反対意見はどこにでもある。常にみなが同じ方向を向くことが前提の社会であれば、民主主義は必要ない。 ネットはいろいろな意味で日本の民主主義を変えてきた。 集団ヒステリーのようなものを煽って「炎上」などという現象をネットが表出させている今でも、「マスコミはおかしい」「自分の意見はマスコミのそれと違う」と「言ってもいいのだ」とちゃんと認識する人が増え、少数意見でも声を上げる人が増えた、と私は感じている。 ところで、先日、「ニュースのたね」になったのこの記事(http://www.ohmynews.co.jp/draft/20080208/20726)。この記事の前半部分は、自分のBLOGと、mixiの日記にも書いた。不特定対数の目になるべく触れることを狙ったからだ。するとコメントを書き込んでくれた人が6人いた。 そのうち2件は「私の言うことに反対」の人。3件は私の意見に「賛成」の人。そして、残る1件は「賛成だがしかたがない」というもの。とりあえず、これも「賛成」の票に入れておいていいだろう。その中には、外国に住む日本人もいた。その方はこの「日本の異常な騒ぎ」を外から見てとてもおかしい、と感じた、と書いてきてくださった。 コメント以外に、私に直接来たメールもある。わざわざメールをくれる人も、やはり賛成と反対の数を比べれば、「賛成」のほうが若干多かった。その内容はいずれも「よく言ってくれた」というものだった。 おそらく、マスコミの論調が、「炎上」の方向に沿った倖田バッシングになっていて、その根拠がどこか変だ、と薄々思っている人たちが少なくなく、その人たちが私の意見に賛成してくれたのだと思う。 「KY」などという単語が流行し、他人と違う意見は言いにくい世の中になったと同時に、それに対して「おかしい」と言える場所もまた整備されてきたのだ。 マスコミの中には、記事の最後に、以下のような意見を紹介したものもあった。たとえばZAKZAK配信で、mixiニュースに書いてあったものだ。 「倖田はいわば、元気のいい“世間知らずのお姉ちゃん”だし、オールナイトニッポンは本来、やりたい放題が人気を集めた番組。かつてはビートたけしの毒舌などがウケた。なのに、今は文化人でもない倖田がここまで叩かれる。自由な発言ができなくなる“言論統制”のこわさも感じますね」 また、日刊ゲンダイでは、「“35歳”羊水は一体どうなるのか」(2月5日掲載)という記事もあった。「35歳以上では羊水が腐る」というのは、「正確ではないが、全く間違っているわけではない」という内容だ。 しかし、大阪のオネェチャンである彼女には、「羊水混濁の確率が増える」なんて正確な言い方はもちろんできなかったに違いない。はしょって、略して、わかりやすく聞いて、わかりやすく言ってしまった、というのは、しょうがないのでははいだろうか? これらの一件から、「常識とか、論理的な思考とか、そういうことをちゃんと持っている人」だけではなく、「世の中の体勢=空気を読みつつ、その空気に違和感を感じたときは、流されずにちゃんと自分の意見を表に出そうと考える人たち」もまた増えている、そんな流れを私は感じた。 ネットは「炎上」のような、誰でも参加できる集団ヒステリーとも呼べるような現象を日常化した。コタツの上で簡単にヤジウマの1人になれる。でも、ネットは一方では深く静かに、マスコミなどに流されず、自らの感性と自らの論理を信じて生きている人にもまた、公に向かって意見を言う場を与えた。 少数意見かと思って声を出したら、じつはみんな同じことを思っていた、なんていうこともあるだろう。 自分の意見が世間の大勢とは違うな、と思ったとしても勇気を出して書き、それが載る、そんなメディアにオーマイニュースはなって欲しい。ニュースのたねだったとしてもいいではないか。それを読む人は、ひとりではない。ネットが支えてきたことは、きっとそういうことなのだ。
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