というわけで、第二話です!
本編はおろか番外編すら放置して、新編ばかり増やすのもどうかと思うお…
一応は完結しているのって、歴史のレの字もない勢いだけで書いた「女帝でGO!」だけだし。
ロシア史を理解するには、オーストリア史とバルカン史は絶対に欠かせないのです。
でも日本じゃオーストリア史やバルカン史なんて言っても、なじみが無いですので。
まるでイメージが沸かない人も多いんじゃないでしょうか。
歴史を勉強する前には、まずその地域のイメージを浮かべることが大事だお。
では、その国のイメージが沸くような話をお願いしまつ。
ではバルカン半島の中南部に位置する、ブルガリアから。
つ ブルガリアで、オッパイが大きくなるビールが発売
なになに…「"I've bought a case for my wife to try out. I really hope I see an improvement."」
苦労しているんですね… つД`)
でもそんな事を言わずに愛してあげて下さい。
作者は微乳だろうが爆乳だろうが、平等に愛することができまつよ。
好きなAV女優は峰なゆかと西野翔だし。
峰なゆか B:93(H)cm W:59cm H:91cm
西野翔 B:81cm(C) W:57cm H:83cm
※公式ブログより。なお18才未満の方はリンクを踏まないで下さい(^−^
ちょっと極端だお。
さて…もうちと、イメージがふくらむバルカン・ニュースをお願いします。
つ ルーマニアで、医師が「看護婦と女医の服をミニスカートにすべし」と役所に提唱
なになに…「"It would be more elegant."」 …激しく同意しまつ。
ミニスカナースの魅力は、バルカン半島でも共通のようだお。
ではちょっと、ルーマニア女性の写真でも。
"I will give my heart and love to you, my special man " ――
Natalia さん 22歳
こ、こんなルーマニア人がミニスカナース姿で治療をっ?!
※ あくまでもイメージ画像であり、実際のルーマニアのナースとは異なる可能性があります。
さて…お次は当コンテンツの本命、セルビア人だお!
ああ…第一次世界大戦の原因である、オーストリア皇太子暗殺をやったとこでつね。
まったく、けしからん連中でつ。
ではセルビア人を紹介するお。
← セルビア人
よし、許す!
さて、バルカンの正しいイメージも浮かんできたところで、そろそろ授業を――
ズ バ キュ ――― ン!
うぎゃー! コアに槍が、コアに槍がー!
御免なさい、こんな時はどんな表情をしたらいいか分からなくて。
そう言いながらロンギヌスの槍を投げるのは止めてくらはい。
というわけで後半です。
第一次世界大戦がオーストリア帝国のセルビアに対する宣戦布告で始まったこと。
オーストリア帝国は最初から交渉する気など無く、戦争する気でいたこと…を前回に話しましたね。
オーストリアが悪い、以上!
これにて今日の授業は終わりだお。
…で終わらず、「なぜそのような選択をしたのか」を、話したいと思います。
私は前編で「開戦の責任の大半は、オーストリア帝国にある」と書きました。
しかしあらゆる国の内政や外交は、地理や民族分布といった
その国が置かれた地政学に左右されるのも事実です。
また戦争とは外交の1つの形態なので、相手との今までの交渉の経緯を考えずに
「コイツのせい、以上。」
「コイツが馬鹿だったから、以上。」
…では、それは歴史を学ぶ者の態度とは言えないでしょう。
オーストリアのセルビア宣戦布告は、避けようと思えば避けられた、不必要な戦争だったのか…
あるいは避けることの出来ない宿命の対決だったのか…
避けられるとしたら、どこからなら避けることができたのか…
私は私の価値観で思ったことを書きますが、読んだ方々はそれに惑わされずにご判断下さい。
./ オーストリア ;ヽ l _,,,,,,,,_,;;;;i いいぞ ベイべー! l l''|~___;;、_y__ lミ;l ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 逃げるセルビア人はテロリストだ!! ,r''i ヽ, '~rーj`c=/ 逃げないセルビア人はよく訓練されたテロリストだ!! ,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ / ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ほんと、バルカン半島は地獄だぜ、フゥハハハーハァー |;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / | ゙l゙l, l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l | ヽ ヽ _|_ _ "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ /"ヽ 'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄ [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`" / ヽ ー──''''''""(;;) `゙,j" | | |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / / |
オーストリアがなぜセルビアに戦争をしかけたのか…
これにはまず「セルビア王国とは、オーストリア帝国とはどういう国なのか」を…
そして双方の歴史を知らないといけません。
ではまず『セルビア王国』から説明します。
セルビア王国はもともとオスマン・トルコ帝国の支配下にあったこと、そこから独立戦争を経て自治を獲得したことは、ロシア史番外編の第一話でも話しましたよね。
読んでない人も多いと思うので、もう一度説明してほしいお。
分かりました、では補足も含めて…
人種でいうと、セルビア人は南スラヴ人と呼ばれるグループの1つです。
南スラヴ人?
一口に「スラヴ人」といっても色々で、また同じ南スラヴ人でさえも宗教が微妙に異なります。
人 種 | 宗 教 | |
西スラヴ人 (東ヨーロッパ) |
ポーランド人 | カトリック |
チェコ人 | ||
スロバキア人 | ||
南スラヴ人 (バルカン半島) |
クロアチア人 | |
セルビア人 | 正教 | |
ブルガリア人 | ||
モンテネグロ人 | ||
東スラヴ人 (ロシア) |
ロシア人 | |
ウクライナ人 | ||
ベラルーシ人 |
さて…セルビアはかって、絶頂期のオスマン・トルコ帝国に…つまり異教徒であるイスラムの帝国に長らく支配されていました。
でも宗教に関しては、オスマン・トルコ帝国は寛大だったんでつよね。
はい、時と場所にもよりますが、トルコ朝廷の異教徒支配は寛大であり、「あくまでも二級市民として扱われ、屈辱的な思いを味わった」という点さえ目をつぶれば、まぁ平和と繁栄を享受できたと言えます。
「帝国の興亡」 ドミニク・リーベン 上巻p279
実際に誰一人として意見を求められたわけではないにせよ、オスマン帝国が当初の二世紀にもたらした法や平和、秩序をバルカン半島に住むキリスト教徒の農民が歓迎したのは間違いない。その後も、ベッサラビア〔現在のモルドバ〕が一八一二年にキリスト教の帝政ロシアに編入されたにもかかわらず、農民数千人がその「自由」から逃げ出した。たとえ農地を捨てる犠牲を払っても、オスマンの支配のほうが、はるかに好ましかったのである。
このように宗教には寛容であり、また法的にも自治や平等がある程度認められていたのですが…
しかし時代が進むにつれ、トルコ朝廷の軍人階級「イェニチェリ」が、トルコ朝廷から見て辺境地であるセルビアの正教徒から、略奪や勝手な徴税をするようになってきたのです。
それがどのようなものだったか、当時にセルビアを訪れたイギリス人の書翰を見れば、おおよその見当はつくかと。
1717年、メアリー・ワートレイ・モンターギュ夫人の書翰
ほとんどいたるところ樹木に覆われた、そのままで肥沃な地方を通過いたしました。住民は勤勉ですが、農民への抑圧がきわめて大きいため、彼らは自分たちの家を捨て、耕作をないがしろにせざるを得ません。彼らの所有物はすべて、いつでも、イェニチェリが略奪しようと思えば、その餌食になるのです。わたし共はイェニチェリ五〇〇人を護衛兵として持っていきました。そしてわたしは、通過した貧しい村々で彼らが示した横柄な態度を目にして、ほとんど毎日泣きの泪でした。
「汚物は消毒だぁー!」とか言って、ムスリムにいぢめられたんだお?
きっと種モミのために、正教徒のお爺さんがボーガンで射殺されたんだと思いまつ。
このイスラム軍人の腐敗と横暴に加え、18世紀末〜19世紀にかけて、ヨーロッパ諸国がトルコ朝廷に軍事的勝利を納めたことが、バルカンのキリスト教徒たちに反乱を決意させたのです。
こうしてセルビア人たちは、19世紀前半に独立戦争をおこし、トルコ朝廷から自治権を獲得…
自治領セルビア公国の誕生です。
■ 1815年時の領土
■ 1833年時の領土
セルビアの独立戦争に限らず、バルカン半島に住むキリスト教徒たちは、ムスリムと血で血を洗う凄惨な闘争を始めます。
この闘争では一概にどちらが残虐とは言えませんね。
トルコ朝廷は反乱したキリスト教徒を残虐に鎮圧しましたが、一方でキリスト教徒たちも、独立や自治権を勝ち取れば、そこのムスリムたちを追放あるいは虐殺しましたから。
さて自治権を得たセルビア公国は、次にこう考えました。
このままオスマン・トルコ帝国が弱体化していけば…
次は西欧の列強たちが、バルカン半島をめぐって屍肉の争奪戦を始めるやろ。
そうなったら…ロシアのようなスラヴ系の正教の国ならともかく、オーストリアみたいな非スラヴ系の、しかもカトリックなんぞに支配されることになるわ。
ロシア史本編にも書きましたが…オスマン・トルコ帝国は18世紀から下り坂であり、19世紀になったら各地で反乱が起こって “ 瀕死の病人 ”と言われるほどに凋落していましたからね。
ならば…ワイらバルカン半島の南スラヴ人は連帯し、南スラヴ人による統一国家を作って対抗するんや。
もちろんそのリーダーは、ワイらセルビア人であるべきやなっ!
なにせオスマン・トルコに併合される前は、バルカン半島の中〜西部一帯を支配していた大国なんやし。
「セルビアは、かってのセルビア帝国の古きよき遺構のうえに新しきセルビア国家を建設しうるように、トルコ国家という建造物から礎石をひとつひとつ剥ぎ取り、このよき石材を手にいれるようつとめねばならない。」
―― ナチェルターニエ(指針)
古きよきセルビア王国(14世紀頃の話である)
「バルカン史」 柴 宜弘 著 p190
セルビアにおいても民族的国境を中世王国の伝統に求める領土修正主義と結びついた歴史主義は、ギリシアに劣らず強力な規定力を持っていた。この最たる例は、十九世紀セルビア外交の基本であった「ナチェルターニエ(指針)」にみることができる。
(中略)
「ナチェルターニエ」ではオスマン帝国の不可避的な解体をみこして、その領土を列強による分割ではなく、現地の住民自身による国家建設によって継承する方向を打ち出していた。つまり、ロシアとオーストリアの圧力に抗しうる一大バルカン国家がめざされていたのである。
この意味では、大国のパワーポリティクスに対抗する小国の利害保全の意図のもとに作成されていたともいえるが、この一大バルカン国家はあくまでバルカンの「ピエモンテ(※)」たるセルビアの主導下で構築されることが前提であった。具体的にはボスニア=ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、アルバニア北部のセルビア人居住地を併合した大セルビア建設であり、その思想的根拠は
「セルビアは、かってのセルビア帝国の古きよき遺構のうえに新しきセルビア国家を建設しうるように、トルコ国家という建造物から礎石をひとつひとつ剥ぎ取り、このよき石材を手にいれるようつとめねばならない。」
と述べられているように、中世国家の伝統におかれていた。
※「ピエモンテ」
ピエモンテとは1861年のイタリア統一を指導したサルディニアの王家サヴォイア家の領地であり、統一運動の根拠地となった地域である。
つまり、サルディニア王国が他の諸国を併合する形でイタリアの統一が実現したように、南スラヴ人諸地域の統一はセルビアが中心となり、他の諸地域を併合することによって実現するというのが、セルビアの主要な政治家、青年運動の指導者、将校団、知識人に共有されたシナリオであった。
こうしてセルビア公国は、隣接するスラヴ系の住民に
「スラヴ民族主義を吹き込んで、理想郷たる “ 統一南スラヴ人国家 ” の建国をうながす」
…という活動を始めます。
しかしこれは、国内に大量のスラヴ人をかかえるオスマン・トルコ帝国やオーストリア帝国にとって、ハタ迷惑としか言いようがないことでした。
さて、ほどなく大きなチャンスがやってきました……1875年にボスニアとヘルツェゴヴィナで、スラヴ系住民がオスマン・トルコ帝国の支配に対して大規模な一揆を起こしたのです。
これは本編のロシア史の第5話でも書きましたね。
ロシア
スラヴ人の保護者、正教徒の保護者として、これは見逃せないクマ!
オスマン・トルコ帝国に抑圧されたスラヴの同胞を助けるため、宣戦布告するクマ!
いいぞロシアの兄貴、ワイもオスマン・トルコ帝国と戦うで!
そして戦争に勝ったら、セルビア系住民の多いボスニア地方は、ワイの新たな領土に決定や♪
1877年…露土戦争、勃発
オーストリア
その戦争、ちょっと待ちたまえっ!
せっかくテンション上がってきたのに、邪魔しないでほしいクマ。
我がオーストリア帝国の南部には、多くの南スラヴ人がいることは知っているだろう。
最近はセルビアに煽られて、「俺たち、いっそセルビアと合流しねー?」と言い出す連中も出てきている。
バルカン半島の言語分布図
■ スラブ語系 ■ 非スラブ語系 ■ イスラム系
かってオスマン帝国の勢いが強かった時代…オスマン帝国との戦争で国境付近の人口は激減しました。
オーストリア帝国は国境に防衛ラインをひくため、オスマン帝国から逃れてきたセルビア人を、屯田兵の代わりとして人口が減った国境地帯に入植させ、オスマン帝国への防壁としていたのです。(※)
そのためオーストリア帝国の南部の国境地帯には、セルビア人も多数住んでいました。
そして当然ながら…彼らにとって、ドナウ川の向こう岸で自治権を獲得したセルビア公国は、自分たちの希望の星でもあったのです。
※この対オスマン帝国の防衛ラインを「軍政国境地帯」と呼んでいる。
ロシア君が勝てばセルビアは前以上に勢いづき、それに感化された我が国の南部のスラヴ系住民は、独立やセルビア公国との合流を目指すだろう。
多民族国家である私のことも考えてくれたまえ。
そうは言われても、国内からの「スラヴの同胞を見捨てるな!」という声を無視できないクマ。
俺とお前はこないだ三帝盟を結んだ仲なんだし、目をつぶってほしいクマ。
……
……
ならば君らが戦争に勝った暁には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を私にもらおうか。
もはやオスマン・トルコ帝国には異教徒を平和に統治する能力は無く、このままでは民族主義が燃え上がる一方だ。
かといってセルビア公国にくれてやったら、ますます勢いづいて南スラヴ民族主義を広めてまわるだろう。
ならば私のモノにするしかあるまい。
OK、オスマン・トルコとの戦争に勝ったら、そうするクマ。
( 国内のスラヴ系人口が増えるのは、本当はイヤなんだが…我慢するしかない)
では、もう一度。
1877年…露土戦争、勃発
わーい、勝ったクマ♪
わーい、わーい♪
おい、セルビア。
なんや?
俺がオスマン・トルコと戦争したのは、お前らバルカン半島のスラヴ人のためクマ。
それなのに何でお前は、肝心な時になかなか参戦せず、もたもたしていたクマ?
いや…前年に先走って挙兵したせいでオスマン・トルコにボコボコにされて…
ロシアの兄貴がなかなか参戦してくれないもんやから、あきらめてオスマン・トルコと講和したとこやったんや…
堪忍してーな、ワイはまだまだ弱小国なんや。
なに、俺のせいか?
すべて俺が悪いと、すべて100%、俺のせいだと言いたいクマ?
あ、いや、そんなつもりじゃ(汗
それにスラヴ民族主義で騒ぎすぎると、隣国のオーストリア帝国のヤツが機嫌を悪くするんや。
堪忍してーな、相手は列強やし、しかもワイの首都ベオグラードは国境にあるんで、地理上とても脆弱なんや。
俺はそのオーストリアに不介入を約束させる交渉をしていて、それで時間を食ったクマよ。
お前らバルカンのスラヴ人を助けるためクマ。
そう、そのオーストリアとの交渉のことで、イヤな噂を聞いたんや…
うわさ?
ロシアの兄貴が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナをオーストリアに譲る約束をしたって…
あそこの住民にはワイと同じセルビア系が多いこと、だからワイがあそこを欲しがっていること、ロシアの兄貴も知っているやろ?
そのせいで、ロシアの兄貴と一緒に戦うことに意見が割れたんや。
なに、俺のせいか?
すべて俺が悪いと、すべて100%、俺のせいだと言いたいクマ?
オマエは作者の会社の上司かよ。
話はすんだかな?
じゃあボスニア・ヘルツェゴヴィナはもらうからね。
持っていけクマ、あんな場所に興味はないクマ。
煤i ゜Д ゜;)
さて…戦勝国として、オスマン・トルコから領土を分けてもらうクマ♪
あ、ワイも。
お前…露土戦争では何もしてないじゃん。
自治領から独立国にレベルアップできただけでも、破格の待遇と思ってオレ様に感謝しろクマ。
煤i ゜Д ゜;)
ああ、それから…バルカン半島にはブルガリアを新たに作って、オレはそっちに肩入れするクマ。
煤i ゜Д ゜;)
サン・ステファノ条約
セルビア / ルーマニア / モンテネグロ … 完全に独立国となる
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ … オーストリア帝国が行政を管理
ブルガリア … 自治領となり、当面はロシア帝国が "保護"
ろ、ロシアの兄貴!
ワイがバルカン半島に統一スラヴ人国家を作る夢を持っているのは知っているやろっ!?
それなのに、ワイのとなりにあんな巨大なスラヴ正教徒の国を作るなんて、あんまりや!
ワイはこれ以上、どこに領土を広げたらいいんやっ!?
これじゃワイの「大セルビア建国プラン」は企画倒れに終わってしまうやないか!
そんなの知らないクマ。
俺は南部バルカン半島を属国ブルガリア領に変えて、そこからロシア艦隊を地中海に進出させたいクマ。
・・・・・・・・・・ つД`)
・
・
・
・
ロシアがサン・ステファノ条約で定めたブルガリアの領土は、セルビアにとって認められないものでした。
なぜならブルガリアの領土にマケドニアが含まれていたからであり、セルビアはマケドニアを自分たちの未来の領土だと思っていましたから。
…そしてサン・ステファノ条約のブルガリアの領土に反発したのは、なにもセルビアだけではありません。
ギリシャにとっても肥沃なマケドニアは欲しい土地であり、やはり反発します。
…しかし最も反発したのは、やはりイギリスでした。
ブルガリアを通じてロシアの黒海艦隊が地中海進出を果たすことは、地中海→スエズ運河を航路とするイギリスにとって、絶対に容認できないことだったのです。
↓イギリス
ロシア艦隊の地中海進出を、我がイギリスが認めるわけないでしょう。
サン・ステファノ条約を撤回しなさい、嫌なら戦争しかありませんわ。
悪いなロシア君…私はイギリス君に味方する。
あんな巨大な新国家を作られたのでは、わざわざ余計な戦争を呼び込んでいるようなものだよ。
…ち。
↓ドイツ
まぁまぁ、ベルリン会議で仲良く話し合って決めましょうよぉ〜。
賛成だ。
俺からもお願いするクマ。
えと、ワイは――
お前の意見なんて、誰も聞いてないクマ。
・・・・・・・・・・orz
ではドイツさん、明日のベルリン会議の進行役をお願いしますわ。
OK、んじゃ明日ねー。
・・・・・・・・・・・・
……ロシアの兄貴が頼りだったのに…
……
でも兄貴は、ワイよりブルガリアの方が大事なんや…
……
もしも明日のベルリン会議でサン・ステファノ条約が撤廃されたら、ワイはどうなるんや…
独立国としての承認も、取り消されるかもしれへん…
……
…ワイはこれから、どうしたらいいんや……
セルビア君…君の気持ちはよく分かるよ。
ロシアのクマ野郎に捨てられて、さぞかしショックだろう。
同じスラヴの同胞、同じ正教徒の同胞だというのに、この仕打ちはひどすぎる。
え?
安心したまえ…私は弱い者の味方なんだ。
ベルリン会議では、セルビア君が独立国として承認されるよう、私からも主張しよう。
そして今後のセルビア君の国益は、私が擁護しようじゃないか。
え!?
その代わり、私の要求も呑んでもらいたい。
君とは通商条約を結び、また君の領内に鉄道を通したいのだが。
これは君にとっても悪くない話のはずだ。
…そりゃワイかて鉄道は欲しいし、農産物の輸出先も欲しいわ。
なんせワイの国は内陸国で、船を使って他国に輸出ができへんからな。
せやけど…
…せやけど……
ボスニア・ヘルツェゴヴィナのことかね?
あそこを欲しがっているセルビア君には悪いが、私にだって守るべき国益というものがある。
……
ボスニア・ヘルツェゴヴィナはあきらめてくれ。
そのかわり明日のベルリン会議では、セルビア君が南部に領土を広げられるよう主張しよう。
サン・ステファノ条約はどうせボツになるだろうから、君が南方に領土を広げる余地が出てくるはずだ。
ま、マジかっ!?
…( 明日のベルリン会議では、サン・ステファノ条約はまず撤回されるだろう
)
…( しかし独立したバルカンの新国家を、今さらオスマン・トルコの領土に戻すのも非現実的すぎる
)
…( どうせ独立を認めざるをえない結果になるのなら、味方に取り込むことを考えるべきだ
)
そしてベルリン会議ではサン・ステファノ条約は撤回されることになった。(本編第6話参照)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナについては、所有は変わらずオスマン・トルコ帝国だが、行政はオーストリア帝国の単独管理が認められた。
また隣接するノヴィ・パザール県(別名サンジャックまたはサンジャク)には、オーストリア帝国が軍を駐屯させる権利が認められた。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権の獲得
ならびに、ノヴィ・パザール県への駐屯
もちろんオスマン・トルコ帝国は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを事実上失うことにも、ノヴィ・パザール県にオーストリア軍が駐屯することにも反発したが、列強からは『オスマン・トルコ帝国には、両地域を平和的に統治する能力が無い』と見なされたのである。
そしてセルビア公国は新たに独立国として承認され…
ロシアはセルビア公国の領土拡張に冷ややかだったが、代わりにオーストリア帝国がセルビアの領土拡張を主張。
サン・ステファノ条約よりも若干多くの領土拡張が認められた。
セルビア公国は独立国として列強諸国に承認されただけでなく、南方に向けて領土の拡大を果たしたのである。
このベルリン会議におけるオーストリア側の狙いは4つある。
もういちど、地図でオーストリア側が獲得した領土を見ながら、確認して頂きたい。
1つめ、領土拡張を助けることによって、セルビア公国をオーストリア帝国の属国として取り込むこと。
2つめ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを自分の管理下において、セルビア民族主義の拡張をくい止めること。
3つめ、セルビアとモンテネグロを分断して、両国が統合するのを防ぐこと。
(モンテネグロも同じ南スラヴ系であり、「ナチェルターニエ」では統合される予定の場所である)
4つめ、セルビア公国が西方に領土を拡張するのを防ぎ、アドリア海への海港を得ないようにすること。
セルビア公国に自由な貿易ルートを与えないことで、経済でセルビア公国を牛耳ることが出来るのである。
要はセルビアの封じ込めである。
オーストリア帝国がセルビア公国やパン・スラヴ主義をいかに警戒しているか、よく分かりますね。
セルビア公国の国益を擁護して取り込みつつも、肝心な部分にはクギを撃ちこんで封じ込めておく。
これが当時のオーストリアの外交スタンスです。
南スラヴ人に民族主義が広まったら、そーーーーんなにマズイお?
もしもクロアチア人が、セルビア人に煽られて
「セルビア人といっしょに、南スラヴ人の理想郷、"ユーゴスラヴィア"を作ろう!」
…と言い出したら?
※ユーゴスラヴィアとは、『南スラヴ人の地』という意味である。
まぁたしかに、領土はちょっぴり削られまつね。
地図をよく見てください…クロアチアとダルマチアを失ったら、オーストリア帝国はアドリア海への出口を失うんですよ?
入り組んだ海岸線が天然の良港を生み出すダルマチアは、オーストリア帝国にとっては大切な地域なのです。
だからこそ、ダルマチアの後背地であるボスニア・ヘルツェゴヴィナの安定は重要なんですよ。
■ スラブ語系 ■ 非スラブ語系 ■ イスラム系
それならいっそ、行政の管理だけでなく完全に併合してしまえばいいのに。
オスマン・トルコ帝国が強く反発しましたからね…
それに何より、オーストリアの側にもそこまでするつもりはありませんでしたので。
なんで?
併合して国民にしたら、オーストリア国内のスラヴ人の人口比率が増えてしまうからです。
スラヴ系住民の民族主義の拡大を警戒しているのに、その警戒の元を増やしたのでは意味がないでしょう?
戦わずして勢力圏を広げたことは、表向きはオーストリア外交の勝利ですが…
当事者であるオーストリア帝国は「本当は抱え込みたくないんだけど、放置もできないので仕方なく」ですよ。
さて…今まではあくまでも地理上のセルビア封じ込め作戦でしたが…
ベルリン会議の後、オーストリア帝国はセルビア民族主義そのものの封じ込め作戦を始めます。
ベルリン会議から2年後の1880年…
鉄道をセルビアの首都ベオグラードから、セルビアとオスマン・トルコとの国境近くの南部まで建設するオーストリア=セルビア協定が成立する。
翌1881年には通商協定も成立した。
そしてこの際、二国間の間に以下の秘密協定が結ばれたのである。
セルビア君…君に2つお願いがあるんだが。
なんや? オーストリアはんの頼みなら、少々の無茶は聞くで。
1つめ…私の領内には、多くの南スラヴ人…中には君と同じセルビア人もいる。
セルビアの領内には、それらをセルビア領土に統合しようと叫ぶ民族主義者がいるね?
そういった運動には、加担も容認もしないでほしい。
ましてボスニア・ヘルツェゴヴィナに秘密結社を作って、そこの南スラヴ人を扇動するなど論外だ。
…
2つめ…我が国に知らせることなく、他の列強と条約を結ぶことは止めてもらおう。
……( 属国になれ、いうことか?)
誤解しないでほしい、私はただ、私の国益に反することを止めてほしいだけだ。
だから私の国益には何ら関係ないこと…たとえばセルビア君がマケドニアに向けて南方への領土を拡張しても、私はそれを認めよう。
煤i゚∀゚)
…… ( ふふふ、せいぜいバルカンの正教徒どうしで争うがいい )
…… ( 余計な敵を作ればそれだけ、君は私の後ろ盾なくしては生きられなくなるのだよ
)
マケドニアは当時まだオスマン帝国の領土ですが…
セルビア公国とブルガリアとギリシャが
「マケドニアは我が国の正当な領土である」
…と主張していました。
つまりセルビア公国がマケドニアを求めれば、ブルガリアやギリシャ、オスマン帝国と衝突せざるをえません。
これはセルビア公国の力を削ぎますし、セルビア公国にとってオーストリア帝国との友好が欠かせなくなることを意味します。
そういやサン・ステファノ条約の時も、ブルガリアがマケドニアを領有する事を不満だと言っていましたね。
セルビア公国にとって、マケドアニアはそんなに欲しい場所なんだお?
マケドニアは山だらけのバルカン半島の中で「貴重な平野」であり、またマケドニア南部のテッサロニキ(サロニカ)はエーゲ海に出れる天然の良港だったので、山間の貧しいセルビア公国にとっては、喉から手が出るほど欲しい場所でした。
内陸の国がいかに外海への出口を求めるものであるか……これはロシア史の本編を見ていただいたら分かるかと。
■ スラブ語系 ■ 非スラブ語系 ■ イスラム系
加えてセルビアはマケドニアを支配した歴史があり、上の通り、住民も自分と同じ南スラヴ系です。
だから南スラヴ人の統一国家を目指すセルビア民族主義者にとっても、「正当なセルビアの領土」だったのです。
そんなの言い出したら、ベルリン条約で決めた国境線なんて意味なくね?
意味ナッシングだお。
過激な民族主義者とは、そういうモノですよ。
地続きの大陸では、時代によって国境線が異なるのはよくあることですし、また民族の分布も入り混じり、『国境線の向こう側に自国と同じ民族が住んでいる』という事も珍しくありません。
それなのに『過去の歴史』や『民族・文化の類似性』を持ち出したら、ほとんどの国には領土を拡張する権利が生まれ、それは紛争の原因となります。
だから話し合って『条約』でケリをつけるんですが、そんな単純なことすら分からない人は、この現在でも多いですね。
でも条約と言っても、戦争の結果で押し付けられたんじゃ、納得できない場合も多いお。
では自分が納得できる結果になるまで、延々と殺し合いますか?
自分は納得できても、相手が納得できなければ、やはり延々と殺しあうんですか?
だから話し合って『条約』でケリをつけるんですが。
まぁまぁ綾波さん、当時は戦争で領土を拡張することは、別に悪いことでも無かったんだし。
まぁそうですね、セルビアに限らず、当時の領土拡張は自国の防衛と一体化したものでしたから。
セルビア公国にしても、
「強くなって、帝国主義の世界から自国を守りたい」
「ある民族の権利を守ってくれる集団は、"自分と同じ民族"だけである」
…という意識が根底にありました。
当時のセルビア人だけを責めても仕方がありませんね。
しかし今日に生きる我々は、国境線の問題で条約よりも歴史や民族分布を優先するのは、紛争の原因であると学ぶべきでしょう。
日本のような海に隔てられた事実上の単一民族国家では、
『 民族・文化が同じなら、同じ国だよね? 』という意識が強いです。
しかし世界はそうではないということを知っておいて下さい。
つーか…ベルリン条約を成立させた列強の一角なのに、セルビア公国に条約破棄の容認をしているオーストリアも、問題ありまくりだと思いまつね。
さて話がそれたので、続きます。
それだけではない、君が私の要求を聞いてくれるのなら…
その代価として、私はセルビア王朝の保護を約束するし、また「公国」から「王国」になれるよう、私から他の列強に口をきこうじゃないか。
…(悪い話やないな、要はオーストリアの機嫌を損ねなければいいんやろ)
…(どのみち今は、オーストリアに頼らないと生きていけへんし)
分かったわ、その条件でかまへん。
そのかわり、国民はオーストリアはんの属国になったと非難するやろうから、この協定はナイショにしてな。
我が国にはスラヴ民族主義や正教の関係で、オーストリアはんよりロシアとの連帯を唱える政治家も多いんや。
こうしてオーストリア帝国は、セルビア公国を事実上の属国とすることに成功します。
セルビア人は心情的に親ロシア・反オーストリアですが、セルビア国王は国家の運営のために親オーストリアの道を選びました。
ふぅ〜、これでセルビア公国の問題はケリがついたな。
セルビア公国の問題さえ無くなれば、領内の南スラヴ人の問題は解決したも同然だ。
これならば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで新たな南スラヴ人を大量に抱えても、さして問題あるまい。
この協定で『目障りなセルビア公国』の問題は、『解決』したかに見えました。
バルカンのスラヴ人でもっとも過激で反オーストリアなのはセルビア人です。
ゆえに彼らを手なずけることができたら、領内の南スラヴ人の支配も容易であると思われました。
そして南スラヴ人とセルビア人をコントロールしている限り、オーストリア帝国のバルカン半島における地位も安泰であると思われました。
1881年、カールノキ (オーストリア外相)
「いかなる手段をとるにせよ、もしセルビアがわが国の勢力下にあるならば、あるいはもっと望ましくは、もしセルビアをわれわれが支配しているならば、ボスニアと住民をわが国が所有することについても、下ドナウとルーマニアにおけるわが国の立場についても、心配は無用となる。」
「その場合にはじめて、わが国がバルカン諸国におよぼす権力基盤が固められ、重要な利害が一致するだろう。」
…しかし、政府が属国であると言われる国が、必ずしも宗主国の思い通りに動くわけではありません。
この後、セルビア公国はオーストリア帝国の属国としての立場から離れていくことになります。
次回はセルビア王国とオーストリア帝国の決別…そして運命の第一次世界大戦までを話します。
そしてその次に、今度はオーストリア帝国からの視点で、同じ時代の歴史を再度振り返ってみる予定です。
あるえー、前編と後編で終わる予定じゃなかったんでつか?
伸びるのは世界史コンテンツの仕様だお。
予定は未定です、調べるうちに色々と書くことも増えてきましたので。(^−^;
ではおさらいに、今日の講義で話した内容+αを年表でまとめますね。
1815年 セルビア人、オスマン帝国に対して蜂起。
1817年 豚商人のミロシェ、オスマン帝国よりセルビア公の地位を得る。
1830年 ミロシェ、世襲のセルビア公として承認され、完全な国内自治も認められる。
また都市の守備隊を除くトルコ人は、セルビアから撤退した。
またセルビア公国に対するロシア帝国の保護が認められた。
1833年 戦乱で拡大した領土の所有が認められる。
1854年 クリミア戦争 …セルビア公国、オーストリア帝国の圧力により中立を取る。
1856年 パリ条約で、セルビア公国の地位が保証される。
ロシア帝国の保護は列強の干渉で差し止められ、代わって列強諸国がセルビア公国の地位を保証することになる。
1875年 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方で大規模な農民の反乱が起こる。
1876年 セルビア公国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの反乱に乗じてオスマン帝国に宣戦布告。
しかし苦戦し、ロシア帝国の仲介で停戦。
1876年12月 イスタンブールで国際会議が開かれるが、オスマン帝国は会議の打ち切りを宣言。
ロシア帝国では世論が沸騰し、オスマン帝国への宣戦布告が叫ばれる。
1877年 露土戦争
1878年 露土戦争の終了、サン・ステファノ条約の締結 → 諸外国の反発 → ベルリン会議
セルビアはベルリン会議の結果、完全な独立国となり、南方への領土拡張を果たす。
1880年 オーストリア=セルビア協定が成立、セルビアを南北に走る鉄道建設が計画される。
1881年 セルビア公国、オーストリア帝国と通商協定を結ぶ。 また『秘密協定』として、
1.反オーストリアを扇動する民族運動の取り締まり
2.他の列強と無断で外交条約を締結しない
…を約束し、事実上の属国となる。
1882年 セルビア、公国から王国に。(国王は親オーストリアのミラン)
☆ 参考資料およびサイト
「ハプスブルグ帝国衰亡史」 ―― アラン・スケッド
「バルカン 歴史と現在」 ―― ジョルジュ・カステラン
「帝国の興亡(上)」 ―― ドミニク・リーベン
「ハプスブルグ・オスマン両帝国の外交交渉 1908―1914」 ―― 藤田順子
「ケンブリッジ版ユーゴスラヴィア史」「ケンブリッジ版バルカン史」 ―― スティーヴン・クリソルド
「ボスニア・ヘルツェゴビナ史」 ―― ロバード・J・ドーニャ/ジョン・V・A・ファイン
「トルコ近現代史」 ―― 新井政美
「バルカン史」 ―― 柴宜弘
ユーゴスラヴィア史
第一次世界大戦
ウィキペディア