−経緯− 昭和56年11月18日午前11時5分頃、輸入雑貨商の三浦和義社長(当時34歳)と妻の一美さん(当時28歳)は米国・ロサンゼルス郊外の駐車場で二人組の男に銃撃され一美さんは頭を撃たれて意識不明の重態。夫の三浦も足を撃たれて重傷を負った。 翌年の昭和57年1月、一美さんは日本に移送され神奈川県伊勢原にある東海大付属病院に入院した。しかし、意識が戻ることはなく11月30日に死亡した。三浦は、保険会社(3社)から1億5500万円を受け取った。 当時、米国で銃撃に遭い妻が意識不明、夫が足に重傷を負った三浦夫妻に対する同情の声は大きかった。マスコミも《悲劇の夫婦》を大きく報道した。ところが、昭和59年に週刊文春が「疑惑の銃弾」というタイトルで、三浦が保険金目当てに仕組んだ事件ではないかとする内容を連載した。この影響でマスコミは一転して《三浦犯人説》を強調する報道が目立つようになる。 さらに米国から驚くべき情報が入ってきた。昭和54年5月4日、米国のロサンゼルス郊外で身元不明のミイラ化した東洋系で女の遺体が発見された。白石千鶴子さん(当時34歳)の家族が昭和54年に米国へ出国した後、行方不明になっている千鶴子ではないかと届け出た。そこで、日本から千鶴子さんの歯型を送り照会したところ本人であることが確認された。白石千鶴子さんは離婚後、渡米、三浦の経営する輸入雑貨商の役員をしていたことが判明した。更に千鶴子さんの口座から総額426万円が三浦によって引き落とされていた。後日、三浦は千鶴子さんに金を貸してあったため自分で引き出して返してもらっただけと説明した。 更に疑惑がクローズアップされたのは、銃撃事件から3ヶ月前の昭和56年8月13日、三浦がホテルのロビーで商談中、一美さんがいる部屋に何者かが侵入し一美さんの後頭部を殴打し犯人が逃走するという事件が明るみになった(一美さんは数針を縫う程度の軽傷だった)。 この疑惑報道が加速したのが翌年5月16日の産経新聞で《三浦に一美さん殺しを頼まれた》というスクープ記事で元女優の矢沢美智子(当時24歳)の告白が報道された。これによると「三浦から保険金の分け前と結婚を条件に殺害を頼まれた。冗談だと思っていたがお金を渡されロサンゼルスへ行けと指示された。ホテルで三浦が待ってきた塊が入った袋を渡され殺害を再度指示された。そこで、一美さんの部屋に行き一美さんと揉み合っているうちに袋が一美さんの頭に当たり気絶した」ということだった。 その後、矢沢は警察に自首した。 昭和60年9月11日、警視庁は三浦を一美さんに対する殴打事件での殺人未遂容疑で逮捕。同12日は矢沢美智子も同容疑で逮捕した。この殴打事件では、昭和61年7月14日東京高裁で矢沢美智子に懲役2年6ヶ月が確定。平成10年9月16日最高裁は三浦の控訴を棄却し懲役6年が確定した。 殴打事件公判中の昭和63年10月20日、三浦夫妻銃撃事件で三浦と実行犯とされたロサンゼルスで駐車場を経営していた大久保美邦(よしくに)が殺人容疑で逮捕された。平成6年3月31日東京地裁は、大久保に対して証拠不十分として無罪。三浦に対しては実行犯を氏名不詳としたまま無期懲役を言い渡した。平成10年7月1日東京高裁は大久保の無罪(確定)と三浦に対しては「氏名不詳に妻を銃撃させたのは間違いないとする確かな証拠が無い」として無罪を言い渡した。平成15年3月5日最高裁は「記録を精査しても、妻だった一美さんを殺害したと認めるには合理的な疑いが残るとした二審の無罪判断は是認できる」として検察側の控訴を棄却し三浦に無罪が確定した。 −報道の問題− 検察側は物的証拠に乏しく、その殆どを状況証拠に頼った。東京高裁、最高裁では「疑がわしきは被告の利益に」という原理原則を守った。 一方、報道のあり方に関しても問題が残った事件となった。当時のエスカレートする報道で世論は「三浦犯人説」で傾いた。まさに報道のリンチ状態であったのは反省が必要。 この「ロス疑惑報道」で三浦は拘置所から各報道機関に名誉毀損、プライバシーの侵害などで450件以上の訴訟を起こし、その殆どは三浦の訴えを認める判決を下している。その賠償総額は5000万円以上とされ、いかに行き過ぎた報道であったかが分かる。 三浦は、逮捕される前に多数の報道機関に出演し発言をしている。中でもテレビの出演は多い。深夜番組の「トウナイト」で評論家の田原総一郎と論争した際、田原は「メディアが独自に調査して犯罪者だという疑惑を報道する自由がある」と発言。これに対して三浦は「それは自由だが、もし犯人ではないと分かったら責任を取って欲しい。報道される側は生活が破壊されるのに、メディアは何のリスクも負わないのは不公平だ」と反論している。そのメディアがリスクを負った話は聞こえてこない。
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