またまた無謀にも作っちゃいました。
飽きっぽさには我ながらあきれております。ともあれ、ブックオフの105円コーナーにあった清張さんを中心に、ということで。
しかし、清張の文庫というのはけっこう多い。ネットで調べてみようと思ったけど、おんなじのが別の文庫でも出てたりというのがいっぱいあったので、メンドウになってすぐにやめましたね。
たしか井狩春男という人の『文庫中毒』という本だったか、数えていたんじゃなかったかなあ。(どっかにあるはずなんだけど、出てきたら訂正します)
ファンのしゃぶり尽くしているよーなサイトもいろいろあるよーだけど、こういうとこに載ってないけどわたしは持ってるというよーなことはまずあり得ないだろうから、どうしてもありきたりのものになってしまうのは致し方ない。だってブックオフだもの。
文庫でなくて単行本も持ってるけどほんの数冊。ほんとはやっぱりカッパのが懐かしいよね。借りて読んだのもある。
そもそも、清張の文庫を全部なんか持ってるわけないし、かさばるから持つ気もない。持ってると思うけど、どこにあるのか分からん、というのもある。
再びそもそもだけど、「日本の黒い霧」に続く「深層海流」とか「現代官僚論」みたいなのが文庫になっておらん、と思う。例えばのことなんだけど。入っておらんのがいけない、というのではないけどね。そんなこと言ってたらかなりのものが入っておらん、と思う。でも文庫だけでもかなりありそうだから、いいんじゃないの。全集には当然入ってるだろうけれど、お金がないから買わなーい、っと。
あくまで文庫にこだわりたい、というのはウソ。金がないから買えないだけ。
したがって、タイトルは正しくは「金がないから文庫で…清張」。
そういうことで、漏れだらけ抜けだらけになるのはわかってるけど、気分転換にでもなればということでこのコーナー始めちゃいました。
この『松本清張の世界』なる文庫は、同名の「文藝春秋」1992年10月臨時増刊号が初出であります。
もっとも大きな違いは、雑誌にあった写真がぜんぶ省かれてる点。
それを除けば、小さいから文庫のほうがいい、と思う人が多いでしょう。
どっちにも付いていて便利なのは、巻末の年譜。小倉の現清張記念館館長の藤井康栄という人が作ってるものだそうだが、労作と言っていいのでしょう。
清張が亡くなったのは1992年(平成4年)の8月4日だけど、雑誌の年譜の終わりに「92・8・25 藤井康栄・編」とある。
亡くなって3週間で作り上げている。
文庫のほうもおんなじようなものだが、こちらは「藤井康栄・編」とだけあって日付なし。
文庫は2003年3月に出ました。
雑誌の発行から10年以上が経っておる。年譜が進化してる可能性はある。
亡くなって3週間で作った年譜は「墓所は八王子市の富士見台霊園の予定である」という一文で終わっているが、文庫では当然「墓所は八王子市の富士見台霊園である」となっている。
ま、こんなことは他にもいろいろあって取り上げてみてもしかたがないですね。
ひとつくらいあげておくと、雑誌では1929年(二十歳)の項に「この年、徴兵検査を受け、第二乙種補充兵」となっておったのが、文庫では、1930年のことに訂正されている。
研究者から指摘でも受けたのかもしれないがよく分かりません。
こういうこともある。
雑誌では、1909年12月21日、福岡県企救郡板櫃村大字篠崎で生まれた、とあったのに文庫では大字篠崎が削られている。
指摘を受けて消した、というふうには考えられないような気がするが、なぜ削除したのかこれもよく分からない。篠崎が誤りだった、ということが分かったということだろうか。だったら、どこなのか。などという疑問が起こったりする。どうでもいいような気もするし知りたい気もする。
年譜などというものを作る人の苦労がしのばれるというものであります。
雑誌の年譜は「作品と完全年譜」と銘打たれている。文庫では「年譜」のみ。
作品は、すべてに初出誌が明らかにされておって書誌的なデータを知りたい者は助かるのではないか。
しかしながらわたしは、文庫で十分、しかもブックオフの文庫で大満足、という者だから猫に小判ではあるけれども。
というか、これを眺めてて、文庫でも清張の代表的なものはいちおう読めると思ったですね。少なくともしろうとの読者であるわたしにはやはり手持ちの文庫で十分。
ただ、文庫の年譜によれば、初期の短篇にたとえば「鮎返り」(1955年)というのがあるそうである。それがどうした、ということだけど、雑誌の年譜の段階ではこれが落ちていた。
そうすると、光文社から出てるカッパの短篇全集みたいなのからも落ちているのだろうかとちょっと気になる。
そもそも、雑誌で落ちてたのがどうして文庫で追加されたのか、という疑問が起こる。「完全年譜」ということなのだから、出たあとだれかに指摘でもされたのだろう。むろん、完全と言ったって分からないものは分からない。
『松本清張研究』(砂書房)というのがあるが、これは1996年に創刊号が出た。それから2年間で5号まで出たが以後(たぶん)出ていない、というよーな雑誌である。年2回の予定であったらしいが。記念館が予算を削減した結果なのだろうか。
これに山前譲という人が「松本清張作品目録」というけっこう詳しいのを連載していて、これには著書目録も載っている。文庫には著書のデータはありません。
ということで、くだんの「鮎返り」に関する情報を確かめてみようと創刊号をさっきから探しているのだがどこにもぐりこんでいるのか、本の山をかきわけているのに見つからないのである。
以前、この創刊号に載った平岡敏夫の文章などの感想文を書いたりしたのだからそんなに奥には隠れてはいないとは思うのだが。肝心なときにないのでは持っておってもダメだと思った。
例の『松本清張研究』(砂書房)創刊号が出てきた。よかった、よかった、と言いたいところだけど、単に整理整頓ができてない者の自業自得なだけだから情けない。
出てきて開いてみると、ひどい思い違いをしてたことにすぐ気づいた。
たしかに「松本清張作品目録 第1回」とはある。だけど執筆者は平井隆一という人であって山前譲という人ではない。
作品目録の連載は平井という人が始めたものだったわけである。
ま、だれが始めようといいじゃないか、ということではあるが、不思議なことに第1回があるのに第2回がその後ないのである。
平井は「詳細は次号で」などと書いているから、連載をもくろんでいたことは確実であるにも関わらず、雑誌の第2号には続きが載っていない。
第2回にあたるものが山前譲によって掲載されるのは、雑誌の第3号である。
ただし、いちおう「松本清張作品目録」という題は引き継いでいるが、第2回ともなっていないし、執筆者も山前に変わってしまっている。平井という人は第1回だけ書いて姿を消した。
これはどうしたことか、と思ったですね。タイトルだけ同じで執筆者が変更されてる。
平井という人になにか不都合でもあったのだろうか、まさか山前と同一人物ではないだろうが、弟子筋にでもあたる人なんだろうか、など妄想しましたが結局わかりません。編集部から何のことわりも書いてない。
考えてもしかたがないので、中身を読ませてもらおうと納得する以外にない。
わたくし個人としては、平井のほうが(と言っても第1回だけだが)読んでて面白かった。
書誌をやる人というのはみんなこの水準なのか、その辺はよく分からないけど、たとえば「国立国会図書館にも発表誌が所蔵されていない珍しい未刊行作品」などというさりげないコメントからは、なんとなく元手がかかってるという印象を受ける。
それとか、「著者が所持しているものだけでも元版を含めて五冊ある」などはかわいいほうで、「「初版」「初刷」の形態をとっている単行本『夜盗伝奇』は著者が所持しているものだけでも元版を含めて十五冊ある」ということになると、ちょっと普通じゃないなという気がしてくる。
書誌をやるのならこれくらい常識、という世界の話なのかもしれない。まずコレクターであることが前提ということか。
これには単なる自慢話というよりもファンとしての執念のようなものみたいなのを感じさせる。ファンだったらこれくらい当然、と言ってるようにも聞こえる。
わたしなんかこの『夜盗伝奇』は中公文庫一冊きりで、ま、なんとでも言ってくれという気持ちになる。
ただ、文庫といってもあなどるわけにはいかんなあ、と思わされるようなばあいもある。
石坂洋次郎という人の『青い山脈』(新潮文庫)というむかしのベストセラーがあるけれども、これは周知の通り、新聞(朝日新聞)小説の戦後第一作、といわれてる作品である。
で、作中ガンちゃんこと富永安吉が読みふけってる文庫が、新潮文庫ということになっているが、これは最初は岩波文庫であったそうだ(象山社『日本文学発掘』)。たしかに手持ちの文庫では「ポケットから新潮文庫をとり出して」となっていますね。
新潮文庫に義理立てして変えたということだろうが、読書好きのインテリを装う学生がそのころ見栄で読んでる文庫としては岩波文庫のほうがやはりふさわしい。
新潮文庫ではガンちゃんの人物造型がゆがんでしまう、とまで言うと大袈裟か。
清張にもどりましょう。
文庫『松本清張の世界』巻末の年譜によると、1954年に「武田信玄」というのを書いている。芥川賞受賞の翌年である。
おや、と思ったのは「中学コース」に連載とあったからだ。1959年に「高校コース」(文庫では「高校上級コース」だが)に「赤い月」というのを連載していたりするが(のちの『高校殺人事件』ですね)、ともかく中学生むきのものを書いていた時期があった。
で、この「武田信玄」が「決戦川中島」に改題、ともある。
ところが、臨時増刊号の雑誌『松本清張の世界』では、「中学コース」連載はそのままだが、「乱雲」と改題、となってる。
えっ、改題は「決戦川中島」なの、「乱雲」なの、って思うのはわたしだけでありましょうか。
「決戦川中島」はその後講談社の青い鳥文庫におさめられているはずだが、未見。
ただ、山前譲の年譜では、1957年、「決戦川中島」は「少年少女日本歴史小説全集」(講談社)におさめられた、とある。1958年にも出している。二年続けてまったく同じものを出してるのも妙な印象を与える。
ともあれ、これが後に青い鳥文庫に入った、ということでいいのだろうか。
さてしかし、問題は「乱雲」である。1958年に東方社というところから「乱雲」という本を出しているのである。
繰り返せば、要するに、この「乱雲」と「決戦川中島」は同じものなのか、ということなのだ。
平井の年譜では、「中学コース」の「武田信玄」の「収録されている元版は、単行本『乱雲』(東方社)である」と断言されているからである。
ちなみに、平井はこの本を7冊持ってるそうである。スゴイなあ。
しかし、元版と言うけれど、コレだってほんとうかな、とつい思ってしまう。
先にも言ったように、すでに前年の1957年に「少年少女日本歴史小説全集」に入れて出しているからにほかならない。
さて、手元の『乱雲』(中公文庫)の解説をひらくと尾崎秀樹は「「乱雲」は昭和二十九年四月から翌年三月にかけて「中学コース」に連載された「武田信玄」が改題されたものと思われる」と書いている。この口調では初出にあたってはいないようだ。
二十九年四月にしても、たしかに平井の年譜では四月になっているが、藤井康栄の雑誌と文庫の年譜では五月であるというように、どちらが正しいのかはにわかには判断がつかぬ、といったところである。
プロに対してはなはだ失礼だけれども、「中学コース」の初出をきちんと見てるものと見てないものがいる、というふうに感じられる。シロウトの文庫読み程度ならともかく、初出にあたってない書誌なんて考えられない、なんちゃって。
年譜ばかりをじろじろ見ていてもしかたがないのでぼちぼち肝心の小説でも読んでみたい。なにせ長短あわせて700篇などと言われておるからぼやぼやしてると日が暮れる、いや人生が終わる、てなもんで。
で、はじめはやはり「或る「小倉日記」伝」かなあ、ということでタイトルを掲げてみたけれど、これについては別に言うことはないんですね。
書いてある通りでいいじゃないか、みたいな。
だからパスだよな、と思ってたら、書いてある通りと言ってもけっこうメンドウなことってあるもんだ、と思わされたのは、たとえば大塚美保という人の「『或る「小倉日記」伝』 「実物」出現をめぐって」(「国文学 解釈と鑑賞」1995年2月号掲載)という文章をたまたま読んだから。
これは小説だろうけれど、でも「伝」ってあるから、いわゆる客観的事実ってやつに基づいて書かれてあるんだろうなあ、無名の田上耕作という実在の人物の伝記の掘り起こしなんだろうなあ、と普通は思っちゃいますよね。
それでもいいわけで、たしかに文庫の解説で平野謙という人は「モデル小説あるいは伝記小説」と言っております。
ただ、通常の実名小説とやや趣を異にしているのは「作者の強い自己投影」があるという点だと平野は言うわけですね。そういうことになると、自分を捨てて完全なる黒子に徹するという伝記作家の方法ではなくして、目的は「自己の分身の発見と共感」をいわば私小説風に綴ることってことになる。
つまり、田上耕作の「酬われざる生涯」あるいは「無名の一好事家の哀切な生涯」、要するに田上の「悲劇性」への主体的な共感、というものが「或る「小倉日記」伝」を小説にしている、ってことなんだそうです。
なんか息苦しい言葉遣いになっちゃってエンターテインメントの感想にふさわしくなくなっちゃいそうだけど。
ま、要するにこれは伝記ではない、小説なのだ、となんのことはない振り出しに戻っただけです。
大塚の文章にあるように、細かいこといえば、「実在の田上耕作に関する情報との不一致」についてはすでに調べがついてる。
母ひとり子ひとり、という家族構成でもなければ、生年も没年も微妙にではなくかなり違う。
内容面で言えば、なんと田上の小倉時代の鷗外追跡じたいが戦後の清張自身のものが追加されたものである、というような作品の根幹に関わりかねない事実もある。
こういうことにはひとまず目をつむってあげればいいじゃないか、「日記実物の出来により耕作の努力は徒労と化した」という清張の把握は動かないし清張はそこのところを書きたかったんだ、という読み方もあり得るわけです。
はたしてそうだろうか、と大塚は言うわけですね。
そもそも、「小倉日記」の実物が発見されたからといって、田上がかりに生き延びていても彼の「採集記録」が無化されるわけではないのであって、にもかかわらず無化されたと断じる清張は「明らかに『小倉日記』という「文書史料」の価値を重く見積もりすぎている」し、「主人公耕作について語る清張は、「採集記録」に対し「文書史料」に圧倒的優位を認める権威の論理にあっけなく従順であり、その事実が当の小説によって暴かれていることに気付いていなかった」というのが大塚の結論であります。
平野は先の文庫解説で「世間を見返してやりたいという現世的な保証を学芸の世界に求める」という志向は同情すべきではあろうけれども、しかし、そういう姿勢だけでは「学芸の世界の方でも現世のミニアチュアとしての側面しか扉をひらいてみせぬ」わけで、したがってトラウマもどきの「コンプレックスの悪循環」から脱出することは難しかろう、などと言っております。
そして何よりも大事なことは、清張はかわいそうな彼らのこのような「限界を洞察」していたことだ、と。
どっちにしたって、気の毒なのは田上耕作ってことになるのかなあ、そうでもないのかなあ、なんて思っちゃいました。
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この本におさめられている文章は、はじめ雑誌「松本清張研究」(砂書房)に連載された、とあとがきに書かれている。わたしこの雑誌(全5冊)を持ってはおりますが藤井という人のこの文章をまともに読んでいなかったんですよね。最大の理由は文章がネタばれになっていたから、だろうか。
ともかく、この雑誌の文章をもとにして出たのが藤井のこの本、です。
おなじよーな経緯をたどって本になったものに仲正昌樹という人の『松本清張の現実と虚構』(ビジネス社)というのもあります。
で、藤井は昭和三十年代というのは要するに清張の時代だった、という。では、この昭和三十年代とはどういう時代だったかというと高度成長期の時代である、という。じゃあ、高度成長期の時代ってのはどういう時代だったかというと「極端な格差が生じた時代」であった、という。いわゆる「事件」というのはこの「格差」が背景になっておる、と。
同時にだね、高度成長期の時代ってのは「物質的価値を至上視する高利的な風潮」の支配する時代でもあった、と。お金とか点数こそすべて、という時代です。
「格差」が事件の温床であったとしても、かつてなら道義心や正義感などの精神性が「事件」への歯止めとなっておったのに「高利的な風潮」によってそれがほとんどなくなった。
こうして、三十年代というのは「歪んだコンプレックスだとか、うす汚れた思い上がりだとかの清張お得意の情念がどんどん事件へと現実化してしまうきわめて特異な時代だったのだ」、というよーなわけで、「高度成長期と清張との出会いがすべてだった」と藤井は言っておるのですね。
実はわたくし、このたびはこの藤井の本について書こうというつもりでははじめはなかったのです。
唐突だけれども、橋本治という人の本で『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫)というのがあるけれども、このなかに「松本清張を拒絶する三島由紀夫」というタイトルの一文があります。
これがなかなかに興味深い、ということで。
もう少し言えば「松本清張を拒絶する三島由紀夫」という文章の前に、この本の冒頭の「序」という文章ですでに橋本は清張に言及している。とにかく、三島と清張の奇妙な取り合わせなんだよね。ここに清張と橋本治のやはり奇妙なと言っていい取り合わせがからんでくる。
順序として、まず「序」からだけど、次のようなことが書かれている。
十五歳の橋本は三島の小説の読書初体験として「禁色」に手を出したが読みきれず途中で投げ出した。橋本が高1の終わりのころのことで昭和39年春。
ところで、現在からはとても信じられないが、このころわが国は空前の全集ブームだった。一家に一セット。日本文学全集にかぎってもいろいろ出ておったわけだが(現在ブックオフでこのころの全集の端本が1冊105円也で買える)、その中から橋本が選んだのは河出書房新社から出た全集「現代の文学」で、おなじころ出た編者が高級で豪華に見えた中央公論社の全集「日本の文学」のほうは買わなかったのである。定番をそろえると当然似たりよったりになるが、その中で各社は、微妙だけどハッキリとした特色を出そうとしていたわけだ。
買わなかった理由は、中央公論の「日本の文学」には松本清張が入ってなかったからだ、と橋本は言っている。そこで、清張が第一回配本であった河出の全集を橋本は買った。
蛇足ながら、中央公論社の「日本の文学」が出始めたのは昭和39年のこと。東京オリンピックの年、である。
橋本によれば河出の全集は昭和38年から出たという。昭和38年に、昭和39年から出る予定の中央公論のほうの全集の内容をあらかじめ知っていないと清張収録を基準にして購入したい全集の選択はできないはずと思うのだが。
ともかく「この時の私が三島由紀夫より松本清張を選びたかったということ」なんだと橋本は言っている。
ま、そんなことがこの本のはじめに書かれていて、次は問題の「松本清張を拒絶する三島由紀夫」ということだが、この文章を橋本は、中央公論社の全集「日本の文学」になぜ松本清張が入らなかったのか、というエピソードを紹介することから始めている。
もし清張が入ってたら少年橋本は河出ではなくて中央公論の全集を購入しただろう、ということだ。
で、なぜ清張が入らなかったか、編者の一人であった三島が反対したからである、という。これは中央公論の社長の証言である。むろん中央公論は入れたかった、だが三島が断固反対した、三島は理由を言わずにとにかく反対したというのである。そして、今も反対の理由が分からない、のである。
ということで、以下このエピソードを発端として三島の清張拒絶理由について橋本のかんがえたことが述べられていく展開。
ところで、橋本の三島論だけど私にはあんまり面白くない。ひとつは私が三島にまったくと言っていいほど興味がないからだろう(ちなみに身内の中学生は「春の雪」が面白かったと言っていた)。私は橋本に清張論を書いてもらいたいですね。
それはともかく、橋本の言うように、三島が清張を「拒絶」したというけれども、やはりなんとも不可解な話なのだ。
それは、橋本が言うように「三島由紀夫の文学と松本清張の文学は、おそらく、ありとあらゆる意味で重ならない」からなのであって、言ってみれば拒絶の関係さえも成り立たないくらい無関係なふたりなはず、という常識が三島の拒絶を分かりにくくさせている大きな原因ではあろう。
だが、三島と清張の「共通点」がかろうじて「一つだけある」と橋本は言う。
それは、どちらも「現実の事件に取材した」小説を書いたという点においてだ。
が、どちらも「現実の事件に取材した」小説を書いたが、その方向が「一八0度違う」のである。
それはどういうことかというと、清張は現実の事件を題材にして、実は「真実はこうだ」と言うが、三島は「現実の事件を逆立ちさせて、完全に「自分の世界」を幻出させてしまう」のである。
これではたしかに真反対ではあるね。三島には「現実」なんてどうでもよかった。
そこで問題はなぜ「拒絶」か、である。
清張の小説に比べたら、三島は自分の小説が「子供のようなこじつけ小説」に見えたのだろう、と橋本は言う。三島は拒絶せざるを得なかった、か。
橋本の言ってることをほぼなぞってきたつもりだが、わたしにはこの橋本の言うことも正直言って分かりにくい。
結局、三島が理由はよく分からないがとにかく清張を全集に入れるのを拒絶した、という事実だけが残ってしまうようにわたしには思われるんだよね。
橋本の説明では、ではなぜ清張なのか、ということがやはり分からないと思う。他の作家ではなくてなぜ清張なのか。
中央公論社の全集「日本の文学」に収められた作家は当時の権威によって選ばれた権威あるリストである。通俗作家とか大衆作家とかという烙印をおされたものははじめから問題外としてはずされておったはずである。
三島はあえて清張をはずしたのであって、はじめから問題外ではなかった、と思う。
当時の全集ブームのことだから、入れてもらうもらわないは生活にかかわってくる。編者というのはそういうことにも配慮せざるをえないだろう。
三島以外の編者(谷崎、川端、大岡など)の清張拒絶にかんする考えも知りたいとこだが、ともかくあのころの清張は生活など心配しなくてもちっともかまわない超売れっ子だった。
となると編者は清張の前にたちふさがる文学的権威以外の何者でもないことになる。どんなに売れても清張の作品は三島にとって「日本の文学」ではなかった、か。
が、本質的には三島と清張のそれぞれの文学の中身ということにやっぱりなるだろうね。
で、ここではじめに言った藤井淑禎という人の『清張ミステリーと昭和三十年代』(文春新書)という問題が気になってくる、というわけである。
全集「日本の文学」が出たのは30年代の終わりのこと。
橋本治の言う「現実の事件に取材した」小説を書いた作家としての三島と清張は、いずれもこの昭和30年代において作品を量産し、しかもそれらが大いに売れたのである。
なぜ清張の作品が売れたのか、ということについては藤井の本に書かれてあるが、なぜ三島の本が売れたのかについては今のわたしには手がかりがない。
拒絶の秘密は、ふたりのそれぞれの昭和30年代という時代との関係にある、よーな気がするのです。
ちなみに三島が「豊饒の海」の連載を開始するのはまもなくであり、清張の「昭和史発掘」もほぼおなじころ連載が始まる。だがむろんこれらは昭和40年代の出来事にほかならない。
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