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歴史教育と考古学:国家史でない歴史大切 シンポで議論白熱、参加者の共通認識に

 小学生の歴史教科書に、旧石器時代や縄文時代の記述が必要な理由は何だろうか--。「歴史教育と考古学」を考える第1回シンポジウム(東京学芸大、日本考古学協会主催)が同大であった。日本人の歴史認識にとっての考古学の役割をめぐり、議論が白熱した。

 現行の学習指導要領(98年改定)では、小学6年生が歴史を学ぶ。その学習範囲は「農耕の始まり」(弥生時代ごろ)からと定められている。このため、それ以前の旧石器、縄文時代は教科書の本文から消え、コラムや年表などでかろうじて紹介される程度になっている。

 これに対し、日本考古学協会が「歴史を途中から教えるのは不自然」などと批判。こうした動きを受けて中央教育審議会は先月、学習の範囲に「縄文土器が使われていたころ」を加える答申をまとめ、縄文復活は確実になった。旧石器時代の扱いは不透明なまま残っている。

 シンポでは、縄文復活は一定の成果と評価された。一方で、文部科学省への警戒感もいぜん強かった。というのも、縄文の記述が必要な理由について、文科省と考古学などの歴史研究者側で根本的な違いがあるからだ。中教審答申では「我が国の歴史と文化を大切にし、日本人としての自覚をもつようにするとともに……」という文脈に記述の復活が位置づけられた。

 しかし、研究者側は国家史の充実という国の発想への反発が強い。坂井俊樹・東京学芸大教授は「歴史教育は国民の形成という明確な国家目標を持っている。考古学は国民国家史に抜けているから教科書に縄文を入れたいという姿勢ではいけない」と考古学が国の歴史教育の単なる補完役に回るのを警戒する。

 それでは、考古学者たちは、縄文や旧石器時代を学ぶ意味をどう考えているのだろうか。

 歴史は国家の枠を超えて動いている、というのが研究者に共通の認識のようだ。縄文の記述が消えた時も、「弥生時代という国の始まりにつながることしか歴史で扱おうとしないのは問題」(岡内三眞・早稲田大教授)という反発が大きかった。

 国家を超えた歴史像という点では、木村茂光・東京学芸大教授が「日本列島という範囲に完結した歴史があると考えてはいけない。韓国が国家戦略として『東アジア史』を始めているのに比べ、われわれは鈍い」と指摘。アジア史など、時代だけでなく地域的にも国家を超えた歴史が重要だと強調した。

 戸沢充則・明治大名誉教授は「敗戦の年、それまで神様の歴史しか知らなかったのに、考古学を通し歴史を知るとは人類の生き方を知ることだと分かった」と、国家史を離れた人類史や地域史の意義、国ではなく人を知ることの大切さを訴えた。

 地域史の視点では、谷口榮・葛飾区郷土と天文の博物館学芸員の報告が注目された。同館では学校と連携して子ども向けの考古学プログラムを実施。東京都葛飾区が縄文時代には温暖化で海没していた事例などを通し、現在の地球環境問題にまで視野を広げられるように試みている。

 これなど、中教審の掲げる学習目標の後段「持続可能な社会の実現など、よりよい社会の形成に参画する資質や能力の基礎を培う……」にもぴったり。谷口氏は「『下町から地球を考える』と意気込んでいる。現在の問題に考古学はもっと発言すべきだ」と述べた。

 このほか、考古学者自身の問題として「歴史教科書問題に関心が低すぎる」「実は小学校より中学の教科書が問題なのに、取り組みが不十分」などの指摘もあった。【伊藤和史】

毎日新聞 2008年2月26日 東京夕刊

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