しいけど。そのちょっとしんどいけど、でも、嬉しいから。
「お前、さっきユーリアの城が爆発しなかったらきっと気付かなかったって言っただろ」
「うん」
さっきの話に戻ると思っていなかったから、少しだけ身構える。続く声はけれど特に深刻そうではなかった。
「俺もそう思うが、あの爆発の起こる可能性はもしかしたら高かったのかもしれない」
「どういう意味?」
「もし本当にダグレイがユーリアの言葉を忠実に実行するつもりなら、最上階から順に火をつけてまわる必要なんてひとつもない。俺たちが城を離れた後に一階部分に油でも撒いて火を放てば済む」
ユーリアもダグレイも確実に死ねるし、城もめでたく全焼だろ。
あの、そんなにめでたくはないと思うけど。
隊長の言いたいことが分かった。
「……ダグレイにも、迷いがあったってことかな」
「まあ、本当のところは本人にしか分からんだろうが。報告を聞いた時に、妙な気がしていたんだ」
帰り際にユーリアが私を見送ってくれた時、ダグレイもユーリアに寄り添うようにして傍にいた。私は結局、最後まで彼の顔をまともに見ることができなかった。彼の中で私は、ユーリアを激しく混乱させた人物としてしか認識されていないんだろうということが想像できたから。火事の後、ダグレイが私たちに向けた視線が忘れられないのだ。
「でも、それなら、その方が私は嬉しいけど」
ダグレイがユーリアを死なせてしまうことに躊躇っていたこと。
ユーリアの苦しみを感じて、その想いを汲むことも彼の中ではとても大切だったんだろうけど、それでも、そんなにも大切な人を失ってしまうことに躊躇いがある彼の方が私には理解がしやすい。
「ディレイも、ユーリアのことが落ち着いたら色々安心できるだろうね」
「ああ」
「そう言えば、ディレイは今日の行列にはどう入ってるの?」
ザキくんたちの馬車に一緒に乗ったんだろうか。
「俺の位置に入った。衣装も俺のがあったし」
言いながら、そう言えばあいつ、とわざと不機嫌な口調で隊長が続けた。
「衣装、それぞれの寸法に合わせて作っただろ? 俺のはあいつには少しでかかったんだ」
「ああ、身長違うもんね。なに、文句でも言われたの?」
「文句と言うか」
まあ聞けよ、と小さく思い出し笑いをしたのが分かって、彼がひどく機嫌がいいのだと気付く。
「昔、ザキとディレイがどうしても外に遊びに出たいって駄々こねた事があったんだ。まだあいつらが七歳かそこらの頃だ。そもそも俺の所に二人で連れ立って来たのも、侍女やら乳母たちの目を盗んで脱け出して来てたんだけどな。
でも、そんなことしてみろ。王宮内ならともかく、外なんかに危なくて連れて行けやしないからな。ばれたら俺はジジイに半殺しの目にあうし、あいつらになんかあったら、それこそ俺が死んだくらいじゃ到底足りないんだ。お前らみたいに見るからに金持ちの格好したガキは町に出るなり攫われて、とんでもない目に遭うってさんざ脅したらその時は諦めて、それで済んだと俺は思ってた。
そうしたら数日後にジジイに呼び出されたんだ。何事かと思って駆けつけたら、あいつらが二人揃って俺の服着てずるずる袖やら裾やら引きずってたんだ。眩暈がしたね。で、ジジイに向かって、俺の服なら町に出ても攫われないはずだって主張してるんだ」
そこまで聞いて、たまらなくなって爆笑してしまった。
「その後勿論俺はジジイに説教食らうだろ。あいつらは放っとくといつか勝手に脱け出すかもしれない、ってことになって結局お供つきで外出許可が出されて、大喜びだ。
ディレイが『またルカナートの服を着て、大きすぎることにムカつく事になるなんて思わなかったな』ってさっき言ったんだよ。お前あの時人の服勝手に着といてムカついてたのかと思ってさ。ザキは横から、そう言えばあれには腹が立ったとか言い出すし」
「お前ら俺の気持ちを考えろって?」
「そう思うだろ? 誰が一番割り食ったと思う」
兵舎の自分の部屋に帰ったら、散らかり放題散らかってた服も俺が片付けたんだ。しかも、あいつら俺の持ってた服の中では一番いい服をちゃんと選んでたんだぜ。肌触りがまだ我慢できたとか言って。
段々思い出してきた、と憮然とした声で言うそれが、どうやってもこの人はザキくんたちが大事なんだなとしか思えなくて、まだ十七くらいの隊長が、荒れ果てた自分の部屋を唖然と眺めるその様を想像するだけでおかしくて笑える。
「ディレイとそんな話できるようになってよかったね」
「……まあ、な」
ザキくんとディレイだけじゃない。隊長だって、二人の関係がおかしくなった時に、やっぱり選択をしていたんだ。大事なものをひとつだけ守る選択を。
なんとなくこの人の機嫌がいい理由も分かる気がした。それにこんな話、楽しくて仕方がない。もっと聞かせて欲しい。
「そもそも、ザキくんとディレイはよく隊長の部屋に忍び込めたね」
「もともと俺の部屋にはこっそり入れたことあったからな。鍵がついてるわけでもないし。隊士が出払ってしまえば、特に頻繁に人が出入りするわけでもない。時々勝手に忍びこんでたぞ、ザキは」
へえ。
そんな話、初めて聞いたな。
「兵舎って、隊長こっちに来てからずっとそこで生活してたの?」
「いや、村から出て来て一年はジジイに縁の人の屋敷で世話になってた。ザキの側仕えになってから、王宮の敷地内にあったジジイの部屋の隣りに部屋貰ってそこで四年・・・いや、五年か? まあ何年でも別にいい。とにかく、十六で近衛隊入りが許されて、兵舎に部屋貰ったんだ」
「ふぅん。今は? 兵舎って、今執務室があるところでしょ?」
「近衛隊の上に立つようになってから、出た。ザキ様から部屋を賜って、そっちを私室にした」
「ああ、それリルに聞いたことあるわ」
つるっと喋ったら、背後に奇妙な沈黙。
「俺の部屋の話がなんでリルの口から出るんだ」
「……え」
なんでだったっけ、と記憶を辿って物凄くダメージでかいことを思い出した。
この人……。思わず肩越しに見上げてしまう。
なんだよ、と眉が動くのを見て、前を向く。
「なんか、あの、いや、そのね。私が潰れて、隊長の執務室の続きの部屋を一晩借りたでしょう? だから、隊長に彼女とかいるんだったら、その人嫌な気持ちになったりするかなーと思って、リルに訊いたの。そしたら……うん、まあ、その時にね」
「なに聞いたんだよ」
「なにって」
言っていいのか。
ああ、でもまあ、早目に引導を渡してくれた方が、傷が浅くていいのか。
なんて、ネガティブ。嫌だねー。大人になると本当にこういうとこだけ回転早くなるよ。
「……けっこう彼女いるから、皆そんな噂気にしないし、隊長、公私混同しないからこっちの部屋なら大丈夫だって」
いくら落ちたからって、同時に複数彼女のいる人は御免だ。そういうのに自分が耐えられないし、本気になればなるほど苦しすぎる。さ、なんて返すのか知らないけど、どうぞ。
いきなり本当に痛いわーと、覚悟を決めようと密かに口元を引き締めていたのに、次の瞬間、うわ! と叫んでしまった。
だだだだって。
「……お前、信じたのか、それ」
ごち、という鈍い音と共に後頭部に何かが触れている感触。もしかしなくても頭突かれてるんじゃないの、私? えええ。なんで。背後が一体どんな状況になっているのか、振り返って確かめる勇気がない。ま、前見てよ、ちゃんと。一応馬に乗ってんだから!
「いや、信じるっていうか、その、別に隊長に恋人が何人いようが特にどうでもよかったって言うか」
言いながら、かなり落ち込む。
今は、どうでもよくないんだよ。本当は。あの時はどうでもよかったけど。
「ほんっとに、あいつらろくなこと言わないな。結構ってなんだ」
そんなこと、私が今一番訊きたいんだよ!
はあ、と盛大な溜息の後に隊長が頭を起こす気配がして、私も内心溜息をつく。ああびっくりした。
「……言っとくが」
「は、はい」
「それ、多分情報屋のことだから」
「なにが」
「“結構いる彼女”」
あれ。なんかまた風向き変わってきてない?
憮然とした口調の隊長に、少しだけ期待してしまう。
「情報屋……?」
ちらと振り返ると、じっとこちらを見る瞳にかち合って、思い切り逸らしてしまった。ごごごめん。溜息つかないで。
「仕事柄、人は色々使ってる。情報収集もその一環だが、情報屋は顔が割れると意味がない。あいつらはあいつらのやり方で俺に接触してくるから、好きにさせていたんだ。まあ俺がどれだけ女遊びしていようと、仕事に支障がなければ許されるからな。一番楽なんだ」
付き合ってる女もいないし、とさらりと続けられたその言葉を、自分の耳が浅ましいくらいの勢いで拾いあげる。
「……ふ、ふーん。別に、私に言ってくれなくてもいいけど」
なるべくどうでもいい感じを出してみたけど、脳内はとんでもないことになってる。
本当に?
本当ですか、隊長。
なんでいきなりそんなこと言うかな。あああ。どうしよう嬉しい。いきなり引導渡されてもいいとか、嘘をつきました。やっぱり嬉しい。
でもこんな深みに嵌る情報出されたら結局後で自分が辛いんだ。
「そろそろ走るぞ」
隊長が馬の腹を蹴るのと同時に景色が流れ出す。
自覚するなり諦めなきゃいけないことが分かっても、世界は、ちゃんときらきらして見えた。
この人が傍にいるという、それだけで。
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