試作型思索と詩作 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-02-07

想像力がやさしさになるとは限らないという悲劇

相手の気持ちを分かろうとすること、についてここ数日の間考えることが多い。

自分が接客のバイトをしているから、というのもあるが、某はてな界隈などネットの各所で、なんとも言えない気分になる発言を見たりするからだ。

(具体的にあげていいものか、かなり迷いましたが…下記の某エントリです)

http://d.hatena.ne.jp/hashigotan/20080206/p1

相手がどう思うのか想像できないのだろうか?とそういう状況を見るたびに不思議に思うのだが、実際のところは相手がどう思うか充分に分かっているからこそ、そういう発言をする人間が多いのだろう。

傷ついた経験、傷つけられた経験があって、相手の痛みが分かれば人を傷つけようなんて思わないはずだ、と世間一般では子供に教えたりするが、現実はそうじゃないことも多い。

傷ついた人間が、以前の情けない自分を払拭したいという思いから、かつての自分と同じように傷ついている人間を執拗に攻撃することは珍しくない。

それは、他者への攻撃という形の自傷行為だ。殴られたらすごく痛いと分かっているから殴るのだ。

これが、虐待の連鎖なんて形で語られることが多いのだけれど、そこまで行かなくても、こういう事象は日常で、ネット上で、ありとあらゆる形で目にすることができる。他者と比較することでの優越感のような軽いものから、そこからエスカレートした暴言、煽り、脅迫のようなものまで、自分達の住む世界のそこら中に溢れかえっている。*1

こういう状況を目にするたびに自分は、「ああ、不毛だなぁ。」と悲しい気分になる。

この状況は誰にとってもプラスになることはない。殴っている本人は殴ればほんの一瞬だけ、心の平安を取り戻せるが、殴ったからと言って過去の自分が払拭できるような成長をすることはできない。殴られた方は、それでまた新たな傷を作ることになる。


人間の想像力に希望をもらって、人間も捨てたものじゃないな、と思うこともあれば、想像力があるが故に起こる残酷な状況に悲観的になることもある。

コミュニケーションにおける想像力は諸刃の剣なのかもしれない。

*1:もちろん、そういう行為の全ての原因がそうだとは言えないが、そうなんだろうなと思わせるものが多いのも事実だ。

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