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「疑惑の銃弾」事件

 

1979年(昭和54年)5月4日、ロサンゼルス郊外のサンフェルナンドバレーで黒いビニール袋に入った、ほとんどミイラ化した女性の全裸死体が付近の住民によって発見された。ロス郡検死局は死因については鑑定不能とし、「ジェーン・ドゥ・88」“Jane Doe 88”と名付けた。この年に88番目に発見された女性の身元不明死体という意味で、男性の場合は「ジョン・ドゥ」“John Doe”と名付けるらしい。

1981年(昭和56年)8月13日、ロス市内のホテル「ニューオータニ」に雑貨輸入店「フルハムロード」社長の三浦和義と妻の一美が宿泊していた。三浦がロビーで商談中、一美は部屋でチャイナドレスの仮縫いをしていたが、部屋にきた東洋系の女がいきなりハンマーで一美の後頭部を殴打した。その後、一美は救急車で病院に運ばれ、数針を縫った。

当時の「フルハムロード」は「アヒルのランプ」や「ビーズランプ」など、数々のヒット商品を出す店として有名で売上成績も順調であった。

三浦夫妻はAIUの海外旅行障害保険(最高限度額・7500万円)に加入していたが、当時の三浦の年収は約2000万円であり、日本保険協会の調べによると、その保険金は年収相応の平均より少ない金額であった。

11月18日、ロス郊外の駐車場で三浦(当時34歳)とその妻の一美(当時28歳)が宣伝用の写真を撮影中に2人の男に銃撃された。いきなり一美の頭部を撃ち、次に三浦の左脚を撃ち、1200ドルを奪って逃走したという。三浦は1週間の軽傷で済んだが、一美は弾丸が前頭葉に達しており、高度障害の「植物人間」になった。

1982年(昭和57年)1月、一美はアメリカ軍の病院飛行機で帰国し、東海大学付属病院に入院した。

3月〜7月、一美が「植物人間」になったことで、三浦に生命保険会社3社からそれぞれ最高限度額が支払われ、総額1億5500万円になった。

(1)第一生命=災害死亡時2倍保障・3000万円(1979年12月/結婚を契機に加入)

(2)千代田生命(現・AIGスター生命)=死亡時2倍保障・5000万円(1981年1月/長女誕生を契機に加入)
(3)AIU=海外旅行障害保険最高限度額・7500万円(1981年11月/旅行するため加入)

11月、一美が意識が回復せずに死亡。

1984年(昭和59年)、1月26日号(都内での発売は1月19日)〜3月8日号の『週間文春』に全7回にわたり「疑惑の銃弾」と題して、三浦夫妻に対する銃撃事件についての記事が連載された。これにテレビや新聞、雑誌などが追随し報道合戦が激化、「ロス疑惑」騒動を巻き起こした。

1月21日、三浦は文藝春秋を相手に6000万円の損害賠償を請求する民事訴訟と「疑惑の銃弾」の執筆者を名誉毀損で訴える刑事訴訟を起こした。

3月29日、「ジェーン・ドゥ・88」の身元が日本から届けられた歯型の写真が決め手となって白石千鶴子と断定されたが、このことで再び大騒ぎとなった。

白石千鶴子は結婚していたが、1977年(昭和52年)秋に別居し、1978年(昭和53年)2月から「フルハムロード」の取締役になった。1979年(昭和54年)3月20日に前夫と離婚が成立。間もなく「北海道に行く」と言い残し、行方不明になった。3月29日に出国し、5月4日に遺体となって発見された。このとき、千鶴子は34歳だった。三浦は3月27日に出国して、ロスに滞在しており、4月6日に帰国している。

5月8日、千鶴子の銀行口座に前夫から慰謝料430万円が振り込まれる。

5月16日、『サンケイ新聞』が「一美さん殺しを頼まれた!」と題したスクープを発表。一美に対する殴打事件で「東洋系の女」の元女優の矢沢美智子(当時24歳)が次のような告白をした。

< 三浦から1500万円の分け前と結婚を条件に保険金目的の妻殺害を依頼されたが、冗談と思い断った。それからしばらくして三浦から「ロスへでも行って来い」と言われ、60万円もらってロスへ行った。ロスではホテルの部屋に三浦が現れ、再び殺害を依頼されて金属の塊を渡された。一美の部屋に行き、「あなたは殺されようとしている」と告げるつもりでいたら凶器が袋ごと当たった。 >

この告白で矢沢は「自首」したのだが、「ロス疑惑」はアメリカで起こった事件であり、属地主義によって日本側に捜査権がないので警視庁は矢沢に接触しなかった。

一美に対する殴打事件について、三浦はのちに次のように供述している。

「単なる“痴話喧嘩”で、僕が当時付き合っていたガールフレンドが家内が居るところに押しかけてもみ合いになった。そのときにカッとなったその子が家内を突き飛ばして怪我をさせたのです。それで家内は頭に傷を負ったのですが、下から上にできた傷ということが医学鑑定でも、はっきりしているにもかかわらず、裁判では上からハンマーで殴ったということになってしまったのです」

5月18日〜6月12日の間に、計42回にわたり、三浦がキャッシュカードで千鶴子の銀行口座からお金を引き出したが、結局、その総額は426万5000円になった。

このことについて、三浦は「千鶴子さんにカネを貸しており、アメリカからカードを郵送してきたので、自分で引き出して返してもらった」と言った。

7月13日、矢沢は弁護士に相談した上で、『サンケイ新聞』に告白した内容と同じ趣旨の「上申書」を警視庁に提出した。

8月7日、ロス市警は国際警察機構(ICPO)を通じて日本側に捜査資料を求めていたが、これに応じた警視庁からこの日に「上申書」が届いた。ロス市警としては単なる傷害事件として処理したいとは思っていなかった。というのは、傷害罪は時効が3年で8月13日に成立するからだった。

1985年(昭和60年)4月29日、ロス市警は「致死性武器襲撃罪」の容疑で三浦と矢沢を書類送検したが、「致死性武器」がはっきりしないことや「襲撃」の様子も分からないことから起訴は保留にした。傷害があったことは確かとしているが、そうすると時効が成立しているのでこれ以上は動けなかった。

9月11日、警視庁により三浦和義(当時38歳)が一美に対する殴打事件での殺人未遂容疑で逮捕された。翌12日、矢沢美智子(当時25歳)も殺人未遂容疑で逮捕された。1日のズレが生じたのは2人とも深夜に連行され、矢沢に逮捕状を執行したときには翌日になっていたからだった。

この頃、三浦の叔母で女優の水の江滝子(三浦の父親の妹が、水の江滝子)が身に覚えのない「三浦の実母説」を一部のマスコミに書き立てられ、芸能界から引退した。叔母と甥という関係だけでなにかと引き合いに出され、迷惑だからということで、本名の「三浦ウメ」から芸名と同じ名前の「水の江滝子」に変えた。

10月3日、東京地検が三浦と矢沢を起訴。

10月4日、矢沢の弁護人の希望により東京地裁は「三浦と矢沢は分離公判」と決定。

12月、ロスで一美の父親の佐々木良次が「銃撃事件の実行犯逮捕、有罪判決につながる情報提供者に懸賞金1万ドル」と発表した。

12月11日、東京地裁で矢沢の初公判が開かれた。傍聴券を求め675人が行列を作った。

1986年(昭和61年)1月8日、東京地裁は妻の一美に対する殴打事件で矢沢美智子に求刑・懲役3年に対し、懲役2年6ヶ月を言い渡した。「執行猶予付き」となる予想に反し、実刑判決となった。

1月14日、東京地裁で三浦の初公判が開かれた。傍聴券を求めて1782人が行列を作った。

1月21日、矢沢は東京地裁での懲役2年6ヶ月とした判決を不服として控訴した。

7月14日、東京高裁は一美に対する殴打事件で矢沢に対し控訴棄却とした。上告せず、懲役2年6ヶ月が確定した。

1987年(昭和62年)8月7日、東京地裁は一美に対する殴打事件で三浦和義に懲役6年を言い渡した。

1988年(昭和63年)10月20日、三浦夫妻に対する銃撃事件で三浦和義と実行犯とされた元駐車場経営者の大久保美邦(よしくに)が殺人容疑で逮捕された。

1994年(平成6年)3月31日、東京地裁は三浦夫妻に対する銃撃事件で、大久保に対しては「実行犯と断定するには証拠不充分」として無罪を言い渡したが、三浦に対しては実行犯を「氏名不詳」としたまま、無期懲役を言い渡した。

6月22日、東京高裁は三浦に対し一美に対する殴打事件で控訴棄却とした。

1998年(平成10年)7月1日、東京高裁は三浦夫妻に対する銃撃事件で、大久保に対し再び無罪を言い渡し、三浦に対しては、実行犯が見当たらず謀議の形跡がほとんど認められないと指摘し、「共犯者が単に特定されていないだけでなく、その存在の有無など重要な点が全く解明されておらず、氏名不詳に妻を銃撃させたのは間違いないと推認できるだけの確かな証拠がない」として逆転無罪を言い渡した。

東京高裁での無罪判決の要旨は次の通り・・・・・・

1 本件証拠によれば、原判決が、本件殺人事件の銃撃実行者を大久保と断定することにはなお合理的な疑いが残ると判断したのは相当であって、その点に事実誤認があるとはいえない。

すなわち、検察官は、銃撃実行者を大久保であると主張する主たる根拠として、犯行時に現場で目撃されたのと車種が同じで車体の塗色がよく似たカーゴバンを、大久保が、事件前日から当日にかけて、レンタカー会社から借り出していた事実があることを指摘し、このバンは本件犯行に使用する以外に使途がなかったし、また本件発生時にバンを借り出していた事実とそのレンタカー会社名を、大久保は忘れていたといって捜査機関に素直に述べず、レンタル契約書を突きつけられてようやく認めた供述経過は、このバンを本件犯行に使用した事実を最後まで隠そうとしたことを疑わせると主張する。

この点に関する検察官の状況証拠の分析とこれに基づく推論は、極めて詳細、ち密であり、その点に限っていえばかなり説得的であって、検察官が大久保に対して嫌疑を抱いたのも、もっともであったと一応首肯させる点がある。

しかし、このことだけを根拠として、犯行現場で目撃されたバンは大久保バンであったと断定することは、本件ではまだできない。すなわち、証拠上、現場バンにはアンテナが装着されていなかったか、あるいは最初は装着されていたが破損して無装着状態になっていたことが明らかとなっているところ、関係証拠によれば、大久保バンには、その当時、アンテナがついていた可能性がかなり高いと推認すべき根拠がある。

そうなると、両車は、車種が同じで車体の塗色は似ているけれども、別個のバンであった疑いが生じるからである。その他、大久保には犯行に加担する動機が全く見当たらないこと、本件前に大久保と三浦とが謀議をする機会が現実にはほとんどなく、かつ現実に謀議をした痕跡も全く見当たらないこと、犯行への加担に対する報酬授受の事実もないことなど、大久保の犯行関与を打ち消しているとしか理解できない周辺事実を含めて総合考慮すると、検察官が主張する通りの、銃撃実行者は大久保であって、その大久保と三浦との間に共謀が成立していたとの事実を認めるには、どうみても合理的な疑いが残ると判断せざるを得ない。

2 三浦に対する殺人の公訴事実について、検察官が訴因として「三浦と大久保との共謀」を掲げ、かつ、三浦の共謀の相手方としては大久保以外には考えられないとの立証を続けた原審での審理経過を前提として、原審裁判所が、訴因変更手続きをとることなく、判決中で、突然これとは異なる「三浦と氏名不詳者との共謀」を認定した訴訟手続きには、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反があり(刑訴法三七九条)、その点で原判決は破棄を免れない。

3 原判決を破棄した上、「氏名不詳者との共謀」の事実等について、この上さらに証拠を取り調べる余地があるのであれば、本件を原審に差し戻し、そこでより一層の真相解明を期待することも考えられなくはない。しかし、何といっても本件発生後すでに十六年以上(起訴後九年以上)の年月が経過しており、しかも事件の発生地が外国であるため証拠収集上の制約も多く、加えて、検察官は原審で、大久保以外に銃撃犯人がいるとは考えられない旨の立証を繰り広げてきた経過があって、今後その点について新たな証拠が現れることはほとんど望み得ない状況にある。そして、本件の核心は、主として取り調べ済みの状況証拠に対する評価とこれに基づく推論過程にあることを勘案すれば、いまさら原審に差し戻すことは適切ではなく、この段階で当審において自判するのが相当と考えられる。

4 予備的訴因の事実、すなわち、直接の銃撃実行者を不明としたままで、その氏名不詳の銃撃実行者と三浦が共謀して、その氏名不詳者に三浦の妻、一美を銃撃させたとの事実について有罪の認定をするためには、本件ではその共謀が三浦と本件とを結び付ける中核的事実であることにかんがみ、その者からどのような弁明や供述等がなされても、三浦がその氏名不詳者と共謀して銃撃させたことに間違いがないことを裏付けるに足りるだけの確かな証拠が必要だと考えられる。

三浦についてこれをみるのに、同人には、例えば殴打事件前に共犯者捜しともみえる一連の不可解な言動が認められ、その後に発生した殴打事件をめぐる行動にも被害者一美の殺害とその保険金取得を狙ったとしか思えない加害意思を読み取ることができ、その三カ月後に起こった本件との間には犯行態様その他について何やら共通性も見え隠れする。しかも、銃撃事件発生時の現場の状況に関する三浦の供述、中でも銃撃犯人をグリーンの車で来た二人組の強盗犯である、白いバンには気付かなかったと述べる点には虚偽供述との疑いが強く持たれるなど、大久保の場合よりもはるかに強い嫌疑を抱かせる事情が認められる。検察官が、少なくとも三浦の犯行関与は間違いがないと主張することにもかなりの程度理由がある。しかし、他方、一美に引き続いて三浦もライフル銃で銃撃・被弾している本件の犯行態様からみて、本件は、共犯者抜きには考えられない態様の犯行である。その点がまさに中核的な要証事実となっているところ、検察官がこの者以外には共犯者は考えられないと主張して立証に努めた大久保について、原判決は証拠不十分の判断をし、この判断は、関係証拠に照らし、当審においても維持するほかなく、しかもそれ以外には共犯者とおぼしき者が全く見当たらない状況にある。証拠上、共犯者が単に特定されていないというだけではなく、全く解明されていないのである。加えて、日本にいた三浦において、アメリカにいたと想定するほかない氏名不詳の共犯者を新たに見つけ、その者との間で特に殴打事件後、本件発生までの間に銃撃事件について謀議をし、これを完了しておくまでの機会はほとんどない。かつ、現実に謀議をした痕跡は全く見当たらないこと、一美を連れて渡米した経過にはむしろ犯行計画を否定しているかのような事情が認められること、犯行加担に対する報酬支払いの事実が全くないこと等々の、いずれも共犯者の存在を否定する趣旨の状況事実が多く認められる証拠関係にあること等の周辺事実を含めて総合考慮すると、検察官が主張するような、銃撃犯人は不明でも、その氏名不詳者と三浦との間に共謀が成立していたこと、および三浦がその者に一美を銃撃させたことに間違いはないと推断するに足りるだけの確かな証拠は見当たらず、なお合理的な疑いが残るといわざるを得ない。事実認定に関連して一言付言すれば、本件は、状況証拠からもろもろの間接事実を立証し、いわばモザイク状の間接事実を多数積み重ねて犯罪事実全体の立証をするという、微妙・困難な証拠関係にある事件である。しかし、専ら状況証拠を積み重ねて立証するほかない事案の場合には、立証の程度が低くてもよいという意味ではもとよりない。だから、もし、合理的な疑いを入れる余地のない立証がされたとはいえないと判断されるときには、その人物が第六感的感覚からはいかに疑わしいと感じられ、あるいは実際に証拠の一部に疑わしい点が認められても、それがまだ疑わしいとの域にとどまっている限り、刑事裁判の性質上、有罪の認定をすることはできないし、その旨判断することにはばかるところがあってはならない。本件は、ロス疑惑銃撃事件として、激しい報道合戦が繰り広げられたいきさつのある事件である。報道する側において、報道の根拠としている証拠が、反対尋問の批判に耐えて高い証明力を保持し続けることができるだけの確かさを持っているかどうかの検討が十分でないまま、総じて嫌疑をかける側に回る傾向を避け難い。証拠調べの結果が微妙であっても、報道に接した者が最初に抱いた印象は簡単に消えるものではない。そうした誤解や不信を避けるためには、まず公判廷での批判に耐えた確かな証拠によってはっきりした事実と、報道はされたが証拠の裏付けがなく、いわば憶測でしかなかった事実とを区別して判示し、その結果、証拠に基づいた事実関係の見直しを可能にすることの重要性を痛感される。

検察側は東京高裁での無罪判決を不服として上告した。

9月16日、最高裁は三浦に対し一美に対する殴打事件で、1、2審判決の懲役6年を支持し、上告を棄却した。

11月、三浦は宮城刑務所に収監されたが、未決勾留日数が差し引かれるため、実際の刑期は約2年2ヶ月だった。

服役中も三浦に関する報道は続いた。文藝春秋への損害賠償請求訴訟では最高裁で上告棄却となって敗訴した。

2001年(平成13年)1月17日、三浦が宮城刑務所を出所。

2003年(平成15年)3月5日、最高裁は三浦に対し、三浦夫妻に対する銃撃事件で2審で無罪とした判決を支持し、「記録を精査しても、被告を犯人と認める合理的な疑いが残る」として、検察側の上告を棄却した。これで三浦の無罪が確定した。事件から実に約21年4ヶ月が経過しており、三浦は55歳になっていた。

  三浦和義 矢沢美智子
妻・一美殴打事件
1981.8.13
東京地裁 懲役6年
1987.8.7
懲役2年6ヶ月
1986.1.8
東京高裁 懲役6年
1994.6.22
懲役2年6ヶ月
1986.7.14
最高裁 懲役6年
1998.9.16
  三浦和義 大久保美邦
三浦夫妻銃撃事件
1981.11.18
東京地裁 無期懲役
1994.3.31
無罪
1994.3.31
東京高裁 無罪
1998.7.1
無罪
1998.7.1
最高裁 無罪
2003.3.5

3月6日、三浦は東京都内での会見で、「無罪を確信していたので、長いといえば長いが、あっという間に過ぎたという思いです。感慨無量」と述べた。さらに、当時の報道について「裏づけのない報道が多かった。記事を再度読み直し、改めて自戒してほしい」と要望した。

「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」という法の理念に基づいた裁判についての原則があるが、三浦夫妻銃撃事件での裁判はそういったことを思わせる裁判となった。凶器などの直接証拠がなく、検察は状況証拠を積み上げる捜査方法を採ったが、マスコミの過熱報道が先行し、捜査はその報道の影響を受けている。

「ロス疑惑」は他人の不幸を喜ぶ日本人の嫉妬心から生まれた。整った顔立ちに長身、会社を経営して外車を乗り回し、妻も美人・・・。マスコミはそんな三浦が怪しいと騒ぎ立てた。そして、三浦の過去に犯罪歴があることを調べ上げた。三浦が高校3年のとき、朝火事があり、三浦と友人が駆けつけ家人を救出したが、後に放火したのは三浦自身であることが判明した。これにより、三浦は水戸少年刑務所で6年余り過ごしていた。三浦はもはや「社会的存在」だからかまわないという理屈で、次々とプライバシーを暴かれていった。

三浦にまつわる一連の事件やその報道については、マスコミの報道のあり方、警察や検察の捜査や矯正施設での問題を浮き彫りにした形となり、三浦がそのことで自ら訴訟を起こし、勝訴したことによって幾つか改善されていったことに対する貢献度は大きいと言える。日本新聞協会内に事務局を置くマスコミ倫理懇談会全国協議会のまとめによると、三浦が起こした訴訟は約500件とされ、2審判決時点で195件の判決が出された。3年の時効で敗訴した例もあったが、三浦の勝訴が約6割で、三浦の主張を認める和解も少なくないという。

5月7日夕方、三浦は東京都港区赤坂のショッピングモール「ベルビー赤坂」5階にある書店で犬のペット関連月刊誌『わんわん共和国』(880円)を万引きしたとして、窃盗の現行犯で逮捕された。三浦が本を持ったまま6階まで行ったのを警備員が目撃して取り押さえ、赤坂署に通報した。三浦は逮捕された際に「ロス疑惑」についての文庫本ももっていたが、調べによってこの本も万引きしたことが分かった。三浦は調べに対し「レジが混雑していたので、並ぶのが面倒だった。(代金は)支払うつもりだった」などと供述しているという。5月8日、東京地検は三浦を処分保留のまま釈放。このときの身元引受人はモッツ出版の高須基仁だった。5月16日、東京地検は三浦に対し、被害額が少なく容疑を認めて謝罪していることから不起訴(起訴猶予)処分とした。有名人ということで、軽微な犯罪でも大々的に報道されてしまう典型的な例となった。

2005年(平成17年)5月16日、東京地裁で大久保美邦と妻が、国と東京都に計1億4500万円余の賠償を求めた訴訟の判決があった。裁判長は、逮捕など捜査に違法性はないとして都の責任は認めなかったが、検察官による控訴審の公判維持に違法性を認め、国に約250万円を支払うよう命じた。判決は、控訴自体の違法性は否定したが、控訴審途中で三浦の共謀相手を「氏名不詳者」とする訴因を追加した点をとらえ、「検察官は十分な立証を行わず、無罪判決が出ると考えたと推認できるが、控訴を取り下げなかったのは注意義務に違反し、国家賠償法上、違法」と判断した。

2006年(平成18年)6月14日、東京高裁で大久保と妻が、「逮捕や拘置は違法だった」として、国と東京都に計約1億4500万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決があった。富越和厚裁判長は、「警察、検察の判断に違法性はなかった」と述べ、請求の一部を認めて国に約248万円の賠償を命じた1審判決を取り消し、請求を棄却した。富越裁判長は、「検察側は、大久保を無罪と考えて主張を追加したとは認められない」とし、控訴を取り下げなかったことも妥当とした。

10月31日、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)は大久保美邦と妻が、国などに約1億4500万円の賠償を求めた訴訟で、大久保側の上告を棄却する決定を出した。国に約250万円の支払いを命じた1審判決を取り消し、請求を棄却した2審判決が確定した。

2007年(平成19年)4月5日、三浦はコンビニエンスストアで万引きをしたとして、窃盗容疑で逮捕された。三浦は3月17日午後4時半ころ、神奈川県平塚市の自宅近くのコンビニエンスストアで、コラーゲンなど3種類のサプリメント計6点(3632円相当)を盗んだ疑い。「間違いありません」と容疑を認めているという。店員が3月19日、在庫確認で商品が足りないことに気付き、防犯ビデオを確認したところ、三浦が商品を上着の内ポケットに入れる場面が映っていた。3月30日に来店した三浦を店員が問いつめると「うっかりしていた。金は払います」と言いながら帰ったため、店長が110番した。三浦は4月5日午後0時半ころ、弁護士と平塚署に出頭。当初は「睡眠薬を飲んでもうろうとしていたので覚えていない」と話したため、逮捕に踏み切ったという。4年前の万引き事件と同じように有名人ということで軽微な犯罪であっても大々的に報道されてしまった。

4月13日、小田原区検は三浦を窃盗罪で略式起訴し、小田原簡裁は罰金30万円の略式命令を出した。三浦は全額納付して、同日釈放された。

2008年(平成20年)2月23日、米紙ロサンゼルスタイムズ(電子版)は前日の22日、三浦和義(当時60歳)が旅行中のサイパン島(米国自治領)で米当局に殺人容疑で逮捕されたと報じた。ロサンゼルスタイムズ紙によると、サイパンの空港で、妻の一美(28歳)を殺害した疑いなどで逮捕されたという。ロサンゼルス市警は渡航の情報を得てサイパン、グアム(米領)両当局と連絡を取っていた。さらに、市警当局者の話として、ロサンゼルスで起訴される見通しだと伝えている。

日本の憲法は、一度無罪とされた行為について再び刑事責任を問うことはない「一事不再理」の原則を掲げている。日本人が外国で事件を起こし、その国の法律で裁かれる場合は、この原則は適用されないが、実際に立件されることは極めてまれ。米国の刑事司法に詳しい藤本哲也・中央大教授(刑事法)によると、今回のケースは、犯罪捜査について米国が「属地主義」、日本が「属人主義」を取っているために起きた。日本国内で米国人が犯罪を起こした場合、米国の捜査当局は原則的に立件しないが、日本の捜査当局は日本人が海外で起こした犯罪も捜査する。結果的に、日本人による米国内での犯罪は、日米両国で逮捕&起訴される可能性が生じる。藤本教授は「三浦元被告が日本で有罪だったとしても、米国でさらに起訴されることも理論的には可能。本来は国際的なルールを作るのが望ましい」と指摘する。殺人罪は、日本では25年の公訴時効があるが、米国には時効がない。藤本教授によると、米国では38州が刑法で死刑の規定を設け、13州が死刑を廃止。カリフォルニア州は、計画的な殺人を含む「第1級殺人」の最高刑は死刑。起訴されると地裁で陪審員が有罪か無罪かを判断し、有罪の評決なら職業裁判官が量刑を決める。無罪なら検察は控訴できず、そのまま確定する。

事件関係者の著書に次のようなものがある。

三浦和義の著書・・・ 『不透明な時』(二見書房/1984) / 『ロス・コネクション』(講談社/1985) / 『情報の銃弾 検証「ロス疑惑」報道』(日本評論社/1989) / 『三浦和義氏からの手紙 「ロス疑惑」心の検証』(幻冬舎/家田荘子著/1998) / 『ネヴァ』(モッツ出版/2001) / 『本人訴訟必勝マニュアル 弁護士いらず』(太田出版/2003)

妻の三浦良枝の著書・・・ 『ドラキュラの花嫁』(太田出版/1986) / 『ラヴァ』(モッツ出版/2001)

一美の両親の佐々木良次・康子の著書・・・『叫べ! 一美よ、真実を』(双葉社/1984) / 『肩書のない捜査官』(文藝春秋/佐々木良次&康子/1985)

『コミック雑誌なんかいらない』(監督・滝田洋二郎/主演・内田裕也/ポニーキャニオン/1987)という映画では、テレビレポーター役に扮した内田裕也が三浦和義本人に直接インタビューするシーンがあり、きわどい質問にキレた三浦が内田にコーラをかけるという一幕がある。出演を依頼し許可を得た上での演技とはいえ、緊張感漂うそのシーンは短いながら見応え充分である。

また、事件を元に『三浦和義事件 〜もうひとつのロス疑惑の真実〜』(企画&監督・東真司/出演・高知東生&宝生舞&村野武範&・・・/2004)が製作された。

参考文献・・・
『三浦和義事件』(角川文庫/島田荘司/2002)
『犯罪地獄変』(水声社/犯罪地獄変編集部/1999)
『嫉妬の時代』(飛鳥新社/岸田秀/1987)
『現代犯罪百科』(「増刊週間大衆」1986年7月11日号/「ロサンゼルスニューオータニ事件」と題して佐木隆三が執筆/双葉社)
『毎日新聞』(2003年3月5日付/2003年3月6日付/2003年5月8日付/2003年5月16日付/2005年5月16日付/2006年6月15日付/2006年10月31日付/2007年4月5日付/2007年4月13日付/2008年4月23日付

参考にしなかったその他の関連書籍・・・
『三浦和義との闘い−疑惑の銃弾』 / 『疑惑の銃弾−三浦和義逮捕の原点となった歴史的ドキュメント』

関連・参考サイト・・・
三浦和義のホームページ
探偵ファイル三浦和義氏インタビュー (前編) / → 三浦和義氏インタビュー (中編) / → 三浦和義氏インタビュー (後編)

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