或る「小倉日記」伝

昭和15年の秋、詩人K・Mは未知の男から封書を受け取った。差出人は小倉市博労町田上耕作とあった。手紙の主は、自分は小倉に居住して、小倉時代の森鷗外のことを調べている。別紙の草稿はその調査の一部だが、このようなものが価値があるか先生に見ていただきたいというものであった。Kはこれまで鷗外に関した小説や随筆をかなり書いていた。Kが興味を持ったのは、この手紙の主が小倉時代の鷗外を調べているということである。鷗外は明治32年から三年間、小倉で過ごしているが、この時書いた日記の所在が現在行方不明になっている。この田上という男は丹念に小倉時代の鷗外の事跡を探して歩くといっている。当時、鷗外と交友関係になったものは皆死んでいる。根気のいる仕事だ。Kは激励をこめた返事を田上に送った。

田上耕作は明治42年に熊本に生まれた。熊本には国権党という政党があり、この党員に白井正道という者がいた。白井にはふじという美しいので評判の娘がいた。彼女に対する縁談は降るようにあったが、白井の政党的立場からどれもまとまらなかった。白井が甥の田上定一にふじをめあわせたのは、全く窮余の策だった。二人は結婚して一男を産んだ。これが田上耕作である。

この子は六つになっても言葉がはっきりせず、よだれをたらした。そのうえ、片足の自由がきかず引きずっていた。田上定一が九州鉄道会社にはいったのは白井の世話による。一家は小倉に移った。そして定一は耕作が十歳のときに病死した。そのとき、ふじは三十歳だった。再縁の話は諸方から持ち込まれたが、ふじは断った。彼女は生涯耕作から離れまいとし、再婚の意を断った。

耕作は誰が見ても白痴のように見えたが、成績はずば抜けたものであった。そのころ白井正道は死んでいた。一生を政治活動に狂奔したため、ふじに残す遺産などなかった。成績のよいことは耕作自身も世間に対して自信らしいものをつけさせたが、孤独は免れない。彼は文学書を好んで読むようになった。耕作の中学時代の友人に江南鉄雄という男がいた。江南は文学青年であったが、ある日耕作に一冊の小説集を持ってきた。「これは森鷗外の小説だが、この中の「独身」というのを読んでみろ。鷗外が小倉に住んでいたころのことが書いてあるから、面白いよ」そして耕作は鷗外の枯淡な文章に心をとらえられる。

耕作は死ぬまで収入のある仕事につかなかった。ふじの裁縫の賃仕事と家作の家賃で生計をたてた。耕作は六尺近い長身で、口はたえず閉じたことがない。だらりとたれた唇は、いつもよだれで濡れ、片足を引きずって歩くものだから、道で会った者は必ず振り向いた。痴呆にしか思えなかったのである。そのころ小倉に白川慶一郎という医者がいた。どこの都市でも一人はいる指導的な文化人だ。白川を知っていた江南は耕作を紹介した。耕作が白川の書庫に自由に出入りしだしたのはそれからだ。耕作は毎日来て、本を読んで過ごした。白川は毎月の新刊書を買った。

そのころ、岩波版の「鷗外全集」が出版された。昭和13年である。「鷗外全集」第24巻後記は、鷗外の小倉時代の日記の散逸したしだいを載せている。鷗外は明治32年6月、小倉に赴任し、明治35年3月に東京に帰るまで、この地で送った。鷗外が小倉に来たときは40歳という男盛りである。三年間の小倉日記の喪失は世を上げて惜しまれた。耕作の心を動かしたのはこの事実を知ってからだ。耕作は鷗外の「小倉生活」を記録して、日記に変えようと決意し、これに一生取り組むのだと決めた。これを聞いて一番喜んだのは、ふじだった。わが子が初めて希望に燃え立ったのだ。何とかして成功させてやりたかった。

不自由な体で鷗外ゆかりの人と会い、耕作はその成果をKに送った。Kは耕作の研究を有意義なものとほめた。「耕ちゃん。よかったねえ」とふじは声を弾ませた。白川も江南も喜んでくれた。しかしあるところで「そんなこと調べて何になります?」と言われ、その言葉は耕作の心の深部に突き刺さった。不意に自分の努力が全くつまらなく見え、急に突き落とされるような気持ちになった。このような絶望感は以後ときどき起こって、耕作が髪の毛をむしるほど苦しめた。

ある日、耕作が久しぶりに白川病院に行くと、山田てる子という目鼻立ちのはっきりした看護婦がなれなれしく近づいてきた。「田上さんは森鷗外のことを調べているって先生がおっしゃたけど本当なの」二人は一緒に鷗外ゆかりの人と会いに行く。耕作は自分の醜い体を意に介さないようなてる子の態度に少なからず迷った。初めての経験だった。彼の家にてる子のような若い美人が遊びに来ることはほとんど破天荒なことだった。ふじはてる子が来ると御姫様を迎えるように歓待した。

耕作はますます鷗外の小倉時代のことに熱中するようになった。それは山田てる子は縁談を断ってなおさらであった。てる子はふじに「いやねえ、おばさま。そんなことを考えていたの」と声を出して笑った。彼女は後に入院患者と結婚した。このことから母子の愛情はいよいよお互いに寄り添うようになった。耕作の資料は嵩を増していったが、戦争が進むにつれ、彼の仕事は段々と困難を加えてきた。敵機が自由に焼夷弾を頭上に落としているとき、鷗外も漱石もあったものではなかった。

戦争が終わると、いっそう悲惨であった。彼の病状は少しずつ昂進していたは、食糧の欠乏がいっそう症状を悪化させた。歩行は困難となり、耕作は寝たきりとなった。ふじはヤミ米やヤミ魚を買って、耕作に食べさせた。江南はよく耕作を訪れて「あれを完成させろよ」と言うと、耕作は、このごろはだいぶいいから、またぼつぼつはじめようとおもっている、というような言葉を、わかりにくい言葉で言った。昭和25年の暮れになって、急に彼の衰弱はひどくなった。夜明けころがら昏睡状態になり、十時間後に息をひきとった。ふじが熊本の遠い親戚の家に引き取られたのは、耕作の寂しい初七日が過ぎてで、遺骨と風呂敷包みの草稿が、彼女の大切な荷物だった。

昭和26年2勝ち、東京で鷗外の「小倉日記」が発見されたのは周知の通りである。鷗外の子息が疎開先から持ち帰った箪笥を整理してみると、この日記が出てきたのだ。田上耕作がこの事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福かわからない。

 

 

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