最近、千歳空港で、日航のパイロットが管制官の指示を聞き違え、滑走路に別の飛行機がいるうちに離陸しようとして、あわや追突というニアミスを起こすという事件がありました。ちょっと長いですが、朝日新聞のウェブサイトから引用します。
「事故調査関係者やJALによると、管制官が502便に出した指示は、「expect immediately takeoff」(直ちに離陸するよう備えよ)という英語だった。国交省監修のマニュアルにはない表現だが、混雑時などに国際的に使われているという。この表現では、冒頭の「expect」(予期する)を聞き落とした場合、「immediately takeoff」(直ちに離陸せよ)と受け取れる。調査関係者は、操縦士がこの後段部分に影響され、離陸を許可されたと誤認した可能性があるとみている」
で、「expect immediately takeoff」ですが、これでは英語になっていません。「expect immediate takeoff」なら、まだわかるけど。また、無理して読めば、「滑走路に進入したら、直ちに離陸せよ」と、とれなくもない、すごく誤解を招きやすい表現で、こんな指示の仕方が許されているなんて驚きです。「prepare for immediate takeoff」とでもいうべきところでしょう。ほんとうに、ヒューマンエラーを防ぎたかったら、「proceed to runway and wait for further instruction」とでも言って、実際に離陸を許可するまでは「takeoff」なんて言葉を使わないことだと思います。
そもそも、日本の飛行機なのに、日本の空港の管制官となれない英語でやり取りするのがおかしいんじゃないでしょうか。外国の飛行機も離着陸するわけだから、仕方がないといえば、仕方ないんでしょうけれど、ヘンだといえば、かなりヘンな話です。英語でしゃべらナイトなんていって、何でも英語でしゃべればいいってもんじゃないんじゃないかなあ。世界共通語としての英語なんて、産業革命以来、まずイギリスが帝国主義の権化として世界の大半を植民地化し、大戦以後はアメリカが資本主義の名のもとに、さらに徹底的に地球規模の経済侵略をした副産物でしょう。日本人は、よく英語が下手だとか、なかなか国際化できないなんていわれますが、これは、なんといっても、日本がアフリカ、中東、インド、東南アジア諸国のように、早い時期に西欧列強の植民地となり、自国の言語文化を奪われ属国化されるという経験を経ていないことが大きいのだと思います。これは、むしろ、誇るべき、幸せなことです。もちろん、その逆に、あろうことか自らが帝国主義を振り回して、近隣諸国を侵略する道を歩んでしまったことは、痛恨の極みではありますが。
たとえば、Youtubeなんかで、上手な人のギターを聴いていると、「あなた、いったいなに食べて、そんなにギター上手くなったんですか?」って、聞いてみたくなりますよね。なりませんか? わたしなら、食べ物でギターが上達するなら、馬糞(マグソって読んでください。バフンじゃなくって・・・)だって食べますけれど。そういえば、高校時代に、辞書のページをちぎって食べて英単語が覚えられるなら、これから毎日、弁当のおかずは研究社の英和中辞典にする、なんて言ってた友人がいました。まあ、ギター上達のための献立を考えている暇があったら、練習したほうが良いですよね。でも、練習だってただ闇雲にすればよいというものではありません。何の考えもない練習をいたずらに繰り返して、「いつかきっと、すばらしいことが起こるはずだ」と夢を見ていても、はかない結果に終わることは、たいていのアマチュアのよく知るところです。ゼロの成果を無限に積み上げても、その総和は所詮ゼロなのであって、どんなに小さくとも、一回の練習で何がしかの成果をあげることが、とても重要だと思います。練習を終わってギターをケースにしまうときには、練習前に比べて、ほんの少しでも進歩したかどうかを、自分に対して真摯に問いかけなければなりません。どひゃー、これじゃあ、馬糞を食らう求道士の趣です。いや、ほんとは、こんなうざったいことを書きたかったのではなくて、上達にもタテとヨコがある、という話をしたかったのですけれど、話が始まる前に、すでに脱線しています。凹。
YoutubeをPiazzollaで検索したら、最初のページに出てくるくらいですから、知っている人も多いのでしょうけれど、才気あふれる、そしてまた、なんとも不思議なデュオです。このリベルタンゴには、かなりハマりました。ホームページは、こちら。どのビデオクリップも面白いですけれど、ベートーベンの月光をバックに、Youtubeに寄せられた実際のコメントをネタにしたコントも最高です。最近のNYの若いミュージシャンって、こんなことをして遊んでいるんだなあ、と思うと、ちょっと新鮮な気分になります。
このふたり、ジュリアードの同級生デュオなんですね。のだめの留学したパリのコンバトのピアノ科の学生たちも、こんな感じなんでしょうか。のだめヨーロッパ編では、役者さんたちはずいぶん達者に弾き真似をしているように思いましたけれど、やっぱり、こういうビデオを見ると、本物のリアリティーにあらためて驚かされます。
えーと、まずは、前回の宿題から。
水溜りに氷が張るときには、エントロピーが自発的に減少しているのではないか、ということを書きました。もしそうなら、これは、熱力学の基本原理に反する超自然現象だ、ということになりますが、もちろん、そんなことはありません。水溜りの水分子の持っていた乱雑さは、氷ができるときに、冷たい空気が熱として持って行ってしまっただけです。そのぶん、空気は少し乱雑に、つまり、暖かくなりました。ですから、宇宙全体のエントロピーは、私の家の前の水溜りに氷が張ったからといって、けっして減少したわけではないのです。そういうわけで、エントロピーは常に増大する、という法則には、「宇宙全体の(閉鎖系の)エントロピーは・・・」という風に、ただし書きをつけなければいけません。とはいえ、われわれの住む宇宙が本当に閉鎖系であるかどうかを確かめた人はいないのですから、この世のエントロピーが減少しても、あの世のエントロピーが、それを上回って増加していれば、全体としては、熱力学的整合性は保たれているのかもしれません。
さて、こうのように、自然の秩序は常に崩壊する方向に進むのが熱力学の基本法則だと考えて、いま一度、身の回りを見渡してみると、たしかに、法則のいうとおりに、世の中には、ほうっておけば、いずれ形がなくなり崩れていってしまうものと、その反対に、常に自分自身の形や機能を、秩序だった組織として自発的に維持してゆくことのできるものの二種類が存在することに気がつくと思います。言うまでもなく、前者は無生物です。そして、一見してエントロピー増大の法則を無視しているように見える後者、それが生物だと思うのです。
いま、「一見してエントロピー増大の法則を無視しているように見える」と書きましたが、それはこういう意味です。たとえば、生まれたときは、手のひらに乗るほど小さかった子犬も、見る間に大きくなって、一緒に散歩に出た飼い主を引きずりまわるようになりますし、小さなどんぐりも、いずれは大木に育ちます。確かに生物は、超自然的な力で無から秩序を生み出しているように見えます。しかし、生物の中で起こっているプロセスは、本質的には化学反応なのであって、そこには生物、無生物を分ける壁はありません。生化学的プロセスだからといって、熱力学の法則から逃れることはできないのです。ここで言う生化学的プロセスとは、要するに、食物を摂取し、その食物を自分自身の組織やエネルギーに変換して生命活動を行い、残りかすを排泄することです。その過程で、生物は自己の体内を低エントロピー状態に維持し、それに見合う分以上の大きなエントロピーを体外に放出しているはずです。つまり、生物は、一種のエントロピー・ポンプとして機能しているのです。
生命活動のエントロピー収支を、実験的に測定することは、非常に難しいことだと思います。しかし、たいへん大雑把ではありますが、生命がエントロピー・ポンプとして働くことを理解するには、次の反応を考えればよいでしょう。
C6H12O6 + 6O2 → 6CO2 + 6H2O
これは、グルコースが酸化されて、二酸化炭素と水になる反応、つまり、糖の代謝です。呼吸と言ってもよいと思います。詳細を決死の覚悟で大胆に省略すれば、動物は、グルコース(炭水化物の基本構成要素)を食べ、それを呼吸で取り込んだ酸素で燃やしてエネルギーとし、二酸化炭素と水を排泄して生きているといえます。ここで、注目していただきたいのは、左辺と右辺の分子の数です。摂取するのは、グルコース一つと酸素六つの、計7分子です。そして、排泄するのは、二酸化炭素が六つと水が六つで、12分子。このプロセス全体として、分子の数が5つ増えていることになります。エントロピーというのは、乱雑さの尺度ですから、乱雑さを構成する要素の数(この場合、分子の数)が多ければ多いほど、エントロピーは増加します。このことは、引っ越してきたばかりの部屋を散らかそうとしても、荷解き前の段ボール箱がいくつかあるばかりで、散らかしようがありませんが、いったん荷解きを始めて、箱の中身を外へ出すと、つまり、分子の数(部屋の中の物の数)が増えると、とたんに部屋中ぐしゃぐしゃになってしまうのと似ています。物が多い、分子が多いというのは、基本的にエントロピーの大きな状態なのです。このように、呼吸というのは、グルコースの分子の中に蓄えられていたエネルギーと秩序を、巧妙なメカニズムで体内に取り込むプロセスと見ることが出来るわけです。
最後に、生物の、分裂し、子を産み、増えるという性質を付け加えてやると、ようやく、「生き物とは、自己複製するエントロピー・ポンプである」と言う定義が完成します。やれやれ・・・お疲れ様でした。しかし、よく考えてみると、実際に自己複製しているのは、遺伝子なのであって、ゲノムの表現形としての個体ではありません。基本的に、個体の命は一度限りです。では、遺伝子こそが生命なのかと言うと、答えはもちろん、否です。遺伝子の物質的本体であるDNA自体は、単なる有機高分子です。高度に複雑な細胞という生化学工場の中に入って、初めて、それは遺伝情報として機能します。このあたりの事情は、ウィンドウズのインスタレーションディスクが、単なるOS、ソフトウェアであって、それ自体がコンピュータではないのと、少し似ています。と言うわけで、「生物と無生物のあいだ」のはなしは、ますます、混沌の度合いを深めてゆくのです。
この続きは、おそらく・・・・ないでしょう。
あ次郎さんのブログで、福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」という本が紹介されています。私も、ごく最近、この本を面白く読んだところで、実はこれをネタに、色々と寝言を書いてみようと思っていたところでした。とりあげたい話題は色々あるのですが、とりあえず、まず、生き物とは何か、ということについて考えてみたいと思います。
生き物とは何か、という問いは、日常的には、あまりにも自明なことですから、あらためて尋ねられると、返答に困ります。困ったあげくに、私がこの問題に、「生き物とは、自己複製するエントロピー・ポンプである」という、比較的簡潔な答えをでっち上げたのは、いったいいつごろのことだったのか。それどころか、この答え自体が、そもそも、自分で思いついたものやら、どこかで読んだ、人の受け売りなのか。それすらよく思い出せません。いずれにせよ、色々な人が色々なところで、似たり寄ったりなことを言っていますので、自分のプライオリティーを主張する気などは、毛頭ありません。
定義にエントロピーが出てきたので、まずエントロピーの話から、はじめなければなりません。エントロピーというのは、ご存知のように、乱雑さをあらわす物理量です。今、コップの中の水に、赤インクを一滴、落としたとします。インクがコップの水に落ちた瞬間は、無色透明な水の中に、まさに紅一点、赤いインクの小液塊がポツリと存在するわけで、これは、コップの中でインクの色素と水の分子が、お互いに交じり合わずに住み分けた、秩序の高い状態です。しかし、特にわざわざかき混ぜたりしなくても、ほうっておけば、すぐにインクはコップ全体に広がって、透明だった水は、均一な赤い水溶液になってしまいます。この状態では、色素と水の分子は、まったくデタラメに混ざり合っているわけですから、以前の紅一点の状態よりは、秩序が乱れている。つまり、エントロピー=乱雑さの程度が増大した状態である、ということができます。
ところで、この赤い水溶液は、どんなに長い間観察していても、もとの紅一点状態に自発的に戻ってゆくことは、けっしてありません。これは、なぜでしょうか。原理的には、この赤い溶液中のすべての色素と水分子の動きが、ある時いっせいに逆向きになれば、ビデオを逆回ししたように、来た道をたどってもとの状態に戻るはずです。また、その動きの逆向きになった分子一つ一つを、(架空の)超高性能顕微鏡を使い、ストップモーションでどんなに詳細に観察しても、物理的に不都合な点は何もないはずです。ただ、進行方向が180度反対になっているだけなのですから、当たり前です。そのような動きを禁止する物理法則は何もない。それなのに、こういうミクロな部分部分に成立している、微視的な可逆性が、マクロな全体に対しては成立せず、いったん混ざったインクと水が決して自発的に分離することがないというのは、考えてみれば非常に不思議なことです。ここでは、これ以上、詳細には立ち入りませんが、われわれの住む宇宙には、このように、乱雑さ、つまりエントロピーは常に増大するという熱力学の基本原理が存在するのです。
余談ではありますが、上の熱力学の法則を過大解釈して、エントロピーはどんな時にも決して自発的に減少することはない、と思っている人がいますが、そんなことはありません。たとえば、冬の寒い朝、道の水溜りに氷が張ります。水溜りの水が、乱雑な液体の状態から、秩序の高い結晶構造の氷に変化したのです。ここでは、明らかにエントロピーが減少しているではないですか。これは、どう考えたらよいのでしょうか。
子供向けの科学読み物のようなものを書き初めてしましたが、前置きが長くて、生き物の話への道のりは遠いようです。まあ、誰もこんなくどい話、読んでくださらないとは思いますけど、続きはまた近いうちに。

みなさん、明けましておめでとうございます。昨年中は、こんな偏屈なブログにお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
上の写真は、プラハで見つけたコショウと塩のディスペンサーです。 新年を迎えるにあたって、白い人も、黒い人も、カソリックも、プロテスタントも、オーソドックスも、イスラムも、ユダヤも、ヒンズーも、日蓮宗も、曹洞宗も、そして、まあ、私事ですが、われわれ夫婦も、ちょこっと末席に加えていただいて、門松立てて仲良くいたしましょう、というわけです。
レポートに、2007年度のまとめ、mp3ダウンロード・ベスト20をアップしました。

下の記事のKAZUさんへのレスのなかでもちょっと触れましたが、次は現代の曲をやってみようと思っています。あれこれ考えて選んだのが、デュアルテの「カタロニア民謡による変奏曲」です。あーあ、書いちゃった・・・・。これで、あとに引けなくなりました。こういう、現在の自分の実力では、音楽的にも技術的にも、そうとうに無理のある曲を選ぶのは、やはり、曲に助けてもらって、少しでも先に行きたいと思うからです。単純にメカニカルな問題だけを考えても、いったい人間の指の運動性能というのは、練習によって、何歳くらいまでなら、進歩を続けられるものか知りませんが、多少なりとも可能性の残されているうちは、いろいろ知恵を絞ってジタバタしてやろうと思っています。
10月の末に練習をはじめた当初は、何しろたいへん難しい上に長い曲ですから、前半と後半に分けて録音すれば、演奏アップの間隔もあきすぎないでよいかなあ、と思っていたのですが、ウェブ上のギター仲間の活躍ぶりを見ているうちに、思い直しました。考えてみれば、今までの私のやり方は、HPへの演奏アップにこだわるばかりに、1、2ヶ月で一曲を仕上げては、次へ行くということの繰り返しでしたが、ステージで弾く事を前提にしている人にとっては、私のゴール、つまり録音出来る程度に仕上げることは、スタート地点に過ぎません。皆さんは、ある程度仕上がった時点で、人前で弾いてみて、その結果を以後の練習にフィードバックするということを、場合によっては、一年、二年と繰り返してゆくわけですから、最終的な習熟度がぜんぜん違います。おそらく、脳内で運動記憶が保存されている部位も、違うんじゃないかな。そう思います。
そういうわけで、これは、要するに、しばらく録音のアップはありません、ということへの言い訳です。熟成期間をおきつつ、ある程度の頻度でアップを続けるためには、複数の曲を平行して練習するしかありませんが、そのためには、当然練習時間を増やす必要が出てきます。あちらを立てれば、こちらが立たず。楽して上手くなろうと思っても、そうは問屋が卸しません。

プラハでは、ちょっとした掘り出し物を見つけました。写真は、着替えのシャツやセーターにぐるぐる巻きにして、運搬中の「掘り出し物」です。手荷物として、キャビン内に持ち込めたのはラッキーでした。詳細と写真は、レポートのページに。

近年、日本でのブログ熱には目を見張るものがあります。いったい、ウェブ上にどれほどの数のブログがあるものか、見当もつきませんが、何気なくはじめたブログがきっかけで、図らずも、自分の中に人知れず眠っていた、ものを書くことに対する情熱を発見された方も多いことでしょう。私はというと、振り返ってみれば、子供のころから文章を書くことは好きでした。「蟹の旅」という、はじめての短編小説らしきものを書きしるしたのは、小学校の二年生の時のことでした。400字詰めの原稿用紙に20枚近くにもなる大作で、自分で挿絵まで書き、厚紙の表紙をホチキスで留めて装丁して小冊子にしたものも、度重なる引越しの騒動にまぎれて、今はどこにあるものか知れません。
わたしなどが、文章作法のことを書くのは、まったくおこがましいの極みですが、一つ、二つ、日ごろから気をつけていることがあります。それは、声に出してすんなりと読めるように書くこと。それから、書きたいことは、頭に浮かんだそのままを、けっして、真正面には書かないことです。第一の点は説明の必要もありません。二つ目は、つまり、たとえば、ある景色を見て、絵葉書のように綺麗だな、とおもったなら、絵葉書のように綺麗だった、とは書かないということです。そう書いてしまったら、ブンガクになりません。様々な策をめぐらし、言葉を操り、読み手の脳内に自然と絵葉書のような風景が想起されるように書くのが理想です。そして、理想と現実の距離に打ちのめされつつも、こりもせずに、くどくどと書く。これは、楽しいことです。
さて、お題がプラハの話ですから、やはり、プラハの話をしなければ。で、上の写真は、モルダウ河畔から見上げたプラハ城です。「絵葉書のように綺麗」ですね。

プラハというところは、夜の更けるのが早いところです。休暇というと、私は、スペインやイタリアのような暖かいところへ行くことが多いのですけれど、ああいうラテンの国の人たちは、とにかくもう、宵っ張りです。生活のリズムが日本人とは、ぜんぜん違います。レストランがにぎわい始めるのは、夜も10時をすぎてからですし、街は12時を過ぎてようやく本調子。まだ、道では、小さな子供が子犬を連れて遊んでいたりします。これくらいの時間になって、やっと、さあ、腹ごしらえも出来たし、飲みに行くぞ!って感じですね。
それにくらべて、プラハの人たちの夜の引き足の速いこと、速いこと。こちらは、いつものペースで9時過ぎくらいにカフェに入ったら、ご飯を食べている人なんて一人もいません。注文が運ばれてくるまでにも、一人帰り、二人帰りして、どんどん周りがさびしくなります。心細いことこの上ない。おい、おまえたち、ちょっと待て。俺たちを置いてどこへ行く?
写真は、食後のエスプレッソをすするころ、すっかり人通りのなくなった旧市街広場。カフェの中は私たちと、この人だけ・・・・・・。