使徒ラミエルと!
人工知能ノーマッドの!
ロシア史番外編bP―――バルカン講座〜♪
えー皆様コンニチワ。
去年から開始したロシア史コンテンツですが、ちょっとここにきて壁に激突しております。
カベ?
1つの国の歴史を語るには、その隣国の歴史を語らないといけません。
その隣国の歴史を語るには、そのまた隣国の―――(以下略
よーするに作者の能力の限界を超えているんでつね。
2年前まではウィーン体制という言葉すら知らなかった歴史オンチの分際で、独学のみで歴史コンテンツを作るなどと無謀なことをするからでつよ。
まぁそれでも頑張って調べたんだから。
とにかく起こったことをただ何でも書くのは、このコンテンツの趣旨である「複雑なことを分かりやすく!」に反します。
というわけで、「メインのロシア史に書くと長くなりすぎて複雑になるけど、でも無視もできない」という内容については、番外編で解説することになりますた。
で、誰が解説するんでつか?
まさか我々みたいな電波キャラの解説なんて、誰もマジメに聞かないと思うのでつが。
それにフォルテ中尉って、ちょっとギャグ飛ばした程度ですぐに発砲するから嫌いでつ。
番外編の解説は、この人にやってもらおうと思います。
…………こんにちわ。
………。
すいません、作者が綾波レイに精神汚染されてしまいまして。
どーしても彼女を出せ、と。
ロシアという国 ―― 番外編
bP バルカン半島と露土戦争
ロシアは寒いですので、毛皮の帽子をかぶってみました。
良かったら皆さんもどうぞ。
私の人工知能はIBM製なので、エベレストの頂上でも大丈夫でつ。
よっと……ふかふか〜。 温かいでつね♪
( どうやって自力でかぶったんだ )
では、さっそく講義を始めたいと思います。
第一回目は「露土戦争にいたる、バルカン半島の情勢」についてです。
露土戦争は、簡単に言うと…
「オスマン・トルコの支配に反抗したスラブ系民族と、それを支援すべく宣戦布告したロシア帝国の戦争」
……これはメインのロシア史でも、第5話で書いた通りです。
そもそも、オスマン・トルコって異教徒には寛容じゃないんでつか??
キリスト教徒は魔女狩りと異教徒迫害が大好きな侵略マンセーの悪魔で、イスラムの方々は異教徒に寛容で平和的で、彼らの領土はヨーロッパ帝国主義や米帝に侵略されるまでは地上の楽園だと聞きましたが。
くたばれ欧米〜♪ くたばれ米帝〜♪
平和的なイスラムを見習え〜♪
それは何てプロパガンダですか?
まぁ…ゴムの採集量が足りなければ黒人の腕を切断した19〜20世紀のベルギー植民地コンゴや、家族を人質にとって毛皮の採集を強制し、ソ連時代にはそれを「未開の部族を文明化してやったのだ」と言い張ったロシア人の極東侵出に比べたらマシではありますが。
たしかにオスマン・トルコ朝廷は、少なくとも国策として異教徒に改宗を強いたことはありません。
また「異教徒であっても、イスラム教徒と対等である」と、途中から法改正がされています。
しかし個々の事例では大規模な強制改宗もありますし、実態はイスラムが異教徒を支配する国でした。
その中でキリスト教徒が平和に暮らせたかどうかは、場所や時代によりますね。
で、キリスト教徒の多いバルカン半島はどうだったのでつか?
露土戦争の発端になったのは、ヘルツェゴビナの農民一揆ですが…
場所はこちらです。
現在はボスニアと合体して「ボスニア・ヘルツェゴビナ」という国名になっている場所ですね。
つい10年ほど前に民族紛争が起こったため、日本も有償・無償の復興援助をしています。
興味のある方は外務省のサイトをご覧下さい。
さて1875年……露土戦争の2年前ですね。
オスマン・トルコ領内のヘルツェゴビナでは、キリスト教徒による大規模な農民一揆が起こりました。
この一揆は民族自決をかかげたものではなく、単純に「食い物をよこせ」です。
そんなにビンボーだったんでつか?
ええ、ヘルツェゴビナのキリスト教徒は、ムスリム地主の農地で働く農奴でしたので。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ史」 ロバート・J・ドーニャ/ジョン・V・Aファイン p69
地元のムスリムの多くが大土地所有者であったため、キリスト教徒がムスリムの領地で働く農奴となっていた。
そ、そんな! 嘘だっ!
異教徒に寛容で、おテテつないで仲良く暮らしている地上の楽園イスラムで、キリスト教徒が農奴だなんてっ!!
法的には移動の自由があったので、正確には奴隷ではありません。
でも字も読めない貧しいキリスト教徒たちは、法に無知ですので……
それに正当な嘆願書を出しても、法廷ではムスリム地主に有利な判決が出るのが普通でした。
しょせんは異教徒ってことでつか。
オスマン・トルコの名誉のために言っておきますと…
トルコ朝廷もこういった状況を傍観していたわけではありません。
農民の待遇改善のために改革をしていますし、ヨーロッパ諸国の抗議を受けて異教徒の人権向上にも取り組んでます。
そういやクリミア戦争でも、パリ条約の中に「キリスト教徒を差別しないこと」という条文がありましたね。
これは単に人道主義やヨーロッパ諸国の圧力だけでしているわけではありません。
当時のオスマン・トルコは欧米列強に負けっぱなしで、生き残りのために国の近代化を迫られていました。
…さて、そもそも「国家の近代化」って何ですか?
国民の意識改革がおこり、胸の谷間が見える服が普通になることでつね。
いやいや、国民の食生活が改善されてFカップの小学生が誕生することでつよ。
あなた方に聞いたのが間違いですね……
かなり大雑把な言い方になりますが、
1つは旧い身分制度や慣習を廃止することです。
国民が「この社会は公正である」と感じてこそ、国民もお国のために兵役や勤労に励んでくれるのです。
一言でいえば「身分を問わずチャンスを平等に与え、頑張った人が報われる社会にする」です。
日本でも明治維新では、身分制度を廃止しましたよね?
これはオスマン・トルコでも同じことです。
たとえば宗派を問わずに全ての臣民を平等とし、彼らに等しく収入に応じた納税の義務を負わせる
―――
また全ての住民には等しく国防の義務を負わせる ―――
異教徒にも行政に参加する権利を認める ―――
さすが地上の楽園。
2つめは政府の改革方針を隅々に伝えるため、「その土地のことは、そこのお殿様にまかせる」という昔の方法ではなく、中央集権化によって政府がしきることです。
これも日本では、版籍奉還や廃藩置県で、全国の大名・お殿様を廃止していますよね。
オスマン・トルコでも、中央集権化が進められました。
3つめは、法治です。
簡単に言うと「決めたことは、みんなで守る社会」にすることですね。
良かれと思って決めたことを、強い人が勝手に無視しても通る社会では、改革・近代化なんて不可能です。
そこでオスマン・トルコの皇帝も、自ら「法律>>>超えられない壁>>>皇帝でーす」と宣言しました。
しかし地方の保守的なムスリムにとっては、これが気に入らないわけです。
なんで???
オスマン・トルコ帝国は、イスラム教徒が非イスラム教徒を支配する国だからですよ。
等しく税を、というのは異教徒に課せられた人頭税の廃止を意味します。
等しく国防を、というのは異教徒に武器の所持を認めることになります。
また場合によっては、異教徒であるキリスト教徒の士官に、ムスリムの兵士が服従することになります。
異教徒にも行政への参加を、というのはイスラム国家の否定といってもいいです。
※ 当時のトルコ朝廷は軍の近代化のため、ヨーロッパの軍人を教官として招いたが……
しかし訓練を受けるムスリム兵士は、「キリスト教徒」の命令に服従することを拒否し、教官が怒って帰ってしまうこともあった。
要約すると ―――
キリスト教徒のゴミどもが、我らムスリムと同格になるなど許せねぇ!
イスラムの伝統を何だと思ってやがるっ!
……って意味でつか。
そーゆーことです。
とくに外国に干渉されて異教徒の待遇改善なんて「ふざけんな売国奴が!」でした。
べつにイスラム教徒を軽んじたわけではなく、単に異教徒の地位を対等に引き上げただけなのですが…
それでもイスラム教徒にとっては、自分たちの権利が侵害されたと映りました。
それまでは、裁判になったらイスラム教徒が有利なのが当たり前でしたからね。
まぁ外国の干渉に関係なく、トルコ朝廷にとって近代化は避けて通れない道だったのですが―――
「トルコ近現代史」 新井政美 p74
改革に対する反感は、特に1856年の改革勅令発布後に増大する。フランス刑法の翻訳はシャリーア(※)からの逸脱ではなかったが、しかしムスリム・非ムスリム間の平等の強調は、ムスリムには非ムスリムに対する特権の付与としか、したがってシャリーアの放棄としか映らなかった。
※シャリーア…イスラム教の宗教上の法律。イスラム法とも呼ばれる。
近代の思想、ましてや欧米で生まれた思想などより、昔から続いてきた伝統が絶対に大事―――
こういう人は古今東西、今の日本でさえも存在します。
加えて中央集権化というのは、簡単に言うと地方の有力者の特権を奪うことです。
日本の場合も、明治維新には全国のお殿様をクビにしたでしょう?
日本の場合は、お殿様もおとなしく言うこと聞いてませんでしたか?
日本は例外だと思ってください。
多くの場合、既得権を奪われることに猛然と反発します。
当時の保守的なムスリムは、既得権を守るために「改革」と字のつくものには何でも抵抗するという、どーしようもない連中でした。
ひどい場合になると、改革を唱えるトルコ皇帝が殺されたケースもあります。
ちなみに地方の代官(←もちろんイスラム教徒)の中は、トルコ朝廷の改革方針に対して、
これは聖戦だ!
――― と言って、トルコ朝廷の打倒を叫んだ人もいます。
聖戦、チャチャチャ☆ 聖戦、チャチャチャ☆
ジ・ハ・ド! ジ・ハ・ドッ!
まぁ改革が進まないのは、何も抵抗勢力だけの責任ではありません。
トルコ朝廷は「改革・近代化」を唱えてイスラム有力者の特権廃止を強引に進めるのに、肝心の自分たちは外国から借金までして豪華な宮殿暮らし。
でも一方では兵士への給料支払いが遅れるほど財政ピーピー…ってか破産状態でしたから、保守的なムスリムでなくてもこう思ったでしょう。
「朝廷の唱える“ 改革・近代化 ”ってナニさ?」
…さてこの保守勢力の抵抗に対して、トルコ朝廷も時には「逆らうヤツは死ね!」という態度で臨みました。
実際に19世紀の初頭には、抵抗勢力の筆頭である軍人階級「イェニチェリ」を、首都で6000人ほどぷっ殺して、1万人以上を追放しています。
※1826年、マフムト2世によるイェニチェリの殲滅と廃止。
さすが寛容の地、イスラム。
まぁ言うなれば「トルコ版の西南戦争」ですね。
ただ日本の西南戦争とちがって、地方は懲りずに中央への抵抗を続けました。
そして厄介なことに……中央の役人にも、彼らに同情して支援する保守的な人が多かったのです。
いい具合に泥沼でつね。
このためトルコ朝廷も、地方の保守的な声に配慮しながらの「綱渡り」が必要でした。
しかも欧米列強との戦争に負けっぱなしのトルコ朝廷には、もう反抗する地方勢力を従わせるだけの力がありません。
ましてやボスニア・ヘルツェゴビナみたいな北の最果ての地では、トルコ朝廷のコントロールが利きにくいのです。
そのためにトルコ朝廷は19世紀の中ごろから、よけいな衝突を避けるべく地方に干渉しなくなってきました。
するとますます、地方のムスリム地主は調子こいてキリスト教徒から搾取しまくるわけですね?
はい。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ史」 ロバート・J・ドーニャ/ジョン・V・Aファイン p68
50年代以降、地元のアーヤーン(※)たちをこれ以上刺激したくないという国家の配慮と税制改革の導入が相まって農民の状態が悪化することになった。税制改革により現物納が廃止され貨幣による定期的な徴税が導入されたことで農民の負担が増大したが、その反面、地主であるアーヤーンと農民の関係には国家が干渉しなくなったからである。
※「アーヤーン」…今風に言えば「県知事」「市長」。 ようするにイスラムの有力者である。
こうして地方のムスリム地主とキリスト教徒の関係がどんどん悪化していく中、トドメの一撃が加わります。
上のソースにも書いていますが、近代化を進めるトルコ朝廷はこれまでの物納をあらため、現金による徴税に切り替えたのです。
物納から現金徴収? あー、日本の明治政府も同じことやりますたね。
これまでお米で年貢を納めていたのを、現金で払いましょうって。
で、日本ではどうなりましたか?
怒った農民が一揆 ――――― あ。
そういうことです。
こうしてヘルツェゴビナの貧しいキリスト教徒が苦しむ中、1874年に不作がおこると、翌年に大規模な農民一揆が起こったのです。
… 1875年、ヘルツェゴビナで農民一揆が勃発 …
このヘルツェゴビナの農民一揆は、単に地方のムスリム地主への反抗でした。
しかしこれに隣接するボスニアのセルビア人が参加すると、この騒動はセルビア人 vs イスラムという民族紛争にレベルアップします。
なんでボスニアのセルビア人が?
ヘルツェゴビナの農民の多くは、セルビア人と同じくスラブ系の正教徒だからです。
しかも彼らは超ビンボーだったので、ヘルツェゴビナの裕福なムスリム層はムカつく存在でした。
加えてお隣のセルビア公国とモンテネグロ公国が、「俺が味方してやる、もっとやれ」と煽って、反乱勢力に資金援助やら武器・弾薬の援助やらをしてきました。
おかげ様でボスニア・ヘルツェゴビナの農民一揆は、鎮圧にきたオスマン・トルコ軍を撃破します。
さてここで、ボスニア・ヘルツェゴビナで反乱側に資金援助した「セルビア公国」について説明しましょう。
セルビア公国はその名のとおり、キリスト教徒(正教徒)であるセルビア人の国です。
セルビアはオスマン・トルコ帝国の領土ですが、19世紀の前半に自治が認められた地域です。
自治が認められているのに、それでもオスマン・トルコ帝国に対して反抗するんでつか?
やっぱり同じように、イスラム地主に搾取されて貧しかったのでつか?
いや、セルビアはむしろ領内からトルコ人を締め出しにかかっています。
んじゃ何で?
セルビアが自治を勝ち取ったのは、そもそも戦って血を流した結果です。
だから彼らはオスマン・トルコ帝国のことを、「キリスト教徒を抑圧する連中」としか思っていません。
自治区じゃなかった頃に、ひどい目にでもあわされたんでつか?
はい。
地図を見たら分かるでしょうが、セルビアはオスマン・トルコ帝国とオーストリア帝国との境界にあるでしょう?
セルビアはトルコの敵国であるオーストリアとの戦場になる場所です。
そのためオスマン・トルコの軍人が、遠征先の現地住民……つまりセルビア人……から略奪し、また勝手に居ついて税金を徴収することが多かったのです。
※ここでいう「オスマン・トルコの軍人」は、「イェニチェリ」と呼ばれている階層である。
「イェニチェリ」は特権階級であるうえに武装しており、オスマン・トルコ政府にとっても手に負えない存在であった。
「バルカン ―― 歴史と現在」 ジョルジュ・カステラン著 p35
トルコ側では、戦争はパシャ領内にご多分に漏れず反抗的で略奪を働く多くのイェニチェリ(イスラムの軍人であり、特権を持つ世襲階級)をもたらし、またひとたび敵対的行為が終われば、その場に多数の生存者を残した。こうして、個々のチマール(軍人や官吏に与えられた封地。日本史で言えば「知行」にあたる)は広大なチフトリク(私有地)に変貌したが、この現象はそれまで国境地帯には及んでいなかったのである。
セルビア人の時の証人たちによって語り伝えられた、こんな情景が知られている。手下を引き連れた1人のイェニチェリがある村に現れ、武器で脅して農民たちに彼を指導者として認めるよう強制するとともに、農作物の4分の1から半分、それに独断で決めた何日の賦役を提供する見返りに、山賊からの保護と場合によってはトルコの税金の支払いを援助することを約束したのだ。
これ、何て人治国家?
国家の軍人サマがこんなリアル北斗の拳みたいなことして、トルコ朝廷はブチ切れないんでつか?
もちろんトルコ朝廷はブチ切れですよ。
トルコ朝廷は臣民たるセルビア人を保護するために武器の携行を許可し、中央から討伐隊を派遣して不良軍人どもの駆除に臨みました。
※ 異教徒は武器を携行する権利が認められていなかった。
でもそんな時に限って、おフランスのナポレオンがエジプトに攻めてきます。
対抗するには訓練された正規兵が必要ですので、トルコ朝廷は怒りに震えながらも
お願いです、恩赦するから対フランス戦に協力して下さい つд`)
……と、不良軍人どもに頭を下げざるを得ません。
※ 当時のエジプトはオスマン・トルコ領。
なんか聞いているほうが泣けてきまつね。
すると調子にのった不良軍人どもは、復讐で反乱したセルビア人たちを殺す始末。
これにブチ切れたセルビア人は――
「イスラムに支配されている以上、俺たちは幸福に暮らせない!」
――と、今度は不良軍人だけではなくトルコ朝廷に対しても反乱しました。
トルコ朝廷、ちょっと神社でお払いした方がいいんじゃないですか?
……( 神社じゃダメだろ )
トルコ朝廷は仕方なく、「トルコ朝廷に服従するのなら、セルビア人の自治を認める」と懐柔しました。
こうして19世紀前半に誕生したのが「セルビア公国」です。
しかしこの反乱の際、トルコ軍のお茶目な暴走が、セルビア人に対して深刻な恨みを植え付けました。
〜 お茶目な暴走 その1 〜
↓トルコ兵士
閣下、包囲されたセルビア人の反乱軍は自決しました。
↓トルコ軍
よーし、ではセルビア人の死体から頭骸骨を集めろ。
頭骸骨を固めて塔を作り、セルビア人どもへの “ 見せしめ ” にするのだ!
アラーフ・アクバル!(アラーは偉大なり)
※1809年に作られた「頭骸骨の塔」である。
〜 お茶目な暴走 その2 〜
↓トルコ兵士
閣下、セルビア人の街ベオグラードを占拠しました。
↓トルコ軍
よーし、女子供をかき集めて奴隷にするのだ!
アラーフ・アクバル!(アラーは偉大なり)
※1813年の10月、セルビアの首都ベオグラードに入ったトルコ軍は、慣習に従って数日間は戦利品を欲しいままに徴発した。
10月17日などは、たった1日で1800人の婦女子が奴隷として売られるためベオグラードに集められた。
・・・・・・
こんな闘争を経た上で自治を認めさせたので、セルビア公国の人はこう考えるようになったのです。
我らセルビアの自由と誇りは、流血を恐れずに戦ってのみ守られる。
しかも結果として自治権をゲット…。
そのためセルビア人は「戦って勝ち取った自治だ!」という強い誇りに満ちており、要求があれば武力に訴えるクセがついてしまいました。
でもそんなの、セルビア公国とトルコ朝廷の問題でしょ?
ボスニア・ヘルツェゴビナの農民一揆にまで介入されても困るんでつけど。
セルビア公国は、ゆくゆくはボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようと思っていましたので。
オイ。
セルビア人にとっては、自分たちと同じスラブ系の正教徒をイスラムの圧制から救出し、そして同胞として結ばれるのですから。
言うならば「あるべき姿に戻すだけ」です。
実際、ボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア語を話す人が多数いますからね。
なんか事態を泥沼化させる理屈でつね。
セルビアにしてみたら、帝国主義時代を生き残るには、少しでも領土を広げておく必要があります。
セルビア公国はどこの国も信じていませんでしたので。
なんで?????
まぁたしかに生き馬の目を抜くような時代ではありまつが。
セルビア公国は独立戦争の際、同じスラブ人で正教であるロシア帝国に援軍を求めています。
ロシア皇帝は正教徒の守護者を自称していますからね。
しかし当時のロシア帝国はナポレオンとの対立で、セルビアを助ける余裕がありません。
オーストリア帝国にも助けを求めますが、同じく「ごめんね、ナポレオンのことで頭が一杯なの。」と、見殺しにされます。
ついにはナポレオンにまで「助けてくれたら、対オーストリア戦で協力しますから」とお願いしますが、あっさりシカトされました。
その結果セルビア人は自治権を得るために、ほぼ自力で戦わねばならなかったのです。
ふむ…
このためにセルビア公国は、同じスラブ人の正教であるロシアでさえ信用していません。
というより、欧米列強というものをまるで信用していません。
そして19世紀のオスマン・トルコ帝国は、落ちぶれる一方です。
…ここまでいいですか?
OK。
セルビア公国の指導者はこう考えました。
↓セルビア
オスマン・トルコ帝国の滅亡は時間の問題や。
滅亡したら、列強はこぞって旧オスマン・トルコ領の獲得競争を始めるやろな。
※ 実際にロシア帝国の皇帝ニコライ1世は、かってオーストリア帝国とバルカン半島の分割を約束していた。
またクリミア戦争の直前には、イギリスに対する懐柔策としてバルカン半島の分割案を提示している。
(イギリスには無視されたが)
列強がバルカン半島に進出しおったら、セルビア公国は独立を保てるんやろか???
……無理やろ。
ワイなんて、まだ自治区ってだけで完全に独立したわけでもあらへん。
ロシアにとって、セルビアは同じスラブ系の正教徒でしょ?
そんなに悪くは扱われないと思うのですが ―――
いや、いろいろと干渉を受けています。
まずセルビアの民族主義者の中には、ポーランドの民族主義者もいたのですが――
ポーランド??
たしかロシアに併合されて滅亡したんでつよね?
ポーランド人の中には、ポーランド再興のために「民族自決」の理念を各地で訴える人が多かったのです。
だからこそ、同じく「民族自決」の旗を掲げるセルビア人と行動したのですが……
セルビア公国の指導者には、ポーランドの民族主義者と仲良しなのがいるクマ。
即刻、その指導者を辞任させるクマ!
煤i´Д`;)
それ何て内政干渉?
まぁ例えるなら、アメリカが他国に対して「アルカイダの幹部を政府高官にするなどケシカラン!」ってことでしょう。
干渉してきたのはロシアだけではありません。
↓オーストリア
セルビア君はロシアと同じ、スラブ系の正教徒だね?
今はクリミア戦争でロシアと対立しているのだが……まさかロシアに味方はしないよな?
もしも味方したら、セルビアの首都ベオグラードを武力で占領するから、そのつもりでな。
ガクガク、プルプル (((((((゜Д ゜;))))
オスマン・トルコという共通の敵がある間は、欧米列強とセルビアは共存できます。
でもその後の保障はありません。
そんなセルビア公国が自国のパワーアップのために打ち出した構想は、以下の通りです。
「住民がスラブ系の正教徒なら、俺たちセルビア人と同じだよね」
「じゃあその場所は、セルビアの領土ってことで☆」
なんでつか、その素敵な理屈は。
さてここで、ちょっとバルカン半島の言語分布図を見て下さい。
■ スラブ語系 ■ 非スラブ語系 ■ イスラム系
見ての通り、バルカンの多くはスラブ系ですね。
「彼らをイスラムの抑圧から解放し、大セルビアを作ろう!」
というのが、セルビア公国の生き残り戦略ですよ。
どーせ放置しても、このままオスマン・トルコが弱体化して崩壊したら、バルカン半島も結局は欧米列強のどこかの領土になるのですから。
このセルビアの構想を「ナチェルタニエ」と呼んでいます。
しかしセルビア公国には、単独でオスマン・トルコを倒せるだけの武力がありません。
そこでセルビア公国は、バルカン各地のスラブ人の意識を覚醒させるため、秘密結社を各地に作って住民に民族自決を煽 ――――― いや訴えました。
もちろんボスニア・ヘルツェゴビナにも結社はあります。
以上が、ヘルツェゴビナの農民一揆にセルビア公国が介入して、民族自決の運動にレベルアップしていった背景です。
あの…勝手に騒動を大きくされた上に、セルビア公国の未来の領土だと決め付けられたボスニア・ヘルツェゴビナの意見は??
「住民は喜んで、我がセルビア公国の一部になってくれるだろう」と決めてかかっていました。
彼らに言わせれば、そこの住民はセルビア人ですから。
………。
さて、ここでロシア帝国の登場です。
メインのロシア史でも、当時はパン・スラブ主義がさかんであったと書いていますよね。
本編の第5話にも出た、パンツ・ラブ主義でつね?
なんちゃって、わはー☆
……
軽いジョークでつ、そんな目で蔑まないで下さい…orz
(おい、フォロー!フォロー!)
よ、よーするに、ロシア側が「同じスラブ人だから助けるんだ!」と、介入してきたわけでつね。
はい。
・
・
・
・
皇帝陛下、我がロシアの国内では
「オスマン・トルコを倒して、バルカン半島のスラブ人同胞を救え!」
という声が満ちております。
このチャンスを逃さず、オスマン・トルコに宣戦布告すべきですわ!
そんなことは無理。
Sir, yes, sir !
では直ちにロシア軍を動員してオスマン・トルコに突撃させ・・・・・・・
・・・・・・・・
今、なんと申されましたか?
オスマン・トルコとは、あくまでも平和路線でいくクマ。
え゛え゛え゛〜!?
そんなっ!何かヘンなモノでも食べて体調が悪いのですかっ!?
自己紹介欄には「趣味:侵略」と書くロシア皇帝ともあろうお方が、「平和路線でいくクマ」だなんてっ!
「中国は日本を敵視した事などない」というのと同じぐらい、ぶっちゃけアリエナーイですわっ!
………( 部下の人選を間違ったかもしれないクマ )
でもどーしてですか? 絶好の大義名分ですわよ?
「バルカン半島は現状維持で」と、オーストリア と約束したばかりクマ。
ここで約束を破ったら、せっかく結んだ三帝同盟が潰れるクマよ。
またクリミア戦争の時みたいに、国際的に孤立するのは嫌クマ。
※1873年の「シェーンブルン協定」である
あの、陛下…
そのオーストリアにしたって、「ボスニア・ヘルツェゴビナに住むキリスト教徒の待遇を改善しろ」と、覚書を送っていますわよ?
でもオスマン・トルコの糞どもに無視されていませんでしたか?
それでも、駄目なものは駄目クマ。
交渉には時間がかかるものクマ。
オーストリアの機嫌を損ねるのは避けたいクマよ。
ぶーぶー。
いいもーん、だったら義勇兵を送っちゃうもーん。
正規兵を導入するんじゃないのですから、文句ないですわよね?
・
・
・
・
復習のために述べますと…当時のロシアは、統一ドイツ帝国のビスマルク宰相の呼びかけで、オーストリアやドイツと同盟を結んだばかりでした。
そしてオーストリアがロシアと三帝同盟を結んだのは、「バルカン半島は現状維持で」というロシアとの約束
――― シェーンブルン協定 ――― を保障するためです。
だからロシア皇帝アレクサンドル2世も、パン・スラブ主義は唱えても武力介入には消極的でした。
しかし翌年の1876年の4月……そうも言っていられない状況に突入しました。
ブルガリアでも、オスマン・トルコに対する反乱が起こったのです。
世に言う「4月革命」ですね。
ヨーグルトで有名なところでつね。
ブルガリアはトオスマン・トルコの首都イスタンブールに近かったので、ボスニア・ヘルツェゴビナやセルビアのように荒れてはいませんでした。
まぁそれなりに平和で発展した地域だったのですが…
が?
時代の流れ、というものでしょうか。
最初は一部の知識人が「ブルガリア人としての文化・歴史を大事にしよう」「ブルガリアの教会(正教)の運営はブルガリア人で」という程度だったのですが…
1848年の「ヨーロッパ諸国民の春」を契機に、政治的な独立を訴える愛国者が増えてきました。
「諸国民の春」?? なんでつかそれ。
簡単に説明すると……ナポレオンの敗北でフランス革命の灯は消えてしまったんですが、くすぶった火が再び1848年に一気に燃え広がるのですよ。
この革命はフランスだけでなくオーストリアやプロイセン、イタリアにまで広がったので、この1848年を「ヨーロッパ諸国民の春」と呼んでいます。
で、その動きはバルカン半島のブルガリア人にも広がるわけですね。
その通りです。
例に漏れずブルガリアでも、民族自決を説いてまわるセルビアの秘密結社が活動していましたので…
またブルガリアでは少し前に、独立を目指す革命家がトルコ朝廷に処刑されたため、不満がくすぶっていました。
そして1875年にボスニア・ヘルツェゴビナで騒乱がおこると、「独立運動を起こすなら今がチャンス!」と先走った独立派は、ずさんな反乱計画のまま翌1876年の4月に蜂起します。
… 1876年4月、ブルガリアで反乱勃発 …
この反乱の代償は、双方共におそろしく高い代償を払うことになりました。
市民は革命家の呼びかけにほとんど応じず、反乱はただちに鎮圧され、その際に多数のブルガリア人が巻き添えで虐殺されたのです。
イスラムは寛容って、なにか遠い日に見た妄想ファンタジーに思えてきました。
イスラムが寛容なのは事実ですよ。
ただし「他と比べてみたら」であって、DQNなことも随分とやっていますが。
まぁ例えば、反乱者に特赦しますと言って出てきたところを虐殺、とか…
しかし反乱側のキリスト教徒が勝った場合には ―――― 多数の丸腰なトルコ人が虐殺されたことも付け加えておきます。
…で、トルコ側の払った「代償」は?
そもそもブルガリアでは、インテリや革命家が独立を叫んでいるだけでしたが……
この犠牲者2万近くとも言われる虐殺によって、ブルガリア人は一気に反オスマン・トルコに染まってしまいました。
そして西欧諸国も同様に、オスマン・トルコへの非難を強めます。
特にロシアのパン・スラブ主義者たちはブチ切れです。
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ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜 ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜♪
何でも殺せる兵団 バシボズク!
ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜 ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜♪
アラーの御意思で人生 やり直してあげる♪
いやよだめよ こんなのバカバカ☆
そんなに反乱しないで♪
お願いだから えいっ!
虐殺天使ぃ〜 血しぶきドクドク イスラム〜♪
虐殺天使ぃ〜 心臓ドクドク イスラム〜♪
囲って焼いて燃やしてぇ〜♪ 女子供も容赦なく〜♪
でもそれって アラーの「愛」なの♪
………(  ̄-  ̄ ;)
ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜 ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜♪
万能血まみれ兵団 バシボズク!
ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜 ぴぴる ぴるぴる ぴぴるぴ〜♪
村ごとまとめて 殺してあげる♪
いやん ばかん うっふんダメダメ☆
そんなに反乱しないで♪
お願いだから えいっ!
虐殺天使ぃ〜 刃物でドスドス イスラム〜♪
虐殺天使ぃ〜 血みどろどろどろ イスラム〜♪
斬って殴って嬲ってぇ〜☆ キリスト教徒は皆殺しぃ〜☆
でもそれってアラーの「愛」なの♪
………(  ̄-  ̄ #)
ド ス! 「 うぎゃー 」
いったーい、何するんですか陛下っ!
人間の側頭部に熊パンチなんて、これがギャグマンガでなければ死んでますよっ!
いくら皮肉とはいえ、作者の首に賞金がかかるような歌はやめろクマ。
でも陛下!
我らスラブの同胞であるブルガリア人が、我らと同じ正教の信者が、トルコの非正規兵「バシボズク」どもに虐殺されたんですよ?
バシボズクどもは反乱したブルガリア人だけでなく、報復に村々をまわって、女子供を教会に閉じ込めて焼き殺したんですよっ!?
「ブルガリアの歴史」 R・J・クランプトン p114
バシボズクは、(中略)反逆者に加担した村に残虐な報復を行った。特にバタク村では、5000人のブルガリア人キリスト教徒が虐殺されたといわれている。殺されたブルガリア人の大半は女性や子供であり、バシボズクは、キリスト教徒を村の教会に集め、中に閉じ込め火を放って焼き殺したのだという。
ロシア国内では「イスラムを倒してスラブの同胞を救え!」という声で満ちています!
我が国だけではありません、イギリスではグラッドストーン議員もオスマン・トルコを非難しています。
フランスの議会でも、この問題が取り上げられています!
今こそ陛下は、「ロシア皇帝は正教とスラブの守護者である」ということを見せてやるべきです!
さあ、イスラムの悪魔どもに正義の鉄槌を!
うまくいけば、念願の地中海進出もセットでついてきますよっ!?
バシボズクって、宗派はイスラムでも人種は同じスラブ系で、ブルガリア人も含まれたような……
(∩゚д゚) アーアー 聞こえなーい、聞こえなーい☆
とにかく! 前にも言ったけど武力介入はしないクマ。
え゛〜〜〜〜〜!
以上、この件は終了クマ。
ただし万が一ってこともあるから、今のうちにオーストリアとは、バルカン半島の分割案を話し合っておくクマよ。
…はーい。 交渉しときまーす。
じゃあちょっと、散歩いってくるクマ。
はーい、いってらっしゃーい。
…………
…………
にやり。
トゥルルルル♪ トゥルルルル♪
はいもしもし、ロシアのチャルナーエフ将軍ですが。
おっひさ〜☆ チャルナーエフ、元気してるぅ〜?
うん、まぁまぁねー。 で、何の用?
ブルガリアで虐殺事件があったのは知っているわね?
うん、ひどい話よねー。
ちょっと義勇兵として、セルビアに行ってくれない?
中央アジア戦役の英雄である貴方が参加したら、セルビア公国やロシアの義勇兵も勇気100倍よ。
え、セルビア? ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、セルビア?
セルビア公国では、蜂起した農民への資金援助だけでなく、軍事介入する動きがあるわ。
どうせなら反乱の主導権を、我がロシアが握っておきたいのよね〜。
チャルナーエフなら反乱軍の最高司令官として迎えてもらえるわ。
私はいいけど、皇帝陛下は武力介入に反対なんじゃないの?
皇帝陛下だけでなく、陛下の弟である大公も反対だって聞いたけど。
何を今さらいい子ちゃんぶってるの?
中央アジアでは政府の許可など取らずに勝手に進軍→併合したくせに。
※1864年、チャルナーエフ将軍は独断でコーカンド・ハン国に攻め込み、翌年にはタシケントを占領した
あはー☆ まぁ手柄を立てたら、政府だって後から認めざるを得ないしねー♪
そういうことよ。 んじゃよろしくぅ〜♪
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なんかますます泥沼と化していきますね。
この緊迫した状況の中………
トルコ朝廷では皇帝の座をめぐって権力闘争が起きていました。
は? (´Д `;)
このバルカンの危機にトルコ朝廷の権力が無力だったことが、反乱軍に自信を与えたのです。
↓セルビア
いよっしゃ! 今ならオスマン・トルコにも勝てるでぇ!
…1876年の6月(ブルガリア虐殺から2ヶ月後)…
…セルビア公国、オスマン・トルコ帝国に宣戦布告…
正確にはセルビア公国と、モンテネグロ公国ですけどね。
セルビア公国とモンテネグロ公国は、「ボスニアはセルビアが、ヘルツェゴビナはモンテネグロがゲットだぜ♪」という協定を交わし、オスマン・トルコに宣戦布告したのです。
しかしセルビアやモンテネグロの勝算は、すぐに消えました。
なんで?
セルビアの期待に反して、他のバルカン半島のキリスト教徒たちが決起しなかったからです。
彼らは4月革命を起こしたブルガリア人が虐殺されるのを見て、恐怖で動けなかったのですよ。
ギリシャみたいに反オスマン・トルコな国もありましたが、そこはオスマン・トルコの保全を国防方針とするイギリスが「加勢したらシバくぞ?」圧力をかけましたので。
あらま……ロシアの義勇兵は?
ロシアの義勇兵は、数は3000ほどですからねぇ…
加えてロシアからやってきたチャルナーエフ将軍は、味方であるはずのモンテネグロ軍と対立し、ろくな戦略もない事がバレてしまったのです。
何しに来たんでつか、そいつわ…
そしてオスマン・トルコの正規軍による反撃の開始です。
セルビア軍とロシア義勇軍は奮戦しますが、何せ数が違います。
オスマン・トルコ軍はセルビアの首都ベオグラードに迫り、ベオグラードはパニックに襲われました。
↓トルコ
さあセルビア君、お仕置きの時間だよ?
ちょっと殺りすぎてしまうかもしれんが、勘弁してくれたまえ。
ガクガク、プルプル (((((((゜Д ゜;))))
しかし、ここで外野からブレイクが入ります。
はいはい、そこまで!
オスマン・トルコは直ちに停戦するクマ!
48時間以内に停戦をしないのなら、国境に配備したロシア正規兵20万を突入させるクマ!
……ちっ。
た、助かった…
セルビアやロシア義勇兵を見殺しにしたのでは、正教の守護者であるロシア皇帝の面子にかかわります。
こうして強引に停戦合意させると、この一連のゴタゴタを解決するために、国際会議が開かれました。
…1876年12月、イスタンブールでの会議…
↓ロシア
この一連のトラブルの原因は、はっきりしているクマよ。
やいこらオスマン・トルコ!
さっさとバルカン半島の全てのスラブ人に対し、イスラムの支配から解放するクマ!
↓オーストリア
解放はともかくとして、キリスト教徒の待遇改善は真剣に取り組んでもらいたい。
トルコの下手くそな異民族統治のおかげで、隣接する私はいい迷惑だね。
とりあえずこの会議で、我々が納得できる改革案を出せ。
↓トルコ
うぐぐぐぐぐ・・・・
↓イギリス
私はバルカン半島が、あくまでもオスマン・トルコの手で現状維持されることを希望しますわ。
煤i^∀^*)
煤i゜д ゜;)
だってオスマン・トルコ殿は私にとっては大事な経済植民地 商売相手ですし。
それにバルカン半島はオスマン・トルコに統治してもらった方が、ロシアの地中海進出を防ぐ防壁になります。
てめえ、空気ヨメよっ!!!
外交は自分の国益が最優先ですわよ、オーホホホホホ♪
ブフォフォフォ! 大英帝国ふぉ〜お♪
まぁーでも、無用な戦乱は無いにこした事はないですわ。
だからオスマン・トルコ殿も、異民族統治の改革をマジメに考えて下さい。
あなたがこの会議で、具体的な改革案を約束してくれたなら、ロシアもオーストリアも面子が立ちますわ。
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オスマン・トルコは強気になりました。
「世界最強の大英帝国が味方だ!」と…
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ミナサーン! 私は皆さんの不安に答えるべく、憲法を導入する事にしました。
まさに憲法フォ〜♪
・・・・???
憲法をつくって立憲君主制の国になったのですから、もう心配イリマセーン!
新たな立憲君主国家、オスマン・トルコ帝国の誕生デース!
憲法では「異教徒もみな同じトルコ国民」としてありマース!
コイツはいったい、何を言っているんだ?
たしか前にも「全ての臣民は法の前に平等」って言ってたけど、その結果がこれクマよ?
もちろんキリスト教徒のためにバルカンを解放する必要なんかもアリマセーン!
今までのままデース!
だけど立憲君主国家になって「臣民はみな平等」と定めたのですから、もう心配アリマセーン!
これにて全て解決、ズバっと解決!
聞けよ、人の話。
よって! もうこの会議を続ける必要もアリマセーン!
ちょwww おまwwwww 待てwwww
さて! 憲法を導入したことですし、皆様の前で祝砲をいっちょ!
砲兵!大砲持ってバッチコーイ!
ごろごろごろ〜
レディー……Fire!
ZUDOOOOM!
Fire!
ZUDOOOOM!
Fire!
ZUDOOOOM!
Fire!Fire!
ZUDOOOOM!
ZUDOOOOM!
ワハハハハ!
ぷちっ (←なにかが切れた音)
おのれ、舐めくさりやがって !!!!
お前だけは絶対に激コロス!ぶちコロスッ !!!!
……(´Д `;)
……(´Д `;)
「バルカン ―― 歴史と現在」 ジョルジュ・カステラン p159
イスタンブール(※1)に対してヨーロッパ会議の開催を要求し、それは12月2日に開かれた。問題はトルコ朝廷から公式に「改革」を取りつけることで、さもなければ新たな反乱がオスマン領の分割に行き着くであろうということだった。
だが、アレクサンドル2世のロシアが汎スラブ主義のスポークスマンとなり、バルカンの全スラブ人の解放を要求した一方、ディズレーリ(※2)のイギリスはオスマン帝国の存続に執着しつづけていた。
スルタン(※3)はこの対立を操るすべを心得、12月23日、憲法を授けてこれを祝砲で告げ、ヨーロッパの外交官らを唖然とさせたのである。すなわちこれは立憲君主制を実施し、だが同時に帝国の不可分性を明確にするものであった。かかるがゆえに、とトルコ朝廷は表明した、会議はもはや目的を失ったと。
これはサンクトペテルブルグ(※4)の失敗であり、異常に興奮したロシアの世論は宣戦布告を要求した。
※1、イスタンブール…オスマン・トルコ帝国の首都で、つまりはトルコ朝廷のこと。
※2、ディズレーリ…当時のイギリスの首相。 スエズ運河を買収したことでも有名。
※3、スルタン…トルコ皇帝の呼び名。ちなみにロシア皇帝は「ツァーリ」である。
※4、サンクトペテルブルグ…ロシア帝国の首都で、つまりはロシア政府のこと。
モスクワが首都になるのはソ連になってから。
1877年、露土戦争 勃発
オスマン・トルコって ・・・・ もしかして馬鹿でつか?
ここでトルコ朝廷を非難するのは簡単ですよ。
でも上にも書きましたが、当時のトルコ朝廷には地方の保守勢力を抑える力がありません。
ロシア側の要求を聞いたとして、実行できるかどうか怪しいものですね。
内乱になっていた可能性だってありますよ。
んじゃ無茶な要求をしたロシアが悪いんでつか?
ロシアにしても、パン・スラブ主義者の声を無視できませんし、そもそもの発端がオスマン・トルコの政治体制にあることは事実ですので……
何よりもバルカン半島のキリスト教徒たちが民族自決を強く望む以上、この問題はくすぶったのではないでしょうか。
フランス革命や「諸国民の春」のように、民族自決は歴史の流れですので。
どっちが悪いんでつか?
さあ? 私は歴史を道徳論で語るのが嫌いなので…
誰が悪いかをハッキリさせたければ、それは皆様で考えてください。
パン・スラブ主義をかかげて干渉し、トルコ朝廷を硬化させたロシア帝国
異民族統治と近代化に失敗し、火薬庫と化したオスマン・トルコ帝国
戦乱で国境付近を荒廃させる原因を作った、オーストリア帝国
経済植民地の維持にこだわり、空気を読まない大英帝国
1つ言えるのは、たとえ双方の政府は本心では戦争など望んでいなくとも、
“ 双方の外交の失敗 ” によって世論が激昂すると、戦わざるをえなくなる場合もある
……ということでしょうか。
ロシアの世論が激昂したのは上のソースで分かりましたが…
オスマン・トルコ側の世論もブチ切れたんでつか??
はい、もちろんトルコ側でも死者が出ているのに、そこはスルーですから。
過去にキリスト教徒たちが反乱した際にも、万単位の丸腰なトルコ人が虐殺されています。(※ギリシャ独立戦争)
それなのに「トルコの圧制だ」というお決まりのパターンで非難されても、トルコ側は納得できません。
ですのでトルコ皇帝にしても、ここで引くことは難しいのですよ。
西欧を見本に近代化を進めたトルコ皇帝に対して、クーデター騒ぎも起こっているほどですから。
……さてこの番外編ですが、今日はこれぐらいで。
バルカン半島は地味にネタの宝庫ですので、興味のある方は調べてみてください。
農民を反乱軍に参加させるため、村の入り口にトルコ兵を吊るし首にして、トルコの残虐な報復から逃れるために反乱軍に入らざるを得ないようにしたセルビア反乱軍とか、
指導者が国家収入の17%を自分のポケットマネーにしていた自治領セルビアとか、
夫が親オーストリアで妻が親ロシアという、夫婦で代理戦争やってたセルビア王家とか、
領内のイスラム教徒を皆殺しにしたモンテネグロとか、
20世紀にもなって、破産寸前のくせに「ビザンツ帝国を復活させようぜヒャッハー!」と本気で言っていたギリシャとか、
イギリスの貴族が旅行中、山賊に誘拐されて殺されるほど治安が最悪だったギリシャとか、
領土拡張の正当性のために、スラブ語系の住民の地域を「あそこはギリシャ人が住んでいるから我が領土だ」と言い張り、「なんでギリャシャ人なのにスラブ語系なん?w」と聞かれて「馬鹿なスラブの隣人がギリシャ語を覚えないので、会話のために仕方なくスラブ語を覚えて合わせてやっていたら、ギリシャ語をそのうち忘れたのだ」と言い張ったギリシャとか、
農民一揆に対して村に大砲を撃ちこんで1万以上の死者を出すという、ロシアといい勝負な鎮圧をやってのけたルーマニアとか―――。
さて次回では、ロシア帝国の“東進”の原動力にもなった天然資源……「毛皮」について話したいと思います。
「本編が完成していないのに番外編かよ?w」とか言うツッコミはご勘弁を。
本編も頑張って書きますから。