いわゆる「ロス疑惑」は日本社会に予断、偏見の怖さ、危険性を教訓として残した。無罪となった人物の米当局による逮捕に際し、私たちはその教訓を生かし裁判員裁判の成功につなげたい。
「いまごろなぜ」−米ロサンゼルス市警が、「ロス疑惑」の渦中の人物、元輸入雑貨会社社長、三浦和義容疑者を妻殺しの容疑で逮捕したことは、日本社会を驚かせた。
二十六年余も前の事実であり、日本では五年前に無罪が確定した。本人ならずとも「終わったこと」と考えていた人が多いのではないか。
半面、日本で無罪になった事件を米国の裁判所で裁くことは法制度上は可能だし、凶悪事件の公訴時効を認めない米法のもとでは、二十七年前の事件も過去のことではない。
無罪とした東京高裁、最高裁の判決は奥歯にモノの挟まったような表現だっただけに、ロス市警の粘り強さに共感を覚え「真実究明を」という思いの人もいるだろう。
ただ、新証拠が見つかったのか、起訴に持ち込めるのかなど、現段階では分からないことが多い。過去の情報にとらわれてあれこれ憶測することは慎まなければならない。
報道する側も報道に接する側も、近く実施される裁判員裁判を常に念頭に置きたい。自分がこのような難事件を担当するかもしれないことを想定すれば、そして「ロス疑惑」の経緯を振り返れば、「やっぱり」という予断が禁物であることを理解できるはずだ。
「裁判官と違って市民は予断、偏見を抱きやすい」という一部の意見には賛同できない。
情報の送り手は予断、偏見を招かないよう十分気をつける。受け手は情報を証拠に照らして冷静、客観的に吟味し、即断しない。裁判官による裁判でも、市民参加の裁判でも、これが守られなければならないことは変わらないのである。
この事件は予断、偏見の危険性がそろっている。元社長を犯人視する多数の報道があった。無罪の判決は「有罪とするにはなお合理的な疑いが残る」と有罪の可能性もにおわせる表現だった。元社長は同じ妻に対する殺人未遂事件では有罪が確定し、服役した。
だからといって今度の逮捕で「殺人も真犯人だったのか」と思い込んではいけない。認定はあくまでも証拠に基づかなければならない。
傍観者気分を捨て、今後明らかになるであろう米側の捜査結果を、裁判員になったつもりで見守りたい。その経験は自分が裁判員に選ばれた時に役立つに違いない。
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