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-----Japan On the Globe(190) 国際派日本人養成講座---------- _/_/ _/ 地球史探訪: 「お家の事情」の歴史観 _/_/ _/ _/_/_/ 「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない _/ _/_/ 韓国の「お家の事情」。 -----H13.05.20----33,786 Copies----256,108 Homepage View---- ■1.中国への謝罪要求は?■ 1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮 半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情 報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。 しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「そんなことはあるは ずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はな い」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切 報道しなくなった。 朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失 い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇 である。 日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝 鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び 腰は一体なんなのだろう。この明白な二重基準の根底に潜むの が韓国の特異な歴史観である。この点を知らずに「日本が心か ら謝らないから、いつまでも許してくれないのだ」などと考え ているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけであ る。 ■2.日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった■ 韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんで いる。韓国の国定教科書「中学国史・下」では次のように書く。 われわれが光復(JOG注:独立)を迎えることができた のは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、 この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してき た独立運動の結実でもあるということができる。[1] 確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「大韓臨時政府」 は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続 けるのみであった。 そのために「大韓臨時政府」はアメリカにも中国にも承認さ れていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタ ンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認め られる可能性はあったろうが、それすらもなかった。 終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上 陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降 伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝 えられている。[2,p28] 韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わた しは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった。 ■3.2日間で下ろされた太極旗■ それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和 20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・ 政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切 の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。 呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準 備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、 放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物 には、民族の旗「太極旗」が翻った。 しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しば らく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡 すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻 した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。 ■4.蚊帳の外の「朝鮮人民共和国」■ 朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全 土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名 余りの代議員を集めて、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した が、米ソ両国はこれを無視した。 9月8日、米軍が仁川に上陸すると、「朝鮮人民共和国」の 代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの 朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、 米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。 9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57 機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信 行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定 が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。 ルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、 連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くら い必要だと述べていた。 ■5.日本と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮■ なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか? 一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備がある のか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリ ーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋 鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の 中で暗殺されている。 もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって 戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、 めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進 した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人とし て最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、 大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満洲 国軍中尉だった。 こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百 人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、 倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、 希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑 させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合 計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神 社に祀られている。 一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死 した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独 立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑さ れた軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日 本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。[3] 「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂 奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲ リラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつ けられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見 なすのは事実として難しい。 アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって、戦争に 邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立さ せたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞う はずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが 2,30年の信託統治を考えたのも、十分理解できる。逆に、 朝鮮総督府がアメリカの占領前に慌てて朝鮮を独立させようと したのも、共に戦ってきた同胞としての信頼感があったからで あろう。 ■6.アメリカから与えられた独立■ 1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝 鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。 当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだ した金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛 成した。 米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は 1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時 選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は 国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、 1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して、 北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。 結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本 の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監 視下で選挙を行わせたという経緯による。「光復」はアメリカ から与えられたものであって「わが民族が日帝に抵抗してねば り強く展開してきた独立運動の結実」と言うにたる歴史事実は 見あたらない。 ■7.反抗期を持てなかった韓国■ 韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的 である。インドのチャンドラ・ボースは、日本軍の協力のもと、 イギリス軍から投降してきたインド兵を集めて、数万人規模の 自由インド軍を創設し、日本軍とともにインド解放をめざすイ ンパール作戦を敢行した。日本敗戦後、イギリスが自由インド 軍に参加した約2万名の将兵を反逆罪で裁判にかけようとする と、インド全土で反英活動が展開され、数千人の死傷者を出し たが、2年間の戦いの末、独立を勝ち得た。[a] インドネシアも、独立派指導者スカルノ、ハッタを中心に、 日本軍の指導のもと、3万5千の将兵からなるインドネシア義 勇軍を創設し、日本敗戦後はこれを中核として、再侵略しよう とするオランダ軍と4年5ヶ月も戦い、80万人もの死者を出 しながら、独立を勝ち取った。[b] インドも、インドネシアも、自ら独立を勝ち取ったという厳 然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、 子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗 主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要 はない。独立国としての自覚を持つには、一種の「反抗期」が 必要であり、インドもインドネシアも十分な反攻期をもったか らこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。 それに対して韓国の場合には「独立はアメリカから一旦は取 り上げられ、数年後に与えられた」では国家の体面として身も 蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それ に対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそ れを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出し て、国民に示す必要があるのである。いわば「抗日」を国家の 「背骨」にしているのである。 中国が朝鮮戦争に関して謝罪しなくとも、韓国マスコミが激 高しないのは、国家の「背骨」に関係ないからである。また再 び謝罪要求をしても、冒頭に紹介したように、にべもなく拒否 されたら、かえって韓国政府のメンツを潰すことになる、とい う事情もある。 ■8.敬意と慰霊と感謝と■ 韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「お家の 事情」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治 的虚構が多分に含まれている。韓国がどのような「国定史観」 を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわ が国が受け入れなければならない理由はない。そのような事を したら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づ くべき歴史学の健全な発展を阻害することになる。 わが国としては、あくまでも歴史事実に基づいた客観性のあ る史観を持たなければならない。そのためには次の3点がポイ ントとなる。 第一に日本による朝鮮統治をどう評価するか。韓国でも日本 統治時代の歴史事実に基づく研究が進んでおり、経済史分野で は再評価派が研究者の3分の1を占め、国史分野でも動揺が起 きつつある。[1,p73] 現実に日本統治時代のGDP成長率は4.15%と当時の先進国 を上回り、人口も2.4倍となるほどの高度成長をしていたと いう事実があるのだから、客観的な研究をすれば、再評価派が 増えるのは当然なのである。この高度成長に関しては日本側の 貢献もさることながら、韓民族の努力と能力への敬意が払われ てもしかるべきだろう。[c] 第二に大東亜戦争で日韓が一体となって戦った事実をどう受 け止めるか。日本人が靖国神社を参拝する際には、そこに一緒 に祀られている朝鮮人2万1千余柱、台湾人2万8千余柱への 慰霊も忘れてはならない。 第三に朝鮮戦争を日本としてどう評価するか。この戦争で韓 国側が負けて、北朝鮮のようなテロ国家が今の何倍もの国家規 模で玄界灘のすぐ対岸に存在していたら、わが国の平和と繁栄 は重大な脅威を受けていただろう。韓国軍が42万人もの尊い 犠牲を出しながらも、果敢に戦ってくれた事に対する感謝を日 本側は持つべきではないか。[d] このような歴史事実を直視すれば、我々日本人が抱くべきは、 韓民族に対する敬意と慰霊と感謝の情である。韓国側の「抗日 史観」に対し、日本側が表では謝罪しつつ、裏では反撥すると いうのは、歴史事実に基づかない虚構の関係であり、そこから は真の相互理解も友好も育ち得ない。日本側は「敬意と慰霊と 感謝」を表明し、韓国側も歴史事実に基づいた自信と誇りを確 立する、というのが真の和解への道であろう。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(002) 国際社会で真の友人を得るには b. JOG(036) インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち c. JOG(056) 忘れられた国土開発 d. JOG(037) 恩讐の彼方に ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 黒田勝弘、「韓国の歴史観」★★★、文春新書、H11 2. 小室直樹、「韓国の悲劇」★★★、光文社カッパ・ビジネス、S60 3. 名越二荒之助編著、「日韓2000年の真実」、★★★★、 株式会社国際企画、H9 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ============================================================ mag2:27935 melma!:1888 kapu:1855 Pubzine:1215 Macky!:893© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.