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-----Japan On the Globe(190)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     地球史探訪: 「お家の事情」の歴史観
       _/_/      
_/ _/_/_/       「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない
_/ _/_/          韓国の「お家の事情」。
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■1.中国への謝罪要求は?■

     1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮
    半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情
    報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。
    しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「そんなことはあるは
    ずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はな
    い」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切
    報道しなくなった。
    
     朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失
    い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇
    である。
    
     日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝
    鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び
    腰は一体なんなのだろう。この明白な二重基準の根底に潜むの
    が韓国の特異な歴史観である。この点を知らずに「日本が心か
    ら謝らないから、いつまでも許してくれないのだ」などと考え
    ているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけであ
    る。

■2.日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった■

     韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんで
    いる。韓国の国定教科書「中学国史・下」では次のように書く。
    
         われわれが光復(JOG注:独立)を迎えることができた
        のは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、
        この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してき
        た独立運動の結実でもあるということができる。[1]
        
     確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「大韓臨時政府」
    は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続
    けるのみであった。
    
     そのために「大韓臨時政府」はアメリカにも中国にも承認さ
    れていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタ
    ンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認め
    られる可能性はあったろうが、それすらもなかった。
    
     終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上
    陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降
    伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝
    えられている。[2,p28]
    
         韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わた
        しは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった。
    
■3.2日間で下ろされた太極旗■

     それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和
    20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・
    政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切
    の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。
    
     呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準
    備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、
    放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物
    には、民族の旗「太極旗」が翻った。
    
     しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しば
    らく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡
    すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻
    した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。
    
■4.蚊帳の外の「朝鮮人民共和国」■

     朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全
    土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名
    余りの代議員を集めて、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した
    が、米ソ両国はこれを無視した。
    
     9月8日、米軍が仁川に上陸すると、「朝鮮人民共和国」の
    代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの
    朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、
    米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。
    
     9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57
    機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信
    行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定
    が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。
    
     ルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、
    連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くら
    い必要だと述べていた。

■5.日本と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮■

     なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか?
    一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備がある
    のか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリ
    ーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋
    鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の
    中で暗殺されている。
    
     もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって
    戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、
    めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進
    した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人とし
    て最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、
    大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満洲
    国軍中尉だった。
    
     こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百
    人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、
    倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、
    希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑
    させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合
    計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神
    社に祀られている。
    
     一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死
    した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独
    立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑さ
    れた軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日
    本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。[3]

    「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂
    奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲ
    リラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつ
    けられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見
    なすのは事実として難しい。
    
     アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって、戦争に
    邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立さ
    せたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞う
    はずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが
    2,30年の信託統治を考えたのも、十分理解できる。逆に、
    朝鮮総督府がアメリカの占領前に慌てて朝鮮を独立させようと
    したのも、共に戦ってきた同胞としての信頼感があったからで
    あろう。
    
■6.アメリカから与えられた独立■

     1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝
    鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。
    当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだ
    した金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛
    成した。
    
     米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は
    1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時
    選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は
    国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、
    1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して、
    北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。
    
     結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本
    の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監
    視下で選挙を行わせたという経緯による。「光復」はアメリカ
    から与えられたものであって「わが民族が日帝に抵抗してねば
    り強く展開してきた独立運動の結実」と言うにたる歴史事実は
    見あたらない。

■7.反抗期を持てなかった韓国■

     韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的
    である。インドのチャンドラ・ボースは、日本軍の協力のもと、
    イギリス軍から投降してきたインド兵を集めて、数万人規模の
    自由インド軍を創設し、日本軍とともにインド解放をめざすイ
    ンパール作戦を敢行した。日本敗戦後、イギリスが自由インド
    軍に参加した約2万名の将兵を反逆罪で裁判にかけようとする
    と、インド全土で反英活動が展開され、数千人の死傷者を出し
    たが、2年間の戦いの末、独立を勝ち得た。[a]
    
     インドネシアも、独立派指導者スカルノ、ハッタを中心に、
    日本軍の指導のもと、3万5千の将兵からなるインドネシア義
    勇軍を創設し、日本敗戦後はこれを中核として、再侵略しよう
    とするオランダ軍と4年5ヶ月も戦い、80万人もの死者を出
    しながら、独立を勝ち取った。[b]

     インドも、インドネシアも、自ら独立を勝ち取ったという厳
    然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、
    子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗
    主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要
    はない。独立国としての自覚を持つには、一種の「反抗期」が
    必要であり、インドもインドネシアも十分な反攻期をもったか
    らこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。
    
     それに対して韓国の場合には「独立はアメリカから一旦は取
    り上げられ、数年後に与えられた」では国家の体面として身も
    蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それ
    に対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそ
    れを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出し
    て、国民に示す必要があるのである。いわば「抗日」を国家の
    「背骨」にしているのである。
    
     中国が朝鮮戦争に関して謝罪しなくとも、韓国マスコミが激
    高しないのは、国家の「背骨」に関係ないからである。また再
    び謝罪要求をしても、冒頭に紹介したように、にべもなく拒否
    されたら、かえって韓国政府のメンツを潰すことになる、とい
    う事情もある。
    
■8.敬意と慰霊と感謝と■

     韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「お家の
    事情」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治
    的虚構が多分に含まれている。韓国がどのような「国定史観」
    を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわ
    が国が受け入れなければならない理由はない。そのような事を
    したら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づ
    くべき歴史学の健全な発展を阻害することになる。
    
     わが国としては、あくまでも歴史事実に基づいた客観性のあ
    る史観を持たなければならない。そのためには次の3点がポイ
    ントとなる。
    
     第一に日本による朝鮮統治をどう評価するか。韓国でも日本
    統治時代の歴史事実に基づく研究が進んでおり、経済史分野で
    は再評価派が研究者の3分の1を占め、国史分野でも動揺が起
    きつつある。[1,p73]
    
     現実に日本統治時代のGDP成長率は4.15%と当時の先進国
    を上回り、人口も2.4倍となるほどの高度成長をしていたと
    いう事実があるのだから、客観的な研究をすれば、再評価派が
    増えるのは当然なのである。この高度成長に関しては日本側の
    貢献もさることながら、韓民族の努力と能力への敬意が払われ
    てもしかるべきだろう。[c]
    
     第二に大東亜戦争で日韓が一体となって戦った事実をどう受
    け止めるか。日本人が靖国神社を参拝する際には、そこに一緒
    に祀られている朝鮮人2万1千余柱、台湾人2万8千余柱への
    慰霊も忘れてはならない。
    
     第三に朝鮮戦争を日本としてどう評価するか。この戦争で韓
    国側が負けて、北朝鮮のようなテロ国家が今の何倍もの国家規
    模で玄界灘のすぐ対岸に存在していたら、わが国の平和と繁栄
    は重大な脅威を受けていただろう。韓国軍が42万人もの尊い
    犠牲を出しながらも、果敢に戦ってくれた事に対する感謝を日
    本側は持つべきではないか。[d]
    
     このような歴史事実を直視すれば、我々日本人が抱くべきは、
    韓民族に対する敬意と慰霊と感謝の情である。韓国側の「抗日
    史観」に対し、日本側が表では謝罪しつつ、裏では反撥すると
    いうのは、歴史事実に基づかない虚構の関係であり、そこから
    は真の相互理解も友好も育ち得ない。日本側は「敬意と慰霊と
    感謝」を表明し、韓国側も歴史事実に基づいた自信と誇りを確
    立する、というのが真の和解への道であろう。
    
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(002) 国際社会で真の友人を得るには
b. JOG(036) インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち
c. JOG(056) 忘れられた国土開発
d. JOG(037) 恩讐の彼方に

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 黒田勝弘、「韓国の歴史観」★★★、文春新書、H11
2. 小室直樹、「韓国の悲劇」★★★、光文社カッパ・ビジネス、S60
3. 名越二荒之助編著、「日韓2000年の真実」、★★★★、
   株式会社国際企画、H9
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

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