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2008.2.23









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(b1面)フロントランナー
新型インフル封じ込めに道
東京大学教授
柴崎正勝さん(61)

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感染爆発はいつか起こる。時間との競争だ。克服すべき課題にぶつかると、深夜でも実験装置を前に検討が始まる=東京・本郷の東大薬学部で

 鳥インフルエンザのウイルスが突然変異し新型インフルエンザとなって感染爆発したら……。抑止効果があるタミフルは供給に限りがある。そんな中、東大の研究室がタミフル量産化に道を開いた。

 ――日本だけで3000万人が感染し、最大60万人が死亡するとされる感染爆発に効く薬は?

 新型インフルエンザのワクチンは、新しいウイルスが発見されてから培養が始まります。出回るのは半年かかり、感染爆発のスピードに追いつかない。感染すると、ウイルスが体内で増殖し、発症します。タミフルは細胞内の酵素に作用してウイルスを細胞に封じ込め、外に出さない働きをします。世界保健機関(WHO)は、感染が確認されたらただちに周辺の人にタミフルを投与し、感染爆発を防ぐことが必要としています。

 ――タミフルは生産に限りがあると言われています。

 原料は中華料理の香辛料として使われている八角です。独特の苦みがあるあの種子からシキミ酸という成分を抽出し、いくつもの工程を経てタミフルに仕上げます。ただ、八角は中国など限られた地域に生育し、収穫は天候に左右され、供給に限りがあります。

 タミフルの化学合成ができれば、石油化合物などありふれた材料から大量に生産できます。構造が複雑なので人為的な合成は難しいとみられていましたが、私が開発した「不斉触媒」という効率のよい触媒を使って不可能とされた化学合成が可能になったのです。

 ――タミフルは異常行動など問題もあるようですが。

 服用に配慮が必要な場面もあるでしょう。しかし、感染爆発=世界的流行という非常時に頼れるのはいまのところタミフルだけ、と言われています。保健所や企業にタミフルを備蓄し、危機に備えることが必要ですが、世界を見渡すと備蓄が足らないのが現実です。

 ――量産技術は感染爆発に間に合うでしょうか。

 06年2月に最初の合成が成功しました。品質や効率を上げる改良を重ねています。いま取り組んでいる第3世代の合成タミフルが完成すれば供給不足は解消できる。問題はいつ感染爆発が起こるか、ということです。この冬をなんとかしのげれば間に合うのですが。

 ――日本など豊かな国がタミフルを買いまくっているとか。

 供給が十分でないからカネのある国が先に押さえてしまう。新型インフルエンザへの備えは市場原理に委ねるだけでは済まないと思います。感染爆発が真っ先に心配されるのはアジアやアフリカなどの途上国。世界の危機管理という観点から予防薬の備蓄体制を考えるべきです。

 ――スイスのロシュ社がタミフルの特許を持っています。

 大量に安く製造できる技術が確立しても、今の仕組みではロシュ社が同意しなければ製造や供給はできない。しかし感染爆発が起きたら、悠長なことを言っていられない。エイズの蔓延(まんえん)が問題になったアフリカやタイでは予防薬を安く供給することが例外的に認められました。タミフルもその準備をすべきでしょう。政府がその気になり、製薬会社が協力すれば半年で供給体制は整う。日本が国際貢献を果たす大事な局面ではないでしょうか。

文・山田厚史
写真・東川哲也




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「新しい発見と社会貢献を両立させることが研究者の使命だ」。熱っぽく語る団塊世代の学者でもある=東大薬学部で

■タミフル量産化へ時間と勝負

 東大本郷キャンパスの薬学棟4階。午前0時を回っても柴崎研究室の明かりは消えない。

 「感染爆発が始まる前に供給体制を整えたい。時間との勝負です」。タミフルの合成に成功したのは2年前、あの日も寒い夜だった。フラスコの底にうっすら白い結晶が現れた。植物の成分から作るしかなかったタミフルが化学合成できることを証明した一瞬だった。

■第3世代へ

 「合成第1世代」であるこのタミフルは「お蔵入り」になった。使った酸化セレンに毒性があり、微量でも残ると問題が起きかねない。セレンを使わない第2世代は半年で成功したが、工程が複雑で生産効率に課題が残った。いま第3、第4世代の開発がヤマ場を迎えている。ブタジエン誘導体を12の工程を経て作る第3世代は、完成すれば量産化に画期的な道を開くと厚生労働省も注目する。

 「11番目の工程を残し、ほぼ完成しました。突破する道筋は見えた。あとわずかでめどがつく」。並行して走る第4世代はより簡便な製法だという。「どの家庭にもある原料物質から合成します。まだ秘密」

 教授室の真ん中に分子模型が飾られている。骨格の中心に黄色いランタン原子、周りを3個のリチウムと6個の酸素の原子が囲み、張り出すように無数の炭素や水素が並ぶ。「マサカツ・シバサキ」の名を世界に広めた不斉触媒の構造模型だ。

 触媒は化学反応を誘発する物質だ。柴崎触媒は酸とアルカリの機能を併せ持ち、二つの仕事を同時にこなす優れものである。タミフルの合成はこの触媒で可能になった。発見は92年、高血圧治療薬に取り組んでいた時のことだ。予想を超える触媒ができた。米国の化学雑誌がデータを求めてきたが、前の手順を踏んでも同じものができない。「再現できません、となれば化学者として失格」と胃の痛む思いでいたとき、試薬を保管した古いドライボックスが目に留まった。密封が緩んでいた。湿気が忍び込み、微量の水分が混ざった試薬が想定外の触媒効果を生んでいたのだ。

■偶然の成果

 「私の研究は偶然がもたらした幸運の連続でした。人生をやり直しても、今のような成功は得られないでしょう」。第4世代の研究責任者である弟子の五月女宜裕博士も「研究は魔物です。思いもしなかった反応が現れたりする。わくわくの連続です」と語る。

 「セレンディピティ」。呪文のような単語が研究室の会話にとび交う。偶然による思いがけない成果、を指す造語だ。実験室にすむ魔物が、気まぐれに贈る幸運。その一瞬を逃すまいと若い研究者たちは深夜まで実験室にこもる。

 セレンディピティから生まれた柴崎触媒はいまや品ぞろえが5グループ30種に増え、新薬合成の頼もしい道具となった。

 この1月、糖尿病性神経症の特効薬が研究室で合成された。需要は世界で年4〜5トンとみられるが、植物から抽出する生薬では20%もまかなえない。合成なら大量生産が可能だ。

 次なる標的はエイズ、C型肝炎、結核など。世界の課題への挑戦が続く。成功は名誉だけではない。独立行政法人となった東大は知的財産権の活用に積極的だ。製品化する企業から特許料が入る。糖尿病の新薬は大日本住友製薬が製造する予定だ。やがて入る特許料は大学と研究室が折半。スタッフにも応分の報酬がもたらされる。


■「ヤミ研究」は黙認しています

 ――なぜ化学者になったのですか。

 幼いとき父を亡くし、7歳上の兄が親代わりでした。その兄が化学を専攻していました。暮らしは楽でなく、中学3年の時に兄から浦和高を目指せと言われ、勉強を始めた。理数科は得意ではなかったけど、兄のようになりたいと思って東大は理科二類を選びました。選考を決める頃に風邪を引いて「薬を飲むとなぜ熱が下がるのだろう」などと疑問に思い、化学をやってみようと。

 ――大学院に残ったのは?

 企業から奨学金をもらっていたので会社に入るつもりでしたが、研究が少しずつ面白くなって、のめり込んでしまった。徹夜で実験し、翌日うたた寝をするような学生で、良い評価は得られなかったようです。その後、米ハーバード大に渡り、ノーベル賞学者のコーリー教授の下で勉強しましたが、日本に帰っても東大に職はなく、新設の帝京大薬学部のお世話に。「冷や飯」と思ったけど、今から思えば1人で独自の研究をする場が30歳で与えられたことは有意義でした。

 ――6年たって相模中央化学研究所に移りましたね。

 興銀の中山素平さん(故人)が触媒研究の拠点にしようと設立した研究所です。ここで触媒化学に目覚めた。有名教授の研究室にいたら勝手なことはできません。他人と同じことをやりたくない性分なので、相模時代に今日の基礎がつくられたと思います。

 ――いまや有名教授ですが。

 うちの研究室は「ヤミ研究」を黙認しています。教授の言うとおりの研究だけしている学生は大成しない。研究室の基本姿勢や方向を理解していれば、夜中に勝手な研究をしていても、とがめたりしません。

◆ チェックポイント ◆

■ノーベル賞も夢でない

 「柴崎さんの業績は、感染症のリスク管理に新たな選択の余地を与えたともいえる」。厚生労働省医薬食品局の中垣俊郎審査管理課長は指摘する。

 知的所有権を重んずる日本は、製薬会社がカネをかけて開発した特許は尊重する原則だが、差し迫った危機への対応には例外的な扱いも考慮の余地がある、とみている。生薬なら量産に限りがあるが、化学合成で安く作れるなら「二重価格」で備蓄用を途上国に安く供給するのは現実的な選択だろう。

 タミフルの服用は1日2回、5日間が目安。1カプセルは316円だから備蓄は1人当たり3160円。「合成薬が出ればコストはひとケタ以上安くなるのがこれまでの例」という。

 「世間の目はタミフルに向かいがちだが、専門家は触媒技術に注目している」というのは米国研究製薬工業協会の日本技術代表・小林利彦氏。ノーベル化学賞を受けた野依良治氏の業績も不斉触媒の研究で、日本が世界で競争力をもっている数少ない分野だ。

 「過去10年、不斉触媒で論文が一番引用されたのは柴崎教授。英国王立化学会、米国化学会、スイス連邦工科大から権威ある賞を今年、立て続けに受賞します。柴崎触媒に世界が関心を寄せている表れで、ノーベル賞も夢ではない」



 埼玉県鴻巣市生まれ。東大大学院薬学系研究科で博士号。米ハーバード大でノーベル化学賞のE・J・コーリー教授のもとで3年間研究。帝京大助教授、相模中央化学研究所、北海道大教授を経て91年から現職。06年から東大薬学部長、日本薬学会会頭。

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75年のクリスマスにコーリー教授と



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