2008-02-07
■[考える]「他者」にあったとき、僕らは戦うしかない
仕事で毎日残業続きで帰って寝るだけの日々です。休日は日曜しかありません。手は荒れ放題で写真では見え難いかもしれませんがあちこちに傷が入ってしまいました。働く事とはこうゆうことです。実存さんみたいにメンヘラで障害等級二級とって哲学書を読み漁り悠々自適の療養生活を送るだけの人には想像もつかない世界でしょうけどね… 手足がついてりゃ働けるんだ。働かない人間は、人間の屑だよ。
はてなブックマーク - 働く事… - heartbreaking.
2008年02月06日 jituzon 仕事 それはお疲れ様です、としか。親が裕福だったり宝くじで3億円当たったりしてもはしごたんは働くのかしら。「働かざるもの食うべからずは最低の格言」と西之園萌絵と犀川教授は言ってるわ。人間の屑でも構わない。
本来だったらこういうやり取りに第三者は口出しすべきではないし、口出ししたら必ず両方を不愉快にさせてしまうことは分かっています。
でも何か発言したいから口を出す。僕は心根が腐っていますので。
この発言に対して、ほかのはてブコメやはてダの人たちは、「他人の幸せを妬んでも自分の幸せは掴めないよ」とか「働くことが美徳であることを誰が決めた」とかそういう反論があります。
僕だって、言おうと思えば、例えばこれまでに仕入れたシャカイガクとかの知識を生かして、「そうやって過剰に労働することを美徳とすることによって、あなたはその過剰労働を『これは美しい行為なんだ』と耐え抜いているのだろう。でもそれは、自分で自分を搾取していることに他ならない。そしてその搾取された分は資本家の懐に行く。つまりあなたは、『自分は自発的に美しい労働をしているんだ』と思い込んでいるかもしれないが、実際は資本家が作り出した搾取システムの中で搾取されているだけなのだ。目を覚ませ!」とか言えるかもしれない。でも言わない。何故か?
僕は思うからだ。問題は全くそんな所に無いんじゃないかと。
id:hashigotan氏は、それこそ見事に人々の怒りや憎しみを買う方向へと突き進んできた。「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろでは大多数が「おめでとう!」とまるでエヴァのTV版最終話のラストシーンのように拍手を浴びせかける「ある個人史の終焉」という記事につばを吐きかけ、それで一部の非モテ・非コミュの支持を得たかと思えば、今度はインターネットで知り合った相手との交際の詳細をブログに挙げ、そのような人々からも恨みを買う。他にも色々gooブログ騒動とか挙げればきりが無い。
当然それらの行為は論理的に見れば一貫性を欠いていると言わざるを得ない。でも、はっきり言って僕はそういう表層の論理なるもので人間が行動することなんか、ほぼ無いんじゃないかと考えているから、それはたいした問題ではない。そういう表層のイミテーションを取り除いたとき、彼女の意図は明らかではないだろうか?
つまり、
みんなの敵=他者になること
他者
以前sjs7は、ブログでこんなことを言った。
その「他者性」っつーのを語る時に、わざわざ哲学とか思想とかそういうのを持ち込んで、殊更抽象化しようとする傾向が気になる。
いや別に昔の人が考えたことを利用するのはかまわないのよ、というかそれがない思想なんか捨てちまってもかまわないようなもんだと思う。
ただ、もしその利用する意図が、その「他者性」をよりビビットに理解するためでなく、その言葉をややこしくし、自分自身からかけ離れた一般論的な話として使う為だとしたら、それはやっぱり、欺瞞なんじゃないのかと、考えざるを得ない。
例えばよくこう言う人が居る。
「私達は思想の中で常に他者の他者性を考え、それを尊重する、そういう回路を見いださなければならない。」
まぁ、結構な言葉だよ。
でも、そういう風に抽象的なこと言ってる人に、僕はこう聞きたい。
そう発言して、何か具体的に効果が得られてる?と。
思想の中で他者性ってのはつまりこういうことだ。
ある思想を訴えるためにデモ行進をしている人達が居る。別に思想は何でも良い。ホワエグ反対でも良いし、フリーターの地位向上でも良いし、女性・障害者・外国人の権利向上でも良いし、反戦運動でも良い。
そういうデモをしてる時、周りでこうつぶやく人が居る。
「道路の真ん中を歩いてたりするなよ、邪魔だろ」
「そんな暇があるなら働け(仕事探せ)」
「もっと周りの迷惑とか考えろよ」
「普通に日常生活を送っている人の邪魔をするな」
「こういう一部の変な人達のせいで、真面目に生きている多数派の人達が変な目で見られるんだなぁ」
これが「他者」ですよ。どうも反権力とかそういうことを言う人って言うのは、他者っつーと、在日外国人とかそういう人みたいに、権力を構築している共同体とかそういうのを突き崩していく善の他者しか考えないけど、実際は、そういう人は結構自分と同じこと考えてるんだから、そんなにかけ離れた他者ではないわけで、むしろこういう、自分たちと真に敵対するものこそ、他者的な他者として考えるべきものなわけ。
投書欄 僕たちは、今ここで生きる、日常で他者に出会わなくちゃいけない
「他者」は何処にいるのか?
ある人は「それはインドの山奥にある」と言い、
ある人は「それは日本の古来からの伝統にある」と言い、
ある人は「それはアニメの中にいる」と言い、
ある人は「それはイラク(パレスチナ・アフガニスタン・ソマリア)にいる」と言い、
ある人は「それは隣国の民にいる」と言い、
ある人は「それは在日外国人の中にいる」と言い、
ある人は「それは《ここ》ではない《どこか》にある」と言う。
でもそれは違う。
「他者」っていうのは、僕らのまわりに居るものなんじゃ、ないのか?
例えば、僕らが笑う時、隣で泣く人が居るとして、
そういう人こそ、「他者」なんじゃ、ないのか?
僕は、例え彼女がどんなことを言ったとしても、id:hashigotan氏の言動を断固として支持する。
なぜなら、それを見つめられない限り、僕らは決して、上の記事で言ったような、本当の意味での「他者」にめぐり合えないと思うからだ。
実は、先日僕は「A」という本と、映画を見た。
僕は、この映画で描かれるオウムの、ある側面がid:hashigotan氏と似ているのではないかと感じた。といっても、それはオウムやid:hashigotan氏の性質というよりは、それを見つめる社会の性質によるものだが。
それは、あくまで「今は洗脳されているけど、洗脳が解ければ戻ってくる私たちと同じ市民」か、そうでなければ「存在することすら許されないモノ」としてしか、社会に扱われないという点だ。つまり、「同じモノ」か、その存在自体を否認するか。
もちろん共通点はここだけだ。差異を挙げようとすれば沢山ある(例えばサヨクさんはオウムと聞くと「みんな叩き過ぎだよ!彼らにも信仰の自由があるんだ」とか言って擁護する。でもid:hashigotan氏は一切擁護しない。「他者性」とやらをさんざん推奨しながらね。まったく、反吐が出ます♪)。
でも、僕はその「他者」という共通点が、実は今一番重要なんだと感じているから、あくまでそこに集中して考える。
何度でも言おう。僕らの社会は、「他者性」を擁護しようとか言いながら、その実「他者」と相対することをひたすら避け、「他者」を自分と同じモノだと、自分といつかは一つになれるモノだと思い込もうと必死だ。フィクション作品を見てみよう。例えばあの絶賛された『オトナ帝国の逆襲』を見よ!
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2002/11/25
- メディア: DVD
これなんかまさに、「他者」性に怯え、それを何とか必死に自己に取り込もうとした、もっともみっともない、僕からすればイライラムカムカする作品だ。
この物語の構造は、敵側の陣営である「オトナ帝国」を、味方側である野原一家が改心させるという展開だ。そして、この作品における「敵/味方」の区別が全くはっきりしていない。敵側は本気でコドモ側を叩き潰そうとしないし、コドモ側も敵側、そしてその敵側の陣営に入った親たちをを「敵=他者」として認めず、あくまで「取り戻す」などと口走る。ここに、「オウムから子どもを取り戻そー!」と叫ぶ人々の姿を重ね合わせてみよう。
そして、このアニメはご都合主義的にその敵側を改心させて、「敵側も私たちの21世紀的思想を受け入れ、みんな仲良くなりました」的な展開で終わらす。全く醜悪だ。*1あくまで「他者」を自己に統合しようとする。僕からすればそれは、それって結局のところ、あの映画版エヴァのアヤナミとほぼ同じに見えるのだが。
実は、この映画の醜悪さにこそ、まさしく、「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろという消臭剤が必要だったんだろうなと、僕はいまさらながらに思う。
殊ほど左様に、社会は「他者」をみっともない真似をしながら拒絶する。だからこそid:hashigotan氏はあそこまでしなきゃならないのだろう。
人は生きる限り「憎しみ」を受ける
そして、実は僕はこのid:hashigotanの記事にid:jituzon氏が寄せたブクマコメントにも感動した。
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2008年02月06日 jituzon 仕事 それはお疲れ様です、としか。親が裕福だったり宝くじで3億円当たったりしてもはしごたんは働くのかしら。「働かざるもの食うべからずは最低の格言」と西之園萌絵と犀川教授は言ってるわ。人間の屑でも構わない。
このコメントはid:hashigotan氏を、まさに「他者」として認識しているように感じる。人間の屑でも構わない。という言葉がまさにそれを象徴しているだろう。つまり、あなたという他者の評価基準と私の評価基準は違う。私はあなたに恨まれようが憎まれようがなんとも思わないと、宣言しているわけです。
というか、むしろ何で今までid:hashigotan氏と相対してきた人がこう言わずにid:hashigotan氏に変に同情したり、あるいは「そんなこと言うのはよくない」*2と言ってきたのかが理解できない。といいつつ、実は理解しているんだけどね。
つまり彼らは「自分を憎む人間がこの世界に存在し続ける」ことに我慢できないのだ。
だが、それははっきり言って子どもの駄々と言うものだ。というか、たとえid:hashigotan氏がいなくなったって、例えば先進国の住民ならば発展途上国の住民から憎まれる。あなたがこれらの企業から物を買うのなら、あなたはパレスチナの人たちから憎まれる。あなたがもし今持っている500円を募金せずに漫画を買ったりするのに使うなら、あなたは予防注射を待つ子供から憎まれる。例え何をしようと、この憎しみの連鎖からは人は逃れられないのだ。
ここで人は「宗教」に入るわけだ。つまり、そういう情報を自ら遮断して、「僕は普通の善良な一市民に過ぎないんだから、だれも傷つけてないし、ゆえに誰からも憎まれない」と。つまり、結局の所情報を遮断して洗脳するとされるあのマスメディア上に現れる「オウム」と大差ない。*3
僕らが、もし真摯に生きようとするのならば、「憎しみ」を感受しなければならないのだ。つまり、自分が憎まれていると実感しながら、なおかつ「それがどうしたって言うんだ。おら、もっと憎め!」と言う強さ。はっきり言おう、この強さが無い人間は生きている価値など無い。憎しみを持つ人間と、その憎しみが保持されたままでも向き合う。そして、憎しみがもし実際の行動となって現れたなら、躊躇無く相手を倒せ。ボーちゃんはあの時ケンを確実に轢き殺すべきだったのだ。それが生きるということだ。
まるで、『風の谷のナウシカ』の最終巻でナウシカがあのオームの匂いがする人々を殺したように、『寄生獣』の最終巻でシンイチが寄生獣を殺したように。
……最後id:hashigotan関係ねぇ!?
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