江戸時代の日本人は、一般的に肉食はしませんでした。薬食いと称して肉食する場合でも、
庭に鍋を出して匂いが家に入らぬよう団扇で扇ぎ、煮込みすぎてゴムのようになった肉を食
べていたようです。
幕府は、朝鮮通信使の食事のために雉や猪の肉を用意しました。しかし、大食の韓国人には
少量だったようで、卵を産ませるために町人が飼っていた鶏を盗んで大騒動になることがありました。
よほど、肉が食べたかったのでしょう。
画像は、大坂で、鶏を盗んで逃げる朝鮮通信使と追いかけて来た日本人の騒動の様子です。
鶏を盗む時にも帽子を被ってるのが笑えます。
この掲示板に、朝鮮通信使が日本人の頭を叩いているように見える絵を掲示する韓国の人が
いますが、実際に1764年、通信使(都訓導という職の中級官人)の崔天宗が日本人の下級武士
(対馬藩の通詞)の鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)を杖で叩く事件が起こりました。
下級武士とはいえ武士ですから、杖で叩かれて黙って済ませるわけにはいきません。
鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺し殺害しました。
この朝鮮通信使随行員殺害事件は、重大外交事件であり、きっかけとなった口論や事後処理の
過程も興味深いものがあります。
当時の対馬藩隠居、宗義蕃(Sou Yosiari)は、こう語っています。
「朝鮮国においては、人を打擲することを尋常と心得、また打擲にあった者もさしたる恥辱にも
感じないという下貔の風習があり、今度の事件もそれが原因である。」
嫌な風習ですね。
朝鮮通信使が在日韓国人研究者によって日韓友好の象徴として祭り上げられてから、
その実態(負のイメージを含む)を明らかにすることが憚られるようになりました。
明治以前の日本人は韓国人を蔑視していなかった。朝鮮通信使を尊敬していた。などと主張する
人々がいます。
しかし、朝鮮通信使について歴史資料を集めていくと、面白い事実が明らかになります。興味は尽きません。