東京 坂道のある風景
東京にこれだけ多くの坂道があるとは、歩いてみるまで思っていませんでした、東京23区には名前の付いた坂道が650以上が存在すると言われています、そんな坂道の絵になる風景を今までの作品の中から改めてまとめて見ました
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無縁坂の歩道に埋め込まれた陶器製の案内板 無縁坂の地図を見る |
このスケッチは四の坂の入り口、林芙美子記念館の前です |
交通 JR目白駅前より都営バス新宿駅西口行き(白61)にて 「椿山荘前」下車 徒歩3分 地図を見る 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永清文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の方に下る急な坂である。 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。 |
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東京都文京区湯島3−30−1 地図を見る 湯島駅 (千代田線)2分、上野広小路駅(銀座線)5分、 本郷3丁目駅(丸の内線)8分 湯島天神の東入り口に通じる三十八段の石段坂である。 別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。 |
東京都文京区湯島3−30−1 地図を見る 湯島駅 (千代田線)2分、上野広小路駅(銀座線)5分、本郷3丁目駅(丸の内線)8分 湯島天神の東入り口に通じる緩やかな石段坂である。 ・男坂に対して女坂という。 |
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所 在 地 港区赤坂6−19と赤坂9、六本木4の間 交 通 東京メトロ南北線六本木、 都営地下鉄大江戸線六本木 江戸時代に 檜の木が多くあり檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸に沿 ったのが坂名の由来です。最近出来た「東京ミッドタウン」に隣接した檜町公園からのスケッチです。 地図を見る |
所在 東京都港区元麻布1-1-20 地図を見る 交通 地下鉄大江戸線麻布十番駅から八分 樹木が暗いほどおい茂った坂であった事が由来のようである。麻布十番温泉前から南方へ曲がりながら登る坂道で坂道の途中にオーストリア大使館があり、このスケッチは大使館前から描きました |
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谷中「夕焼けだんだん」 日暮里駅から西へ五分 地図を見る 「谷中銀座」の入り口は石段を降りたところ、焼き魚の匂いが漂う下町の商店街、この石段の上からは富士山がよく見えて、夕焼け時の眺めは東京の夕暮れ風情が溢れていたが、西に広がる本郷台地に最近マンシヨンなど高層ビルが多くなり景観は無機質なものになりつつあり残念な事です。 |
所 在 地 文京区小石川3と4の間 地図を見る 交 通 東京メトロ丸ノ内線茗荷谷、南北線後楽園 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、余人もこの坂名を通称とするようになった。 |
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東京都港区三田4丁目、高輪2丁目あたり JR田町駅から十分ほど 地図を見る 坂の名前の由来は、明国人「伊皿子」(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも言われているようだが、明確ではないようです。 |
JR田端駅西口から五分 坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。 芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂いがする」と書いています。 地図を見る |
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本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられた(『改選江戸志』)などといわれている。 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。 地図を見る |
東京都新宿区片町 地図を見る 江戸時代、この坂の南東(合羽坂下交差点付近と思われる)に蓮池と呼ばれる大きな池があったところ、大雨が降るとこの池からカワウソが現れることがあったという。これを、周辺の住民が「この坂付近には河童が出る」と勘違いしたことに由来する。 |
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所 在 地 台東区谷中1−4 交 通 東京メトロ千代田線根津 坂の名は、 岡山勝山藩の藩主三浦家の下屋敷前の坂道だったことから三浦坂と呼ばれました。 この辺りは谷中霊園に近く、 周囲には多くのお寺があります。 坂の途中左側に、「ねんねこや」という猫の雑貨を企画する工房があり、店先に、右の写真の猫の絵を沢山売っていました。 地図を見る |
所 在 地 目黒区下目黒1 交 通 JR山手線目黒、 行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(山形県)湯殿山から高僧行人「大海法師」を勧請して開山した。その時不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。 地図を見る |
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西早稲田三丁目 都電荒川線面影橋駅近く 地図を見る 都電荒川線面影橋駅から早稲田大学方面への短い登り坂。 前は神田川の桜並木、なかなかの場所でありました。 |
地図を見る 港区三田三丁目付近 JR田町駅十分ほど 羅生門の鬼退治で有名な平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説により、渡辺綱が産湯をつかった井戸があったと言い伝えられたことに由来します。この一帯も綱町と呼ばれます(戦前は芝区三田綱町という町名でした)。同じく、渡辺綱に名称が由来する坂道である綱の手引坂は、綱坂の北方にあります。 |
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港区高輪一丁目 地下鉄三田線「白金高輪」または浅草線「泉岳寺」六分ほど 高輪の尾根道を東京の方角に進み泉岳寺の上辺りまで来ると左に高松宮邸があります、この辺りの高台は一昔までは品川の浜がよく見えていたのでしょう、坂の名前標識が見当たらないので、ご近所で尋ねてみましたところ、「潮見坂だと思う」と頼りないご返事でした。 地図を見る |
文京区小石川三丁目 地下鉄春日駅から八分ほど 徳川将軍家の菩提寺と云われる伝通院の塔頭である善光寺が坂の途中にあるので、坂名となった。善光寺は信州の善光寺の分院との事で、坂上の歩道のまん中に椋の老木があったりしてなかなかの風格があります、なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉の翁の句碑が建立されている。 地図を見る |
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新宿区荒木町、三栄町 地下鉄丸の内線四谷三丁目五分 もと松平摂津守邸の跡地であることから摂津守を略して「津ノ守」という。別名「荒木坂」。江戸時代、この坂に沿って植木屋が多くあり、江戸近郷から様々な種類の新しい植木が集まってくることから「新木坂」と呼ばれたことに因むもので、荒木町の町名由来にもなっている。 地図を見る |
所 在 地 文京区本郷4 交 通 東京メトロ丸ノ内線本郷3丁目、 都営地下鉄三田線春日 文京ふるさと歴史館のある通りを本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂です。 名前の由来は、 「ここは炭団などを商売する者が多かった」とか 「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということから付けられたと云われています。 地図を見る |
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北品川5-20〜北品川4-10(御殿山通り) JR大崎から徒歩5分・京急北品川から徒歩10分 ミャンマー大使館の前から小関に下る坂で、以前は現在よりさらに急な坂であった。戦前と戦後にかけて道を修理し、勾配を緩和した。当時この辺は徳川藩の御料地であり、御殿山と呼ばれていましたので、この名になりました。 地図を見る |
東京都新宿区余丁町8-5 地下鉄大江戸線「東新宿」から八分 新宿山の手七福神の弁財天を祀る。境内は南北に通り抜けできるようになっており、苦難を切り抜けられるための弁天社として庶民の信仰を集めた。 地図を見る |
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(くわばらざか) 港区白金台四丁目 江戸の昔、今里村と言う村の名前の一つであり、その村は桑が多く植えてあることからとする説もあるが、その確証はないようです。場所は明治学院大学の横を左に折れて八芳園に向かう路で、途中洒落たイタリアレストランがありました。 地図を見る |
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